江田島って・・・どんなとこ?

総  合  検  索  ペ  ー  ジ

  
おもしろ話題と画像の「どんなとこ 掲示版」   

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江 田 島 の 景 色 (地図と概要

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三吉 古地図(芸藩通志)

s-三吉村古地図(全)AB 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。
コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。

正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

安堂島は「能美島志(1763年)」よりの引用で、現在は安渡島と記します。

三吉村古地図(北東)AB 
三吉村の北東部分を拡大したものです。

三吉村古地図(南西)AB 
三吉村の南西部分を拡大したものです。

s-三吉村原画 
芸藩通志記載「三吉村」の原画(コピペ)・・・m(__)mです。

三吉 いいとこ撮り 3/3

s-三高3Daa 
三吉発展の源は木ノ下川からの恵みを受け、営々何世代にも渡って農業に勤しんだことにあります。

農道脇に建つ石板に、後世への遺訓・・・m(__)mです。

母 フ ミ ヨ 遺 訓
祖先の名を汚さぬ様、努力すべし。
働く事を忘れるな。
世話になった恩を忘れるな。
有る金は貸しても、金銭の保証人になるな。
夫婦は親兄弟以上の愛情を持って暮すべし。

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田んぼを覆うレンゲソウ・・・(*^。^*)です。

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田植えが終わったばかりの棚田です。

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梅雨、一気に生長します。

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刈り取られた稲は秋の日射しを浴びます。

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美味しさが最大となる時期を見極めて、一気に脱穀します。

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木ノ下川の両岸には、急な山腹を削ってつくった石垣が天まで続きます。

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多少でも雨水の集まる谷筋は石垣を組んで田んぼにしました。

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田んぼとして使われなくなった後も、野菜をつくったり花を植えたり・・・。

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石垣の隙間にはシュウカイドウの花が似合ます。

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石垣とアジサイもお似合いです。

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石垣の上で、さらに上へと伸びるタチアオイの花です。

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路地脇の僅かな隙間にも咲きます。

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畑との境にも・・・。

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沖合を外国からの物資を満載した巨大船が横切ります。

美味しい三吉米を供給した自慢の棚田は、一段また一段と草に埋もれます。

三吉 いいとこ撮り 2/3

s-IMG_20140409_0021 (2) 
以下は「沖美町史(平成元年)」の要約となりますが、平地の少ない島しょ部にあり、さらには農地の確保が最重要な時代背景にあって、住居の選定はおのずと傾斜地を削って新たに造成した土地に限ることとなります。

最低条件として近くで飲み水が確保できる必要はありますが、屋敷の前面、側面は石垣を築き背後には薪を供給する山、あるいは段々畑を背負うことが普通でした。

近年の農業不振と車社会の到来により、平地へと建て替えられる家々が多くなり、かってのひな壇集落は急速に減少し、風通しの良さだけが最大の売りだったかっての住居は消滅、その真逆となる気密性に優れ高い省エネ効果?をもち車庫を備えた近代的住宅へと急速に変わっています。

上の画像は沖美町史より転写した母屋の間取り図です。

昭和初期のころの一般的家庭の母屋部分で、おくの間には床の間や仏壇をもうけ、客間としてのものであって、普段生活で家人が使用することはありません。

おもて
は家族の居間であり、機織機が置かれるなど仕事場を兼ねる場合もあります。

なかえ
(なんど)は寝室として使用され、寝具衣類を格納する押入れやタンスが置かれます。

台所は家族の食事場であり、土間であるにわの奥に煮炊きに使う、くど(かまど)や流し場、水を溜めるはんどう(水がめ)が置かれ井戸水が溜めてありました。

にわ
は来客の取つぎ場でもあり、だいがら臼(唐臼)を設置し精米作業が行われたり、夜間や雨天時の作業場ともなりました。

小便所は玄関脇の囲いの中に置かれ、大便所は屋敷の外に小屋をつくって離れた場所に置かれました。

母屋に付属して、しころ(漬物倉)・納屋・農機具置き場・牛馬家畜小屋・こなしや(堆肥)・焚きもの小屋・風呂・便所・門長屋・土蔵(くら)など、用途や敷地に合わせ様々に工夫されていました。

