美能 美能外海漁港

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美能集落の南にあるのが「美能外海漁港」です。

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砲台山林道の中腹から見た美能集落と外海漁港です。

外海漁港は冬の北風には強いのですが、台風による南からの風波はまとも影響します。

今に見る防波堤が完成したのは平成14、5年の頃ですが、その直後の平成16年(2004年)9月に発生した台風18号の記録的な破壊力により防波堤先端付近の巨大なコンクリートブロックが根こそぎ倒壊、あらためて台風の恐ろしさを思い知らされることとなりました。
(翌年修復され、より堅牢な防波堤とされました。)

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美能漁業協同組合です。

玄関脇に、代理業務のご案内として、沖美町収納代理金融機関・中国電力電気料金収納事務取扱店・日本電信電話公社収入金収納事務取扱店・日本放送協会送受信料収納事務取扱店・水道料金収納事務取扱店と書き出されています。

美能農業共同組合や簡易郵便局が業務休止となった今、頼れるのは美能漁業協同組合のみとなっています・・・(*^。^*)です。

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港の背後には小径を挟んで、美能漁業協同組合と美能農業協同組合(現在休業中?)の建物が並びます。

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元は長大な砂浜だったところですが、外海漁港を作るにあたり大きく埋め立てて荷揚げ場兼作業場ともなる大広場をつくり、その一角に漁協(JF)の燃料給油ステーション(兼ガソリンスタンド)も作られました。

さすがにJFの給油ステーションです。
船に給油するために岸壁まで燃料パイプを延長し、船から見える位置に燃料給油量の電光表示盤が取り付けてあります。

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さらには給油ホースが浮き桟橋まで延長されており、カード式決済が可能なセルフ給油ができるようになっています。

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昭和57年7月15日まで運行されていた高速連絡艇、「沖・是長・美能・三高・大須・似島・宇品」航路の美能桟橋待合所です。

内部はまだ綺麗で待合所として使えなくもないのですが、今現在は回収した新聞紙などリサイクル品の一時保管庫となっていました。

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在りし日の、沖・宇品航路(畑港沖)を疾走する高速連絡艇「千鳥」です。

「第一千鳥」の要目です。
進水 昭和47年3月
トン数 27.03T
馬力 282PS
定員 34人
船体 鋼製・軽合金
船価 2,120万円
建造 三保造船所
昭和55年1月に日商岩井(株)に売却・・・です。

そもそも明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が鋼鉄製62トンの蒸気船「海勝丸」を運行したのが当地近代定期航路の始まりであるとされますが、以後昭和57年の沖・宇品航路廃止までにはいつの時代にも様々な問題が多発、地域住民の誰にとっても有効となる交通の便を計るのは今も昔も一筋縄ではいかぬようです。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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港の最奥に、電機モータ巻き上げ式のスベリが設置してあります。
漁船の船底掃除(カキ落とし)や船底用塗料の塗り替え、推進装置や舵の点検に使用されます。

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港内の様子です。

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牡蠣筏も余裕で係留できる大きな港です。

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荷揚げ岸壁のほぼ中央部に魚魂碑が建てられています。

衆議院議員 灘尾弘吉 書

大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり。
我等はこの生命の上に生活を築き、今日の繁栄をみる。
願はくば魚介の霊よ安らかに。
ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す。
昭和五十六年三月吉日
美能漁業協同組合
組合長理事 三浦裕直

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昭和50年1月の美能外海漁港です。

連絡船着岸岸壁となる、スベリ傾斜のある防波堤がみえます。
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美能 美能内海漁港

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国土地理院よりコピペした昭和37年7月の美能地区中心部です。

画面上部が美能内海漁港で、下部が美能外海漁港となります。
港湾施設はとても貧弱で、小舟の多くは当時もまだ砂浜に引き上げていました。

内海には江戸時代に塩田の防波堤補強用に植えられた松並木が続いており、白砂青松、まさに童謡に歌う歌詞そのまんまです。

♪ 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ ♪
♪ 干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ・・・(*^。^*)です。

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胡子神社の脇に「波止修築之碑」が建ちます。
裏面は読み取り不能で修築時期は不明ですが、おそらくは昭和42、3年頃だろうと思います。

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その時に増設された防波堤兼荷揚げ用岸壁です。
正確に切りそろえた花崗岩が隙間なく積み上げられています。

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近年の漁港は浮き桟橋全盛、多くの船が便利な浮き桟橋に付けられていますが、丈夫な浮力材が無い時代、小舟は砂浜に引き上げられ、大型船は沖合いでブイ係留または錨を落として停泊しました。

積み荷の搭載や陸揚げの時だけ岸壁に付けるのですが、潮の干満差が4mもある当地では斜めに勾配をつけた波止、あるいは雁木(がんぎ)と呼ばれる階段状の岸壁が利用されました。

この港が改築された昭和40年代は、まだ雁木が普通に使われていたのでしょう。

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画像は昭和50年1月です。

美能松原はまだ青々として元気いっぱいに枝を張り出しています。

それまではてんでに作業場を設けていた牡蠣生産者さんを集めた、カキ打作業団地も完成しています。

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現在の美能松原です。

百数十本はあったといわれる松並木は皆無となり、代わりとなる木々が植栽されています。
陶板にプリントした「美能松原公園」の文字が、かっての情景を漂わすのみです。

碧い海に白い砂浜、その浜に添うように緑の松原が続く、総数百数十本もの大きな松の木のある景色は実に素晴らしく島の人々は勿論、沖を通る船の人達にもよく知られていた。
江戸時代の中頃、河野氏が移り住んで塩田を開拓し、潮止めの堤を築き堤の強化を計って松の木を植えたのが、この松原の松であった。
その松は百四、五十年も過ぎて巨木となり、堤を守ると同時に防風林として、住民の家屋を守りまた、夏は涼風を呼ぶ憩いの場として人々に愛され親しまれて来た。
特に、戦前海水浴場として賑わい栄えたこの浜は、戦後時の移り変わりと共に、大きな漁港となり、松は酸性雨と平成三年の台風十九号による風と塩の害を受け更に松食い虫で残念ながら終に一本も残らず姿を消し、唯松原の名のみ残ることになった。
これを惜しみ昔日を偲んで、この所に若木を植えて公園を造り、松原公園と名付けて後世に伝えんとするものである。

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陶板にプリントされた、県道36号線に沿う松並木です。
撮影は昭和60年頃?で、海岸の側から南の集落方向を写したものです。

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砲台山林道中腹から見た現在の美能内海漁港です。

画像中央部の、もと陸軍兵舎?があった跡地は戦後GHQに、さらに三高小学校美能分教場(昭和26年5月から29年3月?)として利用されましたが、その後は町民グラウンドに、そして今は沖美ふれあいセンター(町民の福祉の増進と、健康で文化的な魅力ある町づくりをめざし、集う・学ぶ・健やかの3部門を中心に建設したもので、地域福祉の拠点、並びに芸術・文化・交流の場として親しみやすい機能的内容の充実した施設です。)となっています。

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昭和40年代に改修された雁木の前に舫われた漁船、手前の船は、刺網(建網)漁やタコ壺漁、アナゴ漁仕様の漁船、右手の方には小型底引き漁船が泊めてあります。

沖美町史によれば、当地は古くからナマコ漁が盛んにおこなわれており、江戸期に紀州漁師の指導によりイワシ漁(鰯網)が始まり、他に一本釣り漁・しばり網漁・うたせ網漁・たこ壺漁・貝堀り・カキ養殖・真珠養殖など魚種に合わせた多彩な漁法が発展しました。

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牡蠣(カキ)の生産高で全国一位、二位を競う江田島市にあっても、沖美町の美能魚協と三高漁協の牡蠣生産量は群を抜いています。

先年、堅牢長大な防波堤を持つ近代漁港に大改築された、美能内海漁港の港内には何台もの牡蠣養殖筏が係留されており、新規の養殖準備作業が着々と進められています。

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牡蠣打ち作業場とその前に泊まる、揚収牡蠣の運搬船(カキ船)です。

この壮大な景観はもはや漁業のレベルを脱しており、牡蠣生産工場といった雰囲気・・・(*^。^*)です。

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浜には牡蠣筏の材料となる、孟宗竹と間伐杉の丸太が準備されています。

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戦前に造られたであろう波止の突端に小さな漁師小屋が立っています。

二畳ばかりの小さな小屋の中にドラム缶で作った竈(かまど)が置かれています。
その焚口の奥で、くべられた薪が燃え尽きる寸前、最後の炎がポッと小さく上がりました。

季節は3月、早朝の漁から帰った漁師さんがしばし暖をとり、世間話を終わって家に帰ったのでしょう。

今さっき、押し車に寄りかかるようにして通り過ぎていったお婆さん、薪が最後まで燃え尽きるのを見届ける火の番を引き受けていたんでしょうね。

この日、春の日差しが快い一日でした。

美能 大奈佐美島・絵の島・櫓石・中の瀬

大奈佐美島・海図(S5) 
画像は知人の船長さんから頂いた昭和5年の海図です。

現在「大奈佐美島(オオナサビシマ)」と呼ばれる島は当時「大那沙美島(オオナサミシマ)」と、「絵の島」は「小那沙美島(コナサミシマ)」と記されています。
さらに現在の岸根鼻(ガンネハナ)は神禰鼻(カリハナ)と記され、櫓石(ヤグライシ)は昔、冠石(カフムリイシ)と呼ばれていました。

地名って、こうも簡単に変えても良いものなのか心配になってきます。
昔からの地名である、流れ田や崩れ谷を削って均し、希望が丘とか桜ヶ丘と名付けて団地造成などされたのでは、先人の苦い経験をせめても地名でもって語り継いだ努力が、たかだか五十年に一度の大雨で濁流となって押し流されてしまいます。

印象の悪い地名ほど、後世に正しく広く延々知らしめるべきだと思うのですが・・・(^^;)です。

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砲台山から見た櫓石、中ノ瀬灯標(虫眼鏡がないと・・・)、大奈佐美島、絵の島です。

手前は美能内海漁港、左奥が宮島です。

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登山道中腹から見た、手前グリーンの灯標が立つ岩礁が「中の瀬」、画面からはみ出して左右に広がる島が「大奈佐美島」、僅かな海面を挟んでその先の小島が「絵の島」です。

絵の島の山頂34.9mに白い灯台が見えます。

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昭和22年3月の「大奈佐美島」航空写真です。(上下方向が南北ではありません)

左上に人工物(小さな点が5つ?)が見えますが、これは明治33年(1900年)に完成した大奈佐美島砲台の一部分です。

現在でも構造物の多くが残っていますが(ネット情報)現地探索はかなりしんどいみたい・・・(^^;)です。

ほぼ同じような構造物である三高山堡塁が砲台山に整備された状態で残っていますので、そちらのご見学をお勧めします。

ちなみに砲台としては大正15年にその役目を終えましたが、その後も一部は軍用地として残り、先の大戦終結後には、武装解除で集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。

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大奈佐美島の所有権者など詳しくは不明ですが、昭和45年頃より、広島宇品近辺の埋め立て用土石の採取場となり、まさに蚕食鯨呑の在り様です。

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宇品港、呉港からの大型艦船が唯一航行可能な、美能岸根鼻と大奈佐美島(中の瀬)との間、奈佐美瀬戸の有効航路幅は500m以下です。

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「呉軍港第三区洋上防衛ライン(現広島湾北部地域)」を突破、猪(鯨)突猛進中の潜水艦・・・(^^;)です。

ちなみに対岸である宮島町腰細浦には、花崗岩製で24㎝角、埋込み部分を含めた全長230㎝の軍港第三区境石があるそうです。

探せば鶴原の豪頭鼻付近にも同じ標柱が残っているかも???です。

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大奈佐美島の海岸に明らかに人工物と思われる洞窟が暗い口を瀬戸に向けています。
おそらくは先の大戦終盤、敵艦艇の湾内進入を阻止する特攻兵器を隠していたのでしょう。
同じような洞窟は絵の島にもあります。

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画像は大奈佐美島島の北に浮かぶ「絵の島」、もとの「小那沙美島」です。

大正末期のころよりリゾート地開発が始まりましたが、宇品港や呉軍港に近い要衝の地であったことから軍部による干渉が付きまといました。
戦後はGHQの保養地に指定されていましたが、昭和28年に瀬戸内海汽船(株)が島を買い取り、海水浴場として利用されました。
ちなみに、島名を「絵の島」としたのは昭和36年、最盛期には年間8万人以上が訪れましたが、平成2年に閉鎖されたといいます。

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画像は「沖美町史(平成元年3月31日発行)」よりのコピペ画像です。

愛知県犬山市にある「明治村」に展示のこの灯台は、小那沙美島(絵の島)にあったもので、明治37年から昭和39年までの60年に渡り付近を航行する船舶の安全を見守っていました。

以下は明治村の展示物説明文からのコピペ・・・m(__)mです。
この燈台が造られたのは、日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されました。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっています。
4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmでした。

ちなみに、現在ある灯台は「安芸絵ノ島灯台」と呼ばれます。
色は白色 でコンクリート造り、灯は単閃白光で毎4秒に1閃光、光度は560カンデラ、光達距離、約14.85km 、高さは平均水面上から灯火までが49m 、地上から構造物の頂部までが13.98mだそうです。

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画像は岸根海水浴場の西、渚から百数十mばかりの沖合にドッカと腰を据えた「櫓石(ヤグライシ)」、古くは「冠石(カフムリイシ)」とも呼ばれた花崗岩岩塊です。

