江田島って・・・どんなとこ?(ただいま試験中です。)

 
総  合  検  索  ペ  ー  ジ

  
おもしろ話題と画像の「どんなとこ 掲示版」   

* これより下の項目は製作途中で、現在30%が使用可能・・・(^_^;)です。 *
江 田 島 の 景 色(地図と概要

江田島町  大柿町  能美町  沖美町

江 田 島 の 植 物  
 
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鹿川 いいとこ撮り 1/4

鹿川グーグル地図D 
能美町鹿川のグーグル地図です。

2015-03-20 206 
江田島市鹿川出張所兼鹿川公民館です。
この日は地域の親睦会?とかあったみたいで、皆さん大きな仕出し弁当をもって散会、お帰りになられるところ・・・(*^。^*)です。

戦国後期、毛利氏が大きく台頭する以前、この一帯は大原の能美氏を頭領として山野井氏、田中氏、中村氏と共に能美連合水軍とも呼ばれる一大勢力を誇っていました。

そのころ鹿川鬼崎の地に能美氏の水軍城があったとされますがその地を示す資料がありません。
おそらくはこの公民館が建つ小丘が鬼崎水軍城跡だろうと思うのですが?・・・。

2015-06-23 038 
江田島消防署能美出張所です。

江田島市消防本部は江田島町鷲部の江田島消防署所内に置かれ消防長のもとに
総務課
(庶務係・財政係・消防団係)
予防課
(予防係・指導係)
警防課
(警防係・救急係・通信指令係)があり

同所同本部に江田島消防署が付随し、消防署長のもとに
(第 1、2警防係・第 1、2消防係・第 1、2救急係)が編成配置されます。

さらに、広域対応の必要から鹿川に能美出張所が置かれており出張所長のもと
(第1・2警防係)が編成配置されています。

ちなみに、平成28年4月現在の総職員数は67名、内救急救命士11名、平均年齢38.6才の精鋭です。

平成27年中の建物火災は14件、林野火災0件、車両船舶等の火災7件、火災による死者0名負傷3名、急病その他による救急搬送は驚きの1363名、毎年住民の18人に1人がお世話になっております・・・(◎_◎;)です。

2016-05-26 052 
能美町鹿川文化センターです。
鹿川湾に面して建つ洗練されたデザインの建物はチョット見、大企業の保養所風です。

当文化センターでは地域住民を主導し、エコクラフト教室、和小物・パッチワーク教室、健康体操、いきいき百歳体操、料理教室など多彩な催しを企画発信しております。

2014-10-26 020 
東浜付近の高台から見た鹿川の街並みです。
いらかの向こうに霞むのは江田島市最高峰の宇根山(541.8m)です。

2016-05-14 037 
尾登地区を見下ろす高台から見た鹿川湾とその先の大矢地区、遠くは大黒神島の櫛ノ宇根山(459.9m)です。

2014-10-26 052 
尾登地区の高台に建つお家です。
真道山山系からの尾根の一つですが、眼下に鹿川の家々や新開干拓地を見渡せる絶景の丘です。

崖下に生える1本の大きな木は推定樹齢100年?くらいのムクロジです。
廻りに生育を妨げるような木々もないので、このままグングンと大きく育ってほしいものです。

ちなみに市内には江田島町津久茂に推定樹齢が300年?くらいの巨大ムクロジがあり江田島市指定の記念物とされています。

2015-10-08 027 
郷地区の高台から見た鹿川の中心部、画像中央付近に鹿川小学校が、右にJA鹿川が見えます。

2015-06-23 058 
荒神地区の高台から見た遠景は鹿川地区北部、スーパー藤三能美店のある方向です。
手前の土手に大きく伸びたシュロの木が2本あります。

子供の頃お祖母さんがシュロの葉っぱを裂いて籠を作ってくれたり、糸で編んで蠅たたきや、団扇を作ってもらった記憶があります。

そうそう、シュロ皮をメダカの水槽にも入れた記憶がありますし、垣根を作るには竹をシュロ縄で縛ったり、プラスチックやビニール、アルミ製品の無い時代、生活必需品として最大限に利用されていたシュロですが、今は庭木にするには汚らしく管理の面倒なただの雑木となってしまいました。

2015-03-20 252 
南からのそよ風で小さなさざ波が寄せる鹿川湾です。

何度も繰り返された干拓で白砂の浜はなくなりましたが、まだまだ海は広いな大きいな・・・(*^。^*)です。

鹿川 徳勢家の大ソテツ

4)能美町・沖美町南部 ソテツ 
鹿川勝善寺の南側に位置する徳勢家の庭には、広島県下最大と云われる大ソテツがあります。

2015-05-13 068 
細い路地を右に左にと迷いながら上り詰めると徳勢家のお庭にたどりつきます。

公開されているとはいえ一般民家の敷地内ににあるお庭です。
人の気配はありませんでしたが、深く一礼し、静かに見学させていただきました・・・m(__)mです。

2015-05-13 065 
大庭園という広さではありません。
ごく普通のお家に見るごく普通のお庭ですが、お庭の中央付近に、ニョキニョキ、ニョキと奇怪な幹が数本波打って天に伸びます。