蛇足となりますが「39尺造り」とは田の字型に造られた4部屋のうちの、2部屋が6畳間、もう2部屋が4畳半間で、その4部屋を合わせた一辺が21尺と18尺となり、その2辺を足すと39尺となります。一尺は約30cmです。

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集落を見下ろす高台に大きな長屋門をもつお家がありました。

壁一面にツタが絡んでいますが、手入れされた庭木もあって時々はお掃除に来られる方がおられる様子です。

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失礼ながら長屋門をくぐらせて頂きますとその正面が母屋(客間?)となっており、客人用の玄関?となる部分が真正面にせり出して造られています。
始めて見る構造で仔細は分かりませんが、おそらくは当地の庄屋さんクラスの方のお住まいだったのでは???です。

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高く優美に組まれた石垣と、幅広の石段を設けた由緒ありそうなお家ですが・・・。

植木として植えられたモミジの大樹、屋根を覆いつくす勢いで成長を続けています。

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斜面を削り取り、石垣を積み、何代にも渡って増改築されたであろう、白壁のすてきなお家です。

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納屋の下を半地下(こなしや)とした、典型的なお百姓さん造りのお家です。

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古い集落は皆、木ノ下川の両岸にせり出す山の斜面を削ったひな壇につくられています。

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ここまで登らなくっても・・・って思うくらいの高所まで・・・。

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三高名産の赤煉瓦を積んだお家です。

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ここの煉瓦はこの家のお爺さんが積んだんだよ。って、教えて頂きました。

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三吉地区には白壁の建物を多く見ます。
むか~し(昭和30年代まで)、三高ダムの近くで石灰岩を採掘し、焼成工場が稼働していたと云いますので、そのせいかも・・・(*^。^*)です。

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土蔵の焼杉板に、「不二わた」「贈り物専門店ハリカ江能店」のブリキ看板が打ち付けてあります。

「不二わた」は「藤野綿業株式会社」が製造する布団綿の商標です。

藤野家は広島藩主浅野候が紀州和歌山から国替えとなった時に随伴、綿繰屋として創業し「富士屋」と称しました。
明治10年、新たに「藤野綿業」となって近代化をはかり英国製綿打ち機などの導入により一気に生産力を向上させました。

主力製品には、「不二わた」「天使綿」があり、本社工場(広島市東蟹屋町130番地)の他、広島県千代田、豊平、大分県、京都府、朝鮮半島、中国にも工場を持ち、昭和初期の頃は全国一の生産量を誇っていましたが、綿需要の変化などもあって昭和56年、廃業するに至りました。

ちなみに、「株式会社ハリカ」は東京都板橋区板橋に本社を置き、ハリカギフトチェーンの統括、カタログ販売とう、贈答用商品を扱う現役の会社です。
資本金9千万円、従業員180名(2016年)です。

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役所とか学校の先生を退役したお爺さんのお家?
大きな沓脱石が置かれ、気品のあるスマートな燈籠が建てられています。

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町屋造り?。
一般的な町屋造りは、居住空間や家人用の玄関は道路から見えない奥の方に置かれるのですが、商売用のアルミサッシ引き戸と同列に道路に沿って建てられており、とても贅沢な造りのお家です。

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明治のころ三吉村から中村の尋常高等小学校へと通う学童の通り道だった山道の先に大きな廃屋があります。

はるか遠くから大屋根が見えるのですが、山腹にポツント屋根だけしか見えないので、どの道を行ったら良いのか?わからずにいましたが、たまたま間違って?進んだその先に・・・

