江田島って・・・どんなとこ?(ただいま試験中です。)

 
総  合  検  索  ペ  ー  ジ

  
おもしろ話題と画像の「どんなとこ 掲示版」   

* これより下の項目は製作途中で、現在30%が使用可能・・・(^_^;)です。 *
江 田 島 の 景 色(地図と概要

江田島町  大柿町  能美町  沖美町

江 田 島 の 植 物  
 
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高田 古地図・地質図

高田古地図PNG 
能美町誌に掲載された高田村の古地図(芸藩通史)を元にして書き写したものです。
地名など明瞭でない部分は適宜勝手な主観により創造して記載しています。

改悪となっている部分もありますので、正確には能美町誌、または芸藩通史でお確かめください・・・m(__)mです。

高田古地図南東PNG 
高田村の南東部です。

高田古地図北西PNG 
高田村の北西部です。

s-江田島大断層PNG 
沖美町是長から高田地区北部を横断し、江田島町津久茂まで、市内で唯一の断層が確認されています。

高田湯田地区の昔話に温泉が湧いていたと云いますのも、あるいは、この「江田島大断層?」が関係していたかも?・・・(^_^;)です。

ちなみに、この断層に並行して「是長鉱山」「三吉鉱山」「畑鉱山」「津久茂鉱山」があり、湯田の温泉、入鹿神社には湯に関係する大きな湯釜もありました。

これら鉱山からの金や銅の産出はごく僅かな量であり、採掘期間も数年ですが、江田島市内でこの断層付近以外に鉱山はありません。

そもそも、金(Au)は酸性の熱水に溶けやすく地上付近で熱水が冷めることにより析出します。
堆積岩である玖珂層群内の微量な金が花崗岩の熱で暖められ、金を含んだ熱水となって断層の割れ目に沿い、上昇して地表付近に集まったと思われます。

つまりは、金のあるところには熱水と熱水が上昇する通路(断層)がある。
江田島にも温泉が自噴する可能性がある?・・・と。

風が吹けば桶屋がもうかる・・・発想・・・(*^。^*)です。

地質図は「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」よりコピペ・・・m(__)mです。

19480407(S23)a.jpg 
昭和23年4月7日に撮影された高田地区の航空写真(国土地理院)です。

高田 いいとこ撮り 6/6

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高田宗崎地区から見た対岸は、江田島町の津久茂地区です。
この津久茂村は安芸郡江田島村と合併する1925年(大正14年)2月まで、高田地区と同じ佐伯郡に属していました。

津久茂村と能美の高田村、中村との交流は古くからあり、お鉢山(津久茂山262.8m)が海岸まで迫る地形で耕地面積の限られる津久茂村には、高田、中村地区に耕作地を持つ者も多くいて、毎日農船を仕立て津久茂瀬戸を渡り、山地の開墾はもとより遠浅の中田湾に新開を干拓する事業にも多く加勢しておりました。

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江田島町津久茂地区から見た高田の宗崎地区です。

余談となりますが、画像の右の小山を越した先に湯田とよばれる地名があります。
昔々の話として、この地には温泉が湧いておりました。

土地の人々はこの温泉を神聖なものとし、決して汚れ物を持ち込み洗濯をするなどのことはなかったのですが、それを知らなかったよそ者が温泉の湯水で洗濯を始めた途端、今までこんこんと湧き出ていた温泉水が普通の冷たい湧き水に変わったと云われておます。

この湯田地区には、江田島市内で唯一の断層が東西方向に走っており、地底からの割れ目に沿って温泉水が湧き出ていたのでしょう。

たまたま、よそ者が温泉水で汚れ物を洗っていたそのときに、地震とかの地殻変動で温泉水脈が閉じられたことは十分考えられます。
ちなみに、そのよそ者が村人から責められることはなかったとか・・・。

将来、画像のような白い湯けむりが立ち昇る日が来る?・・・かも?・・・(*^。^*)です。

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高田では多くの家の屋敷内に柿の木が植えられています。
柿の木は年輪を重ねた和風のお家にとてもよく似合います。

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野菜好きな鳥(ヒヨドリ?)がキャベツの葉っぱをつぎつぎとかじっていきます。

少し驚かせてやろうと、ウサギのぬいぐるみを持ち出し、うまい具合にディスプレーした???のですが・・・

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収穫したタマネギの最適な貯蔵法・・・(*^。^*)です。