2015-05-13 062 
一度にこれだけの数のニョキニョキは異様に感じますが、数年前の台風で数本のニョキニョキが倒れてしまったとか、往時にくらべればだいぶ迫力不足となったようです。

脇に据えられた石板には 鹿 川 の ソ テ ツ

指定 広島県指定
種別 広島県天然記念物
所在地 江田島市能美町鹿川3065番地
指定年月日 昭和25年3月22日
法量 樹高5.35メートル

ソテツは亜熱帯地域に自生しているが、国内では観賞用として人家などに植えられ親しまれてきた。
本樹は弘長年間(1261年~1264年)に屋久島から持ち帰り植樹されたと伝えられる。
県内有数の巨樹として昭和25年広島県天然記念物に指定されたものである。
平成21年10月
江田島市教育委員会

と、刻まれています。

2016-05-14 088 
敷地から路地にはみ出して伸びる大ソテツです。

ちなみに、ソテツの学名であるCycas(シカス)は、ヤシに似た植物という意味で、ソテツ科ソテツ属はオーストラリア・アフリカ・日本など広い範囲で約20種類の仲間が知られており、現在生きている植物の中では、イチョウと並んで最も原始的なもののひとつとされています。
また和名であるソテツの由来は、木が弱ったときに株元へ鉄を打ち込むと元気が戻ったことから蘇鉄(鉄で蘇生する)と名付けられ、中国でも「鉄樹」という名前で呼ばれています。
雌雄異株で花は10年に1回の頻度で見られるといわれます。
開花は6~7月ころ、雄花は槍の穂先状に1m近い大きさの集合花となり、雌花はバスケットボールのような球形の集合花で白い羽のような擬葉で覆われており、晩秋に赤いピンポン玉くらいの実が数十個放射状にみのります。
赤い皮で覆われた実はでんぷん質で毒抜きをすれば食べることもできますが、中毒死もしくは後遺症が残ることも多く日本では大飢饉のときの救荒食とされ普段は食しません。

2015-05-13 057 
地元鹿川小学校生徒の取材記事がありましたのでコピペ・・・m(__)mします。

今 も 生 き 続 け る 大 ソ テ ツ

庭の一角に堂々とそびえ立つソテツがあります。
これは,江田島市能美町鹿川の,徳勢さん宅に植えられている大ソテツです。
高さは約5.4m,周囲約6mの巨大なものです。
昭和25年2月22日,県の天然記念物に指定されました。
大ソテツは,今から約700年前に屋久島より持ち帰り,家の庭に植えたと伝えられています。
当時は,家の前まで海だったので船で運んで来たそうです。
その大ソテツは現在,年をとって折れやすくなっています。
そこで,平成7年,がんこの会の人達が大ソテツを守ることにしました。
伸びた幹が折れないように支え棒をつけたり,肥料をやったりしているそうです。
冬でも暖かい鹿川では,町のあちらこちらでソテツを植えている風景を見かけます。

鹿川の大ソテツは,700年以上もこの鹿川の地でしっかりと育っています。
僕はこのりっぱな木が折れてほしくないので,みんなといっしょに守っていきたいです。

江田島市立鹿川小学校 5年 高田 光樹

2015-05-13 058 
中央下部に見えるボール状のものが雌花(2015年5月13日)です。
つまり、この鹿川の大ソテツは雌株になります。

ちなみに、国(日本国文部科学大臣)が指定したソテツの特別天然記念物、天然記念物を列挙します。

特 別 天 然 記 念 物
都井岬ソテツ自生地(宮崎県串間市)
鹿児島県のソテツ自生地(鹿児島県指宿市・南さつま市・南大隅町・肝属郡肝付町)

天 然 記 念 物
常神のソテツ(福井県三方上中郡若狭町)
新町の大ソテツ(静岡県賀茂郡河津町)
能満寺のソテツ(静岡県榛原郡吉田町)
龍華寺のソテツ(静岡県静岡市)
妙国寺のソテツ(大阪府堺市)
日御碕の大ソテツ(島根県出雲市)
誓願寺のソテツ(香川県小豆郡小豆島町)
広沢寺のソテツ(佐賀県唐津市)
大野下の大ソテツ(熊本県玉名市)
松屋寺のソテツ(大分県速見郡日出町)

2015-07-28 034 
画像は2015年7月28日、高田地区の民家庭先で見たソテツの雄花です。

これから千年、二千年先、高田の雄株ソテツとして天然記念物指定されることを期待しています・・・(*^。^*)です。

鹿川 鹿川小学校・こども園のうみ・呉特別支援学校江能分級

鹿川小学校・こども園のうみ・江能分級 
鹿川古新開地区には江田島市立鹿川小学校と江田島市立認定こども園のうみが、文久新開前浜に広島県立呉特別支援学校江能分級があります。

鹿川小学校S50 
画像は昭和47年から始まった体育館や校舎の改築工事が終了する間際、昭和50年2月の能美町立鹿川小学校の全景です。
校庭には資材や建設会社の仮設事務所が見えます。

