江田島って・・・どんなとこ?(ただいま試験中です。)

 
総  合  検  索  ペ  ー  ジ

  
おもしろ話題と画像の「どんなとこ 掲示版」   

* これより下の項目は製作途中で、現在30%が使用可能・・・(^_^;)です。 *
江 田 島 の 景 色(地図と概要

江田島町  大柿町  能美町  沖美町

江 田 島 の 植 物  
 
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高田 高田港桟橋

高田・中町航路図 
高田港は地形に恵まれたせいもあって、古くから本土である廿日市や宇品とを結ぶ多くの船便がありました。
とは言っても、定期船としてほぼ時間どおりの旅客船事業を始めたのは、明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が蒸気船「海勝丸」62tを貨客船として就航させたのが始まりとされ、さらに明治40年に「能美汽船株式会社」を設立し、蒸気船「浅見丸」58tをもって江能の各浦々と本土とを周回する蒸気船航路を創設、その利便性が認められ関係する町村からの補助を受けることもできました。

のち、発動機エンジン「神座丸」、「能美丸」、「中吉丸」、「上田丸」、「日乃出」、「天竜丸」など船も船主も雨後の竹の子のように現れては消えしましたが、昭和3年当時の能美、宇品航路は一日6往復であったと云います。

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現在の、「中町(一部能美ロッジ寄港)・高田~宇品」航路を往くのは瀬戸内シーラインの高速艇「ロイヤル千鳥」です。

他に「ニュー千鳥」と「スーパー千鳥」の三隻をもって運行、ともに速力は26kt、船便は一日23往復(平日)です。

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高田港桟橋に横付け中の「スーパー千鳥」です。

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高田港桟橋を出港、宇品港へと向かう「ロイヤル千鳥」です。

赤灯台は港から出るときには船の左玄(左手側)に見るのですが、高速艇が発着する高田港桟橋は港の外(赤灯台のある防波堤の左外側)にあります。

高田港赤灯台には、「安芸中田港 小方北 防波堤灯台 初点 平成3年3月」海上保安庁と記されています。

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高田港桟橋待合所です。

高田港でも数年前までは車が搭載可能なカーフェリーの発着がありましたが、現在では車が搭載可能なフェリー桟橋は沖美町三吉の三高港(瀬戸内シーライン)と江田島町切串の切串桟橋(上村汽船)、吹越桟橋(さくら海運)、江田島町小用の小用桟橋(瀬戸内シーライン)のみとなりました。

乗船誘導待機場所に車を止めても車ごとでの乗船はできません・・・(^_^;)です。

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高田港桟橋待合所内の壁に「ありがとうドリームのうみ」と大書された寄せ書きが掲げてあります。

「気仙沼大島のためにいっぱい働いていただき本当にありがとうございました。今後も皆で頑張ります。」
「広島からわざわざ私達のためにありがとうございました。本当に本当に助かりました。もう乗れなくなるのはさみしいですが、これからも前を向いて頑張りまーす。」

宮城県気仙沼市大島の皆さんからの寄せ書きです。

2011年( 平成23年)3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って 発生した大津波により、壊滅的被害を受けた大島島民の方々の足となるべく、当時の江田島市が所有するカーフェリ「ドリームのうみ」を貸し出したことに対するお礼の寄せ書きです。

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画像は、2012年(平成24) 3月14日、気仙沼大島での輸送任務を終え中町港桟橋へと着岸する「ドリームのうみ」を出迎える田中江田島市長です。

以下は、気仙沼市産業部商工課作成の「 記 者 発 表 資 料 」(平成24年2月24日)のコピペ・・・m(__)mです。

カーフェリー「ドリームのうみ」の返還について

広島県江田島市の御厚意により大島汽船株式会社に無償貸与いただいておりましたカーフェリー「ドリームのうみ」(397 トン)が、平成24年2月29日(水)をもって最終運航となります。
平成23年4月27日(水)の運航開始以来、大島地区住民の通勤・通学・通院のための交通手段として、また生活物資・支援物資の輸送に加え工事車両の搬送などに大活躍し、大島の復旧・復興に大いに貢献していただきました。
「ドリームのうみ」は、平成24年3月2日(金)に気仙沼を出港し、広島県内で点検
整備を受けたうえで江田島市へ返還されることになりますのでお知らせします。

