岡大王 農道・沖離島農道

県道・往還道・農道AA  
旧沖村(是長・畑・岡大王)地区を縦断する道路として、江戸時代に道幅90cmで開通したとされる往還道、大正から昭和にかけ整備が進んだ県道36号線、平成に入って大きく改良された護岸兼用道路であるバイパス沖海岸線、集落の最上部を縦断して昭和後期に広島県離島振興計画により開通した沖離島農道があります。

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沖離島農道は離島振興計画により昭和後期につくられたもので、当初は軽トラの離合にも不便な道幅でしたが、近年になり農業用水管の埋設と合わせ、道幅も大きく改良されました。

広島県離島振興地域指定a 
上図は「広島県離島振興計画(平成25~34年度)」からのコピペ・・・m(__)mです。

江田島市の一部(津久茂・高田・沖美・深江)は早瀬大橋架橋後もしばらく離島指定がなされていましたが、現在は解除され、あらたに「江能倉橋島地域半島振興計画」が始動することになります。

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普通車の離合も十分に可能な道幅に整備し直された沖離島農道です。

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集落の最上部を縦断しますので見通しも良く、岩国や大竹市の阿多田島、宮島まで一望できます。

眼下の大屋根は専念寺の本堂、その先、防波堤の内側が畑漁港です。

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農道は広くなり、対向車に気遣いする必要は無くなりましたが、急傾斜地につくられた農地は2、3mの幅もない段々畑の連続です。

当然、トラクターなどの重機が使えるわけもなく、今までどおり肩に背負って肥料を運び、クワでもって耕すか、せいぜい小型の耕運機を一段づつ畑の石垣越しに上げ下ろしして使うしかありません。

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お百姓さんの大変な苦労に応え、ジャガイモが宝石のような花をつけました。

地勢は急斜面ですが、花崗岩の風化土は作物の根っこを優しく包み、海風が揺らす葉っぱには、太陽からの光が溢れんばかりに注がれます。

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キャベツも今が成長の真っ盛り、大きく広げた葉っぱで太陽のエネルギーをすべて吸収、光合成反応をフル回転してガンガンと養分をため込んでいきます。

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整備された沖離島農道を一歩外れると、昔ながらの軽トラの離合も不自由な農道ばかりです。

季節は1月ですが、落ち葉や枯れ枝はきれいに取り除いてあり、お散歩だけのよそ者には理想の遊歩道、左右も前後も上下遠近も四季折々の最高の景観が演出されます。

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お城の石垣のように高く積まれた段々畑には、超小型の耕耘機を出し入れするのも一苦労です。

でもクワを使って耕すよりは格段にはかどりますし、女性でも・・・なんとか。

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平地の何倍もの重労働がともなう段々畑では、収益性の高い花き栽培などが適しますが、設備投資や栽培技術の習得、販売ルートの開拓など、またあらたな難問もいっぱい・・・。

温室内には管理手入れがゆき届いたスイトピーが色鮮やかに咲き競います。

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大黒神島と、海の青と、木々の新緑と、色とりどりの春の花・・・(*^。^*)です。

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夏みかんの向こうに広がる岡大王集落と、その先に伸びる半島の先端が赤曲鼻、さらにその向こうは深江沖野島、長島、はるか遠くに倉橋島の山並みまでが見通せます。

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岡大王地区の最南部、赤曲鼻の手前には巨大な温室設備を持つ、沖美ベジタ(有)があります。

建設業界からの異業種参入だそうですが、研究熱心で丁寧な作業管理、沖美町の豊かな自然環境とがうまく調和し、とても美味しいイチゴが育つといいます。
栽培品種は「紅ほっぺ」、大粒で色鮮やか、3月から5月に掛けてはイチゴ狩りも体験できます。
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岡大王 県道36号線

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沖美地区(特に旧沖村)には急こう配な山裾がそのまま海岸へと落ち込む地形が多く、海岸沿いに道路を作るには近年の大型土木機械の登場が不可欠でした。

そのため、古くは耕作地を結ぶ農道と三吉(高松峠)や中村(雀峠)、鹿川(才越峠)とを結ぶ山越え道のみでしたが、江戸時代になり往環(おうかん)とよばれる90cm幅の道路が整備され、今もほぼそのままに、沖中央横断線(道幅は約3mに拡張)として是長、畑、岡大王を結びます。

現在の県道36号線の原型となる道路が整備された始めたのは大正7年で道幅は180cmでしたが、昭和6年になり、三高から沖(是長・畑・岡大王)、鹿川、大原を経由して大君までの間が県道認定を受けました。
才越え峠も昭和11年に5m幅に拡張され鹿川とを結ぶバスの運行(昭和13年 是長~鹿川)も始まりましたが、難工事であった是長と美能の間が完成したのは昭和35年で、三高とを結ぶバスの開通は昭和37年3月となってからでした。

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丸本真珠店さん前の県道36号線(広島県道36号高田沖美江田島線)です。
大型車同士の離合にはかなり神経を使いそうな道幅です。

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大王地区の丸本真珠店から、畑地区の元沖美町役場付近までは、県道沿いに小さいながらも数十軒の店が並び、沖地区の商店街通りとして昭和後期のころまでは賑わいもあったのですが、今は数店舗を残して休業状態となりました。

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寺野下酒店さんです。
ごく最近までは商いがあったようですが・・・。

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古くからのお店だったのでしょう。
柱に打ち付けたペプシコーラの看板が判読不能なくらい錆で覆われています。

ちなみにペプシコーラの日本本土内での販売開始(ボトリング)は1956年です。

一方のコカ・コーラは大正時代には輸入され、戦後進駐軍用にボトリングされていたといいますが、一般用にボトリングを開始したのは1957年です。

コーラ飲料が多くの人々に知られるようになったのは1962年、TVでCMが開始されてからのようです。
この看板も1960年ごろ、東京オリンピック(1964)の開催が決まったころに付けられた???。

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お酒、ペプシコーラの他にも、たばこ小賣所や、塩小賣所と、手広く商いをされていたようです。

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えっ?。
中国電力電球引換所の看板もあります・・・(*^。^*)です。

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数軒先へ進むと「学生服は乃木服」の看板が張られた元呉服商らしきお家もあります。

ちなみに、乃木服のブランド名は、昭和3年創業の備前織物(岡山市北区)より、乃木将軍学生服として出されたものですが、昭和55年廃業となり、のちニッショウ学生服と同様に、昭和被服総業が乃木服のブランド名を継承しています。

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散髪屋(理髪店)さんです。

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御料理、仕出し、食品雑貨の山井一馬商店さんです。

入り口のガラス戸には「広島歌謡コンサート」のポスターが張られており、出演者の香西かおり、新沼謙治、中村美津子、池田輝郎さんが笑顔でこちらを見ます。
上野学園ホール、開演は5月22日木曜日、午後の2時と夕方6時半、S席7,500円・・・です。

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このお家も広いアルミ戸の間口を持って、ご商売をされていた様子ですが・・・

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白壁に酒王千福の看板を揚げた、酒井酒店さんです。
キリンビールやタバコも商っておられます。

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畑地区との境界付近高台から見た、岡大王商店通り(県道36号)と、その上下に分断された岡大王集落の家々です。
センターラインもない狭幅の県道ですが、鋸の歯のように飛び出た幾つもの尾根を削り取り、深い谷を埋め、多くの民家の敷地を削って造られた、希少な交通路です。

現在は海岸線に沿った幅広いバイパス道を通る車が多くなりましたが、三輪バタンコや、ボンネットバスが頻繁に行き交った思い出の道。 昭和も遠くなりにけり・・・(*^。^*)です。

岡大王 小田港・正光港・畑漁港

小田港・正光港・畑漁港 
岡大王には南側から小田港、正光港、畑漁港と大規模な港が三つもあります。

かっては花崗岩の切り石で組んだ防波堤で囲われ、小さいけど風情のある港でしたが、平成に入ったころより、急速に近代化が施され、昔の情景を思い起こすよすがはまったく見当たりません。

その分、台風が近づいても増し舫い(ロープ)を一本多く取るだけで済むようになり、船を浜の奥に引き上げたり、他港に緊急避難する必要もなくなり、潮の満ち引きに関係なく安心して漁に出れるようになりました。

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旧小田港を埋めて沖に出し、大規模な近代化がなされた新小田港です。

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小田港とは防波堤一本を堺として、その北側に正光港が隣接します。

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正光港に舫う小型漁船です。
手前の桟橋の上に整然と並べてあるのは、タコ漁で使用するタコツボです。

昔は陶製の壺でしたが、近年はプラスチック製です。

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大王神社(天満宮)付近の高台から見た、南の方向です。
港の半分より手前が正光港で、その向こう南側が小田港です。

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畑漁港の南側(旧岡港)です。

北側の畑地区にはかって旅客船用桟橋(沖港)があり、是長港、美能港、三高港を経由し広島宇品港とを結ぶ定期航路がありました。

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畑漁港と道路を隔てて、沖漁業協同組合(岡大王・畑・是長)があります。

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県道36号線沿い、専念寺の南に丸本真珠店の看板が目立ちます。

えっ?、こんな田舎に(失礼。m(__)mです。)宝石販売店が???って、おどろいたのですが、実は真珠の養殖を本業(他に、アクセサリー修理,アクセサリーショップ,貴金属店,真珠,真珠卸,宝石加工,宝石貴金属リフォーム,宝石店)とされているようです。

中国新聞(2013年7月7日)記事によれば、水質の良い大黒神島付近でアコヤ貝を養殖、年間3万個の核入れ作業を行い、そのうちの6割程度(上質真珠は約5千個)が真珠として出荷されるといいます。

創業は1947年、最盛期には江田島市近海に40近い真珠の養殖業者が集まったこともありましたが、1967年の国内生産量125トンをピークに下降、2011年には20トンにまで落ち込みました。

現在江田島産真珠の養殖販売業は岡大王の「丸本真珠店」のみとなりました。

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小田港から南の赤曲鼻へと向かう途中、なんとも奇怪な船が数隻船首を道路側にして並びます。

映画撮影用の模型船?、木工船大工さんの練習用???・・・いえいえいえ・・・実は、ここはFRP船の造船所なのです。

外側から見える規則的に組まれた木材は、船形補強の骨材で、それにそって内側にスベスベした面を持つ船形が作られています。
その内側の船形に合わせてガラス繊維を何枚も張り合わせ、特殊な樹脂で固めます。
硬化した船体を形から抜き取ればFRP船の出来上がり?・・・って、まあそう簡単な作業ではなさそうですが、大小5、6種類の船形が用意されています。

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岡大王と大黒神島の間を行く小型漁船です。

船首に乗り、海面を凝視しながら船を進めていましたが、まさかカジキマグロの突きん棒漁じゃなさそうですし???・・・(^_^;)です。

昭和37年(小田港・正光港・畑漁港) 
昭和37年5月16日の航空写真です。

どの港も北側に防波堤が築かれており、湾口は南側に開けられています。

岡大王 大黒神島

江田島市地図グーグル・大黒神島 
大黒神島(おおくろかみしま)は、岡大王と畑地区の沖合約4㎞に位置し周囲が約12km、面積は約7.25km2で、現在は瀬戸内海で最大の無人島です。

この島は山が険しく、全島が森林におおわれていましたが、天保の大飢饉(1832~1840)のころから新たな耕作地を求めて移住する者が現れ、白瀬川を境に北西側が畑村に、南東側が岡大王村の所属地となりました。
最盛期には水田13町5反、畑12町6反ほどがあり、米や甘藷、西瓜などがよく採れたと云います。

大正中期のころよりは子供の学業などの利便性から能美島に移り、農耕船に牛馬を乗せ櫓をこいで黒神島に渡る、通い農業をする者も多くいたと云います。
昭和50年代までは人の気配があったようですが・・・。
ただ、まったくの無人島と云う訳ではなく、島の南西側では数社が大規模な砕石事業をおこなっており、もと島民が山菜取りなどでときおり訪れている様子です。

現代の生活には不便なこの島も、かっては原生林に近い鬱蒼とした山林があり、産出する木材は寺社や学校建築の用材、建設費用の捻出に大きく貢献しました。

原生林は戦後の山林火災で焼失しましたが、港湾整備や埋め立て事業に必要な石材が大量に眠る宝の島であることに変わりはありません。

この宝の島の帰属をめぐっては、過去に何らかのトラブルもあったようで、その一話として「ふるさとの民話 江田島・能美島」に以下の伝承が記されています。

大 黒 神 島 を 深 江 村 と 取 り 合 っ た 話  (要約)
昔、まだ時計もなく、鶏の鳴き声を夜明けの合図にしていたころの話です。

ある日、大黒神島で大王村の人が畑を耕し、野菜を作ろうとしていたところへ、深江村の人が現れ、「うちの村の土地でなにごとけぇ。この島はうちのもんじゃないけぇ」と言い張ります。
「わしは前々からここでものを作りよるじゃ。どしていけん。早いもん勝ち言うじゃあなぁか」と、争いが始まりました。

深江村の人は「この島は、うちの村の目と鼻の先にあるんじゃけぇ、近い方のもんじゃ。遠くの者がそう言うのはおかしなことじゃ」
一方、大王村の人は「んにゃ見てみい。この島はうちの村の真沖にあるじゃあなぁか。あっちの村の者が、こっちにある島を我がもんじゃ言うて、それこそおかしな話じゃ」
「これじゃあらちあかんけぇ、用意ドン!で競争し勝った方の島にしよう」
「んなら、一番鶏が鳴いたら舟を漕ぎ出し、先に島に着いた方が勝ちじゃあ」ということでまとまり、深江村では鶏にしっかり鳴いてもらおうと、うんと餌を食べさせ、一方の大王村では漕ぎ手が負けんように御馳走を食べさせ早く寝せました。

さて、あくる朝、腹を減らせた大王村の鶏はいつもより早く一番鳴きをはじめ、それを合図に、大王村の漕ぎ手は待ってましたとばかり、一生懸命に沖へと漕ぎ出しました。

一方、うんと食べてぐっすり眠った深江村の鶏は、二番鶏になってしまったのです。
遅れをとった深江村は大急ぎで舟を出し、懸命に漕いだのですが、深江村の人たちが飛び降りた浜辺には、すでに大王村の人たちの草鞋が投げ捨てられており、以後大黒神島は大王村のものになったと云います。

よく似た伝承に、同じく舟での競争で抜きつ抜かれつの接戦の末、大王村の漕ぎ手が船上から投げた草鞋が先に砂浜に落ちたことで大王村の勝ちとなったとも。

他にも「黒神島へは犬を連れ入ってはならぬ」とも云います。

蛇足です。
日本で最大の無人島は、北海道松前郡松前町に属する火山島、渡島大島(おしまおおしま)で、面積は約9.73km2、です。

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黒神島(大黒神島)の命名由来ははっきりしませんが、是長地区の沖にも同じく黒神島があり、大きさの違いで大小、黒神島として区別されています。

沖美町史によりますと、「安芸国神名帳(鎌倉時代)」に佐西郡興津黒神明神と記される社があり、「芸藩通史(江戸時代)」に黒神島に三興津黒神明神の御社(みやしろ)と呼ばれる地があったと記されます。
島の東に突き出た宮城鼻(みやしろばな)付近がその御社跡では?といわれます。

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沖美町史よりコピペの「黒神島の地図」です。
地図の上方向が東側となりますので、地図の右上に宮城鼻があります。

