三吉 古地図(芸藩通志)

s-三吉村古地図(全)AB 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。
コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。

正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

安堂島は「能美島志(1763年)」よりの引用で、現在は安渡島と記します。

三吉村古地図(北東)AB 
三吉村の北東部分を拡大したものです。

三吉村古地図(南西)AB 
三吉村の南西部分を拡大したものです。

s-三吉村原画 
芸藩通志記載「三吉村」の原画(コピペ)・・・m(__)mです。
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三吉 いいとこ撮り 3/3

s-三高3Daa 
三吉発展の源は木ノ下川からの恵みを受け、営々何世代にも渡って農業に勤しんだことにあります。

農道脇に建つ石板に、後世への遺訓・・・m(__)mです。

母 フ ミ ヨ 遺 訓
祖先の名を汚さぬ様、努力すべし。
働く事を忘れるな。
世話になった恩を忘れるな。
有る金は貸しても、金銭の保証人になるな。
夫婦は親兄弟以上の愛情を持って暮すべし。

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田んぼを覆うレンゲソウ・・・(*^。^*)です。

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田植えが終わったばかりの棚田です。

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梅雨、一気に生長します。

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刈り取られた稲は秋の日射しを浴びます。

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美味しさが最大となる時期を見極めて、一気に脱穀します。

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木ノ下川の両岸には、急な山腹を削ってつくった石垣が天まで続きます。

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多少でも雨水の集まる谷筋は石垣を組んで田んぼにしました。

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田んぼとして使われなくなった後も、野菜をつくったり花を植えたり・・・。

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石垣の隙間にはシュウカイドウの花が似合ます。

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石垣とアジサイもお似合いです。

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石垣の上で、さらに上へと伸びるタチアオイの花です。

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路地脇の僅かな隙間にも咲きます。

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畑との境にも・・・。

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沖合を外国からの物資を満載した巨大船が横切ります。

美味しい三吉米を供給した自慢の棚田は、一段また一段と草に埋もれます。

三吉 いいとこ撮り 2/3

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以下は「沖美町史(平成元年)」の要約となりますが、平地の少ない島しょ部にあり、さらには農地の確保が最重要な時代背景にあって、住居の選定はおのずと傾斜地を削って新たに造成した土地に限ることとなります。

最低条件として近くで飲み水が確保できる必要はありますが、屋敷の前面、側面は石垣を築き背後には薪を供給する山、あるいは段々畑を背負うことが普通でした。

近年の農業不振と車社会の到来により、平地へと建て替えられる家々が多くなり、かってのひな壇集落は急速に減少し、風通しの良さだけが最大の売りだったかっての住居は消滅、その真逆となる気密性に優れ高い省エネ効果?をもち車庫を備えた近代的住宅へと急速に変わっています。

上の画像は沖美町史より転写した母屋の間取り図です。

昭和初期のころの一般的家庭の母屋部分で、おくの間には床の間や仏壇をもうけ、客間としてのものであって、普段生活で家人が使用することはありません。

おもて
は家族の居間であり、機織機が置かれるなど仕事場を兼ねる場合もあります。

なかえ
(なんど)は寝室として使用され、寝具衣類を格納する押入れやタンスが置かれます。

台所は家族の食事場であり、土間であるにわの奥に煮炊きに使う、くど(かまど)や流し場、水を溜めるはんどう(水がめ)が置かれ井戸水が溜めてありました。

にわ
は来客の取つぎ場でもあり、だいがら臼(唐臼)を設置し精米作業が行われたり、夜間や雨天時の作業場ともなりました。

小便所は玄関脇の囲いの中に置かれ、大便所は屋敷の外に小屋をつくって離れた場所に置かれました。

母屋に付属して、しころ(漬物倉)・納屋・農機具置き場・牛馬家畜小屋・こなしや(堆肥)・焚きもの小屋・風呂・便所・門長屋・土蔵(くら)など、用途や敷地に合わせ様々に工夫されていました。

蛇足となりますが「39尺造り」とは田の字型に造られた4部屋のうちの、2部屋が6畳間、もう2部屋が4畳半間で、その4部屋を合わせた一辺が21尺と18尺となり、その2辺を足すと39尺となります。一尺は約30cmです。

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集落を見下ろす高台に大きな長屋門をもつお家がありました。

壁一面にツタが絡んでいますが、手入れされた庭木もあって時々はお掃除に来られる方がおられる様子です。

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失礼ながら長屋門をくぐらせて頂きますとその正面が母屋(客間?)となっており、客人用の玄関?となる部分が真正面にせり出して造られています。
始めて見る構造で仔細は分かりませんが、おそらくは当地の庄屋さんクラスの方のお住まいだったのでは???です。

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高く優美に組まれた石垣と、幅広の石段を設けた由緒ありそうなお家ですが・・・。

植木として植えられたモミジの大樹、屋根を覆いつくす勢いで成長を続けています。

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斜面を削り取り、石垣を積み、何代にも渡って増改築されたであろう、白壁のすてきなお家です。

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納屋の下を半地下(こなしや)とした、典型的なお百姓さん造りのお家です。

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古い集落は皆、木ノ下川の両岸にせり出す山の斜面を削ったひな壇につくられています。

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ここまで登らなくっても・・・って思うくらいの高所まで・・・。

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三高名産の赤煉瓦を積んだお家です。

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ここの煉瓦はこの家のお爺さんが積んだんだよ。って、教えて頂きました。

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三吉地区には白壁の建物を多く見ます。
むか~し(昭和30年代まで)、三高ダムの近くで石灰岩を採掘し、焼成工場が稼働していたと云いますので、そのせいかも・・・(*^。^*)です。

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土蔵の焼杉板に、「不二わた」「贈り物専門店ハリカ江能店」のブリキ看板が打ち付けてあります。

「不二わた」は「藤野綿業株式会社」が製造する布団綿の商標です。

藤野家は広島藩主浅野候が紀州和歌山から国替えとなった時に随伴、綿繰屋として創業し「富士屋」と称しました。
明治10年、新たに「藤野綿業」となって近代化をはかり英国製綿打ち機などの導入により一気に生産力を向上させました。

主力製品には、「不二わた」「天使綿」があり、本社工場(広島市東蟹屋町130番地)の他、広島県千代田、豊平、大分県、京都府、朝鮮半島、中国にも工場を持ち、昭和初期の頃は全国一の生産量を誇っていましたが、綿需要の変化などもあって昭和56年、廃業するに至りました。

ちなみに、「株式会社ハリカ」は東京都板橋区板橋に本社を置き、ハリカギフトチェーンの統括、カタログ販売とう、贈答用商品を扱う現役の会社です。
資本金9千万円、従業員180名(2016年)です。

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役所とか学校の先生を退役したお爺さんのお家?
大きな沓脱石が置かれ、気品のあるスマートな燈籠が建てられています。

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町屋造り?。
一般的な町屋造りは、居住空間や家人用の玄関は道路から見えない奥の方に置かれるのですが、商売用のアルミサッシ引き戸と同列に道路に沿って建てられており、とても贅沢な造りのお家です。

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明治のころ三吉村から中村の尋常高等小学校へと通う学童の通り道だった山道の先に大きな廃屋があります。

はるか遠くから大屋根が見えるのですが、山腹にポツント屋根だけしか見えないので、どの道を行ったら良いのか?わからずにいましたが、たまたま間違って?進んだその先に・・・

なんとその建物には看板が残っており「青少年研修??? 江能自然の森」と読めます。

「わしものぉ~、詳しいこたぁ~知らんがのぉ~、ずい分と昔に廃止され、職員は江田島青少年交流の家に移ったと聞いたがのぉ~???」って、たまたまお会いした方からの立ち聞き情報です。

三吉 いいとこ撮り 1/3

s-三高3D 
三吉、高祖地区の海岸を北側からみた、グーグルの3D地図です。

右側の三高山(砲台山)山系と左の宇根山(野登呂山)山系の真ん中を南から北へと深く削って流れ下る木ノ下川と、その流域に沿って発展した三吉地区の地勢が一見して伺えます。

木ノ下川が削り取った砂礫は急流を一気に流れ下り、河口部に僅かな扇状地を残すのみで大半は海中へと呑み込まれてしまったようです。

その風化花崗岩である砂礫の一部は白く長い砂の帯となって、三吉から高祖、美能へと繋がっておりましたが、台風や季節風を防ぐ目的でつくられた防波堤、水害からの被害を防ぐためにつくられた多くの砂防ダムや河川の護岸工事により新たな砂礫の移動や供給は止まりました。

永年、老松の枝下に続いた長い遠浅の砂浜は、もはやその姿を取り戻すことはありません。

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木ノ下川の河口右岸に僅かに残った砂浜です。

砂防ダムや河川整備が整い新たな砂礫の流入が止まったことにより、砂浜は次第にやせ細ってきましたが、それでも一日二回の干潮時には沖合数十メートル先までの砂浜が現れます。

ただ、その沖合にはカキの抑制棚が林立しますので、素足で水遊びをするのは止めた方が・・・。

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遠浅の海面を占有するのは、杭打垂下法とよばれるカキの養殖に使われる井桁の列です。

昭和30年代まではカキ養殖の主流として使用されていましたが、現在ではカキの発育調整など限られた使用がなされるため、時期によってはホタテの貝殻を連ねたカキの養殖連をまったく見ないこともあります。

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中央部の密度が高く黒く見える部分には出荷調整用のカキ養殖連が吊り下げてあります。

カキは梅雨が明けたころから、親カキが一斉に放卵、放精を始めます。
放卵放精のタイミングはいまだ人知の及ばないところですが、条件によってはその付近の海面が真っ白に変色し、一見して放卵放精を知ることができます。

受精した卵子は間もなくして幼生となり、付着物を見つけて着床しますので、そのタイミングでホタテ貝殻の連を海中に下げ、貝殻一枚あたり100個の幼生を着床させます。

一般にはこの幼生カキが着床した1mばかりのホタテの貝殻連を、杭打抑制棚に垂下して養生、抑制し耐性を強くした連を出荷時期に合わせて回収します。
この幼カキの着床したホタテ貝殻40枚を長さ9mの針金に等間隔で取り付けて一連とし、沖に係留した筏に600本の連を取り付けます。

ホタテ貝殻一枚あたり10個のカキが成熟しますので筏一台あたり、カキ10個×ホタテ貝殻40枚×連600本となり、成熟カキが240,000個が収穫できます。
殻付きカキを一個を100円で販売すれば、筏一台で2千400万円の収入となります・・・(*^。^*)です。

以上は理想論です。
今まで三高沖は幼生の発生が盛んで、カキの種付け(採苗)場として最良の海面であるとされてきましたが、近年その発生率が安定せず、カキ養殖の最大の要となる種付け作業に一喜一憂する状況であるといいます。

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杭打垂下棚(抑制棚とも)とその沖を行く自衛艦、他所ではまず見ることのできない不可思議画像?・・・(^_^;)です。

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ホタテ貝殻を連ねた採苗兼育成連です。
貝殻の表面に小さなカキが密生して成長しています。

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7月下旬の様子です。
採苗に成功した連を育成(抑制)棚に取り付ける作業です。

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この年はうまく採苗(種付け)ができた様子で、連を手渡す掛け声にも張りがあります。

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一月中旬の様子です。
抑制棚で一冬の間寒風に当て、耐性のある丈夫な幼貝に育てます。

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12月下旬のカキ殻一時海中集積場の様子です。
正月用に大量に剥かれたカキの殻は各漁協ごとに決められた海中集積場に投下され一時保管されます。

集積量が増えた時点でクレーン船により回収されてカキ殻処分工場へ引き取られます。
カキ殻は、農作物の肥料、土壌改良剤、ニワトリなど家畜の飼料、道路等の凍結防止剤、融雪剤、ラインマーカー、建材製品、漁礁としての再利用や、水質浄化用など利用法は多岐にわたっています。

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季節は6月、新しいカキ筏を準備したり、採苗用のホタテ連を準備したりと、筏の並ぶ海面では作業船が大忙しの様子です。

この三高港沖の航路は呉港にある海上自衛隊基地へと出入りする護衛艦や潜水艦などが、ごく日常的に行き交っています。
でも反行する二隻の潜水艦を一画面に捕らえられるのは、ラッキー・・・(*^。^*)です。

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三高漁港防波堤の先端にある赤灯台です。

沖の航路を西行するのは瀬戸内海汽船のベイクルーズ船「銀河」です。
穏やかな瀬戸の島々を眺めながら、ランチ、ディナー、パーティー、さらに船上結婚式なども執り行うことができます・・・(*^。^*)です。

三吉 関西美人酒造

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木ノ下川に沿って高松峠へと向かう道を登っていきますと、徳正寺の手前に「関西美人酒造」の建物があります。

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清流木ノ下川沿いの関西美人酒造の醸造所兼酒蔵です。
大正時代初期に、住吉力松氏により創業された酒造所で、清酒「関西美人」が有名でしたが現在は休業中?の様子です。