なんとその建物には看板が残っており「青少年研修??? 江能自然の森」と読めます。

「わしものぉ~、詳しいこたぁ~知らんがのぉ~、ずい分と昔に廃止され、職員は江田島青少年交流の家に移ったと聞いたがのぉ~???」って、たまたまお会いした方からの立ち聞き情報です。

三吉 いいとこ撮り 1/3

s-三高3D 
三吉、高祖地区の海岸を北側からみた、グーグルの3D地図です。

右側の三高山(砲台山)山系と左の宇根山(野登呂山)山系の真ん中を南から北へと深く削って流れ下る木ノ下川と、その流域に沿って発展した三吉地区の地勢が一見して伺えます。

木ノ下川が削り取った砂礫は急流を一気に流れ下り、河口部に僅かな扇状地を残すのみで大半は海中へと呑み込まれてしまったようです。

その風化花崗岩である砂礫の一部は白く長い砂の帯となって、三吉から高祖、美能へと繋がっておりましたが、台風や季節風を防ぐ目的でつくられた防波堤、水害からの被害を防ぐためにつくられた多くの砂防ダムや河川の護岸工事により新たな砂礫の移動や供給は止まりました。

永年、老松の枝下に続いた長い遠浅の砂浜は、もはやその姿を取り戻すことはありません。

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木ノ下川の河口右岸に僅かに残った砂浜です。

砂防ダムや河川整備が整い新たな砂礫の流入が止まったことにより、砂浜は次第にやせ細ってきましたが、それでも一日二回の干潮時には沖合数十メートル先までの砂浜が現れます。

ただ、その沖合にはカキの抑制棚が林立しますので、素足で水遊びをするのは止めた方が・・・。

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遠浅の海面を占有するのは、杭打垂下法とよばれるカキの養殖に使われる井桁の列です。

昭和30年代まではカキ養殖の主流として使用されていましたが、現在ではカキの発育調整など限られた使用がなされるため、時期によってはホタテの貝殻を連ねたカキの養殖連をまったく見ないこともあります。

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中央部の密度が高く黒く見える部分には出荷調整用のカキ養殖連が吊り下げてあります。

カキは梅雨が明けたころから、親カキが一斉に放卵、放精を始めます。
放卵放精のタイミングはいまだ人知の及ばないところですが、条件によってはその付近の海面が真っ白に変色し、一見して放卵放精を知ることができます。

受精した卵子は間もなくして幼生となり、付着物を見つけて着床しますので、そのタイミングでホタテ貝殻の連を海中に下げ、貝殻一枚あたり100個の幼生を着床させます。

一般にはこの幼生カキが着床した1mばかりのホタテの貝殻連を、杭打抑制棚に垂下して養生、抑制し耐性を強くした連を出荷時期に合わせて回収します。
この幼カキの着床したホタテ貝殻40枚を長さ9mの針金に等間隔で取り付けて一連とし、沖に係留した筏に600本の連を取り付けます。

ホタテ貝殻一枚あたり10個のカキが成熟しますので筏一台あたり、カキ10個×ホタテ貝殻40枚×連600本となり、成熟カキが240,000個が収穫できます。
殻付きカキを一個を100円で販売すれば、筏一台で2千400万円の収入となります・・・(*^。^*)です。

以上は理想論です。
今まで三高沖は幼生の発生が盛んで、カキの種付け(採苗)場として最良の海面であるとされてきましたが、近年その発生率が安定せず、カキ養殖の最大の要となる種付け作業に一喜一憂する状況であるといいます。

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杭打垂下棚(抑制棚とも)とその沖を行く自衛艦、他所ではまず見ることのできない不可思議画像?・・・(^_^;)です。

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ホタテ貝殻を連ねた採苗兼育成連です。
貝殻の表面に小さなカキが密生して成長しています。

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7月下旬の様子です。
採苗に成功した連を育成(抑制)棚に取り付ける作業です。

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この年はうまく採苗(種付け)ができた様子で、連を手渡す掛け声にも張りがあります。

