畑 古地図(芸藩通志)

畑・古地図完成画 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

畑・古地図完成画・東南 
地図の東南部分を拡大したものです。

畑・古地図完成画・西北 
地図の北西部分を拡大したものです。

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元画像です。

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国土地理院の空撮画像、昭和37年(1962)5月16日、東京オリンピック開催の2年前です。

是長から畑、岡大王、才越を経由して鹿川へのバス路線は昭和13年ごろに開通しましたが、是長から美能、高祖を経由して三高港へと通ずバス路線が開通したのは、この年、昭和37年3月です。

多くの畑にミカンの苗木が植えられており、多くが成長の途中である様子が見えます。
港の中央部には造船所?があり、スベリには建造中の船?が乗っているように見えます。

沖小学校がコンクリート校舎になったのは昭和45年1月、沖中学校は昭和54年10月になってやっとコンクリート校舎が完成、この画像の頃は両校とも木造の校舎でした。
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畑 いいとこ撮り

s-グーグル地図・畑 
一般的な地図では大黒神島は岡大王地区に組み込まれますが、大黒神島の北西部は畑地区が所有します。

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画像は「沖美町史(平成元年三月三十一日発行)」に掲載の画像で、広島県立図書館が運行していた移動図書館船「ひまわり」が畑港へ立ち寄った場面です。

「ひまわり」は昭和36年12月15日、江田島町小用の「江田島造船所」で建造された木造船で、総トン数19.75t、最大速力は19ノットです。

就役期間である昭和37年4月1日から昭和56年7月31日の間、航行距離82,477km(地球を2周半)、利用者数は587,318人、貸出冊数は365,825冊であったと記録されています。

畑港で撮影の写真は昭和37年1月となっておりますので、おそらくは就役訓練を兼ねて畑港に立ち寄り、地元学生を呼んでのお披露目、船内見学などがあったのでは?と想像します。

s-07210005ひまわり 
この画像は2005年7月、初めて買った200万画素のデジカメで写したものです。

船の経年老化と陸上交通の発達により、移動図書館の業務を図書館車「みのり号」にバトンタッチ、廃船となった「ひまわり」は瀬戸田町に寄贈され文化資料として保存活用されることとなりました。

私が初めて「ひまわり」を知ったのは小学生??の頃、おそらくは当時映画上映の前に必ず流される映画ニュースで??、でなければNHKの風土記番組で??・・・そこら辺の記憶は飛んでいるのですが、段々畑に除虫菊の波がうねる瀬戸内海の小さな港に「ひまわり」が静々と入港、桟橋には手に2,3冊の本を持った人々がしだいに集まってくる様子が、今も不思議と記憶の奥に残ります。

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往還道の下に広がる農地です。
ある時は米を作り、麦を作り、芋を植え、エンドウやダイコン、葉タバコ、そして除虫菊の白い花で埋まったこともあったやもしれません。

昭和の30年頃からはミカン作りが奨励されましたが、一帯がミカン畑に変わった途端の大暴落、多くの営農家は一瞬で路頭に迷う状況となりました。

数々の不条理な農業政策に不信の感が渦巻く激動のご時世にあっても、ただひたすら農地を守り育てる善良なお百姓さんの畑は常に美しく草一本も生えません。

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手入れされた畑の向こう、段々畑が何本もの横筋となって見えていた大黒神島も今は草木に埋もれて無人島です。

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往還道を飾る、薄い桃色の梅の花・・・(*^。^*)です。

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人家の密集する畑地区ですが、白壁の大きな土蔵もけっこう目につきます。

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平屋建て、南向き、潮風の吹き抜ける見通しの良い高台、県道わき、広い庭、普通車三台以上が余裕で駐車可能・・・そうゆうのを大豪邸っていいますよね・・・(*^。^*)です。

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大型車は入りづらいかも?ですが、いいな~~~。
こんなお家に住んだら、百歳までは余裕で長生きができそう・・・(*^。^*)です。

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県道から少し路地に入った所のタバコ屋さんです。
手売り販売は止めたようですが、文明の利器である自動販売機が24時間連続勤務で働いてくれます。

赤いプレートに白字で「たばこ」、昔はよくお世話になりました。

奥の方の縦長いプレートには「煙草小賣所 煙草小賣人」ってあります。
タバコ屋のお姉さんって、登録制だったのかなぁ~?。

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道路わきの駐車場に「PORTER CAB」マツダのポーターキャブです。

ポーターキャブは1969年3月から1989年まで販売されたそうで、初期型のエンジンは空冷直列2気筒2ストローク360ccだったそうです。

何年型かは分かりませんが、フットワーク良さそうで、細い坂道もスイスイと登れそう・・・(*^。^*)です。

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沖離島農道から見た岡大王集落と畑集落、畑漁港、遠く丘の上には役目を終えたばかりの沖美町役場の庁舎が白く輝き、その先の薄墨シルエットで浮かぶ厳島の山々に対比します。

畑 頌徳碑・軍人墓地

s-沖美町畑B・医師碑 
県道36号線沿い、元 沖小学校(現 沖美市民センター・沖美支所)の北隣り、山側に「世良田三次郎 頌徳碑」が建ち、県道を挟んで海側には「軍人墓地」があって英霊の墓石数十基が建ちます。

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画像は元沖小学校校舎の残る、2013年11月のグーグル地図です。

海側に軍人墓地、山側に頌徳碑、その先の白い建物が2007年3月廃校となった沖小学校の校舎です。

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沖村の誇りとして今に伝わる医師、世良田三次郎氏の頌徳碑です。

廻りに垣を築き、高く積まれた大石の上、瀬戸の大海を眼下にして建ちます。

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大きな石碑の盤面には以下の文字が刻まれます。

頌 徳 碑 (しょうとくひ)
文部大臣 灘尾弘吉 篆額(てんがく)

世良田三次郎先生は資性仁侠四代の医業を継ぎ大正四年より昭和二十八年に至る四十有余年村医を兼ね終始一貫郷土民の健康保全に専念し患者に対しては恰も慈母の子に接するが如く往診は悪路馬に依り速かに病床を訪れ慈愛溢れる手当を終えて宅に帰り寝に就くは深夜二時三時に及ぶが如き又重患と見るや終夜枕頭に在て万善の処置を講ずる等特に利を求めず私財を投げうって施薬治療を貫行せらる嗚呼稀に見る仁医その恩恵に浴したる者数知れず眞に感銘に堪えざる所である依て同志相謀り茲に碑を建て以て比の偉大なる仁徳を永く後世に伝える
昭和三十二年五月 同志八百十名

(篆額とは、石碑の上部に篆書で書かれた題字で、灘尾弘吉氏の書です。)

誤字脱字がありましたら・・・m(__)mです。

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沖村から出征、英霊となった方々の奥津城、身は帰らずとも、魂はこの地に宿ります。

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廻りを囲む玉垣には、「墓苑玉垣 寄贈者 丸本?次? 昭和十四年一月」の文字が見えます。

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遠く海の向こうからお帰りになられたのでしょう。
背を西に、日いずる東を向いての整列です。

深く、深く、さらに深く、合掌・・・m(__)mです。

畑 元沖美町役場

s-沖美町畑B・旧沖美町役場 
今のような、スマホ地図アプリとかが無かった頃だと、初めて沖美町役場へ行くには途中2人くらいに道を尋ねなくては判らないような、場所にあります。

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元沖美町役場は、宇根山から延びる山裾の途中にポッコリとできた小丘を、平に削って造った高台にあります。

実は、この高台に建つ真っ白な建物を始めて見たころは、大会社の保養研修用施設?か、一般人は受け入れない会員制のリゾートホテル??だろうと思っていました・・・ (^^;) です。

白亜の沖美町役場がここに完成するまでには長い歴史と、そこに暮らす人々それぞれに多くの葛藤がありました。

そもそもは明治16年、住民の反対を押し切って岡村と大王村とが合併し岡大王村に、そして明治22年、岡大王村と畑村と是長村とが合併し沖村となりました。

さらに昭和31年、沖村と三高村(三吉・高祖)とが合併し、人口8447人の沖美町が発足しましたが、町役場は取り合いとなり、沖と三高とが2年交代で持ち廻ることとなりました。

全国的にも非常にユニークな発想でしたが、利便性や経費に問題があり、昭和45年となり当畑地区に新庁舎を竣工、沖美町役場として固定されました。

その後平成16年の4町合併により、江田島市沖美支所となりましたが、耐震化等の問題もあって平成29年3月、元沖小学校の跡地に移転と相成りました。

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小丘を登ったところに、明治22年発足の「沖村役場」と深く彫られた門柱が残ります。

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建てられた当初は遠目、リゾートホテルにも見えた元沖美町役場庁舎です。

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中央部が玄関で、右に「沖美町民憲章」の碑が建てられており、左側にはなんと、堂々下水管用マンホールの蓋が立て掛けられ飾られています。

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昭和31年誕生の沖美町町名は「青い海と緑の山にとりかこまれた沖の美しい町」からで、町章は昭和54年制定「おきみ」の図案化と沖・三高が中央の山で強く結ばれ、住民の円満と協調のもとに未来に向かってゆるぎなく前進する姿を象徴。(町章原案作者 酒永光志)

沖 美 町 民 憲 章   昭和六十二年九月三十日制定

わたしたちは美しい自然と誇り高い伝統をうけつぎ明るく住みよい郷土沖美町を築くためこの町民憲章を定めます

一、自然を愛し清潔で美しい町をつくりましょう
一、人権を尊重し平和で明るい町をつくりましょう
一、教養を深め文化の香りたかい町をつくりましょう
一、明日への希望をもち元気で働き活力ある町をつくりましょう
一、お互いに助け合い健康で人間味あふれる町をつくりましょう

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江田島市沖支所玄関わきに堂々飾られた、下水道管用マンホール蓋です。

青い空・白い雲・緑の山々・碧い海・輝く波・コスモスの赤い花々・・・(*^。^*)です。 

ちなみに佐伯郡沖美町、町の木はサクラ・町の花はコスモス・合併前の2004年3月末の人口は、4,032人でした。

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「江田島市 沖美支所」2015年3月の画像です。

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沖美支所から見た南の方向、手前が畑地区の家々、ずっと向こうに専念寺本堂の大屋根が見えます。

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畑地区の家々を見下ろし、西洋のお城のように建った沖美町役場も、今その任を終えて・・・。

畑 元沖小学校・元沖中学校

s-沖美町畑B・元沖小学校・中学校 
畑地区集落から是長へと通づ県道36号線の山側に、沖小学校と沖中学校がありました。

沖小学校は2007年3月末に廃校となり、児童の学区は鹿川小学校へ、沖中学校は2006年3月末に廃校となり、生徒の学区は能美中学校へと変わりました。

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「沖美町立 沖小学校」の校札が掛けられた元沖小学校の正門です。

元沖小学校は明治初期に開設された、大王(精練舎)・岡(蒙養舎)・畑(遷心舎)・是長(文明舎)から発展、明治22年、岡大王・畑・是長の合併により沖村が成立後もそれぞれの地区に小学校を擁立していましたが、大正7年4月、是長・畑・岡大王の尋常小学校を統合、高等科を併設し「沖村尋常高等小学校」としました。
開校時の学童数は尋常科720名、高等科の生徒は54名でした。

昭和16年4月「沖村国民学校」、昭和22年4月「沖村立沖小学校」昭和31年9月、町村合併により「沖美町立沖小学校」と改称、昭和45年1月鉄筋コンクリート4階建て校舎竣工、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖小学校」となるも、平成19年(2007)3月末日をもって廃校となりました。

花崗岩の立派な門柱の側面には寄贈者のお名前と、昭和十二年五月十一日の文字がとぎれとぎれにに残ります。

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昭和63年1月に落成し、現在も防災避難所として残されている、元沖小学校屋内運動場です。

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2015年3月の画像です。
廃校当時の面影が残る、沖小学校が中央部、右の校舎は沖中学校、県道36号線の下に超近代的外観をもった学校プールが残ります。

プールの向こう、オムスビ型の小さな島は小黒神島です。

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元沖小学校の校門脇には、市内でも1、2を争う立派な造りの二宮金次郎の銅像が残ります。
中央部奥に見える白い建物は元沖中学校の校舎です。

二宮金次郎(尊徳)像について
二宮金次郎の銅像が最初に作られたのは、1910年(明治43年)彫金家、岡崎雪聲が作った銅像だと言われますが、金次郎が薪を背負って歩きながら本を読んだ逸話は、1881年に発行された「報徳記」に記述があり、それをもとにした幸田露伴の著「二宮尊徳翁」(1891年)で、挿絵となって表されたのが始まりとされます。

ちなみに金次郎像が、小学校に置かれたのは大正13年、愛知県豊橋市「前芝小学校」が最初とされ、その後ブロンズ製品の多くは富山県高岡あるいは大阪で、石像は愛知県岡崎で盛んに造られたようです。
戦時中ブロンズ製の金次郎像は多くが金属供出され、代替え品としてコンクリート製に変わりましたが、戦後も昭和30年頃をピークとして金次郎ブームは続きました。

金次郎像がなぜ全国各地、多くの小学校に立像されたかはっきりしませんが、二宮尊徳の偉業が修身などの教科書に取り上げられ、勉学意欲の向上に役立ったことや、金次郎像の表現する趣旨が一見してわかりやすいこと、販売業者の巧みな宣伝などが合いまったと思われます。

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正門付近から見た、元沖中学校の校舎です。

「沖村立沖中学校」は昭和22年4月沖小学校東校舎を借り、生徒数243名、6学級編成で開校しました。
昭和23年10月になり現在地に新校舎が完成し移転しましたが、24年10月に校舎を全焼、25年6月復旧、昭和31年9月町村合併により「沖美町立沖中学校」と改称しました。

昭和54年10月鉄筋コンクリート3階建て校舎が完成、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖中学校」となるも、平成18年(2006)3月末日をもって廃校となりました。