沖美町には他にも、畑地区において明治2年創業と云われる「岡田酒造」の清酒「松の香」がありましたが、昭和後期に廃業、大王地区で丸本為二郎氏が醸造を始めた清酒「誠心」も、先の大戦中企業統合により廃業となっています。

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昭和後期に増設された、鉄筋コンクリート2階建ての醸造用の建物です。

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白い土壁造りの旧醸造所と三高煉瓦で組まれた四角い煙突が素敵です。

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製品の貯蔵倉?だろうと思いますが、ほぼ全面がツタの葉っぱで覆われてしまいました。

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残念ながら「関西美人」を飲む機会はありませんでしたが、三吉米で作られた清酒は切れ味の鋭い良いお酒だったんだろうと・・・(*^。^*)です。

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いらかの向こうの赤い煉瓦の煙突です。
白い煙が上がり、屋根瓦が水蒸気で濡れるのは・・・

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(*^。^*)・・・です。

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使用されなくなった醸造タンクは、お百姓さんに引き取られ貯水タンクとして再利用されます。

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斜面を削り石を組んで一段づつ積み上げた棚田に、山から染み出す清水を流し込んで作ったお米からは、きっと甘露のお酒が生まれます。

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ススキの穂先に降り注ぐ雨滴が、ぜんぶ清酒となるのなら・・・(*^。^*)です。

三吉 尾首城跡

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昭和59年11月発行の「沖美町の文化財をたずねて」には、「尾首城跡」として、
三吉千城原に高さ30mぐらいの小高い丘があり、地元民は「オンテス(お天守の意味)」と呼んでいます。
頂上やその下の方にいくつかの平坦なところがあり、石垣はほとんど崩れていますが、城跡であることは間違いありません。
付近から五輪塔(侍の墓)が発掘されたこともあります。
尾首城は厳島神社の奉行職であった沖小栗が築いたものといわれており、奥尾城と記したり矢張城とも呼んでいます。

さらに「法蔵寺跡」として、
尾首城跡の南西約300m、山麓に古いしっかりした石垣で囲まれた平坦な畑があります。
広さは200㎡、展望の良い場所で、ここに法蔵寺があったと古老はいっています。
法蔵寺については、能美島志に「三吉にあり、今、小さな茅葺のお堂があって、観自在之像を安置す。」と記されます。

さらには「大護寺跡」が木ノ下川の対岸、大附集落の山中にあってその遺址のほとりに薬師瑠璃光佛を安置するとも記されています。

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画像中央、ミカン畑の上に乗る緑の小丘が「尾首城跡」です。

古くは、尾首城小丘の麓近くまで海が入り込んでおり、付近の中小路、千城原、古戸、大附が三吉の中心地となっていました。

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尾首城跡小丘の頂部です。
頂部は平坦であると云いますが、ミカン畑の上に建てられた墓所より上への道はありません。

1763年に記された郷土史「能美島志(宝暦13年)」には、「奥尾(おび)の城、三吉村にあり。土老いう、沖小栗某築く所なりと、平清盛厳島社を造営するの日、沖氏これが奉行職となると、未だその然否を知らず。」とあります。

また地元古老の間では今も天守と呼ばれていますので、頂部には象徴的な建物があったのでしょうが、この天守だけで城と呼ぶにはあまりにも貧弱です。

おそらくは、背後の法蔵寺や対岸大附の大護寺など各所に砦があり、それらを連携し指揮するための天守であったと思います。

ちなみに、当地が巻き込まれた大きな戦乱は、毛利元就と陶晴賢の合戦「厳島の戦い」の前後、巨大勢力のぶつかり合う谷間において、どちらの山を選ぶかの判断に迷った能美水軍でしたが、調略により陶軍に加担したことで、毛利軍の熾烈な攻撃を受けました。

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画像左上に広島湾と、かっては深い入江だった木ノ下川下流部の堆積平野がみえます。

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季節は早春、3月です。

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6月下旬、梅雨の恵み雨でカエルは跳び跳ね、田んぼの稲はこの時期に一気に生長します。

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千城原地区の家々が密集する一段上に飛び出した尾首城の小丘です。

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尾首城跡の小丘から見た南の方向、遠く山裾に点在する家々は大附の集落です。

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三高山中腹から見下ろした尾首城跡の小丘 です。
手前の集落は千城原、川向こうは徳正寺のある中小路、右の方向に、古戸、大附地区がみえます。

厳島合戦で敗れた陶軍の落武者が木ノ下川に沿って登り、高松峠を越えた是長の地で追手にかかり力尽きたと伝わり、霊を弔うための石仏がその名も「大名切(おなぎり)」の地に残ります。
またこの付近からは、武将がお守りとして兜の中に入れる小さな金の仏像も発見されたと云います。
合掌・・・m(__)mです。

三吉 三高中学校

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画像は昭和37年のもので、この当時「三高中学校」や「貴船神社」の前には砂浜が広がっていました。

小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学校4年となったのは、昭和22年の学校教育法と教育基本法が制定されたことによります。

戦前は尋常小学校の6ヶ年が義務教育(戦時中の国民学校は8年)で、さらに高等小学校で2年学ぶか、あるいは試験を受けて5年制中学校へ、さらに3年制大学校へと進学するのが一般的でした。
ちなみに島内に中学校はありませんので、広島市、あるいは都市部の知人、親戚宅などに下宿、居候、書生や養子となって面倒を見てもらうことになります。

昭和22年4月、「三高村立三高中学校」設立、発足当初は小学校に併設す。
昭和22年5月、美能旧軍倉庫(現沖美ふれあいセンター)を仮校舎とす。
昭和29年5月、現在地(柳之前)に新校舎が落成す。
昭和31年9月、「沖美町立三高中学校」と改称す。
昭和36年5月、体育館落成す。
昭和55年5月、鉄筋コンクリート4階建の新校舎落成す。
平成3年3月、新体育館落成す。
平成16年11月、「江田島市立三高中学校」と改称す。

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建設中の三高中学校体育館、落成は昭和36年5月です。
画像右に木造二階建て校舎の一部が見えます。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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三高中学校旧正門と4階建て校舎です。

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校庭の隅に植えられたソメイヨシノです。
開校時に植えられたとすれば、樹齢は64年以上となります・・・(*^。^*)です。

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ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれた中から選ばれた花数が多くて美しい品種です。
江戸染井村の植木屋が接ぎ木栽培で育成し売り出したことから「染井吉野」と名付けられ全国に普及しました。

ソメイヨシノは花を楽しむために密植され、また成長が早く枝が密生して日照不足となったり、耐病性も低いなど、人が手を掛けないと成長とともに急速に弱っていきます。
その時期は植えられて40年経ったころからで、弱り始めて何も手を掛けずにいれば衰退はいっそう進み、60年が経った頃が寿命だといわれます。

まるで人と同じような生涯を歩むようですが、ケアをしっかりすれば、もう20年くらいは・・・(^_^;)です。

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春の芽吹きの前後はとても情緒漂う柳の枝も校庭からはみ出しています。
柳之前の地名に由来して植えられたものかも? ・・・(*^。^*)です。

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三高中学校の沖側、かっては砂浜がひろがり、大波の飛沫が飛んだ校舎の北側には県道36号線がつくられ、さらにその沖も埋めて新三高漁港と変わりました。

校舎の建て替えに伴い、正門も此方側に移されました。

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新三高漁港を背後に、三高中学校の4階建て校舎が建ちます。

s-三高中学
三 高 中 学 校 校 章 作者 林英世(昭和24年10月)
背景の羽は,三高の「三」と3本の矢の教え(団結)を表し、生徒・保護者・教職員が協力して輝かしい三高中学校教育を創造していくことを表現しています。

三 高 中 学 校 校 歌 作詞 空久保阿津子 作曲 野田耕右
一、
瀬戸の潮風希望に帆上げ
天地自然のめぐみうけ
真理一筋求めつつ
明日に向かってわれら学ばん
二、
燃ゆる大空血潮をわかせ
幾年月がすぎるとも
永遠に平和を願いつつ
未来に向かってわれら築かん

s-三高中生徒数 
校 訓 「 自 律 」

学 校 経 営 理 念
ミッション
生徒に「知・徳・体」の基礎・基本の徹底を図り、保護者から信頼され、地域が 自慢する学校づくりをめざします。
ビジョン
(1) 教師が指導力の向上を図り、生徒に確かな学力を身につけます。
(2) 生徒の主体的な取組や体験活動の充実を図り、豊かな心を育みます。
(3) 基本的生活習慣の定着を図り、たくましい身体を育みます。
(4) 開かれた学校づくりに努め、保護者や地域から期待される学校をつくります。

学 校 教 育 目 標

確かな学力と豊かな人間性を身につけ、たくましく生きぬく生徒の育成
めざす生徒像
〇 基礎・基本の学力を身につけ、夢と志をもって主体的に学ぶ生徒に育てます。
〇 感謝の気持ちを大切にし、お互いが思いやりの心で接する生徒に育てます。
〇 身体をきたえ、目標に向けて粘り強くやりぬくたくましい生徒に育てます。
めざす教師像
〇 教育に強い情熱と高い倫理観をもち、感謝と感動を大切にする教職員をめざします。
〇 わかる授業を心がけ、個に応じて細やかに指導できる教職員をめざします。
〇 新たな取組に果敢に挑戦し、生徒、保護者、地域とともに歩む教職員をめざします。

以上は三高中学校HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

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右沖の島は似島、その向こうに本土となる広島市は霞んでみえます。

三高中学校生徒数28名、三高小学校生徒数60名、三高保育園定員40名、広島宇品港までは12km、フェリーでの所要時間は40分、車で橋を渡る陸廻りだと2時間と少々、手漕ぎカヌーだと3時間少々・・・

どっちの水が甘いかなぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高小学校・三高保育園

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「三高小学校」は三吉村と高祖村が合併する以前、明治5年の学制制定(太政官布告第二百十四号)に準じ、三吉村に「時習館(明治8年7月)」が高祖村に「勧善館(明治8年7月)」が開かれたことに始まります。

のち、三吉尋常小学校、高祖尋常小学校と改名され、修学年も3年制、4年制と拡充されますが、明治22年の三吉、高祖合併により三高村となるも学舎は分かれたままでした。

明治40年小学校令により義務教育が6ヶ年となるにいたり、明治42年、三吉尋常小学校と高祖尋常小学校が合併「三高尋常小学校(6年)」となり、さらに大正7年になり「高等科(2年)」が併設され「三高尋常高等小学校」となりました。

ちなみに、明治42年当時の尋常小学校では、修身・国語・算術・歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操・裁縫、の習得科目がありました。
また大正7年に高等科が併設される以前は、鍵ヤ谷から山道に入り高田村経由で中村の高等小学校へと通ったそうです。

その後は、昭和16年「三高村国民学校」、昭和22年「三高村立三高小学校」、昭和26年「美能分教場」併設、昭和29年「美能分教場」統合、昭和31年「沖美町立三高小学校」、平成16年「江田島市立三高小学校」となりました。

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斬新的デザインの外観をもつ三高小学校の表玄関です。
平成14年7月に建て替えが完了しました。

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平日でも休日でもよく子供たちの声が聞こえ、校庭を走り回る姿を見るのですが、平成29年の総児童数は60名、1年生はわずかに4名となっています。

ちなみに約30年前の平成2年度の総児童数は188名でした。

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三 高 小 学 校 学 校 教 育 目 標
人とつながり、ともに高め合う児童の育成

め ざ す 学 校 の 姿
〇 一人一人が大切にされ、一人一人が輝く学校
〇 一日一日が充実して楽しい学校
〇 安心・安全・信頼される学校

め ざ す 子 ど も の 姿
〇 元気なあいさつ・返事ができる子
〇 時間を大切にする子
〇 静かに掃除ができる子
〇 自分の考えをもち表現できる子

上記は三高小学校HPよりのコピペです。
読み書きそろばんができればの時代とはだいぶ様子が違うみたい・・・(^_^;)です。

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学校からは目と鼻の先に波静かな瀬戸内海が広がるのですが・・・。
プールが完成したのは、昭和60年です。

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三高港を背後にして建つ三高小学校校舎です。
この地、柳之前に小学校用地が指定され「三高尋常小学校」が開校したのは109年前の明治42年3月です。

三高小校章 
三 高 小 学 校 校 章 作者 椎木 寿(昭和42年11月頃)

三 高 小 学 校 校 歌 作詩作曲 角 清人(昭和39年5月)
一、
ほ う だ い 山 に い だ か れ し
平 和 の さ と に う ま れ い で
の び ゆ く わ れ ら
い ざ や い ざ
学 び の み ち に い そ し ま ん

二、
な が め た え な る せ と 海 に
高 き の ぞ み を た く し つ つ
つ ど え る わ れ ら
い ざ や い ざ
す こ や か に こ そ 育 た な ん