大黒神は南東部が岡大王地区、北西部が畑地区と二分され、最高峰の櫛ノ宇根(459.9m)は岡大王地区に含まれます。

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花き栽培用のビニールハウス、専念寺の本堂の向こうに見る大黒神島です。

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江田島バスKKの「大王神社前」バス停から見た大黒神島です。

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是長地区の農道から見た大黒神島です。

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畑地区の渚から見た大黒神島です。

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海図「広島湾1/7500」昭和5年5月16日刊行 水路部長 米村末喜、6月7日印刷発行 水路部、のコピペ・・・m(__)mです。

海図であっても主要な山には標高が記載されるのですが、呉軍港付近の山々は故意に標高表示が削除されています。
古鷹山も宇根山(旧名 中村山・野登呂山)も、呉市の灰ヶ峰、休山も・・・(^_^;)です。

海図左下に、艦船速力試験距離と書かれた破線があります。
大黒神島の山裾に白い標識が立てられており、艦船がその2点間(1海里)を通過した時間を計測し、速力測定やプロペラの回転数(翼角)調整などを行います。

最近では電波発信機やGPSによる計測に変わりましたが、白い三角の標識は今も設置されています。

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神秘的山容で横たえる大黒神島です。

ちなみに奈良県にある黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされ、恵みの雨を降らせ、長雨を止める龍神様として信仰されるとか・・・

大黒神島の山容を、龍神にたとえるなら、小黒神島はその龍神の手に乗る玉となるかも・・・(*^。^*)です。

岡大王 正光川・大森川・流田川・大石川

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上記画像は江田島市作成の「ハザードマップ 沖美町畑・岡大王」をコピペしました・・・m(__)mです。

岡大王地区を流れる主な川には南から正光川、大森川、上流部で大森川と合流する流田川、そして大石川があり、さらには、畑地区から流れ下る大坪川が岡大王との境界となって畑漁港に注ぎます。

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農道から見た大王地区集落です。

江田島市最高峰である宇根山の南西斜面は極めて急峻で、さらには深くノコギリの歯状となった谷筋が無数に並びます。
そのため、尾根付近に降った雨は保水される間もなく、わずか数十分のうちに海岸まで流れ下り海へと放たれます。

広島県西部では北東から南西方向の古い断層が無数にあり、さらにこれに直交する断層もあって、複雑な断層谷が形成されています。
江田島市においてもその断層帯の延長となる地形で、大きくは南北方向に3分割、東西方向に3分割された数個のブロックとなって海上に浮きます。

南北方向の断層谷が川となって残るのが江田島町切串の長谷川、沖美町三吉の木ノ下川、能美町鹿川の永田川、大柿町大原の八幡川で、市内では南北の断層帯が著明に残り、それに直交する断層谷や河川は短く急峻です。

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沖美町の農道でよく見る、農業用水専用の導水管空気弁の蓋です。

沖美町の沖地区(岡大王・畑・是長)は江田島市内にあっても特別に急峻な地形で、耕作地の確保はもとより、短く、しかも滝のような急こう配で流れ下る川から生活用水や農業用水を確保できるかどうかは、村落の命運をも左右する重大事でした。

それまで井戸水や、集落ごとに谷川の水を集めた簡易水道で辛うじてまかなっていた生活用水は、昭和40年6月、広島太田川より海底導水管を通し江田島町小用の前早世浄水場ろ過沈殿池が満水となることでやっと本土並みの生活が見えてきました。

前早世で浄水された太田川の水は江能上水道組合(のち江能水道企業団さらに江田島市企業局水道事業)の手により能美町鹿川との境にある才越峠の第三配水池に揚水され、そこから岡大王・畑・是長へと送られます。

これにより生活用水に不自由することはなくなりましたが、水道水ではお米やミカン、キュウリを育てることはできません。

おりしも、不自由な水環境にもめげずにミカンやキュウリ、イチゴやキクやスイトピーなどの栽培に熱心な沖美地区が県営畑地帯総合整備事業に取り上げられることとなりました。
天水にたより、例年の水不足に悩まされていた当地に農業用水の安定供給は夢のまた夢でしたが、その沖美町内には三吉地区に旧海軍が建設した三高ダムがあります。

この三高ダムは大東亜戦争による江田島海軍兵学校生徒や職員の大激増に伴い、その生活用水を確保すべく、1943年から1944年の僅かな期間で造られたもので、戦後のどさくさに紛れてダムの設計図も残っておらず老朽化が懸念されていました。

この二つの県営事業の組み合わせにより、三高ダムの補強拡張事業と、沖美地区の農業振興事業とが相乗し、ついに平成14年11月、ダムの有効貯水容量を今までの21万8000m3から55万4000m3に倍増した、新三高ダムが完成、沖美地区全域への農業用導水管が敷設されることとなりました。

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農業用導水管は、正光川の源流に近い大王地区の農地、推定標高150mにあるミカン畑までをも潤します・・・(*^。^*)です。

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大森川河口部です。
あと数メートルで海へと注ぐのですが、それでもスベリ台以上の傾斜があります。

夏場はウオータースライダーとして開放されています。ってウソ・・・(^_^;)です。

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大森川(流田川)中流部です。
三段峡・・・(^_^;)です。

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先の撮影場所から下流部を写したものです。
海岸から400mで標高が40m、家々の屋根越しに海が丸見え・・・(^_^;)です。

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右が大森川、左が流田川、二つの川の合流部です。
大雨時には怒涛の流れがぶつかる合流部は、整流効果???を出すために船首のように鋭角となって・・・???。

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大森川の最上流部です。
川の源流部付近から、その川の河口部が見通せる急流川はそう多くは無いと思いますが?・・・。

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大森川源流部近くに残る、貯水槽の石垣と、その水槽を覆うトタン屋根です。

太田川からの水が通ずるまでは、この地域での最重要施設であった簡易水道の貯水槽が今もそのままに残してあります。

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大石川の河口部付近です。
大切な川の堤防は家々の土台よりも丁寧に、僅かな隙間もなく石積みがなされています。

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大石川中流部です。
長年の浸食で細い流れでも深く深く刻まれます。

「雨垂れ岩を穿つ」・・・(*^。^*)かな?

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沖美町の下水道マンホールの蓋です。

上水道の普及により、各家庭ごとにお風呂を沸かし、全自動洗濯機は油汚れを数分で真っ白い生地に漂白し、お米のとぎ汁もみそ汁の残りカスもじゃぶじゃぶ水で濯いで脇を流れる川へと流し込んでいました。

上水道が普及したことにより最大の被害を被ったのが、なんと、いままで最大限大切にされていたすぐ家の脇を流れる川だったのです。

雄大な自然の壮大なサイクルであっても、なにげもないほんの僅かな歪みで、と~んでもないことに・・・(^_^;)です。

岡大王 無量山 専念寺

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浄土真宗本願寺派「無量山 専念寺」は江田島市最高峰の宇根山(541.8m)南面の山裾に沿う、岡大王集落のほぼ中央に建立されています。

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南面する岡大王集落のひな壇中央に、ひと際大きな入母屋のいらかを乗せるのが、無量山専念寺です。

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境内真下を横切る県道36号(高田沖美江田島線)から見上げた専念寺本堂の右側面です。

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入母屋造りの専念寺本堂右側面、破風の部分です。
大屋根には大きな「獅子口(ししぐち)」が乗り破風部には、分厚い板を掘りぬいた懸魚がつけられています。

ちなみに獅子口の上に乗る三つの円筒は「経の巻」とよばれ、その下の山形模様を「綾筋(あやすじ)」、左右に大きく垂れさがる飾りは「鰭(ひれ)」といいます。

破風部の懸魚は「鏑懸魚(かぶらげぎょ)」が、左右と下についた「三ツ花懸魚」とよばれるものです。

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県道から路地を上りますと、すぐに専念寺山門の前に来ます。
紅梅の自然仕立ての枝が、風格のある山門をいっそうと引き立てます。

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山門の扉に付けられた釘隠し、形から「乳金物」ともよばれ、城郭や寺社など格式のある建物の門など目立つ場所に使われます。

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山門をくぐり右手境内に、優美な曲線屋根をもつ白壁土蔵造りのお経堂が建ちます。
出入り口を風雨からまもる重厚な屋根は唐破風です。

毎年枝を刈り込まれたイチョウのシルエットはお坊さん?・・・(^_^;)です。

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境内の海側、大きく切り出した花崗岩石材を巧みに組み上げて鐘楼が建ちます。
鐘つき棒、「撞木(しゅもく)」にはシュロの木が使われていて、鐘には「南無阿彌陀仏 昭和二十四年九月」の文字がみえます。

その前の釣り鐘は戦時の金属供出で行方知れずとなったのでしょう。

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境内には昭和50年5月に広島県天然記念物に指定された樹齢4、5百年と云われる天蓋松「飛鶴の松」がありましたが昭和54年松枯れの被害により失われました。

代二代天蓋松となるべく、境内中央の日当たりに若松が植えられており笠形に剪定されています。

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集落の規模からは想像を越す重厚な本堂が建ち、黄金の寺額「無量山」があげられています。

専念寺保存の古文書「能美島寺社古跡覚書帳」(1715年)によれば当山は11世紀ごろ付近の寺山において寺尾山門禅院洞蔵寺として創建されました。
のち文禄3年(1594年)僧是教が浄土真宗に改宗、その後当地に移りて「無量山 専念寺」として開基したと云います。
現在の本堂は安政5年(1858)から約5年の歳月をかけて完成したもので、柱や梁などには、大黒神島の原始林から切り出された木材が使われています。
また、この大事業には、空喜三右衛門氏が頭取世話人となり、全村民の一致協力があってこそなし終えたと伝えられています。

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山側から見た、本堂の左側面です。

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専念寺大伽藍と、その沖には伽藍の骨組みとなる大量の木材を供給した大黒神島が大きく横たわります。

岡大王 黄幡社 2/2

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靴底の泥を払い、拝殿へと上らせていただきました。
長年の風雪に絶えた頑丈な社殿ですが、万が一に備えて斜めに補強材が入れられています。

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拝殿奥、幣殿とを仕切る格子戸の上に「奉寄進 黄番社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」の社額があげられています。

この社額の他、黄幡(番)社再建の由来を示すものがないことから、現在の社殿は明治24年9月に再建されたものと伝わります。

ちなみに社額の左右にも寄進奉納品を止めた鉄釘が見えます。
長い年月を経る間に失われてしまったものも数多くあったことでしょう。

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大屋根を支える頑丈な木組み(和小屋組み)がもろ見え・・・(*^。^*)です。

画像左から右上に棟木(むなぎ)と並行に伸びる粗削りの大木が桁(けた)と呼ばれる構造材です。
その棟木や桁に直交する湾曲した木材を梁(はり)とよび、これらの木組みを総称して小屋梁(こやばり)ともいいます。

神殿建造物は庇(ひさし)を長く突き出して造ることが多く、その庇の重量を内部にとり込むためにも桁や梁を大きくして、大屋根に乗る瓦の重量でもって長い庇を支える垂木(たるき)が下がらないように抑え込みます。

多くの社殿では棟木、あるいは桁に大工棟梁の名前や建築年月日、棟上げの儀式で使用した木槌や鉋、墨壺、鋸などを取り付け、奉納品とします。

黄幡社にも当然取り付けてあったと思われますが、今は行方知れずとなっております。

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古い奉納絵馬があげられています。
奉寄進 大正十四?九月吉日 願主 青山千一 と読めますが?

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刺繍?画でしょうか?
五本爪の龍(青龍?)と虎(白虎?)が競う絵馬が奉納されています。

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奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正 とあります。

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画像が見難いのですが、一本爪(シングルアーム)の鉄製錨が奉納されています。
見た目で1m近い大きさがあります。
明治初期?百石くらいの帆船に積まれた錨?かも???・・・(*^。^*)です。

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拝殿からみた岡地区と右は岡大王に隣接する畑地区となります。
海の向こうは岩国方面です。

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拝殿を降りると、左に社殿を覆い尽くさんとそびえたつ大楠があり、脇に説明板が架けられています。

以下は説明板の要約・・・m(__)mです。
黄 幡 社 の 大 楠
目通し周囲 6.70m
樹高 25m
江田島市随一の巨木です。
主幹に空洞がありますが、大磐石のような根をどっしりおろし、1本の木で鎮守の森を形成しています。
まさに岡地区もシンボルといってもよいでしょう。
ちなみに、明治24年の再建にあたり、この大楠の枝から柱などの材料をとったとされ、そのことで現在の樹形が成ったと云われます。

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たしかに大きな楠木ですし、社殿再建時に枝を切られたような窪みもみえます。

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クスノキ(樟、楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木で、幹周囲10m以上の巨樹になる個体も珍しくなく、木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れています。

そのため海上に建つ宮島(厳島神社)の大鳥居には古来よりクスノキが使用されています。
大鳥居は、平安時代から造られ始め、現在までに8回造り替えられているそうですが、永禄4年(1561)の厳島神社大鳥居の改築にあたりましては、当地、能美島より東西2本の眞柱(主柱)が搬出されています。

その西の眞柱は能美佐馬允氏社(大柿町大原新宮八幡宮?)から、東の眞柱は能美中村八幡宮(能美町中町八幡神社)から出されたものです。

ちなみに現在の大鳥居は、明治8年(1875)に再建されたものです。
高さ約16.6m
棟(大棟・笠木)の長さ24.2m
主柱周り9.9m
総重量は約60t
社殿から海に向かって右側(東側)の柱が福岡県久留米市、左側(西側)の柱が佐賀県佐賀市から取り寄せたものです。

クスノキの生育には、台湾、中国、ベトナムといった暖地が適しますが、広島県沿岸部では珍しい木ではなく、市の木、町の木として、広島市、福山市、三原市、安芸郡府中町、海田町で指定されています。

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大楠の枝下に溶け込むように建つ、岡の鎮守の黄幡社・・・(*^。^*)です。

岡大王 黄幡社 1/2

s-グーグル岡大王・黄幡社 
岡大王の旧岡地区、山裾に沿った丘の上に「黄幡社(おうばん)」があります。
大王の天満宮と同様、岡の黄幡社も江田島市内では唯一の黄幡社となります。

ちなみに明治24年寄進の拝殿社額には「黄番社」と書かれています。
また、江田島町江南に「大判神社(おおばん?)」と呼ばれる祠がありますが黄幡につながるかは不明です。

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黄幡社は、島内最大といわれる大楠の枝に優しく抱かれ守られています。

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境内の地盤を守る石垣は何度も崩れたり積み替えらりしたのでしょう、角の尖ったのや丸く風化したものなどがあったり、大小もさまざまに積まれています。

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村の鎮守にふさわしい、頑丈さと優美さ機能性をバランスさせたモデル的な建築仕様です。

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鎮守様としては大きめに作られた社殿ですが、屋根に覆いかぶさる大楠との対比で小さく見えます・・・(*^。^*)です。

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拝殿横の軒下に、何個もの電線ドラムが置かれています。
お祭りのあとに、電線ドラムをテーブル代わりにして盛大な飲み会とかがあった?のかも???・・・(*^。^*)です。

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遅くなりましたが、拝殿正面にて「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

以下は、沖美町史よりの抜粋です。
岡の黄幡社は竈(かまど)や農業の神様である奥津日子神(おくつひこ)ほか四柱を祀っています。

古老の言い伝えによりますと、享禄年中(1528~1532)、岡村の森沢喜左ェ門・山田勘九郎という二人の村吏が夢を見た。
「森山の木末に幣帛がある。この村を守護する神であるから早く社を建て祀るべし」と。
直ちに二人は森山に行って見ると霊験神託たがわないことがわかったので村人と協議して社殿を建てた。
この神の鎮護により村内に火難がないので村民のこの神を尊敬することが日夜盛んなりと。