ちなみに鹿川小学校のルーツは明治6年(1873)10月、勝善寺に教場として養賢舎を開いたことに始まります。
そののち明治11年に文久新開の荒神に教場を建て鹿川小学校と改称、明治16年中郷の鬼崎に移転、明治20年に中村簡易小学校分室となるも、同24年再び鹿川小学校と改称しました。
大正5年には村立農業補修学校を併設、同8年に高等科を併設、同10年鹿川尋常高等小学校となり、同11年現在地である古新開に移転しました。

戦時下の昭和16年4月から同22年3月の間は鹿川国民学校と呼ばれるも、昭和22年4月より鹿川村立鹿川小学校、鹿川町立、能美町立、江田島市立となって現在にいたります。
その間、昭和48年から50年にかけて体育館や校舎の改築、62年のプール完成、さらに平成18年には現在の新校舎への改築がありました。

鹿川小学校グーグル 
平成18年に全面改築された現在の鹿川小学校全景です。

グラウンドに自動車が数台止めてあるので、おそらくは交通安全学習の真最中なのかも・・・(*^。^*)です。
平成27年4月現在の児童数は108名で9学級、教職員数が15名です。

2015-06-23 139 
国道487号線に面し、大きなソテツを中心にアジサイや草花で彩られていますので、学校正門かと思ったのですが、こちらは通用門だそうです。

2015-03-20 229 
正門はこちら、東南の旧道に面してありました。
門柱の間隔は50cm、二宮金次郎さんが薪を背負って通るのがやっとの広さです。

って冗談、昔の校舎で使用されていた門柱ですが、建て替えで校舎の位置が移動し不要となったので校庭の隅に移設されたようです。
本物の正門は新しく頑丈なコンクリート造りで、同じく東南の旧道に面して作られています。

2015-03-20 227 
正門付近から見た鹿川小学校校舎です。

2015-03-20 223 
国道の側から、棒登り器具?の隙間から見た新校舎です。

image[1] 
昭和37年に制定された鹿川小学校校章です。

鹿 川 小 学 校 校 歌 制定は昭和34年、作詞豊島惟夫、作曲北本清治です。

波静かなる 瀬戸の海
広き 心に うるおされ
友達すべて へだてなく
集うわれらに 光あり

土豊かなる 能美島
深き恵みに 育まれ
友達すべて 助け合い
学ぶわれらに 力あり

空澄み渡る わが郷土
高き誓いに 導かれ
友達すべて 手をつなぎ
進むわれらに 誇りあり

2015-03-20 230 
鹿川小学校の南に江田島市立認定こども園のうみがあります。

この画像は平成27年3月のものですので、表札は鹿川保育園となっていますが、4月以降に時代は一気に変わり、「子ども・子育て支援制度」が実施され鹿川保育園も新制度の下「認定こども園のうみ」と改称されました。

2015-06-23 136 
画像は6月「江田島市立認定こども園のうみ」の看板が大きく掲示されています。
いやはや・・・複雑な世の中になったもんです。

子供よりも親の方がもっともっと勉強しなくっちゃ、取り残されそうな気配・・・

で、この日は親御さんを集め難しい手続きに関するレクチャーとかがあった様子?です。
ふぅ~~~ って、ため息・・・(^_^;)です。

2016-05-26 036 
さらに南に下がった位置に、広島県立呉特別支援学校江能分級があります。
この日は運動会?の準備があったようで、グラウンドに真っ白いテントが用意されています。

江能分級は,広島湾の南に浮かぶ島(江田島,能美島,倉橋島)の6つの町(江田島市江田島町・沖美町・能美町・大柿町及び呉市音戸町・倉橋町)の知的障害のある児童生徒を対象として,昭和55年広島県立呉養護学校の分級として開設され,小学部と中学部が設置されました。
昭和57年には高等部が設置され,平成元年に現在の地に新築移転しました。
以上、HPからのコピペ・・・m(__)mです。

2016-05-26 042 
文久新開干拓地のほぼ中央部にあり、今回鹿川近辺の地図を精査していて初めて江能分級の存在に気づきました・・・m(__)mです。

2016-05-26 044 
江能分級の正門です。

ちなみに、広島県立呉特別支援学校本校は広島県呉市焼山北三丁目にあり、平成28年5月現在で江能分級も合わせ、27学級131名の児童生徒が在籍しています。

kousyouh22071411[1] 
広島県立呉特別支援学校の校章は昭和56年に制定されました。
呉市の花である「つばき」の5枚の葉の中心に、呉の字をイメージさせる両手を広げた子どもを配して、強く正しく伸びゆく呉特別支援学校の姿を象徴しています。

校歌は昭和58年制定、作詞は小島正弘、作曲は原岡寛です。

広 島 県 立 呉 特 別 支 援 学 校 校 歌

つんつん つばき
芽がのびる
緑の大地を ふみしめて
明るく まっすぐ
のびるんだ
若き力 呉特支

つんつん つばき
花ひらく
瀬戸の輝き 背にうけ
やさしく 大きく
ひらくんだ
あすへの希望 呉特支

鹿川 農道 2/2 

鹿川農道A 
荒神、後浜地区の西側山麓には、今も管理のしっかりした農道が残ります。

風化し崩れやすい急傾斜地で農地として恵まれた環境とは言えませんが、主な斜面が東南の方向を向いているのが多少とも利点となっているようです。

2015-03-31 107 
この付近一帯はミカン類の一大生産地だったのですが、現在のミカン畑は往時の十分の一も残っていません。

他の農道であれば雑木の生えるがままにまかせ、数年で軽トラも入ることのできない廃道となるところですが、こちらでは農道脇に花木を植えたり、雑木雑草の刈り払いや清掃作業を年に数回は共同して行なっている様子です。

