高祖 古地図(芸藩通志)

s-高祖村AAA 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

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芸藩通志記載「高祖村」の原画(コピペ)・・・m(__)mです。

現在の地名である鶴原、亀原、豊作原、宝原は表記されていません。

高祖(切り取り) 
「高祖」地区の拡大です。

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芸藩通志「高祖村」集落部の拡大図です。

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画像は昭和56年(1981)9月27日の高祖地区航空写真(国土地理院)です。

この当時、すでに農業は次第に衰退の方向へと向かっていましたが、農道の整備は大いに進展しました。 

オレンジや牛肉の輸入は、政策により昭和39年のころより順次輸入量を増やす傾向にありましたが、いわゆる日米貿易摩擦やウルグアイラウンドによる規制緩和、農産物の自由化により一挙に推進されることとなりました。

島内の劣悪な農業環境であっても、より高品質なものをより低コストで生産しなければ競争に勝てない状況となり、ならば、機械化による省力農業を果たそうと、山を削り谷を埋めて農道を整備しましたが・・・。

ただ、近年になり三高ダムより給水される安定した農業用水が沖美町全域で利用される環境が整い、一筋の光明がしだいに何本にも枝分かれし始めています・・・(*^。^*)です。
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高祖 いいとこ撮り 2/2

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高祖農道から見た高祖宝原(こうそほうはら)地区と、海の向こうに霞む対岸は広島市五日市方面です。

ちなみに、先に紹介した美能地区の西半分が鶴原、東半分が亀原、そして高祖地区の西半分が豊作原で東半分が宝原と呼ばれます。
鶴、亀、豊作、宝と、この地域の地名には、とてもおめでたい名が付けられています。

さらに、宝原川(ほうはらがわ)の水源付近、神の久保と呼ばれる昼でも暗い谷の奥には、財宝を三つの水瓶に分けて土中深く隠されているとの伝説も残ります・・・(*^。^*)です。

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沖に見える左右に両翼を広げた島は似島で、安芸小富士の頂部が見えます。

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満開の梅の花と三高港、右奥は似島です。

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桃の花と、沖には大奈佐美島が見えます。

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ビニール温室の向こうは三吉地区、島神社に植栽されたソメイヨシノが満開です。

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段々畑で作られている野菜は、キャベツ、ハキサイ、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ、・・・早生エンドウもツルが伸び始めています。

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山の中腹に残された、マチュピチュ遺跡にも匹敵するくらいに貴重な高祖の段々畑です。

かって、昭和の時代には山の頂近くまで迫った耕作地も、今や、その9割9分までが元の自然状態へと回帰し、イノシシやアナグマ、タヌキの楽園となっています。

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高祖地区の背後にそびえ、沢山の山桜で彩られた三高山(砲台山)、標高は401,8mです。
山頂部から右に下がる緩やかなスロープが三高山堡塁(砲台跡)となります。

 
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民家の屋根越しに見た三高山と、三高山堡塁です。

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農家の納屋(裏側)です。

石垣で囲われた半地下の部分は、山から集めた落ち葉や稲藁などに、家畜の糞尿などを混ぜて発酵させ、たい肥を作る「こなしや」または「落としばんや」と呼ばれる部屋です。

ちなみに当地において化学肥料が全盛となったのは昭和40年代となってからで、江戸の昔より不足分の肥しは広島市内に求め、ゴミ船、肥船を仕立てて大量に運び入れていました。

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農作業小屋の壁に特殊車両が展示?されていました。

稲や麦を刈り取り束ねることのできる革命的な農作業支援機(小型コンバイン)だと思いますが?・・・(*^。^*)です。

高祖 いいとこ撮り 1/2

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高祖地区を東西に走る県道36号線沿いに、誰もが疑問に思う赤煉瓦造りの地下壕があります。

地下壕には赤煉瓦で補強装飾した入り口が三つあり、この日道路側の一番大きな地下壕内には小型ボートが一隻と、前後に大きな籠を装着したママチャリが一台、展示(格納?)されていました・・・(*^。^*)です。

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この地下壕の入り口は、アーチ状に煉瓦を積み上げて丁寧に造られてはいますが、軍事用としては入り口が三つもあるのに内部空間は僅かしかなく、使用目的がはっきりしません。

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で、たまたまお会いした近所にお住いのご婦人にお話を伺いますと、「防空壕です。壕が掘られている小山の上にお住いの方の私有地で、主にはその方が主導して造ったもので、非常時には近隣の人々も一緒に防空壕内に退避しました。」と。