また能美島志には、「黄幡神社、岡村森山ニアリ、往古ヨリ六月虫祭り之節合祭ス」と記してあります。
尚、拝殿の正面の額に「奉寄進 黄番(黄幡)社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」と記されていますので現在の社殿はこの頃に再建されたものと伝わります。

ちなみに、ウイキペディアには黄幡神(おうばんしん)とは、九曜の一つである羅睺(らごう)を奉ったもので、集落の中心や三叉路、あるいは境や辻に、道祖神、守り神として祀られると。

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拝殿の右側面です。
拝殿の一段上方には、常世との境を石柱の玉垣で囲った赤い屋根の本殿があります。

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石工さんの腕前が光る花崗岩石組みの壇上に接着剤でくっつけたようにピッタリと本殿が乗ります。
現代のような大型の岩石切断ノコなどのない時代に、石ノミと玄能だけで叩き出した味のある岩肌と角の尖った直線の組み合わせが何とも言えません・・・(*^。^*)です。

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本殿の破風部を飾るのは大王天満宮の「いのめ懸魚」とは違って「かぶら懸魚」が架けられています。
大楠の枝葉から漏れる優しい太陽光が本殿の屋根に虹を作り、拝殿の瓦屋根にキラリ反射します。

岡大王 天満宮(しるごき天神)

s-グーグル岡大王・天神社 
江田島市内で唯一、の天満宮である「しるごき天神」は沖美町大王の王城と呼ばれる岬の上に鎮座します。

古来、大王(大生)は、西能美の「中村、鹿川、高田、三吉、是長、大生(だいおう)」の一浦でした。
16世紀のころより三吉と高祖、是長と畑、大生(大王)と岡、の集落に分れますが、この新6浦が行政区画としての村と呼ばれたのは寛永15年(1638年)の浅野氏による検地が行われたのちとなります。

その後明治14年の記録では、三吉村376戸(2126人)、高祖村128戸(833人)、是長村236戸(1327人)、畑村241戸(1068人)、岡村154戸(776人)、大王村199戸(1017人)が暮らしておりましたが、明治16年に岡村と大王村が合併し岡大王村に、明治22年、三吉と高祖が合併し三高村に、是長と畑と岡大王が合併し沖村となりました。

さらに昭和31年となり沖村と三高村が合併して沖美町(1891戸・8447人)となり、字名として、岡、大王、畑、是長、美能、高祖、三吉をのこします。

そして平成16年、佐伯郡沖美町、佐伯郡能美町、佐伯郡大柿町、安芸郡江田島町が統合し江田島市沖美町字大王となりました。

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天満宮は岬の先端、王城と云われる地に建ちます。

見晴らしの良い断崖の上ですので、古くは見張り用の砦とかがあったやも???ですが、大王(大生)、王城、ともに地名の由来は不明です。

が、・・・一説には壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)で源氏に破れ敗退した平家の落ち武者が、安徳天皇を奉じて一時この地に立ち寄ったとも・・・???です。

以下は春先の妄想夢です。

寿永2年(1183年7月25日)木曽義仲に敗れ都を追われた平家一門は、安徳天皇を擁して西国へと逃れました。
一時は優勢となるも、一ノ谷の戦い(1184年3月20日)、さらに屋島の戦い(1185年3月22日)に敗れ、瀬戸内海を流浪したおりに大君(江田島市大柿町大君)の地において手厚い保護を受けました。

その後源平最後の決戦、壇ノ浦の戦い(4月25日)に敗れての敗走中、再び保護を受けるべく大君を目指した平家落ち武者の一団がおりました。

しかしながら、大君を目前に早瀬海峡の警備が物々しいことを察知し、宮島、大奈佐美島の方向へと向かうのですが、こちらは早瀬以上に警備が厳しいことを知ります。
そのため当時は無人島で、原生林に覆われた大黒神島に隠れ住むのですが、やがて対岸である当地(大王)の住人が知るところとなり、この地で匿われます。

しかし、浦々を厳しく探索する追手を警戒し背後の宇根山へ、さらに山越えして、平家落ち武者伝説を今に伝える能美町中町の高下地区へと移り住んだのでは???と・・・(^_^;)です。

さらなる蛇足となりますが、当地では宮島造営や音戸瀬戸拡張工事、造船、海運業などで平清盛とのつながりも深く、平家に恩義を感ずる者も数多くいたと思います。

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かっては正面である海側から登る参道があったやも???ですが、今は裏側に参道がつきます。
手前が本殿、屋根にあげられた千木が外削ぎですので男の神様が祀られています。

この天満宮が「汁御器(しるごき)天神」と呼ばれるのは、大王の船頭さんが廿日市草津から肥料を運ぶ途中、船上での食事が終わり、器に残った梅干しの種を海中に投げ捨てようとするのですが、何度試みても種が器に残ったままとなり、そのことを中村八幡神社の神主に相談、「これは天神様の化身なり」として海を見下ろす岬の上に祠を建て祀ったことが始まりとされます。

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南の方角に向いて建つ天満宮拝殿です。

のべつ浜から吹き上げる風も、雪交じりの冷たい北風も、南から近づく台風も、すべてをまともに受けて建ちますので並みの造りだと吹っ飛んでしまいます。

近年の想定外に発達する巨大台風に備え、鋼鉄のアームでしっかりとした補強が追加施工されています。

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二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。
拝殿正面には駿馬の額があげられており、奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正の名があります。

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屋根を支える垂木が合わさる中に、棟梁が奉納した木槌が留め置かれています。

ちなみに、現在の拝殿は昭和33年9月に再建されたものですが、1841年(天保12年)の再建記録も残っており、その時の総事業費は「十三貫百七十六匁二分五厘」であったと云います。

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昭和33年9月再建時の棟札です。

祀神として八神の名が記されていますが、初めの「屋舩勺々廼智命(やふねくくのちのみこと?)」以下は判読が???・・・m(__)mです。
八神名の後に、記録として
棟札と同衫
奉再建志
奉納 棟梁 木挽 佐官 脇棟梁 石工
大下佐平 七十六才
山中春夫 四十六才
原口清三 三十九才
宮總代
今田敏美 四十三才
寺野下政一 七十七才
花崎泰造 五十八才
原田四市 五十六才
世話人
寺西豊市 五十四才
下西武 二十九才
吉野政一 三十九才
尾城啓 ?才
二本松万太郎 五十才
尾上明夫 三十五才
島津孝一 五十三才
中川伍一 五十一才
昭和参拾参年九月吉日
の文字が見えますが、転記ミスがありましたら・・・m(__)mです。

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御寄附芳名札も貼られています。
右から
一金壱萬圓也 文部大臣 灘尾弘吉
一金参萬圓也 懸会議員 平塩五男
一金五萬圓也 広島市 田丸四郎
一金五萬圓也 神戸市 寺野下隆義
一金五萬圓也 神戸市 松尾政次郎
一金四萬圓也 大柿町 二矢川建設株式会社
一金弐萬圓也 畑 吉本関太郎
一金弐萬圓也 大柿町 中本正数
一金五千圓也 神??道具一式 広島市 中山良一
一金壱萬参千圓也 寺尾孝壐
一金壱萬圓也 花神安太郎
以下にも、ハワイや神戸在住者のご芳名が続きます。

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説明文はありませんが、西能美地区の惣氏神である能美中町八幡神社の祭祀を沖美町の沖地区が授かった年に奉納舞いを演じた子供たちの集合写真です。

ちなみに、能美中町八幡神社の祭礼は9月中旬の(第三土曜日、日曜日)に行われます。
祭礼に伴う準備や祭りでの出し物(だいば ・おたふく・ 雄しし ・雌しし)は西能美の旧5ヶ村(鹿川村・中村・高田村・沖村・三高村)の持ち回り(かやっちょう)となります。

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拝殿の左の木鼻には鋭いタッチで像が彫られています。

木鼻には獅子(しし)や像(ぞう)、あるいは獏(ばく)が彫られることが多いのですが、しるごき天神の木鼻は右が獅子、左には像です。

像と獏は共に長い鼻があり牙もあって、とてもよく似ていますが、一般に目の形状が三日月形で細長いのが像で、丸いギョロ目は獏だといいます。
さらに、耳が団扇のように大きいのが像で、犬のような尖った小さな耳は獏です。
他にも獏には体毛を表す渦のような模様が付きますが像にはありません・・・(*^。^*)です。

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拝殿の入母屋破風(いりもやはふ)には、ハート型の穴があけられた猪の目懸魚(いのめげぎょ)が架けられています。

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天満宮境内からの展望です。
いらかの向こうに見える港は中央から手前が正光港その先は小田港と呼ばれます。

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昭和33年に再建された大王天満宮は、来年、2018年9月に築60年を迎えます。

高田 古地図・地質図

高田古地図PNG 
能美町誌に掲載された高田村の古地図(芸藩通史)を元にして書き写したものです。
地名など明瞭でない部分は適宜勝手な主観により創造して記載しています。

改悪となっている部分もありますので、正確には能美町誌、または芸藩通史でお確かめください・・・m(__)mです。

高田古地図南東PNG 
高田村の南東部です。

堀越城跡:それらしい地形が残り、近くにはお墓や耕作地がありますが、樹木が鬱蒼と茂り見晴らしはまったくききません。

小屋城跡:それらしい地形が残りますが、畑地となっておりまた周囲は竹藪や樹木で囲まれます。
南の真道山方向は視界があり、北の竹藪に堀?のような窪みもあります。

八瀬島:戦国のころ小屋城・北堀城の城主として八瀬島氏の名が残ります。

建外田藪:広島藩指定の矢竹の生育保存地です。

北堀城跡:登山道は不明です。

大将軍:位置不明。大将軍とは、本来は方位のことを司る星神(金星)で、陰陽道で祀る八将神の一とされます。

七天達磨:位置不明。意味不明なれど「七転達磨」とすれば、七転び八起の達磨となりますが???。

小城跡:山頂にクスノキの大木が見えますが、登山道は不明です。

光泉寺跡:江戸時代に書かれた「能美島志」宝暦13年(1763)に、光泉寺は高田邑にあり、今延命地蔵像あり、これを堂に安んず、傍に樹あり、其葉茶の如し、然れども其の名を識る者なし、土人これを無名木(ななしぎ)という。と伝わります。

光源寺:僧善了により天正13年乙酉(1585)に開かれ、僧受玄により寛文元年(1661)浄土真宗に帰依しました。

社倉:位置不明。明和7年(1770)広島藩は「社倉法示教書」を公布、広く領内に社倉設立を奨励、天明6年(1786)には町方及び郡中各村あますところなく社倉が造られ、以後明治初年まで存続したと云います。

高田古地図北西PNG 
高田村の北西部です。

えぼし岩:位置不明。烏帽子(えぼし)とは平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のことです。

シノ宮:位置不明。四之宮とは、その地域の中で4番目に社格が高いとされる神社のこと。

建岩風呂山:確証無之候得共。故人の伝ふる處昔玄海翁(1350年頃)と云ふ高僧が高田の里に来たり。岩風呂山に登り頂上の大岩を一撃すると大岩は三つに割れ一つは越後国の高田の里に、一つは伊予国の高田の里に遠く飛散し。此地に残りし大岩に四朗九郎と名付け、この岩を御神体とす。

アメノミ子:位置不明。天の皇子、アマテルの御子、皇太子のオシホミミといわれます。

ウシ口城門:位置不明。丑ノ口城門、十二支の丑の方向(北東微北)にある城門です。

明神ノ鼻迫門:位置不明。迫とは、山あいの小さな谷、あるいはせり出した崖のような地形を云います。

s-江田島大断層PNG 
沖美町是長から高田地区北部を横断し、江田島町津久茂まで、市内で唯一の断層が確認されています。

高田湯田地区の昔話に温泉が湧いていたと云いますのも、あるいは、この「江田島大断層?」が関係していたかも?・・・(^_^;)です。

ちなみに、この断層に並行して「是長鉱山」「三吉鉱山」「畑鉱山」「津久茂鉱山」があり、湯田の温泉、入鹿神社には湯に関係する大きな湯釜もありました。

これら鉱山からの金や銅の産出はごく僅かな量であり、採掘期間も数年ですが、江田島市内でこの断層付近以外に鉱山はありません。

そもそも、金(Au)は酸性の熱水に溶けやすく地上付近で熱水が冷めることにより析出します。
堆積岩である玖珂層群内の微量な金が花崗岩の熱で暖められ、金を含んだ熱水となって断層の割れ目に沿い、上昇して地表付近に集まったと思われます。

つまりは、金のあるところには熱水と熱水が上昇する通路(断層)がある。
江田島にも温泉が自噴する可能性がある?・・・と。

風が吹けば桶屋がもうかる・・・発想・・・(*^。^*)です。

地質図は「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」よりコピペ・・・m(__)mです。

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昭和23年4月7日に撮影された高田地区の航空写真(国土地理院)です。

高田 いいとこ撮り 6/6

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高田宗崎地区から見た対岸は、江田島町の津久茂地区です。
この津久茂村は安芸郡江田島村と合併する1925年(大正14年)2月まで、高田地区と同じ佐伯郡に属していました。

津久茂村と能美の高田村、中村との交流は古くからあり、お鉢山(津久茂山262.8m)が海岸まで迫る地形で耕地面積の限られる津久茂村には、高田、中村地区に耕作地を持つ者も多くいて、毎日農船を仕立て津久茂瀬戸を渡り、山地の開墾はもとより遠浅の中田湾に新開を干拓する事業にも多く加勢しておりました。

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江田島町津久茂地区から見た高田の宗崎地区です。

余談となりますが、画像の右の小山を越した先に湯田とよばれる地名があります。
昔々の話として、この地には温泉が湧いておりました。

土地の人々はこの温泉を神聖なものとし、決して汚れ物を持ち込み洗濯をするなどのことはなかったのですが、それを知らなかったよそ者が温泉の湯水で洗濯を始めた途端、今までこんこんと湧き出ていた温泉水が普通の冷たい湧き水に変わったと云われております。

この湯田地区には、江田島市内で唯一の断層が東西方向に走っており、地底からの割れ目に沿って温泉水が湧き出ていたのでしょう。

たまたま、よそ者が温泉水で汚れ物を洗っていたそのときに、地震とかの地殻変動で温泉水脈が閉じられたことは十分考えられます。
ちなみに、そのよそ者が村人から責められることはなかったとか・・・。

将来、また画像のような白い湯けむりが立ち昇る日が来る?・・・かも?・・・(*^。^*)です。

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高田では多くの家の屋敷内に柿の木が植えられています。
柿の木は年輪を重ねた和風のお家にとてもよく似合います。

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野菜好きな鳥(ヒヨドリ?)がキャベツの葉っぱをつぎつぎとかじっていきます。

少し驚かせてやろうと、ウサギのぬいぐるみを持ち出し、うまい具合にディスプレーした???のですが・・・

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収穫したタマネギの最適な貯蔵法・・・(*^。^*)です。

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うぅ~~~ん。
残念、タマネギが長ネギになっちゃいましたぁ~~~ ・・・(^_^;)です。

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此方は保存食用にとぶら下げてあるわけではありません。
まぁ~、緊急時の非常食として貴重な蛋白源にならなくもないのですが・・・