夏場には岸根海水浴場を訪れたお客さんが何人か岩上で日光浴を楽しむ姿も見られますが、付近は奈佐美瀬戸の潮流が複雑に混ざり合いますので水泳上級者専用、たどり着けた人にだけの冠石・・・(*^。^*)です。

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櫓石の向こうは、大竹、岩国のコンビナート、右に宮島、沖を行くのはヘリコプター搭載護衛艦「いせ」です。

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奈佐美瀬戸の最狭部をさらに狭くする「中の瀬」の岩礁に立つ「中ノ瀬灯標」です。

この「中ノ瀬灯標」の初点灯は、明治36年4月1日ですので、「安芸絵ノ島灯台(明治37年3月1日)」よりも一年早く完成、灯標の本体はコンクリート造りで明治36年に造られたままの姿で現在も使用されています。

灯塔の海抜は約2.5メートル、頂部まで約15.0メートルです。
基礎の外径が5.3メートル、灯塔基部外径は約4.8メートルです。
建設当初は石油燈でしたが、大正9年にガス使用に変更、昭和43年に電気、昭和61年からは太陽光発電となりました。
昭和61年8月に、塗色が黒色から緑色に変更され、灯はモールス符号D緑毎8秒、光度120カンデラ、光到達距離は約10Kmです。

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釣り好き船長さんが写した画像を拝借・・・m(__)mです。
灯標上部を改造して、ソーラーパネルが取り付けてあります。

記録に残る最も古い灯台は紀元前7世紀ナイル川河口、寺院の塔上で火を焚いたとされます。
紀元前279年にエジプトのアレキサンドリアに建てられたファロス灯台(アレクサンドリアの大灯台)は高さが134mもあり、灯火は56km先まで届いたとされますが、796年の地震で半壊、その後の地震や要塞の建設により消滅したと云われます。

日本での記録は承和6年(839年)で、九州地方の岬や島端に狼煙(のろし)や篝火(かがり火)を焚き遣唐使船の帰路を誘導したとされます。
江戸時代以前にも主要な港には石造りの台をもうけ、その上に小屋を建て中で火を焚く、「かがり屋」がありましたが、慶長13年(1608年)日野長兵衛が能登の福浦港に建てた石造りの「灯明台」は、日本初の光源に油を使った灯台であったと云われます。

さらには代々灯明役であった日野家、日野吉三郎が明治9年(1876年)高さ5mの三層西洋式木造灯台を建造、日本最古の西洋式木造灯台として石川県指定史跡となっています。
これら地域の有力者が建てたとされる「灯明台」や「常夜灯」は明治初年、全国に百基以上があったとされます。

ちなみに、現在に見る西洋式灯台の最初は、神奈川県の観音崎灯台で明治2年1月1日に点灯、当初の光源は石油ランプでした。

灯台用の光源としては、薪を燃すかがり火や松明、油やローソク、石油灯(落花生油・パラフィン油・鯨油・石油)、ガス灯、アーク灯、タングステン電球(窒素・アルゴン)・水銀灯・ハロゲン電球、メタルハライドランプ、LEDなど時代や地域、灯台ごとにありとあらゆる光源が使用されてきましたが、近年になり太陽光発電(ソーラーパネル)によりバッテリーを充電しLEDを点灯させる方式がもっともポピュラーとなっています。

美能 美能説教場・鶴原亀原地蔵

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美能地区内にお寺はありませんが、地区中央部の一等地に「美能説教場」が建立されています。

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車寄せ風に張り出した玄関は間口も広く、説教場としては立派な造りとなっています。

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導師様は何処から来られるのか?、予定表とかは張ってなかったのですが、もっとも近いお寺なら高祖の光照寺、あるいは三吉の徳正寺からでしょうか???

この日とくに説教日とかではないようですが、玄関まわりは綺麗に掃き清めてありました。

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鐘楼は災害時の警報も兼ねて?鉄骨で組まれた高い櫓の上に取り付けてあります。

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この高い位置に付けられた鐘を叩くには普通なら、梯子をのぼって・・・ってことになりますが、実はこの鐘、梯子をのぼらなくても叩けるよう、驚きの工夫が施されています。

鐘を叩くハンマーに長い柄が付けられており、その真ん中辺に支点があってシーソーのように下の方を引っ張ると、ハンマーは反対方向に揺れて、ガァ~~~ン、ガァ~~~ンと・・・(*^。^*)です。

鶴原(明神) 
美能集落から高祖へと向かう県道36号線に亀原と書かれたバス停標識がありました。
江戸時代の古地図にはこの付近に祠があり明神と記されています。

もしや、その名残があるやもと付近を見まわしますと、道路のり面の上に祠があり、小さなお地蔵様が安置されていました。

江田島市内に亀と名の付く地名はいくつかありますが、そのどれもが神社神域や城など要衝地に付けられています。

美能の亀原について、沖美町史や能美島志に記載はありませんが、芸藩通志のみ絵図面に明神と書かれています。

さらに、偶々のこととは思えない位置、西に300mばかり離れて鶴をイメージする鶴原なる山があります。

鶴原と亀原、なんとも目出度い地名が・・・(*^。^*)です。

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亀原バス停から数十mの位置に安置された、愛らしい雰囲気が漂うお地蔵様です。

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鶴原砲台山の麓、固い岩盤に掘り込まれた防空壕の前には座像のお地蔵様が安置されています。

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付近には他にも数本の防空壕が掘られており、ここ鶴原に安置のお地蔵様が昔からあるものなのか、あるいは先の大戦下、防空壕の建設や空襲により難をおわれた方々を弔うものなのかは不明です。

いずれにいたしましても、鶴原のお地蔵様に深く一礼、そして亀原に向かいましてさらに深く一礼・・・m(__)mです。

美能 美能胡子神社

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西能美の北西端、美能内海漁港には花崗岩の立派な玉垣をめぐらして「美能胡子神社」が建ちます。

現在は此の地を沖美町大字美能と称しますが、古くは高祖村箕尾浦(みのおうら)とも美濃ともよばれ、高祖村の一部でした。
昭和31年の沖美町成立に合わせ大字美能としました。

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美能内海漁港の奥、元塩田防波堤の上に建立されたピカピカの胡子神社です。

美能地区の主要部は、島だった鶴原山(107.2m)の付け根部分を埋めた砂州を干拓したもので、その干拓地の南北両側に港をもちます。

胡子神社のあるのは美能内海漁港で、魚魂碑のある南(是長)側が美能外海漁港です。

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この付近よりも陸(南)側には、江戸時代中期に竹原より移り住んだ河野家(播磨屋)が、広い塩田を開き製塩業を営んでいました。
品質的には良くなかったようで(背後の山林が貧弱で、塩釜で煮詰めるための燃料不足から?)、能美島志(1763年)では「高貴の人の食に堪えない」と酷評されました。

その塩田の防波堤を補強するため百数十本の松が植えられ、その白砂青松を「美能松原」と称賛されるとともに集落を風波から守っていましたが、松枯れや平成3年の19号台風の被害を受け、ついには全滅となりました。

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神社を訪れたのは春3月でしたが、正月用に張られたしめ縄がほぼそのままに残っていました。

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社殿脇に建てられた、建立寄附者の芳名を記した銅板が陽光にまぶしく輝きます。

美 能 胡 子 神 社 建 立 寄 附 者 御 芳 名
平成17年9月吉日建立
建築施工 谷本建築

芳名者五十音順
金 参 拾 萬 円
寺本昭登
金 弐 拾 萬 円
垣内厳・久保河内克彦
金 壱 拾 萬 円
大越睦行・垣内隆二・久保河内鎭孝・久保河内進・河野憲三・坂田幸信・重松建設(株)・ダイユウ技研土木(株)・三高運送(有)・三高鉄工(有)・山勝建設(株)
(株)ユービィーケイ
金 五 萬 円
大越善美・久保河内慶・久栄建設(株)・河野祥和・(株)大新土木・寺本龍二・三戸充
金 参 萬 円
垣内仲仁・河野春登・山本勇二
金 弐 萬 円
後河内千秋・後河内友喜・大越敏弘・大越則秋・大越秀成・大越英樹・大越道政・垣内宏・勝田啓敏・勝田覚・勝田弘・勝田正弘・川崎照秋・久保河内力・河野孝明・河野成明・河野道孝・谷本貞夫・東和科学(株)・増田喜代信・松岡修・丸本久清・三浦美行・三戸直樹
金 壱 萬 円
市谷シズコ・石田勝活・後河内信枝・後河内浩・後河内学・後河内義明・上向吉臣・沖本誠・大内一二三・大越勇・大越泉男・大越勝博・大越数幸・大越サカヱ・大越真也・大越艶子・大越積・大越敏春・大越信夫・大越秀道・大越保則・大越博喜・大越正樹・小川電機(株)・垣内哲夫・垣内英子・勝田哉也・勝田浩一・勝田誠・勝田康彦・川崎一義・川崎真司・川崎誠司・川崎博美・川崎法人・川崎佳彦・久保河内香・久保河内勝見・久保河内清人・久保河内武・久保河内忠・久保河内忠一・久保河内博美・久保河内忠正信・久保河内満弥・久保河内六十・久保河内ヤエ子・久保田進・河野考也・河野武浩・河野秀明・河野善行・河野幸雄・坂田浩二・武田民子・田中啓伯・谷アサノ・谷本爽一・谷本信明・寺本繁樹・寺本紀昭・東昭三・東雅信・畠山尚・原庸介・広永博美・広永弘・広永光正・三浦篤務・三浦一幸・三浦繁之・三浦威・三浦達彦・三浦広和・三浦悟文・三浦政寛・三浦政秋・三浦正信・三浦正也・三浦義秋・三浦ミエ子・三戸美俊・松岡則文・水口順子・山路昇・山本光雄・山本俊幸・脇西薫・和田道則

誤字脱字などありましたら・・・m(__)mです。

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社殿正面に立たせていただき、二拝二拍手一拝 ・・・m(__)mです。

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標柱の裏面には「美能漁業協同組合」「新生活運動推進協議会委員」「平成十七年九月吉日」と彫られています。

ちなみに、江田島市内の神社では一般的に見る鳥居ではなく、石柱二本だけが建つ標柱が多く用いられています。

一説には、鳥居形式への発展前段階であるともいわれますが、広島県神社庁の説明では・・・
以下はコピペ文・・・m(__)mです。

標 柱 (しめばしら) 
皆さんが神社を訪れたときその入り口に 、むずかしそうな文字が刻まれている、一対の石柱を目にされると思います。
しかし、一般にはその 読みや意味がなかなか理解しにくく、あることは知っているものの、余り読む事を意識されてないのが実情であろうと思われます。

この石柱は 「標柱(しめばしら)」 といい、そこに彫られた語句は 「宣揚文(せんようぶん)」 といいます。
この「標柱」というものの建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。

「宣揚文」 を刻む目的は五穀豊穣祈願、国家繁栄祈願、凱旋記念、神社の改装記念、中には個人的な記念などもあるようです。

江田島市内においては単に神社名が彫られることが多いのですが、唯一、能美八幡神社と深江荒神社には石鳥居に加え、その前面に宣揚文を深く刻んだ大きな標柱が建ちます。

「深江 荒神社」の宣揚文には「刀兵不能害」「水火不焚漂」とあります・・・(*^。^*)です。

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玉垣の外から胡子神社の右側面です。

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砲台山登山道中腹から見た美能内海漁港、画像右上の島は大奈佐美島、左上に宮島弥山が見えます。

是長 古地図(芸藩通志)

是長芸藩A 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

是長芸藩A南西 
地図の東南部分を拡大したものです。

是長芸藩A北西 
地図の北西部分を拡大したものです。

小黒神島の山名は残念ながら読み取りできませんが、「留 小???山」あるいは、山頂に小さな祠があって、「チ????山」???。
やっぱ、「留(留山) 小クロカミ山」でしょうね? ・・・(*^。^*)です。

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「芸藩通志」コピペの元画像です。

是長 いいとこ撮り 2/2

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是長地区からはどこからでも素敵な海を見ることができます。
往還道からみた是長集落と海の向こうは、小黒神島、さらに宮島の方向です。

ちなみに、是長地区から見える海域のほぼすべては広島湾南部海域と呼ぶのが正しく、北は美能岸根鼻までで、南は倉橋島大向鼻から来島海峡、周防大島(屋代島)までとイメージ以上に広大な海域です。

できればもう少しコジャレタ名前があれば、なぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

広島湾海域 
上記画像は「広島湾再生プロジェクト(広島湾とは)」よりのコピペ・・・m(__)mです。
(画像中の、阿多田島、大黒神島、柱島とかの位置が南の方向にずれて記載されていますが???まっ、愛嬌・・・(*^。^*)ですか。)

美能地区の岸根鼻よりも北の広島湾や江田島湾、大君地区早瀬瀬戸より北の呉湾を含めて広島湾北部海域と呼びます。
たまたま?なのかもですが、広島湾北部海域は、呉軍港と広島湾への敵国艦船進入を阻止するために、明治20年に計画(明治30年着工)された「広島湾要塞(音戸瀬戸・早瀬瀬戸・那沙美瀬戸・大野瀬戸)」と同一海域となっております。

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往還道からみた大黒神島の方向です。

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大黒神島です。

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屋根の向こうにも大黒神島です。

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ビニールハウスの向こうにも大黒神島・・・(*^。^*)です。