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画像手前の丸い窓がある建物が「三高保育園」です。

保育園の向こうにピンク色の三高小学校が見えますが、保育園も元は小学校と路地を挟んで隣り合っていました。

さらにその先の鉄筋コンクリート造りの建物が三高中学校となります。

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「三高保育園」は、アユの遡上も見られるという清流木ノ下川のすぐ傍に建ちます。

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廻りを田んぼや菊畑に囲まれた中、大地に根を張るように力強く建つ三高保育園の屋舎です。

s-江田島市保育園 
江田島市には、認定こども園が3園と保育園が3園あります。
(「認定こども園えたじま」は現在建設中、今年3月の開園予定です。)

三吉 三高の菊発祥之碑

s-菊発祥之碑A 
山を削り深い谷底を一気に流れ下る木ノ下川は農業用水としては利用しづらいのですが、その豊富な水量は三高地区に大きな恵みをもたらしました。

ただ、その恵みを得るために必要な水路づくりや、井戸を掘るのも、さらにはそのメンテナンスや分配にいたるまで、すべてが人々の協働と協力により成り立っていました。

傾斜地に棚田をつくり、しかも個人ではごく狭い耕作地しかもたない、古来よりの米作りにおいて、地域住民の団結力は絶対的なものです。
三吉にはその団結力と協働協力、生真面目で粘り強い風土が今も息づいており、他地区ではほぼ壊滅した稲作が今も広く行われています。
(もっとも、それが嫌で農業を諦める場合もあるのですが・・・(^_^;)です。)

今も稲作が盛んな三吉地区ですが、それにも増して盛んとなっているのが花卉類、とくに菊の栽培です。
減反政策による代替え作物として拡大し増産されたのですが、バルブ崩壊後の経済低迷の影響を受け、しだいに縮小傾向にありました。

が、近年の緩やかな経済成長や団塊世代の帰郷就農などもあってか、少しづつですが増産傾向にあります。

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徳正寺から少し上流へと登った古戸地区に「三高の菊発祥之碑」が建てられています。

側面に、栽培面積12ヘクタール・生産本数3百万本・組合員数52名
昭和61年10月 三高花組合建 と、あります。

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6月上旬、露地栽培で生育中の菊です。

黄色い花が見える畝は親となる菊で、そこから芽生えた若芽を4月ごろに切り取り、挿し木にされます。
その挿し木から育てた苗が、向こう側に見える雑草防除用の白いビーニール覆いに開けられた小穴に整然と植えられています。

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6月下旬、ガンガンと急成長しています。

菊は肥料食いで成長も早いのですが、沢山の有機肥料をすき込んだ、水はけの良い土地でないと商品価値のある菊は出来ません。

ちなみに栽培菊は中国唐時代に盛んとなったものが移入された?あるいは日本古来の野生菊からの派生?あるいは両種の混血?などあり、定説とはなっていません。

日本で和歌に詠まれ始めたのは平安時代となってからで、さらに鎌倉初期、後鳥羽上皇(1180~1239)が「菊紋」を皇室の家紋としたことで、春の桜に対する、日本の秋を象徴する花へと昇格しました。

またヨロッパやアメリカで品種改良された洋菊のルーツは、幕末の頃に持ち出された日本の栽培菊であるとされます。
(以上はウイキペディアの要約・・・m(__)mです。)

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品種選択や栽培時期をずらすことにより、周年にわたり生花が出荷できるよう調整されています。

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植えられて間もない温室栽培の菊です。

露地栽培に比べ、より生育管理がしやすく出荷時期の調整も可能ですが、加温や電照など生産コストも高くつきます。

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出荷用に切り取られ、傷みにくいように束にされた温室栽培の菊です。

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軽トラ、いや普通トラックの荷台に山と積まれた菊の巨大花束です。

かっては番船で運ばれましたが、平成に入ったころより、左に見える沖美運送の大型トラックに積み替えられ、陸路花卉市場へと運び込まれます。

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三吉に菊の栽培畑は沢山あるのですが、畑一面に菊の花が咲き乱れることは、まずありません。

開いてしまった菊の花では商品価値がなくなってしまうからです。
たまたま見ることができるのは、切り取ったあとの株から芽生えたわき芽から咲いた花、それも来年の挿し木苗を取るために、親株として残したからです。

普通は蕾で切り取られ、残った根っこは病害虫予防を目的にすぐさま引っこ抜かれて焼却されます。

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」・・・(*^。^*)です。

三吉 三吉の農道

s-三高街道A 
緑色でなぞった農道の大部分は昭和50年以降、軽トラックが農作物や肥料資材の運搬、人の移動に欠かせないものとなったあとに急きょつくられたもので、場所によっては軽自動車であっても対向車に慌てる道幅しかありません。

また、県道38号線や笠松峠越えの三高是長間道路以外は何れも大型車には不向きな道幅であり、農道兼用の生活道路となっています。

ちなみに、海岸線沿いに高田への道(現県道38号線)が完成した昭和初期以前は、三吉から、中(村)の高等小学校へと通う学童は鍵ヤ谷から山越えで高田(現さつき荘付近)へと抜ける小道を利用していました。

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農道から見下ろす三高港、その沖には大奈佐美島さらに向こうに宮島が見えます。

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実はつい最近地元の方に教えて頂いたのですが、この農道から宮島のロープウェイが見えるんだそうです。

この日はいまいちのお天気だったのですが、目を細めたり見開いたりしたら、なにやら白い点が動いているようで、慌ててカメラのシャッターきりました。

で、最大まで引き延ばしたのが上の画像、右下の隅にゴンドラの白い箱がぶら下がっているのが見えます。
中央付近にロープウェイの山上駅舎獅子岩駅、左上に弥山山頂(535m)の花崗岩巨石と展望台が見えます。

山頂が見えるのは知っていたのですが、ロープウェイはてっきり山の向こう側だとばかり思っていました・・・(*^。^*)です。

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海岸からはずい分上に登った山の中腹近くですが、きれいな清水が湧くのでしょう。
一面にハスの花が咲いていました。

ちなみにハスの根っこ(茎)は食用となるレンコンです。

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三高の町と、その沖はるかに霞むのは本土広島の廿日市から五日市方面です。

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バブル崩壊後しだいに少なくなっていたビニールハウスですが、近年になって少しづつですが復活している様子です。

手前の畑には路地植えの菊が栽培されるのでしょう。
トラクターがフル稼働で土を耕しています。

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季節は四月中旬、間もなくトラクターが入り耕される直前の棚田です。

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最下部を流れる木ノ下川を挟んで、両岸はしだいに高さを増す農地が階段となって続きます。

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田んぼの緑肥となるレンゲソウの花が咲き始めました。

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6月初旬、田植えの最盛期です。

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11月下旬、刈り取られ自然乾燥のためにハザ掛けされている稲束の列です。

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ハザ掛けでゆっくりと自然乾燥したお米は味が違うといわれます。

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木ノ下川の清水と昔ながらの自然農法とで、一味も二味も違う三吉米の脱穀風景です。

燦々と降り注ぐ太陽光のもと、耕し、植え、育て、刈り取って食べる。
そりゃ~うまいにきまっとるがのぉ~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 旧三高(三吉)街道

s-三高街道A 
岬を一つ越えるごとに小さな半農半漁集落があり、それら集落が点となって連なる海岸線に実線となる幅広の道路を建設することは、古来より難事業中の最たるものであります。

さらには、ごく近年になるまでそのような幅広の道などは必要とせず、重量物は船で、小分けできるものは、人の背に乗せて山越えで運搬していました。
またかりにそのような立派な道が造られたとしても、小さな村々の行政では維持管理することもできません。

それは現在においてもいえることで、車の往来がまれな農道や林道の多くが草木に埋もれ、アスファルトを割って孟宗竹や雑木が芽生え始めていますし、集落とを結ぶ幹線道でさえ夏場は両脇から草木がはみ出して上下二車線道路もその半分の路面しか使用できません。

昭和50年代、三高の海岸沿いに幅広の県道36号線バイパスが完成しました。
それが直接の影響だとはいえませんし、三高だけに限ったことではありませんが、三高(三吉)旧街道に軒を連ねて並んでいた商店街は年を追うごとに寂しさが増しています。

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三高商店街の西の入り口、かって旅館業や仕出し、宴席会場などで賑わったであろう立派な店構えのお家でもシャッターが降ろされました。

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店頭に自販機3台を置いたタバコ屋の「みなとや」さん。

お隣は、酒・米・飲料・アイスクリーム・本、と何でも屋の「ISHIGOCHI」さん。

その先の3階建て「三高ビル」の一階は、お食事処の「寄り道」さん。

二階には、美容室・ヘアーメイクの「とも」さん。

三階には、お食事処「横綱」の看板も見えます。

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タバコ屋「みなとや」さんは兼業でお好み焼き店も経営されています。

広島で有名な「オタフクソース」ではなく、あえて「ヒガシマルソース」で勝負されている様子、表に長椅子が出されていますので、時間帯によっては行列ができるのかも・・・(*^。^*)です。

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「三高ビル」の軒下を利用して無人市場が開かれています。

「正直・信頼・感謝」代金は棚の前側の竹筒へ
インゲン豆50エン・パプリカ50エン・スイカ100エン・シシトウ50エン・オクラ50エン・トマト50エン・ピーマン50エン・ナス50エン・サラダ水菜50エン・モロヘイヤ50エン(きざみ、たたく。ねばりが出る。ドレッシングで)・最下段にはキュウリとジャガイモ・・・

うぅ~ん、残念。財布を持って来ていません・・・(^_^;)です。

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酒王千福・サントリーリザーブ・塩・日田天領水・キリン・アサヒビールも販売します「浜井酒店」さんです。

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ギャランン・ランサー・ミニカ・アルト・Kei・ワゴンR・カルタス クレセント・エリオ・エスクード・スイフト・ジムニー・エブリイ・キャリイなどなど、どんな車にも対応できます。
自動車、オートバイ販売修理の「河原モータース」さんです。

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三高街道を高松峠道の方に入り込むと、電柱を沢山の洋服でクリスマスツリー風に飾った、衣料品の大売出し店があります。

大阪の船場あたりへ行けばこういった華々しい商品展示の店を見ることはありますが、・・・
店主のお兄ちゃん、大阪で修行されたんかもしれへんわぁ~。

もうかりまっか。 いやぁ~、ぼちぼちでんなぁ~。
三高のおしゃれをリードする、ファッション ショップ「サカガワ」さんです。

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お店の入り口には、新小学生衣料受付中の大看板が立てられており、外から見える衣料品はすべてが半額表示となっています。

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地域の安全を守る「三高駐在所」さんです。

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街道脇には、地域情報の掲示板が立てられています。

五年生住田さんの力強い筆跡で書かれた「仲間」、野村さん、アンドレさん・内海さんの明るい色調で楽しそうな雰囲気の絵画。
江田島警察署からのお知らせや防犯指導、一年間のゴミ出しカレンダーが貼ってあります。

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「新ながいきくん」「ドリームかんぽ」「ゆうちょスクラッチキャンペーン」などなど、のぼり旗や掲示板がいっぱいの「三高郵便局」さんです。

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沢山の花々で飾られた「迫製麺所」さんです。

四代にわたる技術の蓄積を持ち、伝統製法による完全天日干しで熟成された旨味とコシのあるウドンや、ソウメン、ソバもつくられています。

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昭和中期の頃までは人々の往来が絶えることなく続いた、三高街道、三高商店街通りです。

きっちりと組まれた赤煉瓦の塀を、手入れされた緑の木々の枝葉がやさしく覆う、すてきな生け垣が残されています。
かって大正の頃には広島県下最大ともいわれ、従業員270人、年間1080万個の煉瓦を生産した三高地区に残る赤煉瓦の塀です。

「降る雪や 昭和は遠く なりにけり」 ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高フェリー桟橋

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江田島市内と広島宇品港とを結ぶ航路は「三高から宇品(瀬戸内シーライン)」「中町・高田から宇品(瀬戸内シーライン)」「切串から宇品(上村汽船)」「小用から宇品(瀬戸内シーライン)」の4航路があります。

江戸時代、佐伯郡に属する能美住民は郡役所のある廿日市とのつながりが強く、郡や村の役人が公用で利用するのはサンパン(全長5m程度の小型通船)とよばれる櫓押しの船で、村人が交代で任に就いたため番船ともよばれました。

安政4年(1857年)とされる、廿日市から三吉・高祖間の番船(サンパン)使用料金として、二丁立(二本の櫓で漕ぐ)で米5升6合7勺 ・ 三丁立は米7升6合7勺 ・ 四丁立は米9升6合7勺と、漕ぎ手の人数により運賃が変わります。

一般の住民は、農作物や生活物資などの運搬船に便乗して渡海しましたが、普通は一往復に三日を要したといいます。
ただ、櫓漕ぎの小型船であっても、気象や潮、積み荷の量などの条件が良ければ宇品までの12kmを3時間程度で往くこともできました。