なるほどぉ~。
小山の上にお住いの御主人、子供時代の秘密基地づくりの感性、遊び心を大いに発揮し、だれにも遠慮することなく嬉々として掘り進んだのでしょうね。
平時ならきっと奇人変人扱いですが、戦時下ならご近所さんも手助けをしてくれて・・・(*^。^*)です。

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画像は赤レンガ地下壕の、すぐ近くに建つ民家を囲う赤レンガの塀です。
江田島市内においては今でも、家の土台や壁、塀などに多くの赤レンガが残ります。

沖美町史によれば、能美近隣におけるレンガの製造は、高祖の住人である三浦小太郎氏が大阪で学んだ技術をもとに、明治30年頃より始めた輪環式煉瓦製造業が成功をおさめたことに始まるとされます。
初期の高祖地区に開いたレンガ工場に加え、現三高中学校地と木ノ下川下流西側との二ヶ所にも工場を増設し、年間1080万個の赤レンガを製造、従業員が270人にも及ぶ県下最大のレンガ工場を成しました。

その後、昭和初期に始まった世界恐慌のあおりを受けしだいに衰退する状況にありましたが、昭和9年ごろより耐火レンガの製造を開始、月産量500トンにまで業績を回復、第二次大戦中は軍需によりフル操業での生産を要求されましたが、敗戦後の昭和21年、大量の生産余剰品を残しすべての工場が閉鎖されることとなりました。

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高祖西漁港の近くに花崗岩石材を巧みに組み上げ、アーチ状の門を開けた石垣が残ります。

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この石垣が造られた当時、その沖側には砂浜?が、あるいは干物干し場?が広がっていたか、それとも、雁木(石段)があって、直に船からの荷下ろしが出来るように作られたものか???です。

くぐり抜ければ別世界へと通づ、不思議の国のアーチ門・・・(*^。^*)です。

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秋風が流れ下る石垣の小径に、コスモスや百日草が絶え間なく左右に揺らぎます。

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宮崎駿氏の作品「となりのトトロ」に出てきそうな雰囲気が漂う、超ノスタルジックなお家です。

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高祖地区を横断する幹線道路県道36号線は、市内でも稀なくらいに狭くて曲がりくねっています。

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狭く曲がりくねった県道36号線ですが、昭和の時代にはその狭い道の両側に各種商店が軒を連ねていました。

その中には電気屋さんもあったのでしょう。
ヒロシマランプと書かれたブリキの看板が軒下から取り外され、側溝のひび割れた箇所に蓋代わりに置かれていました。

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県道36号線のネックとなっていた高祖地区を横断する狭い道路も、今、海岸沿いに新しくバイパスとなる道路の工事が着々と進行中です。

高祖 カキ養殖抑制棚

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西に隣接する美能地区から、高祖、東の三吉地区にかけての海岸線には遠浅の地形が多く残っており、その遠浅の海域を利用してカキ養殖のための「抑制棚(よくせいだな)」が広く設置されています。

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高祖海岸に設置されたカキ抑制棚です。

画像撮影の時期は2013年の9月中旬、ホタテ貝の表面に付着したカキの幼貝が抑制棚にぎっしりと吊り下げられています。

カキ養殖における「抑制棚」の役割は、カキの成長を抑制して出荷時期の調整を行ったり、環境適応力のある強健なカキを生産することにあります。

カキの養殖法には多種ありますが、近年の一般的養殖においては、7~9月ごろにホタテ貝の貝殻を海中に入れ、かきの幼生(約0.3mm)を付着(採苗)させます。

採苗ができた連(ホタテ貝を針金で綴った120cmくらいの連で採苗器とも呼びます)を上記画像のように抑制棚に吊るし、風雨や日光に当てて環境の変化に強い丈夫なカキをつくります。

出荷する時期に合わせて採苗棚から取り外し、ホタテの貝殻(幼カキの定着した)約40枚を一組として、9mくらいの長さの筏用垂下連に作り替え、水深のある沖の筏に吊り下げて本養殖を開始します。

翌年の年内に出荷(イキス)する場合は秋に、翌々年の春に出荷(ヨクセイ)する場合は採苗翌年の春先に抑制棚から取り外し、筏垂下(本養殖)に切り替えます。

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上記説明図と説明文は広島市水産振興センターHPよりのコピペ・・・m(__)mです。