超巨大、キイロスズメバチの巣です。
最盛期には働き蜂だけで一千匹もの数になるとか・・・(^_^;)です。

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農作業に使う耕運機です。
小回りが利くように?小型に作られていますので、おそらくビニールハウス内専用仕様じゃないかと思います。

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背負い籠(しょいこ)と呼ばれます。
竹で編んでありますが、目が粗いので蜜柑とかジャガイモなどの小さなものは運べません。

当地では昭和40年頃まで、葉タバコの栽培が盛んでした。
タバコの葉っぱは、団扇の2、3倍はある大きな葉っぱですから網目から落ちることもなく乾燥場へと運ぶことができます。

キャベツや白菜、肥料作りのための落ち葉(シバ)なども運べたかも?です。

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籐(トウ)を編んでで作られた乳母車(ベビーカー)です。

載せられている籐籠が地元高田で作られたものかどうかは不明ですが、大正10年頃より能美地区において、籐製バスケットや籐椅子、籐籠乳母車が盛んに作られたそうです。

もしも?その当時の製品であれば?、この籐籠乳母車で育った赤ちゃん、今は百歳・・・(*^。^*)ですね。

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物怖じしない、高田の猫 ・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 5/6

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農道わきの草むらには前衛芸術家創作???の、投げ込み生け花が普通に咲き並んでいます・・・(*^。^*)です。

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セイタカアワダチソウとコスモス、遠い異国からやってきてまさか日本でここまで大きく花開こうとは・・・。
ちなみにセイタカアワダチソウは切り花用観葉植物として北アメリカから移入、コスモス(オオハルシャギク)はメキシコの高原地帯が原産でヨーロッパ経由で渡来したようです。

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春先の自家用菜園です。
黄色い花はハクサイ、白い花はダイコンです。
孫が来れば食べさせてやろうと、少し多めに植えた残りが花開いたようすです。

眼下は高田の街並みと、その先の霞む江田島湾です。

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水仙の上に枝を張り出して紅梅が咲きます。

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立春前でも瀬戸の日差しで満開に、品種はカンコウバイだと思いますが?・・・(*^。^*)です。

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庭先に植えられたシダレ桜です。
シダレ桜の手前にあった家屋は取り壊されて更地となりましたが、桜は記念樹としてそのまま残されています。

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ビニールハウスの鉄骨材の前に植えられていたコマツナ?・・・野菜も、もともとは野草?・・・(^_^;)ですから・・・。

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物置と路地との僅か20㎝の隙間に、タラノキと水仙が・・・。

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皇帝ダリアが3m、負けず嫌いなサヤインゲン、伸ばせば5mはいけるのですが支柱が2mしかありませんので・・・(^_^;)です。

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大きく育っても屋根よりちょっと低いキンカンと、それなりにがんばって屋根よりも高くなったトウジュロ・・・(*^。^*)です。

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高田公民館、江田島市高田出張所です。

公民館前に書き出されている使用予定表には、三味線教室・楽習院カラオケ・民謡教室・広報仕分け作業・中、畑いきいきサロン・日本将棋連盟江能支部、じつに盛り沢山・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 4/6

2)江田島町南部 高田地区 
他地区に比べ特別にというわけではありませんが、高田地区でも花好きの方は沢山おられるようで、少しでも土地に余裕があれば何かしらの花木や草花が植え込んであります。

自然力だけの造形美はどれもみな素敵で美しいのですが、人の手や想いが加わることでもっと素敵に変わる造形もあります。

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駐車スペースを残し、庭一杯に広げられた鉢植え植物の数々です。

お花屋さんとか、ご商売で鉢植え栽培をされている方を除けば、おそらくは江田島市内で一番?二番?じゃないだろうか、と思えるだけの数多くの鉢植えが並べてあります。

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白い漆喰壁の土蔵の前に、真っ赤なタチアオイの花が林立します。

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バックは黒い焼杉板の壁でも似合います・・・(*^。^*)です。

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青色が清々しい、ラベンダー・グロッソの大株です。

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通路と壁との僅かな隙間に、キンケイギクとスイセンソウが咲きます。

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畑の隅っこの、ダリア・・・(*^。^*)です。

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一気に背丈を伸ばした夏草に埋もれて、何故かサルスベリの花が一枝・・・です。

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押し寄せる雑草の荒波に立ち向かう?・・・アサガオとコスモスの雄姿・・・(^_^;)です。

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カキの花は小さくて目立たないのですが、燃えるような新緑は遠くからでも人の目を引きます。

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スモモの若葉や花が開く前に、枝下のスイセンが一足早く日光浴・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り(民家) 3/6

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農業用ため池の脇に建つお家です。
赤い土壁の上に漆喰が白く塗られ、窓にはそれぞれ形を変えたガラス戸がはめ込まれています。

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一枚のガラス戸に模様入りの小さなすりガラスが4×4の16枚、手の込んだ仕事が見えます。

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小川の向こうの小さなお家、その小さなガラス戸の前に、小さな植木鉢が整然とかわいく並べられています。

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黒く焼き焦がした杉板が寸分の狂いもなく水平に張られています。
ガラス窓も最適なバランス感覚取り付けられ、横に張られたポスターには「2015島ミュージック 音楽祭」・・・(*^。^*)だって。

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超ロ~~~ングなお家、裏側です。

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古い町屋の外壁は、ほとんどが土壁でその表面には白い漆喰が厚く塗られています。
その時代には、沢山のコテ職人さんが腕を競っていたのでしょう。

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屋根の形が美しいお家です。

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狭い建坪が最大限に工夫され利用されています。
「ハウルの動く城」の高田バージョン・・・(*^。^*)です。

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お庭もきれいですが、玄関屋根の妻壁には素敵な旭日模様が入れられています。

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毎日の手入れが行き届いた、整然としたお庭です。

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広島城の天守閣にあるような廻り縁が付けられたお家、眺めもよさそう・・・(*^。^*)です。

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明治から大正期にかけ、高田地区で盛んに生産された硬質煉瓦を土台にして造られた蔵です。

高田 いいとこ撮り(民家) 2/6

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高田旧街道から少し坂道を登った場所に他とは少し造りの違ったお家があります。

海からは少し離れるのですが、昔は網元さん???・・・かも???です。

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農家造りだと壁を横に張った板塀とすることはまれですし、二階建物の載せ方も少し奇異な感じがあります。
漁具や網などの格納用であれば少し納得なのですが???

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でも、此方から見れば農家風に見えなくもないし?・・・。
とても気を引く造りで、アイデアいっぱいの宝箱のようなお家です。

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傾斜地に作られた農家造りでよく見る建築レイアウトです。

もっとも道路に近い部分に半地下式の「落としばんや」と呼ばれる石囲いの部屋が作られています。
落としばんやは、上の階で飼育した馬や牛などの糞便や敷き藁を落とし入れ、落ち葉や農作物の残滓と混ぜ合わせて、たい肥を作るのが主目的でした。

のち、昭和30年代となり耕耘機など農業機械の普及により馬や牛が飼われなくなると化学肥料や農機具置き場となり、その上にあった家畜小屋は改装され納屋あるいは離れの部屋となりました。

母屋へ通じる坂道を上った位置に、庭とは兼用の農作業スペースがあり、最も奥に母屋が建ちます。
納屋や家畜小屋あるいは離れ部屋は母屋とは直角(曲がり屋風)に建てられ、作業スペースでもある庭に強風が当たらないよう囲みます。

市内で傾斜地に建つ農家の多くは、ほぼこれと同じレイアウトで建てられています。
とくに平地が少なく傾斜地に家々が密集する、江田島町津久茂地区で多く見られる建築様式です。

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今は町屋風建て替えられていますが、元は農業もされてた?の、かも?・・・です。

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このお家も曲がり家の半地下式です。

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平地に建てられた農家には半地下室は作られません。

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このお家には一見半地下室はなさそうですが、よく見ると・・・(*^。^*)です。

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昭和初期(20年代?)のころの標準的お家の造りです。
今は住人がいなくなり、空き地となった庭の部分が一面の大根畑に・・・(*^。^*)です。

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当分は風呂焚き用の薪に不自由することはなさそうなお宅です。

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構造材が頑丈で丁寧に建てられたお家なのでしょう。
農家仕様として建てられた、かなり古そうなお家ですが、今も物置として立派に使われています。

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戦後の建物(昭和30年代)で、初めから納屋として建てられたものです。
壁は煉瓦にも使われた高田名産の赤土で塗り固めてあります。

高田 いいとこ撮り(民家) 1/6

2)江田島町南部 高田地区 
高田地区の背後にそびえる山々は花崗岩よりも保水性に富む堆積岩(玖珂層群)であり、水に不自由する瀬戸の島にあっても、他地区に比べ、わりと容易に上質な飲み水を得ることができました。
そのため人口密度が高く、さらには相応分の耕作地を確保する必要から、家屋敷や生活道路は必要最小限とされたようです。

屋敷面積が少なくなった分を知恵と工夫で面白くしてあるのですが、そのような思い入れの強いお家も、現代の生活様式には適合しづらく次々と取り壊されていきます・・・(^_^;)です。

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長い年月をかけて手入れされたソテツとシュロの樹が、エキゾチックな和洋折半風のお家をより印象深く引き立てます。

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和洋折半の建築は一時流行期があったようで、島内でもまだ何軒かは残っていますが次第に見る機会は少なくなっています。

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お家の周りの柿の木の枝に新緑が芽生え、その下にフキの葉っぱが青々と茂り、ツツジやモミジで覆われた、まさに桃源郷的な条件を満たした、とても気になるお家がありました。

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住人もなく物置として使われている様子で、これが最後のシャッターチャンスだろうと思っていました。

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ところが・・・ぶったまげぇ~~~。
しばらくぶりに訪れると、な~~~んと、驚くほど立派にリフォームされています。

いやぁ~~~、とても、とっても、すてきなお家になりましたぁ~・・・(*^。^*)です。

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こちらのお家でも、庭の真ん中に柿の木が植えてあります。
縁側のある南向きのガラス戸の下には大きな沓脱ぎ石がおかれており、植物好きの御隠居さんが朝晩草履に履き替え、鉢植えの木や草花に水を撒いていたのでしょう。

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手入れがされなくなって、小さな植木や花々は枯れてしまったようですが、根が深く乾燥に強い柿の木やソテツ、ツツジやサツキ、ツバキの類が再び水撒きに現れる御隠居さんを待っています。

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川沿いの小さなお家、カンナの花に囲まれ、庭には柿の木があってまだ数個の赤い実が残っています。

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増築したのでしょうか、少し和洋折半的な感じのお家です。
秋草の中に、黄色いコスモスが野生化?して咲き乱れていました・・・(*^。^*)です。

高田 さつき荘・高田駐在所

s-高田グーグル地図D さつき荘 
「さつき荘(水島観光さつき園)」と「高田駐在所」とは何の関係もありませんが、高田桟橋の目の前にある高田駐在所で、さつき荘の場所を尋ねれば、きっと懇切丁寧に教えて頂けると思います・・・(^_^;)です。

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海とつつじに囲まれた田舎の料理屋「さつき荘」の前面に天高く広がるツツジ庭園です。
撮影した季節はイチョウの葉も落ちてしまった12月初旬、植え込みに点在する桜など落葉樹の葉っぱが無くなった分、小山を覆って植えられたツツジ郡の全体が良く見えるだろうと思います。

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ツツジ庭園は小山を超えたその先の谷も埋め尽くして広がります。
おそらくは御主人が一人で、毎年数メートルづつ植え増して育て上げた庭園(ツツジ山)だと想像しますが、・・・長い年月をかけ、おどろきのツツジ山が完成???です。

ちなみに、サツキとツツジの違いについてですが、一般的にサツキはツツジよりも花や葉が小型で、さらにツツジの開花時期は当地だと4月下旬から5月上旬、サツキはそれよりも一ヶ月くらい遅く咲きます。

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対岸の津久茂側から見たさつき荘(水島観光さつき園)です。

左端の白い建物がさつき荘で、建物は旧高田小学校校舎を移築したものです。
さつき園はその右側で、画像からはみ出す位置までツツジの群落が繋がります。

さつき荘園 
ツツジ開花時期の画像(さつき荘HPよりコピペ)です。

撮影は5月初旬とありますので、一部サツキの植え込みもあるとは思いますが大部分はツツジで、品種はヒラドツツジ系を主としているようです。

園内にはツツジの他にもサクラやモミジ、イチョウなども植えられていますがツツジの花を楽しむなら四月末から五月初旬がお勧め・・・(*^。^*)です。

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高田港の前に「江田島警察署高田警察官駐在所」があります。
本物の煉瓦を使った建物かどうか?、手で触って確かめる勇気はありませんが、レンガ風の洒落たデザインです。

ちなみに、かって高田地区をレンガの一大生産地となした、その始まりは五日市の西川氏、結城氏が、高田の豊富な粘土質土壌に着目し、高田在住の福田儀助氏に煉瓦製造をすすめたことに端を発します。
大阪堺で、1年間煉瓦造りの技術習得をして帰郷した福田氏が、明治16年秋、屋敷横に窯を設置し煉瓦の製造を始めました。

その後の日清日露戦争による特需や、鉄道トンネル、下水道などのインフラ事業による煉瓦需要の急増で煉瓦産業は大発展を遂げましたが、第一次世界大戦終結後の不況や、大正12年9月の関東大震災などもあって大正14年のころには販売先の決まらない煉瓦が村内各所に山となって積まれ、昭和2年には高田村内にあったすべての工場が閉鎖されました。

高田で生産された煉瓦は海外産や他産地に比べても固く締まった良品で、地下建造物や、下水道、寒冷地での使用に適しており、北海道や韓国方面までも送られていました。

そのことから、通称「赤レンガ」と呼ばれ全国的にも有名な、海軍兵学校生徒館(明治26年、イギリス産の煉瓦を使用して建てられたという)は、高田の煉瓦を使用したのでは?といわれることもありますが、伝え聞く話では高田産の煉瓦は色が悪く、海軍兵学校生徒館に見るような綺麗な赤い色は出せなかった。
内部の基礎部分になら使えるだろうが???・・・と。
今の時代、分析器にかければ一瞬で判定できるとは思いますが、まだその様なことがなされた話は聞きません・・・(*^。^*)です。

能美町誌によれば、明治39年、大柿村大君2、鹿川村1、中村1、津久茂村1、高田村6、と13の煉瓦工場があったと記され、高田村では伊勢屋新開、瀬越新開、田中新開、大新開、清能新開に工場が建てられたとされます。

最発展期である大正5年(1916)の高田村での煉瓦生産個数は9百万個、販売金額は7万2千円なり・・・です。

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江田島市内で最もモダンな駐在所・・・(*^。^*)です。

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やっぱ、本物の高田産レンガを使ってほしかったなぁ~~~。

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蔵の土台部分に使われている煉瓦はおそらく大正の頃の高田産煉瓦です。
重い土蔵を支える強靭さは、まさに高田産硬質煉瓦の本領を発揮しています。

ただ、色は好みにもよりますが、いわゆる赤煉瓦とは呼べそうにありません。

年間1千万個近い膨大な量が生産された高田煉瓦ですが、今に残る高田産と思われるものはほんの僅かです。
売れ残り、野ざらしとなっていた煉瓦の山は、いったいどこへ行ったんでしょう?・・・ね。