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昭和49年9月に落成した、沖中学校体育館です。

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校門の脇に建つ「学校保健文部大臣表彰記念碑」 昭和六十二年十一月十二日 文部大臣 中島源太郎 書です。

右横には、卒業記念樹 平成十四年三月十日 卒業生一同のプレート板も見えます。

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県道下に残る、素敵なデザインの学校プールです。
プール付近に人影はなく、水面には人工的に植えられたスイレンが葉を広げ始めています。

入り口の扉に掲示されたポスターには、
えたじま「花とまつり」と「音楽祭」 平成29年6月11日(日) 
10:00~ ホンモロコの鑑賞・水上撮影会
11:00~ アケミ&フレンズの演奏
13:30~ 和太鼓グループ 響輝(ひびき)の演奏

主催:NPO法人 沖美町地域再生会議
共催:沖まちづくり協議会
・・・と。

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元沖小学校前のカーブミラーに写るのは、今も残る沖小学校屋内運動場の建物と、その前の運動場には縄跳びをしたり、追っかけっこをしたり、砂場を掘り返したりする沢山の子供らが映ります。

ミラーには逆さ文字となって「沖美市民センター(沖美支所)」の文字も・・・うつります。

畑 県道36号線

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画像は畑漁港荷揚げ広場に設置された、江田島市作成の「畑漁港 津波高潮ハザードマップ」です。

畑地区を横断する県道36号線は、津波高潮到達予想圏内からは十二分に高い位置にあります。
地震被害に連動する地すべりや建物崩壊、火災等の危険がないのであれば県道まで避難すれば十分な安全が確保できます。

ちなみに、南海トラフ巨大地震が広島県に及ぼすであろう被害想定は、最大震度6弱・最大津波波高4m・津波到達最短時間は186分であるとされます。

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畑地区を貫く県道36号線は、地区の目抜き通りでもあり、多くの商店が軒を連ねています。
いや、・・・連ねていました。

岡大王地区から畑地区に入ると大きな酒屋さん「大勢登酒店」さんがあります。
今は自動販売機だけでの営業ですが、「千福」や「白牡丹」の清酒や、キリン、アサヒのビールケースが何段にも積み上げられた時期も・・・

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ショーウインドゥには、千福の特大十升瓶?と白牡丹の一升瓶がディスプレイされています。

ちなみに、千福(千福醸造元KK 三宅本店)は江戸時代後期の1856年(安政3年)呉市で 創業、清酒醸造に着手したのは1902年(明治22年)、「千福」の商標登録は1916年(大正3年)といわれます。

一方の白牡丹(白牡丹酒造KK)は江戸時代前期1675年(延宝3年)西条にて操業、「白牡丹」の酒銘は天保10年(1839)12月、京都の五摂家である鷹司家より御家紋に因んで白牡丹の酒銘を賜った、と云われます。

ショーウインドゥ 万華鏡のよう 私を見る 私がいるのよ ・・・(^^♪ (^^♪ です。

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「引いてください」と書かれたお店の入り口は固く閉ざされており、その横に小さなテーブルが置かれ、花 ¥100・野菜 ¥100・芋 ¥200・甘柿 ¥200・いちじく ¥300とあり、さらに、「ありがとうございます。お花は新聞紙に包んでお持ち帰りください。」・・・と。

いちじく、食べたいなぁ~。 甘柿もいいなぁ~。 芋かぁ~、うまいだろうなぁ~。

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このお家?、外からの雰囲気だと洋品店さん??? ・・・かなぁ~。

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こちらは?、そうですねえ~、雑貨屋さん?わからんなぁ~???。

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江田島警察署 沖警察官駐在所です。
まん丸いガラス玉の赤色玄関灯はもう時代遅れのようで、今は蛍光灯を覆う赤い長方形の玄関灯に変わったんですねぇ~。

でも、玄関の左右に建つ花崗岩の門柱は昔のまま、シャキッと威厳をもって直立不動の姿で残してあります。

掲示板には、不正大麻・けし撲滅運動と、自転車安全利用5則を指導するポスターとが並べて貼ってあります。

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沖郵便局です。
掲示板には夜間警戒強化中の張り紙と、「浅田真央♡リカちゃん人形セット(記念フレーム切手セット付)」予約販売用ポスターとが並べてあります。

沖美町史を要約すれば、明治以前にも飛脚制度による連絡網はあったが、明治7年10月16日、中村に郵便局が設置され、明治15年7月31日、岡と三吉にも郵便局が新設されたとあり、さらには明治18年、畑村の岡田岩吉氏方に郵便函場・郵便切手売捌人が置かれました・・・と。

ちなみに、大正8年頃に郵便集配人を勤めた立畑繁夫氏の談によれば、早朝5時に岡大王の自宅を出て、雀峠を越え、中村港6時30分発江田島行の郵便船に郵便物を届けます。
帰途、中村郵便局にて沖村宛郵便物を仕分けて11時頃には帰宅。
午後は各戸への配達と各郵便函を廻っての集荷を済ませ、夕刻になり帰宅するのが日々の日課であった・・・と。

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小さな小さな電気屋さん。
でも修理の腕は超一流だったんでしょうね。

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「〇ほ」の屋号?が残るお店です。
間口が広いから八百屋さん???。食品雑貨も商っていたのでしょうか???。

ベニア板を打ち付けて閉ざした窓には、「日本再興へ全力政治!!」とスローガンの書かれた平口ひろし氏のポスターが一枚のみ貼られています。

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畑地区を横断する県道36号線は、細くって、右に左にカーブして、そして下がったり、そして上がったりと ・・・ 遠い昔話の聞こえてくる小道・・・(*^。^*)です。

畑 畑漁港(沖港) 2/2

s-畑19750209(S50)畑漁港(沖港) 
上の画像は、昭和50年(1975)2月9日に撮影された畑漁港(沖港)です。

沖港の旅客船桟橋は港の中央部、大きな荷揚げ倉庫の右から沖へと突き出したコンクリート製のスベリで、倉庫の右に小さな乗船待合所の四角い屋根がみえます。

そもそもこの地で人々が社会生活を営むためには、四方を囲む海を往来するしか方はなく、昭和48年、早瀬大橋が開通するまでは船が交通の主役であり、住民の足でした。
ディーゼル船や船外機エンジンが世に広まるまでは、中学生程度の体力があれば皆が櫓舟を操り、一里(4km)沖の大黒神までなら一時(2時間)で行って帰ってこれたと云います。

ちなみに、この地で元祖定期航路と云われるのは、明治38年、沖村の岡田岩吉氏が蒸気船海勝丸(62t)で、大原・深江・沖村・是長・美能・高祖・三吉・高田・中村・江田島・津久茂・大須・似島・宇品の間を一日一往復で結んだのが始まりです。
採算が取れず、3年ばかりで敗退となりましたが、住民の要望や自治体の支援、船の性能アップなどもあって、その後は倉橋、東能美、西能美、江田島、似島などそれぞれに多くの航路が乱立しました。

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現在も沖港に残る、沖・宇品航路乗船客待合所です。

戦中、戦後の混乱期を乗り越え、
昭和39年、三高・宇品間にカーフェリー就航
昭和41年、「鯉城」沖・宇品航路に就航
昭和47年、「千鳥」三高・宇品航路に就航
昭和50年、「高速艇」沖・宇品間に就航
昭和57年、沖・宇品航路廃止

と、一時は高速艇により、沖から・是長・美能・三高・大須・似島を経由して・宇品の間を1時間弱で結んだこともありましたが・・・。

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待合所の壁に今も残る昭和57年当時の、沖・宇品航路、高田・宇品航路の、高速艇航路図と時刻表です。

【 宇品行き 第1便 】
沖(07:10)・是長(07:15)・美能(07:25)・三高(07:40)・大須(-)・似島(-)・宇品(08:00)・・・です。

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港の中央部に建つ、番船積み出し用の農産物一時保管倉庫です。

最盛期には数隻の番船が目ざし状に並び、舳先から渡した踏板を通ってミカンやスイカ、ダイコンやイモ、キュウリやナス、トマト、キャベツなどなど、隣の番船と競争で積み込まれていました。

ちなみに帆船時代の番船(農産物運搬船)は、広島(本川橋 集散場)までを通常3日で往復、冬場の悪天候だと1週間かかることもあったが、発動機船(トントン船)となってからは2日、昭和30年代にディーゼル船となって、やっと日帰りができるようになったと云います。

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荷揚げ広場から海底へと続く急なコンクリート製の階段は、雁木(がんぎ)と呼ばれる港湾設備で、竜宮城へと続く階段ではありません。

当地は4m近い潮の満ち引きがあり、丈夫な鋼鉄製で浮力のある浮き桟橋が一般的となる前は、このように石やコンクリートで階段を作り、潮の満ち引きに影響されることなく、船からの荷揚げや積みこみ作業をおこなっていました。

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手前のレール状に木材が取り付けられた斜面は、船の修理や船底掃除などをするためのスベリです。
その先にコンクリートで階段状に造られた雁木(がんぎ)がみえます。
最奥に見える大きな建物が、農産物の積み出し品を一時保管庫したり、船から荷揚げした物資を保管する倉庫です。

古くからの港にはこの三点がセットとして必ず造られていましたが、船(番船)による農産物や物資の輸送が無くなったことから、倉庫をなくして駐車場に、雁木は港湾改築でコンクリートの下に埋められ、代わりに浮き桟橋が繋がれるようになりました。

スベリは今も使われていますが、多くの船は整備会社に一任し、船長自らが修理したり船底のペンキを塗ったりすることは少なくなりました。
また、小型船などはグレーンで持ち上げ、台車に乗せて保管場に移動してから点検整備を行います。

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港として、最低限必要とされるのが防波堤です。
古い時代に造られた多くの防波堤が取り壊されたり、新たに築かれた荷揚げ場の下に埋もれたりしていますが、ここには旧畑港当時の防波堤が今も残っています。

天下の大阪城桜門には蛸石と呼ばれる大石(5.5m×11.7m 推定重量130t)、京橋口には肥後石(5.5m×14.0m 推定重量140t)などなど、とてつもなく大きな石を使った工事がなされています。
(ちなみに、蛸石は備前犬島から切り出された花崗岩、備前石は讃岐小豆島の花崗岩、ともに工事担当者は岡山藩主池田忠雄です。)

このような国家規模の一大プロジェクトであれば数十トンの大石を運搬し正確に設置する技術もあったようですが、漁港の防波堤工事にお殿様が威信をかけるはずもなく、大型重機の無い戦前であれば、2、3人の石工さんが滑車やカナテコを使って動かせることができる、最大でも数百キロ程度の石で築かれます。

ちなみに花崗岩の比重は約2.7ですので、50cm四方の石だと340kg、普通石垣に使用される表面が50cm角の四角錐だと重量も110kg程度で、この防波堤もそのような重量の石を集めて構築されています。

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古い防波堤の上にコンクリート柱が立てられており、側面に字が読み取れます。

昭和十二年??竣工
工事請負者
倉橋島 中川己之助・中川九?

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岬の突端付近に、煉瓦とモルタルで作られた、燃料保管庫と思える建物があります。

使用されている灰色の煉瓦はおそらく「炭滓煉瓦」とよばれるもので、大正時代に宇部・小野田で石炭灰(石炭ガラ)を利用して作られた無焼成煉瓦では???と思いますが???。

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燃料保管庫?の壁から送油管らしきパイプが突き出ています。

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畑港を北風から守る、岬突端部分の花崗斑岩です。
この花崗斑岩は江田島の基盤となる呉花崗岩の割れ目に貫入した岩脈で、呉花崗岩よりもやや風化に強く岬や山の稜線部分を形成することが多い岩石です。

その固い花崗斑岩に、海風と砂によって半球状の穴があけられています。
岩をここまで穿つには、さて、幾千年の年月ぞ・・・(*^。^*)です。

畑 畑漁港 (沖港) 1/2

s-沖美町畑B・畑漁港(沖港) 
畑地区の最南部、沖へと突き出した岬の下に畑の小さな港があり、そこからさらに南下した岡地区にも砂浜を石で囲った小さな港、岡港がありました。
二つの港はそれぞれに改築工事を重ねてはいましたが、昭和50年頃から岡港のさらに南に大きな防波堤を築き、その後畑港を西風から守っていた北西の堤防も延長して、両港をすっぽりと覆った巨大畑漁港が完成しました。

ちなみに同じ港が沖港とも呼ばれるのは、明治22年に是長、畑、岡大王が合併し沖村となりましたが、畑港は沖村役場に最も近く、船の出入りも多い中心港であることから沖港とも呼ばれました。

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畑漁港の北西から延びる長大な防波堤、少々の台風ならヘッチャラ、ヘッチャラ・・・(*^。^*)です。

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その長大な防波堤の先端に大きな無人灯台が建ちます。

灯台側面に付けられた名板には
畑港西 防波堤灯台
初点 昭和41年3月
改築 昭和59年3月

この灯台は太陽光発電エネルギーを用いて、CO2の発生がなく、消費電力が少ないLEDを点灯させる地球に優しいエコ灯台です。・・・(*^。^*)と。

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灯台設置場所から見た宇根山頂上。 画像中央から左側が畑地区、右側の集落が岡地区となります。

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旧畑港の側に係留された小舟です。

漁業のみで生計を立てる船は???半農半漁?、あるいは休日用の釣り船?・・・みたい。

戦前はイワシ漁が盛んで、戦後は石炭運搬船や、砕石運搬船、大黒神で日帰り農業を営む農耕船、廿日市や宇品へ野菜やミカンを運ぶ番船、日用雑貨を持ち帰る船でごった返した時期もあったと云います。

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防波堤の隅に、タコつぼがキッチリ、寸分もたがわぬように整頓されて並べ置かれています。

まだまだ、現役バリバリ真面目で几帳面な漁師さんが、ご健在の様子・・・(*^。^*)です。

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旧畑桟橋に繋がれた中でもっとも古そうで貫禄のある船「第十八幸力丸」です。

しばらく漁にでることも無いようですが、魚介の入った生け簀が海中に下げられていますので、別の僚船が毎日捕った魚を補充してるのかも?・・・です。

幸力丸の船首には巻き上げ用電動ドラムが装備されていますので、刺し網漁あるいは、タコつぼ漁、アナゴ漁などに活躍したのでしょう。
おそらくもう使われることはないと思いますが、非常用?として左舷のスペースに櫓が一挺残してあります。

ちなみに、向こうの船は「第二十幸力丸」まだ現役の様子です。

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舳先に刻まれた独特の文様。
地域によっては船名以外なにも書かれていない場合もあるとか?ですが、江田島市内でみる古い木造船のほとんどには、唐草模様や、目を図案化したものや、幾何学的な模様など、それぞれに個性ある模様が彫り込まれており、さらに原色を使った彩色がなされています。

詳しく資料をあさったわけではありませんが、大型帆船の船首にはよく女神像などが取り付けられており、もとは航海の安全を願う護符でもあるといわれます。

江田島市近辺の漁船がヨーロッパの帆船を真似たとは思えませんが、安全と豊漁を願う気持ちを船首に彫り込む意図は同じものだと思います。

ルーツの一つとして、広島近海の漁業進展索として広島藩主浅野氏が、縁のあった紀州の漁師を呼び寄せ、その高度な漁労技術を当地に指導伝播させたことから、当時の紀州漁師の風習も同時に取り込まれた???