2015-03-31 109 
ミカン類の枯れたあとに桜などの木々を植えたり、草花を植えこんだりして地域の景観保存に尽力されている方がおられるようです。

2015-03-31 173
ミカンの木よりも桜などの花木が優勢となった斜面もあります。

2015-03-31 111 
桜の木はミカン畑ほどの頻繁な手入れはいりませんが、だからと言って放っておけば桜の枝下にだってすぐに雑木が蔓延りつる草が巻き付きます。

2015-03-31 112 
葉っぱのない中央の木は自然に芽生えた雑木じゃありません。
栗の木・・・(*^。^*)です。

2016-03-25 029 
こちらの畑では、水仙いっぱい運動?がこころみられています。

いずれは、淡路島の灘黒岩水仙郷を追い越し、のうみ水仙郷として脚光を浴びる日が来るやも・・・(*^。^*)です。

ちなみに、淡路灘黒岩水仙郷は、西暦1820年代(江戸時代)に付近の漁民が海岸に漂着した球根を山に植えたのがだんだん繁殖したとされており、今ではここ淡路島の南部に位置する諭鶴羽山(標高六〇七.九m)から海に続く45度の急斜面の一帯、約7ヘクタールにわたって500万本もの野生の水仙が咲き誇っています。と、・・・コピペ m(__)mです。

2016-03-25 033 
甘夏柑の向こうにも、桜並木の農道・・・(*^。^*)です。

2015-03-31 113 
まだ、十年ちょっとの若桜、これからの成長が楽しみです。

2015-03-31 168 
小さな小川に沿って、桜以外にも多品種の花木が植えられています。

2015-12-13 021 
桜とは対称ととなる晩秋に訪れてみました。
青空をめざし見上げる高さに育った皇帝ダリアがあちこちに林立します。

カメラを向けると大根の抜き取り作業を中断したおじさんが、ダリアや桜の花自慢を始めます。
花を育てる難しさをとうとうと聞かせていただきましたが、ミカン作りや野菜作りの苦労話はまったく出ませんでした。

そうそう、小玉スイカくらいに大きく育ったカリンの実を二つもいただきました。
おかげさまで今年は風邪をひくこともなく、喉の調子も絶好調、ありがとうございました・・・m(__)mです。

 追伸です。
その種を庭の隅に埋めておいたら、十数本の芽が出ました。
初め何の植物か思い当たらなかったのですが、20cmばかりに育ったところで、「あっ、昨年頂いたカリンだ」って思い出しました。

一本をそのまま残し、3本を鉢に移して育てていますが、今現在で樹高が1mをオーバーしました。
はてさて、このまま我が家の狭い庭で育てることができるのか??? ・・・(^_^;)です。

2015-12-13 019 
往時に比べれば数十分の一へと少なくなったミカン畑ですが、この年も大きな実が枝もたわわに実っています・・・(*^。^*)です。

鹿川 農道 1/2

鹿川農道A 
鹿川地区の東西には、農作業用の軽トラが十分な余裕をもって交互通行のできる幹線農道が2本南北に走ります。

中町・鹿川(真道山西側面)農道
東側の幹線農道は中町の黒張から真道山の西の麓を南下し、鹿川水源地を迂回して小古江との境界近くまで続き、国道487号線に合流します。

高田・鹿川(宇根山東側面)農道
鹿川の西側にある幹線農道は高田の宗崎から中町の高下を経由、宇根山山腹を縫って南下し、才越峠で県道36号線と合流します。

2015-12-05 085  
昭和の時代、集落と農地山林とを結んで縦横無尽、シラス網の目のようなち密さで張り巡らされていた農道ですが、平成に入った頃より徐々に失われ、幹線となる農道より他は獣道との区別さえ難しい状態となりました。