ちなみに、現在の三高~宇品間の運賃は大人680円、所要時間40分です。

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三高港桟橋待合所です。

芸備商船の撤退後、しばらくは市営(第三セクター)となる江田島汽船株式会社が三高航路を運行していましたが、平成28年10月、瀬戸内シーライン株式会社へ併合されました。

ちなみに能美の定期連絡船事業は、明治38年、沖村の岡田岩吉氏が「海勝丸(62t)」を能美、広島間に就航させたのが始まりであるとされます。
以後、多くの個人や海運会社、村営、町営などが乱立しましたが、長期に渡り安定した経営を続けることはなかなかに難しいようです。

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待合所前につくられたロータリーに「NIHON MARU」寄贈 沖美町三吉 沖正美・フミコ 平成元年とプレートの付けられたプロペラとシャフトが置かれています。

日本丸といえば帆船の航海練習船、「海の貴婦人」と呼ばれた初代日本丸をイメージしますが???、???まさか???。

ちなみに、日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船で、昭和59(1984)年までの約54年間に、地球を45.4周する距離を航海し、11,500名の実習生を育ててきました。
昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存されており、一般公開されています。

その日本丸のプロペラを取り外し三高へと持ち出した?とは思えませんが???。
ただ実習生としてより他に、日本丸と地元能美船員との関係があるとすれば、戦時中日本丸は石炭運搬船として瀬戸内海航路を何度も往復しましたので、当時石炭運搬に多く携わっていた能美出身の船員さんが日本丸に乗船していたとしてもおかしくはありません。

また帆船日本丸は普通「Nippon Maru」と呼ばれますので、三高の「NIHON MARU」とは違う船?プロペラも少し小ぶりだし???、 三高ミステリー ・・・(^_^;)です。

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昭和50年の三吉地区の中心部です。

木ノ下川河口防波堤の左に、カーフェリーが着岸しいています。
その左に現在ある待合所やロータリー、フェリー桟橋などが建設途中です。

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現在のフェリー桟橋と、着岸しているのは「シーフレンド」です。

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シーフレンドの船橋(操舵室)部分です。
マストに揚げられているのは、緑十字旗と瀬戸内海汽船の社旗です。
また操舵室窓の下には建造元である内海造船の文字が記された楕円形の真鍮プレートが取り付けられています。

シーフレンドは因島田熊内海造船において1998年1月に竣工、山陽商船、芸備商船、 瀬戸内海汽船、安芸津フェリー、江田島汽船などを転籍(共有予備船利用もあり)現在は瀬戸内汽船に在籍し、子会社である瀬戸内シーラインの宇品~三高航路に投入されています。

全長49.9mで排水量312t、ディーゼル2軸で1,600ps、乗用車10台、トラック4台、船客250名が乗船し、11.5ノットの速力でもって航行します。

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速力を緩め着岸準備中のシーフレンドです。
現在の宇品三高航路はこの「シーフレンド」と「入船」の二隻で運行されています。

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この宇品三高航路は安渡島付近で、大型船が頻繁に行き来する航路と直角に交差しますので、左右を見張り、間合いを取って航行する必要があり、気の抜けない航路となります。

カキ筏では何隻ものカキ船が作業中であり、潜水艦1隻が東進中、超大型のバラ積み船「新音戸」と海上自衛隊呉警備隊所属の高速連絡艇が西進中です。

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桟橋に着岸中の「入船」です。

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2012年4月撮影、在りし日の「ドリームのうみ(江田島汽船)」です。

売却予定だった「ドリームのうみ」ですが、2011年3月11日、未曽有の大惨事となった東日本大震災の直後、被災した気仙沼市の大島汽船へと無償賞与されました。

画像は約1年間の賞与期間を終了し再び江田島市所有船となり、江田島汽船にて就航中のドリームのうみです。

ドリームのうみはその後も2014年10月まで江田島汽船にて運行されていましたが、翌年、尾道市の和気海運商事に2億5400万円で引き取られました。

「ドリームのうみ」は広島県福山市鞆町の本瓦造船株式会社で建造されました。
発注者 江田島市(合併前の能美町)
竣工 平成17年1月31日
船 型 単頭ニ軸船 船首尾ランプドア (油圧シリンダ方式)
全 長 59.375m
幅 11m
喫 水 2.6m
総 ト ン 数 395t
主 機 関 ヤンマー  8N21A-EN×2基 1800ps
航海速力 14.5ノット (85%出力)
載貨重量118.29t
最大搭載人員 旅客300名 乗組員3名
搭載車両 バス4台または普通乗用車10台

建造費の明記はありませんが、おおよそ5億円???くらい・・・です。

三吉 三高港

三高港 
狭議で三高港といわれるのは、木ノ下川河口の西につくられた小さな港ですが、今日では高祖西港や、完全に埋め立てられ痕跡も留めない高祖東港、三高(三吉)港、小島(小山)港を合わせて、「三高港」と呼びます。

ちなみに元の三吉港が三高港となったのは、明治22年(1889年)に三吉村と高祖村(美能地区も含む)が合併し、三高村が発足したためです。

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画像は昭和37年の三高港付近を空撮したもので、左上には円形の高祖東港があり、三高中学校や貴船神社はもろ砂浜に面していました。

画像では、木ノ下川や柳之前川の河口に広く砂溜まりが見られ、港の入り口にまで押し寄せています。
台風もしくは大雨により河川から土砂が流出したのでしょうが、このようなことが頻繁に起こっては港として機能しません。

三高港が現在あるように大規模に改港されたのは、このような理由からではと?・・・推測です。

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改修された古くからの三高港港内です。
水深は浅く、係留されている多くは小型船です。

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港内の水深のある位置には小型底引き船です。
主には冬場、鉄枠に取り付けた網で海底を引いて廻り、ナマコやカレイ、ヒラメ、エビなどを捕獲します。

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小型の海上作業船「第五ひで丸」です。
主にカキ筏の移動や設置作業などを行いますので、小型でもエンジンは高馬力です。

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「沖美運送(有)」の大型トラック「三菱ファイター」です。

かって、この付近の岸壁には沢山のミカンやダイコン、ハクサイやキャベツが山と積まれ、番船と呼ばれる小型船に積み込まれて、広島や呉の市場へと運ばれていましたが、カーフェリーの就航や早瀬大橋の開通(昭和48年)島内道路の整備、農業の衰退などもあり、今日番船を仕立てて市場へと乗り込むことは無くなりました。

この三菱ファイターはその番船の代わりとなるもので、三吉や近隣農家の産物(近年では菊など花卉類が多い)を積み込み市場へと運び込みます。
トラック運転席側のフロントには市場への乗り入れ許可証が置かれています。

s-高祖・三吉19810927(S56)ABC 
画像は昭和56年10月の空撮(国土地理院)です。

先の昭和37年からわずか20年でここまで整備が進みましたが、この後も改港工事は大きく進み、左上に見える高祖東港は埋め立て工事により完全消滅、三高中学から三高桟橋への道路(県道36号線)も新設されました。

また、同時に河川工事も並行して行われ、大雨があっても大きな土砂の流出はなくなりました。

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改港された、新三高港の埋め立て地は主に三高特産物のカキ養殖事業者に提供され、事業の近代化に有効利用されています。

最盛期にはカキ連の揚収クレーンをマストのように掲げたカキ運搬作業船が、早朝から何隻も出入港を繰り返し、船からベルトコンベアーで作業場に陸揚げされたカキは、すぐさま大きな回転ドラムに入れられきれいに洗浄されます。

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家内作業で行われていたカキ養殖業も、今は外国からの研修生を何十人も雇い入れ、すべてを効率的におこなう、工場生産にも似た大規模な近代化がなされています。

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大きく様変わりした三高港の全景です。

ちなみに、平成27年の都道府県別カキ養殖量(殻付き重量)は
広島県106,851t ・ 宮城県18,691t ・ 岡山県10,657t ・ 全国計で164,380tとなり、広島県のシェアは65.0%、むき身生産量だと広島県は19,322tでシェア68.1%です。

県内でのカキ生産量第一位を誇るのは呉市、第二位は江田島市であるといわれますが近年のデーターは不明、あるいは県下第一位に躍り出ているかも???・・・(*^。^*)です。

三吉 小島港(小山港)・馬脊島・中小島・脇小島

s-馬脊・小島港改 
能美島志(1763年)に、「稲積」は三吉村の海岸にあって、小島分れ並ぶ、風色愛すべし。と、記されます。

また、芸藩通志(1825年)では、「馬脊島」、「脇小島」、「中小島」は三吉村に属す。
馬脊(うまのせ)は、周一町三間(114.5m)、脇は廿四間(43.2m)、中は七間(12.6m)に過ぎず礁苫の類なり。と、記されます。

ちなみに、能美島志で「稲積」と云われたのは、島を構成する花崗岩の風化節理の模様が稲束を積んだように見えたから???でしょうか。
芸藩通志に云う馬脊(うまのせ)とは島の頂部や稜線が馬の背のようにやせ細っていることからでしょう。

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画像は、昭和初期の三高商店街地図(沖美町史掲載)です。

右下に小島港の石積み防波堤が書き込まれており、その沖に三つの島(脇小島と中小島の礁苫)が見えます。
当時はそれぞれの島に名前が残っていただろうと思いますが、戦後?これらの島はコンクリートで固く繋がれ小島(小山)港を守る防波堤の一部となりました。

それとともにこれらの島を一まとめにして、「小島」と呼ばれるようになり、港も「小島港」となりました。
ちなみに地元の方々の話では、陸側(現農協倉庫)には陸続きとなった小山(馬脊島)があり、この付近の元の地名は小山であったといいます。
農協倉庫の脇、東側には中町・高田港から宇品を結ぶ貨客船が途中寄港し、付近の田畑で生産された農産物や農業資材を運ぶ番船も多数出入りしていました。
昭和40年頃に車を搭載することのできるカーフェリーが就航する以前は、三高桟橋よりも此方の小山(こやま)岸壁の方が賑やかなこともあったと云います。

上記画像の、「昭和初期の三高商店街地図」には「小山岸壁」は載っていませんので、それ以降から、昭和22年までの間(昭和22年10月の航空写真には小山岸壁が写っています)に岬先端の小山(馬脊島)を削り取り、農協資材倉庫や小山岸壁が造られたのだろうと推測します。

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コンクリートで固く繋がれ防波堤の一部となった、脇小島と、その手前には辛うじて浸食を免れた小さな中小島です。

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脇小島(わきこじま)の北東面です。

風波による浸食で痩せ細り、島の頂部へと登るのは危険な状態です。
現在海図等では島として認められていないようで標高が記載されていませんが、推定で5、6mくらいだろうと思います。

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脇小島のどてっぱらには海食洞となる大穴が穿かれており、港側から外海に浮かぶ「笠磯灯標」を覗き見ることが可能です。

もう数百年?もすれば、脇小島の一部は防波堤から切り離され「脇ノ脇子島」??が誕生するかも???・・・(*^。^*)です。

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脇小島から腕のように延長された石組みの防波堤には、係船用のビット(係船柱)が埋め込まれています。

この石組み防波堤は「昭和初期の三高商店街地図」にも載っていますので、おそらくはそれ以前に造られたものだろうと思います。

沖に見えるフェリーボートは三高桟橋から宇品港へと向かう「シーフレンド」312tです。

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西側防波堤から見た小島港港内と、北風を遮て立つ脇小島です。

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三吉農道から見た、小山地区の家々と小島港、防波堤の一部となった脇小島と中小島です。

右沖に笠磯灯標、はるか沖合を西進するのは、艦番号403、潜水艦救難艦「ちはや」5,400t、全長128m、深海救難艇を搭載、2000年に岡山県玉野市三井造船所で建造されました。

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潮の引いた小島港の砂浜に船底を横たえる小型木造漁船の「胡子丸」です。
木造の船体を滑らかに仕上げ表面をグラスファイバーで覆った、当時としては最新の技術で作られた多目的漁船です。

一本釣りや延縄、刺し網や吾智網漁、蛸壺、アナゴ籠と、小型船の機動力を生かし瀬戸内狭しと走り回ったのでしょう。
潮が引けば港内に砂浜の現れる、非効率ではあっても昔と変わらぬ、ゆったりとした時間をもっとたのしみましょう。

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老船のたまり場となった小島港です。

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小島港の東、岬の先端にあった馬脊島を削り取って造った農協資材倉庫も、最近では入り口シャッタが開くことは稀となり、その脇に花崗岩を組んで造られたスベリ岸壁に、番船や貨客船が横着けすることも無くなりました。