高田 日本棋院名誉九段 瀬越憲作

高田グーグル地図D 瀬越憲作像 
高田港とは国道487号線を挟んで反対となる国道沿いの西側に、元日本棋院理事長 「名誉九段 瀬越憲作」の銅座像があります。

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銅座像は北面を向き、対局盤面に石を打たんとするその一瞬を写しており、正午の頃には南中した陽光が像の頭上からキラリひらめきとなって此方を射します。
「瀬越憲作先生像」は尾道市御調町出身の圓鍔勝三氏の作で、昭和五拾七年中秋の刻印があります。

台座背面に埋められた分厚い銅板には
日本棋院名誉九段 正四位 勲二等、瀬越憲作先生は、明治二十二年此地に生まれ、ニ十歳にして上京、専門棋士となり、爾末昭和四十七年逝去されるまで、戦前戦後を通じその高潔な人格、卓越した見識をもって、囲碁界の組織、囲碁の研究普及、棋士の育成等、囲碁の向上発展のために心血を注ぎその赫々たる功績は、まさに斯界を照らす不滅の大光明である。
先生逝いて十一年先生の郷党、門下生、知友相はかって、その限りない敬慕感謝の思いを新たにすると共に、世の人々が永くこの偉大なる先達を偲ぶよすがとなればと念じ、茲にこの顕彰の像を建立する。
昭和五十八年春 瀬越憲作銅像建設委員会
撰文 灘尾弘吉
と、あります。

s-瀬越健作囲碁図書 
画像はアマゾンよりのコピペ・・・m(__)mです。

生涯に100冊以上の書籍を著され、「瀬越囲碁教本」「瀬越囲碁講座」をはじめ、江戸時代の御城碁の棋譜を収めた大著「御城碁譜」全10巻、「明治碁譜」の編纂など、囲碁の技術書から囲碁史書まで幅広くかつ地道に研究されました。

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銅座像の裏面です。
瀬越九段の羽織った紋付の背には、雪輪に抱き沢瀉(ユキワニダキオモダカ)の家紋が見えます。

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銅像から北に100mばかり離れた、旧高田街道沿いに瀬越憲作氏が羽織った紋付の背にある「雪輪に抱き沢瀉」の家紋を付けた、清楚な門柱が残ります。

今は無人の廃家となっていますが、瀬越憲作九段の生家です。

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人の気配は感じませんが、時々は庭の草取りや落ち葉の清掃に訪れる方がおられる様子です。
母屋とは直角に納屋を配した造りで、当地でもよく見る農家風の建物です。

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納屋は碁会所にリホームされており、近隣あるいは遠路より集う囲碁仲間の憩いの場となっていた様子です。
瀬越九段も疎開あるいは帰郷のおりには、囲碁自慢を集め、その指導やお相手をされていたやも?です。

ちなみに、瀬越九段の生年は、銅座像の顕彰文にもあるとおり、1889年(明治22年)で、没年は1972年(昭和47年)です。

1909年 方円社(本因坊と対峙する囲碁の団体)に入門。
1924年 本因坊派と和解合併、新団体「日本棋院」の創立に尽力。
1945年 東京大空襲により日本棋院会館が焼失し、第3期本因坊戦は広島市郊外の吉見園(現佐伯区五日市町)で行われました。
しかるに8月6日、橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中に原爆が炸裂、爆心地から10km離れた此地にあっても閃光と強烈な爆風に見舞われました。
対局場となった部屋の窓ガラスなどは粉々に飛ばされたものの試合は続行、立会人であった瀬越九段も無事ではあったのですが、爆心直下で当初予定の対局会場であった日本棋院広島支部長の別邸は一瞬で消え、藤井支部長始め多くの人命が奪われました。
その中には瀬越九段の三男や甥も含まれております。
1946年 日本棋院理事長就任。
1955年 名誉九段。
1958年 紫綬褒章受章。
1960年 日中囲碁交流第1回訪中団団長。
1966年 勲二等瑞宝章を受章。
1972年 体の衰えを苦とし自ら命を絶つ。
1983年 功績を讃えて銅像(圓鍔勝三作)が作られ、故郷の能美島に贈られました。
2009年 囲碁殿堂入り。

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生家は背後にある小丘の崖下にあり、瀬越九段が幼少のころには、旧高田街道をまたげばすぐその先に波のざわめきが聞こえる長閑な環境でした。

いつの頃植えられたものかは分りませんが、モミの木が大きく育ち、その梢は屋根をはるかに超えています。

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小丘の上に墓石などあればと登ってみましたが、そこには畑となっており、取り残したダイコンや白菜、小松菜が白や黄色、薄紫色の花を揺らせます。

春霞の江田島湾に並べた牡蠣筏を碁盤に見立て、瀬越9段が対局する相手はだれでしょう。
見えないものを無理に見ることもありません。
霞みはすこ~し濃くなってきたみたい・・・(*^。^*)です。

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生家の脇、旧高田街道に面して大小の石碑が建ちます。

大きな石碑の裏面に、・・・天保十年・・七十五・徳三郎?・・・
小さな石碑に・・・明治・・・新・徳三郎六十六・・・三高道?・・・
残念ながら判読できませんでした・・・m(__)mです。

高田 堀越城・北堀城・小屋城・小城

高田 堀越・北堀・小屋・小城 
高田地区には、堀越城、北堀城、小屋城、小城があったと云われますが、中町から高田にかけての地形には、小城あるいは砦として使えそうな小山がいくらでもあって、しかも城跡を示す案内板、標識とかもなく、さらに、かってはあっただろう小山の山頂へと続く小道はとうの昔に塞がれてしまっています。

と、いうわけで?上図に示す、城跡の表示が間違っている場合もあるやも?・・・m(__)mです。

ちなみに、参考とした資料は能美町誌です。

北 堀 ・ 堀 越 城 跡

高田の豪族として元弘2年(1332年)高田弥十郎直継が衣(江)田島公文職として活躍し、次いで明応2年(1493年)高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続したと云う。
戦国の世となって高田・清能の小屋城は水軍城として、下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったと云う。
(北堀城下の陣場に八瀬島の古墓ありと云う)

また、清能奥の堀越城は水軍城、下井田の小城は跡詰城で、始め永禄2年(1559年)能美左馬亮が、その後、山野井清景の分家、山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城した。

以上、町誌の記載文を要約しました。

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下井田の集落をお散歩中、たまたまお見かけした同年輩の方に、あの付近に城跡があると町誌で見ましたが、もう登り道はないでしょうね。
おっ、城跡がどこかはわからんがのぉ~、近くにウチの畑があるし、道もちゃんと残っとるがのぉ~。
えぇ~~~。登り道が残ってるんですか?。すぐ行ってみます。ありがとうございました・・・m(__)mです。

軽トラが余裕で入れる道を上ると、小屋城があったと思える付近は平地となっており、つい最近までは畑として使っていた様子です。
当然広島城本丸にあるような石垣などまったくあるわけもなく、おそらくはこのあたりが小屋城跡であろうと?・・・想像です。

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登った道とは逆の江田島湾の方へと向かう下り道がありましたので、鬱蒼とした竹藪を恐る恐る行ってみることにしました。

竹藪はすぐに終わり、江田島湾が明るく輝きます。
古くは直下まで波が寄せており、岬の傾斜面を少し削って海との間を高田街道が通っていただろうと思います。

また、この先には小屋門と呼ばれる地名が残ります。
高田街道を封鎖する関所があったのか、あるいは、湾奥の船隠しに出入りする戦船を北風から守る港の出入り口があったのかも・・・(*^。^*)です。

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再び坂道を後戻りして、小屋城よりはさらに高い位置にあるとされる堀越城を目指します。

今は竹藪や雑木が周りを囲み、視界は限られますが木々を払えば、北は津久茂の瀬戸からはるかその先の廿日市、宇品方面まで、南は中町はもちろん、その先の亀山城があったとされる能美八幡神社、新蔵城があったとされる真道山までが、そして東は江田島湾のほぼ全域を見渡すことができる、見張り場所としては最適な位置となります。

画像左は古鷹山、右のほうには呉市灰ヶ峰が見えます。

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南の方向には中町が一望に、その先には真道山が大きく山裾を広げます。

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堀越城があっただろう付近まで辛うじて道は続きますが、木々に閉ざされ周囲の視界はまったくききません。

帰ろうと坂道を下っていると、先に道案内をしていただいた方が夫婦で果樹園の下草刈りをされています。
仕事の邪魔にならないよう、そっと素通りをさせていただきました・・・m(__)mです。

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堀越城の西側中腹まで、お墓へと続く道がありましたので行けるところまで・・・。
中腹からでも高田の町が一望でき、津久茂瀬戸の向こうに似島の安芸小富士がはっきりと見えます。

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左に目をやれば、画像中央付近に北堀城が、さらにもう少し上に登れば右端に小城も見えることでしょう。

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下井田の集落から小屋城、堀越城へと続く農道の入り口です。

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下井田の集落から見た、小城の乗る小山です。
登り道は見当たりませんが、山頂部に大きな楠木?が植えてあるようです。

だれか、目印にと残した野趣のある自然の案内板・・・(*^。^*)です。

高田 中谷造船所

高田グーグル地図D 中谷造船所 
かって江田島市内(江田島・能美島)には、各浦々ごとに数人の船大工さんがおり、小さなスベリから大漁旗をはためかせた新造和船を次々と沖へ引き出しておりました。

今でも船大工の腕を持つ方はおられるようですが、木造和船を注文する船主は皆無、数年前に一隻の伝馬船?が進水したと噂を聞いた後は絶えてなくなったようです。

現在市内で造船業を経営しているのは、江田島町小用の「KK江田島造船所」と、能美町高田の「中谷造船KK」だけとなりましたが、江田島造船所は修理修繕業が専門となり新造船を手がけることはありません。

江田島市内で唯一造船所と呼べるのは高田の「中谷造船KK」のみとなりましたが、それでも毎年数隻の新船を造り出し、江田島湾へと華々しく進水させております。

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高田の対岸である江田島町側からみた、中谷造船の全容です。
右の船台(スベリ)では中型貨物船を建造中です。

左に見えるクレーの付いた箱型のものは浮きドックと呼ばれるもので、船台で建造し進水した船の最終艤装や点検修理修繕を行う施設です。

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中谷造船の本社建物です。

外壁の赤レンガに埋め込まれた表札には「中谷造船株式会社 NAKATANI SHIPBUILDING CO.,LTD.」とあります。

以下、中谷造船HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

商   号 中 谷 造 船 株 式 会 社
創立年月日 昭和40年1月11日(創業 明治9年)
本社・工場 広島県江田島市能美町大字高田3328-2
資 本 金 10,000,000円

社指すところは「夢を加えた船づくり」

技術・営業上の特徴
広島の小さな造船所が、3度のシップ・オブザ・イヤーを受賞しています。確かな技術と人間優先のテクノロジーが裏付けされた結果です。
中谷造船のテーマは、船の高速化や自動化はもちろん、居住設備の改善まで含めた人間最優先の近代化です。
『思わず乗ってみたくなる船』『人をわくわくさせる船』。
『夢とロマンがある船』の建造を目指しています。
お客様のニーズに答えた、「より進化した船」を届けることを使命としております。

会社の特色
優秀な人材ネットワーク:研究・開発は国内外関わらず最適な企業集団で効率化・質の向上を行っています。

造船所設備
船台  99.50m×20.00m
1号浮ドック 87.68m×31.0m(4990G/T)
2号浮ドック 106.14m×32.0m
ジブクレーン 50トン1セット・16トン1セット・10トン6セット・ 門型クレーン 5トン1セット・3トン3セット
と、あります。

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船台にて建造中の中型貨物船?です。
船橋構造物も取り付けられており、船台での組み立て作業は終盤のようです。

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海側から見た新造船の後部と船台です。

船の最後部に位置する舵と、黄金色に輝く真鍮製の5枚羽根プロペラが見えます。

コンクリートで傾斜のつけられた船台には何本ものレールが敷かれ、そのうえに沢山の車輪をつけたトロッコが何台もあり、さらにその上に新造船が乗ります。

起工から進水までの数か月、最大1千トン近い重量の船をこのトロッコに載せ、滑り落ちないようにストッパーで支えます。
船の進水時には車輪を固定するストッパーを外すことにより、トロッコは船を乗せたままで船台斜面を転がり落ち、上に乗った船を海上まで導きます。

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万国旗を掲揚して進水したばかりの「SOLID HARBOR」?マニラ船籍の貨物船?です。

船台上で鉄板あるいはブロックをつなぎ合わせて船の形を造り出し、船内に主エンジンや補機類を搭載し、舵やプロペラを取り付けて船台から海面へと滑り落とすまでの工期は約3カ月です。

進水した船はこのあと、桟橋などに舫った状態で電機配線や配管、甲板上の補機類(クレーン、係船機など)、航海計器や居住設備を艤装し、試運転や試験航行、検査、が行われたのちに船主に引き渡されます。

一般的な小中型の貨物船の場合、設計に2カ月、起工から進水まで3カ月、艤装や試験に2カ月くらいの期間を必要とします。

お値段ですが、画像の貨物船だと、たぶん?、5億円くらいだろうと??、想像します・・・(^_^;)です。

注 : 上記に記載の船の建造価格は、「中らずと雖も遠からず」???・・・(^_^;)です。
実際の価格は不明、また船の建造費は主要原材料である鉄鋼の値段や社会情勢などにより2割3割の変動は当たり前です。

貨物船やフェリーボートの建造をお考えの場合、価格より造船会社の技術力と信頼度の方がより重要です。

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上記貨物船と船体の容はよく似ていますが、こちらの船は液体(オイル・ケミカル)を運ぶ船のようです。

船主は韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」で、船名は「KEOYOUNG BLUE 1」、引き渡しは2016年4月、N/Tトン497.0t、G/Tトン1423.0tで、全長が71.9mです。

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この進水直後の船も、韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」が船主です。
先の「KEOYOUNG BLUE 1」とは姉妹船で船名は「KEOYOUNG BLUE 3」、2016年10月に引き渡されています。

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浮きドックのサイドに繋がれ、艤装工事中のフェリーボートです。
船首に船名が書かれていますが、まったく見たことのない文字・・・(^_^;)です。

船名は判読できませんが、この船は日本の政府開発援助(ODA)によりミャンマー・ヤンゴン市に無償供与されるフェリーボートです。
ヤンゴン市を分断するヤンゴン河で使用される渡河船で、全長41.35m、幅9.40m、深さ7.40m(高さ?)、総トン数290 トン、旅客定員1,200名の要目で発注されたもので、「中谷造船KK」が同型船3隻の建造を総額999,000,000 円で落札しました。

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航行試験や検査も終わり、ODAに引き渡された直後のヤンゴン河渡河船です。

このあと3隻の渡河船(フェリーボート)は広島港外貿埠頭に集められ、川崎汽船株式会社(SAL社)が運航する重量物運搬船「PAULA」(クレーン能力合計700㌧)に3隻(1隻あたりの重量270㌧)を積み込み、2014年10月31日ヤンゴンに到着しました。

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画像は「川崎汽船株式会社」のHPよりコピペしたもの・・・m(__)mです。

中谷造船で建造したフェリーボート3隻をクレーンで吊り上げ、「PAULA」の甲板に登載作業中の画像です。

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中谷造船の林立する沢山のクレーンは、高田地区のどこにいても屋根瓦の上に突き出して見ることができます。

小さな町の小さな造船所が3度ものシップ・オブザ・イヤー賞に輝いた快挙は、元高田小学校の校歌にもある、正しき道を歩み進みて文化を求める高田気質が大きく底流となってあるからです。

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画像は試験航行で呉湾小麗女島の沖をいくJR西日本のフェリー「みやじま丸」です。
「みやじま丸」は中谷造船で建造された、日本で初の小型電気推進旅客フェリーで、シップ・オブ・ザ・イヤー2006、小型客船部門賞を受けました。