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一月中旬の様子です。
抑制棚で一冬の間寒風に当て、耐性のある丈夫な幼貝に育てます。

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12月下旬のカキ殻一時海中集積場の様子です。
正月用に大量に剥かれたカキの殻は各漁協ごとに決められた海中集積場に投下され一時保管されます。

集積量が増えた時点でクレーン船により回収されてカキ殻処分工場へ引き取られます。
カキ殻は、農作物の肥料、土壌改良剤、ニワトリなど家畜の飼料、道路等の凍結防止剤、融雪剤、ラインマーカー、建材製品、漁礁としての再利用や、水質浄化用など利用法は多岐にわたっています。

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季節は6月、新しいカキ筏を準備したり、採苗用のホタテ連を準備したりと、筏の並ぶ海面では作業船が大忙しの様子です。

この三高港沖の航路は呉港にある海上自衛隊基地へと出入りする護衛艦や潜水艦などが、ごく日常的に行き交っています。
でも反行する二隻の潜水艦を一画面に捕らえられるのは、ラッキー・・・(*^。^*)です。

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三高漁港防波堤の先端にある赤灯台です。

沖の航路を西行するのは瀬戸内海汽船のベイクルーズ船「銀河」です。
穏やかな瀬戸の島々を眺めながら、ランチ、ディナー、パーティー、さらに船上結婚式なども執り行うことができます・・・(*^。^*)です。

三吉 関西美人酒造

s-関西美人 
木ノ下川に沿って高松峠へと向かう道を登っていきますと、徳正寺の手前に「関西美人酒造」の建物があります。

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清流木ノ下川沿いの関西美人酒造の醸造所兼酒蔵です。
大正時代初期に、住吉力松氏により創業された酒造所で、清酒「関西美人」が有名でしたが現在は休業中?の様子です。

沖美町には他にも、畑地区において明治2年創業と云われる「岡田酒造」の清酒「松の香」がありましたが、昭和後期に廃業、大王地区で丸本為二郎氏が醸造を始めた清酒「誠心」も、先の大戦中企業統合により廃業となっています。

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昭和後期に増設された、鉄筋コンクリート2階建ての醸造用の建物です。

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白い土壁造りの旧醸造所と三高煉瓦で組まれた四角い煙突が素敵です。

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製品の貯蔵倉?だろうと思いますが、ほぼ全面がツタの葉っぱで覆われてしまいました。

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残念ながら「関西美人」を飲む機会はありませんでしたが、三吉米で作られた清酒は切れ味の鋭い良いお酒だったんだろうと・・・(*^。^*)です。

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いらかの向こうの赤い煉瓦の煙突です。
白い煙が上がり、屋根瓦が水蒸気で濡れるのは・・・

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(*^。^*)・・・です。

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使用されなくなった醸造タンクは、お百姓さんに引き取られ貯水タンクとして再利用されます。

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斜面を削り石を組んで一段づつ積み上げた棚田に、山から染み出す清水を流し込んで作ったお米からは、きっと甘露のお酒が生まれます。

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ススキの穂先に降り注ぐ雨滴が、ぜんぶ清酒となるのなら・・・(*^。^*)です。

三吉 尾首城跡

s-無題 
昭和59年11月発行の「沖美町の文化財をたずねて」には、「尾首城跡」として、
三吉千城原に高さ30mぐらいの小高い丘があり、地元民は「オンテス(お天守の意味)」と呼んでいます。
頂上やその下の方にいくつかの平坦なところがあり、石垣はほとんど崩れていますが、城跡であることは間違いありません。
付近から五輪塔(侍の墓)が発掘されたこともあります。
尾首城は厳島神社の奉行職であった沖小栗が築いたものといわれており、奥尾城と記したり矢張城とも呼んでいます。