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これも大黒神島。

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これは阿多田島です。

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菜の花の向こうの大黒神島です。

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これは~~~、甲島(かぶとじま)、その左はるか遠くに尖がった山は周防大島嵩山です。

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小石の浜の向こうに大黒神島です。

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イワシ漁に使う網を運搬中の「大井丸」、向こうは阿多田島です。

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護衛艦「さざなみ」と甲島(かぶとじま)、灯台は白石、その間の小さな島は姫小島です。

是長 いいとこ撮り 1/2

s-是長地図グーグルBB 
是長の地は、頼杏坪の「松と鶴」でもたとえられたように、南北に長く引き延ばされた山地の西側斜面です。

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山の斜面に平地を作り出すためには石を積み上げるほかはありません。
重い石を積み上げた汗の結晶が、紅白の鮮やかな花となって春を告げます。

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一つづつ向きとバランスを考えて積み上げられた石垣の、ランダムだけど規則的な模様は、ほんと素敵なアートです。
冬でも緑の葉っぱが茂るイヌマキは、冬の北風からミカンを守るために植えられています。

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石垣は昼間の太陽熱をため込む蓄熱機です。
夜もやさしくあっためられた水仙の球根からは、太陽のような明るい花が開きます。

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こっちの石垣にも水仙・・・(*^。^*)です。

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瓦の再利用。

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沖十万石?にふさわしく長屋門を構えたお家が何軒もあります。

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昔なら籠か馬が用意してあるのでしょうが、今はやっぱ車の方が便利だし・・・(*^。^*)です。

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庭先に川があって、自家専用の橋を持つ・・・私の理想とする最高の立地条件なんですけど・・・。

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今はさびれてしまいましたが、是長の商店街通りです。
大福食堂・資生堂チェーンストア川中・曽根時計店・ヘァーサロンニシカワ、の看板が見えます。

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真っ赤なフォルクスワーゲン、もう一度走らせてほしいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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道路脇に落っこちてました。

キャラクターのリスは林野庁が1974年に制作した山火事防止啓発用のアニメ映画「リスのまとい」で登場したのが最初であるといわれます。
ちなみに、ネット上では「まといリス」などの名前でよばれますが、正式名称は決められていないとか・・・(*^。^*)です。

下記に注意
上記は「withnews(ウィズニュース)」よりのコピペ・・・m(__)mです。

是長 十万石の石垣

s-是長 石垣 
是長地区には10万石の城下町にも負けないくらいの立派な武家屋敷???が何軒も建ち並びます。
それも、家老職とか侍大将とかの上級武士の屋敷が・・・(*^。^*)です。

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是長港から遠くない段々畑の上に、お城と見紛うような長大で緻密な石垣が立ちはだかります。
石垣の角は、熊本城の石垣でも頑丈さが証明された算木積みが施されています。

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その石垣の上を漆喰の土塀で囲んだ中に是長の名家、野間家があります。

文政初期のころ、島を訪れた儒者「頼杏坪」が泊まったとされ、そのときにみた掛け軸「松と鶴」を愛で、この村に宿りてこの絵のかかれるを見てたわむれに「くびながし くちばしながし すねながし よはひはさぞや 是長のさと」と詠みました。

上記「芸南地方 瀬戸の島」よりの要約・・・m(__)mです。

頼杏坪_近世名家肖像[1] 
画像は「谷文晁」作の「頼杏坪」、ウィキペディアよりのコピペ・・・m(__)mです。

頼 杏坪(らい きょうへい)は、頼山陽の叔父に当たります。
文政13年(1830)まで、三次町奉行の職を勤め天保5年(1834)79歳で病没。
「芸藩通志(1825)」などの藩史編纂にも携わったとされます。

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石垣で囲われたお家が野間家だけなら、まあ、まあ、すっごいな~~~、と感嘆詞の一言あるいは二言で終わるのですが・・・。

是長地区の石垣屋敷の多さには、おどろき、びっくり、ぎょうてん、ぶったまげ、日本版マチュピチュ?、世界遺産登録?も夢じゃないかも・・・(*^。^*)です。

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このお家、是長地区でもずいぶん高い位置にあります。
これら沢山の大石、山から転がり落とした石には見えないし、いったいどこから・・・。

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このお家もまたすっごい。
積まれた石垣の量は、たぶん野間家よりも多いかも。
ず~っと、ず~っと先が見えなくなるくらい先までびっしり積まれています。

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このお家もまたまた、すっごいなぁ~~~。
石に着いたコケや、継ぎ目で芽生えたシダが・・・ええなぁ~~~。

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石垣が積まれているのは屋敷ばかりじゃありません。
ミカン畑も、タケノコ林も・・・

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丁寧に積まれた石垣の上には、普通にキンシバイの花が植えてあり、普通にウメの木の枝が垂れ下がっています。
その裏っかわには、たしかムギが植えてあったと (^^;) ・・・。

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耕作地と、道路の路面以外はすべてが石垣です。

是長地区で五万石、畑と岡大王とで五万石、全部の石垣を集めれば、十万石に匹敵するお城と城下町が造れるんじゃないでしょうか???

♪♪♪ 沖の石垣 十万石 全部合わせりゃ 城がたつ ♪♪♪ ・・・(*^。^*)です。 

是長 鹿田港

s-是長・鹿田港 
この付近の地名を、砠(そうわ)といいます。

砠のいわれは不明(辞書には石山・土山)ですが、御子祖山との付け根に船隠しのような入り江があり、「鹿田港」と呼ばれます。

この港は昔、村上水軍の監視人とされる佐村久右ヱ門が居住していたとされます。
南からの強風を遮る避難港として重要であり、芸藩通志には二反帆の船7、8隻が泊まれたと記されています。

上記「沖美町の文化財をたずねて」より引用・・・m(__)mです。

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上記掲載画像は、HP「風の馬 るんた」から「三反帆(さんだんぼ)で熊野川(2010年12月11日)」の記事をコピペ・・・m(__)mです。
熊野川を航行中の三反帆船で昭和30年ころまでは使われていたそうです。

ちなみに、画像の三反帆船は川船ですので、芸藩通志にいう二反帆船とは船型なども違うと思います。

s-鹿田港5002 
昭和50年2月の鹿田港付近です。
港に転倒船(石材運搬船)が1隻みえます。

県道はアスファルト舗装がされ、別荘用地にも家々が建ち始めています。

s-グーグル鹿田港 
現在の鹿田港です。

港の左に放射状に沖へ伸びるのは桟橋ではなく、船首を陸側に固定し停泊中の大型石材運搬船(プッシャーボート)です。
積載量は推定?ですが左が1,000t?、右は3,000t?くらいだろうと・・・???です。

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鹿田港港内からみた別荘地の方向です。

この付近には雨水を運ぶ大きな川もなく、水質は常に良好ですのでスキューバダイビングの練習ポイントともなります。

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小型底引き魚船「五洋丸」が、陸に引き上げられています。

すでにプロペラが外されていますので、おそらくは解体場へと運ばれるのでしょう。
水線下の部分にはグラスファイバーが巻かれていますが、基本は木造船のようです。
お疲れ様でした。

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鹿田港から別荘地へと続く小道は、昔懐かし海岸沿いの小径・・・(*^。^*)です。

昔々は、浦々へと通ず小径はみんなこんな感じだったような・・・(*^。^*)です。

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波静かな瀬戸の砂浜に、こ~~~んなに大きな流木が・・・。

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木造の小舟が朽ち果てる寸前で、入り江の奥に収まっています。

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大きすぎて港に入ることのできない、沖泊まりの船との通船???
それとも、むかしむかしの、船隠しにひそむ海賊船が幻影となって現れ出たのかも???

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夏の一時期をのぞいては、今も、むかしむかしの静寂をたもつ、砠(そうわ)の里海・・・(*^。^*)です。

是長 是長港

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是長地区には集落の前面に是長港があり、入鹿鼻の北側には鹿田港があります。

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昭和37年5月の是長港付近の画像(国土地理院)です。

ほぼ同じような大きさの船が十数隻、水深の浅い港にはすべての船が入港するのは無理のようで、半数は港の外で係留されています。

これらの船は転倒船ともよばれる石材運搬船です。
最盛期の昭和40年ころには沖地区だけでも5、60隻はあったといわれます。
積載量約50tくらいのディーゼル船で、乗員は2名、船長と機関長を夫婦で分任し、埋め立て地に運んだ石材を、船を大きく傾けることで一度に海中に投入する離れ業をやってのけました。

能美町高田港で最後まで残っていた転倒船「新栄丸・日栄丸・共栄丸」です。

s-是長港S5002 
昭和50年2月の是長港付近です。

戦後の20年間、是長港の改築はまったくの手付かずでしたが、昭和40年代に入りやっと一回り大きな防波堤で囲われることになりました。

s-是長港グーグル 
現在の是長港です。

一時期は転倒船で溢れかえった是長の港も、昭和45年ころよりはプッシャーボートで一度に数千トンの石材を運ぶ方式に変わり、徐々にその隻数を減らしていきました。

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是長集落の前で寄せる大波を固くグロックする最新防波堤です。

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もと、宇品・沖航路連絡船用の桟橋で、これからタコ漁に出かけるという漁師さんが大忙しで準備作業をされています。

仕事の邪魔にはなると思いましたが、「タコたくさん獲れますか?」「だめだなぁ~、年々獲れんようになりょ~るが」豊穣の瀬戸内海であっても、専業の漁師さんで生活するのは、なかなか厳しいようです。

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赤い浮き桟橋の手前にあるスベリは昭和50年に運行が開始された、沖・宇品航路連絡船の桟橋として作られたものですが、残念なことに昭和57年には連絡船航路が廃止されました。

スベリ型桟橋は耐久性は高いのですが、波による影響を強く受けるために連絡船への乗降には不便な施設です。
いつ航路が再開されても間に合うよう?赤い浮き桟橋が整備されましたが、いまは航路再開の予定がありません。

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連絡船用に作られた「是長桟橋待合所」です。

まだ十分に使える姿で残してありますが、内部は新聞や雑誌、ダンボールなどのリサイクル資源一時集積所となっていました。

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是長港防波堤の沖をゆく護衛艦「うみぎり」基準排水量3,550トン  全長137m 出力54,000PS  最大速力は30ノットです。

洋上訓練を終わり、母港である呉港に帰る途上のようです。

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戦前からある???、旧防波堤内には今も小舟が舫われています。

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花崗岩石を丁寧に積み上げて造った防波堤で、少なくとも70年、あるいはそれ以上の年月を耐えてきました。

ここまで古くなれば、人工物か自然物であるかの判断もできません。
自然岩の空隙であると勘違いしたハマナデシコが、防波堤の占有を開始しました・・・(*^。^*)です。

ちなみに、港から道路を隔てた陸側正面には「JA呉 是長支店」が建ちます。
是長は漁村ではなく農村なのです。

背後に控える広大な農地(耕して天にのぼる)から生産された膨大な量の農産物は、すべてがこの是長港から船に積み込まれていました。
そんな・・・時代も・・・ありました。

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船を舫うロープを巻き付ける係船柱(ボラード、ビットとも)です。

一般には鉄で作られますが、この防波堤上にある7本の係船柱はすべて花崗岩石柱です。

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石積防波堤の先端部は後年の港改築で短く切られて積み直されましたが、すてきな曲線に仕上げてあります。

鉄筋コンクリートだと再利用はほぼ不可能ですが、石積だと好きな形に組み替えて再び利用することができます。

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近代的で機能的な造りとなった是長港にあっても、石積防波堤は港の主要ポイントとなってのこります。

是長 サンビーチおきみ

s-サンビーチ沖美 
元の入鹿海岸あらため、「サンビーチおきみ」となって宿泊施設も完備した海水浴場があります。

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江田島市内では他に見ない、立派な建物が白い砂浜の向こうに建ちます。

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いらっしゃいませ サンビーチおきみ

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全室オーシャンビューの公共の宿「サンビーチおきみ」です。

江田島4町の合併前に沖美町主体で作られた施設で、台風被害や海水浴客の減少など逆風を受けながらも、展望大浴場(循環型天然温泉)をそなえ、洗練された瀬戸の味を前面に江田島の魅力を残らず堪能できる宿泊施設として運営されています。

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ビーチの中央付近に大きな羽釜がセットされていますが、この巨釜は海水浴に訪れた方々のお昼ごはんを用意するものではありません・・・m(__)mです。

建てられた説明板によれば、「え、えぇ~~~。せ、説明板がなぁ~~~い。」

てっきり羽釜の説明板だと思ったのに、文面には羽釜のハの字もなく、その向こうにあるごく普通の岩の由来が説明されています。

弁慶岩
鎌倉初期の僧、武蔵坊弁慶がこの岩を厳島弥山、海抜530mの山頂から、沖の平家軍船に目掛けて投げたところ力余ってここまで届いたといわれ、以後もここに鎮座し、弁慶自慢の力もさすがと弁慶をしのぶ縁となっております。・・・と。

弁慶岩よりも羽釜の方が気になるんですけどぉ~。
もしかしたら、冗談じゃなくホントにお昼ご飯を焚く巨釜なのかも・・・ (^^;) です。

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2004年(平成16年)9月7日、山口県西部をかすめて北上した台風第18号は広島市においても14時20分に、観測史上第一位となる南の風60.2m/sの最大瞬間風速を観測しました。