           記

1 最終運航便 平成24年2月29日(水) 18時20分・エースポート発
2 出港日 平成24年3月 2日(金) 9時30分・魚町二丁目地先岸壁発
3 その他
・「ドリームのうみ」の運航開始にあたっては、公益社団法人Civic Force からも仲介や各種協力など多大な御支援をいただいております。
・貸与期間について、当初は10月15日まででありましたが、大島汽船:白幡昇一代表取締役社長が10月5日に江田島市を訪問し、田中達美市長、同市議会、同自治会連合会に期間延長をお願いし、本年3月15日まで延長することでご快諾いただきました。
・「ドリームのうみ」の運航終了に伴い、これまでカーフェリー2隻で運航されてき
た大島航路は、平成24年3月1日から1便ごとに旅客船「海来みらい」と「フェリー亀山」が交互に運航することになります。

※旅客船「海来」は、津波で浦の浜に打ち上げられたものの修理を終え9月末から運航可能でありましたが、「ドリームのうみ」借用期間中は復旧工事車両の搬送を優先し、カーフェリー2隻による運航体制となっておりました。(一部を省略)

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画像は「本瓦造船株式会社」HPよりコピペの「ドリームのうみ」です。

以下は、「ドリームのうみ」の要目です。

建造所    本瓦造船株式会社(広島県福山市鞆町後地1717番地)
起工    2004.9.6   
進水    2004.11.25   
引渡    2005.1.31   
全長    47.3m   
垂線間長    42.0m   
全幅    11.0m   
深さ    3.7m   
喫水    (dext(summer))2.6m   
国内総トン    (JG)397T   
載貨重量    (design)118.29t (summer)116.05t   
試運転最大速力    14.605kn   
速力    14.5kn   
航続距離    約970浬   
主機関    YANMAR 8N21A-EN×2   
出力    (M.C.R.)1,324kW×900min-1 (N.O.R.)1,125kW×853min-1   
プロペラ    5Blades FPP×2(スキュー付)   
乗組員数    3   
旅客数    300   
燃料油槽    34.7立方メートル   
清水槽    11.8立方メートル   
航路    中町~高田~宇品   
その他    運航者:江田島市
(新造船要目データベースより)

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画像及び下記文章は、気仙沼大島「島おとめ」さんのプログよりのコピペ・・・m(__)mです。

広島県江田島市に感謝!! 2011-04-27 17:27:13 記

本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。
これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。
全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。

ちなみに江田島市の市営船事業撤退にともない「ドーリムのうみ」は姉妹船である「レインボーのうみ」とともに余剰船として売却されました。

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高田港から中町港へと疾走する「ニュー千鳥」です。

以下、能美町誌より・・・

昭和24年公営船の運行が始まる。
昭和31年鋼製旅客「能美丸」が進水する。
昭和30年高田村、中村、鹿川町が合併し能美町となる。
昭和33年高田港に接岸施設が完成する。
昭和39年鋼製フェリーボート「第5のうみ」運行する。
昭和42年高田フェリー接岸施設完成する。
昭和43年高田港桟橋待合所が完成する。
昭和47年新鋭高速艇「千鳥」就航する。
昭和57年高田港埋め立て工事着工
昭和61年新高田港桟橋待合所が完成する。

利用客の急激な減少や、燃料費の高騰、新造船問題などの悪条件が続き、能美町町営から江田島市市営、三セク事業移管当々、市民の足となる宇品航路の維持に多くの努力がなされましたが、結果として完全民営化により航路を維持することとなりました。

現在、中町から高田を経由し宇品とを結ぶ航路(一部が能美ロッジ寄港)を維持するのは、瀬戸内シーラインです。

高田港 石船(新栄丸・日栄丸・共栄丸)

高田港砕石運搬船 
画像はグーグル2014年11月4日撮影の高田港です。

高田港には3隻の砕石運搬船(石船)「第二新栄丸」「日栄丸」「共栄丸」が舫ってありました。

この3隻がいつごろまで現役で稼働していたのかは不明ですが、日本の高度成長期である昭和30年ごろから、平成へと変わる前までは瀬戸の海を東へ西へ、重い砕石を目一杯に積み海水が木造甲板を洗うのをものともせずに全速力で走り回ていた石船船団が存在していました。