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うぅ~~~ん。
残念、タマネギが長ネギになっちゃいましたぁ~~~ ・・・(^_^;)です。

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此方は保存食用にとぶら下げてあるわけではありません。
まぁ~、緊急時の非常食として貴重な蛋白源にならなくもないのですが・・・

超巨大、キイロスズメバチの巣です。
最盛期には働き蜂だけで一千匹もの数になるとか・・・(^_^;)です。

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農作業に使う耕運機です。
小回りが利くように?小型に作られていますので、おそらくビニールハウス内専用仕様じゃないかと思います。

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背負い籠(しょいこ)と呼ばれます。
竹で編んでありますが、目が粗いので蜜柑とかジャガイモなどの小さなものは運べません。

当地では昭和40年頃まで、葉タバコの栽培が盛んでした。
タバコの葉っぱは、団扇の2、3倍はある大きな葉っぱですから網目から落ちることもなく乾燥場へと運ぶことができます。

キャベツや白菜、肥料作りのための落ち葉(シバ)なども運べたかも?です。

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籐(トウ)を編んでで作られた乳母車(ベビーカー)です。

載せられている籐籠が地元高田で作られたものかどうかは不明ですが、大正10年頃より能美地区において、籐製バスケットや籐椅子、籐籠乳母車が盛んに作られたそうです。

もしも?その当時の製品であれば?、この籐籠乳母車で育った赤ちゃん、今は百歳・・・(*^。^*)ですね。

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物怖じしない、高田の猫 ・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 5/6

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農道わきの草むらには前衛芸術家創作???の、投げ込み生け花が普通に咲き並んでいます・・・(*^。^*)です。

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セイタカアワダチソウとコスモス、遠い異国からやってきてまさか日本でここまで大きく花開こうとは・・・。
ちなみにセイタカアワダチソウは切り花用観葉植物として北アメリカから移入、コスモス(オオハルシャギク)はメキシコの高原地帯が原産でヨーロッパ経由で渡来したようです。

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春先の自家用菜園です。
黄色い花はハクサイ、白い花はダイコンです。
孫が来れば食べさせてやろうと、少し多めに植えた残りが花開いたようすです。

眼下は高田の街並みと、その先の霞む江田島湾です。

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水仙の上に枝を張り出して紅梅が咲きます。

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立春前でも瀬戸の日差しで満開に、品種はカンコウバイだと思いますが?・・・(*^。^*)です。

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庭先に植えられたシダレ桜です。
シダレ桜の手前にあった家屋は取り壊されて更地となりましたが、桜は記念樹としてそのまま残されています。

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ビニールハウスの鉄骨材の前に植えられていたコマツナ?・・・野菜も、もともとは野草?・・・(^_^;)ですから・・・。

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物置と路地との僅か20㎝の隙間に、タラノキと水仙が・・・。

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皇帝ダリアが3m、負けず嫌いなサヤインゲン、伸ばせば5mはいけるのですが支柱が2mしかありませんので・・・(^_^;)です。

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大きく育っても屋根よりちょっと低いキンカンと、それなりにがんばって屋根よりも高くなったトウジュロ・・・(*^。^*)です。

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高田公民館、江田島市高田出張所です。

公民館前に書き出されている使用予定表には、三味線教室・楽習院カラオケ・民謡教室・広報仕分け作業・中、畑いきいきサロン・日本将棋連盟江能支部、じつに盛り沢山・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 4/6

2)江田島町南部 高田地区 
他地区に比べ特別にというわけではありませんが、高田地区でも花好きの方は沢山おられるようで、少しでも土地に余裕があれば何かしらの花木や草花が植え込んであります。

自然力だけの造形美はどれもみな素敵で美しいのですが、人の手や想いが加わることでもっと素敵に変わる造形もあります。

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駐車スペースを残し、庭一杯に広げられた鉢植え植物の数々です。

お花屋さんとか、ご商売で鉢植え栽培をされている方を除けば、おそらくは江田島市内で一番?二番?じゃないだろうか、と思えるだけの数多くの鉢植えが並べてあります。

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白い漆喰壁の土蔵の前に、真っ赤なタチアオイの花が林立します。

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バックは黒い焼杉板の壁でも似合います・・・(*^。^*)です。