この台風による風と高波のため国宝厳島神社の平舞台は波にあおられ四方に流れ去り、本殿の檜皮葺屋根は大きく剥がれ落ち見るも無残な状態となりました。
沖美町においても港湾などに大きな被害をうけたうえ、完成まもなかった「サンビーチおきみ」においても、船舶係留桟橋の崩壊、ビーチ砂浜の流出など一時はサンビーチ自体の存続も危ぶまれる惨憺たる被害に合いました。

画像は翌年4月、重機を投入し夏を前に急ピッチで砂浜の復旧工事を始めたころのものです。
(夫婦岩も、この18号台風の高波をまともに受け倒壊しました。)

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復旧工事が終了し、もとの静かな瀬戸の渚となりました。

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この沖はひっきりなしに船が行き交う主要航路、豪華巨大客船も大型タンカーも、外国の旗を揚げた軍艦も、潜水艦も、三本マストの大きな帆船も・・・です。

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長い長い砂浜に小さな小さな波が きらきら キラキラ きらめきます。 

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是長の北に伸びる海岸には、何故かすべてにカタカナの名前がついています。
カーサブルビーチ・ブルービーチ・グリーンビーチ・ニューブルービーチ・・・
以上、グーグル地図より・・・(*^。^*)です。

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続く、続くよ、ビーチはつづく ・・・です。

是長 入鹿鼻・四郎五郎

入鹿鼻・四郎五郎  
是長地区の長い海岸線には、背後に急峻な山がせまり僅かな平地しかないのですが、反面、自然美あふれる豊かな景観が今も各所に残ります。

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サンビーチおきみの白い砂浜から海岸をさらに北へと行った所の、断崖の先に特異な容の大岩が見えます。

今でも特徴のある大岩ですが、十年ばかり前に台風の大波を受けて破壊されるまでは、大岩の上にさらに二本の大石柱が高くそびえ立っており、その姿を夫婦が寄り添う姿にたとえ「夫婦岩」と呼ばれていました。

この付近の岩山は古くより砕石場となっておりましたが、さすがの石工さん達もこの「夫婦岩」に手を下すことは無く、江戸後期の「芸藩通志(1825年)」にも「メウト石」となって記載されております。

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上部の三分の二が台風の大波に折られてしまいましたが、いまも残った二つの大岩はしっかりと寄り添い支え合っています。

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「夫婦岩」よりさらに北へと進んだ先に、なんと「やもめ岩」があります。

先年の台風にも耐え、一人だけが寂しく残った「やもめ岩」です。

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夫婦岩ほどの大迫力はありませんが、岩盤にしっかりと根をはり気丈に立ちます。

入鹿鼻の沖を行き交う船や、カモメの群れを追いつつさらに幾百年、穏やかな瀬戸、荒れ狂う怒涛の瀬戸をただ一人見つめ続けることとなります。

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幾百年、幾千年、幾万年も不動かと思える花崗岩の岩山も、それは人の思う時間軸に当てはめてのことであり、人には無限とも思える時間も自然界にとっては一瞬間でしかありません。

目の前にみる花崗岩が、地下十数キロの深さでマグマ状の巨大な塊から、冷え固まったのが1億年ばかり前のことです。

その後比重の軽い花崗岩は次第に地表へと浮き上がり、さらにその上部を覆っていた堆積岩が浸食されて、ついさっき江田島市の基盤となって地表に現れたばかりです。

ついさっき現れた硬い硬い花崗岩が、もうすでに、台風の大波に打ち砕かれ、松の木の根っこで割られて崖下に落ちています。

その崖下に落っこちた花崗岩の大岩にウミウが羽を休めます。

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崖から落っこちた大岩の角が波に削られ丸くなるには、人にとっては長い長い歳月ですが・・・

さっき、その大岩の上に羽を休めたウミウは、わずか数秒でまたどこかへ飛び立っていきました。

で、余計なことですが、鵜飼に使われる鵜はカワウではなくウミウが使われるとか・・・(*^。^*)です。

s-四郎五郎S37 
画像は昭和37年7月、県道の開通から2年後の様子です。

その後も何度か拡張改良工事が施され、西能美の動脈路となりましたが、その県道36号線の途中に「四郎五郎」とよばれる岬があります。

今はNPO法人所有の「夢来来」なる、休息&展望施設となって道行く人々の憩いの場とされていますが「四郎五郎」なる地名は、古く江戸時代の書にも記載があります。

「夢来来」の前に張り出された説明板によれば、安芸灘に出没する海賊に対抗し、鹿川の一郎、沖の二郎、畑の三郎、是長の四郎、美能の五郎らが協力し西能美の守りを固めてていました。

神出鬼没の海賊集団に対しては、より早い発見と迅速な現場到着は必至で、この岬は海賊を見張るための砦の一つとして、是長の四郎と美能の五郎とが共に利用したとされます。

彼らは個々に水軍を所有しており、のろしや松明、鐘や太鼓やほら貝などで互いに通報し合って協動、いち早い行動と勇猛な戦いは能美水軍の名を一挙に広めたと云います。

ちなみに、現在も伝えられる見張り場所として、鹿川との境である才越峠の南の「物見石」、畑港の防波堤付け根の「見張石」があります。

県道から谷に沿って分け入った先に「四郎五郎水源池」があります。

今はまったく使われることもありませんが、昭和40年6月江能水道組合が供給する太田川を水源とする上水が通ずまで、「四郎五郎水源地」からの水源は美能地区の人々にとってはかけがえのないものでありました。

是長地区で集水された水が隣の美能に供給されるきっかけは昭和31年に沖村と三高村が合併し沖美町が誕生したことや県道整備の進捗によりますが、美能地区の人々が切望する四郎五郎水源池からの給水が始まったのは昭和も34年となってからで、他に主水源をもたない美能地区の念願がやっと叶いました。

四郎五郎水源池が大切にされたのは僅か6、7年のことでしたが、その恩恵は計り知れないものでした。

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「四郎五郎」岬の先端部はナイフで切られたように垂直な断崖となっておりますが、その崖の一部には天然記念物に指定されてもおかしくない摩訶不思議な花崗岩の産状(崖の左上部分)がみえます。

わたくし的には摩訶不思議なその球体を「球状花崗岩」としましたが、岩石の専門家的には、球状花崗岩の特徴である白と黒の縞模様が見られないことから、捕獲岩としては特異な産状ではあるが「江田島花崗捕獲岩」とすべきで、詳しくはさらなる研究が必要うだろう。・・・ (^^;) と。

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赤い岩肌に直径が約10cmの球体が煎餅を並べたように何十個も繋がります。

この球体捕獲岩(江田島花崗捕獲岩)は長石質の赤い岩盤を割って貫入した岩脈で、岩脈の幅が1mくらい、長さは視認できる範囲で5mくらいあります。
岩脈は他にも何本?かあって海中に向かう脈も視認できます。

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わたくし的に「球状花崗岩」、専門家が「江田島花崗捕獲岩」とする球体のアップ画像、直径が12cmです。

はたしてどんなメカニズムでこんな奇怪な石ができるんでしょう。
自然は不可思議なり・・・(*^。^*)です。

是長 小黒神島・俎礁

小黒神島(厳島神社) 
小黒神島は是長地区の海岸からやく3km沖合に浮かぶ無人島で、周囲が約2km、山頂の標高は130m、島岸から数十mで水深が一気に30m前後と急激に深くなっており、また潮通しも良いため絶好の釣りやダイビングポイントとなっています。

俎礁(まないたしょう)は、小黒神島の北方やく1kmにある岩礁で満潮時には赤い灯台が見えるだけです。

小黒神島の島名由来などについて記された資料がないことを幸いに?、以下は私の勝手な妄想・・・ (^^;) です。

上記地理院地図に赤線を引いてみました。
厳島神社、小黒神島、大黒神島がほぼ一直線になります。

厳島神社は、推古天皇の御代に「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」を祀って建立された神社です。

宗像三女神は
1)福岡県宗像市田島の辺津宮に祭られている「市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)」
2)大島の中津宮に祭られている「多岐津比売命(たぎつひめのみこと)」
3)沖の島の沖津宮に祭られている「田心姫命(たごりひめのみこと)」
とされます。

厳島は、1)の市寸島比売命、イチキシマがイツクシマにあたり、2)の多岐津比売命、3)の田心姫命を海上の島にあてはめる必要があります。

宗像三女神は玄界灘を北へと一直線に1)宗像市田島、2)大島、3)沖の島と並びます。
つまりは宗像三女神を祀る厳島には当然沖へと一直線に伸びる2)と3)の島が必要となります。

厳島から、小黒神島、大黒神島へと南下する直線は、宗像大社から北の朝鮮半島に伸びる直線とは真逆となりますが、沖へと向かう直線であり、全くの模範では恐れ多きこととして、あえて逆向きの直線を作ったとも思えます。

黒神は黒髪にも通じ女性を意味しますし、大黒神島の最高峰は「櫛ノ宇根」で、これも女性をイメージしますし、さらに大黒神島には「宮城」「王泊」なる地名も残ります。

小黒神島あるいは大黒神島を探査すれば、あるいは沖ノ島で発見されたと同じ金の指輪が眠っているかも?ですが、島に分け入るなら神罰には十分にお気をつけください・・・m(__)mです。

s-小黒神島a 
グーグルで見る宮島弥山山頂からの小黒神島(多岐津比売命?)、大黒神島(田心姫命?)への直線です。

この直線は夏至のころの太陽が南中する方向とも、ほぼ同じでは、???と、思うのですが???・・・(*^。^*)です。

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小黒神島と宮島の間は呉港や広島港に出入りする大型船舶の唯一となる航路です。

2014年1月15日、この付近をほぼ並走して航行していた、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ(8.900t)」とプレジャーボート「とびうお(5tくらい?)」ですが、運動性能に勝る「とびうお」が常識では考えられないような奇妙な航行を繰り返したのちに「おおすみ」と衝突し転覆、「とびうお」船長と乗船者のお一人がお亡くなりになりました。

運動性能の高い小型船の操縦者は、他船と見合い関係となる前に早め早めに転舵変速を行い、大型船等の航行を妨害しないように注意して、自船はもちろんのこと、すべての船が安全に航行できるよう譲り合いに努めましょう。

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ハマダイコンの花咲くビーチの向こうに小黒神島のしるえっと。

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砲台山登山道の中腹から見た、小黒神島と俎礁です。
俎礁(まないたしょう)は画像右の松の枝葉の間に針の穴よりも小さく写っています。

俎礁岩礁は干潮時以外姿を現すことは無く、黒地に赤い横帯の灯台が一本立つだけです。
ちなみに、灯台名は「安芸俎礁灯標」初点灯は昭和35年11月24日だそうです。

まだ灯台などなかった、日露戦争の当時、病院船ロヒラ丸がこの岩礁に乗り上げて動けなくなりました。
その救出作業中にさらなる不幸が襲い、2名の作業員が犠牲となりました。
「ロヒラかわいや、まないたの上で、一寸きざみにきざまれる」と、はやり歌もあったとか。

小黒神島にはその2名の霊を弔い地蔵様が置かれ、いまも付近の航海安全を願っているといいますが・・・。
「とびうお」遭難者2名の霊も合祀し、合掌・・・m(__)mです。

s-ろひら丸 
上記掲載画像および下記説明文は、HP「なつかしい日本の汽船」よりのコピペ・・・m(__)mです。

ろひら丸
ROHILLA MARU  3,081G/T
Lpp 117.75m B 12.29m D 8.15m 600NHP/3,386IHP 14kt
進水 1880.4.27(明13)
竣工 1880.6.2(明13) Caird & Co.,Greenock
1900(明33)東洋汽船(東京)に売却、ろひら丸と改名
1904.2.2(明37)日露戦争に参加。陸軍の病院船となる。
1905.3.30(明38)尾城汽船(東京)に売却
1905.7.7(明38)糸崎から宇品へ向かう途中能美島で座礁、船体両断して沈没

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美能外海漁港から見た俎礁です。
その向こうの砂浜は宮島青海苔海岸、浜の右奥に青海苔浦神社も見えます・・・(*^。^*)です。

是長 流川・林山川

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是長集落を流れ下る主な川として、流川と林山川があります。

南北に長い山肌と海岸線をもつ是長地区ですので他にも小さな谷筋を流れる川(水路)は両手ではとても数えられないほどになりますが、いずれの川も三日間の日照りで干上がってしまう細い細い水量でしかありません。

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人は電気やガス、ガソリンとかは無くてもまあ何とか生きていけますが、水がなければたとえその地が争い事のない穏やかな天国であっても、風光明媚な楽園桃源郷であっても、呑めや歌え踊りにあけくれる竜宮城であっても、そこで生活することはできません。

是長地区においても、川は人々に最も大きな恵みを与えるものとして、とても大切にされていました。
流川の川底はまさに、豪華日本庭園に敷き詰められた石畳以上に頑丈にそして美しく並べて作られています。

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中流域も・・・。

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集落の中央部も・・・。

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そして、そのまま碧い海まで流れ下ります。

しかし、先人が知恵の限りを出し合って作った美しい川の流れも、ひとたび生活排水が流れ込めばそれは一夜にして、どぶ川となります。

近年になり下水道整備が急速に進み、一時のどぶ川はしだいしだいに桃源郷是長の本来あった姿に戻りつつあります。

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いかに水をきれいに、そして有効に利用すべく努力しても、限られた面積に降る雨の量を増やす技術はありません。