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「第二新栄丸」です。
要所を鉄板で補強されてはいますが、生粋の木造石船です。

石切り場で切り出した砕石を船橋の前の平らな甲板が海水に浸かる寸前まで満載し、全速力で埋め立て地に向かう石船船団最後?の生き残りです。

埋め立て地の砕石投入ポイントに到着するや、すぐさま甲板上のもっとも大きな砕石にワイヤーを掛けクレーンで持ち上げて左右に振ります。
その反動で船は大きく傾き、甲板上の砕石は一気に海中へと落とし込まれます。

反動が弱ければ甲板の砕石をうまくポイントに落とすことができませんし、強すぎれば大石もろとも一瞬で転覆です。

後には分業や共同経営もありますが、基本は夫婦で船長と機関長となって石材を運搬し、父母や兄弟子供が地主から借り受けた浦々の石切り場でダイナマイトを使った砕石作業をおこなうという、危険でそのうえ資金力もない零細な家族経営、只々深い家族愛と度胸一本だけでなり立つ生業です。

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長い年月を目いっぱいに働いたのでしょう。

熟練の船大工さんが最大の強度で仕上げた船体も、ギシギシ、ガタガタ、ボロボロに・・・m(__)mです。

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船首に描かれた模様には魔よけの意味があるといいます。

おそろしく危険な航海を数千、数万回と乗り越え、無事この港に帰ってこれたのですから、魔よけのご利益は絶大だったようです。

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これだけのダメージを受けているにもかかわらず、まだ船内に海水が入り込む僅かな隙間もありません。

画像は2014年10月16日、私がこの石船、第二新栄丸の雄姿を見た最後でした。

ちなみに、山田洋次監督制作(1972年)の映画「故郷」では倉橋島を舞台に石船による砕石運搬を生業とする家族の様子が、当時の瀬戸の穏やかな風景とともに深く鋭く描かれています。

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岸壁に繋がれた「第二新栄丸」の他にも、沖へと延びる浮桟橋には戦友である「日栄丸」と「共栄丸」が舫ってあります。

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手前に繋がれている「日栄丸」です。
木造船体の周りすべてを鉄板で覆い補強がされています。

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甲板上は搭載した石材が大波や船の進路変更の動揺で滑り落ちないよう、食い込みの良い木造のままとなっています。

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日栄丸の船橋です。
分厚い踏板が一枚、甲板と船橋とをつないで渡されています。

他所の港で船を岸壁に繋ぐ場合は岸壁との間をこの踏板一枚だけで繋ぎます。
明りの無い夜中の2時3時、たとえ一升、二升を飲んでふらつきながらでも阿波踊りの要領でバランスをとり、ヨイヨイヨイって渡り切ります。

落ちたら三途の川(海)・・・(^_^;)です。

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沖側に繋がれた「共栄丸」、まだ十分に現役復帰ができそうです。

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日栄丸とは姉妹船のようで、船橋の造りもそっくりです。

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共栄丸の船橋部分です。
手すり部分の支柱、凝ってますねぇ~~~。

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最後部に梯子が取り付けてあります。
まさかその上がサンデッキってことはないと思いますが・・・(*^。^*)です。

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2015年6月の高田港です。

「第二新栄丸」が舫ってあった場所にはなにもありません。
満ち潮で小さなさざ波が寄せるだけです。

浮き桟橋に繋がれていた「日栄丸」も「共栄丸」も・・・・・・・です。

高田 高田港

高田・中町航路図 
江田島湾の南西部、高田地区の小方から高田港、沖南港、南港そして中町地区の中町港を含めて大きくは中田港といいます。

最北に位置する高田港を除くこれらの港は元々は河川からの堆積土で遠浅となっており、毎日砂浜に引き上げる木造の伝馬船には最適の環境でしたが、船が大型化し、さらには船長一人のみで漁労に従事する省力化漁業が一般化するにいたり、毎日船を砂浜へと引き上げることははできなくなりました。
上げ下ろしの手間を省き、船を海上に浮かべておくためには、桟橋を沖へ出して、その周りを頑丈な防波堤で囲う近代的港湾が必要となります。