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青色が清々しい、ラベンダー・グロッソの大株です。

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通路と壁との僅かな隙間に、キンケイギクとスイセンソウが咲きます。

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畑の隅っこの、ダリア・・・(*^。^*)です。

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一気に背丈を伸ばした夏草に埋もれて、何故かサルスベリの花が一枝・・・です。

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押し寄せる雑草の荒波に立ち向かう?・・・アサガオとコスモスの雄姿・・・(^_^;)です。

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カキの花は小さくて目立たないのですが、燃えるような新緑は遠くからでも人の目を引きます。

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スモモの若葉や花が開く前に、枝下のスイセンが一足早く日光浴・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り(民家) 3/6

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農業用ため池の脇に建つお家です。
赤い土壁の上に漆喰が白く塗られ、窓にはそれぞれ形を変えたガラス戸がはめ込まれています。

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一枚のガラス戸に模様入りの小さなすりガラスが4×4の16枚、手の込んだ仕事が見えます。

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小川の向こうの小さなお家、その小さなガラス戸の前に、小さな植木鉢が整然とかわいく並べられています。

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黒く焼き焦がした杉板が寸分の狂いもなく水平に張られています。
ガラス窓も最適なバランス感覚取り付けられ、横に張られたポスターには「2015島ミュージック 音楽祭」・・・(*^。^*)だって。

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超ロ~~~ングなお家、裏側です。

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古い町屋の外壁は、ほとんどが土壁でその表面には白い漆喰が厚く塗られています。
その時代には、沢山のコテ職人さんが腕を競っていたのでしょう。

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屋根の形が美しいお家です。

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狭い建坪が最大限に工夫され利用されています。
「ハウルの動く城」の高田バージョン・・・(*^。^*)です。

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お庭もきれいですが、玄関屋根の妻壁には素敵な旭日模様が入れられています。

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毎日の手入れが行き届いた、整然としたお庭です。

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広島城の天守閣にあるような廻り縁が付けられたお家、眺めもよさそう・・・(*^。^*)です。

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明治から大正期にかけ、高田地区で盛んに生産された硬質煉瓦を土台にして造られた蔵です。

高田 いいとこ撮り(民家) 2/6

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高田旧街道から少し坂道を登った場所に他とは少し造りの違ったお家があります。

海からは少し離れるのですが、昔は網元さん???・・・かも???です。

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農家造りだと壁を横に張った板塀とすることはまれですし、二階建物の載せ方も少し奇異な感じがあります。
漁具や網などの格納用であれば少し納得なのですが???

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でも、此方から見れば農家風に見えなくもないし?・・・。
とても気を引く造りで、アイデアいっぱいの宝箱のようなお家です。

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傾斜地に作られた農家造りでよく見る建築レイアウトです。

もっとも道路に近い部分に半地下式の「落としばんや」と呼ばれる石囲いの部屋が作られています。
落としばんやは、上の階で飼育した馬や牛などの糞便や敷き藁を落とし入れ、落ち葉や農作物の残滓と混ぜ合わせて、たい肥を作るのが主目的でした。

のち、昭和30年代となり耕耘機など農業機械の普及により馬や牛が飼われなくなると化学肥料や農機具置き場となり、その上にあった家畜小屋は改装され納屋あるいは離れの部屋となりました。

母屋へ通じる坂道を上った位置に、庭とは兼用の農作業スペースがあり、最も奥に母屋が建ちます。
納屋や家畜小屋あるいは離れ部屋は母屋とは直角(曲がり屋風)に建てられ、作業スペースでもある庭に強風が当たらないよう囲みます。

市内で傾斜地に建つ農家の多くは、ほぼこれと同じレイアウトで建てられています。
とくに平地が少なく傾斜地に家々が密集する、江田島町津久茂地区で多く見られる建築様式です。

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今は町屋風建て替えられていますが、元は農業もされてた?の、かも?・・・です。

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このお家も曲がり家の半地下式です。

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平地に建てられた農家には半地下室は作られません。

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このお家には一見半地下室はなさそうですが、よく見ると・・・(*^。^*)です。

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昭和初期(20年代?)のころの標準的お家の造りです。
今は住人がいなくなり、空き地となった庭の部分が一面の大根畑に・・・(*^。^*)です。