さらに「法蔵寺跡」として、
尾首城跡の南西約300m、山麓に古いしっかりした石垣で囲まれた平坦な畑があります。
広さは200㎡、展望の良い場所で、ここに法蔵寺があったと古老はいっています。
法蔵寺については、能美島志に「三吉にあり、今、小さな茅葺のお堂があって、観自在之像を安置す。」と記されます。

さらには「大護寺跡」が木ノ下川の対岸、大附集落の山中にあってその遺址のほとりに薬師瑠璃光佛を安置するとも記されています。

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画像中央、ミカン畑の上に乗る緑の小丘が「尾首城跡」です。

古くは、尾首城小丘の麓近くまで海が入り込んでおり、付近の中小路、千城原、古戸、大附が三吉の中心地となっていました。

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尾首城跡小丘の頂部です。
頂部は平坦であると云いますが、ミカン畑の上に建てられた墓所より上への道はありません。

1763年に記された郷土史「能美島志(宝暦13年)」には、「奥尾(おび)の城、三吉村にあり。土老いう、沖小栗某築く所なりと、平清盛厳島社を造営するの日、沖氏これが奉行職となると、未だその然否を知らず。」とあります。

また地元古老の間では今も天守と呼ばれていますので、頂部には象徴的な建物があったのでしょうが、この天守だけで城と呼ぶにはあまりにも貧弱です。

おそらくは、背後の法蔵寺や対岸大附の大護寺など各所に砦があり、それらを連携し指揮するための天守であったと思います。

ちなみに、当地が巻き込まれた大きな戦乱は、毛利元就と陶晴賢の合戦「厳島の戦い」の前後、巨大勢力のぶつかり合う谷間において、どちらの山を選ぶかの判断に迷った能美水軍でしたが、調略により陶軍に加担したことで、毛利軍の熾烈な攻撃を受けました。

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画像左上に広島湾と、かっては深い入江だった木ノ下川下流部の堆積平野がみえます。

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季節は早春、3月です。

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6月下旬、梅雨の恵み雨でカエルは跳び跳ね、田んぼの稲はこの時期に一気に生長します。

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千城原地区の家々が密集する一段上に飛び出した尾首城の小丘です。

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尾首城跡の小丘から見た南の方向、遠く山裾に点在する家々は大附の集落です。

s-尾首城跡 
三高山中腹から見下ろした尾首城跡の小丘 です。
手前の集落は千城原、川向こうは徳正寺のある中小路、右の方向に、古戸、大附地区がみえます。

厳島合戦で敗れた陶軍の落武者が木ノ下川に沿って登り、高松峠を越えた是長の地で追手にかかり力尽きたと伝わり、霊を弔うための石仏がその名も「大名切(おなぎり)」の地に残ります。
またこの付近からは、武将がお守りとして兜の中に入れる小さな金の仏像も発見されたと云います。
合掌・・・m(__)mです。

三吉 三高中学校

s-三高中学S37 
画像は昭和37年のもので、この当時「三高中学校」や「貴船神社」の前には砂浜が広がっていました。

小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学校4年となったのは、昭和22年の学校教育法と教育基本法が制定されたことによります。

戦前は尋常小学校の6ヶ年が義務教育(戦時中の国民学校は8年)で、さらに高等小学校で2年学ぶか、あるいは試験を受けて5年制中学校へ、さらに3年制大学校へと進学するのが一般的でした。
ちなみに島内に中学校はありませんので、広島市、あるいは都市部の知人、親戚宅などに下宿、居候、書生や養子となって面倒を見てもらうことになります。

昭和22年4月、「三高村立三高中学校」設立、発足当初は小学校に併設す。
昭和22年5月、美能旧軍倉庫(現沖美ふれあいセンター)を仮校舎とす。
昭和29年5月、現在地(柳之前)に新校舎が落成す。
昭和31年9月、「沖美町立三高中学校」と改称す。
昭和36年5月、体育館落成す。
昭和55年5月、鉄筋コンクリート4階建の新校舎落成す。
平成3年3月、新体育館落成す。
平成16年11月、「江田島市立三高中学校」と改称す。