沖に見えるのは広島港との中間に位置する似島です。
西端の岬「地獄鼻」を廻って何隻もの番船が抜きつ抜かれつ、我先にと行き交ったのはそんなに昔のことではありません。

三吉 安渡島・笠磯

s-安渡島・小島 
「安渡島」は三高桟橋と広島宇品港とを結ぶ航路の西側、三高桟橋からは約1800mの距離にあり、地理院地図による標高は10.4m、花崗岩の独立島で廻りの水深は30~40mあります。

「笠磯」は三吉小島港の北、約300mの海上にあり、岩礁の上には黒地に赤い帯を巻いた笠磯灯標が建ちます。

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安渡島の東側航路を、宇品港から三高桟橋へと航行中のカーフェリー「入船」です。

ちなみに、カーフェリー入船(いりふね)は能美町高田の中谷造船所で建造されました。
1997年9月竣工、全長49.9mで総トン数は354トン、大型バス2台、乗用車13台、旅客定員は250名、速力11ノットです。
瀬戸内海汽船の持ち船で、運航会社は瀬戸内シーラインとなっています。

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安渡島の北側は呉港等に出入りする船舶の主要な航路となっており、大型船が頻繁に行き来します。

安渡島は東西方向とと南北方向に走る二つの航路の交点に位置しますので、船舶航行量の多くなった今日においてはその灯標としての役割も重要で、昭和42年(1967年)1月29日、塔型のコンクリート造り、白色塗装、高さ9.2mの灯台が設置されました。

灯台名は「安渡島灯台」、平均海水面から灯火までが18m、灯質は単閃白光(毎4秒に1閃光)、光度は560カンデラで灯光は14.8km先まで届くとされます。

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安渡島灯台の北側航路を西方向へと航行中のクルーズ船「銀河」、右上には似島の西端が写ります。

ちなみに、クルーズ船銀河(ぎんが)は呉市川尻町の神田造船所で建造されました。
1984年3月に竣工、全長58.8mで総トン数は575トン、出力1,800馬力のディーゼルエンジンで速力14.2ノットで航行、運航者は瀬戸内海汽船となっています。

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安渡島を圧倒する超大型船は、鉄鉱石バラ積み運搬船の「新音戸」です。
伊万里の名村造船所で1996年に建造されました。
全長 : 273m
全幅 : 43m
深さ : 24m
満載喫水 : 17.6m
速力 : 15.9kt
総トン数 : 77,000トン
載貨重量トン : 15万トン
船籍国 はパナマで、日本郵船と月星海運の共有船とされます。

呉市の日新製鋼で積み荷の鉄鉱石15万トンを陸揚げし、新たな鉄鉱石を求めて海外へと向かう雄姿・・・(*^。^*)です。

ちなみに、日本は鉄鉱石の全量を海外から輸入しており、2014年の鉄鉱石の主な輸入相手国は、豪州(52,218千Mt)、ブラジル(23,274千Mt)、南ア(3,993千Mt)、カナダは(2,632千Mt)となっており、その他の国々を合わせた総輸入量は(85,919Mt)となっており、上位2か国である豪州とブラジルからの輸入量は全体の88%となります。

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呉港(海上保安大学校岸壁)を母港とする、海上保安庁巡視船PL21「こじま」です。

「こじま」は、1993年3月、舞鶴の日立造船所で約50億円をかけて建造された海上保安大学校の4代目となる練習船でもあります。
総トン数3,136t、全長115.2mで8,000馬力、速力は18ノットで、兵装として35mm単装機銃×1基・20mm多銃身機銃×1基を搭載し、非常時には本来の巡視船としての任務も可能です。

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海上自衛隊の潜水艦ですが、航行中は艦番号や艦名の表示はありません。
(桟橋などに停泊中だと玄門付近に艦番号、艦名を示すプレートが立てられます。)

ちなみに海上自衛隊の保有する最新の潜水艦は「そうりゅう」型で、一番艦は2009年に神戸三菱造船所で竣工した「そうりゅう」です。
排水量は2,900t、全長84m、機関はディーゼル・スターリング・エレクトリック方式で、水上3,900ps・水中8,000ps、速力は水上13ノット・水中20ノット、兵装として89式魚雷とハープーン対艦ミサイルを搭載し、乗員は65名です。
建造費は搭載電池の性能により513~643億円となります。

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艦番号106、護衛艦「さみだれ」です。

むらさめ型護衛艦の6番艦として、東京の石川島播磨重工業で建造、2000年に就役しました。
現在は第4護衛隊に所属し母港は呉港です。
排水量4,550t、全長151m、機関は4基のガスタービンエンジンで出力6万PS、最大30ノットで航行可能です。
武器は62口径76mm単装速射砲 × 1門、高性能20mm機関砲× 2基のほか、対艦ミサイル、対空ミサイル、短魚雷、哨戒ヘリコプターを搭載、乗員は165名となっています。

上記船舶の要目等はウィキペディア他、ネット情報からの抜粋・・・m(__)mです。

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画像中央上の小さな島が「安渡島」、手前右下に建つ灯標の下部が「笠磯」です。

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笠磯灯標は江田島市三高港(小島港)沖に位置する笠磯浅瀬を明示する目的で設置され、初点灯は昭和56年1月12日です。

塔型のコンクリート造りで、黒地に赤横帯 1本塗、黒色球形頭標が2つ付きます。
光質は単閃白光(毎 5s / 2閃光)、130カンデラ、光達距離は5.5海里 (約10Km )
灯火の高さは平均海水面水面から9.7m、灯標高は7.5mです。

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燃え盛る炎の先に建つ笠磯灯標です。

この日(前日?)は海上ゴミの一斉清掃日?だったようで、海上に流れ出た粗大ゴミを集めて浜で焼却処分を行っている様子です。

三吉 三高ダム

s-グーグル地図 三高ダム 
「三高ダム」は三吉地区を南から北へと流れ下る、木ノ下川の上流部にあります。

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三高ダムは第二次世界大戦中の昭和18年(19年とも?)に海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が築造しました。
戦後はGHQを経て海上自衛隊へと移管、昭和32年に三高簡易水道の水源としても併用、昭和51年には海上自衛隊専用水道と統合し、現在は三高水系として、三吉、高祖、美能、高田の一部に給水(昭和43年には太田川水系とも接続)を続けています。

さらに平成16年、補強及び嵩上げ工事が完了したことによりそれまでの貯水量218千㎥から554千㎥に倍増、沖美町内全域に灌漑用水を供給できるようにもなりました。

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ほぼ満水状態(554千㎥)の三高ダム貯水池です。

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ダム堰堤の上から見下ろした、浄水施設です。

旧三高ダムでは1日/2,000㎥が最大配水量でしたが、嵩上げ工事が完了した新三高ダムでの最大配水量は1日/16,300㎥と大増しました。
この量は江田島市内での上水1日最大給水量(消費量)12,000㎥を上回り、数量的には全江田島市内の水道水を十二分に賄うができます。

・・・が、実際の浄水処理能力は1日/10,000㎥(拡張整備案)がやっとで、しかも少雨や水質悪化等による取水制限、農業用水とのからみなどもあって、???、????な状況です。

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旧三高ダムの堰堤上部にあった、遊歩道(点検用通路)の一部が切り取られ残されていました。

三高水源地
このモニュメントは、旧堤体の管理道である天端を切断したものです。
旧ダムは、昭和18年旧海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が2年の歳月をかけ築造され、終戦後は米軍による接収を経て、自衛隊施設及び周辺地域の水道水源として使用されていました。
昭和51年に江能広域水道企業団が大蔵省から譲り受け、現在は江能広域事業組合により、江田島能美地区の貴重な水道用水源として管理されています。
春には桜が咲き町民の格好の憩いの場となっています。

旧ダムの諸元
形式 重力式コンクリートダム
堤高 32.6m
堤長 142.0m
堤頂幅 2.0m
満水面積 2.6ha
総貯水量 226千㎥
有効貯水量 218千㎥

三高旧ダム 
画像は、旧三高ダムを写したものです。

例年桜の時期には場内が一般解放され、グループごとに車座となって花見弁当を広げる光景がありました。

三高ダム断面図B
画像は新ダム堤体の断面図です。

左側が貯水池、右側が下流側となります。
老朽化し、一部に漏水も認められた旧ダムの表面を重機(ビットローラ)で削り取り下流側に分厚くコンクリートを流し込んで旧堤体と密着させ、さらに堤体の嵩上げ工事により貯水量が倍増となりました。

形式 重力式コンクリート
堤高 44m
堤頂長 202m
堤堆積 78千㎥
流域面積 2.8K㎡
総貯水量/有効貯水量 584千㎥/554千㎥
ダム事業者 広島県
着手/竣工 1995/2004

三高ダム受益面積 
三高ダム改修の主目的であった、農業用水配水地域を示すマップです。
(画像は「一般社団法人 ダム協会」HPよりのコピペ ・・・m(__)mです。)

三高ダムを起点とする農業用水配水管は沖美町地区のほぼ全域において配管がなされており、この農業用水を利用できる受益農家数は約800戸であるとされます。

ちなみに、ダム本体の工事費として巷の噂では80億円???とか???・・・(^_^;)です。

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ダム本体工事の事業者は鹿島建設・飛鳥建設・大末建設です。

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ダムから流れ落ちる水流の波紋が均等で、とても素敵な模様となって現れています。
おそらくは数ミリの誤差もない、最上級の施工がなされているのでしょう。

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三高ダムの下部にある沈殿池などの上水道浄化施設です。

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菊栽培のお花畑の前に農業用配水管の減圧弁を格納する青色の蓋、バックにはその水源となる新三高ダムが両翼を大きく拡げます。

ダムから集水した農業用水はポンプアップされ高松峠近くの貯水槽から地下のパイプを通して各地に配水されます。

沖美町の農道の地中ほぼすべてに農業用水の配管がなされており、要所に減圧弁が設置され、各田畑ごとには給水用のバルブが取り付けてあります。

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それぞれの畑や田んぼにはバルブをひねるだけで水が流れ出る大きな蛇口が取り付けてあり木ノ下川水源の豊かな水が途切れることなく注がれます・・・(*^。^*)です。

三吉 木ノ下川

木ノ下川・三高ダム 
「木ノ下川」は三吉地区を東西に二分して流れ下る江田島市内最大の川です。

(元画像は江田島市防災マップよりのコピペ・・・m(__)mです。)

グーグル木ノ下川AAB 
木ノ下川の源流は三吉地区の最南に位置する江田島市最高峰の宇根山(541.8m)近くにあり、その延長はおおよそ5,000m、水量も豊で上流には三高ダム(有効貯水量554千㎥)があります。

(画像はグーグル地図鳥瞰図よりのコピペ・・・m(__)mです。)

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三高ダムからさらに遡った木ノ下川の源流部近くには、徳正寺の山号ともなる「盤谷渓」と呼ばれる峡谷があり、大岩の盤上を流れる渓流や、水しぶきを上げる二段滝があると云いますが、今は容易には近づけない状況です。

かわって、支流となる「高松川」の上流部は高松峠へと向かう古道沿い(菊ロード)にあって、車でも容易に近づくことができます。
その源流部、小さな滝から流れ落ちる清水を「山名水 乙女の泉」と名付け、近隣の人々がポリ容器を携えて訪れます。

画像はその迸る清水、「乙女の泉」・・・(*^。^*)です。

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三高山の尾根から見た、三高ダムと水を溜め青く輝く三高水源地です。
画像右に向かう谷が支流高松川、画像左の谷は支流大附川です。

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支流「大附川」の水が張られた大附集落最奥の山田です。

獣や鳥の被害さえなければ西能美一番の美味しいお米が沢山できるのですが・・・。

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三高ダムの余剰水と高松川でポリ容器からあふれ出た水が一緒になって流れ下ります。

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一直線の急流となって流れ下る水の勢いを少しでも緩くし、農地への配水をも兼ねた小さな堰堤です。

川の中で青々と群生するのはサトイモ科ショウブ属のセキショウです。
セキショウは水量の安定した渓流畔に見られることが多い植物で、生活排水の流れ込む淀んだ流域には育ちません。

近年になって木ノ下川にもアユが見られるようになったとの話があります。
アユのジャンプ力は70~80センチメートルであろうといわれますので、この堰を越えることは無理でしょうが、何匹もの若鮎が滝壺から一斉にジャンピングトライする姿が見られるのもまじかだろうと・・・(*^。^*)です。

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先人が日々一石づつを積み上げてつくった、支流「舟木川」の流れです。

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本流である木ノ下川に、山裾から流れ出た急流「舞窪川」が合流する位置に架かる舞窪橋です。

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両岸に広がる農地に十分な水量を供給し、余剰水を集めてさらに流れ下る木ノ下川の中流部です。