しかも、降った雨水には強力な地球重力が作用し、あっという間に瀬戸の塩水に交じり合ってしまいます。

そこで考え出されたのが、水を溜めそれを必要に応じて有効に分配するシステムです。
古来より「水を制する者は国を制す」とかいわれ、つねに社会の最重要課題ではありました。

それが近年の大型土木機械や、送水装置、配管などの能力向上で、よりたやすい事業となりましたが、そのような大規模事業には賛成者もいれば、絶対反対と唱える人々も多くあって、なかなか・・・(^^;)です。

で、途中の経緯は知りませんが、沖美町地区の農業用地のほぼすべてに三高ダムからの水が常に継続供給されるシステムが完成しました。

アジサイの花咲く山際の細い農道にも、三高ダムから配送された農業用水が高い水圧をもって流れています。

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江戸時代につくられた往還道の地下にも、大口径の農業用水配水管が埋まっています。

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このマンホール蓋の下に埋まっているのが、水道管なのか農業用水管なのか下水管なのかは分かりませんが、水利用の大問題に常に真剣に取り組んだ沖美町の念願の結晶がこのマンホール蓋のデザインとなって現れ出ました。

カラー塗装のマンホール蓋は元沖美町役場の玄関にも飾ってあります。
「畑 元沖美町役場」 ・・・(*^。^*)です。

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365日、常に水不足に嘆く「瀬戸内海型気候」の島にあっても、ひとたび想定を超える雨量があれば、その勢いは凄まじいものとなります。

先年の大雨で砲台山の山肌が大きく崩壊、巨岩、巨木を巻き込んで一気に砠(そうわ)地区の田畑を押し流し、民家に迫る寸前で止まりました。

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広島県農林水産局、平成28年度予防治山事業渓間工事、工事番号No.7谷止工事業によってコンクリートの頑丈な砂防ダムが完成しました。

もっとも必要とされる水が、なぜに、もっとも恐ろしきかな・・・m(__)mです。

是長 砲台山(三高山)・寺屋敷跡

s-砲台山・寺屋敷跡 
砲台山(三高山)山頂(401.8m)は是長と三吉、高祖との境界上に位置します。

この山の北側尾根には旧日本軍が構築した三高山砲台跡があり、山名の元ではありますが、それについては砲台への軍用道始点のある美能地区の項で説明します。

砲台山の山頂へは旧軍用道を整備拡張しさらに延長した、「砲台山林道(平成8年開通)」から分岐して山道「砲台山縦走路」を進む必要があり、寺屋敷跡もその縦走路上にあります。

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高松峠から砲台山林道を北上し、5、6百m進んだ右側に砲台山縦走路の南側入り口があります。

このとき2012年1月は縦走路が再整備された直後だったようで、道にはシダやツル草もなく、雑木も適宜刈払われており、視界が大きく開けたラッキーな状態でした。

尾根筋を行く縦走路の右下は木下川が削り取った深い谷が並行しており、その対岸は宇根山から北へと延びる尾根が海岸までつづきます。

その向こう、画像中央やや左の尖がった岩山が江田島町古鷹山(394m)で、その先中央より少し右に呉市の灰ヶ峰(736.8m)、さらに右上のなだらかな山が川尻町の野呂山(839m)です。

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ラクダのこぶ状に続く縦走路上にはこぶ(ピーク)が4つばかりあり、砲台山よりも高いこぶ(414.1m)もあって、そのような場所は見晴らしも良好・・・(*^。^*)です。

木下川デルタ部と三高港、その沖にカキ筏が並び、安芸小富士の似島が浮かび、さらにその向こうの広島宇品までが一望です。

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三高港と似島のアップです。

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尾根の左(西側)に見えるのは、画像右に小黒神島、中央が阿多田島、左の半島が御子祖山と入鹿鼻で、その手前に鹿田港や沖美リゾート海岸も見えます。

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最後となるラクダのコブが砲台山山頂です。
三等三角点を示す石柱が埋められており、廻りの雑木も刈られておりますので、冷たくはないのですが、海を渡った北風が山歩きで火照った頬に気持ちよく・・・(*^。^*)です。

かき筏の向こう、中央左の海峡が大須瀬戸です。

ちなみに、江田島市のすべては厚い花崗岩の岩盤上に乗っかっていますが、当地砲台山、宇根山、津久茂山はその花崗岩の上で風化を免れて残った、玖珂層群(海洋性堆積岩)が覆いかぶさっています。

さきほど通り過ぎたラクダこぶの一つには江田島市では珍しい海底火山の噴出物(枕状溶岩?火山灰?)が長い年月の中で変質し、青緑の固い岩石となって残っています。

玖珂層群は海洋プレート(フィリピン海プレート?)が海溝部分ではぎ取られ陸側(日本)にくっ付き浮上したもので、海底の砂や泥、放散虫などの成分からなるチャート(石英)、サンゴ礁が変質した石灰岩、さらに下部の花崗岩からの熱水を吸収濃縮した一部分には重金属(金・銀・銅・錫・タングステン・鉛・亜鉛・鉄などなど)が析出していたりもします。

玖珂層群は熱や圧力を強く受けすぎたため、化石が原型で存在する可能性は低いとされていますが、よくよく探査すれば層群の形成期とされる、古生代から中世ジュラ紀、あるいはそれ以降の化石(恐竜?)が見つかるかも???・・・(*^。^*)です。

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山頂付近に恐竜の化石は見ませんでしたが、冬の澄んだ空気はこれまた最高・・・(*^。^*)です。

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江田島市内の古道や、山の尾根などには時々変な石柱が埋められています。

二重の波線が刻まれていますので、おそらくは旧海軍軍用地を指定する標石だろうと思います。

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道なりにしばらく下ると「寺屋敷跡」と彫られた石碑が建ちます。

沖美町教育委員会が昭和59年11月3日に発行した「沖美町の文化財をたずねて」を要約しますと、宮島弥山での修行を終えた弘法大師が、この地に庵を構えしばらく滞在したとあります。
さらに、海岸には「船付」の地名がのこり、弘法大師が上陸された浜であると云います。

寺屋敷のあったとされる付近には、今も多く瓦の破片が散乱しており、船付は沖美ニューブルービーチと呼ばれる浜です。

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縦走路を下って、三高山砲台跡に着きました。

尾根筋を巧みに利用し広範囲に築かれた、三高山砲台跡は、明治期の土木技術の粋を集めたものとされ、近年「土木学会選奨土木遺産」に指定されました。

石と煉瓦で構築された幾何学的デザインの三高山砲台も圧巻ですが、そこから見下ろす人々の営み、瀬戸に浮かぶ島々のなだらかな曲線美もまた、圧巻です。

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画像左に見える大奈佐美島にも沢山の砲台が構築されていましたが、戦後島全体が土石採取の現場となり、砲台跡もほぼ壊滅したといいます。

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阿多田島にかぶる太陽からの光が少し赤みをおび、夕日に変わろうとしています。

はやく帰って、今日は熱燗で一杯? かなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

是長 宇根山(高松峠登山ルート)

宇根山古道 
高松峠(標高238m)は、県道36号線(海岸道路)ができるまでは沖(是長)と三高(三吉)を結ぶ交通の要所でした。

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是長側から見た高松峠です。
左は観光道路として整備された砲台周遊道、右へ下ると三吉(三高ダム・三高港)へ通じます。

右上へと登る崖っぷちの危なげな道が江田島市最高峰の宇根山(541.8m)への登山道となります。

江田島市発行の月間広報誌(2016年2月号)に、「高松峠から宇根山への登山希望者を募る」って記事をみました。

素直にそのツアーに参加すればよいのですが、歩くペースが人一倍遅い、リーダーの指示などうわの空、他人様のお尻を見ながら歩くのは嫌い、などなど、団体行動には極めて適応性のない私ですので、残念ながらツアー参加を諦めました。

でも、やっぱり登ってみたいって衝動に駆られ、1ヶ月ばかり間を開けて単独自力登山を決行しました。
(ツアー直後ならシダやつる草をかき分ける手間が不要で道に迷う心配も無いだろうとの下心もあって・・・(^^;)です。)

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案内標識はありませんが、要所々々に赤や青のリボンが結んであり楽勝で歩ける登山道・・・(*^。^*)です。

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あいにく周りは鬱蒼たる樹々ばかりで遠くの景色は期待できませんが、季節は3月、落葉樹の枝先を覆う葉っぱはまだ新芽の奥深くにしまわれています。

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道なりに登り続けますと、測量点を示す標識がたちます。

廻りの小枝は綺麗に刈り払われており、「わっ、はっ、はぁ~、楽勝、楽勝、先発隊?が綺麗に道を開けてくれてて、助かるなぁ~~~。」って、その時までは余裕一杯でした。

が、その三角点を通過し10mも進むと道が途絶えます。
「うっ、うそだろぉ~。一ヶ月前にツアーを組んで何人も山男?が登ったんだろぉ~。でも、これ以上は進めないよぉ~。」

先発隊が道を作ってくれていると思い、ナタはもちろん、ナイフも地図も、カメラとお茶以外はな~んにも持たずに登ってきました。

「ツアー希望者が少なくて、途中で断念したのかなぁ~。しかたない、引き返そう。」って、50mくらい下りますと、左に向かって獣道のような感じで少しシダが倒れています。

太陽の方向からみて、こっちの獣道が宇根山の方向に近いかもって、・・・。よし、少しシダをかき分ける必要はあるけど進んでみよう・・・。

ところどころに人為的にシダを倒した感じが残ります。
なんだぁ~。さっきの三角点はフェイント?、はたまた単なる寄り道・・・。

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なんとなく人の歩いた形跡が残りますし、赤や青のテープも見えましたので、そのまま進むことに決定。

が、「ひえぇ~~~。これってイノシシのヌタ場じゃないか。水が濁ってるってことはついさっきまでいたんだろぉ~。それに、この様子じゃ一匹や二匹じゃないだろう。」
「まあしかし、ここまで来たんだからなぁ~。ええい、男は度胸じゃぁ~~~」
って、内心はビクビク、パキッとかカチッって遠くで音がするたびに、首を一回転。万が一に備え枯れ枝の丈夫そうなのを一本拾いました。

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ルートはほぼ尾根道伝いですので、登ったり、下ったり場所によってはあきらかに人が作った道ですが、竹藪などは、先発隊も道を開くのが面倒になったようで、竹と竹の狭い隙間を個々に分かれて通過した様子です。

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悪戦苦闘、半泣きの涙目に鉄塔らしき影がうつりました。
「よ、よかったなぁ~~~」・・・(*^。^*)です。

ここは前にも来たことのある防衛庁?の通信施設です。

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鉄塔からさらに100mばかり藪をかき分け、ついに宇根山山頂、広島県内にも17ヶ所しかないといわれる一等三角点に到達しました。

ついさっきまでは涙目だったのですが「わっ、はっ、はぁ~、実にそうかいじゃぁ~」・・・(*^。^*)です。

ポケットから取り出したペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまいました。

で、どうしましょう。
アスファルト林道を歩いて帰るべきか、今来た獣道を後戻りするべきか???

って、車、高松峠に置いたままだし~。え、えぇ~獣道の後戻りはいやだなぁ~~。だってしかたないじゃぁん。来るんじゃなかったなぁ~~~。

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まあ、とにかく、日の高いうちに帰らなくっちゃ~。

すたこらさっさ、えいさっさ・・・。途中、えっ?この道でよかったっけなぁ~?ってとこが2、3ヶ所ありましたが、無事通過。

あきらかに、登山道だぁ~~~。って場所まで下って、やっとカメラのシャッターが押せる余裕が出てきました。

往復で4時間くらい???、途中時間を見るだけの余裕がありませんでしたので・・・(^^;)です。

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画像は同年の10月10日、獣道はもうコリゴリ、能美町中町からのアスファルト登山道を登ってきました。

早春の3月3日、高松峠から登った時はまったく視界がなかったのですが、その後に南側の雑木が大きく切り払われたようです。

右の大きな島が大黒神島、すぐ左に小さく長島が見え、さらに左には沖野島や親休鼻、手前の半島が大矢鼻です。

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やっぱ山頂は見晴らしがよくないとなぁ~~~。

山中でめったに人を見ることはないのですが、たまたま山頂で一緒となった方が、「ダッシュ島も見えますよ」って。
へぇ~、あの鉄腕DASHの・・・、どれかなぁ~~~ 
わっ、はっ、はぁ~、今日は余裕、余裕じゃぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

是長 御子添地蔵・御子祖山

s-鹿田公園 
入鹿明神社の背後あって、峻巌千尺とされる御子祖山(みこそやま)とその尾根の先端、都母ヶ宇根(つぼごうね)へ登ってみることにしました。

御子添地蔵・御子祖山 
御子祖山(127.1m)の東側は花崗岩の風化土で、肥料と水さえが供給できれば畑作地としては、最適な土地なのですが、三高ダムからの農業用水が供給される以前は、つねに水不足による日照り障害のリスクを背負うとても過酷な環境でした。

そのためもあって、農業以外に活路を見出すべくリゾート開発にいち早く転身、別荘用宅地造成、レジャー施設用地取得、ビーチ整備、観光道路整備、観光農園事業推進、とうとう、元からある自然が豊かで風光明媚、気候条件などもすべてがリゾート開発条件に適合、一気に開発が進み当時の沖美町町政もそれを大いに支援しました。

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御子祖山、都母ヶ宇根も含め広大な用地を取得し、鹿田公園が整備されています。

スポーツ施設としては、多目的広場としてグラウンドが1面、テニスコートが6面、ゲートボール場2面があり、さらに幼児広場、砂場、遊具芝生広場2面、庭園、花見広場、展望広場(御子祖山)、展望台(都母ヶ宇根)とそれらを結ぶ遊歩道、さらに第1、2、3駐車場、トイレ2棟、管理棟を備えたとても豪勢?な施設・・・(*^。^*)です。

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標高でやく100mの高地にありますので、見晴らしも最高、海を渡ったて吹き抜ける風も爽やかです。

右は美能の岸根鼻、左から伸びる山裾は宮島弥山に連なります。
沖をいくのは、マツダの自動車運搬船と呉基地を母港とする訓練支援艦くろべです。

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鹿田公園展望広場として整備された、御子祖山山頂(127.1m)です。
展望デッキもありますが、周囲の樹木が大きくなりすぎて視界は阿多田島・岩国方向のみです。

この山頂には江戸時代後期、広島藩が海上防衛のため一時期大砲を設置したと云われますがその痕跡などはまったく見えません。

ちなみに、御子祖山にまつわる伝説として、むかし入鹿明神社の幼き3人の御子がこの山頂に庵を営み、修行に励んでいたのですが、母に合いたい一心を、海を隔てる宮島弥山の三鬼大権現(三鬼さん)に祈願し、その思いが叶えられたとされます。
「御子祖山」や、当地の小字名「御子添(みこそ)」はこれに由来すると云います。

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御子祖山から都母ヶ宇根へは尾根にそって遊歩道があります。

あまり期待はしていなかったのですが ・・・ ・・・。
おい、おい、おい、これは、いけそうじゃ~ん。

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久々の高所に、少し足がすくみます。

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この日、遠方は薄くもやっていましたが・・・それでも。
いいじゃん!いいじゃん!