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建設中の三高中学校体育館、落成は昭和36年5月です。
画像右に木造二階建て校舎の一部が見えます。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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三高中学校旧正門と4階建て校舎です。

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校庭の隅に植えられたソメイヨシノです。
開校時に植えられたとすれば、樹齢は64年以上となります・・・(*^。^*)です。

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ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれた中から選ばれた花数が多くて美しい品種です。
江戸染井村の植木屋が接ぎ木栽培で育成し売り出したことから「染井吉野」と名付けられ全国に普及しました。

ソメイヨシノは花を楽しむために密植され、また成長が早く枝が密生して日照不足となったり、耐病性も低いなど、人が手を掛けないと成長とともに急速に弱っていきます。
その時期は植えられて40年経ったころからで、弱り始めて何も手を掛けずにいれば衰退はいっそう進み、60年が経った頃が寿命だといわれます。

まるで人と同じような生涯を歩むようですが、ケアをしっかりすれば、もう20年くらいは・・・(^_^;)です。

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春の芽吹きの前後はとても情緒漂う柳の枝も校庭からはみ出しています。
柳之前の地名に由来して植えられたものかも? ・・・(*^。^*)です。

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三高中学校の沖側、かっては砂浜がひろがり、大波の飛沫が飛んだ校舎の北側には県道36号線がつくられ、さらにその沖も埋めて新三高漁港と変わりました。

校舎の建て替えに伴い、正門も此方側に移されました。

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新三高漁港を背後に、三高中学校の4階建て校舎が建ちます。

s-三高中学
三 高 中 学 校 校 章 作者 林英世(昭和24年10月)
背景の羽は,三高の「三」と3本の矢の教え(団結)を表し、生徒・保護者・教職員が協力して輝かしい三高中学校教育を創造していくことを表現しています。

三 高 中 学 校 校 歌 作詞 空久保阿津子 作曲 野田耕右
一、
瀬戸の潮風希望に帆上げ
天地自然のめぐみうけ
真理一筋求めつつ
明日に向かってわれら学ばん
二、
燃ゆる大空血潮をわかせ
幾年月がすぎるとも
永遠に平和を願いつつ
未来に向かってわれら築かん

s-三高中生徒数 
校 訓 「 自 律 」

学 校 経 営 理 念
ミッション
生徒に「知・徳・体」の基礎・基本の徹底を図り、保護者から信頼され、地域が 自慢する学校づくりをめざします。
ビジョン
(1) 教師が指導力の向上を図り、生徒に確かな学力を身につけます。
(2) 生徒の主体的な取組や体験活動の充実を図り、豊かな心を育みます。
(3) 基本的生活習慣の定着を図り、たくましい身体を育みます。
(4) 開かれた学校づくりに努め、保護者や地域から期待される学校をつくります。

学 校 教 育 目 標

確かな学力と豊かな人間性を身につけ、たくましく生きぬく生徒の育成
めざす生徒像
〇 基礎・基本の学力を身につけ、夢と志をもって主体的に学ぶ生徒に育てます。
〇 感謝の気持ちを大切にし、お互いが思いやりの心で接する生徒に育てます。
〇 身体をきたえ、目標に向けて粘り強くやりぬくたくましい生徒に育てます。
めざす教師像
〇 教育に強い情熱と高い倫理観をもち、感謝と感動を大切にする教職員をめざします。
〇 わかる授業を心がけ、個に応じて細やかに指導できる教職員をめざします。
〇 新たな取組に果敢に挑戦し、生徒、保護者、地域とともに歩む教職員をめざします。

以上は三高中学校HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

s-2016-04-02 072 
右沖の島は似島、その向こうに本土となる広島市は霞んでみえます。

三高中学校生徒数28名、三高小学校生徒数60名、三高保育園定員40名、広島宇品港までは12km、フェリーでの所要時間は40分、車で橋を渡る陸廻りだと2時間と少々、手漕ぎカヌーだと3時間少々・・・