ちなみに、ネット検索では愛知県南知多の篠島漁港の漁船船首には唐草模様があるとか・・・(*^。^*)です。

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「第十八幸力丸」とは別の桟橋に、小型底引き漁船「なつき丸」が繋がれています。
幸力丸とはトン数で4、5倍は大きい分、貫禄も十分、舳先に彫られた唐草模様も複雑で手が込んでいますし、その下には目を図案化したような特異な文様も見えます。

このギョロ目でにらまれたら、舳先を泳ぐチヌやスズキはもう身動きができなかったでしょう。

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「なつき丸」、しばらく漁には出ていないようですが、陸に揚げて少し修理をすれば・・・
元々が、頑丈に造られた船ですから・・・。

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防波堤の上に土器製のタコつぼが数個、上げ置かれています。

十年か、それ以上前にタコを狙って沈めたタコつぼでしょう。
繋いだロープの一端が岩の角に引っかかって切れてしまったのかも・・・
そのまま捨て置かれていたものが、網に引っかかり船に揚げられたようです。

重くて、壊れやすい土器製のタコつぼはもう使われることはありません。
ものは良いのだがなぁ~~~

畑 大坪川・陽津川

s-畑防災PNGa・陽津川・大坪川 
畑地区の主要河川には大坪川と陽津川、さらに是長との境界近くには佐村川があります。

大坪川は江田島市最高峰である野登呂山(542m)の頂上付近の谷から水を集めますが、集水面積はさほど広くはなく、ほぼ一直線に海岸まで流れ下ります。

畑集落の北西、陽津川は数本の谷から水を集めますが、全長が短く集水面積のわりには安定した流量が望めません。

(画像は江田島市防災マップから・・・m(__)mです。)

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大坪川の下流部です。
花崗岩の切り石やコンクリートで頑丈に造られてはいますが、川幅約1.5m、堤防の高さも1.5m弱しかありません。

s-畑19750209(S50)拡大・池・陽津川jpg 
画像は昭和50年2月、中央部の集落が畑地区で、当時はミカンを主力とする農業が最高の活気を見せたころです。

地区の周りは畑の地名ともなったと思える、畑(当時はミカン園)で囲まれており、少ない自然水をやりくりして水田も開拓されています。

不思議なのは、集落への水の供給元はわずかに大坪川のみといった乾燥地域に、これだけの大集落(畑村)がいかになり立ったのか???です。

明記した資料はみあたりませんが、おそらくは海洋性堆積物地層で保水性の良い宇根山(野登呂山)からの豊富な地下水水脈があるのだろうと想像します。

大坪川に集まる表層水のみだと、日照りが1週間も続けばカチカチに干上がってしまいます。

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畑集落では唯一ともいえる、用水池(畑大池)が大坪川中流部に造られています。

農業用給配水設備が完備した今日ではほとんど使われることもありませんが、農業全盛だった昭和後期のころまでは最後に残ったバケツ一杯の水までもが争奪の対象となるくらいに、大切な黄金の水だったに違いありません。

顧みられることのなくなった畑大池ですが、今でも陽の光を反射し、鈍くはなりましたが黄金の輝きを発しています。

s-グーグル畑大池原画Abb 
画像右下の削られた丘の上に畑荒神社が建ち、谷となる大坪川の脇に畑大池が青く水を溜めます。

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畑大池とは小径を挟んで、今は見捨てられてしまった古井戸があります。

ゴミが入らないようにと覆っていたトタン板も風にあおられ垂れ落ちていますが、水道水が通る昭和43年8月の頃までは、大池以上に大切に管理されていました。
(もちろん、それまでにも地区ごとではありますが簡易水道が整備されており、すでに飲用としての役割は終えていました。)

大石の敷かれた洗い場に溜まった水は、一滴も無駄にすることなく大池へと流し込み、さらに農業用水となって再利用がなされていました。

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畑大池から下流方向を見ます。
道路の左が大坪川の流路となっており、そのままほぼ直線で畑漁港へと流れ込みます。

畑大池の脇には「畑ポンプ所」がありますが、このポンプは広島太田川から送られ畑地区へと届いた水道水をさらに高い位置にある貯水兼配水用の水道水タンクへと送るためのポンプであり、畑大池の溜まり水を利用するポンプではありません・・・(*^。^*)です。

s-DSCN2561.jpg 
元沖小学校・沖中学校の脇を流れ下る陽津川の中流部です。
かってはこの僅かな水も最大限に利用して田んぼや畑がつくられていましたが、残念ながら・・・(^^;)です。

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農道の中央に真新しいコンクリとが白い帯となって続きますが、この部分の地下には遠く沖美町三吉、木下川上流部に造られた三高ダムより送られた、農業用水が流れる給配水管が埋まっています。

そして農道の左には石を積み、コンクリートで防水処理をした小さな水路があります。
農業の盛んだった昭和の時代にはこのような細い水路が縦横に張り巡らされており、河川から流れ下る水を一滴の無駄もなく、田畑に循環させていました。

梅雨に入った今の時期なら、ピカピカに手入れされた水路を細い水流がサラサラと音を立て、下段の田んぼへと途切れることなく水を送っていました。

ただ、毎年同じ時期に同じ量の降水量があるわけなどありえません。
多く降れば、水路や田んぼの畔は決壊し濁流となってさらに下流へと被害を拡大し、少なければ田んぼやあぜ道はひび割れ、丹精込めたミカンの樹も、葉っぱが黄色くなり実が落ち、やがて枯れ木ばかりの畑になってしまいます。

「水を制する者は国を制す」三高ダムからの給配水だけで安心するのは・・・です。

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下水道整備の進捗により再び綺麗な川に戻りつつある、大坪川の最下流域です。
ボラの子やクサフグの影が動きます。
うまくすればシラウオとか、ウナギなんかも、のぼってくるかも?・・・(*^。^*)です。

畑 沖恵美須神社

s-沖美町畑B・恵美須神社 
沖美町畑漁港(沖港ともいいます。)から海岸道路を隔てた埋め立て造成地に沖恵美須神社が建ちます。

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この恵美須神社は旧畑魚港を冬の季節風から守る岬の突端にありました。
石段を上った先の今はコンクリートで固められた大岩(見張石)の上に建っていましたが、残念なことに平成3年の19号台風により倒壊しました。

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岬の突端からこの地に移転し、再建が叶ったのは平成5年の10月です。

神殿脇には、移転再建に尽力された大勢の方々の芳名を刻んだ銅板が残されており、添え文として「平成三年台風十九号により神殿倒壊につき平成五年十月当地に再建されました」
と記され、平成五年十月吉日
代表世話人 沖漁業協同組合
  組合長理事 島津栄三 と、刻まれます。

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二拝二拍手一拝 ・・・m(__)mです。

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撮影は2015年3月、平成5年(1993)の移転再建からすでに21年と半年、銅板葺きの恵美須さんにも目に見えないところで少しづつ傷みが出始めたご様子です。

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境内には魚魂碑が建ち、「大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり 我等はこの生命の上に生活を築き今日の繁栄を見る 願はくば魚介の霊よ安らかに ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す」
平成五年十月吉日
沖漁業協同組合 組合長理事 島津栄三 と、刻まれます。

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後日、再び訪れると・・・

新たな石板も建ち
弐百萬円 江田島町 株式会社フルサワ 代表取締役 古澤成憲
五拾萬円 呉市 大新土木株式会社 代表取締役 新田清剛 
壱百萬円 呉市 ダイユウ技研土木株式会社 代表取締役 井場徳翁
弐拾萬円 能美金属工業団地協同組合 代表理事 古澤成憲
壱拾萬円 
久栄建設・五興石材・小林建設・澤岡鐵工所・三商・七福組・砂川組
空久保建設・空久保石材・坪稀・室来建設工業・三高運送・宮本海産
山根建設・・・などなど地元関連の業者名と寄付者の芳名が続きます。

添文として「平成五年当地に建立された神殿が著しく老朽損傷したため上記有名のご寄付によりここに新しく建立されました」
平成二十八年十月吉日
代表世話人 沖漁業協同組合 代表理事組合長 丸本秀夫 と、です。
(誤字脱字ありましたら・・・m(__)mです。)

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23年で新しく再建された沖恵美須神社です。
あらためまして、二拝二拍手一拝。 
ま、ぶ、し~~~ (*^。^*)です。

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神殿は真っすぐ畑漁港の方を向き、海の向こうの島影は大黒神島です。

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今一度深く頭を垂れて・・・m(__)mです。

畑 荒神社 (向井神社)

s-沖美町畑A・畑荒神社 
畑地区は西能美である沖美町、旧沖村の岡大王地区と是長地区とに挟まれた、宇根山の南西斜面に位置します。
(グーグル地図でははっきりしませんが、大黒神島の北西部も畑地区に入ります。)

畑地域の氏神、畑荒神社は岡大王地区との境界付近、宇根山から続く尾根の、大きな古松があったとされる小丘を削って建ちます。

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平成14年に再建された畑荒神社に祀られるのは
手置帆負神
屋船久久能智神
屋船豊受姫神
彦狭知神
の四神と、云われます。

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拝殿前で、二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。

拝殿内の正面に「荒神社」の社額が掛けられており、左右には仁王様の額が奉納され、額下に沖美町畑  登地靖徳 平成14年11月吉日とプレートが付けられています。

s-2015-03-13 224 
棟木には板が打ち付けてあり
正殿再建 十月吉日
議員 大?栄 大川秀郎
世話方 中本文吉 岡田岩吉 中田和助
さらに別板に 
世話方(イロハ順)
泉川柳吉 岡田吉松 岡田常太郎 岡田初吉 横田利助
竹本三次郎 空本藤一 坪木泰吉 中本常太郎 熊本庫次郎 
八木仁吉 松本實一 木戸出翁助 木村亀三郎 霜野群三郎
昭和六年十月二十五日再建
八幡神社神官 原勝彦
時ノ村長 神川登
大工棟梁 空久保準一 空久保久雄 鍵野宮夫
石工 川崎喜代次郎 川崎績 中田勇
左官 深江村 米田秀一
木挽 堀川茂 泊野柳一
御殿棟梁 梶亀一
労力奉仕 畑青年団員一同 時ノ支部長 増田宗雄 副支部長 前崎勇三

と、あります。
(誤字脱字は・・・m(__)mです。)

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さらに別の古い板には
正殿再建 十月吉日
本村 加藤伊三吉 加藤重作
日日村 山口幸太郎
左官? 阿加村 ?千助
石工 畑村 泊野清吉
別板に
明治五年 壬申 九月吉日
世話方
森川愛之助 美田清介 大?米助 熊本幸次郎 山根林三郎 谷本谷三郎
森田?太郎 森本次助 尾田准一 山下秋年 前寄?七 伊反田儀一郎
平野栄? 田川虎年
棟梁
高田村 加藤伊三吉 加藤伊サ次郎 加藤重作 山口幸太郎
原田福次 栄田興吉
木挽
大王村 傅次
左官?
阿加村 千助
石工
當村 利?
(誤字脱字は・・・m(__)mです。阿加村は阿賀村です。)

s-2015-03-13 213 
拝殿内には他にも沢山の写真が額に入れ掛けられています。
おそらくは写真好きの地元有志の方が、荒神社再建後に昔の写真もまとめて現像し奉納されたものでしょう。

左は、昭和32年9月吉日 オタフク舞手 空久保渡
右の額は、昭和37年9月吉日 メンシシ舞手 田代良暁・佐野博隆

メンシシは何処で撮影されたのか不明ですが、オタフクは能美町中町の八幡神社本殿で撮影されたものです。

中町の八幡神社は、沖美町(旧沖村・旧三高村)と、能美町(中町・鹿川・高田)、5地区の総氏神さんで、毎年秋の例大祭はこの5地区が持ち回りで執り行います。
奉納の舞である、お多福や獅子、ダイバ(天狗の面を被り薙刀や刀をもって勇壮に舞う)も、当番となった地区の若者が演じます。

ちなみに提婆(ダイバ)とは、釈迦仏の弟子である、提婆達多(だいばだった)のことで、のち釈迦に違背し分派して新しい教団をつくったとされます。
他にも釈迦への敵対行為が多く、仏の道を邪魔する鬼にもたとえられましたが、死期を悟ると再び釈迦に帰依したため、許され地獄道を脱したとされます。