高田 S22-H25 
左の画像は昭和22年、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

中田港内にあって、唯一高田港(間所)のみは自然の天恵に恵まれており、古くから大型船の出入りに便利な着岸施設と防波堤の整備が進んでいました。

そのため本土とを結ぶ船便の数も多く、帆船全盛の古きころから、中村(中町)や遠くは鹿川からの乗船客もあったようです。

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高田港に停泊中の給油船です。
事前の取り決めや電話連絡を受けて指定場所(洋上あるいは他港)まで出向き、燃料やオイル、場合によっては水や食料品なども運搬し給油する、海上のガソリン・重油スタンド?です。

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給油船の甲板です。
桟橋や船舶への横着け時に必要な防舷物(緩衝材)や油送ポンプ、給油ホースが所狭しと並べ置かれています。

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小型タグボートです。
大型船の出入港支援や、バージ(はしけ)をけん引したり押したりするのが一般的ですが、当地では主に牡蠣筏の移動や設置作業に使われます。

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潜水作業支援船です。

手前の船(船名景虎)は潜水作業員(ダイバー)を輸送したり、搭載のコンプレッサーで水中作業中のダイバーにエアーを送ったり、また水中通話装置などを装備しています。

緑色のクレーン船(船名KOORYU)は潜水作業員の指示を受けて、海中に重量物を投入したり移動、回収したりするために使います。

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用途不明の船が2隻係留してあります。
NAKATANI 5 との船名がありますので、近くの中谷造船所で使用する特殊作業船だろうと思いますが???な船です。

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第十政福丸、牡蠣作業船です。
牡蠣筏に吊るした、長さ9mもある牡蠣養殖の垂下連(ホタテ貝の殻にワイヤーを通した巨大ネックレスのようなもの)をクレーンを使って筏に設置したり、成熟した牡蠣を洋上の筏から揚収して、牡蠣うち作業場まで運搬したりの作業を行う専用船です。

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個人所有のヨットや、プレジャーボート、釣り船なども係留されています。

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牡蠣作業船第三睦栄丸が入港してきました。
今日の筏での作業が終了したのでしょうか?
それとも作業資材の補充に立ち寄ったのでしょうか?

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大きなバージを押してタグボート(プッシャボート)も入ってきます。

チョット見はのんびりした港の風景ですが、右から左からエンジン音が聞こえては遠ざかり、風の向きで排ガスのにおいが流れて来てはまた消えます。

松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ
干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ♪ ♪ (*^。^*) です。

高田 手押しポンプ

水道基幹管路(H18) 
画像は「江田島市の水道」江田島市企業局水道事業(平成18年ごろ?)からのコピペ・・・m(__)mです。
  
昭和40年6月26日、太田川から天応を経由しさらに海底送水管(1,840m)を通過した用水が江田島町小用の前早世浄水場へと注ぎ込まれ盛大な通水式が執り行われました。

前早世で浄水された水は、時を置かず江田島町から、大柿町、能美町、沖美町へと送られ、それにより島内の水事情は一変、電気、ガス、水道がそろった本土並みの文化生活へと移行しました。

もちろんそれまでも、各地区、あるいは各水系ごとに簡易浄水道設備はあったのですが、各家庭にお風呂を置き、水をだしっぱなしで洗濯機を回すだけの水量は望むすべもありませんでした。

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高田地区を散策中偶然にも、現役で使用中の手押しポンプを見ました。

今までにも手押しポンプを見ることはありましたが、使用できる状態の手押しポンプはほぼ皆無、しかも、オールドファッションのこの優美な姿に一目ぼれ・・・(*^。^*)です。

検索しますと、東邦工業社製のTB式自在口共柄ポンプ「ガチャポン35」と呼ばれるもののようです。

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手押しポンプは本来なら能美町鹿川地区の項で説明すべきでしたが、うっかり・・・(^_^;)でした。

上に見るポンプは、ひし形内に大臣と書かれたマークをもつ、ケーボー号「津田式」ポンプで、明治21年(1881)7月11日に鹿川村で誕生した津田喜次郎氏(旧姓 前)により、改良された手押しポンプです。