両頭双胴船型の電気推進(ディーゼル・エレクトリック方式)旅客フェリーで2006年1月27日竣工、2006年5月27日に宮島航路に就航しました。
総トン数254トン、全長35.0m、速力8ノット、車両7台を搭載し、旅客503名(最大803名)が乗船できます。

高田 元高田小学校・元高田保育所

高田グーグル地図D 元高田小学校 
高田地区の中心部、旧高田街道に面して平成26年3月まで140年の歴史をもつと云われる高田小学校がありました。

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高田小学校の正門です。

門柱前面には真鍮鋳物で高田小学校と書かれた校札が掲げられていますが、花崗岩の門柱自体はそれよりもず~っと古く、明治四十二年九月に地元有志、山﨑三次氏により寄附されたものです。

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正門脇の掲示板に、高田小学校閉校式平成26年3月23日と書かれた張り紙が、錆びた押しピンで止められていました。
どうやら少しばかり前に閉校記念式典が執り行われたようです。

高田小学校の起源として、江戸時代の頃より高田高源寺において、児童を集め読み書き算盤が行われていたと云います。

明治5年8月に定められた教育法令「学制」に基づき、明治7年8月、第4大学区広島県管下第3番中学区内第140番小学校として高源寺本堂に「日新舎」を創設。
同9年本堂南側に校舎を付設、同11年に第4大区(佐伯郡)広島県第140番小学校「高田小学校」となりました。

明治19年「中村簡易小学校 第一分教室」となるも、同24年「高田村公立高田尋常小学校」となって独立、大正12年には校舎を空地区から現在の沖南地区へと拡張移転しました。
校内には判読が困難ですがおそらくはその当時のものだろうと思える、「教育喜捨芳名」の石碑があり、沢山の方々の芳名が刻まれています。
高田地区の児童教育や文化発展に対する熱意が今に伝わります。

そのような恵まれた環境風土にありながらも、高田地区の児童数減少はとどまることなく、ついには2014年3月末をもって惜しまれつつも高田小学校、高田保育所が廃校廃所となりました。

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シーソーの周りをはしゃぎまわる子供らは絶え、鉄道草が一本また一本と数を増やしています。

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卒業生?が残した自画像陶板が23枚、大きな手形は担任の先生のかも?・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの南側には「創立百年記念 昭和四十九年建之」と彫られた陶板と78個の自画像や文字、絵などが書かれた陶板が張られた記念碑が建ちます。

ちなみに昭和49年の高田小学校総児童数は173名となっていますので、陶板の制作にあたったのは5年生と6年生だったのかも?ですね。

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こちらの記念碑には「一以貫之」の周りに、学童らの手形と記念文字が書かれた66個の陶板が張られています。

これが全校児童数だとすれば、平成6年の67名にもっとも近いのですが、制作年は不明?です。
記録に残る高田小学校の児童数として、昭和22年の500名、28年401名、37年322名、41年215名、平成元年105名、閉校となる年度の児童数は51名でした。

ちなみに、制作に使われている陶板?ですが、文政(1818年~1830年)の頃、能美島から瓦用焼土(赤土)を大量に産出しており、明治中期から大正後期にかけては高田を中心に煉瓦の生産が盛んにおこなわれていたと云います。

有名な江田島海軍兵学校(明治26年建築)の赤煉瓦はイギリスからの輸入品であると云われますが、それより他の多くの煉瓦建造物(対ロシア艦隊用の砲台施設など)は、能美町高田や東広島市安芸津で生産されたものが多く使用されたようです。

しかも煉瓦の質としては、高田で生産されたものの方が輸入品や安芸津産よりも上質であったと云います。

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動物の飼育小屋のようです。

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どこから種が飛んできたのか、カワラナデシコの花も・・・

高田小学校閉校式 
江田島市広報誌の表紙となった高田小学校の閉校式です。

高 田 小 学 校 歌
作詞 戸張竹風 作曲 渡辺弥蔵

1、山むらさきに 海深うして
  能美島第一の 文化村
  その少国民 我等のために
  ああ雄々しくたてる 高田小学校
2、古き伝えは よよ美しく
  祖父母も父母も 通いたまいし
  その園に 今我等は遊ぶ
  ああ楽しきかなや 高田小学校
3、清き明かるき 心をもちて
  正しき道を 歩みすすみて
  よき人となる みなもとはここ
  ああ尊いかなや 高田小学校

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昭和の後期まで使用された高田小学校の木造旧校舎は移築されており、ツツジの名所である高田遠崎地区の水島さつき園で「さつき荘」として現在も使用されています。

画像はグーグル地図よりのコピペ・・・m(__)mです。

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藤の花で飾られた元高田保育所です。
高田小学校の南に併設して高田保育所もありましたが、小学校と同日に閉所となりました。

高田 農道

高田(国道・旧街道・農道) 
国道以外はすべてが農道といってもおかしくはないほど農業の盛んであった高田地区ですが、農業不振、農家人口の急激な減少により耕作地の放棄が止まることなく続いています。

生活道路と兼用のアスファルトで厚く固められた道路以外はすべてが獣道となり、一度イノシシに占拠された農地にはもはや人が入り込める道はありません。

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画像は2014年9月のものです。
案山子と防鳥網に守られていたこの水田もイノシシの執拗な攻撃によりついに陥落、昨年(2016年)秋にはイノシシの運動公園、ぬた場となっていました。

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坂道の上からしだいに近づくエンジン音をいぶかっていると、高田地区で一番の耕耘機操縦技術をもつおじさんの登場です。

耕耘機の発明は1920年頃のオーストラリアだと云われますが、日本での普及は1955年(昭和30年)の8万台から急速に伸び始め、昭和42年には300万台を突破したといいます。

急傾斜で細く曲がった農道にも重い荷物を積んで入り込め、狭い田んぼでも効率よく耕すことができる、昭和の農業発展にもっとも大きく貢献した大傑作機です。

おじさん自慢の愛車?は、HONDA F80(1968年頃の発売?)、半世紀近くも経過したであろう耕運機です。
排ガスや手入れのたびに塗り込まれたグリースで薄黒くはなっていますが、おじさんの巧みな操縦により急な坂道も安定感をもって下っていきました・・・(*^。^*)です。

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米作りが最大の収入源であった農業も、時代の流れから他の作物への転作を余儀なくされ、慣れ親しんだ稲作に代わる新たな作物に挑戦することを求められました。

手前の広い畑では沢山のサトイモが大きく青々と育っています。
下の段では自家用のお米が作られており、夏の陽を目いっぱいに吸収した稲穂が秋風に揺られ少し黄色味を帯びてきました。

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遠くに中谷造船所、さらに江田島湾、古鷹山を見渡せる高台の畑には、エンドウとジャガイモ、ネギの類が生育しているのが見えます。

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火力暖房機を備えたビニールハウスの中に、天井まで伸びたキュウリの蔓が元気いっぱいに葉っぱを広げています。

稲作からの転作初期には、狭い農地でも収益率の高い施設園芸が多く試みられ、沢山のビニールハウスが林立、キュウリやトマトの栽培が試みられました。

ただ、その後の農業労働力の減少や、暖房用燃料費、資材の高騰など何度もの危機を乗り越え、今もハウス栽培を維持経営する農家の数はごく僅かです。

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温暖な気候条件から当地で最も有望視され、多く試みられたのは柑橘類の栽培ですが、これもオレンジの自由化に続く海外からの多彩な種類の果実類や産物輸入により大きな打撃を受けることになります。

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排水の良い傾斜地ではカキ(柿)の栽培も多く試みられています。

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宗方地区を往く農道脇に、秋祭りの幟がはためきます。

対岸の鉢を伏せたような山は、江田島町の津久茂山(お鉢山 262.8m)です。
この津久茂地区とは瀬戸の急流で阻まれてはいますが、大正12年2月1日に津久茂村が安芸郡江田島村と合併する以前は高田村と同じ佐伯郡に属していました。

耕作地の少ない津久茂地区からは多くの農民が農耕船を仕立てて瀬戸を渡り、この高田の地で田畑を耕し、さらには住居を定めたりもして、陸続きであった江田島村よりも、海を隔てた能美の地により親密な関係があったと云います。

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何世代にもわたり石を積み上げて作り出した農地跡に、荒れ地に強いといわれるコスモスが咲き乱れ右に左にへと時代の風にゆれ動きます。

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ここ数年使われることもなく、うすく埃をかぶった農作業小屋(納屋)の内部です。

「豊盛」「日水」「八洋」「村山」と書かれたトロ箱が重ねてあります。
トロ箱といえば普通は魚を入れて運搬するために使いますが、農業用として?転用???キャベツの苗とかを入れて運んだんでしょうかねぇ~ ・・・(*^。^*)です。

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農道わきの柵に・・・、これってジュウヤクと呼ばれる野草、薬用利用として天日干しされている様子です。

漢方書によれば薬用部分は全草で、開花期に根ごと採取して日干しにしたものを十薬という。
薬効としては、痔・高血圧症・便秘・たむし・陰部のただれ・はれもの・かぜ・腰痛・蓄膿・冷え性・帯下に効果ありとされます。

ちなみに、当地における古くからの民間療法の薬草薬物として、ドクダミ、ゲンノショウコ、ハブ草、ヨモギ、フキの根、柿のヘタ、梅肉、イチジク、ショウガ、ミミズ、ドジョウ、タニシ、イナゴ、鯉、イセエビの殻などが利用されたと能美町誌に記載があります。

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農業経営は気候天候に大きく左右されるだけではなく、その時々に必要とされる産物を見極め絶妙なタイミングで供給する高度な技量をも必要とします。
しかも多くの農産品は、生育に長い時間を必要とし、さらにその気候風土に適合したものでなければうまくは育ちません。

この地で過去にどのような作物が生産されていたかを知ることはきわめて重要です。

江戸時代に書かれた「鹿川村書出帳(文政2年)」によれば・・・
当時五穀として、米、麦、大豆、粟(あわ)、黍(きび)が栽培されており、野菜では、あらいも、ごぼう、ちさ、ふき、ほうれん草、わけぎ、ねぶかねぎ、なすび、きゅうり、うり、とうがん、すいか、かぼちゃ、しゅんぎく、みょうが、らっきょうが栽培され、藩の殖産興業政策として、さやえんどう、猿豆(実えんどう?)、小麦、ごま、稗(ひえ)、とうきび、だいこん、そら豆、さつまいも、なたね、さとうきび、たばこ、わた、茶、西条柿、蜜柑、梨、こうぞ、はぜ、くすのき、なども推奨されたとあります。

さらに山野からの採集薬草薬物として、桔梗(ききょう)、橙皮(とうひ)、葛根(かっこん)、忍冬(にんどう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)、麦門冬(ばくもんどう)、防風(ぼうふう)、香附子(こぶし)が記載されます。

その後、明治となって除虫菊や桑(養蚕)の栽培に加え、乳牛、養牛、養鶏なども試みられ相応の成果はありましたが、多くは時代とともに消え去り今に続く農産品はほんの僅かです。

春先の農道、コンクリートの側溝とアスファルト道との数ミリの隙間に、ド根性スミレの青花と白花が混じり合い、互いに競い合って咲いていました。

高田 旧街道 2/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町を結ぶ街道は平地でもあり古くからの主要道でしたが、高田から北、沖美町三吉(三高)への道にはたくさんの小さな岬や断崖が多く、おそらくは牛馬の通行がやっとという、気象条件に左右される険しく細い海岸道だったことでしょう。
それでも、芸藩通史(1825年)には山越え道ではなく、海岸道となって記載されていますので、陸路による往来もけっこう盛んではあったと思われます。

ちなみに、能美町誌によれば、三高村から高田、中村、鹿川、大柿を経由して飛渡瀬村に達する道路(約17km)が佐伯郡郡道に指定されたのが大正9年(1920)4月、同時に中村から飛渡瀬間(約6,6km)も群道指定がされました。

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高田旧街道をさらに北上すると、さんぱつ屋「シモイダ」さんがあります。

玄関前の駐車スペースに沢山の水槽が並べてあります。
中は覗かなかったのですが、ご主人様の趣味でメダカとかが飼育されているのだと思います。

のぼり旗には「赤ちゃんの筆」・・・へぇ~、赤ちゃんの髪の毛を使って筆を作ってくれるみたい・・・(*^。^*)です。

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通りに面する窓に細い格子を取り付けたお家があります。

二階も通り側一面がすべてガラス戸で、手すりの高さまでの格子があります。
旅館業とか?小料理屋さんとか?だったのかも??? ・・・(*^。^*)です。

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市内ではもっとも大きくて洒落た造りをした農業協同組合「JA呉 高田支店」です。

もともとこの位置には高田港の船着き場の一面を占有して、高田農業協同組合があり、何隻もの番船を仕立て廿日市や宇品へ農産物を送り、帰りは肥料や農業資材、生活用品を満載した船が着く広い荷揚げ場でした。

農産物の生産量減少や、トラック便輸送が増えるにつれ番船の出番はなくなり、さらに高田港の埋め立て移転事業により、農協と船との縁は完全に立ち消えてしまいました。

今、農協購買部のショーケースに並べるパンやケーキは、ヤマザキ製パンの工場から直接トラック便で届けられます。

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食料品、雑貨のフレッシュ・スーパー「セルフ つだ」商店さんです。

元はお店の直前まで港があり、早朝から夜遅くまで忙しく出入りする船で賑わっていましたが、新しくなった高田港は、はるか遠く200mばかり離れた沖合にまで離れてしまいました。

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お米、お酒の「丸橋酒店」さんです。

荒くれ船乗りの胃袋を常にアルコールで満たしていた港の酒屋さん、しかし近年になり国土交通省より酒酔い操縦には厳しいお達しが・・・

海上交通における飲酒対策について(平成18年9月29日)

1.一般船舶に対する対策について

(1)安全マネジメント制度に基づく対策
 海上運送法及び内航海運業法に基づき、本年10月から安全マネジメント制度がスタートし、安全管理規程が運航事業者から届出られることとなっている。これに合わせ、当該規程において、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の状態における当直の禁止を明示するように指導を強化するとともに、その違反については安全確保命令の対象とする。

(2)船員法に基づく対策
 船員法に基づく航海当直基準においては、現在においても酒気帯び状態での当直は禁止されているところであるが、対策の推進のため、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の違反については上記安全管理規程の基準と合わせて船員法の戒告の対象とする。

2.小型船舶に対する対策について
 酒酔い操縦の判定基準の一環である数値基準について、船舶がふくそうする水域(港則法及び海上交通安全法上の航路)又は遊泳者等の付近を航行する場合は、呼気1リットル中0.5mg以上から0.15mg以上に引き下げる。

3.対策の周知徹底について
 上記措置については、国土交通省海事局から関係業界へ周知徹底するとともに、現場レベルにおいても、地方運輸局が港湾管理者及び管区海上保安本部と連携して関係者へ周知徹底を図る。

と、・・・(^_^;)です。

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お食事処、大衆食堂の「岡食堂」さんです。
港に出入りする船乗りさんの、あったかい憩いの場です。

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高田港埋め立て事業の始まる前、昭和61年6月の高田港付近(国土地理院)です。