平成16年に三高ダムの嵩上げ工事が完了したことにより、沖美町内ほぼ全域の農業用地には、バルブをひねるだけでいつでも安定した水量を供給することが可能となりました。

木ノ下川は島内一番の水量豊かな川ではありますが、水源から河口までの約5kmを一直線に駆け下る急流です。
しかも、流域となる農耕地の大半は川の両岸の急斜面を階段状に削ってつくった田んぼや段々畑です。
これら斜面につくられた農地は木ノ下川からの恩恵を受けることはなく、はるか下方をとうとうと流れ下る水の音のみが段々畑の石垣に反射します。

ただ流れ下るのみだった木ノ下川の水を有効に利用することは地域住民の積年の願望でしたが、今、三高ダムから繋がる農業用配水管が町内各所にくまなく埋設されたことによって、やっと現実となりました・・・(*^。^*)です。

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木ノ下川扇状地の要ともいえる部分に架かる「宮の桁橋」です。
この付近より両岸の農地面積は倍増して一気に広がり、木下川の水源としての重要性も倍々増します。

かっては、水を満遍なく公平に供給するための堰(せき)を設け桁を渡し、分流用の板材を微妙に調節しながら配水の量を加減した所じゃないかと???
夜中、勝手に我田に引水する輩を戒めるために水神宮の祠とかも置かれていたのでは???と、想像・・・(^_^;)です。

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国政による減反や、農業者人口の減少、農地の宅地化などにより耕作地は最盛期の何分の一、あるいはそれ以下となりましたが、木ノ下川(三高ダム)の恩恵を最大限に受ける三吉地区は江田島市内で、もっとも多くの田園風景が残る地域となっています。

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秋、黄金色の稲が刈り取られたあとの田んぼにはレンゲソウの種が蒔かれます。
春、一面に咲き乱れる花々を遠くから見ると低くたなびく雲のように見えることから漢名では「紫雲英」とも記します。

ちなみに正式名称は「ゲンゲ」でマメ科ゲンゲ属、古くに中国から渡来(一説には17世紀とも)し、根に共生する根粒菌が窒素を固定しますので、田んぼの緑肥となり化学肥料の使用量を抑えることができます。
さらには家畜の飼料としても利用できる他、ミツバチが集める花の蜜は「れんげ蜂蜜」として珍重されます。

他にも若葉の食用や民間薬としての効能などもありますが・・・、レンゲソウの花を見れば誰だって心がいやされ、春の陽だまりのようにポカポカとあったか~い気持ちになれます・・・(*^。^*)です。

三吉 薬師堂

s-薬師堂グーグル 
「薬師堂」は徳正寺から、さらに木ノ下川を逆登った先の大附集落南部の高台にあります。

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大附集落の家々を結ぶ小道に面して建つ薬師堂です。

この付近の地名は大護寺とも呼ばれており、かって薬師堂背後の山中にはお寺があったと云われます。
大附薬師堂の薬師如来像は、その大護寺より移したものであるとも云います。

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堂の扉は閉まっていましたが、格子戸の桟の間から内部を拝ませていただきました。

帽子を取り、姿勢を正して「合掌」・・・m(__)mです。

一般的な薬師如来像は右手を上げ(施無畏印)、左手のみが膝の上(与願印)、あるいは薬壺を持ちますが、大附薬師如来像は両手を膝の上に乗せる「禅定印」で現わされています。

この所作は古い時代の薬師如来像に多く、京都嵯峨薬師寺の薬師如来像とよく似た御姿となっています。

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堂内側面の壁にタペストリー?が掛けてあり、「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」と文字が書かれています。

これはすべての薬師如来に共通する「真言」と呼ばれる音です。

「真言」は梵語で「マ ントラ(मन्त्र [mantra])」といい、「いつわりのない真実の言葉」という意味を持ちます。
伝統的に言葉の意味を詮索しません。
なぜなら、真言は音が重要であり、知識や理屈に執着しないためです。
あえて翻訳せず音写を用いるので、 漢訳では咒(明咒)と訳されます。
一心に称(とな)え続ける心境がもっとも仏に近く、あらゆる功徳がその称えの中に含まれます。
と、以上は「一畑薬師」さまHPからの、引用・・・m(__)mです。

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大附薬師如来像は左手に薬壺をお持ちになりませんが、何故かお堂の奥に「サントリー リザーブ」と刻印のある通常よりも一回り大きな壺(瓶)が置かれています。

劇薬、あるいは気違い水となる場合もあるとは思いますが、御人によっては最上の「お薬」「活力の源」ともなる「お神酒(おみき)」・・・(*^。^*)です。

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お堂は昭和の頃に建て替えられた様子・・・境内は狭いのですが、左右に石灯籠が置かれ、ソテツが大きく葉を広げ、ナンテンの実が赤みを増しています。

ちなみに、ソテツは有毒なサイカシンを多量に有し、ナンテンもアルカロイドなどの有毒成分を有しますが、「毒は薬なり」で、古来より毒成分をうまく希釈調合して薬としても利用されていました。

何にでも効く薬の調合は望めませんし、常に健康な体を維持することもできませんが、自身で可能な養生「過度な飲食を慎み、規則正しい生活」くらいは実践しましょうね・・・(*^。^*)です。

三吉 徳正寺 2/2

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田園風景に溶け込む徳正寺の伽藍です。

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鐘楼門の前を流れ下る木ノ下川と、高松峠へと登る旧街道です。

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晩秋の日射しを透かす境内のモミジ葉と鐘楼門の格子窓です。

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日射しに手をかざして見上げる鐘楼門です。

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本堂と鐘楼門と境内を囲む白壁の塀が最適なバランスにて配されています。

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正面より仰ぎ見る鐘楼門です。

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秋の陽を浴びて黄金色に輝く鐘楼門です。

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受徳橋を渡りて、さらに振り返り見る鐘楼門・・・(*^。^*)です。

三吉 徳正寺 1/2

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浄土真宗本願寺派「盤谷山 徳正寺」は三吉地区のほぼ中央部、木ノ下川の右岸にあります。

蛇足となりますが、浄土真宗本願寺派「擁護山 徳正寺」は能美町中町にあります・・・(^_^;)です。

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木ノ下川の流れに正対して建つ重厚な鐘楼門と本堂は250年ばかり前の明和元年に建てられました。

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徳正寺の周囲には木ノ下川の上質で豊富な水を利用した田んぼや畑が広がっており、平地の少ない江田島市内のお寺としては珍しく、田園風景に囲まれたのどかな環境の中にあります。

現在は駐車場として整備されましたが、つい2、3年前までは鐘楼門の庇の元には野菜畑があってネギやタマネギ、ニンジンやジャガイモ、トウモロコシが育てられていました。

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徳正寺のトレードマークはやはりこの鐘楼門です。

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本堂の背後には四季折々に変化する色彩豊かな山が被さり、今でいうインスタ映えのする風景が・・・(*^。^*)です。

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江戸時代中期に建てられた鐘楼門は、総ツガ造りで姫路城天守閣と同じ建築様式が採用されており、鐘のある二階部分と門となる一階部分の柱の位置が異なって建っており、地震の揺れに対し重心が移動する仕組みであると云います。

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徳正寺本堂です。
正面にて、「合掌」・・・m(__)mです。

徳正寺のそもそもは・・・。
南北朝時代の貞治二年(1363年)北朝軍に敗れた伊予太守河野通朝は、その子徳王丸(のちの六郎通堯)を中村十郎左衛門久枝北ノ方の縁所である、安芸国能美島三吉浦へと逃がしました。
この通堯が開祖となり、三高山山頂付近に山城を兼ねた禅寺を建て、菩提を弔ったとされます。

のち天正二年(1574年)河野左門尉俊高(利堯とも)が釋浄信となって「萬谷山(現盤谷山)徳正寺」を開基、現在ある本堂や鐘楼門は八代達導師により明和元年(1764年)に建てられました。
さらに10代となる道命(没年1812年)は子弟の養成、教学の発展に尽くし、その功績により本願寺より「勧学」の称号を追贈されました。

徳正寺御本尊の阿弥陀如来立像は元禄十二年(1699年)大仏師康雲の作とされ、石山合戦の折に本願寺顕如上人より賜った「六字名号」や、「支那二十四考物語」を刻んだ孟宗の欄間など数多くの寺宝を伝えます。

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経堂は質素な外観ですが、木ノ下川が近いこともあってか石段で5段分の高さに土台を組んだ上に建ちます。

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本堂の横には落ち着いた雰囲気にまとめられた池があり、「無量寿」の額を揚げた品格高いお堂が建ちます。

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本堂の大屋根には重量感のある大鬼瓦が乗り、その下の破風には三重の懸魚と鰭が付けられています。
さらにその奥の妻壁にも巧みに彫り抜かれた飾り板が何重にも止められています。

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境内に育つ大銀杏の枝下の向こう、上下で柱の位置をずらして建てた耐震構造を有する鐘楼門が遠目にも安定感のある姿を見せます。

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徳正寺の真正面に架かる「受徳橋」、昭和35年10月竣工です。

受徳橋の欄干には
発起人
山尾実人・小松正市・石光杉太郎・小田昌三
寄附者
岩国市沖井義光・広島市有本初男・広島市永井勝一・広島市松本利治・矢舗増登・矢舗芳登・山尾勇一・藤井繁太郎・後峯吉・下向井敏一・広島市新田三郎・三吉佛教婦人会・下河内兼松・水越市太郎・下河原良一
と、芳名が入れられています。

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木ノ下川の対岸から見た徳正寺です。

木ノ下川をさかのぼり高松峠から是長へと続く古道は、昭和35年になり海岸沿いに美能経由の県道36号線が開通したのちも順次改良工事が行われ、今でも三吉と是長とを結ぶ主要な交通路となています。

三吉 三高恵美須神社

s-三高恵美須神社 
「三高恵美須神社」は貴船神社の沖に広がる干拓造成地の中、高祖地区との境界にあります。

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東を向いて建つ社殿の前には、「恵美須神社」「豊漁祈願」と刻まれた標柱が建ちます。

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社殿前にて「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

三高恵美須神社は昭和58年4月、三高漁協が中心となり新しく祀られました。
ご神体は木彫の恵比須様像で、美保神社(島根県美保関)の分神であります。
祭日は10月10日の頃とされており、祭事には中町八幡神社より神官を招いて執り行われます。

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台座や境内を囲う玉垣は花崗岩で組まれており、社殿の左右には阿吽の狛犬が配されています。

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神殿の沖側には昭和後期に大きく改築された三高漁港が広がり、その長大で頑丈な防波堤は台風や季節風による大波を一切寄せ付けません。

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昭和56年(1981)9月の三高漁港です。

後に三高恵美須神社となる用地は埋め立て工事が完了していますが、沖の防波堤はまだ工事中の様子です。

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平成初年には埋め立て造成工事が終わり、長大な防波堤も完成した現在の三高漁港です。

円形防波堤の高祖東漁港は跡形もなく埋め立て地の下に隠れてしまいましたが、昭和58年4月に完成した恵美須神社は防風林となる木々の間に白く輝いています。

三吉 山神社

s-山神社地図 
木ノ下川両岸に並ぶ民家が途切れた先、古戸集落の最上流部、是長へと通づる古道の脇に「山神」と呼ばれ小さな社殿が建ちます。

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雨風を和らげるため、廻りを鉄骨トタン張りの小屋で囲み、イノシシなどの獣害を防ぐため、鉄柵の垣がめぐらしてあります。

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山神さま社殿の前に立ち「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

花生けには榊がさし入れてあり、神前にはビールが供えられています。
扉で仕切られた社殿内部は見えませんが、ご神体には石が据えられているとききます。

脇には先代の社殿と思われる、千木と鰹木を乗せた銅葺きの屋根が残してあります。

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山神社境内のすぐ下は、三吉から高松峠を越えて是長へと結ぶ旧道です。

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この付近は木ノ下川に沿って吹き上げる北風の通り道なのでしょう。
社殿の両サイドには、強風をさけるための厚いベニア板が打ち付けてあります。

山神社古地図 
芸藩通志「三吉村」絵図よりコピペの「徳正寺」と「山神」付近の拡大図・・・m(__)mです。
(黒く太い線は木ノ下川で、右が上流、左が北側で下流となります。右下の山には「藪?」と書かれていますので、矢竹用のお留山???、木ノ下川対岸の地名は「大ツケ」とあります。)

徳正寺の位置は今と変わりませんが、山神社は当時三高山の中腹付近に有ったようです。

山神社 
木ノ下川対岸の大附地区から見た、三高山(砲台山)と道路わきに建つ山神社です。

山神社が元あった地点は三高山中腹と云います。
その付近は下部からの花崗岩(深成岩)と、その上部に被さる玖珂層群(海底堆積岩)との境界部です。

一般に堆積岩の下部に花崗岩が上昇し接触しますと、高温高圧の熱水により花崗岩や堆積岩中の重金属が濃縮する傾向にあります。

江田島市でいいますと、江田島津久茂鉱山、高田畑鉱山において少量ですが金、銀、銅、鉄が産出されました。
また、木ノ下川上流には鉄山が、さらに三高ダムの右岸には良質の石灰岩が産出し、ごく少量ではあるが金が採取されたとのうわさ話も耳にしました。