大正9年(1920)10月の広島発明品展覧会に出品された津田氏の改良手押しポンプは、時の藤沢商工大臣に大称賛され、「津田式ポンプ大臣号」と名付けて生産販売を開始しました。
高い性能が認められ全国的にも広く普及しましたが、生活用水の多くを井戸水に頼る当地においては特に女性や子供らの水汲み労働の軽減に多大なる寄与がありました。

ちなみに「津田式ポンプ製作所」は昭和45年(1970年)に倒産、その後特許・販売権を興陽産業製作所に譲渡、商表名を「KOYO」として継続製造されましたが、平成22年(2010年)2月に工場を閉鎖、これによって「津田式ケーボー号」の生産は終了しました。

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上記ケーボ号とよく似たポンプですが、CONDITION JAPAN ???そしてダルマさんのマークがあって、ひし形内にHB のマーク?が、・・・です。

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まったくタイプの違う手押しポンプですが、鋳物作りの柄の部分に津田式ポンプとあり、本体にはひし形内に大臣のマークと大きく津田式と文字が浮き出ています。

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鹿川将軍神社に併設する郷土資料館に展示の、シリンダーが連結式となった手押し消防ポンプです。
文字は読みにくいのですが二連式ケーボー号??? 津田式と書かれているようです。

(ちなみに名にある「ケーボー号」の意味や由来は不明・・・m(__)mです。)

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昭和45年に倒産となった「津田式ポンプ製作所」から特許・販売権を引き継いだ「興陽産業製作所」が製造した「KOYO」コーヨーポンプです。
下部にMADE IN JAPAN の刻印が打たれています。

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釣瓶桶から手押しポンプへ、さらには電動井戸ポンプへと・・・。

津田式ポンプが大活躍したのはほんの一瞬間でしたが、そんな 時代も あったねと ♪ ♪ ♪ ・・・(*^。^*)です。

夢の海底トンネル 
蛇足となりますが・・・

画像と下記文章は、平成27年3月発行の情報誌「海陽彩都」よりのコピペ・・・m(__)mです。

太田川の水を江田島へ、「 夢 の 海 底 ト ン ネ ル 」

島で急傾斜地の多い江能地区(当時の江田島町、能美町、沖美町、大柿町)では、永年、水不足に苦しんできた。
元々水源が乏しいうえに、わずかな湧き水も明治21年の旧海軍兵学校の設立以来、軍用水道として使われてきた。
家庭では個人の井戸や共同井戸、井戸のない家はもらい水をしたり、風呂をわかしたら近所に伝えて風呂に入るのをすすめたそうじゃ。
夏場や渇水期には飲料水も足りないこともたびたびで、雨水に頼ることもあった。
伝染病の恐れや水汲み労働の開放など、上水道の創設は島民の命にかかわる切実な願いじゃった。

昭和36年、広島県で呉市の工業地帯まで送る工業用水道が計画された。
これに江能4町で便乗して水道敷設に取り組むことになった。
つまり「太田川から海底トンネルで水を運ぶ」という壮大な計画。
島民の誰もが目を丸くしたじゃろう。
取水口は広島市東区の牛田の水門。
山沿いに水道を敷設して、呉市天応町と旧江田島町高須間の海底水道管を敷設した。
深いところでは水深38m、距離は1840m。
水道管は海中で接続して海底に沈めた。
海底にはヘドロが堆積しているので、鉄筋を打ち込みそれにくくりつけて動かないようにした。
この大工事が約3年で完了したことには本当に驚く。
前早世に通水記念碑が立っとる。

そして昭和40年6月から家庭に給水された。
本管から家庭につなぐ支線の施設費として各家庭で自己負担金約8,000円が必要だった。
月々の貯金を呼び掛けたが、「貯金をしてまで・・・」「井戸があるから」など進展しない。
困り果てた当時の土木課長がひらめいたのが、主婦の力を借りようという案じゃった。
台所をあずかり水の不自由に泣いている主婦なら、水道の必要性を十分に理解してくれるだろう、と。
婦人会に相談したところ、江能上水道事業に賛成し、貯金の世話を引き受けてくれた。
婦人会が各家庭を回って集金したそうじゃ。