どっちの水が甘いかなぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高小学校・三高保育園

s-三高小中保育園a 
「三高小学校」は三吉村と高祖村が合併する以前、明治5年の学制制定(太政官布告第二百十四号)に準じ、三吉村に「時習館(明治8年7月)」が高祖村に「勧善館(明治8年7月)」が開かれたことに始まります。

のち、三吉尋常小学校、高祖尋常小学校と改名され、修学年も3年制、4年制と拡充されますが、明治22年の三吉、高祖合併により三高村となるも学舎は分かれたままでした。

明治40年小学校令により義務教育が6ヶ年となるにいたり、明治42年、三吉尋常小学校と高祖尋常小学校が合併「三高尋常小学校(6年)」となり、さらに大正7年になり「高等科(2年)」が併設され「三高尋常高等小学校」となりました。

ちなみに、明治42年当時の尋常小学校では、修身・国語・算術・歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操・裁縫、の習得科目がありました。
また大正7年に高等科が併設される以前は、鍵ヤ谷から山道に入り高田村経由で中村の高等小学校へと通ったそうです。

その後は、昭和16年「三高村国民学校」、昭和22年「三高村立三高小学校」、昭和26年「美能分教場」併設、昭和29年「美能分教場」統合、昭和31年「沖美町立三高小学校」、平成16年「江田島市立三高小学校」となりました。

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斬新的デザインの外観をもつ三高小学校の表玄関です。
平成14年7月に建て替えが完了しました。

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平日でも休日でもよく子供たちの声が聞こえ、校庭を走り回る姿を見るのですが、平成29年の総児童数は60名、1年生はわずかに4名となっています。

ちなみに約30年前の平成2年度の総児童数は188名でした。

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三 高 小 学 校 学 校 教 育 目 標
人とつながり、ともに高め合う児童の育成

め ざ す 学 校 の 姿
〇 一人一人が大切にされ、一人一人が輝く学校
〇 一日一日が充実して楽しい学校
〇 安心・安全・信頼される学校

め ざ す 子 ど も の 姿
〇 元気なあいさつ・返事ができる子
〇 時間を大切にする子
〇 静かに掃除ができる子
〇 自分の考えをもち表現できる子

上記は三高小学校HPよりのコピペです。
読み書きそろばんができればの時代とはだいぶ様子が違うみたい・・・(^_^;)です。

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学校からは目と鼻の先に波静かな瀬戸内海が広がるのですが・・・。
プールが完成したのは、昭和60年です。

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三高港を背後にして建つ三高小学校校舎です。
この地、柳之前に小学校用地が指定され「三高尋常小学校」が開校したのは109年前の明治42年3月です。

三高小校章 
三 高 小 学 校 校 章 作者 椎木 寿(昭和42年11月頃)

三 高 小 学 校 校 歌 作詩作曲 角 清人(昭和39年5月)
一、
ほ う だ い 山 に い だ か れ し
平 和 の さ と に う ま れ い で
の び ゆ く わ れ ら
い ざ や い ざ
学 び の み ち に い そ し ま ん

二、
な が め た え な る せ と 海 に
高 き の ぞ み を た く し つ つ
つ ど え る わ れ ら
い ざ や い ざ
す こ や か に こ そ 育 た な ん

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画像手前の丸い窓がある建物が「三高保育園」です。

保育園の向こうにピンク色の三高小学校が見えますが、保育園も元は小学校と路地を挟んで隣り合っていました。

さらにその先の鉄筋コンクリート造りの建物が三高中学校となります。

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「三高保育園」は、アユの遡上も見られるという清流木ノ下川のすぐ傍に建ちます。

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廻りを田んぼや菊畑に囲まれた中、大地に根を張るように力強く建つ三高保育園の屋舎です。

s-江田島市保育園 
江田島市には、認定こども園が3園と保育園が3園あります。
(「認定こども園えたじま」は現在建設中、今年3月の開園予定です。)