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当分は風呂焚き用の薪に不自由することはなさそうなお宅です。

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構造材が頑丈で丁寧に建てられたお家なのでしょう。
農家仕様として建てられた、かなり古そうなお家ですが、今も物置として立派に使われています。

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戦後の建物(昭和30年代)で、初めから納屋として建てられたものです。
壁は煉瓦にも使われた高田名産の赤土で塗り固めてあります。

高田 いいとこ撮り(民家) 1/6

2)江田島町南部 高田地区 
高田地区の背後にそびえる山々は花崗岩よりも保水性に富む堆積岩(玖珂層群)であり、水に不自由する瀬戸の島にあっても、他地区に比べ、わりと容易に上質な飲み水を得ることができました。
そのため人口密度が高く、さらには相応分の耕作地を確保する必要から、家屋敷や生活道路は必要最小限とされたようです。

屋敷面積が少なくなった分を知恵と工夫で面白くしてあるのですが、そのような思い入れの強いお家も、現代の生活様式には適合しづらく次々と取り壊されていきます・・・(^_^;)です。

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長い年月をかけて手入れされたソテツとシュロの樹が、エキゾチックな和洋折半風のお家をより印象深く引き立てます。

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和洋折半の建築は一時流行期があったようで、島内でもまだ何軒かは残っていますが次第に見る機会は少なくなっています。

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お家の周りの柿の木の枝に新緑が芽生え、その下にフキの葉っぱが青々と茂り、ツツジやモミジで覆われた、まさに桃源郷的な条件を満たした、とても気になるお家がありました。

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住人もなく物置として使われている様子で、これが最後のシャッターチャンスだろうと思っていました。

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ところが・・・ぶったまげぇ~~~。
しばらくぶりに訪れると、な~~~んと、驚くほど立派にリフォームされています。

いやぁ~~~、とても、とっても、すてきなお家になりましたぁ~・・・(*^。^*)です。

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こちらのお家でも、庭の真ん中に柿の木が植えてあります。
縁側のある南向きのガラス戸の下には大きな沓脱ぎ石がおかれており、植物好きの御隠居さんが朝晩草履に履き替え、鉢植えの木や草花に水を撒いていたのでしょう。

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手入れがされなくなって、小さな植木や花々は枯れてしまったようですが、根が深く乾燥に強い柿の木やソテツ、ツツジやサツキ、ツバキの類が再び水撒きに現れる御隠居さんを待っています。

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川沿いの小さなお家、カンナの花に囲まれ、庭には柿の木があってまだ数個の赤い実が残っています。

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増築したのでしょうか、少し和洋折半的な感じのお家です。
秋草の中に、黄色いコスモスが野生化?して咲き乱れていました・・・(*^。^*)です。

高田 さつき荘・高田駐在所

s-高田グーグル地図D さつき荘 
「さつき荘(水島観光さつき園)」と「高田駐在所」とは何の関係もありませんが、高田桟橋の目の前にある高田駐在所で、さつき荘の場所を尋ねれば、きっと懇切丁寧に教えて頂けると思います・・・(^_^;)です。

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海とつつじに囲まれた田舎の料理屋「さつき荘」の前面に天高く広がるツツジ庭園です。
撮影した季節はイチョウの葉も落ちてしまった12月初旬、植え込みに点在する桜など落葉樹の葉っぱが無くなった分、小山を覆って植えられたツツジ郡の全体が良く見えるだろうと思います。

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ツツジ庭園は小山を超えたその先の谷も埋め尽くして広がります。
おそらくは御主人が一人で、毎年数メートルづつ植え増して育て上げた庭園(ツツジ山)だと想像しますが、・・・長い年月をかけ、おどろきのツツジ山が完成???です。