鹿川の北西部、宇根山幹線農道からさらに西の尾根へと伸びる細い農道を登っていくと、行き止まりの開けた場所に沢山の樹木が育つ段々畑がありました。

生け花用の花木が栽培されているようです。
花が咲いていないので???ですが、枯葉の感じからたぶんトサミズキ?・・・(^_^;)です。

右上の遠景は真道山、左は江田島古鷹山系です。

2015-12-05 097 
宇根山幹線農道から舗装のない農道を下ってきました。
流れの止まった小川の湖面が青空を写してキラリ輝きました。

2016-03-25 017 
十数本の桃の木が植えられた段々畑です。
遠くは陀峯山山系、その手前に鹿川湾の海面が見えます。

2016-03-25 024
才越地区の野菜と花の兼用畑・・・(*^。^*)です。

手前から、菊、春菊?、とう立ちした大根、そら豆、パンジー、最奥はニンニク???です。

2015-03-20 153 
中郷地区の畑に紅白の梅の花です。
遠景は宇根山のピークです。

2015-03-20 161 
尾登地区の田んぼ跡地に、野生化した菜の花が毎年一斉に花開きます・・・(*^。^*)です。

2016-05-14 091 
真道山幹線農道の脇に沢山の花が咲いていました。
赤いのはギョリュウバイ、黄色の花はシナレンギョウ?です。

瀬戸の段々畑は除虫菊栽培で真白に輝いたり、葉煙草や蜜柑で黄色に染まったり、カーネーションやキク、キンセンカと、その時代時代の色に千変万化します。


2016-05-14 041 
真道山幹線農道から谷沿いに登る未舗装農道に入ってみました。

3,4百mで行き止まりとなり、軽トラの向こうにミカン畑が見えました。
あたりには枯草を燃した時の香ばしい微かな香が漂います。

2016-07-15 048 
鹿川水源地から登る鎌木農道です。
アスファルトに降り積もった笹の葉に轍が二本、平行に続きますので車の出入りはある様子ですが・・・。

2016-07-15 042 
竹藪の長いトンネルを抜けると、そこは緑のヤギの国?だった・・・(^_^;)です。

2016-07-15 033 
農道に近く日当たりの良い場所には、まだミカンの木が数十本残っていましたが・・・
遠景は宇根山のピークです。

2016-07-15 029 
さらに進むと農道脇に雨水の貯水用として、酒造会社からもらい受けた大型のタンクが一基残ります。

雨水は満水で水面にはホテイアオイの花が咲いています。
なのに、タンクの下部に取り付けられた給水バルブは閉めれれたまま、廻りに広がる畑も数年間耕す人もいないようすで、複雑に絡まるつる草の下に埋もれてしまいました。

鹿川 旧鹿川街道・旧鹿川産業組合会館・国道487号 2/2

鹿川農協・産業組合会館B 
能美町誌、大柿町史より年表の一部をコピペしました・・・m(__)mです。

1897(M30)自転車現る
1908(M41)鹿川産業組合発足
1921(T10)自転車の普及
1924(T13)各地で県道の整備が始まる。
1925(T14)高田・柿浦間乗合い馬車が走る。
1926(T15)自動車現る
1927(S2)中村・柿浦間に乗合いバス運行
1928(S3)能美バス運行
1930(S5)芳本兄弟自動車商会が中村・柿浦間を6人乗りT型フォードで乗合いバス運行
1936(S11)鹿川・是長間県道完成
1938(S13)鹿川・是長間でバス運行
1943(S18)産業組合を農業会に改組
1944(S19)呉市営バス江能線開通
1948(S23)農業会を農業協同組合と改組
1951(S26)鹿川が町制を施行する
1952(S27)能美島でタクシー営業始まる
1953(S28)芳本兄弟自動車商会を吸収し呉市営バスとなる
1955(S30)高田村・中村・鹿川町が合併、能美町発足
1964(S39)能美島農協発足
1968(S43)能美島農協本所(中町)完成
1973(S48)早瀬大橋開通
1988(S63)能美島地区の呉市営バス撤退により能美バスKK設立
1994(H6)国道487号線の指定
2004(H16)江田島市発足
2008(H20)呉市営バスが全線で撤退し江田島バスKK設立

2015-03-20 200 
鹿川旧街道の中心部に元鹿川産業組合の会館(現在は個人所有)が残ります。

鹿川産業組合が発足したのは年表にあるように明治41年(1908)です。
村内からの寄付金、御下賜金を基金とし生活貧窮者を助けるための、今でいうNPO的な活動をおこなう組合でした。

同じような組合は近隣他村にも作られ、急騰した米価に対応し、大量仕入れや外国米の購入で地域住民の食の安定供給に尽力しましたが、戦時下の昭和18年に農業会と名称を変更さらに昭和23年の農業協同組合設立へと繋がりました。

2015-11-10 133 
産業組合は島内他村においても多く組織されましたが、これだけの立派な会館(事務局)が造られ、しかも今日まで残っているのはこの鹿川産業組合会館のみです。

建設時期はおそらく大正時代後期?のころで、戦後もしばらくは鹿川農業協同組合庁舎として使用されていました。

2014-10-26 114 
初めて見たときは、地方銀行の鹿川支店だろうと思いました・・・(*^。^*)です。

現在は個人所有となっていますが、丁寧に使われており窓枠がアルミサッシに、玄関戸にシャッターが取り付けられている他は、ほぼ建設当時そのままに残されています。

2016-05-26 098 
国道487号線沿いにある現在の鹿川農業協同組合(JA呉 鹿川支店)です。

昭和39年に能美島農業協同組合に合併、さらには呉圏と合併し、JA(農業協同組合)呉 鹿川支店となって存続します。

ちなみに・・・
JAとは、相互扶助の精神のもとに農家の営農と生活を守り高め、よりよい社会を築くことを目的に組織された協同組合です。

この目的のために、JAは営農や生活の指導をするほか、生産資材・生活資材の共同購入や農畜産物の共同販売、貯金の受け入れ、農業生産資金や生活資金の貸し付け、農業生産や生活に必要な共同利用施設の設置、あるいは万一の場合に備える共済等の事業や活動を行っています。
(JA HPよりコピペ・・・m(__)mです。)