提婆の舞は江田島八幡宮、大原新宮八幡宮でも奉納されますが、共に荒ぶれる勇者の一面が強調された舞いとなっています。
また、四国(愛媛)にも提婆の風習が残りますが、こちらでは棒を振り回しながら神輿の先導を務めたり、反対に邪魔をしたりと入信、背信を繰り返した提婆達多をそのままに演じている様子です。

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昭和42年9月吉日 オンシシ舞手 山西松雄・泊野己亜とあり、撮影場所は畑荒神社?だろうと・・・です。

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昭和52年9月吉日 オタフク舞手 空久保稔、撮影場所は八幡神社本殿。

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昭和57年9月吉日 ダイバ舞手 空久保一美、撮影場所は八幡神社本殿。

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昭和62年9月吉日 ダイバ舞手 空久保一美

平成9年9月吉日 ダイバ舞手 木原忍、共に撮影は八幡神社。

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平成4年9月吉日 オタフク舞手 空久保美幸、撮影は八幡神社。

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畑荒神社 取壊し安全祈願祭 荒神社にて平成14年8月8日・・・と。

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平成14年9月吉日 オンシシ舞手 神垣勝則・空久保雅樹、撮影場所は八幡神社。

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奉納寄進 鯨之歯 施向政助 昭和十四年八月吉日。

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再建された荒神社本殿です。
観音開きの頑丈な鉄扉は旧本殿の扉がそのまま再利用されました。

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再建された拝殿の右側面です。
まだ、新築の匂いが漂い、新瓦は銀色に輝いています。

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旧畑荒神社の大屋根に乗っていた鬼瓦です。

広く整地し直された境内の隅に、しっかりと固定し立て掛けてあります。
浮き出る模様は打ち出の小槌、信心深い畑の人々にはたくさんの幸せが振り出されました。

岡大王 古地図(芸藩通志)

岡大王地図(芸藩通志)
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

岡大王古地図jpg南側 
地図の東南側です。

岡大王地図(芸藩通志)北西側
地図の西北側です。

s-DSCN4924 (2) 
もと画像です。

岡大王 いいとこ撮り 2/2

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人口減少が甚だしい江田島市内にあって、さらに過疎化が懸念される旧沖村地区(是長・畑・岡大王)ですが、かっては廿日市や宇品は対岸であるという利便性を発揮し、経済的にも文化的にも他地域以上の発展を見ました。

現在の江田島市内にあっても他では見ることのない様な、すばらしくりっぱな石垣を組んだ大邸宅がこの旧沖村地区には沢山あります。

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往還道沿いに、高く積まれた石垣の上に土塀を築いたお城のようなお屋敷もあります。
さらにその広い邸内からはみ出したソテツは、広島県の天然記念物である鹿川の大ソテツを凌駕する勢いで育っています。

このような、お城の石垣にも匹敵するような巧みな石組みは江田島市内でも旧沖村地区、中でも是長地区で際立っており、農閑期に段々畑に石垣を積み上げる技術から発展したものとは全く異質なものです。

お城を築くことのできる、特殊技能を継承した石工の小集団が、旧沖村地区に移住し活動した可能性も十分に考えられます。

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県道沿いの路肩に二台の脱穀機が並べ置かれています。

より新型と思える手前の脱穀機には「KATAKURA」の名が入った片倉機器工業株式会社製の片倉式脱穀機です。

この片倉機器工業株式会社は長野県松本市にあり、昭和19年、空襲を逃れて疎開した三菱重工名古屋航空機製作所の技術者と設備を継承し、同21年農業機械の生産販売を始めました。

昭和30年動力脱穀機の日本工業規格第一次の表示許可を取得、昭和44年オールスチール製軽量自動脱穀機を開発、その後も多岐にわたる農業機器の開発を手掛け、「消費者を大切にしたもの造り」をモットーとし躍進を続けています。

画像の脱穀機は自動式には見えませんので、昭和30年~40年くらいの間に製造されたもの?でしょう。

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主要部以外は木製の脱穀機です。

「TRADE HARAK」「MALUYO」と銘の入った脱穀機?です。
昭和40年代???まで、マルヨ式脱穀機として生産販売がされていた様子ですが仔細不明・・・(^^;)です。

おそらくは、昭和30年以前の動力式脱穀機だと思うのですが???・・・。

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左は、陶製の醤油樽で、上部をとても器用にくり抜いていあります。

右の火鉢のような陶製品は何でしょう???。
下部に穴が開いています???
縁の部分に「發明人 本藤光太」って、刻印も入っています。

二つとも、水に関する物のようですが???。
水には大変な難儀をする地区でしたので、屋根に降った雨水の集水枡?かも???・・・です。

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お百姓さん必衰の文明利器、軽トラです。

マツダの「ニューポーターキャブ」、エンジンは三菱自工製2G23型4ストローク2気筒SOHC「バルカンS」550cc、発売は1977年(S52)からです。

フロント下部に自然対流式外気取り入れ口があり、作動は運転席に座ったまま足で蹴り上げる?だったと思います・・・(*^。^*)です。

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農道脇にクワの樹の古木がありました。
大正時代に試みられたと云われる養蚕のなごりかも?です。

ちなみに日本最大とされる桑の樹は群馬県沼田市の「薄根の大クワ」です。
薄根の大クワは、幹周り5.6m、樹高13.6m、推定樹齢1500年とされます。

当地岡大王の大クワは、幹周り約2m、樹高約7m、推定樹齢おおよそ100年???・・・(^^;)です。

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農道脇や、家々を結ぶ小径の石垣の上にはよくスイセンが植えられています。

早春のまだ花の少ない時期に、心和むほのかな香りを漂わせます。

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往還道沿いのわずかな平地を利用してトタン屋根が架けられ、その下で真っ白な大根が切り干しにされています。

年明けの爽やかな春風を受け小刻みに揺れます。

s-DSCN2532 (2)  
岡大王の沖、阿多田島との間にある航路を海外からの大型客船が広島港へと進みます。

江田島市内にあっても、もっとも早くに異国の新風を感じ取ることのできる土地柄・・・(*^。^*)です。

岡大王 いいとこ撮り 1/2

s-グーグル岡大王(PNG)b 
グーグル地図から沖美町岡大王地区を切り出したものです。

大黒神島の地図がはっきりしませんが、実際は大黒神島の左上、北西部分、島の1/3が畑地区で残り2/3の南東部分が岡大王地区となります。

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此のあたりで、もっとも古くから人々が住み着いたであろう付近の、展望の良い小丘の上に樹齢200年はありそうな柿の木が育ち、その下にカーテンの閉ざされたお家が残ります。

そもそも治安の悪い太古瀬戸内に点在した小部落には自衛力などありません。
集落は海からの外敵に備え、いつでも山中に逃れることができる場所であることを第一に、次には飲み水と食量、さらに住居や煮炊きに必要な木材などが確保できる地があれば、そこが楽園でした。

やがて近隣の統治者の庇護を受けるために、高い年貢を支払う代償として、最低限の安全と利権が得られる世となりますが、権力者に媚びる(責務を果たす)ことにより安全と利権が担保となる人間社会の定めが変わることは、今もこの先もありません。

一生、だれとも遭遇せず、一人で無人島に隠れ住む暮らしができれば別ですが・・・(*^。^*)です。

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放任され、しばらく剪定を免れたモミジが大きく自己主張を始めてきました。

押さえられればしとやかに弱弱しく育つモミジの樹々も、ひとたび開放されればその勢いは思った以上に・・・(*^。^*)です。

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防風、あるいは崖の補強になればと残したアベマキ?の樹が、お家よりも大きくなりました。

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つい最近までご隠居さんがお住まいだったみたい?、余分な飾りのない端正なお家です。

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かなり大きな農家をされておられるご様子で、納屋が2つもあって曲がり屋風にくっ付いて作られています。
もしかしたら、二階は子供部屋?だったのかも・・・(*^。^*)です。

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大きめの基礎石を組んだ上に、重厚な造りの土蔵が乗ります。
ご先祖様伝来のお宝が、ぎっしりと詰まっていそうな・・・(*^。^*)です。

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とても落ち着く設計のお家です。
格子のガラス戸玄関も、シンプルでいいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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小さめなお家だけど、これまた端正な造りです。
お百姓さん家じゃなさそうだから、御隠居さんは元は公務員(官吏さん)とか?か?、なぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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大石川を挟んだ北側に建っていますので、となりの畑地区?かもですが、その此方側に建つ沖農協の倉庫となります。

今の新しい畑魚港ができる前は、おそらくこの倉庫の前に直接船を繋いで、荷物の出し入れをやってたのだろうと思います。

建てられた時期は不明ですが、土壁に漆喰を上塗りした白壁造りです。

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お屋敷の裏に急峻な段々畑を背負って建つ、農家造りのお家です。
右の納屋には牛が飼われていて、その下に広がる田んぼを耕し、敷き藁や牛糞は裏の段々畑に肥料として背負い上げていたのでしょう。

ちなみに、江戸後期の「芸藩通志」によれば、岡村の農家は66戸で牛の飼育数が26頭、大王村の農家は85戸で、30頭の使役牛が飼育されていたと記載されます。

昭和40年代となって化学肥料の急速な普及や、農作業の機械化により使役牛としての役割は終えましたが、今までの育成技術を生かし、乳牛や食肉牛の肥育が試みられました。

ただ、当地において広大な牧草地や飼料畑などは望むべくもなく、大半の飼料を輸入品にたより、さらに一家に1、2頭の零細経営では他地域、さらには海外の畜産業に太刀打つことはできません。

それでも、昭和後期までは各村々に一軒程度はあった畜産農家も、拡大する農産物自由化の荒波に呑まれ、ついには市内で牛を見ることはなくなりました。

学校帰り、田んぼを耕す牛さんの力強い姿にひかれ、遠回りをしてあぜ道に入り込み、レンゲの花を食べさせようと大声で牛を呼んで、まだ仕事中だとおじさんに怒鳴られたり・・・と。

そんな♪ 時代も♪ あったねと♪・・・(^^♪ です。

岡大王 能美金属工業団地

s-グーグル岡大王・工業団地 
岡大王の南端、大矢鼻から赤曲鼻の間の浅海を干拓して能美金属工業団地があります。

金属団地 
鹿川の大矢地区から大矢鼻、岡大王の赤曲鼻付近(横網代)は、戦前旧海軍の燃料保管庫として干拓造成がなされたもので、昭和22年の航空写真にも、燃料タンクのあった痕跡が沢山確認できます。

赤曲鼻農地 
これらの旧海軍用地は戦後農地として近隣住民に払い下げられましたが、鹿川大矢地区の南部は1953年、三菱系資本により買収され「鹿川ターミナル 株式会社」が設立されました。
現在総容量約76万キロリットルの原重油タンクを保有し、西日本の電力事業者や一般産業家向けに原重油の受け入れ、貯蔵・払い出しの業務を行っています。

大矢鼻より西側の大王横網代地区はその後も農地として葉タバコなどを栽培していましたが、販売価格の低迷や、連作障害、農業用水不足などの諸問題もあり、昭和45年に横網代地区の一括売却が決定、46年造成工事、47年ころより一部企業の操業が開始され、「能美金属工業団地協同組合」が発足、約20社の三菱造船下請会社が移転して、建造船の部品などの製造をはじめました。

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金属工業団地内の案内図です。

江田島市唯一となる工業団地内には、最盛期20社の造船業下請け企業が集中しましたが、その後の造船不況で半数が撤退することとなりました。

今に残る企業は精鋭中の精鋭、更なる技術の開発発展集約を目指し日本工業会をけん引すべく大きく活動を続けています。

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横網代の能美金属工業団地遠景です。
船体ブロックや、大型の部品も簡単に搬入搬出が可能な大きな天井クレーンのトラスレールが海上にまで張り出しています。

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金属工業団地に隣接する、フルサワ K K(旧古澤鋼材 KK)の船舶解体場で解体作業を待つ、護衛艦「ひえい」と、「SUPER LINER OGASAWARA(スーパーライナー オガサワラ)」です。

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ちなみにスーパーライナー オガサワラは、東京~小笠原間を乗客742名と貨物210トンを搭載し、速力38ノット約16.5時間で結ぶ夢の高速連絡船となる予定でしたが、往復の燃料費が2,500万円(2005年当時)掛かることから、購入元の小笠原海運が引き取りを拒否、完成後もPR活動等に使用されたのみで、長く建造造船所である、三井玉野造船所の岸壁に係留されたままとなっていました。

2012年になって解体が決定し、江田島市のフルサワ KKが受注、当地岡大王の赤曲鼻沖に回航されました。
(ウイキペディアより引用・・・m(__)mです。)

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2014年4月、解体場へ陸揚げされ艦首部分を残すのみとなった護衛艦「ひえい」です。

右側が艦首方向で、上甲板の中央に残った2つのドラム缶状のものは揚錨機、錨の上げ下ろしや係船用のロープを巻き取る作業で使用します。

船内の様子はわかりませんが、一般的にこの付近は倉庫として使われることが多く、錨鎖(錨用チェーン)庫、索具(ロープ)庫、ペイント庫、応急修理予備品庫などがあり、最下部にはソナードームやソナー探知機器がある?と思うのですが???です。

ちなみにヘリコプター搭載護衛艦「ひえい」は、石川島播磨重工業東京で1973年に進水1974年就役し、横須賀第51護衛隊に編入されました。
基準排水量5,050トン、全長153m、機関は蒸気タービンで70,000PS、最大速力31ノットで、5インチ速射砲、20mm機関砲、アスロック、シースパロー短SAM、短魚雷発射管を装備し、ヘリコプター3機を搭載しました。

武器など装備品を除く建造費は91億円???・・・とも。

最終所属は呉第4護衛隊、退役は2011年3月16日で、就役期間36年3ヶ月は歴代海自艦艇の中で最長、地球44周に相当する航海を無事に終え、当地で終焉を迎えることとなりました。
(ウイキペディアより引用・・・m(__)mです。)