ちなみに、サツキとツツジの違いについてですが、一般的にサツキはツツジよりも花や葉が小型で、さらにツツジの開花時期は当地だと4月下旬から5月上旬、サツキはそれよりも一ヶ月くらい遅く咲きます。

s-DSCN9042.jpg 
対岸の津久茂側から見たさつき荘(水島観光さつき園)です。

左端の白い建物がさつき荘で、建物は旧高田小学校校舎を移築したものです。
さつき園はその右側で、画像からはみ出す位置までツツジの群落が繋がります。

さつき荘園 
ツツジ開花時期の画像(さつき荘HPよりコピペ)です。

撮影は5月初旬とありますので、一部サツキの植え込みもあるとは思いますが大部分はツツジで、品種はヒラドツツジ系を主としているようです。

園内にはツツジの他にもサクラやモミジ、イチョウなども植えられていますがツツジの花を楽しむなら四月末から五月初旬がお勧め・・・(*^。^*)です。

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高田港の前に「江田島警察署高田警察官駐在所」があります。
本物の煉瓦を使った建物かどうか?、手で触って確かめる勇気はありませんが、レンガ風の洒落たデザインです。

ちなみに、かって高田地区をレンガの一大生産地となした、その始まりは五日市の西川氏、結城氏が、高田の豊富な粘土質土壌に着目し、高田在住の福田儀助氏に煉瓦製造をすすめたことに端を発します。
大阪堺で、1年間煉瓦造りの技術習得をして帰郷した福田氏が、明治16年秋、屋敷横に窯を設置し煉瓦の製造を始めました。

その後の日清日露戦争による特需や、鉄道トンネル、下水道などのインフラ事業による煉瓦需要の急増で煉瓦産業は大発展を遂げましたが、第一次世界大戦終結後の不況や、大正12年9月の関東大震災などもあって大正14年のころには販売先の決まらない煉瓦が村内各所に山となって積まれ、昭和2年には高田村内にあったすべての工場が閉鎖されました。

高田で生産された煉瓦は海外産や他産地に比べても固く締まった良品で、地下建造物や、下水道、寒冷地での使用に適しており、北海道や韓国方面までも送られていました。

そのことから、通称「赤レンガ」と呼ばれ全国的にも有名な、海軍兵学校生徒館(明治26年、イギリス産の煉瓦を使用して建てられたという)は、高田の煉瓦を使用したのでは?といわれることもありますが、伝え聞く話では高田産の煉瓦は色が悪く、海軍兵学校生徒館に見るような綺麗な赤い色は出せなかった。
内部の基礎部分になら使えるだろうが???・・・と。
今の時代、分析器にかければ一瞬で判定できるとは思いますが、まだその様なことがなされた話は聞きません・・・(*^。^*)です。

能美町誌によれば、明治39年、大柿村大君2、鹿川村1、中村1、津久茂村1、高田村6、と13の煉瓦工場があったと記され、高田村では伊勢屋新開、瀬越新開、田中新開、大新開、清能新開に工場が建てられたとされます。

最発展期である大正5年(1916)の高田村での煉瓦生産個数は9百万個、販売金額は7万2千円なり・・・です。

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江田島市内で最もモダンな駐在所・・・(*^。^*)です。

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やっぱ、本物の高田産レンガを使ってほしかったなぁ~~~。

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蔵の土台部分に使われている煉瓦はおそらく大正の頃の高田産煉瓦です。
重い土蔵を支える強靭さは、まさに高田産硬質煉瓦の本領を発揮しています。

ただ、色は好みにもよりますが、いわゆる赤煉瓦とは呼べそうにありません。

年間1千万個近い膨大な量が生産された高田煉瓦ですが、今に残る高田産と思われるものはほんの僅かです。
売れ残り、野ざらしとなっていた煉瓦の山は、いったいどこへ行ったんでしょう?・・・ね。

高田 日本棋院名誉九段 瀬越憲作

高田グーグル地図D 瀬越憲作像 
高田港とは国道487号線を挟んで反対となる国道沿いの西側に、元日本棋院理事長 「名誉九段 瀬越憲作」の銅座像があります。

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銅座像は北面を向き、対局盤面に石を打たんとするその一瞬を写しており、正午の頃には南中した陽光が像の頭上からキラリひらめきとなって此方を射します。
「瀬越憲作先生像」は尾道市御調町出身の圓鍔勝三氏の作で、昭和五拾七年中秋の刻印があります。