と、すれば・・・この地に「山神社」が祀られたそもそもは、遠い遠い昔、三高山中腹において金銀が採掘されていたのでは?・・・。

高祖宝原川の水源近く、神の久保と呼ばれる谷の奥に、財宝が土中深く隠されているとの伝説も、まんざらのつくり話じゃないのでは???・・・(*^。^*)です。

三高山はいま黄金色に染まろうとしています。

三吉 荒神社(寺山観音堂跡)

s-荒神社 
「荒神社」は木ノ下川の左岸、千城原集落の中心部にあります。

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荒神社の社殿は一般民家の庭先、母屋の真正面に建ちますので、「こら~、下着どろぼ~~」とか叫ばれたらどうしましょう。って、ヒヤヒヤしながらお参りをさせていただきました・・・(*^。^*)です。

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今の社殿名は「荒神社」となっていますが、かってこの位置には「寺山観音堂」があって、いまだにこの付近を「かなんどう」と呼ぶ人も多いといわれます。

観音堂から荒神社へと変わった時期は不明ですが、それまで堂内に置かれていた観音像は古刹徳正寺の経堂にて安置されています。
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正面より拝する荒神社の全容です。

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社殿に乗る瓦は近年になり新しくふき替えられた様子ですが、その下に付けられた懸魚など木造部は積年の風雪を受けて深く彫りとられ削りとられています。

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小さな社殿ですが、細部にわたり手の込んだ装飾がなされています。

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上に乗る重量物を受けとめる肘木にも丁寧な細工がほどこされています。

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円の内に彫られているのはアゲハチョウのようです。

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拝殿と本殿とを仕切る格子戸です。

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格子戸を開きますと台上に本殿が据えられていましたが、ご神体には目隠しがされております。

まぶしさに目がくらむといけませんので、目隠しはそのままで「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

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荒神社社殿の横には、お地蔵様が二体仲良く並んで置かれています。
その足元には、春の柔らかい日差しが注ぎ、一緒に添えられた菜の花とねこやなぎが賑やかにはしゃぎ合っていました・・・(*^。^*)です。

三吉 島神社

s-島神社 
三吉地区は西能美島の中央部を南から北へと流れ下る「木ノ下川」と、そのすべての支流域を占有しており、江田島市内にあってはもっとも水量の豊かな地域です。

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「島神社」は西に隣接する高祖地区との境界線ともなる、「柳之前川」の上流部に建てられました。
その創建は新しく、昭和も後期となってからのようですが、・・・。

島 神 社
御祭神 信行大神(のぶゆきおおかみ)また御名を天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
相殿 大山祇(おおやまづみ)大神・木花咲耶(このはなさくや)姫尊・他十一神を合わせ祭る
御 由 緒
当社は宇宙全圏の獨神天之御中主大神様を御祭神として奉斎してあります。
その昔三高水源地の奥に滝があり、竜神様を祭る社があったと云われています。
第二次大戦中、鉄の不足により滝のあった山が鉄山ということから一帯を掘り起こし跡形もなく消えてしまい、現在は草に埋もれた石積の社の跡が残っているだけになっています。
古人の話によると、この里には井原という郷族が住んでおり、後に南郷という郷族が入って来て支配したといわれます。
入江を多くもつ能美島は水軍の根拠地と適しているためいろいろな種族の水軍が奪いあった島であろうと推測されます。
大君の王泊には石棺等が出土し、山の尾根尾根にはのろしを上げたであろうと思われる所に宮の跡や地蔵様を残す所、多数見あたり城の名のついた所、戦いのあった跡を示す地名も数多く残っており、強者達が上陸し去って行ったという古い歴史の跡が伺われます。
当社の初代社主は南郷という郷族の血を受け継ぎこの里で誕生しすぐに朝鮮に渡って成長、戦後長崎に帰って来ましたが、度重なる不幸に合い神仏に救いを求めたのが此所に入った始まりであります。
いろいろな信仰の門をたたき歩き神道教教祖古賀天明管長の尊い導きにより信行大神様に一心におすがりしている時に「余は竜神なり三吉の里にて大神を祭られよ 余も助ける人の身救うて我身救わるものなり」との御託宜があり、滝の跡地より谷を一つ西北に移すこの地を求め「天地?・・・せる神天の中平にあって天地一切を主宰する神?・・・天地創主唯一絶対神」であります。
天之御中主大神様を鎮祭されたことに始まります。
「大自然の動きの中に人は皆悉く神の子として生かされ自然に逆行する生き方は不幸を招くゆえに大自然の中に自我を捨て無理なく生きることこそ人の道(道理)であり人の道が神の道である。」という。
誠の信仰を私達に伝えんとして、あらためて御降臨になられ信行大神と別名を自らなのられました。
故に天之御中主大神を信行大神と唱え奉斎し、相殿に大山祇大神・木花咲耶姫尊を配祀してあります。
昭和五十九年甲子年霜月吉日
神道信行教 島神社社務所

以上、判読が不能な文字は未記載です。誤字脱字ありましたら・・・m(__)mです。

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鳥居の傍には山水が引き込まれており、大岩の上から流れ落ちるように設計されています。

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鳥居をくぐる前に、龍口より溢れ出る手水をいただきました。
山水の落ちる大岩の下では滝修行もできるように、滝つぼにはお立台となる大石が据えられています。

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鳥居を潜りぬけると直ぐに急こう配の石段となります。

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急な石段を登り終えると左右に長く羽を拡げたように拝殿があり、その中央奥に本殿が見えます。
拝殿の庇に提げられた大きな鈴を鳴らし、「二拝二拍手一拝」・・・です。

ちなみに、神社と鈴の関係についてプログ「神社ナビ」よりコピペをさせていただきました・・・m(__)mです。

神社によっては鈴を吊るしていないところもありますが、この鈴は本坪(ほんつぼ)鈴とも呼ばれており、鈴を鳴らすための紐は鈴緒(すずお)といいます。
お参りをする人が鈴を鳴らすようなったのは江戸時代後期となってからですが、それ以前より神社と鈴とは深い関わりを持っておりました。
神楽舞にも鈴が用いられており、古くは巫女が神憑りするために鈴を用いて神楽を舞ったのが始まりとも言われています。
発祥地、発祥時期は不明ですが、土鈴と呼ばれる鈴は金属が用いられる以前からすでに土を焼いて作られており、日本でも縄文時代の遺跡や古代の祭祀遺跡から多くが発見されています。
鈴の清らかな澄んだ音色には、悪いものを祓う力があると信じられてきました。
拝殿前に吊るされた鈴も、お参りする人が鳴らすことで祓い清めるという意味を持っています。
巫女による神楽舞も神憑りのためであったものが、現在は神様に奉納することでお慰めするという意味合いが強くなり、神楽舞の後で鈴振りを行うことで参拝者を祓い清めるとともに、神様のご加護をいただくという役割を果たしています。
それ以外でもお守りに小さな鈴がついていたり、干支を象った土鈴などには魔除けや厄除け、開運などの意味が込められます。

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拝殿前の広場は木の葉一枚残さず綺麗に掃き清められています。

それにしても、このような左右に長い廊下のような造りの拝殿は初めてみました。
とても斬新的で素晴らしい発案だとおもいます・・・(*^。^*)です。

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拝殿へは左右に付けられた階段を上ります。
拝殿からですと、まじかに本殿を仰ぐことができます。

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幣殿前に貼られたしめ縄の下にて、再度拝させていただきました・・・m(__)mです。

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左右に細長い拝殿を横切り、その右側に付けられた階段より広場へと降りてきました。

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境内の前は高祖から三吉中心部へと繋ぐ農環道が横切っており、満開となった桜の枝下には、はるかな沖に大奈佐美島や宮島が遠望できます。

ちなみに、「柳之前川」に架かるこのコンクリート橋、高祖側の欄干に付く名板には「こうそばし」とあり、三吉側の欄干には「柳之前橋」1979年3月 広島県 道示(1972)一等橋 と、二つの違った名板が付けられています???・・・(*^。^*)です。

高祖 古地図(芸藩通志)

s-高祖村AAA 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

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芸藩通志記載「高祖村」の原画(コピペ)・・・m(__)mです。

現在の地名である鶴原、亀原、豊作原、宝原は表記されていません。

高祖(切り取り) 
「高祖」地区の拡大です。

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芸藩通志「高祖村」集落部の拡大図です。

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画像は昭和56年(1981)9月27日の高祖地区航空写真(国土地理院)です。

この当時、すでに農業は次第に衰退の方向へと向かっていましたが、農道の整備は大いに進展しました。 

オレンジや牛肉の輸入は、政策により昭和39年のころより順次輸入量を増やす傾向にありましたが、いわゆる日米貿易摩擦やウルグアイラウンドによる規制緩和、農産物の自由化により一挙に推進されることとなりました。

島内の劣悪な農業環境であっても、より高品質なものをより低コストで生産しなければ競争に勝てない状況となり、ならば、機械化による省力農業を果たそうと、山を削り谷を埋めて農道を整備しましたが・・・。

ただ、近年になり三高ダムより給水される安定した農業用水が沖美町全域で利用される環境が整い、一筋の光明がしだいに何本にも枝分かれし始めています・・・(*^。^*)です。

高祖 いいとこ撮り 2/2

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高祖農道から見た高祖宝原(こうそほうはら)地区と、海の向こうに霞む対岸は広島市五日市方面です。

ちなみに、先に紹介した美能地区の西半分が鶴原、東半分が亀原、そして高祖地区の西半分が豊作原で東半分が宝原と呼ばれます。
鶴、亀、豊作、宝と、この地域の地名には、とてもおめでたい名が付けられています。

さらに、宝原川(ほうはらがわ)の水源付近、神の久保と呼ばれる昼でも暗い谷の奥には、財宝を三つの水瓶に分けて土中深く隠されているとの伝説も残ります・・・(*^。^*)です。

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沖に見える左右に両翼を広げた島は似島で、安芸小富士の頂部が見えます。

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満開の梅の花と三高港、右奥は似島です。

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桃の花と、沖には大奈佐美島が見えます。

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ビニール温室の向こうは三吉地区、島神社に植栽されたソメイヨシノが満開です。

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段々畑で作られている野菜は、キャベツ、ハキサイ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ、・・・早生エンドウもツルが伸び始めています。

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山の中腹に残された、マチュピチュ遺跡にも匹敵するくらいに貴重な高祖の段々畑です。

かって、昭和の時代には山の頂近くまで迫った耕作地も、今や、その9割9分までが元の自然状態へと回帰し、イノシシやアナグマ、タヌキの楽園となっています。

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高祖地区の背後にそびえ、沢山の山桜で彩られた三高山(砲台山)、標高は401,8mです。
山頂部から右に下がる緩やかなスロープが三高山堡塁(砲台跡)となります。

 
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民家の屋根越しに見た三高山と、三高山堡塁です。

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農家の納屋(裏側)です。

石垣で囲われた半地下の部分は、山から集めた落ち葉や稲藁などに、家畜の糞尿などを混ぜて発酵させ、たい肥を作る「こなしや」または「落としばんや」と呼ばれる部屋です。

ちなみに当地において化学肥料が全盛となったのは昭和40年代となってからで、江戸の昔より不足分の肥しは広島市内に求め、ゴミ船、肥船を仕立てて大量に運び入れていました。

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農作業小屋の壁に特殊車両が展示?されていました。

稲や麦を刈り取り束ねることのできる革命的な農作業支援機(小型コンバイン)だと思いますが?・・・(*^。^*)です。

高祖 いいとこ撮り 1/2

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高祖地区を東西に走る県道36号線沿いに、誰もが疑問に思う赤煉瓦造りの地下壕があります。

地下壕には赤煉瓦で補強装飾した入り口が三つあり、この日道路側の一番大きな地下壕内には小型ボートが一隻と、前後に大きな籠を装着したママチャリが一台、展示(格納?)されていました・・・(*^。^*)です。

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この地下壕の入り口は、アーチ状に煉瓦を積み上げて丁寧に造られてはいますが、軍事用としては入り口が三つもあるのに内部空間は僅かしかなく、使用目的がはっきりしません。

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で、たまたまお会いした近所にお住いのご婦人にお話を伺いますと、「防空壕です。壕が掘られている小山の上にお住いの方の私有地で、主にはその方が主導して造ったもので、非常時には近隣の人々も一緒に防空壕内に退避しました。」と。

なるほどぉ~。
小山の上にお住いの御主人、子供時代の秘密基地づくりの感性、遊び心を大いに発揮し、だれにも遠慮することなく嬉々として掘り進んだのでしょうね。
平時ならきっと奇人変人扱いですが、戦時下ならご近所さんも手助けをしてくれて・・・(*^。^*)です。