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昭和20年8月、人類史上最大最悪の戦が終結しました。
大きく深い反省と急速な復興とを果たしつつ、平和の時を長く満喫し続けた赤曲鼻の白砂に小さなさざ波が寄せます。

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鉄サビのような赤い色をした花崗岩から名付けられたであろう赤曲鼻先端部です。
その先端を取り囲むように届くさざ波の向こう、大黒神島がさらなる大波到来を固く防ぐ格好で両袖を大きく広げます。

神風が吹くか、それとも台風か、できることなら薫風のままで ・・・ ・・・ です。

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その後の「オガサワラ」は2015年8月25日、沖美町岡大王から江田島町秋月の船舶解体場(フルサワ KK)へ、最後となる航海をタグボートに引かれていきました。

当時の東京都知事石原慎太郎の典子夫人により命名された「SUPER LINER OGASAWARA」は、2017年5月、すべてが解体されて、ただのアルミニュームの金属片となりました。

ちなみに研究費などを除く建造費は一説によれば115億円???とも。

岡大王 名勝「笠松」の跡

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旧正光港の最奥、大王天満宮の乗る王城岬(鼻)の先端部に、かって「笠松」あるいは「さがり松」と呼ばれる古松がありました。

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古くより人々に名勝として親しまれた「笠松」の景観は、昭和50年ごろマツクイムシの猛攻により一瞬で消滅しました。

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平成になり、手狭となった県道36号線のバイパスとして海岸道路の拡張工事が進展。

削り取られる運命となった岬の先端部分に残った花崗岩の奇岩部分を移設し、新たに若松を添えて、名勝「笠松」の跡とし、旧正光港の埋め立て地にその由来が残されることになりました。

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笠松の枝下、岬の先端部に残っていた奇岩は、花崗岩の風化初期にできる方状節理とよばれるものです。
ちなみに、方状節理(ほうじょうせつり)は、花崗岩のような深成岩によく見られる現象で岩体が直方体状となる節理をいいます。

岩石の節理現象には、他にも玄武岩によく見られる柱状節理や放射状節理、安山岩の板状節理があり、著明なものは国の天然記念物に指定されることも多くあります。

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かって笠松をはじめ、松の古木で鬱蒼としていた天神の杜も、その岬を守るすべての松が枯死したことにより、急速に風化が進行、ついにはコンクリートによる崩壊防止工事を受けることとなりました。

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岬の先端を削り取ってコンクリートで固め、昔からの港を埋めて幅広のバイパス沖海岸道が完成しました。

笠松 
昭和50年2月の正光港と、鬱蒼とした木々の中にある大王天満宮です。

画像でははっきりしませんが、おそらく「笠松」も健在だったろうと思われます。

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画像は江田島町切串にあった、花崗岩の方状節理が著明な崖です。

大王「笠松」の枝下にあった花崗岩奇岩とそっくりな状態で、つい先年までは健在でしたがこれも地震などあったら危険だということで、ワイヤーネットとコンクリートで塗り固められ、崖下のお地蔵さまも安全な場所へとお引っ越しされました。

このような自然の奇岩や古木には古来精霊がやどるとされ、信仰の対象とされました。
大王の天神様も元々はこれと同じように、花崗岩奇岩と古木笠松の自然信仰が始まりであったやも???・・・(*^。^*)です。

岡大王 農道・沖離島農道

県道・往還道・農道AA  
旧沖村(是長・畑・岡大王)地区を縦断する道路として、江戸時代に道幅90cmで開通したとされる往還道、大正から昭和にかけ整備が進んだ県道36号線、平成に入って大きく改良された護岸兼用道路であるバイパス沖海岸線、集落の最上部を縦断して昭和後期に広島県離島振興計画により開通した沖離島農道があります。

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沖離島農道は離島振興計画により昭和後期につくられたもので、当初は軽トラの離合にも不便な道幅でしたが、近年になり農業用水管の埋設と合わせ、道幅も大きく改良されました。

広島県離島振興地域指定a 
上図は「広島県離島振興計画(平成25~34年度)」からのコピペ・・・m(__)mです。

江田島市の一部(津久茂・高田・沖美・深江)は早瀬大橋架橋後もしばらく離島指定がなされていましたが、現在は解除され、あらたに「江能倉橋島地域半島振興計画」が始動することになります。

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普通車の離合も十分に可能な道幅に整備し直された沖離島農道です。

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集落の最上部を縦断しますので見通しも良く、岩国や大竹市の阿多田島、宮島まで一望できます。

眼下の大屋根は専念寺の本堂、その先、防波堤の内側が畑漁港です。

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農道は広くなり、対向車に気遣いする必要は無くなりましたが、急傾斜地につくられた農地は2、3mの幅もない段々畑の連続です。

当然、トラクターなどの重機が使えるわけもなく、今までどおり肩に背負って肥料を運び、クワでもって耕すか、せいぜい小型の耕運機を一段づつ畑の石垣越しに上げ下ろしして使うしかありません。

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お百姓さんの大変な苦労に応え、ジャガイモが宝石のような花をつけました。

地勢は急斜面ですが、花崗岩の風化土は作物の根っこを優しく包み、海風が揺らす葉っぱには、太陽からの光が溢れんばかりに注がれます。

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キャベツも今が成長の真っ盛り、大きく広げた葉っぱで太陽のエネルギーをすべて吸収、光合成反応をフル回転してガンガンと養分をため込んでいきます。

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整備された沖離島農道を一歩外れると、昔ながらの軽トラの離合も不自由な農道ばかりです。

季節は1月ですが、落ち葉や枯れ枝はきれいに取り除いてあり、お散歩だけのよそ者には理想の遊歩道、左右も前後も上下遠近も四季折々の最高の景観が演出されます。

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お城の石垣のように高く積まれた段々畑には、超小型の耕耘機を出し入れするのも一苦労です。

でもクワを使って耕すよりは格段にはかどりますし、女性でも・・・なんとか。

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平地の何倍もの重労働がともなう段々畑では、収益性の高い花き栽培などが適しますが、設備投資や栽培技術の習得、販売ルートの開拓など、またあらたな難問もいっぱい・・・。

温室内には管理手入れがゆき届いたスイトピーが色鮮やかに咲き競います。

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大黒神島と、海の青と、木々の新緑と、色とりどりの春の花・・・(*^。^*)です。

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夏みかんの向こうに広がる岡大王集落と、その先に伸びる半島の先端が赤曲鼻、さらにその向こうは深江沖野島、長島、はるか遠くに倉橋島の山並みまでが見通せます。

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岡大王地区の最南部、赤曲鼻の手前には巨大な温室設備を持つ、沖美ベジタ(有)があります。

建設業界からの異業種参入だそうですが、研究熱心で丁寧な作業管理、沖美町の豊かな自然環境とがうまく調和し、とても美味しいイチゴが育つといいます。
栽培品種は「紅ほっぺ」、大粒で色鮮やか、3月から5月に掛けてはイチゴ狩りも体験できます。

岡大王 県道36号線

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沖美地区(特に旧沖村)には急こう配な山裾がそのまま海岸へと落ち込む地形が多く、海岸沿いに道路を作るには近年の大型土木機械の登場が不可欠でした。

そのため、古くは耕作地を結ぶ農道と三吉(高松峠)や中村(雀峠)、鹿川(才越峠)とを結ぶ山越え道のみでしたが、江戸時代になり往環(おうかん)とよばれる90cm幅の道路が整備され、今もほぼそのままに、沖中央横断線(道幅は約3mに拡張)として是長、畑、岡大王を結びます。

現在の県道36号線の原型となる道路が整備された始めたのは大正7年で道幅は180cmでしたが、昭和6年になり、三高から沖(是長・畑・岡大王)、鹿川、大原を経由して大君までの間が県道認定を受けました。
才越え峠も昭和11年に5m幅に拡張され鹿川とを結ぶバスの運行(昭和13年 是長~鹿川)も始まりましたが、難工事であった是長と美能の間が完成したのは昭和35年で、三高とを結ぶバスの開通は昭和37年3月となってからでした。

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丸本真珠店さん前の県道36号線(広島県道36号高田沖美江田島線)です。
大型車同士の離合にはかなり神経を使いそうな道幅です。

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大王地区の丸本真珠店から、畑地区の元沖美町役場付近までは、県道沿いに小さいながらも数十軒の店が並び、沖地区の商店街通りとして昭和後期のころまでは賑わいもあったのですが、今は数店舗を残して休業状態となりました。

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寺野下酒店さんです。
ごく最近までは商いがあったようですが・・・。

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古くからのお店だったのでしょう。
柱に打ち付けたペプシコーラの看板が判読不能なくらい錆で覆われています。

ちなみにペプシコーラの日本本土内での販売開始(ボトリング)は1956年です。

一方のコカ・コーラは大正時代には輸入され、戦後進駐軍用にボトリングされていたといいますが、一般用にボトリングを開始したのは1957年です。

コーラ飲料が多くの人々に知られるようになったのは1962年、TVでCMが開始されてからのようです。
この看板も1960年ごろ、東京オリンピック(1964)の開催が決まったころに付けられた???。

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お酒、ペプシコーラの他にも、たばこ小賣所や、塩小賣所と、手広く商いをされていたようです。

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えっ?。
中国電力電球引換所の看板もあります・・・(*^。^*)です。

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数軒先へ進むと「学生服は乃木服」の看板が張られた元呉服商らしきお家もあります。

ちなみに、乃木服のブランド名は、昭和3年創業の備前織物(岡山市北区)より、乃木将軍学生服として出されたものですが、昭和55年廃業となり、のちニッショウ学生服と同様に、昭和被服総業が乃木服のブランド名を継承しています。

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散髪屋(理髪店)さんです。

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御料理、仕出し、食品雑貨の山井一馬商店さんです。

入り口のガラス戸には「広島歌謡コンサート」のポスターが張られており、出演者の香西かおり、新沼謙治、中村美津子、池田輝郎さんが笑顔でこちらを見ます。
上野学園ホール、開演は5月22日木曜日、午後の2時と夕方6時半、S席7,500円・・・です。

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このお家も広いアルミ戸の間口を持って、ご商売をされていた様子ですが・・・

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白壁に酒王千福の看板を揚げた、酒井酒店さんです。
キリンビールやタバコも商っておられます。

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畑地区との境界付近高台から見た、岡大王商店通り(県道36号)と、その上下に分断された岡大王集落の家々です。
センターラインもない狭幅の県道ですが、鋸の歯のように飛び出た幾つもの尾根を削り取り、深い谷を埋め、多くの民家の敷地を削って造られた、希少な交通路です。

現在は海岸線に沿った幅広いバイパス道を通る車が多くなりましたが、三輪バタンコや、ボンネットバスが頻繁に行き交った思い出の道。 昭和も遠くなりにけり・・・(*^。^*)です。

岡大王 小田港・正光港・畑漁港

小田港・正光港・畑漁港 
岡大王には南側から小田港、正光港、畑漁港と大規模な港が三つもあります。

かっては花崗岩の切り石で組んだ防波堤で囲われ、小さいけど風情のある港でしたが、平成に入ったころより、急速に近代化が施され、昔の情景を思い起こすよすがはまったく見当たりません。

その分、台風が近づいても増し舫い(ロープ)を一本多く取るだけで済むようになり、船を浜の奥に引き上げたり、他港に緊急避難する必要もなくなり、潮の満ち引きに関係なく安心して漁に出れるようになりました。

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旧小田港を埋めて沖に出し、大規模な近代化がなされた新小田港です。

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小田港とは防波堤一本を堺として、その北側に正光港が隣接します。

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正光港に舫う小型漁船です。
手前の桟橋の上に整然と並べてあるのは、タコ漁で使用するタコツボです。

昔は陶製の壺でしたが、近年はプラスチック製です。

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大王神社(天満宮)付近の高台から見た、南の方向です。
港の半分より手前が正光港で、その向こう南側が小田港です。

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畑漁港の南側(旧岡港)です。

北側の畑地区にはかって旅客船用桟橋(沖港)があり、是長港、美能港、三高港を経由し広島宇品港とを結ぶ定期航路がありました。

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畑漁港と道路を隔てて、沖漁業協同組合(岡大王・畑・是長)があります。

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県道36号線沿い、専念寺の南に丸本真珠店の看板が目立ちます。

えっ?、こんな田舎に(失礼。m(__)mです。)宝石販売店が???って、おどろいたのですが、実は真珠の養殖を本業(他に、アクセサリー修理,アクセサリーショップ,貴金属店,真珠,真珠卸,宝石加工,宝石貴金属リフォーム,宝石店)とされているようです。

中国新聞(2013年7月7日)記事によれば、水質の良い大黒神島付近でアコヤ貝を養殖、年間3万個の核入れ作業を行い、そのうちの6割程度(上質真珠は約5千個)が真珠として出荷されるといいます。

創業は1947年、最盛期には江田島市近海に40近い真珠の養殖業者が集まったこともありましたが、1967年の国内生産量125トンをピークに下降、2011年には20トンにまで落ち込みました。

現在江田島産真珠の養殖販売業は岡大王の「丸本真珠店」のみとなりました。

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小田港から南の赤曲鼻へと向かう途中、なんとも奇怪な船が数隻船首を道路側にして並びます。

映画撮影用の模型船?、木工船大工さんの練習用???・・・いえいえいえ・・・実は、ここはFRP船の造船所なのです。

外側から見える規則的に組まれた木材は、船形補強の骨材で、それにそって内側にスベスベした面を持つ船形が作られています。
その内側の船形に合わせてガラス繊維を何枚も張り合わせ、特殊な樹脂で固めます。
硬化した船体を形から抜き取ればFRP船の出来上がり?・・・って、まあそう簡単な作業ではなさそうですが、大小5、6種類の船形が用意されています。