ワ カ
昭和18年から43年頃まで行われていた方法で、一年以内に収穫ができるのでワカ(若い)と呼ばれます。
イ キ ス
採苗、本垂下後、1シーズンの育成期間を経て収穫する方法です。主にシーズン前半~半ばに出荷されます。
ヨ ク セ イ (早吊、早通しを含む)
その名の通りイキスより長い抑制期間を経て本垂下する養殖方法です。ヨクセイは主にシーズン後半に出荷されます。
ノ コ シ
ヨクセイ養殖のかきを翌シーズン最初の出荷時用に残しておく養殖方法。
フ ル セ (残し種・種残し)
イキスは採苗した種を9~10月に本垂下しますが、フルセは種のまま、もう一年抑制を行ってから本垂下する方法です。収穫パターンはイキスと一緒です。

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上記及び以下の抑制棚の画像は2015年7月のものです。
採苗連(採苗器)は筏による本垂下用にすべてが取り外された跡の状態で、海面には抑制棚の骨組みだけが残ります。

もうしばらくすれば採苗連(採苗器)がびっしりと隙間なく取り付けられるはずです。
ちなみに、2014、2015年は6,7,8月の降雨量が少なく採苗が不良の年だったと云われています。

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左の島影は大奈佐美島、沖を行く護衛艦のシルエットは「さみだれ」です。

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アート・・・(*^。^*)です。

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・・・(*^。^*)です。

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・・・(*^。^*)です。

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沖のカキ筏と抑制棚との間をカキ作業船が何度も行き来します。

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・・・(*^。^*)です。

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新しいカキ筏を設置したり、筏の移動作業を専門とする作業船「第三十二大生丸」です。
後部クレーンに巨大なコンクリート製のアンカーを吊り下げ、指定位置へと運搬中です。

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三高港沖の安渡島と似島の間を三高発、宇品行きのフェリー「入船」が滑るように沖へと進みます。

春の海 ひねもすのたり のたりかな ・・・(*^。^*)です。

高祖 高祖漁港・大和造船所

高祖漁港 
高祖地区は他所に比べ、港湾立地の条件が特に優れているとは思えませんが、三高港大改築の始まる昭和60年頃までは半円形の防波堤で囲った、とても情緒のある港が2つも並んでありました。

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東側にあった高祖港は、三高港の大改築で完全に埋め立てられ跡形もなく消滅しました。

西側の高祖港にはまだ半円形防波堤の一部分が残りますが、もはや当時の面影を感じ取ることはできません。

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西側高祖漁港の沖にも巨大な防波堤が造られ、船にとって最強の敵である、台風や季節風の影響を受けることはなくなりましたが、隣接する巨大な三高漁港と比べれば、なぜかうら寂しく、老船のたまり場的な景観となっています。

桟橋に留められた小型底引き船の「寿丸」、名前の通り長寿を全うし、外敵を避けて船陰に集まる小魚と日がなたわむれます。

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小型底引き魚船が一世を風靡した時代はすでに過去のものとなり、港には当時のような活気はありませんが、タコつぼ漁や刺し網、一本釣り漁など、豊饒の海瀬戸内は常に絶やすことなく自然の恵みを浦々の人々へと分配し続けています。

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本来なら、イワシやアジ、タチウオやイカ、タコ、ナマコなどが干されるべき防波堤の上に、何故かエビスグサの種子が天日干しにされています。

エビスグサの種子(決明子)は、便秘・高血圧・胃弱に効果があるとされており、中国では「決明子(ケツメイシ)」の名前の通り、目に活力(明かり)を与えるとされ、眼精疲労や目の充血解消の民間薬として使われるといいます。

一般には「ハブ茶」と呼ばれ、お湯で煮だして服用するそうで、成分としてはアントラキノンのクリソファノール、オブツシフォリン、エモジン、フィスチオン、オブツシン、アンストロン、トキソアルブミン、タンニン、ナルトピロン誘導体などが含まれるとされます。が・・・、以上はネット上からコピペした参考情報です。

ご使用にあたっては飲用量などをご確認の上、自己責任で・・・m(__)mです。

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港から離れ、高祖の集落を散策しておりますと・・・ナンダ、なんだ、何だ。