台座背面に埋められた分厚い銅板には
日本棋院名誉九段 正四位 勲二等、瀬越憲作先生は、明治二十二年此地に生まれ、ニ十歳にして上京、専門棋士となり、爾末昭和四十七年逝去されるまで、戦前戦後を通じその高潔な人格、卓越した見識をもって、囲碁界の組織、囲碁の研究普及、棋士の育成等、囲碁の向上発展のために心血を注ぎその赫々たる功績は、まさに斯界を照らす不滅の大光明である。
先生逝いて十一年先生の郷党、門下生、知友相はかって、その限りない敬慕感謝の思いを新たにすると共に、世の人々が永くこの偉大なる先達を偲ぶよすがとなればと念じ、茲にこの顕彰の像を建立する。
昭和五十八年春 瀬越憲作銅像建設委員会
撰文 灘尾弘吉
と、あります。

s-瀬越健作囲碁図書 
画像はアマゾンよりのコピペ・・・m(__)mです。

生涯に100冊以上の書籍を著され、「瀬越囲碁教本」「瀬越囲碁講座」をはじめ、江戸時代の御城碁の棋譜を収めた大著「御城碁譜」全10巻、「明治碁譜」の編纂など、囲碁の技術書から囲碁史書まで幅広くかつ地道に研究されました。

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銅座像の裏面です。
瀬越九段の羽織った紋付の背には、雪輪に抱き沢瀉(ユキワニダキオモダカ)の家紋が見えます。

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銅像から北に100mばかり離れた、旧高田街道沿いに瀬越憲作氏が羽織った紋付の背にある「雪輪に抱き沢瀉」の家紋を付けた、清楚な門柱が残ります。

今は無人の廃家となっていますが、瀬越憲作九段の生家です。

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人の気配は感じませんが、時々は庭の草取りや落ち葉の清掃に訪れる方がおられる様子です。
母屋とは直角に納屋を配した造りで、当地でもよく見る農家風の建物です。

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納屋は碁会所にリホームされており、近隣あるいは遠路より集う囲碁仲間の憩いの場となっていた様子です。
瀬越九段も疎開あるいは帰郷のおりには、囲碁自慢を集め、その指導やお相手をされていたやも?です。

ちなみに、瀬越九段の生年は、銅座像の顕彰文にもあるとおり、1889年(明治22年)で、没年は1972年(昭和47年)です。

1909年 方円社(本因坊と対峙する囲碁の団体)に入門。
1924年 本因坊派と和解合併、新団体「日本棋院」の創立に尽力。
1945年 東京大空襲により日本棋院会館が焼失し、第3期本因坊戦は広島市郊外の吉見園(現佐伯区五日市町)で行われました。
しかるに8月6日、橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中に原爆が炸裂、爆心地から10km離れた此地にあっても閃光と強烈な爆風に見舞われました。
対局場となった部屋の窓ガラスなどは粉々に飛ばされたものの試合は続行、立会人であった瀬越九段も無事ではあったのですが、爆心直下で当初予定の対局会場であった日本棋院広島支部長の別邸は一瞬で消え、藤井支部長始め多くの人命が奪われました。
その中には瀬越九段の三男や甥も含まれております。
1946年 日本棋院理事長就任。
1955年 名誉九段。
1958年 紫綬褒章受章。
1960年 日中囲碁交流第1回訪中団団長。
1966年 勲二等瑞宝章を受章。
1972年 体の衰えを苦とし自ら命を絶つ。
1983年 功績を讃えて銅像(圓鍔勝三作)が作られ、故郷の能美島に贈られました。
2009年 囲碁殿堂入り。

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生家は背後にある小丘の崖下にあり、瀬越九段が幼少のころには、旧高田街道をまたげばすぐその先に波のざわめきが聞こえる長閑な環境でした。

いつの頃植えられたものかは分りませんが、モミの木が大きく育ち、その梢は屋根をはるかに超えています。

s-2016-03-31 028 (2) 
小丘の上に墓石などあればと登ってみましたが、そこには畑となっており、取り残したダイコンや白菜、小松菜が白や黄色、薄紫色の花を揺らせます。

春霞の江田島湾に並べた牡蠣筏を碁盤に見立て、瀬越9段が対局する相手はだれでしょう。
見えないものを無理に見ることもありません。
霞みはすこ~し濃くなってきたみたい・・・(*^。^*)です。

s-2015-06-17 149 
生家の脇、旧高田街道に面して大小の石碑が建ちます。

大きな石碑の裏面に、・・・天保十年・・七十五・徳三郎?・・・
小さな石碑に・・・明治・・・新・徳三郎六十六・・・三高道?・・・
残念ながら判読できませんでした・・・m(__)mです。
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