岡食堂さんも、丸橋酒店さんも、つだ商店さんも、船頭さんの大声、けたたましいエンジン音、漂う磯の香りと、重油の焼ける匂いの中にありました。

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行き交う機帆船で大波小波がたっていた高田港の奥部は大きく埋め立てられ、そこには潮風や日照りに負けることなくしっかりと土中に根をはった、ハナスベリヒユ(ポーチュラカ)が一面を覆って咲きそろい日差しに赤く輝いています。

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街道は高田港を通過し小方、湯田をへて、さらには沖美町三吉へと続きます。

品のある小窓が並び、ショーウィンドウが残りますが、さて何を商ってたお店でしょう?
かって、高田の主要産業でもあったレンガを使った塀が緑の草木に映えます。

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最近のただ真っすぐに伸び、交差点に当たっては止まる単調な道路とは違い、旧街道は微妙な曲線をもってうねりながら長い調べを奏でて流れます。
るぅ~るるる~、るぅ~るるる~♪ らぁ~ららら、らぁ~らぁら~~ら♪・・・(*^。^*)です。

高田 旧街道 1/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町、鹿川へとつなぐ街道は古くから主要な動脈路となっており、高田港で荷揚げされた最新の商品を街道沿いの商家に並べ、在所近隣から多くの購買客を集める他、陸路中町から鹿川近辺へ、あるいは対岸の津久茂へと商品販売路を広げていました。

昭和48年には、能美、江田島と本土(倉橋島)とを結ぶ早瀬大橋の完成もあり、本島にも急激な勢いで車社会が到来、平成に入り高田市街の沖側には幅広のバイパス道も完成、のち国道487号線へと昇格しましたが、その便利な陸路が在所購買客の大流出につながる結果となり、さらに本土からの商品は船や港を利用しなくても直接陸路を通って入り込むこととなりました。

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国道バイパスの南端、高田旧街道への別れ際に建つ食料品、雑貨、たばこの「池田商店」さんです。

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旧街道に面して今ものこる、元高田駐在所の建物です。
いまの高田駐在所は、島内随一のモダンな造りの駐在所として高田港に面する国道沿いに移転しました。

近くには高田郵便局もありましたが、これも近年になり国道側に新築移転しました。

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旧街道をさらに行くと、Panasonic「山野井デンキ」があります。
右隣の敷地には、・・・えっ、大きな白い船のマストが据え付けられています。

軍艦並み(対空用?、対水上用?)に上下2段に分かれてレーダーアンテナが装備されています。
さらにマスト頂部には方向探知用ループアンテナがあり、信号灯もまだ使えそうです。

きっと、江田島上空に飛来するUFOを監視し信号灯を点滅させて連絡を取り合っているのかも???・・・(*^。^*)です。

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元高田小学校(2014年3月廃校)の正門前にあるお店です。
おそらくは文房具屋さん?・・・だった?のかも?。

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元高田小学校とは路地を挟んで並び建つ、小さな小さなお肉屋さん「肉ノ山下」さんです。

もう、お肉の販売は止めたようですが、赤いネット袋に入った蜜柑が300円で出されています。
中央の柱には「110番の店・家」江田島警察署のステッカーも貼ってあります。


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街道をさらに北へと進むと、中国新聞・朝日新聞・毎日新聞・NIKKI日本経済新聞の看板が掲げられたお店があります。

小さなショーウィンドーにメリークリスマスと書かれたタペリストが下げてありますが、色あせており、数年前のクリスマスに出されたもののようです。

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元はクリーニング店、タバコ屋さんも兼ねての商売をされていた様子です。

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間口の広いお店が二軒続きますが、どんな商いをされてたんでしょう?、呉服屋さん???・・・かなぁ~。

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ガラス戸に張られたポスターを見ると、薬屋さんのようです。

化粧品とかも商ってたんでしょうか?
私はまだ必要とはしませんが、資生堂の発毛促進剤アテノゲンって文字も見えます・・・(^_^;)です。

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画像は平成2年12月の高田地区航空写真(国土地理院)です。

高田街道のバイパス道路(国道487号線)の工事が完成間近な様子です。

高田 沖南港・南港

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画像左のモノクロは昭和22年の高田間所~沖南~南地区、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

戦後もしばらくは高田港以外に防波堤を築いた港は無く、台風など自然の猛威を避けるには砂浜に引き上げるくらいしか方法がありませんでした。

その砂浜も干拓事業で奥行きが狭くなり、船もエンジン付きで重く大型化したため簡単に引き上げることはできません。

戦後まもない昭和20年9月17日の枕崎台風による甚大な被害はもとより、昭和26年10月14日のルース台風では、高田地区だけでも機帆船19隻が沈没し遭難者21名を出す大惨事となりました。

平素は穏やかな江田島湾内であても、防波堤なくしては船を安全に維持することはできません。

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画像は「沖南港」に停泊中のタグボート「第十大徳丸」「第二十大徳丸」です。

北側の防波堤は花崗岩の切り石を丁寧に組んで作られておりますので、まだ石材事業が全盛のころ(昭和36年以前?)に作られたようです。

南側防波堤主材はコンクリートで昭和40年頃?に作られたようです。

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沖南港はタグボート専用港というわけではないと思いまが、停泊船の多くが小型タグボートで占められています。

港中央部の桟橋には大型の「第八金福丸」(赤色のマスト)を中心に左が「第七金福丸」、後ろに第五、第三、第二、・・・全八隻?の金福タグボート船団が繋がれています。

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第八、第七金福丸の後方に繋がれた、一回り小型の金福タグボート船団です。
黒い網籠状の形象物を揚げたマストが6本も見えます。

ちなみに「丸・ひし形・丸」と繋がった形象物は、本船は「操縦性能制限船」であるから、本船を回避して航行せよ・・・(*^_^*)です。

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後日、江田島湾への入り口である津久茂瀬戸を、親船「第八金福丸」の後を追っかけて、カルガモのように一列縦隊で通過する金福船団を見ました・・・(*^。^*)です。

沖南港へと帰る、カルガモ船団を護衛?している灰色の船は、海上自衛隊第一術科学校所属の練習船です。

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こちら「南港」には牡蠣養殖業者さんの専用船が多くとめられています。
防波堤が造られたのは「沖南港」よりも古い様子で、昭和36年よりも以前となります。

画像の「明宝丸」は牡蠣の養殖作業でもっとも重要な働きをする、牡蠣船です。

マスト型のクレーンを使い、沖の筏で養殖した長さが9mもある牡蠣連を船内に揚収し、その牡蠣を満載し、打ち子さん(牡蠣剥き作業をするお姉さん)の待つ港の牡蠣打ち作業場まで高速で運搬します。

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海の家?・・・
じゃなくって、海上移動式の牡蠣養殖用作業小屋です。

真夏の直射日光、突然の夕立のもとにあっても、沖に設置してある竹筏に牡蠣連を取り付けるなどの作業に必要な洋上作業小屋です。

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日よけのブルーシートが張られた中で、杭打ち垂下式の牡蠣養殖用垂下連が作られていました。

東北、北海道方面から取り寄せたホタテ貝殻の中央に穴をあけ、間にプラスチックパイプを入れて互い違いにワイヤーに通し、ネックレス状にします。
杭打ち垂下式だと連の長さは1.6mが標準のようです。

えっ。
後姿だとまったく気づきませんでしたが、会話の内容がまったく聞き取れません。
皆さん外国からの牡蠣養殖研修生の方々・・・(*^。^*)でした。

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牡蠣連作り用のホタテ貝が準備されまもなく作業開始の様子です。
日よけのテントが張られていますが、なんと広島県立江田島高等学校と書かれています。

江 田 島 高 等 学 校 とは・・・

1948年「広島県呉竹高等学校江田島分校」として江田島町中央地区(旧江田島中学校内?)に開校。
1949年「広島県呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1951年江田島町小用地区へ移転。
1968年「広島県立呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1972年「広島県立江田島高等学校」として独立。
2010年3月31日 閉校。広島県立呉三津田高等学校へ統合。
 分校創立からの卒業者数は合計5,086名です。

以上ウィキペディアからの要約・・・m(__)mです。

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桟橋に置かれたステンレス製の巨大な機械???

奥の円筒型機械は水揚げした牡蠣を水洗いするドラム型洗濯機?で、手前はベルトコンベアー、それらを結ぶ複雑な配管と交差する電線・・・まるで野外工場ですね。

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近年になっての新技術で、牡蠣の養殖場や揚収後の蓄養、洗浄作業にマイクロ(ナノ?)バルブとなった空気を通すと生育や衛生面で非常に良い結果が得られるとか???

手前の黒い網籠や空色のエアータンク?、それらを結ぶ配管はそのための最新秘密?装置だと思います。

もとは波静かな入り江に投げ込んで置く(石蒔き式養殖法・地蒔き式養殖法)だけだった牡蠣の養殖法が、ヒビ建て養殖法に、そして現在の杭打ち垂下式養殖法・竹筏を利用した沖合垂下式養殖法へと大きく進歩してきました。

いやいやいや・・・漁師さん家業もたいへんだぁ~~~・・・(*^。^*)です。

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港のすぐ沖ではイワシ漁の船が重そうな網を引き揚げていました。

きっと、大漁なのでしょう。
カモメの群れがおこぼれを頂戴しようと、水面下で足をバタバタしています・・・(*^。^*)です。

高田 高田港桟橋

高田・中町航路図 
高田港は地形に恵まれたせいもあって、古くから本土である廿日市や宇品とを結ぶ多くの船便がありました。
とは言っても、定期船としてほぼ時間どおりの旅客船事業を始めたのは、明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が蒸気船「海勝丸」62tを貨客船として就航させたのが始まりとされ、さらに明治40年に「能美汽船株式会社」を設立し、蒸気船「浅見丸」58tをもって江能の各浦々と本土とを周回する蒸気船航路を創設、その利便性が認められ関係する町村からの補助を受けることもできました。

のち、発動機エンジン「神座丸」、「能美丸」、「中吉丸」、「上田丸」、「日乃出」、「天竜丸」など船も船主も雨後の竹の子のように現れては消えしましたが、昭和3年当時の能美、宇品航路は一日6往復であったと云います。

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現在の、「中町(一部能美ロッジ寄港)・高田~宇品」航路を往くのは瀬戸内シーラインの高速艇「ロイヤル千鳥」です。

他に「ニュー千鳥」と「スーパー千鳥」の三隻をもって運行、ともに速力は26kt、船便は一日23往復(平日)です。

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高田港桟橋に横付け中の「スーパー千鳥」です。

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高田港桟橋を出港、宇品港へと向かう「ロイヤル千鳥」です。

赤灯台は港から出るときには船の左舷(左手側)に見るのですが、高速艇が発着する高田港桟橋は港の外(赤灯台のある防波堤の左外側)にあります。

高田港赤灯台には、「安芸中田港 小方北 防波堤灯台 初点 平成3年3月」海上保安庁と記されています。

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高田港桟橋待合所です。

高田港でも数年前までは車が搭載可能なカーフェリーの発着がありましたが、現在では車が搭載可能なフェリー桟橋は沖美町三吉の三高港(瀬戸内シーライン)と江田島町切串の切串桟橋(上村汽船)、吹越桟橋(さくら海運)、江田島町小用の小用桟橋(瀬戸内シーライン)のみとなりました。

乗船誘導待機場所に車を止めても車ごとでの乗船はできません・・・(^_^;)です。

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高田港桟橋待合所内の壁に「ありがとうドリームのうみ」と大書された寄せ書きが掲げてあります。

「気仙沼大島のためにいっぱい働いていただき本当にありがとうございました。今後も皆で頑張ります。」
「広島からわざわざ私達のためにありがとうございました。本当に本当に助かりました。もう乗れなくなるのはさみしいですが、これからも前を向いて頑張りまーす。」

宮城県気仙沼市大島の皆さんからの寄せ書きです。

2011年( 平成23年)3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って 発生した大津波により、壊滅的被害を受けた大島島民の方々の足となるべく、当時の江田島市が所有するカーフェリ「ドリームのうみ」を貸し出したことに対するお礼の寄せ書きです。

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画像は、2012年(平成24) 3月14日、気仙沼大島での輸送任務を終え中町港桟橋へと着岸する「ドリームのうみ」を出迎える田中江田島市長です。

以下は、気仙沼市産業部商工課作成の「 記 者 発 表 資 料 」(平成24年2月24日)のコピペ・・・m(__)mです。

カーフェリー「ドリームのうみ」の返還について

広島県江田島市の御厚意により大島汽船株式会社に無償貸与いただいておりましたカーフェリー「ドリームのうみ」(397 トン)が、平成24年2月29日(水)をもって最終運航となります。
平成23年4月27日(水)の運航開始以来、大島地区住民の通勤・通学・通院のための交通手段として、また生活物資・支援物資の輸送に加え工事車両の搬送などに大活躍し、大島の復旧・復興に大いに貢献していただきました。
「ドリームのうみ」は、平成24年3月2日(金)に気仙沼を出港し、広島県内で点検
整備を受けたうえで江田島市へ返還されることになりますのでお知らせします。

           記

1 最終運航便 平成24年2月29日(水) 18時20分・エースポート発
2 出港日 平成24年3月 2日(金) 9時30分・魚町二丁目地先岸壁発
3 その他
・「ドリームのうみ」の運航開始にあたっては、公益社団法人Civic Force からも仲介や各種協力など多大な御支援をいただいております。
・貸与期間について、当初は10月15日まででありましたが、大島汽船:白幡昇一代表取締役社長が10月5日に江田島市を訪問し、田中達美市長、同市議会、同自治会連合会に期間延長をお願いし、本年3月15日まで延長することでご快諾いただきました。
・「ドリームのうみ」の運航終了に伴い、これまでカーフェリー2隻で運航されてき
た大島航路は、平成24年3月1日から1便ごとに旅客船「海来みらい」と「フェリー亀山」が交互に運航することになります。

※旅客船「海来」は、津波で浦の浜に打ち上げられたものの修理を終え9月末から運航可能でありましたが、「ドリームのうみ」借用期間中は復旧工事車両の搬送を優先し、カーフェリー2隻による運航体制となっておりました。(一部を省略)

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画像は「本瓦造船株式会社」HPよりコピペの「ドリームのうみ」です。

以下は、「ドリームのうみ」の要目です。

建造所    本瓦造船株式会社(広島県福山市鞆町後地1717番地)
起工    2004.9.6   
進水    2004.11.25   
引渡    2005.1.31   
全長    47.3m   
垂線間長    42.0m   
全幅    11.0m   
深さ    3.7m   
喫水    (dext(summer))2.6m   
国内総トン    (JG)397T   
載貨重量    (design)118.29t (summer)116.05t   
試運転最大速力    14.605kn   
速力    14.5kn   
航続距離    約970浬   
主機関    YANMAR 8N21A-EN×2   
出力    (M.C.R.)1,324kW×900min-1 (N.O.R.)1,125kW×853min-1   
プロペラ    5Blades FPP×2(スキュー付)   
乗組員数    3   
旅客数    300   
燃料油槽    34.7立方メートル   
清水槽    11.8立方メートル   
航路    中町~高田~宇品   
その他    運航者:江田島市
(新造船要目データベースより)

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画像及び下記文章は、気仙沼大島「島おとめ」さんのプログよりのコピペ・・・m(__)mです。

広島県江田島市に感謝!! 2011-04-27 17:27:13 記

本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。
これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。
全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。