お家の塀から、カキ殻やフジツボの付いた石が、針金で止められぶら下げてあります。

も、も、も~しや、これは石で作られたオモリ。
ナマリとかが無い時代には刺し網などのオモリとして、あるいはタコツボ漁やイカかご漁、延縄の固定などに使います。

これは、すご~い、海事歴史博物館とかに展示できそうなお宝、宝石?・・・(*^。^*)です。

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昭和23年1月の高祖から三吉付近です。

高祖の東西両港はすでに半円形の防波堤で囲まれています。

三高小学校は見えますが、現在三高中学校の立つ用地は???
ちなみに、昭和22年4月三高村立三高中学校設立認可。5月仮校舎として美能旧軍倉庫の使用許可。昭和29年5月新校舎落成。昭和31年沖美町立三高中学校と改称。・・・です。

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昭和50年1月の高祖集落中心部です。

東西の高祖漁港がとても美しく写っていますが、東港にはすでに三高港からの埋め立て用土砂が大きく迫っています。

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高祖西漁港には、なだらかに湾曲する古い防波堤の一部が今も残っています。

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半円形の古い防波堤で囲まれた湾内に、鉄道線路のようなレールが二本沖へと延びます。

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陸側に向かうレールは、トタン板とキャンパスで囲まれた秘密工場?の中に消えます。

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表の看板はすでに下ろされた後のようですが、作業用グレーンの腕に「大和造船所」と書かれた文字が残ります。

残念ながらすでに造船業は止まったようですが、不要となった木材などの整理が行われている様子です。

「大和造船所」・・・、船大工のおやじさん、もしかしたら?・・・かの「戦艦大和」の木造部分の艤装とかを、請け負っていたんじゃ???・・・。

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海側から見た大和造船所と、新造船を華々しく大海へと送り出すスベリです。

本物の戦艦大和(全長263m・排水量64,000トン)はまあ無理ですが、工場のトタン壁を一杯に開け、1/10サイズのリトル戦艦大和が波しぶきをあげてスベリ降りる姿とか、・・・夢で見るしかなさそう・・・(*^。^*)ですね。

高祖 釈迦堂

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光照寺本堂の正面にそびえる小丘の頂きに、「釈迦堂」が建ちます。

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小丘の頂部を平らに削ってつくられた釈迦堂の境内は、「花祭り」を翌日に控えて、紅白の横断幕が張られており、さらに万国旗が天高く掲揚されていました。

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釈迦堂の外壁には漆喰が厚く塗られており、全体が土蔵のようにがっしりとした造りになっています。

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釈迦堂の正面です。
残念ながら開き戸は閉まったままとなっていましたが、正面に立ち「合掌」・・・m(__)mです。

大正9年の改築時に、昔からの言い伝えを文字として残すべく「大正九年 五八〇年前」と書いた額を奉納したと云います。
言い伝え通りであれば、創建は1340年頃となり南北朝時代前期、かの後醍醐天皇没年の前後となります。

ちなみに、現在のお堂は昭和52年に改築されたものです。

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上記絵図は「芸藩通志(1825年)」から高祖村の一部分をコピペしたもの・・・m(__)mです。

「能美島志(1763年)」では、「西方寺これ高祖村にあり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の像あり、土人毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、記されています。

能美島志から60年ばかり後の芸藩通志絵図では「西方寺跡」とはっきり記されており、その横に「シャカ?」と読める?建物が描かれています。
その下に見える「社倉」よりは小さく、左の「荒神」とは、ほぼ同じ大きさで描かれていますので、「荒神」様と同じようなお堂が建てられて、堂中に「シャカ?」が安置されているのでしょう。

西方寺の釈迦牟尼仏は「土地の人、毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、特記されるくらいに有名な釈迦像です。
西方寺が廃寺となったのち、釈迦堂をもうけ「釈迦牟尼仏」を安置するのは至極当然のことです。

ただ、お堂の位置は現在釈迦堂がある位置よりも山手側に描かれています。
後年となって、現在の小丘頂きに移転したものと思われます。

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「沖美町の文化財をたずねて」よりコピペの釈迦堂「釈迦如来像」・・・m(__)mです。

釈迦像はおよそ670年の歴史を持つとされ、台座を含めての高さ約80cmで、お釈迦様が悟りを開いた時のお姿(正覚像)を写したものです。

柔和なお顔立の頭部や、膝の上に置かれた手などの一部には制作当時のものと思われる顔料が残りますが、多くは剥げ落ち、各所に虫食いの跡も残ります。

今も4月の花祭りには甘茶がかけられており、地元の方々の深い仏心により大切に守り続けられています。

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釈迦堂の大きさに比べ、境内は十分すぎる広さで整地がなされています。