手前の防波堤内は鹿田港、その先には江田島市内でもっとも観光開発の進んだリゾートビーチが連なります。

よくは存じませんが、地図には手前から沖美ブルービーチ、沖美グリーンビーチ、沖美ニューブルービーチと名打ってあります。

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ほぼ垂直に100m以上の絶壁・・・(^^;)です。

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松の枝下に見える島は小黒神島です。

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一歩踏み外せば奈落の底となる畳一畳ばかりの大岩に、錆びた手すりを握りながら降り立ちますと、崖の窪みに小さな祠が残っていました。

御神体となるものは、なにも置かれていませが、軽く一礼し、この不安定な大岩を後にしました。

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山を下り、鹿田公園を出ようとするとき・・・。
あっ、お地蔵様です。

枝張りの良いムクノキの根元に小さな祠がつくられており、中にお地蔵さまが立たれております。
由来はわかりませんが、おそらくは先ほどの都母ヶ宇根の崖っぷちから移されたものであろうと想像し、合掌・・・m(__)mです。

是長 石仏・大名切

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是長地区に石仏・大名切(おなぎり)の地名が残ります。

s-石仏・大名切 
画像は昭和37年7月30日(国土地理院よりコピペ・・・m(__)mです。)

昭和35年3月、是長から海岸沿いに美能、高祖、三吉へと通ず県道36号線ができるまでは、三高地区(三吉)から沖地区(是長)へ向かうには、木下川に沿ってさかのぼり、三高ダム付近からはつずら折れとなる山道を登り、山名水でのどの渇きを癒し、砲台山への分かれ道でもある高松峠を越えて沖地区(是長)へとたどる一本道が唯一の交通陸路となっていました。

大名切と石仏は、三吉と是長の境である高松峠から是長へと道なりに5、6百m下った道の両側にあります。

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大名切(おなぎり)の云われは、厳島の合戦(1555年)に敗れた陶晴賢の残党が、三吉から高松峠を越えて逃げる途中、ここで力尽き果てた。
その霊を弔い石仏をたて、地名を大名切として今に語り継ぎます。

のち、この付近から金の小仏像が発見され、戦国時代にかぶとの中に入れてお守りとしたものだろうとされ、野間家が所蔵しておりましたが、火災により焼失したと伝わります。

大名切石碑から道路を挟んだ向かいに石仏が置かれています。

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道路からは石段があり、さらに台座を置いた上に一体のお地蔵様と、石仏数体が置かれています。

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元は野ざらしで置かれていましたが、平成十三年十月、施主西中啓、施工石原義男両氏のご努力によりお堂が建てられました。

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追手にかかり果てた陶軍残党は、かぶとを被った上級武士とその従者数名?、お地蔵様の両側に2体、台の下にも数体の石仏がおかれ、お地蔵様の乗る台座を囲んでいます。

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自然石を石仏としたのか?、あるいは石仏が長年の風雨で自然石に戻ろうとしているのか?・・・その石仏に菊の花が手向けてあります。

深く頭を垂れて、合掌・・・m(__)mです。

是長 観音堂

s-是長・観音堂 
沖美町史によれば、長徳寺後背地の丘に少なくとも江戸中期以前の創建となる「観音堂」があり、天明八年(1788)改築、さらに明治三十四年一月には林嘉十が奉道人となり南無観世音を奉置し、翌年遷座式を行ったと云います。
現在のお堂は昭和三十五年二月の再建である・・・と。

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どの道をどのように登ったのか思い出せないのですが、小径を適当に選んで右へ左へと気ままに歩いていますと、丘の上にお堂らしきもの発見・・・(*^。^*)です。

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あっ、やっぱりそうだ。

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この日、観音堂を探してお散歩をしていた訳ではないのですが、まさに観音様のお導き、偶々の偶然でお参りをさせて頂くこととなりました。

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お堂の扉もなぜか、開いたままとなっています。

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お堂正面に向かいまして、合掌し深く一礼させていただきました・・・m(__)mです。

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折角、扉がひらいているのですから、恐れ多いことではありますが堂内を拝見させていただきました。

花瓶には葉牡丹(ハナキャベツ)と小菊、水仙がいけられており、お酒と、観音様のご健康をおもんぱかり、リポビタンDもお供えしてありました・・・(*^。^*)です。

上段に立たれる観音様像はご三体それぞれに特徴ある造りとなっており、制作者の思いや風情を感じ取ることのできる御仏です。

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開いていた扉はそのままとし、一礼してさらに上へと続くであろう道をたどります。

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訪ねた時期は2月初旬、畑に残る柑橘は夏みかんよりは小さかったように記憶しますのでダイダイ?かも??
色も橙色に近いようですし??? ・・・ (^^;) です。

是長 照高山長徳寺

s-是長・長徳寺
浄土真宗本願寺派「照高山長徳寺」は、始めて尋ねる方には少し分かりづらいのですが是長港から海岸バイパス道に沿って少し南に下がり、県道36号線を目ざして坂道を登りますと、頭上に本堂の大屋根と鐘楼山門が日差しを遮り大きな影となって現れます。

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沖美の海を眼下に見て建つ照高山長徳寺山門です。
この風格ある鐘楼門は、学徳に秀でた十三代住職見真により天保のころ建立されたといいます。

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鐘楼門からは真っすぐに本堂が見通せます。

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仰ぎ見る庇の造形美です。

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一礼して山門の下をくぐらせていただきました。

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「長徳寺」が開かれたのは永禄5年(1562)、果てしなき戦国の世、その真っただ中のころです。
是長の住人である高山喜右衛門が出家、僧至頭となって庭に庵を結び、山号を「松夢山」寺名を「長徳寺」としました。
のちに山号は「照高山」と改められ、十一代恵林のとき現在に見るの本堂を再建(寛政三年・1791年)したと云います。

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合掌し、ふか~~~く、一礼・・・ m(__)m です。

張り出した庇を支える左右の向こう柱の脇に巨大な木の根っこが置かれています。
昭和の頃には境内に巨大な松の木が二本あったと云いますので、おそらくは松枯れにより倒されたその松の根を掘り返し、その大松を記念したものだろうと思います。

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本堂の引き戸は近年改装されたものでしょう。
まだ白木の輝きが残っています。

奇異に感じるのは中央部の扉の左右にみえる、禅寺の開き戸をイメージするような部分です。
仔細は知りませんが、かっては回転用支柱のある開き戸だったのかも???・・・です。

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境内を引き立てる対の大燈籠がたちますが、この優美な燈籠も十三代見真の建立といわれます。

そして見真和上の徳をたたえる一枚の石板が建ちます。

見 真 和 上 頌 徳
見真師は寛政十一年生誕
長徳寺第十三世住職にして狼峰と号す。幼にして穎悟学を好み父真利師より宗余乗の講を受け、更に右泉師の門を敲いて天台学の研磨に勉むること多年。ために学徳大いに進み学階司教に補せらる。自坊に学寮を設くるや島地黙雷、赤松蓮城二師を始め遠近より多数の寮生参集してその薫陶を受く。この間鋭意門信徒の教化に努めたれば宗風大いに揚り後世に至る迄その高風を景仰追慕せざるものなし。
明治六年九月二十五日示寂す。
時に、年七十五

昭和四十七年八月下旬
選 専念寺第十四世住職 寺尾晃宣
書 長徳寺第十六世住職 高山止観

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時期は不明ですが、本堂大屋根の葺き替えもされたようです。
記念となるべく寛政三年(1791)建立の本堂鬼瓦が残されています。

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唐破風屋根の庇をつけた白壁のお経蔵も建ちます。

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山門を出て、今一度振り返りますと、鐘楼台の薄明りに南無阿彌陀仏の文字が浮かびます。
合掌 ・・・ です。

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長徳寺の大屋根の上に、大黒神島のシルエットが天蓋となってかぶります。

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沖農道からみた是長集落と長徳寺本堂の銀屋根、その沖に瀬戸の海がただ碧く碧く・・・です。

是長 入鹿明神社 3/3

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入鹿明神社に狛犬は置かれていませんが、拝殿の脇に、ほぼ等身大で木彫りのライオンが奉納されています。

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銘とか説明板は見えませんし屋外に置かれていますので、有名な木彫り作家が作ったものではないと思いますが、結構な迫力で参拝者を威圧します。

人一倍器用な大工さんか、宮大工見習いさんの練習作品かも???ですが、「なぁ~~~ぜ、ライオンなんだぁ~~~???」・・・です。

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その「なぁ~ぜ、ライオン」の疑問は、神社の全体画像も一枚残しておこうと、潮の引いた砂浜に降りて後ろを振り返りますと、「あっ、そうなんだぁ~~~」と、一瞬で解決しました。

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能美島志(1763年)に記載の、「社後峻巌千尺、小松森々タリ・・・ 」がこの景色です。

社殿右後方の垂直に切り立った岩山は、見ようによっては、ウサギにも、ネコにも見えますが、大きさからしてライオンと見るのが妥当だろうと思います・・・(*^。^*)です。

江戸時代後期の岩山(峻巌千尺)が今見えるものと全く同じだったかどうかはわかりませんが、松林がまばらとなった他はそんなに大きな変化はないだろうとおもいます。

ちなみに長さの単位である尺は、国や地方、時代、使用目的などにより変動がありますが、明治政府により、伊能忠敬が日本地図作製で使用した「折衷尺」が公式の曲尺(かねじゃく)として採用され、1メートルの33分の10が1尺であると定められました。

つまり、能美島志にいう千尺とは30.303 cm×1000≒303 mになります。
国土地理院地図では神社背後の最高地点は127.1 mですので、江戸時代の人は話を面白くするために少しだけ???風呂敷を大きめに広げたってこと・・・白髪三千丈よりはずい分と控え目・・・ (^^;) です。

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アップ画像です。
岩陰にあって瞳にも見える黒い小球はスズメバチの巣です。

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ライオン岩をもっとまじかで見てみようと柴をかき分け、峻巌千尺の岩山に分け入ってみることにしました。

下から見上げれば誰が見ても千尺には見えない峻巌も、上から下に見下ろせばカメラ画像以上に千尺の高さを実感することができ、足はすくみ、柴をつかむ手にも力が入ります。

沖に浮かぶ三角形の島が小黒神島で、その背後は宮島です。

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下から見上げたときには気づきませんでしたが、口に見える部分にまるで舌をだしたかのように大岩がぶらさがっています。

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さらに近づいてみました。

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えぇ~~~~。
どうなってるっでしょう。
奇跡?。神業??。摩訶不思議???。

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古くからの言い伝えに、「神域において、もしも石を盗ることがあれば神罰現然たり」と。

盗るどころか、お傍に近づくことも控えさせて頂きたく・・・ m(__)m そうろう。

是長 入鹿明神社 2/3

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入鹿明神社の拝殿はそう大きくはないのですが、奉納品が多種で、品数も沢山捧げられています。

ただ、海岸から数十メートルの距離に建つ拝殿に、潮風が吹き抜けるのは当然ですが、巻き上げた砂をつぶてのごとくに叩きつけてきますので、社殿や奉納品の傷みは想像以上だとおもいます。

拝殿正面には「入鹿神社」の社額があり、右上には般若面、左上の木の根っこは鹿の頭部骨格によく似ているので奉納されたのでしょう。

左下には舵輪があり、その下に赤く塗られた船の舵には、奉納 明神丸 平成八年 向田敏明とあります。
このようなタイプの舵は、近年の船で見ることはありません。
長い舵は帆走船の安定板ともなり、舵ききもよいのですが、砂浜やスベリに乗り上げる場合にそのままだと破損しますので、船上から舵を引っこ抜くことができるよう作られています。

さらには、舵床を自在とすることで舵を垂直に立てたり(たてかじ)後退角を持たせ(ながれかじ)て浅海航行もできる万能舵です。

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奉納 平成十四年十一月二十七日 野坂博子 とあります。

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平成十五年 奉寄進 向田敏明 とあります。

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鮭の木彫り。 光司と読めます。

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奉納 広島市中区舟入幸町?-?? 道田政雄 平成十年六月十五日

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奉納 平成十五年十月吉日 藤本正氏 中町出身

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重量物を背負って山道を歩くのにとても便利な「背負子(しょいこ)」平成十四年三月吉日が奉納されています。
その左には「棒ばかり」や「灯油ランプ」も見えます。

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奉納 道田房吉 明治参拾八年拾壱月吉祥日

絵馬は日露戦争(明治37年2月8日~38年9月5日)の日本海海戦(明治38年5月27日~28日)勝利を記念したものでしょう。

すべての読み取りはできませんが・・・
帝国明治三拾八年 日本海大戦露国婆艦隊全滅際我一部艦隊 敵艦アリヨール・ニコライ一世・アブラキシン・セミヤブイン四艦捕獲???