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画像は赤レンガ地下壕の、すぐ近くに建つ民家を囲う赤レンガの塀です。
江田島市内においては今でも、家の土台や壁、塀などに多くの赤レンガが残ります。

沖美町史によれば、能美近隣におけるレンガの製造は、高祖の住人である三浦小太郎氏が大阪で学んだ技術をもとに、明治30年頃より始めた輪環式煉瓦製造業が成功をおさめたことに始まるとされます。
初期の高祖地区に開いたレンガ工場に加え、現三高中学校地と木ノ下川下流西側との二ヶ所にも工場を増設し、年間1080万個の赤レンガを製造、従業員が270人にも及ぶ県下最大のレンガ工場を成しました。

その後、昭和初期に始まった世界恐慌のあおりを受けしだいに衰退する状況にありましたが、昭和9年ごろより耐火レンガの製造を開始、月産量500トンにまで業績を回復、第二次大戦中は軍需によりフル操業での生産を要求されましたが、敗戦後の昭和21年、大量の生産余剰品を残しすべての工場が閉鎖されることとなりました。

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高祖西漁港の近くに花崗岩石材を巧みに組み上げ、アーチ状の門を開けた石垣が残ります。

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この石垣が造られた当時、その沖側には砂浜?が、あるいは干物干し場?が広がっていたか、それとも、雁木(石段)があって、直に船からの荷下ろしが出来るように作られたものか???です。

くぐり抜ければ別世界へと通づ、不思議の国のアーチ門・・・(*^。^*)です。

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秋風が流れ下る石垣の小径に、コスモスや百日草が絶え間なく左右に揺らぎます。

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宮崎駿氏の作品「となりのトトロ」に出てきそうな雰囲気が漂う、超ノスタルジックなお家です。

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高祖地区を横断する幹線道路県道36号線は、市内でも稀なくらいに狭くて曲がりくねっています。

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狭く曲がりくねった県道36号線ですが、昭和の時代にはその狭い道の両側に各種商店が軒を連ねていました。

その中には電気屋さんもあったのでしょう。
ヒロシマランプと書かれたブリキの看板が軒下から取り外され、側溝のひび割れた箇所に蓋代わりに置かれていました。

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県道36号線のネックとなっていた高祖地区を横断する狭い道路も、今、海岸沿いに新しくバイパスとなる道路の工事が着々と進行中です。

高祖 カキ養殖抑制棚

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西に隣接する美能地区から、高祖、東の三吉地区にかけての海岸線には遠浅の地形が多く残っており、その遠浅の海域を利用してカキ養殖のための「抑制棚(よくせいだな)」が広く設置されています。

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高祖海岸に設置されたカキ抑制棚です。

画像撮影の時期は2013年の9月中旬、ホタテ貝の表面に付着したカキの幼貝が抑制棚にぎっしりと吊り下げられています。

カキ養殖における「抑制棚」の役割は、カキの成長を抑制して出荷時期の調整を行ったり、環境適応力のある強健なカキを生産することにあります。

カキの養殖法には多種ありますが、近年の一般的養殖においては、7~9月ごろにホタテ貝の貝殻を海中に入れ、かきの幼生(約0.3mm)を付着(採苗)させます。

採苗ができた連(ホタテ貝を針金で綴った120cmくらいの連で採苗器とも呼びます)を上記画像のように抑制棚に吊るし、風雨や日光に当てて環境の変化に強い丈夫なカキをつくります。

出荷する時期に合わせて採苗棚から取り外し、ホタテの貝殻(幼カキの定着した)約40枚を一組として、9mくらいの長さの筏用垂下連に作り替え、水深のある沖の筏に吊り下げて本養殖を開始します。

翌年の年内に出荷(イキス)する場合は秋に、翌々年の春に出荷(ヨクセイ)する場合は採苗翌年の春先に抑制棚から取り外し、筏垂下(本養殖)に切り替えます。

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上記説明図と説明文は広島市水産振興センターHPよりのコピペ・・・m(__)mです。

ワ カ
昭和18年から43年頃まで行われていた方法で、一年以内に収穫ができるのでワカ(若い)と呼ばれます。
イ キ ス
採苗、本垂下後、1シーズンの育成期間を経て収穫する方法です。主にシーズン前半~半ばに出荷されます。
ヨ ク セ イ (早吊、早通しを含む)
その名の通りイキスより長い抑制期間を経て本垂下する養殖方法です。ヨクセイは主にシーズン後半に出荷されます。
ノ コ シ
ヨクセイ養殖のかきを翌シーズン最初の出荷時用に残しておく養殖方法。
フ ル セ (残し種・種残し)
イキスは採苗した種を9~10月に本垂下しますが、フルセは種のまま、もう一年抑制を行ってから本垂下する方法です。収穫パターンはイキスと一緒です。

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上記及び以下の抑制棚の画像は2015年7月のものです。
採苗連(採苗器)は筏による本垂下用にすべてが取り外された跡の状態で、海面には抑制棚の骨組みだけが残ります。

もうしばらくすれば採苗連(採苗器)がびっしりと隙間なく取り付けられるはずです。
ちなみに、2014、2015年は6,7,8月の降雨量が少なく採苗が不良の年だったと云われています。

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左の島影は大奈佐美島、沖を行く護衛艦のシルエットは「さみだれ」です。

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アート・・・(*^。^*)です。

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・・・(*^。^*)です。

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・・・(*^。^*)です。

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沖のカキ筏と抑制棚との間をカキ作業船が何度も行き来します。

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・・・(*^。^*)です。

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新しいカキ筏を設置したり、筏の移動作業を専門とする作業船「第三十二大生丸」です。
後部クレーンに巨大なコンクリート製のアンカーを吊り下げ、指定位置へと運搬中です。

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三高港沖の安渡島と似島の間を三高発、宇品行きのフェリー「入船」が滑るように沖へと進みます。

春の海 ひねもすのたり のたりかな ・・・(*^。^*)です。

高祖 高祖漁港・大和造船所

高祖漁港 
高祖地区は他所に比べ、港湾立地の条件が特に優れているとは思えませんが、三高港大改築の始まる昭和60年頃までは半円形の防波堤で囲った、とても情緒のある港が2つも並んでありました。

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東側にあった高祖港は、三高港の大改築で完全に埋め立てられ跡形もなく消滅しました。

西側の高祖港にはまだ半円形防波堤の一部分が残りますが、もはや当時の面影を感じ取ることはできません。

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西側高祖漁港の沖にも巨大な防波堤が造られ、船にとって最強の敵である、台風や季節風の影響を受けることはなくなりましたが、隣接する巨大な三高漁港と比べれば、なぜかうら寂しく、老船のたまり場的な景観となっています。

桟橋に留められた小型底引き船の「寿丸」、名前の通り長寿を全うし、外敵を避けて船陰に集まる小魚と日がなたわむれます。

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小型底引き魚船が一世を風靡した時代はすでに過去のものとなり、港には当時のような活気はありませんが、タコつぼ漁や刺し網、一本釣り漁など、豊饒の海瀬戸内は常に絶やすことなく自然の恵みを浦々の人々へと分配し続けています。

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本来なら、イワシやアジ、タチウオやイカ、タコ、ナマコなどが干されるべき防波堤の上に、何故かエビスグサの種子が天日干しにされています。

エビスグサの種子(決明子)は、便秘・高血圧・胃弱に効果があるとされており、中国では「決明子(ケツメイシ)」の名前の通り、目に活力(明かり)を与えるとされ、眼精疲労や目の充血解消の民間薬として使われるといいます。

一般には「ハブ茶」と呼ばれ、お湯で煮だして服用するそうで、成分としてはアントラキノンのクリソファノール、オブツシフォリン、エモジン、フィスチオン、オブツシン、アンストロン、トキソアルブミン、タンニン、ナルトピロン誘導体などが含まれるとされます。が・・・、以上はネット上からコピペした参考情報です。

ご使用にあたっては飲用量などをご確認の上、自己責任で・・・m(__)mです。

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港から離れ、高祖の集落を散策しておりますと・・・ナンダ、なんだ、何だ。

お家の塀から、カキ殻やフジツボの付いた石が、針金で止められぶら下げてあります。

も、も、も~しや、これは石で作られたオモリ。
ナマリとかが無い時代には刺し網などのオモリとして、あるいはタコツボ漁やイカかご漁、延縄の固定などに使います。

これは、すご~い、海事歴史博物館とかに展示できそうなお宝、宝石?・・・(*^。^*)です。

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昭和23年1月の高祖から三吉付近です。

高祖の東西両港はすでに半円形の防波堤で囲まれています。

三高小学校は見えますが、現在三高中学校の立つ用地は???
ちなみに、昭和22年4月三高村立三高中学校設立認可。5月仮校舎として美能旧軍倉庫の使用許可。昭和29年5月新校舎落成。昭和31年沖美町立三高中学校と改称。・・・です。

s-高祖1975 
昭和50年1月の高祖集落中心部です。

東西の高祖漁港がとても美しく写っていますが、東港にはすでに三高港からの埋め立て用土砂が大きく迫っています。

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高祖西漁港には、なだらかに湾曲する古い防波堤の一部が今も残っています。

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半円形の古い防波堤で囲まれた湾内に、鉄道線路のようなレールが二本沖へと延びます。

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陸側に向かうレールは、トタン板とキャンパスで囲まれた秘密工場?の中に消えます。

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表の看板はすでに下ろされた後のようですが、作業用グレーンの腕に「大和造船所」と書かれた文字が残ります。

残念ながらすでに造船業は止まったようですが、不要となった木材などの整理が行われている様子です。

「大和造船所」・・・、船大工のおやじさん、もしかしたら?・・・かの「戦艦大和」の木造部分の艤装とかを、請け負っていたんじゃ???・・・。

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海側から見た大和造船所と、新造船を華々しく大海へと送り出すスベリです。

本物の戦艦大和(全長263m・排水量64,000トン)はまあ無理ですが、工場のトタン壁を一杯に開け、1/10サイズのリトル戦艦大和が波しぶきをあげてスベリ降りる姿とか、・・・夢で見るしかなさそう・・・(*^。^*)ですね。

高祖 釈迦堂

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光照寺本堂の正面にそびえる小丘の頂きに、「釈迦堂」が建ちます。

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小丘の頂部を平らに削ってつくられた釈迦堂の境内は、「花祭り」を翌日に控えて、紅白の横断幕が張られており、さらに万国旗が天高く掲揚されていました。

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釈迦堂の外壁には漆喰が厚く塗られており、全体が土蔵のようにがっしりとした造りになっています。

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釈迦堂の正面です。
残念ながら開き戸は閉まったままとなっていましたが、正面に立ち「合掌」・・・m(__)mです。

大正9年の改築時に、昔からの言い伝えを文字として残すべく「大正九年 五八〇年前」と書いた額を奉納したと云います。
言い伝え通りであれば、創建は1340年頃となり南北朝時代前期、かの後醍醐天皇没年の前後となります。

ちなみに、現在のお堂は昭和52年に改築されたものです。

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上記絵図は「芸藩通志(1825年)」から高祖村の一部分をコピペしたもの・・・m(__)mです。

「能美島志(1763年)」では、「西方寺これ高祖村にあり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の像あり、土人毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、記されています。

能美島志から60年ばかり後の芸藩通志絵図では「西方寺跡」とはっきり記されており、その横に「シャカ?」と読める?建物が描かれています。
その下に見える「社倉」よりは小さく、左の「荒神」とは、ほぼ同じ大きさで描かれていますので、「荒神」様と同じようなお堂が建てられて、堂中に「シャカ?」が安置されているのでしょう。

西方寺の釈迦牟尼仏は「土地の人、毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、特記されるくらいに有名な釈迦像です。
西方寺が廃寺となったのち、釈迦堂をもうけ「釈迦牟尼仏」を安置するのは至極当然のことです。

ただ、お堂の位置は現在釈迦堂がある位置よりも山手側に描かれています。
後年となって、現在の小丘頂きに移転したものと思われます。

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「沖美町の文化財をたずねて」よりコピペの釈迦堂「釈迦如来像」・・・m(__)mです。

釈迦像はおよそ670年の歴史を持つとされ、台座を含めての高さ約80cmで、お釈迦様が悟りを開いた時のお姿(正覚像)を写したものです。

柔和なお顔立の頭部や、膝の上に置かれた手などの一部には制作当時のものと思われる顔料が残りますが、多くは剥げ落ち、各所に虫食いの跡も残ります。

今も4月の花祭りには甘茶がかけられており、地元の方々の深い仏心により大切に守り続けられています。

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釈迦堂の大きさに比べ、境内は十分すぎる広さで整地がなされています。

明治8年7月、高祖小学校の前身である「観善館」が高祖宝原阿弥陀堂に造られたと記録がありますので、あるいは明治のころの高祖小学校用地であった?やも??・・・です。

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高祖漁港の防波堤から見た高祖の集落と、その中央部となる小丘に乗る釈迦堂の杜です。
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