と、まあ農業関係に特化はしましたが、発足当初の鹿川産業組合と根底理念は同じです。

2015-03-20 213 
JA鹿川の玄関前に一体の銅像が建ちます。

台座花崗岩に「曽根田弥太郎翁像」背面に打たれた銅板には、「明治十一年・・・鹿川村に生れ鹿水と号す・・・明治四十一年鹿川信用服売購買組合・・・組合長に就任・・・昭和三十八年病のため辞任・・・産業組合中央金庫及び・・・農協組織確立に・・・。
昭和三十九年二月吉日
鹿川農業協同組合建之」

判読不明部分を ・・・ としましたが、明治41年の鹿川産業組合発足当初から戦時中の農業会、戦後再編された鹿川農業協同組合の設立と多難な時期に大きな功績を残されています・・・m(__)mです。

2015-06-23 137 
鹿川地区を南北に縦断する大動脈、国道487号線です。

建設された当初からは想像も及ばないほど交通量は増加しましたが、道路脇に広い駐車場をもたない個人商店さんでは、かえって客足が遠のく結果となっています。

呉服・婦人服・洋品・寝具・紳士服販売の御堂岡呉服店さんです。

2016-03-25 047 
花き栽培の盛んな鹿川ならではの、国道沿いのお花屋さん、島のお花畑さんです。
切り花のほかにも、鉢植えの花や樹木、季節の果物も販売されています。

2015-10-08 067 
旧道と交差する付近の国道脇に、たばこ屋さんが健在です。
ただ、手売りのお客様はめったに現れない様子で、ショーウインドーの向こうに人影はありません。

いまは自動販売機が看板娘?・・・(^_^;)です。

2015-03-20 218 
JA鹿川前の交差点、赤いお揃いのウエアーを着たサイクリングの一団が、沖美町方面からの県道36号線を走破し、青信号と同時に国道487号線になだれ込んできました。

ユニホームには、Fire Cycler Hiroshima 炎の自転車乗り 広島 ・・・(◎_◎;)と、です。

鹿川 旧鹿川街道・元鹿川産業組合会館・国道487号 1/2

鹿川国道・旧道・産業館 
鹿川地区を南北に縦断して国道487号線が走り、県道36号線は鹿川を起点に西の才越峠から沖美町へと繋ぎます。

国道487号線の元となる道は古来より中町と大原を繋ぐ幹線道路ですが、鹿川の南部海岸には切り立った崖が多く、近代になり大型土木機械が登場するまでは海岸線を大きく離れた山越えのルートでした。

そもそも人や牛馬が進むには半間(約1m)の道路幅が必要で、島内の多くの道はこの半間幅が基準となっていました。
往来が激しくなれば一間(約2m)の幅、大八車が交差するような大路は二間(約4m)の道幅があれば、それで十分である時代が長く続きました。

ところが世に自動車なるものが普及するにいたり、島内の道路も大正末期の頃から昭和初期にかけ、各村落間を乗合いバスが運行できる程度の道幅(二間、約4m)に、かつ傾斜を緩くして整備され初めました。

その後大きく改良されることはありませんでしたが、昭和48年(1973年)の早瀬大橋開通前後になり、やっとさらなる整備改良が進むこととなりました。
しかし、ルートの選定や土地面積が限られる島内にあっては用地買収が容易でないなどの理由で延々とし、今日になりやっと主要な道路が安全に走行できる状態にまで達することが叶いました。

2016-05-26 080 
二間幅で造られた旧鹿川街道です。
後に造られたバイパス(のち国道487号線)に平行して約4kmの区間が今も往時の面影を残して残っています。

4km近い区間が改良改幅工事もされず、そのままに残っているのは他所にはない珍しいことだと思います。

往時は切れ目なく並んでいたであろう商家も、残念なことに一軒、また一軒と少なくなりつつはありますが、まだまだ大きなエネルギーを秘めています。

オレンジ色のヤマザキパンの看板が見えますのは大川食料品店さん、向はお好み焼きのまえもとさん・・・(*^。^*)です。

2016-05-26 081 
緑のテントに船食・日用品・雑貨・食料品と書かれているのは川原商店さんです。

ちなみに船食とは船が航海中に必要とする食糧品や日用品をまとめ、出港前に届ける便利屋さん的事業をいいます。
タンカーとか大型船なら10tトラックで届けることもあります。

その向こうは船乗りさんが大好きな、芦原リカーショップさん、「瓶ビールな、軽トラに満載して急いで届けて~や。船のほうで冷やすから大至急やでぇ~」・・・(*^。^*)です。