三吉 三高の菊発祥之碑

s-菊発祥之碑A 
山を削り深い谷底を一気に流れ下る木ノ下川は農業用水としては利用しづらいのですが、その豊富な水量は三高地区に大きな恵みをもたらしました。

ただ、その恵みを得るために必要な水路づくりや、井戸を掘るのも、さらにはそのメンテナンスや分配にいたるまで、すべてが人々の協働と協力により成り立っていました。

傾斜地に棚田をつくり、しかも個人ではごく狭い耕作地しかもたない、古来よりの米作りにおいて、地域住民の団結力は絶対的なものです。
三吉にはその団結力と協働協力、生真面目で粘り強い風土が今も息づいており、他地区ではほぼ壊滅した稲作が今も広く行われています。
(もっとも、それが嫌で農業を諦める場合もあるのですが・・・(^_^;)です。)

今も稲作が盛んな三吉地区ですが、それにも増して盛んとなっているのが花卉類、とくに菊の栽培です。
減反政策による代替え作物として拡大し増産されたのですが、バルブ崩壊後の経済低迷の影響を受け、しだいに縮小傾向にありました。

が、近年の緩やかな経済成長や団塊世代の帰郷就農などもあってか、少しづつですが増産傾向にあります。

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徳正寺から少し上流へと登った古戸地区に「三高の菊発祥之碑」が建てられています。

側面に、栽培面積12ヘクタール・生産本数3百万本・組合員数52名
昭和61年10月 三高花組合建 と、あります。

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6月上旬、露地栽培で生育中の菊です。

黄色い花が見える畝は親となる菊で、そこから芽生えた若芽を4月ごろに切り取り、挿し木にされます。
その挿し木から育てた苗が、向こう側に見える雑草防除用の白いビーニール覆いに開けられた小穴に整然と植えられています。

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6月下旬、ガンガンと急成長しています。

菊は肥料食いで成長も早いのですが、沢山の有機肥料をすき込んだ、水はけの良い土地でないと商品価値のある菊は出来ません。

ちなみに栽培菊は中国唐時代に盛んとなったものが移入された?あるいは日本古来の野生菊からの派生?あるいは両種の混血?などあり、定説とはなっていません。

日本で和歌に詠まれ始めたのは平安時代となってからで、さらに鎌倉初期、後鳥羽上皇(1180~1239)が「菊紋」を皇室の家紋としたことで、春の桜に対する、日本の秋を象徴する花へと昇格しました。

またヨロッパやアメリカで品種改良された洋菊のルーツは、幕末の頃に持ち出された日本の栽培菊であるとされます。
(以上はウイキペディアの要約・・・m(__)mです。)

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品種選択や栽培時期をずらすことにより、周年にわたり生花が出荷できるよう調整されています。

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植えられて間もない温室栽培の菊です。

露地栽培に比べ、より生育管理がしやすく出荷時期の調整も可能ですが、加温や電照など生産コストも高くつきます。

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出荷用に切り取られ、傷みにくいように束にされた温室栽培の菊です。

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軽トラ、いや普通トラックの荷台に山と積まれた菊の巨大花束です。

かっては番船で運ばれましたが、平成に入ったころより、左に見える沖美運送の大型トラックに積み替えられ、陸路花卉市場へと運び込まれます。

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三吉に菊の栽培畑は沢山あるのですが、畑一面に菊の花が咲き乱れることは、まずありません。

開いてしまった菊の花では商品価値がなくなってしまうからです。
たまたま見ることができるのは、切り取ったあとの株から芽生えたわき芽から咲いた花、それも来年の挿し木苗を取るために、親株として残したからです。

普通は蕾で切り取られ、残った根っこは病害虫予防を目的にすぐさま引っこ抜かれて焼却されます。

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」・・・(*^。^*)です。
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