ちなみに江田島市の市営船事業撤退にともない「ドーリムのうみ」は姉妹船である「レインボーのうみ」とともに余剰船として売却されました。

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高田港から中町港へと疾走する「ニュー千鳥」です。

以下、能美町誌より・・・

昭和24年公営船の運行が始まる。
昭和31年鋼製旅客「能美丸」が進水する。
昭和30年高田村、中村、鹿川町が合併し能美町となる。
昭和33年高田港に接岸施設が完成する。
昭和39年鋼製フェリーボート「第5のうみ」運行する。
昭和42年高田フェリー接岸施設完成する。
昭和43年高田港桟橋待合所が完成する。
昭和47年新鋭高速艇「千鳥」就航する。
昭和57年高田港埋め立て工事着工
昭和61年新高田港桟橋待合所が完成する。

利用客の急激な減少や、燃料費の高騰、新造船問題などの悪条件が続き、能美町町営から江田島市市営、三セク事業移管当々、市民の足となる宇品航路の維持に多くの努力がなされましたが、結果として完全民営化により航路を維持することとなりました。

現在、中町から高田を経由し宇品とを結ぶ航路(一部が能美ロッジ寄港)を維持するのは、瀬戸内シーラインです。

高田港 石船(新栄丸・日栄丸・共栄丸)

高田港砕石運搬船 
画像はグーグル2014年11月4日撮影の高田港です。

高田港には3隻の砕石運搬船(石船)「第二新栄丸」「日栄丸」「共栄丸」が舫ってありました。

この3隻がいつごろまで現役で稼働していたのかは不明ですが、日本の高度成長期である昭和30年ごろから、平成へと変わる前までは瀬戸の海を東へ西へ、重い砕石を目一杯に積み海水が木造甲板を洗うのをものともせずに全速力で走り回ていた石船船団が存在していました。

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「第二新栄丸」です。
要所を鉄板で補強されてはいますが、生粋の木造石船です。

石切り場で切り出した砕石を船橋の前の平らな甲板が海水に浸かる寸前まで満載し、全速力で埋め立て地に向かう石船船団最後?の生き残りです。

埋め立て地の砕石投入ポイントに到着するや、すぐさま甲板上のもっとも大きな砕石にワイヤーを掛けクレーンで持ち上げて左右に振ります。
その反動で船は大きく傾き、甲板上の砕石は一気に海中へと落とし込まれます。

反動が弱ければ甲板の砕石をうまくポイントに落とすことができませんし、強すぎれば大石もろとも一瞬で転覆です。

後には分業や共同経営もありますが、基本は夫婦で船長と機関長となって石材を運搬し、父母や兄弟子供が地主から借り受けた浦々の石切り場でダイナマイトを使った砕石作業をおこなうという、危険でそのうえ資金力もない零細な家族経営、只々深い家族愛と度胸一本だけでなり立つ生業です。

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長い年月を目いっぱいに働いたのでしょう。

熟練の船大工さんが最大の強度で仕上げた船体も、ギシギシ、ガタガタ、ボロボロに・・・m(__)mです。

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船首に描かれた模様には魔よけの意味があるといいます。

おそろしく危険な航海を数千、数万回と乗り越え、無事この港に帰ってこれたのですから、魔よけのご利益は絶大だったようです。

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これだけのダメージを受けているにもかかわらず、まだ船内に海水が入り込む僅かな隙間もありません。

画像は2014年10月16日、私がこの石船、第二新栄丸の雄姿を見た最後でした。

ちなみに、山田洋次監督制作(1972年)の映画「故郷」では倉橋島を舞台に石船による砕石運搬を生業とする家族の様子が、当時の瀬戸の穏やかな風景とともに深く鋭く描かれています。

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岸壁に繋がれた「第二新栄丸」の他にも、沖へと延びる浮桟橋には戦友である「日栄丸」と「共栄丸」が舫ってあります。

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手前に繋がれている「日栄丸」です。
木造船体の周りすべてを鉄板で覆い補強がされています。

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甲板上は搭載した石材が大波や船の進路変更の動揺で滑り落ちないよう、食い込みの良い木造のままとなっています。

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日栄丸の船橋です。
分厚い踏板が一枚、甲板と船橋とをつないで渡されています。

他所の港で船を岸壁に繋ぐ場合は岸壁との間をこの踏板一枚だけで繋ぎます。
明りの無い夜中の2時3時、たとえ一升、二升を飲んでふらつきながらでも阿波踊りの要領でバランスをとり、ヨイヨイヨイって渡り切ります。

落ちたら三途の川(海)・・・(^_^;)です。

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沖側に繋がれた「共栄丸」、まだ十分に現役復帰ができそうです。

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日栄丸とは姉妹船のようで、船橋の造りもそっくりです。

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共栄丸の船橋部分です。
手すり部分の支柱、凝ってますねぇ~~~。

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最後部に梯子が取り付けてあります。
まさかその上がサンデッキってことはないと思いますが・・・(*^。^*)です。

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2015年6月の高田港です。

「第二新栄丸」が舫ってあった場所にはなにもありません。
満ち潮で小さなさざ波が寄せるだけです。

浮き桟橋に繋がれていた「日栄丸」も「共栄丸」も・・・・・・・です。

高田 高田港

高田・中町航路図 
江田島湾の南西部、高田地区の小方から高田港、沖南港、南港そして中町地区の中町港を含めて大きくは中田港といいます。

最北に位置する高田港を除くこれらの港は元々は河川からの堆積土で遠浅となっており、毎日砂浜に引き上げる木造の伝馬船には最適の環境でしたが、船が大型化し、さらには船長一人のみで漁労に従事する省力化漁業が一般化するにいたり、毎日船を砂浜へと引き上げることははできなくなりました。
上げ下ろしの手間を省き、船を海上に浮かべておくためには、桟橋を沖へ出して、その周りを頑丈な防波堤で囲う近代的港湾が必要となります。

高田 S22-H25 
左の画像は昭和22年、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

中田港内にあって、唯一高田港(間所)のみは自然の天恵に恵まれており、古くから大型船の出入りに便利な着岸施設と防波堤の整備が進んでいました。

そのため本土とを結ぶ船便の数も多く、帆船全盛の古きころから、中村(中町)や遠くは鹿川からの乗船客もあったようです。

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高田港に停泊中の給油船です。
事前の取り決めや電話連絡を受けて指定場所(洋上あるいは他港)まで出向き、燃料やオイル、場合によっては水や食料品なども運搬し給油する、海上のガソリン・重油スタンド?です。

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給油船の甲板です。
桟橋や船舶への横着け時に必要な防舷物(緩衝材)や油送ポンプ、給油ホースが所狭しと並べ置かれています。

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小型タグボートです。
大型船の出入港支援や、バージ(はしけ)をけん引したり押したりするのが一般的ですが、当地では主に牡蠣筏の移動や設置作業に使われます。

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潜水作業支援船です。

手前の船(船名景虎)は潜水作業員(ダイバー)を輸送したり、搭載のコンプレッサーで水中作業中のダイバーにエアーを送ったり、また水中通話装置などを装備しています。

緑色のクレーン船(船名KOORYU)は潜水作業員の指示を受けて、海中に重量物を投入したり移動、回収したりするために使います。

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用途不明の船が2隻係留してあります。
NAKATANI 5 との船名がありますので、近くの中谷造船所で使用する特殊作業船だろうと思いますが???な船です。

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第十政福丸、牡蠣作業船です。
牡蠣筏に吊るした、長さ9mもある牡蠣養殖の垂下連(ホタテ貝の殻にワイヤーを通した巨大ネックレスのようなもの)をクレーンを使って筏に設置したり、成熟した牡蠣を洋上の筏から揚収して、牡蠣うち作業場まで運搬したりの作業を行う専用船です。

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個人所有のヨットや、プレジャーボート、釣り船なども係留されています。

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牡蠣作業船第三睦栄丸が入港してきました。
今日の筏での作業が終了したのでしょうか?
それとも作業資材の補充に立ち寄ったのでしょうか?

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大きなバージを押してタグボート(プッシャボート)も入ってきます。

チョット見はのんびりした港の風景ですが、右から左からエンジン音が聞こえては遠ざかり、風の向きで排ガスのにおいが流れて来てはまた消えます。

松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ
干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ♪ ♪ (*^。^*) です。

高田 手押しポンプ

水道基幹管路(H18) 
画像は「江田島市の水道」江田島市企業局水道事業(平成18年ごろ?)からのコピペ・・・m(__)mです。
  
昭和40年6月26日、太田川から天応を経由しさらに海底送水管(1,840m)を通過した用水が江田島町小用の前早世浄水場へと注ぎ込まれ盛大な通水式が執り行われました。

前早世で浄水された水は、時を置かず江田島町から、大柿町、能美町、沖美町へと送られ、それにより島内の水事情は一変、電気、ガス、水道がそろった本土並みの文化生活へと移行しました。

もちろんそれまでも、各地区、あるいは各水系ごとに簡易浄水道設備はあったのですが、各家庭にお風呂を置き、水をだしっぱなしで洗濯機を回すだけの水量は望むすべもありませんでした。

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高田地区を散策中偶然にも、現役で使用中の手押しポンプを見ました。

今までにも手押しポンプを見ることはありましたが、使用できる状態の手押しポンプはほぼ皆無、しかも、オールドファッションのこの優美な姿に一目ぼれ・・・(*^。^*)です。

検索しますと、東邦工業社製のTB式自在口共柄ポンプ「ガチャポン35」と呼ばれるもののようです。

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手押しポンプは本来なら能美町鹿川地区の項で説明すべきでしたが、うっかり・・・(^_^;)でした。

上に見るポンプは、ひし形内に大臣と書かれたマークをもつ、ケーボー号「津田式」ポンプで、明治21年(1881)7月11日に鹿川村で誕生した津田喜次郎氏(旧姓 前)により、改良された手押しポンプです。

大正9年(1920)10月の広島発明品展覧会に出品された津田氏の改良手押しポンプは、時の藤沢商工大臣に大称賛され、「津田式ポンプ大臣号」と名付けて生産販売を開始しました。
高い性能が認められ全国的にも広く普及しましたが、生活用水の多くを井戸水に頼る当地においては特に女性や子供らの水汲み労働の軽減に多大なる寄与がありました。

ちなみに「津田式ポンプ製作所」は昭和45年(1970年)に倒産、その後特許・販売権を興陽産業製作所に譲渡、商表名を「KOYO」として継続製造されましたが、平成22年(2010年)2月に工場を閉鎖、これによって「津田式ケーボー号」の生産は終了しました。

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上記ケーボ号とよく似たポンプですが、CONDITION JAPAN ???そしてダルマさんのマークがあって、ひし形内にHB のマーク?が、・・・です。

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まったくタイプの違う手押しポンプですが、鋳物作りの柄の部分に津田式ポンプとあり、本体にはひし形内に大臣のマークと大きく津田式と文字が浮き出ています。

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鹿川将軍神社に併設する郷土資料館に展示の、シリンダーが連結式となった手押し消防ポンプです。
文字は読みにくいのですが二連式ケーボー号??? 津田式と書かれているようです。

(ちなみに名にある「ケーボー号」の意味や由来は不明・・・m(__)mです。)

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昭和45年に倒産となった「津田式ポンプ製作所」から特許・販売権を引き継いだ「興陽産業製作所」が製造した「KOYO」コーヨーポンプです。
下部にMADE IN JAPAN の刻印が打たれています。

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釣瓶桶から手押しポンプへ、さらには電動井戸ポンプへと・・・。

津田式ポンプが大活躍したのはほんの一瞬間でしたが、そんな 時代も あったねと ♪ ♪ ♪ ・・・(*^。^*)です。

夢の海底トンネル 
蛇足となりますが・・・

画像と下記文章は、平成27年3月発行の情報誌「海陽彩都」よりのコピペ・・・m(__)mです。

太田川の水を江田島へ、「 夢 の 海 底 ト ン ネ ル 」

島で急傾斜地の多い江能地区(当時の江田島町、能美町、沖美町、大柿町)では、永年、水不足に苦しんできた。
元々水源が乏しいうえに、わずかな湧き水も明治21年の旧海軍兵学校の設立以来、軍用水道として使われてきた。
家庭では個人の井戸や共同井戸、井戸のない家はもらい水をしたり、風呂をわかしたら近所に伝えて風呂に入るのをすすめたそうじゃ。
夏場や渇水期には飲料水も足りないこともたびたびで、雨水に頼ることもあった。
伝染病の恐れや水汲み労働の開放など、上水道の創設は島民の命にかかわる切実な願いじゃった。

昭和36年、広島県で呉市の工業地帯まで送る工業用水道が計画された。
これに江能4町で便乗して水道敷設に取り組むことになった。
つまり「太田川から海底トンネルで水を運ぶ」という壮大な計画。
島民の誰もが目を丸くしたじゃろう。
取水口は広島市東区の牛田の水門。
山沿いに水道を敷設して、呉市天応町と旧江田島町高須間の海底水道管を敷設した。
深いところでは水深38m、距離は1840m。
水道管は海中で接続して海底に沈めた。
海底にはヘドロが堆積しているので、鉄筋を打ち込みそれにくくりつけて動かないようにした。
この大工事が約3年で完了したことには本当に驚く。
前早世に通水記念碑が立っとる。

そして昭和40年6月から家庭に給水された。
本管から家庭につなぐ支線の施設費として各家庭で自己負担金約8,000円が必要だった。
月々の貯金を呼び掛けたが、「貯金をしてまで・・・」「井戸があるから」など進展しない。
困り果てた当時の土木課長がひらめいたのが、主婦の力を借りようという案じゃった。
台所をあずかり水の不自由に泣いている主婦なら、水道の必要性を十分に理解してくれるだろう、と。
婦人会に相談したところ、江能上水道事業に賛成し、貯金の世話を引き受けてくれた。
婦人会が各家庭を回って集金したそうじゃ。

誤字脱字などありましたら・・・ m(__)m です。

高田 井戸・ため池

高田グーグル地図D 
高田地区の背後には宇根山山系から北へと伸びる堆積岩の尾根がそびえます。
また標高200m付近からは傾斜が緩くなる地形ですので、他地区の土壌に比べれば保水力もあって、地下水にも恵まれた環境にありました。

とはいっても、戦中から戦後の農地造成に伴う農業用水の確保や急激な人口増加による生活用水を宇根山山系からの自然水だけで賄うのは大変な苦労であり、高田地区を流れる川の整備状況を見ればいかに水資源が大切であったかを一目で知ることができます。

s-2015-06-13 103 
高田地区で唯一?、今も現役で使用されている井戸です。

電動ポンプが据え付けられており、蛇口をひねればいつでも水が出るようになっています。

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民家の庭先に、井戸の周りを煉瓦で囲んだモダンな井戸があります。

雨よけの屋根に鋳物製の滑車が取り付けてありますが、ここしばらく使われた形跡はありません。

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お庭の中ほどに円形の井戸があり、傍にはコンクリート作りの流し台が残ります。

もとは、水屋となる建物で囲われており、近所の方々にも開放された共同井戸だったのでは?と想像します。

隣家の敷地から伸び出た枝先には、黄色く色付いた夏ミカンが・・・(*^。^*)です。

s-DSCN7678.jpg 
高台にある宗崎集落のさらに上に作られた農業配水用のため池です。

眼下は津久茂瀬戸、対岸は津久茂山(御鉢山263m)です。

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中地区の田んぼに配水するために造られた灌漑用のため池です。

深い池の廻りを自然石で垂直に積みあげて造られており、先人の巧みな技が感じられます。

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同じく中地区にある小さな池(井戸?)です。

まもなく春も本番となり、池の回りに植えられた黄スイセンやムスカリの花々が咲き乱れ、水面にはソメイヨシノの花吹雪が舞うことになるでしょう。
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