右上の小さな島にはタケシマ(竹島)、左上方の島にはウツリヤウトウ(鬱陵島)の文字がみえます。

多数の艦影は当時の日本海軍主力艦のようです。

婆艦隊とはバルチック艦隊のことで、敵艦アリヨール・ニコライ一世・アブラキシン・セミヤブイン四艦は海戦で降伏捕獲された「オリョール」・「インペラートル ニコライ1世」・「ゲネラル アドミラル アプラクシン」・「アドミラル セニャーヴィン」の艦名です。

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大元帥陛下???廣嶋?發??之圖
當村 大下寅松
明治廿九年九月吉日

s-大元帥陛下御親征広島御発車之図
入鹿明神社奉納絵馬と同じ画像が、ウィキペディア「広島大本営」に掲示されていました。

「大元帥陛下御親征広島御発車之図」とよばれ、画家「瀧川三代太郎」の作品です。

ちなみに、広島大本営は、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の戦争指揮のために広島県広島市の広島城(現中区基町)内に設置された、大日本帝国軍の最高統帥機関です。

大本営は明治27年9月13日宮中より広島へ移転、2日後に明治天皇の広島行宮となり、下関条約調印後の明治28年5月30日までの227日間、広島城が大日本帝国の宮城となりました。
その後も戦後処理のために残った広島大本営ですが、明治29年4月1日、詔勅によって解散消滅しました。

以上ウイキペディアの要約・・・m(__)mです。

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???陛下陸軍??病院?御行啓之圖
當村 野???
???九月吉日

他にも、佐伯郡沖村字是長平本浦吉 明治参拾九年???など
辛うじて読める絵馬、まったく判読できないものまで数点が残ります。

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変色していますが、入鹿明神社前に広がる「入鹿海水浴場」のカラー写真(平成初期?)で、中央の白い建物が「サンビーチおきみ」です。

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境内には鐵錆に染まった大きな錨(アドミラルティ型ストックアンカー)が奉納されています。
説明では、「宮島 龍宮丸」昭和五十四年八月 鹿田港にて解体 
寄進者 浜田利歳明 平成十一年十一月吉日 とあります。

s-竜宮丸 
島巡り遊覧船「龍宮丸」の絵葉書?です。
(この画像は「東北芸術工科大学東北文化研究センター・アーカイブス」よりコピペ・・・m(__)mです。)

昭和30年代から45年頃まで使用されていたと云いますので、私も見てはいるはずなのですが記憶にはありません。
島巡り遊覧船と記されていますので、団体客の予約専用船だったのかも???です。

s-乙姫丸201311
画像はグーグルストリートビュー2013年11月です。

龍宮丸とは姉妹船となる乙姫丸は音戸町田原の県道35号線わきで、つる草に埋まっていたのですが現在は???です。
画像中央上部にマストがみえます。

是長 入鹿明神社 1/3

s-是長グーグル・入鹿明神社 
是長地区は旧沖村では最北部に位置し、長い海岸線が北へと伸びて旧三高村の美能・高祖と接します。
現在の海岸線道路ができる前は、東へ高松峠を越えて三吉へと通じる山道が本道でした。

入鹿明神社は是長の集落からは離れた、しかも道路沿いでもない海岸のはるか先にあり、観光開発が進む前はかなり辺ぴなところでした。

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かって辺ぴで人気もなかった入鹿明神社の目の前は、現在「入鹿海水浴場」「サンビーチおきみ」と銘打って護岸や堤防を整備し、砂を盛って立派な人工砂浜の海水浴場ができあがりました。

軽自動車もやっとの狭い海岸道も観光バスが入れるくらいの広さに拡張、うまく詰めれば100台は入れそうな駐車場も整備されています。

左手前の石灯籠側面には文政十三年庚虎六月十七日と彫られています。

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鳥居は一部修復されていますが、???山野井忠八 元文三年戊午三月吉日 石工 松上長??の文字が見えます。

鳥居の脇に由緒が記された板が立てられています。

入 鹿
(いるか)明 神 社
嘉慶元年(1387)藤右馬守忠正が創建したといわれ、祭神は海の神(上津綿津見神ほか二柱)で、これについて、その昔、鹿などを射て暮らす善久という人がいて、或る夜、老翁が夢枕に現れ、「この沖に頭に榊葉をいただき弊帛をつけた鹿が上がる。これは、筑前(福岡県)入鹿大明神の分身なり」と告げます。夢からさめた善久が沖に出てみると、一匹の鹿が浜辺に身震いして立ち、その背に白木の弓を肩に横たえた天人が降りてきて「ここに社を建てて入鹿明神を崇めよ。我は本地大日如来なり」と告げた。というような伝説があります。

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入鹿明神社拝殿です。
狛犬はみえませんが、等身大に近い大きさで木彫り?のライオンが周りを威圧します。
(なぜ、ライオンなのかは?のちほど・・・びっくり、しゃっくり、ぶったまげ~・・・(*^。^*)です。)

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靴底の砂を払って拝殿に上らせていただき「二拝二拍手一拝」です。
社額は「入鹿神社」と揚げられています。

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頭に榊葉をいただき弊帛をつけた鹿が上がってきた神の道です。

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左高所に建つのが本殿、幣殿で結んだ先の瓦ぶき屋根が拝殿、さらにその先、阿多田島や宮島の浮かぶ大海の方向へと向かって石鳥居が建ちます。

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再建の時期は不明ですが、旧拝殿の鬼瓦です。

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天保十一 九月十日 の文字が見える石灯籠です。

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「能美島志(1763年)」には、「社後峻巌千尺、小松森々タリ、社前細石玉ヲ布クガ若シ、碧海渺茫タリ」と記され、当時より景勝の地とされていました。
(上記、沖美町史よりコピペ・・・m(__)mです。)

現在小松の森は縮小し、細い石玉は他所より運ばれた細砂と変わりましたが、社後に迫る千尺の峻巌はそのまま残り、碧海の渺茫(びょうぼう)も当時のままに残ります。

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大きな台風が来れば容赦なく大波が押し寄せる砂浜に大きな灯篭や石碑がたくさん寄進されています。

おそらくは、何度も倒され、そして八起したのでしょう。
手前の自然石っぽい巨大石柱には明治十年九月吉日の彫がみえます。

畑 古地図(芸藩通志)

畑・古地図完成画 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

畑・古地図完成画・東南 
地図の東南部分を拡大したものです。

畑・古地図完成画・西北 
地図の北西部分を拡大したものです。

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元画像です。

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国土地理院の空撮画像、昭和37年(1962)5月16日、東京オリンピック開催の2年前です。

是長から畑、岡大王、才越を経由して鹿川へのバス路線は昭和13年ごろに開通しましたが、是長から美能、高祖を経由して三高港へと通ずバス路線が開通したのは、この年、昭和37年3月です。

多くの畑にミカンの苗木が植えられており、多くが成長の途中である様子が見えます。
港の中央部には造船所?があり、スベリには建造中の船?が乗っているように見えます。

沖小学校がコンクリート校舎になったのは昭和45年1月、沖中学校は昭和54年10月になってやっとコンクリート校舎が完成、この画像の頃は両校とも木造の校舎でした。

畑 いいとこ撮り

s-グーグル地図・畑 
一般的な地図では大黒神島は岡大王地区に組み込まれますが、大黒神島の北西部は畑地区が所有します。

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画像は「沖美町史(平成元年三月三十一日発行)」に掲載の画像で、広島県立図書館が運行していた移動図書館船「ひまわり」が畑港へ立ち寄った場面です。

「ひまわり」は昭和36年12月15日、江田島町小用の「江田島造船所」で建造された木造船で、総トン数19.75t、最大速力は19ノットです。

就役期間である昭和37年4月1日から昭和56年7月31日の間、航行距離82,477km(地球を2周半)、利用者数は587,318人、貸出冊数は365,825冊であったと記録されています。

畑港で撮影の写真は昭和37年1月となっておりますので、おそらくは就役訓練を兼ねて畑港に立ち寄り、地元学生を呼んでのお披露目、船内見学などがあったのでは?と想像します。

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この画像は2005年7月、初めて買った200万画素のデジカメで写したものです。

船の経年老化と陸上交通の発達により、移動図書館の業務を図書館車「みのり号」にバトンタッチ、廃船となった「ひまわり」は瀬戸田町に寄贈され文化資料として保存活用されることとなりました。

私が初めて「ひまわり」を知ったのは小学生??の頃、おそらくは当時映画上映の前に必ず流される映画ニュースで??、でなければNHKの風土記番組で??・・・そこら辺の記憶は飛んでいるのですが、段々畑に除虫菊の波がうねる瀬戸内海の小さな港に「ひまわり」が静々と入港、桟橋には手に2,3冊の本を持った人々がしだいに集まってくる様子が、今も不思議と記憶の奥に残ります。

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往還道の下に広がる農地です。
ある時は米を作り、麦を作り、芋を植え、エンドウやダイコン、葉タバコ、そして除虫菊の白い花で埋まったこともあったやもしれません。

昭和の30年頃からはミカン作りが奨励されましたが、一帯がミカン畑に変わった途端の大暴落、多くの営農家は一瞬で路頭に迷う状況となりました。

数々の不条理な農業政策に不信の感が渦巻く激動のご時世にあっても、ただひたすら農地を守り育てる善良なお百姓さんの畑は常に美しく草一本も生えません。

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手入れされた畑の向こう、段々畑が何本もの横筋となって見えていた大黒神島も今は草木に埋もれて無人島です。

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往還道を飾る、薄い桃色の梅の花・・・(*^。^*)です。

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人家の密集する畑地区ですが、白壁の大きな土蔵もけっこう目につきます。

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平屋建て、南向き、潮風の吹き抜ける見通しの良い高台、県道わき、広い庭、普通車三台以上が余裕で駐車可能・・・そうゆうのを大豪邸っていいますよね・・・(*^。^*)です。

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大型車は入りづらいかも?ですが、いいな~~~。
こんなお家に住んだら、百歳までは余裕で長生きができそう・・・(*^。^*)です。

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県道から少し路地に入った所のタバコ屋さんです。
手売り販売は止めたようですが、文明の利器である自動販売機が24時間連続勤務で働いてくれます。

赤いプレートに白字で「たばこ」、昔はよくお世話になりました。

奥の方の縦長いプレートには「煙草小賣所 煙草小賣人」ってあります。
タバコ屋のお姉さんって、登録制だったのかなぁ~?。

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道路わきの駐車場に「PORTER CAB」マツダのポーターキャブです。

ポーターキャブは1969年3月から1989年まで販売されたそうで、初期型のエンジンは空冷直列2気筒2ストローク360ccだったそうです。

何年型かは分かりませんが、フットワーク良さそうで、細い坂道もスイスイと登れそう・・・(*^。^*)です。

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沖離島農道から見た岡大王集落と畑集落、畑漁港、遠く丘の上には役目を終えたばかりの沖美町役場の庁舎が白く輝き、その先の薄墨シルエットで浮かぶ厳島の山々に対比します。

畑 頌徳碑・軍人墓地

s-沖美町畑B・医師碑 
県道36号線沿い、元 沖小学校(現 沖美市民センター・沖美支所)の北隣り、山側に「世良田三次郎 頌徳碑」が建ち、県道を挟んで海側には「軍人墓地」があって英霊の墓石数十基が建ちます。

s-頌徳碑 
画像は元沖小学校校舎の残る、2013年11月のグーグル地図です。

海側に軍人墓地、山側に頌徳碑、その先の白い建物が2007年3月廃校となった沖小学校の校舎です。

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沖村の誇りとして今に伝わる医師、世良田三次郎氏の頌徳碑です。

廻りに垣を築き、高く積まれた大石の上、瀬戸の大海を眼下にして建ちます。

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大きな石碑の盤面には以下の文字が刻まれます。

頌 徳 碑 (しょうとくひ)
文部大臣 灘尾弘吉 篆額(てんがく)