2016-03-25 071 
土塀の上からニワウメのピンクの花がこぼれ出ています。

向いは川原理容院さんです。

2016-03-25 065 
大きくSUZUKIと書かれた看板は向田自転車商会さんです。
ミヤタ自転車の看板もあります。

2016-03-25 060 
小鹿川に架かる橋、まえはまはしです。

2016-05-26 086 
花き栽培の盛んな鹿川地区、道路脇には立派なガラス温室もあります。

2015-03-20 196 
能美運送株式会社さんです。
軽四輪車から大型車迄輸送の御用命は当社迄とあります。

2015-03-20 198 
店名は不明ですが大きな間口のお店です。
元は洋品店???かな・・・(*^。^*)です。

2015-03-20 201 (2) 
カーブミラーに写し出された鹿川旧街道です。
魔法のカガミならきっと通りを行き来する沢山の人々が見えるのに・・・。

2015-03-20 204 
もう、お店はたたまれたようですが、ショーウインドーには陶器で作られた干支の置物や、招き猫なんかも・・・。

んっ、・・・履物屋さん?だったのかも???。

2014-10-26 113 
Panasonicの鎌田電気店さんとお酒タバコの長平良商店さんです。

2015-11-10 136 
ここにもお家があったんでしょうね。

秋桜(コスモス)
うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている ♪ ・・・です。

2015-05-13 078 
魚屋さん?、仕出屋さん?もしかしたら、素敵なガラス窓の二階で宴席なども?・・・(*^。^*)です。

ゆっくり歩けば1時間、ひと昔、ふた昔、もっと昔の情景があれや、これや、想いだされます。

鹿川 鹿川漁港(東浜・大矢・後浜)

4)能美町・沖美町南部 鹿川漁港 
鹿川地区には南に向かって大きく口を開く鹿川湾があります。

湾奥の浅瀬は古くからの干拓事業により農地化されましたが、湾の両側(東と西)は切り立った崖が多く平地は僅かです。

2016-05-26 078 
鹿川湾東側に位置する東浜地区の崖下にあった砂浜を埋めて道路を通し(のち国道487号に昇格)その海側には超モダンな外観をした鹿川漁業協同組合の庁舎ビルディングが建ちます。

能美町誌によれば、幕末のころより盛んとなった煮干し(イリコ)作りにより、明治15年の東京全国水産博覧会で、鹿川村の鈴木雛右衛門氏が褒賞を受けたとあります。

のち、明治34年の漁業法交付にともない、明治35年10月9日に鹿川漁業組合が設立されます。
さらに、昭和26年に大矢地区と合併、あらたに鹿川漁業協同組合となって現在に至りますが、組合員数は200名を超え、広島県下でも第三位の規模を誇る大世帯でした。

当時5t未満10馬力以下の動力船を使用した延縄や一本釣り、地引網なども盛んでしたが次第にすたれ、昭和40年代には高性能化した漁船をもって愛媛県境でのエビ漁も行われました。

戦後から一貫して漁労の中心をなしていたのは、底曳網漁とイワシ網漁でしたが、現在底曳網漁は資源枯渇状態となって低迷、他にもクルマエビ、鯛、ウマヅラハゲ、ハマチなどの養殖、定置網漁も試みられましたが大きな成果は得られませんでした。

現時点で最も活気があるのは昭和30年代からの孟宗竹を利用した筏垂下式によるカキ養殖事業で、次にチリメン・イワシの巻き網漁(バッチ網漁)、小型底曳網漁(底生魚・ナマコ・エビ・トリ貝など)の他、蛸壺・イカ籠・アナゴ漁(はえ縄・筒)、刺し網漁、一本釣りが後に続きます。

2016-05-26 031 
鹿川漁業協同組合庁舎の裏にある旧堤防(昭和中期の頃の?)です。

近年、さらに沖へと大きく埋め立て、新東浜漁港が整備されましたので今は無用となったコンクリート堤防です。

2016-05-26 065 
東浜漁港に造られたスベリ(船を陸に引き上げ、船底修理や塗装などを行う施設)に新鋭の小型巻き網漁船が引き上げられていました。
船底はきれいに磨かれ、赤い防汚塗料が鈍く光ります。

点検修理も終わり、ペンキも乾いたようで、運良く船を進水させる場面に立ち会うことができました・・・(*^。^*)です。

2016-05-26 068 
陸上から張っていたワイヤーを徐々に緩め、船を乗せていた架台ごと海中へすべり落としていきます。

使用状況にもよりますが船を海上保管した場合、年に1,2回は船底点検、カキ殻やフジツボの除去と船底塗装のためにスベリに引き上げる作業が必要です。

不精な方はレジャー船といえどオーナーには、ならないほうが・・・(^_^;)です。

2016-05-26 059 
年季を重ねた小型底曳き網漁船です。
船首には不思議な模様が描かれていますが、そのいわれについて書かれたものがほとんどありません。
図柄は、唐草、波、目、竜、鳥などを図案化したもののように見えます。
装飾理由としては、魔除け、豊漁祈願、船主識別、飾り、船大工や造船所の識別などが思い浮かびますが確証はとれていません。

私的な想像ですが、多くの船には神棚がしつらえてあり、分霊された神様を祀りますので、その神様の乗る船は海に浮かぶ神殿である。とすれば、陸上で見る神社神殿と同じように飾り模様を取り付けても良いのでは、しかも海にまつわる図案で・・・(*^。^*)です。

2016-05-26 032 
桟橋にあげられている黒いパイプ状のものは、アナゴ漁に使うアナゴ筒とよばれるものです。
延縄状にロープに取り付けて海底に沈め、アナゴが筒の中に仕掛けた餌におびき寄せられるのを待ちます。

2015-05-13 053 
東浜港とは対岸に位置する大矢港です。
シラスや小イワシを狙う巻き網(パッチ網)船団が係留されています。

巻き網船団は通常4隻(巻き網船2隻・警戒船1隻・運搬船1隻)で編成されます。
小型の高速警戒船はその機動力をいかして魚群を探知し巻き網船に通報、巻き網展張中(漁労中)は他船が近づかないよう周囲の警戒も兼ねます。