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岡大王と大黒神島の間を行く小型漁船です。

船首に乗り、海面を凝視しながら船を進めていましたが、まさかカジキマグロの突きん棒漁じゃなさそうですし???・・・(^_^;)です。

昭和37年(小田港・正光港・畑漁港) 
昭和37年5月16日の航空写真です。

どの港も北側に防波堤が築かれており、湾口は南側に開けられています。

岡大王 大黒神島

江田島市地図グーグル・大黒神島 
大黒神島(おおくろかみしま)は、岡大王と畑地区の沖合約4㎞に位置し周囲が約12km、面積は約7.25km2で、現在は瀬戸内海で最大の無人島です。

この島は山が険しく、全島が森林におおわれていましたが、天保の大飢饉(1832~1840)のころから新たな耕作地を求めて移住する者が現れ、白瀬川を境に北西側が畑村に、南東側が岡大王村の所属地となりました。
最盛期には水田13町5反、畑12町6反ほどがあり、米や甘藷、西瓜などがよく採れたと云います。

大正中期のころよりは子供の学業などの利便性から能美島に移り、農耕船に牛馬を乗せ櫓をこいで黒神島に渡る、通い農業をする者も多くいたと云います。
昭和50年代までは人の気配があったようですが・・・。
ただ、まったくの無人島と云う訳ではなく、島の南西側では数社が大規模な砕石事業をおこなっており、もと島民が山菜取りなどでときおり訪れている様子です。

現代の生活には不便なこの島も、かっては原生林に近い鬱蒼とした山林があり、産出する木材は寺社や学校建築の用材、建設費用の捻出に大きく貢献しました。

原生林は戦後の山林火災で焼失しましたが、港湾整備や埋め立て事業に必要な石材が大量に眠る宝の島であることに変わりはありません。

この宝の島の帰属をめぐっては、過去に何らかのトラブルもあったようで、その一話として「ふるさとの民話 江田島・能美島」に以下の伝承が記されています。

大 黒 神 島 を 深 江 村 と 取 り 合 っ た 話  (要約)
昔、まだ時計もなく、鶏の鳴き声を夜明けの合図にしていたころの話です。

ある日、大黒神島で大王村の人が畑を耕し、野菜を作ろうとしていたところへ、深江村の人が現れ、「うちの村の土地でなにごとけぇ。この島はうちのもんじゃないけぇ」と言い張ります。
「わしは前々からここでものを作りよるじゃ。どしていけん。早いもん勝ち言うじゃあなぁか」と、争いが始まりました。

深江村の人は「この島は、うちの村の目と鼻の先にあるんじゃけぇ、近い方のもんじゃ。遠くの者がそう言うのはおかしなことじゃ」
一方、大王村の人は「んにゃ見てみい。この島はうちの村の真沖にあるじゃあなぁか。あっちの村の者が、こっちにある島を我がもんじゃ言うて、それこそおかしな話じゃ」
「これじゃあらちあかんけぇ、用意ドン!で競争し勝った方の島にしよう」
「んなら、一番鶏が鳴いたら舟を漕ぎ出し、先に島に着いた方が勝ちじゃあ」ということでまとまり、深江村では鶏にしっかり鳴いてもらおうと、うんと餌を食べさせ、一方の大王村では漕ぎ手が負けんように御馳走を食べさせ早く寝せました。

さて、あくる朝、腹を減らせた大王村の鶏はいつもより早く一番鳴きをはじめ、それを合図に、大王村の漕ぎ手は待ってましたとばかり、一生懸命に沖へと漕ぎ出しました。

一方、うんと食べてぐっすり眠った深江村の鶏は、二番鶏になってしまったのです。
遅れをとった深江村は大急ぎで舟を出し、懸命に漕いだのですが、深江村の人たちが飛び降りた浜辺には、すでに大王村の人たちの草鞋が投げ捨てられており、以後大黒神島は大王村のものになったと云います。

よく似た伝承に、同じく舟での競争で抜きつ抜かれつの接戦の末、大王村の漕ぎ手が船上から投げた草鞋が先に砂浜に落ちたことで大王村の勝ちとなったとも。

他にも「黒神島へは犬を連れ入ってはならぬ」とも云います。

蛇足です。
日本で最大の無人島は、北海道松前郡松前町に属する火山島、渡島大島(おしまおおしま)で、面積は約9.73km2、です。

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黒神島(大黒神島)の命名由来ははっきりしませんが、是長地区の沖にも同じく黒神島があり、大きさの違いで大小、黒神島として区別されています。

沖美町史によりますと、「安芸国神名帳(鎌倉時代)」に佐西郡興津黒神明神と記される社があり、「芸藩通史(江戸時代)」に黒神島に三興津黒神明神の御社(みやしろ)と呼ばれる地があったと記されます。
島の東に突き出た宮城鼻(みやしろばな)付近がその御社跡では?といわれます。

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沖美町史よりコピペの「黒神島の地図」です。
地図の上方向が東側となりますので、地図の右上に宮城鼻があります。

大黒神は南東部が岡大王地区、北西部が畑地区と二分され、最高峰の櫛ノ宇根(459.9m)は岡大王地区に含まれます。

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花き栽培用のビニールハウス、専念寺の本堂の向こうに見る大黒神島です。

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江田島バスKKの「大王神社前」バス停から見た大黒神島です。

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是長地区の農道から見た大黒神島です。

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畑地区の渚から見た大黒神島です。

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海図「広島湾1/7500」昭和5年5月16日刊行 水路部長 米村末喜、6月7日印刷発行 水路部、のコピペ・・・m(__)mです。

海図であっても主要な山には標高が記載されるのですが、呉軍港付近の山々は故意に標高表示が削除されています。
古鷹山も宇根山(旧名 中村山・野登呂山)も、呉市の灰ヶ峰、休山も・・・(^_^;)です。

海図左下に、艦船速力試験距離と書かれた破線があります。
大黒神島の山裾に白い標識が立てられており、艦船がその2点間(1海里)を通過した時間を計測し、速力測定やプロペラの回転数(翼角)調整などを行います。

最近では電波発信機やGPSによる計測に変わりましたが、白い三角の標識は今も設置されています。

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神秘的山容で横たえる大黒神島です。

ちなみに奈良県にある黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされ、恵みの雨を降らせ、長雨を止める龍神様として信仰されるとか・・・

大黒神島の山容を、龍神にたとえるなら、小黒神島はその龍神の手に乗る玉となるかも・・・(*^。^*)です。

岡大王 正光川・大森川・流田川・大石川

岡大王防災マップ川 
上記画像は江田島市作成の「ハザードマップ 沖美町畑・岡大王」をコピペしました・・・m(__)mです。

岡大王地区を流れる主な川には南から正光川、大森川、上流部で大森川と合流する流田川、そして大石川があり、さらには、畑地区から流れ下る大坪川が岡大王との境界となって畑漁港に注ぎます。

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農道から見た大王地区集落です。

江田島市最高峰である宇根山の南西斜面は極めて急峻で、さらには深くノコギリの歯状となった谷筋が無数に並びます。
そのため、尾根付近に降った雨は保水される間もなく、わずか数十分のうちに海岸まで流れ下り海へと放たれます。

広島県西部では北東から南西方向の古い断層が無数にあり、さらにこれに直交する断層もあって、複雑な断層谷が形成されています。
江田島市においてもその断層帯の延長となる地形で、大きくは南北方向に3分割、東西方向に3分割された数個のブロックとなって海上に浮きます。

南北方向の断層谷が川となって残るのが江田島町切串の長谷川、沖美町三吉の木ノ下川、能美町鹿川の永田川、大柿町大原の八幡川で、市内では南北の断層帯が著明に残り、それに直交する断層谷や河川は短く急峻です。

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沖美町の農道でよく見る、農業用水専用の導水管空気弁の蓋です。

沖美町の沖地区(岡大王・畑・是長)は江田島市内にあっても特別に急峻な地形で、耕作地の確保はもとより、短く、しかも滝のような急こう配で流れ下る川から生活用水や農業用水を確保できるかどうかは、村落の命運をも左右する重大事でした。

それまで井戸水や、集落ごとに谷川の水を集めた簡易水道で辛うじてまかなっていた生活用水は、昭和40年6月、広島太田川より海底導水管を通し江田島町小用の前早世浄水場ろ過沈殿池が満水となることでやっと本土並みの生活が見えてきました。

前早世で浄水された太田川の水は江能上水道組合(のち江能水道企業団さらに江田島市企業局水道事業)の手により能美町鹿川との境にある才越峠の第三配水池に揚水され、そこから岡大王・畑・是長へと送られます。

これにより生活用水に不自由することはなくなりましたが、水道水ではお米やミカン、キュウリを育てることはできません。

おりしも、不自由な水環境にもめげずにミカンやキュウリ、イチゴやキクやスイトピーなどの栽培に熱心な沖美地区が県営畑地帯総合整備事業に取り上げられることとなりました。
天水にたより、例年の水不足に悩まされていた当地に農業用水の安定供給は夢のまた夢でしたが、その沖美町内には三吉地区に旧海軍が建設した三高ダムがあります。

この三高ダムは大東亜戦争による江田島海軍兵学校生徒や職員の大激増に伴い、その生活用水を確保すべく、1943年から1944年の僅かな期間で造られたもので、戦後のどさくさに紛れてダムの設計図も残っておらず老朽化が懸念されていました。

この二つの県営事業の組み合わせにより、三高ダムの補強拡張事業と、沖美地区の農業振興事業とが相乗し、ついに平成14年11月、ダムの有効貯水容量を今までの21万8000m3から55万4000m3に倍増した、新三高ダムが完成、沖美地区全域への農業用導水管が敷設されることとなりました。

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農業用導水管は、正光川の源流に近い大王地区の農地、推定標高150mにあるミカン畑までをも潤します・・・(*^。^*)です。

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大森川河口部です。
あと数メートルで海へと注ぐのですが、それでもスベリ台以上の傾斜があります。

夏場はウオータースライダーとして開放されています。ってウソ・・・(^_^;)です。

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大森川(流田川)中流部です。
三段峡・・・(^_^;)です。

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先の撮影場所から下流部を写したものです。
海岸から400mで標高が40m、家々の屋根越しに海が丸見え・・・(^_^;)です。

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右が大森川、左が流田川、二つの川の合流部です。
大雨時には怒涛の流れがぶつかる合流部は、整流効果???を出すために船首のように鋭角となって・・・???。

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大森川の最上流部です。
川の源流部付近から、その川の河口部が見通せる急流川はそう多くは無いと思いますが?・・・。

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大森川源流部近くに残る、貯水槽の石垣と、その水槽を覆うトタン屋根です。

太田川からの水が通ずるまでは、この地域での最重要施設であった簡易水道の貯水槽が今もそのままに残してあります。

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大石川の河口部付近です。
大切な川の堤防は家々の土台よりも丁寧に、僅かな隙間もなく石積みがなされています。

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大石川中流部です。
長年の浸食で細い流れでも深く深く刻まれます。

「雨垂れ岩を穿つ」・・・(*^。^*)かな?

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沖美町の下水道マンホールの蓋です。

上水道の普及により、各家庭ごとにお風呂を沸かし、全自動洗濯機は油汚れを数分で真っ白い生地に漂白し、お米のとぎ汁もみそ汁の残りカスもじゃぶじゃぶ水で濯いで脇を流れる川へと流し込んでいました。

上水道が普及したことにより最大の被害を被ったのが、なんと、いままで最大限大切にされていたすぐ家の脇を流れる川だったのです。

雄大な自然の壮大なサイクルであっても、なにげもないほんの僅かな歪みで、と~んでもないことに・・・(^_^;)です。

岡大王 無量山 専念寺

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浄土真宗本願寺派「無量山 専念寺」は江田島市最高峰の宇根山(541.8m)南面の山裾に沿う、岡大王集落のほぼ中央に建立されています。

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南面する岡大王集落のひな壇中央に、ひと際大きな入母屋のいらかを乗せるのが、無量山専念寺です。

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境内真下を横切る県道36号(高田沖美江田島線)から見上げた専念寺本堂の右側面です。

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入母屋造りの専念寺本堂右側面、破風の部分です。
大屋根には大きな「獅子口(ししぐち)」が乗り破風部には、分厚い板を掘りぬいた懸魚がつけられています。

ちなみに獅子口の上に乗る三つの円筒は「経の巻」とよばれ、その下の山形模様を「綾筋(あやすじ)」、左右に大きく垂れさがる飾りは「鰭(ひれ)」といいます。

破風部の懸魚は「鏑懸魚(かぶらげぎょ)」が、左右と下についた「三ツ花懸魚」とよばれるものです。

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県道から路地を上りますと、すぐに専念寺山門の前に来ます。
紅梅の自然仕立ての枝が、風格のある山門をいっそうと引き立てます。

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山門の扉に付けられた釘隠し、形から「乳金物」ともよばれ、城郭や寺社など格式のある建物の門など目立つ場所に使われます。

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山門をくぐり右手境内に、優美な曲線屋根をもつ白壁土蔵造りのお経堂が建ちます。
出入り口を風雨からまもる重厚な屋根は唐破風です。

毎年枝を刈り込まれたイチョウのシルエットはお坊さん?・・・(^_^;)です。

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境内の海側、大きく切り出した花崗岩石材を巧みに組み上げて鐘楼が建ちます。
鐘つき棒、「撞木(しゅもく)」にはシュロの木が使われていて、鐘には「南無阿彌陀仏 昭和二十四年九月」の文字がみえます。

その前の釣り鐘は戦時の金属供出で行方知れずとなったのでしょう。

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境内には昭和50年5月に広島県天然記念物に指定された樹齢4、5百年と云われる天蓋松「飛鶴の松」がありましたが昭和54年松枯れの被害により失われました。

代二代天蓋松となるべく、境内中央の日当たりに若松が植えられており笠形に剪定されています。

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集落の規模からは想像を越す重厚な本堂が建ち、黄金の寺額「無量山」があげられています。