誤字脱字などありましたら・・・ m(__)m です。

高田 井戸・ため池

高田グーグル地図D 
高田地区の背後には宇根山山系から北へと伸びる堆積岩の尾根がそびえます。
また標高200m付近からは傾斜が緩くなる地形ですので、他地区の土壌に比べれば保水力もあって、地下水にも恵まれた環境にありました。

とはいっても、戦中から戦後の農地造成に伴う農業用水の確保や急激な人口増加による生活用水を宇根山山系からの自然水だけで賄うのは大変な苦労であり、高田地区を流れる川の整備状況を見ればいかに水資源が大切であったかを一目で知ることができます。

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高田地区で唯一?、今も現役で使用されている井戸です。

電動ポンプが据え付けられており、蛇口をひねればいつでも水が出るようになっています。

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民家の庭先に、井戸の周りを煉瓦で囲んだモダンな井戸があります。

雨よけの屋根に鋳物製の滑車が取り付けてありますが、ここしばらく使われた形跡はありません。

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お庭の中ほどに円形の井戸があり、傍にはコンクリート作りの流し台が残ります。

もとは、水屋となる建物で囲われており、近所の方々にも開放された共同井戸だったのでは?と想像します。

隣家の敷地から伸び出た枝先には、黄色く色付いた夏ミカンが・・・(*^。^*)です。

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高台にある宗崎集落のさらに上に作られた農業配水用のため池です。

眼下は津久茂瀬戸、対岸は津久茂山(御鉢山263m)です。

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中地区の田んぼに配水するために造られた灌漑用のため池です。

深い池の廻りを自然石で垂直に積みあげて造られており、先人の巧みな技が感じられます。

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同じく中地区にある小さな池(井戸?)です。

まもなく春も本番となり、池の回りに植えられた黄スイセンやムスカリの花々が咲き乱れ、水面にはソメイヨシノの花吹雪が舞うことになるでしょう。

高田 小方川

高田 川・池 
小方川の源流部は尾根をまたいで原地区の上部にまで伸びます。

ちなみに島内を流れる川は全長が短いこともあって一つの谷を真っすぐに流れ下ることがほとんどですが、高下川、二谷川、空川、小方川は中流域から流れを北向きに変えています。

もしや~~~?ですが、津久茂の瀬戸から高田、中町、鹿川、深江島戸瀬戸にかけ南北に延びる隠れ断層とかがあるんじゃないか?、と???・・・(^_^;)です。

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小方川の源流近くに作られたため池です。

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小方川ため池の土手からは下方に小方地区を見ることはできません。

眼下には原地区、間所地区が下流部であるかのように見え、実際一部の水流は人工的に原地区へと流れるように水路が枝分かれをしています。

想像ですが、これだと水利権をめぐっていろいろとあっただろうなぁ~、って???・・・(^_^;)です。

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原地区とは尾根をまたいだ北側、小方地区の最上部です。

尾根を横切って流れ出た小方川の清水をつかって、ごく最近まで田んぼが作られていましたが、残念ながら・・・

青い海は江田島湾の出口となる津久茂瀬戸、対岸は江田島町津久茂となります。

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小方川の中流域になります。

イノシシ対策のためにミカン畑の廻りには金網が張り巡らされています。
そうでなくとも人手のかかる傾斜地でのミカン栽培、イノシシの他にもアナグマやカラス、ヒヨドリ・・・

お米作りには八十八の手間がかかるといいますが、島の段々畑で作る蜜柑には・・・(^_^;)です。

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小方川は急流のまま一気にふもとへと流れ下ります。

干拓事業が始まる前は遠浅の芦原だったろう小方干拓地ですが、大型土木機械の無い時代、ほぼ人力のみで造られた干拓地は地表面も低く、台風や高潮による塩害は日常茶飯事、干拓後も少しずつ表土を盛り上げ肥料をすき込んで改良し作り出したギリギリの農地です。

先人の多大な努力の末に作り出された干拓農地ですが、後継者が・・・

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小方干拓地の中央を流れる小方川です。

植物による光合成から生まれたエネルギーは人に優しく美味しく蓄えることもできますが、直接モーターを回したり、車を走らせたりはできません。

ソーラーパネルからは最も利用に便利な電気エネルギーを直接に得ることができます。

本当に本当はどっちが良いんでしょうねぇ~・・・(*^_^*)です。

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小方川は国道487号線に架かるコンクリート橋をくぐり抜けて江田島湾に注ぎます。