高馬力の巻き網船は2隻で協力し巻き網を扇形に展張し、魚群を大きく巻き込んで網に誘いこみます。
魚群の入った網の入り口を徐々にすぼめ、長く伸びきった網を乗員総出で巻き上げます。
揚収したシラスや小イワシは輸送専用船に積み込み、鮮度を落とさないように陸上の加工場へと全速力で運びます。

2015-03-31 091 
大矢沖のカキ養殖筏です。
カキ筏の横に付けられている水上ハウス?は、養殖準備をする作業小屋です。

2015-05-13 030 
大矢港の近くに、ナマコの天日乾燥場があります。

干しナマコの製造法は古くより(古事記に記載)知られていましたが、江戸時代には俵物と称され干しアワビ、フカヒレと共に、対中国(清)貿易の重要産品とされていました。

近年の中国経済発展にともない、ふたたび干しナマコの価値は上昇しつつあるといわれます。

2015-12-13 014 
南中した太陽光を海面に反射し、キラキラとまぶしい後浜港です。
水深が浅いので、小型のレジャー船が多く繋がれています。

2015-12-13 009 
浅瀬の多くが周りをコンクリートで囲われ、陸地化されましたが、そんな中、鹿川湾内で唯一?残った砂浜があります。

多分もう使われることはないだろう小舟が一艘、寄せる波とひたすら戯れているだけ・・・です。

鹿川 大矢鼻・三菱油槽所

4)能美町・沖美町南部 大矢鼻 
鹿川地区の西側には江田島市最高峰である宇根山(542m)を頂点とする尾根が半島となって南へ伸び、その最先端部が大矢鼻と呼ばれます。

A.jpg 
大矢鼻の先端部分に行くのは容易ではありませんが、大潮の干潮時なら隣町、岡大王の側から歩いていくこともできます。

その先端に続く海岸には、画像のような白黒模様が珍しいダルメシアン石(角閃石含有の花崗岩アプライト)の露頭があり、さらに進むと永年の浸食に耐えた花崗斑岩の岩脈が風波に磨かれ、芸術作品となって残る様を手に触れて観察することができます。

B.jpg 
潮の引いた海岸を岩脈となって縦断する、ダルメシアン石(ダルメシアンジャスパーとも)の露頭です。
詳しくは江田島市能美町の石「花崗閃緑班岩(ダルメシアンジャスパー)」をご参照ください。


2012-12-07 002 012 
大矢鼻に続く半島の東側には沢山の円筒形タンクが並びます。

海軍鹿川貯油所 
この半島には、戦前海軍艦艇への燃料補給を目的とする、油槽所施設(1930年設置)がありました。
上は米軍航空機が撮影した昭和22年3月の大矢鼻付近の空撮画像です。

丸く見える一つ一つが燃料備蓄タンクです。
当時のタンク容量を記載した資料がありませんが、目測で直径24m高さを24mと仮定すれば内容量は約1万tとなります。

ちなみに、戦艦大和の燃料搭載量は6,300tで、全速に近い速力26.6kt(出力8/10)で1時間航走すると44.76tを消費するそうです。

単純計算だと燃料満タン、速力26.6ktで141時間、6,934kmを行くことができます。
東京、ハワイ間が6,550kmですので、この速力だと片道分の燃料にしかなりません。

ただし、巡行速力の16ktで航走すれば東京からロサンゼルスの間を余裕で往復できます。

一般に大和最後の作戦行動となった沖縄参戦には片道分の燃料で出撃したと云われますが、実際には徳山燃料廠の努力により簿外の燃料を捻出するなどして十分に往復できる4,000tの燃料を搭載していたそうです。
とはいえ、戦闘艦が燃料60パーセント量で出撃するなどは前代未聞のことです。

前大戦においては燃料不足による敗因が大きく知らされておりますが、他にも良質な潤滑油やオクタン価の高い航空燃料を作る技術がなかったことなども大きく影響したようです。

2015-05-13 049 
旧海軍油槽所の一部を払い受け1953年に設立された、三菱 鹿川ターミナル株式会社の正門付近です。
敷地内には総容量約76万キロリットルの原重油タンクを有しており、西日本の電力各社のほか、一般産業界に向け原重油の受け入れや貯蔵・払い出しの業務を行っています。


2015-05-13 046 
海軍油槽所のころよりも敷地面積では半減しましたが、タンク製造技術の進歩により貯油量は数倍にアップしております。

2012-12-07 002 024 
原油陸揚げ作業中のタンカーです。
「OMEGA LADY MIRIAM」2003年に韓国STX造船所で建造、総トン数41.787t、船籍はマーシャル諸島です。

2015-05-13 047 
原油の払い出しを受けている富士海運所属のタンカー「翠龍」999t、全長78・35m、幅12mで船籍は山陽小野田、乗組員は10人です。
1航海当たり2000kLの重油や原油を、当鹿川石油基地から九州電力や四国電力などの火力発電所に輸送します。

2012年6月20日、熊本県八代市の熊本ドックで進水しました。
(以上、宇部日報よりコピペ・・・m(__)mです。)
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