専念寺保存の古文書「能美島寺社古跡覚書帳」(1715年)によれば当山は11世紀ごろ付近の寺山において寺尾山門禅院洞蔵寺として創建されました。
のち文禄3年(1594年)僧是教が浄土真宗に改宗、その後当地に移りて「無量山 専念寺」として開基したと云います。
現在の本堂は安政5年(1858)から約5年の歳月をかけて完成したもので、柱や梁などには、大黒神島の原始林から切り出された木材が使われています。
また、この大事業には、空喜三右衛門氏が頭取世話人となり、全村民の一致協力があってこそなし終えたと伝えられています。

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山側から見た、本堂の左側面です。

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専念寺大伽藍と、その沖には伽藍の骨組みとなる大量の木材を供給した大黒神島が大きく横たわります。

岡大王 黄幡社 2/2

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靴底の泥を払い、拝殿へと上らせていただきました。
長年の風雪に絶えた頑丈な社殿ですが、万が一に備えて斜めに補強材が入れられています。

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拝殿奥、幣殿とを仕切る格子戸の上に「奉寄進 黄番社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」の社額があげられています。

この社額の他、黄幡(番)社再建の由来を示すものがないことから、現在の社殿は明治24年9月に再建されたものと伝わります。

ちなみに社額の左右にも寄進奉納品を止めた鉄釘が見えます。
長い年月を経る間に失われてしまったものも数多くあったことでしょう。

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大屋根を支える頑丈な木組み(和小屋組み)がもろ見え・・・(*^。^*)です。

画像左から右上に棟木(むなぎ)と並行に伸びる粗削りの大木が桁(けた)と呼ばれる構造材です。
その棟木や桁に直交する湾曲した木材を梁(はり)とよび、これらの木組みを総称して小屋梁(こやばり)ともいいます。

神殿建造物は庇(ひさし)を長く突き出して造ることが多く、その庇の重量を内部にとり込むためにも桁や梁を大きくして、大屋根に乗る瓦の重量でもって長い庇を支える垂木(たるき)が下がらないように抑え込みます。

多くの社殿では棟木、あるいは桁に大工棟梁の名前や建築年月日、棟上げの儀式で使用した木槌や鉋、墨壺、鋸などを取り付け、奉納品とします。

黄幡社にも当然取り付けてあったと思われますが、今は行方知れずとなっております。

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古い奉納絵馬があげられています。
奉寄進 大正十四?九月吉日 願主 青山千一 と読めますが?

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刺繍?画でしょうか?
五本爪の龍(青龍?)と虎(白虎?)が競う絵馬が奉納されています。

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奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正 とあります。

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画像が見難いのですが、一本爪(シングルアーム)の鉄製錨が奉納されています。
見た目で1m近い大きさがあります。
明治初期?百石くらいの帆船に積まれた錨?かも???・・・(*^。^*)です。

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拝殿からみた岡地区と右は岡大王に隣接する畑地区となります。
海の向こうは岩国方面です。

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拝殿を降りると、左に社殿を覆い尽くさんとそびえたつ大楠があり、脇に説明板が架けられています。

以下は説明板の要約・・・m(__)mです。
黄 幡 社 の 大 楠
目通し周囲 6.70m
樹高 25m
江田島市随一の巨木です。
主幹に空洞がありますが、大磐石のような根をどっしりおろし、1本の木で鎮守の森を形成しています。
まさに岡地区もシンボルといってもよいでしょう。
ちなみに、明治24年の再建にあたり、この大楠の枝から柱などの材料をとったとされ、そのことで現在の樹形が成ったと云われます。

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たしかに大きな楠木ですし、社殿再建時に枝を切られたような窪みもみえます。

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クスノキ(樟、楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木で、幹周囲10m以上の巨樹になる個体も珍しくなく、木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れています。

そのため海上に建つ宮島(厳島神社)の大鳥居には古来よりクスノキが使用されています。
大鳥居は、平安時代から造られ始め、現在までに8回造り替えられているそうですが、永禄4年(1561)の厳島神社大鳥居の改築にあたりましては、当地、能美島より東西2本の眞柱(主柱)が搬出されています。

その西の眞柱は能美佐馬允氏社(大柿町大原新宮八幡宮?)から、東の眞柱は能美中村八幡宮(能美町中町八幡神社)から出されたものです。

ちなみに現在の大鳥居は、明治8年(1875)に再建されたものです。
高さ約16.6m
棟(大棟・笠木)の長さ24.2m
主柱周り9.9m
総重量は約60t
社殿から海に向かって右側(東側)の柱が福岡県久留米市、左側(西側)の柱が佐賀県佐賀市から取り寄せたものです。

クスノキの生育には、台湾、中国、ベトナムといった暖地が適しますが、広島県沿岸部では珍しい木ではなく、市の木、町の木として、広島市、福山市、三原市、安芸郡府中町、海田町で指定されています。

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大楠の枝下に溶け込むように建つ、岡の鎮守の黄幡社・・・(*^。^*)です。

岡大王 黄幡社 1/2

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岡大王の旧岡地区、山裾に沿った丘の上に「黄幡社(おうばん)」があります。
大王の天満宮と同様、岡の黄幡社も江田島市内では唯一の黄幡社となります。

ちなみに明治24年寄進の拝殿社額には「黄番社」と書かれています。
また、江田島町江南に「大判神社(おおばん?)」と呼ばれる祠がありますが黄幡につながるかは不明です。

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黄幡社は、島内最大といわれる大楠の枝に優しく抱かれ守られています。

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境内の地盤を守る石垣は何度も崩れたり積み替えらりしたのでしょう、角の尖ったのや丸く風化したものなどがあったり、大小もさまざまに積まれています。

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村の鎮守にふさわしい、頑丈さと優美さ機能性をバランスさせたモデル的な建築仕様です。

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鎮守様としては大きめに作られた社殿ですが、屋根に覆いかぶさる大楠との対比で小さく見えます・・・(*^。^*)です。

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拝殿横の軒下に、何個もの電線ドラムが置かれています。
お祭りのあとに、電線ドラムをテーブル代わりにして盛大な飲み会とかがあった?のかも???・・・(*^。^*)です。

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遅くなりましたが、拝殿正面にて「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

以下は、沖美町史よりの抜粋です。
岡の黄幡社は竈(かまど)や農業の神様である奥津日子神(おくつひこ)ほか四柱を祀っています。

古老の言い伝えによりますと、享禄年中(1528~1532)、岡村の森沢喜左ェ門・山田勘九郎という二人の村吏が夢を見た。
「森山の木末に幣帛がある。この村を守護する神であるから早く社を建て祀るべし」と。
直ちに二人は森山に行って見ると霊験神託たがわないことがわかったので村人と協議して社殿を建てた。
この神の鎮護により村内に火難がないので村民のこの神を尊敬することが日夜盛んなりと。

また能美島志には、「黄幡神社、岡村森山ニアリ、往古ヨリ六月虫祭り之節合祭ス」と記してあります。
尚、拝殿の正面の額に「奉寄進 黄番(黄幡)社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」と記されていますので現在の社殿はこの頃に再建されたものと伝わります。

ちなみに、ウイキペディアには黄幡神(おうばんしん)とは、九曜の一つである羅睺(らごう)を奉ったもので、集落の中心や三叉路、あるいは境や辻に、道祖神、守り神として祀られると。

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拝殿の右側面です。
拝殿の一段上方には、常世との境を石柱の玉垣で囲った赤い屋根の本殿があります。

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石工さんの腕前が光る花崗岩石組みの壇上に接着剤でくっつけたようにピッタリと本殿が乗ります。
現代のような大型の岩石切断ノコなどのない時代に、石ノミと玄能だけで叩き出した味のある岩肌と角の尖った直線の組み合わせが何とも言えません・・・(*^。^*)です。

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本殿の破風部を飾るのは大王天満宮の「いのめ懸魚」とは違って「かぶら懸魚」が架けられています。
大楠の枝葉から漏れる優しい太陽光が本殿の屋根に虹を作り、拝殿の瓦屋根にキラリ反射します。

岡大王 天満宮(しるごき天神)

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江田島市内で唯一、の天満宮である「しるごき天神」は沖美町大王の王城と呼ばれる岬の上に鎮座します。

古来、大王(大生)は、西能美の「中村、鹿川、高田、三吉、是長、大生(だいおう)」の一浦でした。
16世紀のころより三吉と高祖、是長と畑、大生(大王)と岡、の集落に分れますが、この新6浦が行政区画としての村と呼ばれたのは寛永15年(1638年)の浅野氏による検地が行われたのちとなります。

その後明治14年の記録では、三吉村376戸(2126人)、高祖村128戸(833人)、是長村236戸(1327人)、畑村241戸(1068人)、岡村154戸(776人)、大王村199戸(1017人)が暮らしておりましたが、明治16年に岡村と大王村が合併し岡大王村に、明治22年、三吉と高祖が合併し三高村に、是長と畑と岡大王が合併し沖村となりました。

さらに昭和31年となり沖村と三高村が合併して沖美町(1891戸・8447人)となり、字名として、岡、大王、畑、是長、美能、高祖、三吉をのこします。

そして平成16年、佐伯郡沖美町、佐伯郡能美町、佐伯郡大柿町、安芸郡江田島町が統合し江田島市沖美町字大王となりました。

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天満宮は岬の先端、王城と云われる地に建ちます。

見晴らしの良い断崖の上ですので、古くは見張り用の砦とかがあったやも???ですが、大王(大生)、王城、ともに地名の由来は不明です。

が、・・・一説には壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)で源氏に破れ敗退した平家の落ち武者が、安徳天皇を奉じて一時この地に立ち寄ったとも・・・???です。

以下は春先の妄想夢です。

寿永2年(1183年7月25日)木曽義仲に敗れ都を追われた平家一門は、安徳天皇を擁して西国へと逃れました。
一時は優勢となるも、一ノ谷の戦い(1184年3月20日)、さらに屋島の戦い(1185年3月22日)に敗れ、瀬戸内海を流浪したおりに大君(江田島市大柿町大君)の地において手厚い保護を受けました。

その後源平最後の決戦、壇ノ浦の戦い(4月25日)に敗れての敗走中、再び保護を受けるべく大君を目指した平家落ち武者の一団がおりました。

しかしながら、大君を目前に早瀬海峡の警備が物々しいことを察知し、宮島、大奈佐美島の方向へと向かうのですが、こちらは早瀬以上に警備が厳しいことを知ります。
そのため当時は無人島で、原生林に覆われた大黒神島に隠れ住むのですが、やがて対岸である当地(大王)の住人が知るところとなり、この地で匿われます。

しかし、浦々を厳しく探索する追手を警戒し背後の宇根山へ、さらに山越えして、平家落ち武者伝説を今に伝える能美町中町の高下地区へと移り住んだのでは???と・・・(^_^;)です。

さらなる蛇足となりますが、当地では宮島造営や音戸瀬戸拡張工事、造船、海運業などで平清盛とのつながりも深く、平家に恩義を感ずる者も数多くいたと思います。

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かっては正面である海側から登る参道があったやも???ですが、今は裏側に参道がつきます。
手前が本殿、屋根にあげられた千木が外削ぎですので男の神様が祀られています。

この天満宮が「汁御器(しるごき)天神」と呼ばれるのは、大王の船頭さんが廿日市草津から肥料を運ぶ途中、船上での食事が終わり、器に残った梅干しの種を海中に投げ捨てようとするのですが、何度試みても種が器に残ったままとなり、そのことを中村八幡神社の神主に相談、「これは天神様の化身なり」として海を見下ろす岬の上に祠を建て祀ったことが始まりとされます。

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南の方角に向いて建つ天満宮拝殿です。

のべつ浜から吹き上げる風も、雪交じりの冷たい北風も、南から近づく台風も、すべてをまともに受けて建ちますので並みの造りだと吹っ飛んでしまいます。

近年の想定外に発達する巨大台風に備え、鋼鉄のアームでしっかりとした補強が追加施工されています。

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二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。
拝殿正面には駿馬の額があげられており、奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正の名があります。

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屋根を支える垂木が合わさる中に、棟梁が奉納した木槌が留め置かれています。

ちなみに、現在の拝殿は昭和33年9月に再建されたものですが、1841年(天保12年)の再建記録も残っており、その時の総事業費は「十三貫百七十六匁二分五厘」であったと云います。

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昭和33年9月再建時の棟札です。

祀神として八神の名が記されていますが、初めの「屋舩勺々廼智命(やふねくくのちのみこと?)」以下は判読が???・・・m(__)mです。
八神名の後に、記録として
棟札と同衫
奉再建志
奉納 棟梁 木挽 佐官 脇棟梁 石工
大下佐平 七十六才
山中春夫 四十六才
原口清三 三十九才
宮總代
今田敏美 四十三才
寺野下政一 七十七才
花崎泰造 五十八才
原田四市 五十六才
世話人
寺西豊市 五十四才
下西武 二十九才
吉野政一 三十九才
尾城啓 ?才
二本松万太郎 五十才
尾上明夫 三十五才
島津孝一 五十三才
中川伍一 五十一才
昭和参拾参年九月吉日
の文字が見えますが、転記ミスがありましたら・・・m(__)mです。

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御寄附芳名札も貼られています。
右から
一金壱萬圓也 文部大臣 灘尾弘吉
一金参萬圓也 懸会議員 平塩五男
一金五萬圓也 広島市 田丸四郎
一金五萬圓也 神戸市 寺野下隆義
一金五萬圓也 神戸市 松尾政次郎
一金四萬圓也 大柿町 二矢川建設株式会社
一金弐萬圓也 畑 吉本関太郎
一金弐萬圓也 大柿町 中本正数
一金五千圓也 神??道具一式 広島市 中山良一
一金壱萬参千圓也 寺尾孝壐
一金壱萬圓也 花神安太郎
以下にも、ハワイや神戸在住者のご芳名が続きます。

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説明文はありませんが、西能美地区の惣氏神である能美中町八幡神社の祭祀を沖美町の沖地区が授かった年に奉納舞いを演じた子供たちの集合写真です。