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干潮で海水面が海砂の下となった小方川河口部です。
目の前は津久茂瀬戸、はるか遠くのとんがり部は古鷹山です。

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北風が気になりだした11月、小方干拓地の調整池には例年通りに水鳥(コガモ?)がやってきました・・・(*^。^*)です。

高田 間所川・原川

高田 川・池 
高田地区の中心部を抜ける空川は原川と間所川の流れを取り込んで、江田島湾に注ぎます。

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間所川の上流部です。
昭和の後期まで、両岸はすべて黄金色の稲穂に埋め尽くされていましたが、平成に入りセイタカアワダチソウの黄金花で埋められ、さらに進んでクズやススキの原にと・・・です。

ちなみに、源流はさらに山深くへと伸びますが、道は雑木に埋もれ近づくことはできません。

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人家近くになるとしだいに川面が見え始め、サラサラと水の流れが聞こえてきます。

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中流域に入りますと、あきらかに人の手が感じられます。
年に数度は区民総出の川掃除がなされている様子です。

高田地区の川には他所で見るような灰色をした塩ビ管をまったく見ません。

塩ビ管の発明は計り知れなく有用で画期的なことではありますが、零細な農家が共同作業によって辛うじて農業生産を維持している地域においては、個人個人が塩ビ管により簡単に「我田引水」をすることになり、共同作業でなければ不可能な水源や水路の管理、農道や路肩の整備などに無関心となり、ひいては地域共同体の崩壊に繋がります。

「我が家はべつに農道を利用しなくても家の周りが農地だし、水は我が家の裏山から塩ビ管で引きますので、利用することのない農道の整備や川掃除には参加しません。」って、ことに・・・(^_^;)です。

なにより、川岸を数十本の「我田引水」用の塩ビ管がのたうつ姿はとても醜く、それはもう川じゃないし・・・です。

ちなみに日本で塩ビ樹脂が生産販売されたのは1941年、塩ビ管が普及し始めたのは1951年頃だといわれます。

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田んぼはほとんど見なくなりましたが、手入れされた川からの清水を利用して、サトイモやダイコン、小菊などの花き栽培がおこなわれています。

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庭の木々を潤して・・・

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間所川は個人宅の庭の中央を分断して流れます。
原川とはこのすぐ先で合流します。

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原川と合流した間所川は、この地点で空川に合流します。

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原川の源流付近から見た、カキ筏の浮かぶ江田島湾です。

源流付近のわずかな清水を利用して、ごく近年まで田んぼ(標高約180m)がありました。
高田地区の語源になったかも?の高地に作られた田んぼです。

宇根山の東側山腹、中町から高田にかけ標高200m付近以下で傾斜が緩くなる河岸段丘的?な地形となっています。

この緩くなった地形と、その上部に乗る古生層(玖珂層群)から染み出す水と養分を最大限に利用して多くの畑や田んぼが作られました。
海岸部の干拓が進む以前から宇根山東側山腹には江田島市内では稀な高地集落、高下、畑、宗崎の開墾が始まっていました。

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原川源流からの水量は少なく、農業全盛のころにはほぼすべての表層水は農地に吸収され、原川には大雨で溢れた余剰水のみが流れ下っていた時期もありました。

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原川の細い水路は、家の土台下や庭の中を蛇行して通り抜け、この先で間所川と合流します。

大量の生活排水が流れ込むようになり、コンクリートで塗り固められた排水路と変わる前は、原地区の人々にとってもっとも大切な天からの恵みであり命の絆でした。

いま下水道の整備が進み、まさに再び原川の清水が天の恵みになろうとしています。
土手に植えられた花木や草花がその恩恵を真っ先に感じ始めています・・・(*^。^*)です。

高田 空川・光泉寺池

高田 川・池 
空川は支流である原川、間所川と合流して江田島湾へと注ぎます。

高田地区の干拓が始まる江戸時代以前にはこの三本の川はそれぞれに別れた流れを作っていたかも?・・・です。

光泉寺池は空川と間所川の間にあり、これらとは別の水脈を利用して造られています。

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画像は畑集落です。
空川の源流は高田地区で最も高い位置にある畑集落からさらに登った、奥深い谷間にあります。