世良田三次郎先生は資性仁侠四代の医業を継ぎ大正四年より昭和二十八年に至る四十有余年村医を兼ね終始一貫郷土民の健康保全に専念し患者に対しては恰も慈母の子に接するが如く往診は悪路馬に依り速かに病床を訪れ慈愛溢れる手当を終えて宅に帰り寝に就くは深夜二時三時に及ぶが如き又重患と見るや終夜枕頭に在て万善の処置を講ずる等特に利を求めず私財を投げうって施薬治療を貫行せらる嗚呼稀に見る仁医その恩恵に浴したる者数知れず眞に感銘に堪えざる所である依て同志相謀り茲に碑を建て以て比の偉大なる仁徳を永く後世に伝える
昭和三十二年五月 同志八百十名

(篆額とは、石碑の上部に篆書で書かれた題字で、灘尾弘吉氏の書です。)

誤字脱字がありましたら・・・m(__)mです。

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沖村から出征、英霊となった方々の奥津城、身は帰らずとも、魂はこの地に宿ります。

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廻りを囲む玉垣には、「墓苑玉垣 寄贈者 丸本?次? 昭和十四年一月」の文字が見えます。

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遠く海の向こうからお帰りになられたのでしょう。
背を西に、日いずる東を向いての整列です。

深く、深く、さらに深く、合掌・・・m(__)mです。

畑 元沖美町役場

s-沖美町畑B・旧沖美町役場 
今のような、スマホ地図アプリとかが無かった頃だと、初めて沖美町役場へ行くには途中2人くらいに道を尋ねなくては判らないような、場所にあります。

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元沖美町役場は、宇根山から延びる山裾の途中にポッコリとできた小丘を、平に削って造った高台にあります。

実は、この高台に建つ真っ白な建物を始めて見たころは、大会社の保養研修用施設?か、一般人は受け入れない会員制のリゾートホテル??だろうと思っていました・・・ (^^;) です。

白亜の沖美町役場がここに完成するまでには長い歴史と、そこに暮らす人々それぞれに多くの葛藤がありました。

そもそもは明治16年、住民の反対を押し切って岡村と大王村とが合併し岡大王村に、そして明治22年、岡大王村と畑村と是長村とが合併し沖村となりました。

さらに昭和31年、沖村と三高村(三吉・高祖)とが合併し、人口8447人の沖美町が発足しましたが、町役場は取り合いとなり、沖と三高とが2年交代で持ち廻ることとなりました。

全国的にも非常にユニークな発想でしたが、利便性や経費に問題があり、昭和45年となり当畑地区に新庁舎を竣工、沖美町役場として固定されました。

その後平成16年の4町合併により、江田島市沖美支所となりましたが、耐震化等の問題もあって平成29年3月、元沖小学校の跡地に移転と相成りました。

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小丘を登ったところに、明治22年発足の「沖村役場」と深く彫られた門柱が残ります。

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建てられた当初は遠目、リゾートホテルにも見えた元沖美町役場庁舎です。

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中央部が玄関で、右に「沖美町民憲章」の碑が建てられており、左側にはなんと、堂々下水管用マンホールの蓋が立て掛けられ飾られています。

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昭和31年誕生の沖美町町名は「青い海と緑の山にとりかこまれた沖の美しい町」からで、町章は昭和54年制定「おきみ」の図案化と沖・三高が中央の山で強く結ばれ、住民の円満と協調のもとに未来に向かってゆるぎなく前進する姿を象徴。(町章原案作者 酒永光志)

沖 美 町 民 憲 章   昭和六十二年九月三十日制定

わたしたちは美しい自然と誇り高い伝統をうけつぎ明るく住みよい郷土沖美町を築くためこの町民憲章を定めます

一、自然を愛し清潔で美しい町をつくりましょう
一、人権を尊重し平和で明るい町をつくりましょう
一、教養を深め文化の香りたかい町をつくりましょう
一、明日への希望をもち元気で働き活力ある町をつくりましょう
一、お互いに助け合い健康で人間味あふれる町をつくりましょう

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江田島市沖支所玄関わきに堂々飾られた、下水道管用マンホール蓋です。

青い空・白い雲・緑の山々・碧い海・輝く波・コスモスの赤い花々・・・(*^。^*)です。 

ちなみに佐伯郡沖美町、町の木はサクラ・町の花はコスモス・合併前の2004年3月末の人口は、4,032人でした。

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「江田島市 沖美支所」2015年3月の画像です。

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沖美支所から見た南の方向、手前が畑地区の家々、ずっと向こうに専念寺本堂の大屋根が見えます。

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畑地区の家々を見下ろし、西洋のお城のように建った沖美町役場も、今その任を終えて・・・。

畑 元沖小学校・元沖中学校

s-沖美町畑B・元沖小学校・中学校 
畑地区集落から是長へと通づ県道36号線の山側に、沖小学校と沖中学校がありました。

沖小学校は2007年3月末に廃校となり、児童の学区は鹿川小学校へ、沖中学校は2006年3月末に廃校となり、生徒の学区は能美中学校へと変わりました。

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「沖美町立 沖小学校」の校札が掛けられた元沖小学校の正門です。

元沖小学校は明治初期に開設された、大王(精練舎)・岡(蒙養舎)・畑(遷心舎)・是長(文明舎)から発展、明治22年、岡大王・畑・是長の合併により沖村が成立後もそれぞれの地区に小学校を擁立していましたが、大正7年4月、是長・畑・岡大王の尋常小学校を統合、高等科を併設し「沖村尋常高等小学校」としました。
開校時の学童数は尋常科720名、高等科の生徒は54名でした。

昭和16年4月「沖村国民学校」、昭和22年4月「沖村立沖小学校」昭和31年9月、町村合併により「沖美町立沖小学校」と改称、昭和45年1月鉄筋コンクリート4階建て校舎竣工、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖小学校」となるも、平成19年(2007)3月末日をもって廃校となりました。

花崗岩の立派な門柱の側面には寄贈者のお名前と、昭和十二年五月十一日の文字がとぎれとぎれにに残ります。

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昭和63年1月に落成し、現在も防災避難所として残されている、元沖小学校屋内運動場です。

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2015年3月の画像です。
廃校当時の面影が残る、沖小学校が中央部、右の校舎は沖中学校、県道36号線の下に超近代的外観をもった学校プールが残ります。

プールの向こう、オムスビ型の小さな島は小黒神島です。

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元沖小学校の校門脇には、市内でも1、2を争う立派な造りの二宮金次郎の銅像が残ります。
中央部奥に見える白い建物は元沖中学校の校舎です。

二宮金次郎(尊徳)像について
二宮金次郎の銅像が最初に作られたのは、1910年(明治43年)彫金家、岡崎雪聲が作った銅像だと言われますが、金次郎が薪を背負って歩きながら本を読んだ逸話は、1881年に発行された「報徳記」に記述があり、それをもとにした幸田露伴の著「二宮尊徳翁」(1891年)で、挿絵となって表されたのが始まりとされます。

ちなみに金次郎像が、小学校に置かれたのは大正13年、愛知県豊橋市「前芝小学校」が最初とされ、その後ブロンズ製品の多くは富山県高岡あるいは大阪で、石像は愛知県岡崎で盛んに造られたようです。
戦時中ブロンズ製の金次郎像は多くが金属供出され、代替え品としてコンクリート製に変わりましたが、戦後も昭和30年頃をピークとして金次郎ブームは続きました。

金次郎像がなぜ全国各地、多くの小学校に立像されたかはっきりしませんが、二宮尊徳の偉業が修身などの教科書に取り上げられ、勉学意欲の向上に役立ったことや、金次郎像の表現する趣旨が一見してわかりやすいこと、販売業者の巧みな宣伝などが合いまったと思われます。

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正門付近から見た、元沖中学校の校舎です。

「沖村立沖中学校」は昭和22年4月沖小学校東校舎を借り、生徒数243名、6学級編成で開校しました。
昭和23年10月になり現在地に新校舎が完成し移転しましたが、24年10月に校舎を全焼、25年6月復旧、昭和31年9月町村合併により「沖美町立沖中学校」と改称しました。

昭和54年10月鉄筋コンクリート3階建て校舎が完成、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖中学校」となるも、平成18年(2006)3月末日をもって廃校となりました。

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昭和49年9月に落成した、沖中学校体育館です。

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校門の脇に建つ「学校保健文部大臣表彰記念碑」 昭和六十二年十一月十二日 文部大臣 中島源太郎 書です。

右横には、卒業記念樹 平成十四年三月十日 卒業生一同のプレート板も見えます。

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県道下に残る、素敵なデザインの学校プールです。
プール付近に人影はなく、水面には人工的に植えられたスイレンが葉を広げ始めています。

入り口の扉に掲示されたポスターには、
えたじま「花とまつり」と「音楽祭」 平成29年6月11日(日) 
10:00~ ホンモロコの鑑賞・水上撮影会
11:00~ アケミ&フレンズの演奏
13:30~ 和太鼓グループ 響輝(ひびき)の演奏

主催:NPO法人 沖美町地域再生会議
共催:沖まちづくり協議会
・・・と。

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元沖小学校前のカーブミラーに写るのは、今も残る沖小学校屋内運動場の建物と、その前の運動場には縄跳びをしたり、追っかけっこをしたり、砂場を掘り返したりする沢山の子供らが映ります。

ミラーには逆さ文字となって「沖美市民センター(沖美支所)」の文字も・・・うつります。

畑 県道36号線

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画像は畑漁港荷揚げ広場に設置された、江田島市作成の「畑漁港 津波高潮ハザードマップ」です。

畑地区を横断する県道36号線は、津波高潮到達予想圏内からは十二分に高い位置にあります。
地震被害に連動する地すべりや建物崩壊、火災等の危険がないのであれば県道まで避難すれば十分な安全が確保できます。

ちなみに、南海トラフ巨大地震が広島県に及ぼすであろう被害想定は、最大震度6弱・最大津波波高4m・津波到達最短時間は186分であるとされます。

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畑地区を貫く県道36号線は、地区の目抜き通りでもあり、多くの商店が軒を連ねています。
いや、・・・連ねていました。

岡大王地区から畑地区に入ると大きな酒屋さん「大勢登酒店」さんがあります。
今は自動販売機だけでの営業ですが、「千福」や「白牡丹」の清酒や、キリン、アサヒのビールケースが何段にも積み上げられた時期も・・・

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ショーウインドゥには、千福の特大十升瓶?と白牡丹の一升瓶がディスプレイされています。

ちなみに、千福(千福醸造元KK 三宅本店)は江戸時代後期の1856年(安政3年)呉市で 創業、清酒醸造に着手したのは1902年(明治22年)、「千福」の商標登録は1916年(大正3年)といわれます。

一方の白牡丹(白牡丹酒造KK)は江戸時代前期1675年(延宝3年)西条にて操業、「白牡丹」の酒銘は天保10年(1839)12月、京都の五摂家である鷹司家より御家紋に因んで白牡丹の酒銘を賜った、と云われます。

ショーウインドゥ 万華鏡のよう 私を見る 私がいるのよ ・・・(^^♪ (^^♪ です。

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「引いてください」と書かれたお店の入り口は固く閉ざされており、その横に小さなテーブルが置かれ、花 ¥100・野菜 ¥100・芋 ¥200・甘柿 ¥200・いちじく ¥300とあり、さらに、「ありがとうございます。お花は新聞紙に包んでお持ち帰りください。」・・・と。

いちじく、食べたいなぁ~。 甘柿もいいなぁ~。 芋かぁ~、うまいだろうなぁ~。

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このお家?、外からの雰囲気だと洋品店さん??? ・・・かなぁ~。

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こちらは?、そうですねえ~、雑貨屋さん?わからんなぁ~???。

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江田島警察署 沖警察官駐在所です。
まん丸いガラス玉の赤色玄関灯はもう時代遅れのようで、今は蛍光灯を覆う赤い長方形の玄関灯に変わったんですねぇ~。

でも、玄関の左右に建つ花崗岩の門柱は昔のまま、シャキッと威厳をもって直立不動の姿で残してあります。

掲示板には、不正大麻・けし撲滅運動と、自転車安全利用5則を指導するポスターとが並べて貼ってあります。

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沖郵便局です。
掲示板には夜間警戒強化中の張り紙と、「浅田真央♡リカちゃん人形セット(記念フレーム切手セット付)」予約販売用ポスターとが並べてあります。

沖美町史を要約すれば、明治以前にも飛脚制度による連絡網はあったが、明治7年10月16日、中村に郵便局が設置され、明治15年7月31日、岡と三吉にも郵便局が新設されたとあり、さらには明治18年、畑村の岡田岩吉氏方に郵便函場・郵便切手売捌人が置かれました・・・と。

ちなみに、大正8年頃に郵便集配人を勤めた立畑繁夫氏の談によれば、早朝5時に岡大王の自宅を出て、雀峠を越え、中村港6時30分発江田島行の郵便船に郵便物を届けます。
帰途、中村郵便局にて沖村宛郵便物を仕分けて11時頃には帰宅。
午後は各戸への配達と各郵便函を廻っての集荷を済ませ、夕刻になり帰宅するのが日々の日課であった・・・と。

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小さな小さな電気屋さん。
でも修理の腕は超一流だったんでしょうね。

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「〇ほ」の屋号?が残るお店です。
間口が広いから八百屋さん???。食品雑貨も商っていたのでしょうか???。

ベニア板を打ち付けて閉ざした窓には、「日本再興へ全力政治!!」とスローガンの書かれた平口ひろし氏のポスターが一枚のみ貼られています。

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畑地区を横断する県道36号線は、細くって、右に左にカーブして、そして下がったり、そして上がったりと ・・・ 遠い昔話の聞こえてくる小道・・・(*^。^*)です。
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