ちなみに、能美中町八幡神社の祭礼は9月中旬の(第三土曜日、日曜日)に行われます。
祭礼に伴う準備や祭りでの出し物(だいば ・おたふく・ 雄しし ・雌しし)は西能美の旧5ヶ村(鹿川村・中村・高田村・沖村・三高村)の持ち回り(かやっちょう)となります。

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拝殿の左の木鼻には鋭いタッチで像が彫られています。

木鼻には獅子(しし)や像(ぞう)、あるいは獏(ばく)が彫られることが多いのですが、しるごき天神の木鼻は右が獅子、左には像です。

像と獏は共に長い鼻があり牙もあって、とてもよく似ていますが、一般に目の形状が三日月形で細長いのが像で、丸いギョロ目は獏だといいます。
さらに、耳が団扇のように大きいのが像で、犬のような尖った小さな耳は獏です。
他にも獏には体毛を表す渦のような模様が付きますが像にはありません・・・(*^。^*)です。

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拝殿の入母屋破風(いりもやはふ)には、ハート型の穴があけられた猪の目懸魚(いのめげぎょ)が架けられています。

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天満宮境内からの展望です。
いらかの向こうに見える港は中央から手前が正光港その先は小田港と呼ばれます。

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昭和33年に再建された大王天満宮は、来年、2018年9月に築60年を迎えます。

高田 古地図・地質図

高田古地図PNG 
能美町誌に掲載された高田村の古地図(芸藩通史)を元にして書き写したものです。
地名など明瞭でない部分は適宜勝手な主観により創造して記載しています。

改悪となっている部分もありますので、正確には能美町誌、または芸藩通史でお確かめください・・・m(__)mです。

高田古地図南東PNG 
高田村の南東部です。

堀越城跡:それらしい地形が残り、近くにはお墓や耕作地がありますが、樹木が鬱蒼と茂り見晴らしはまったくききません。

小屋城跡:それらしい地形が残りますが、畑地となっておりまた周囲は竹藪や樹木で囲まれます。
南の真道山方向は視界があり、北の竹藪に堀?のような窪みもあります。

八瀬島:戦国のころ小屋城・北堀城の城主として八瀬島氏の名が残ります。

建外田藪:広島藩指定の矢竹の生育保存地です。

北堀城跡:登山道は不明です。

大将軍:位置不明。大将軍とは、本来は方位のことを司る星神(金星)で、陰陽道で祀る八将神の一とされます。

七天達磨:位置不明。意味不明なれど「七転達磨」とすれば、七転び八起の達磨となりますが???。

小城跡:山頂にクスノキの大木が見えますが、登山道は不明です。

光泉寺跡:江戸時代に書かれた「能美島志」宝暦13年(1763)に、光泉寺は高田邑にあり、今延命地蔵像あり、これを堂に安んず、傍に樹あり、其葉茶の如し、然れども其の名を識る者なし、土人これを無名木(ななしぎ)という。と伝わります。

光源寺:僧善了により天正13年乙酉(1585)に開かれ、僧受玄により寛文元年(1661)浄土真宗に帰依しました。

社倉:位置不明。明和7年(1770)広島藩は「社倉法示教書」を公布、広く領内に社倉設立を奨励、天明6年(1786)には町方及び郡中各村あますところなく社倉が造られ、以後明治初年まで存続したと云います。

高田古地図北西PNG 
高田村の北西部です。

えぼし岩:位置不明。烏帽子(えぼし)とは平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のことです。

シノ宮:位置不明。四之宮とは、その地域の中で4番目に社格が高いとされる神社のこと。

建岩風呂山:確証無之候得共。故人の伝ふる處昔玄海翁(1350年頃)と云ふ高僧が高田の里に来たり。岩風呂山に登り頂上の大岩を一撃すると大岩は三つに割れ一つは越後国の高田の里に、一つは伊予国の高田の里に遠く飛散し。此地に残りし大岩に四朗九郎と名付け、この岩を御神体とす。

アメノミ子:位置不明。天の皇子、アマテルの御子、皇太子のオシホミミといわれます。

ウシ口城門:位置不明。丑ノ口城門、十二支の丑の方向(北東微北)にある城門です。

明神ノ鼻迫門:位置不明。迫とは、山あいの小さな谷、あるいはせり出した崖のような地形を云います。

s-江田島大断層PNG 
沖美町是長から高田地区北部を横断し、江田島町津久茂まで、市内で唯一の断層が確認されています。

高田湯田地区の昔話に温泉が湧いていたと云いますのも、あるいは、この「江田島大断層?」が関係していたかも?・・・(^_^;)です。

ちなみに、この断層に並行して「是長鉱山」「三吉鉱山」「畑鉱山」「津久茂鉱山」があり、湯田の温泉、入鹿神社には湯に関係する大きな湯釜もありました。

これら鉱山からの金や銅の産出はごく僅かな量であり、採掘期間も数年ですが、江田島市内でこの断層付近以外に鉱山はありません。

そもそも、金(Au)は酸性の熱水に溶けやすく地上付近で熱水が冷めることにより析出します。
堆積岩である玖珂層群内の微量な金が花崗岩の熱で暖められ、金を含んだ熱水となって断層の割れ目に沿い、上昇して地表付近に集まったと思われます。

つまりは、金のあるところには熱水と熱水が上昇する通路(断層)がある。
江田島にも温泉が自噴する可能性がある?・・・と。

風が吹けば桶屋がもうかる・・・発想・・・(*^。^*)です。

地質図は「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」よりコピペ・・・m(__)mです。

19480407(S23)a.jpg 
昭和23年4月7日に撮影された高田地区の航空写真(国土地理院)です。

高田 いいとこ撮り 6/6

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高田宗崎地区から見た対岸は、江田島町の津久茂地区です。
この津久茂村は安芸郡江田島村と合併する1925年(大正14年)2月まで、高田地区と同じ佐伯郡に属していました。

津久茂村と能美の高田村、中村との交流は古くからあり、お鉢山(津久茂山262.8m)が海岸まで迫る地形で耕地面積の限られる津久茂村には、高田、中村地区に耕作地を持つ者も多くいて、毎日農船を仕立て津久茂瀬戸を渡り、山地の開墾はもとより遠浅の中田湾に新開を干拓する事業にも多く加勢しておりました。

s-DSCN8649.jpg 
江田島町津久茂地区から見た高田の宗崎地区です。

余談となりますが、画像の右の小山を越した先に湯田とよばれる地名があります。
昔々の話として、この地には温泉が湧いておりました。

土地の人々はこの温泉を神聖なものとし、決して汚れ物を持ち込み洗濯をするなどのことはなかったのですが、それを知らなかったよそ者が温泉の湯水で洗濯を始めた途端、今までこんこんと湧き出ていた温泉水が普通の冷たい湧き水に変わったと云われております。

この湯田地区には、江田島市内で唯一の断層が東西方向に走っており、地底からの割れ目に沿って温泉水が湧き出ていたのでしょう。

たまたま、よそ者が温泉水で汚れ物を洗っていたそのときに、地震とかの地殻変動で温泉水脈が閉じられたことは十分考えられます。
ちなみに、そのよそ者が村人から責められることはなかったとか・・・。

将来、また画像のような白い湯けむりが立ち昇る日が来る?・・・かも?・・・(*^。^*)です。

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高田では多くの家の屋敷内に柿の木が植えられています。
柿の木は年輪を重ねた和風のお家にとてもよく似合います。

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野菜好きな鳥(ヒヨドリ?)がキャベツの葉っぱをつぎつぎとかじっていきます。

少し驚かせてやろうと、ウサギのぬいぐるみを持ち出し、うまい具合にディスプレーした???のですが・・・

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収穫したタマネギの最適な貯蔵法・・・(*^。^*)です。

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うぅ~~~ん。
残念、タマネギが長ネギになっちゃいましたぁ~~~ ・・・(^_^;)です。

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此方は保存食用にとぶら下げてあるわけではありません。
まぁ~、緊急時の非常食として貴重な蛋白源にならなくもないのですが・・・

超巨大、キイロスズメバチの巣です。
最盛期には働き蜂だけで一千匹もの数になるとか・・・(^_^;)です。

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農作業に使う耕運機です。
小回りが利くように?小型に作られていますので、おそらくビニールハウス内専用仕様じゃないかと思います。

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背負い籠(しょいこ)と呼ばれます。
竹で編んでありますが、目が粗いので蜜柑とかジャガイモなどの小さなものは運べません。

当地では昭和40年頃まで、葉タバコの栽培が盛んでした。
タバコの葉っぱは、団扇の2、3倍はある大きな葉っぱですから網目から落ちることもなく乾燥場へと運ぶことができます。

キャベツや白菜、肥料作りのための落ち葉(シバ)なども運べたかも?です。

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籐(トウ)を編んでで作られた乳母車(ベビーカー)です。

載せられている籐籠が地元高田で作られたものかどうかは不明ですが、大正10年頃より能美地区において、籐製バスケットや籐椅子、籐籠乳母車が盛んに作られたそうです。

もしも?その当時の製品であれば?、この籐籠乳母車で育った赤ちゃん、今は百歳・・・(*^。^*)ですね。

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物怖じしない、高田の猫 ・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 5/6

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農道わきの草むらには前衛芸術家創作???の、投げ込み生け花が普通に咲き並んでいます・・・(*^。^*)です。

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セイタカアワダチソウとコスモス、遠い異国からやってきてまさか日本でここまで大きく花開こうとは・・・。
ちなみにセイタカアワダチソウは切り花用観葉植物として北アメリカから移入、コスモス(オオハルシャギク)はメキシコの高原地帯が原産でヨーロッパ経由で渡来したようです。

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春先の自家用菜園です。
黄色い花はハクサイ、白い花はダイコンです。
孫が来れば食べさせてやろうと、少し多めに植えた残りが花開いたようすです。

眼下は高田の街並みと、その先の霞む江田島湾です。

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水仙の上に枝を張り出して紅梅が咲きます。

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立春前でも瀬戸の日差しで満開に、品種はカンコウバイだと思いますが?・・・(*^。^*)です。

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庭先に植えられたシダレ桜です。
シダレ桜の手前にあった家屋は取り壊されて更地となりましたが、桜は記念樹としてそのまま残されています。

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ビニールハウスの鉄骨材の前に植えられていたコマツナ?・・・野菜も、もともとは野草?・・・(^_^;)ですから・・・。

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物置と路地との僅か20㎝の隙間に、タラノキと水仙が・・・。

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皇帝ダリアが3m、負けず嫌いなサヤインゲン、伸ばせば5mはいけるのですが支柱が2mしかありませんので・・・(^_^;)です。

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大きく育っても屋根よりちょっと低いキンカンと、それなりにがんばって屋根よりも高くなったトウジュロ・・・(*^。^*)です。

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高田公民館、江田島市高田出張所です。

公民館前に書き出されている使用予定表には、三味線教室・楽習院カラオケ・民謡教室・広報仕分け作業・中、畑いきいきサロン・日本将棋連盟江能支部、じつに盛り沢山・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 4/6

2)江田島町南部 高田地区 
他地区に比べ特別にというわけではありませんが、高田地区でも花好きの方は沢山おられるようで、少しでも土地に余裕があれば何かしらの花木や草花が植え込んであります。

自然力だけの造形美はどれもみな素敵で美しいのですが、人の手や想いが加わることでもっと素敵に変わる造形もあります。

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駐車スペースを残し、庭一杯に広げられた鉢植え植物の数々です。

お花屋さんとか、ご商売で鉢植え栽培をされている方を除けば、おそらくは江田島市内で一番?二番?じゃないだろうか、と思えるだけの数多くの鉢植えが並べてあります。

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白い漆喰壁の土蔵の前に、真っ赤なタチアオイの花が林立します。

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バックは黒い焼杉板の壁でも似合います・・・(*^。^*)です。

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青色が清々しい、ラベンダー・グロッソの大株です。

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通路と壁との僅かな隙間に、キンケイギクとスイセンソウが咲きます。

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畑の隅っこの、ダリア・・・(*^。^*)です。

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一気に背丈を伸ばした夏草に埋もれて、何故かサルスベリの花が一枝・・・です。

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押し寄せる雑草の荒波に立ち向かう?・・・アサガオとコスモスの雄姿・・・(^_^;)です。

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カキの花は小さくて目立たないのですが、燃えるような新緑は遠くからでも人の目を引きます。

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スモモの若葉や花が開く前に、枝下のスイセンが一足早く日光浴・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り(民家) 3/6

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農業用ため池の脇に建つお家です。
赤い土壁の上に漆喰が白く塗られ、窓にはそれぞれ形を変えたガラス戸がはめ込まれています。

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一枚のガラス戸に模様入りの小さなすりガラスが4×4の16枚、手の込んだ仕事が見えます。

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小川の向こうの小さなお家、その小さなガラス戸の前に、小さな植木鉢が整然とかわいく並べられています。

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黒く焼き焦がした杉板が寸分の狂いもなく水平に張られています。
ガラス窓も最適なバランス感覚取り付けられ、横に張られたポスターには「2015島ミュージック 音楽祭」・・・(*^。^*)だって。

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超ロ~~~ングなお家、裏側です。

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古い町屋の外壁は、ほとんどが土壁でその表面には白い漆喰が厚く塗られています。
その時代には、沢山のコテ職人さんが腕を競っていたのでしょう。

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屋根の形が美しいお家です。

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狭い建坪が最大限に工夫され利用されています。
「ハウルの動く城」の高田バージョン・・・(*^。^*)です。

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お庭もきれいですが、玄関屋根の妻壁には素敵な旭日模様が入れられています。

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毎日の手入れが行き届いた、整然としたお庭です。

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広島城の天守閣にあるような廻り縁が付けられたお家、眺めもよさそう・・・(*^。^*)です。

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明治から大正期にかけ、高田地区で盛んに生産された硬質煉瓦を土台にして造られた蔵です。
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