この空川源流付近には江田島花崗岩と堆積岩である玖珂層群が接触変性して生じた鉱脈があり、鉄鉱石を主体に銅なども産出した畑鉱山がありました。

この畑鉱山から産出した黄銅鉱、磁硫鉄鉱は今も筑波の地質標本倉庫に眠ります。

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畑集落から急流のまま流れ下った空川は空地区に入り、少し流れを緩くして蛇行します。

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流れの脇には定番の柿の木と、その根元を飾るツワブキの黄金花・・・(*^。^*)です。

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多くの家々は川の流れにより沿うように、配置されています。

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どのお家も空川と並走する道路の方に向かって草花を手入れし、花木の枝を川面に張り出して道行く人々の目を和ませてくれます。

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空川はこの付近で間所川と合流します。

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間所川と合流した空川はさらに川幅を広げます。
この日、間所川沿いの光源寺で催し物があったようで、その道中はいつもにない人出が・・・(*^。^*)です。

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空川は高田商店街の中心部を抜けます。

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空川の河口部です。
前方に見える国道487号線に架かる橋を抜け、高田荒神社の脇で江田島湾に注ぎます。

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雨の日の光泉寺池です。
この光泉寺池はとても水源があるとは思えぬ尾根筋先端部の崖下にあります。

地上には水の入り込む水路は見当たりませんので、地下に地層の境界面か?あるいは断層面?があってその隙間から清水が集まる特殊な場所なのかも?・・・(*^。^*)です。

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光泉寺池の土手から見る高田の町と、その先のクレーンは中谷造船所、江田島湾の向こうに旧海軍兵学校(現海上自衛隊)と古鷹山、さらに遠く呉市の山々までが望めます。

左の鬱蒼と木々が繁る小山には光泉寺地蔵堂が乗ります。

高田 二谷川

高田 川・池 
高田二谷地区最奥の深い谷を源流とし、二谷地区、下井田地区の田畑を潤した二谷川は沖南胡子神社の脇から江田島湾へと注ぎます。

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二谷川の河口部です。
青い橋の左に沖南胡子神社の銅板葺き屋根が見えます。

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二谷川は国道487号線の下をくぐり、食料品・雑貨・たばこを商う池田商店の脇を抜けます。

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川に沿って、農道兼生活道路が並走しますが、軽自動車の離合にも苦労する狭い道幅です。

農地の確保が最優先の時代に作られたもので、車社会の到来はまったくの想定外、造られた当初は広すぎるって、苦情が出たりしたんじゃ・・・(^_^;)です。

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庭先に植えられた柿の木です。

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ザクロの木もよく植えられています。

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収穫時期を過ぎても残された柿の実は、山鳥の大御馳走になります。

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お米が作られなくなってもう何年もたった農地ですが、今でも草刈りがされており、川もきれいに手入れがされています。

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川もきれい、農道もきれい、でも田畑に出て作業をする人を見ません。

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二谷川の源流はこの先に見える山間の谷にあります。

その深い谷間の両岸にも小さな棚田が何重にも重なっていましたが、今は人の手をはなれ自然へと回帰しつつあります。

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二谷川源流近くの元は田んぼだった湿地に、小さなベニイトトンボが数羽、真夏の陽光に揺らいでいました。

ベニイトトンボ発生状況 
今年の夏の江田島市内でのベニイトトンボ発生状況です。

そもそもは江田島町切串地区にあった昔からの水田跡地に造られたビオトープでベニイトトンボの発生が確認されたことに始まります。

当初はビオトープに植栽された水草に紛れ外部から持ち込まれたものだろうといわれていましたが、その後の島内探索で各所に群生地を発見、地域の方々からも「そのトンボなら昔からおるよ」ってお話を聞きました。

希少種と呼ばれたベニイトトンボですが、近年広島県内でも各所で新(再?)発見が相次ぎます。
農薬や生活排水が流れ込むような池ではまったく見ませんので、近年の下水道普及率に比例して生息範囲を広げているのかも?・・・(*^。^*)です。
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