明治8年7月、高祖小学校の前身である「観善館」が高祖宝原阿弥陀堂に造られたと記録がありますので、あるいは明治のころの高祖小学校用地であった?やも??・・・です。

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高祖漁港の防波堤から見た高祖の集落と、その中央部となる小丘に乗る釈迦堂の杜です。

高祖 光照寺

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県道36号線から坂道となる路地を山手に100mばかり登った先に、真宗木辺派の寺院「光照寺」があります。

ちなみに真宗木辺派とは、滋賀県野洲市の錦織寺(きんしょくじ)を本山とする浄土真宗の一派です。

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上り坂の細い路地を曲がると突然に鐘楼門が現れ、門上に「光照寺」と墨書された寺額がきらめきます。

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この日は、お釈迦様の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)を数日後に控えており、門の両脇には仏旗が揚げられ春風に揺れていました。

ちなみに、お釈迦様の生涯、誕生、入滅の年月日には所説ありますが、日本では一般に4月8日を釈迦生誕の日とし、入滅日は不明のままとされています。

お釈迦様の生誕日をお祝いする名称も、地域や宗派により、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)など様々・・・(*^。^*)です。

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鐘楼門をくぐり、本堂の前で合掌・・・m(__)mです。

高祖には江戸時代中期の頃まで「西方寺」があったとされますが、芸藩通志(1825年)高祖村絵図ではすでに西方寺跡と記されております。

その後、釈迦堂のもとに小さな草庵を設け仏の御教えを乞うていましたが、明治の中頃に改築して現在の本堂を成し、真宗本願寺派「高祖説教場」としました。
さらに昭和47年9月、新たに寺号認可を受け木辺派「光照寺」となって現在にいたります。

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鐘楼門の横につくられた掲示板に、花祭り参集の張り紙がありました。

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光照寺本堂の前に小さな丘があり、その頂部を平らにして釈迦堂が建ちます。

丘の上、釈迦堂境内から見た光照寺本堂の大屋根です。

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今に見る光照寺本堂は、明治22年(1889年)真宗信徒らが寄贈した五百円余をもって、それまでの草庵から一大伽藍へと再建したものです。

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グーグル地図に見る、貴船神社、光照寺、釈迦堂の位置です。

画像の上が高祖漁港となります。

高祖・貴船社 2/2

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江田島市内の神社拝殿に天井が張られることは珍しいのですが、さすがに広島は三滝から移築された拝殿は立派なものです。

天井の造りだけを見れば江田島市を代表する、三大神社「江田島八幡宮」、「大原新宮八幡宮」、「能美八幡神社」よりも豪華で華麗な造りとなっています。

これで、天井枡の一区画ごとに花鳥画などが描かれていれば、広島県の文化財級扱いとなったかも???・・・(*^。^*)です。

正面の格子戸も、い・い・で・す・ねぇ~~~。

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拝殿内にはあまり多くはないのですが、奉納品の数々が揚げられています。

昭和61年10月に、山田建設さんが奉納したもので、世界で一番美しいとされる、チリ海軍の鉄製4檣の練習帆船「エスメラルダ」です。

1954年就役、全長113m、排水量3,653トン、マストは4本、57mm砲2門を搭載し、士官候補生90名、水兵300名を乗せ練習航海で世界を廻ります。

撮影された時期ははっきりしませんが場所は江田島湾内で、バックの建物は旧海軍兵学校、現海上自衛隊第一術科学校内のポンド付近です。

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奉納者、奉納時期は不明ですが額内に「文明」のサイン?が見えます。

当地の氏神である能美八幡神社の祭礼で奉納する演目の一つ、「だいば」を舞う勇姿を描いたものです。

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奉納、大正15年8月吉日
「下記の八名は七月十八日夕方 廿日市沖にて難船したる女を見て救助したるものなり」

惣田真一・山尾実人・山尾時松・鍵本正夫
浜田清松・名 不 明・吉田繁人・迫田桊造
と、あります。

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拝殿の隅に米俵が九俵積んであります。

積む気があればもう一俵載せて、十俵とすることもできると思いますが・・・。
な~~~ぜ、九俵な~のかぁ~ ??? ・・・(^-^; です。

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奉納日、奉納者の名はありませんが、おそらくは広島市 藤本正氏の奉納画であろうと思います。

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昭和11年以前の旧拝殿屋根を飾っていたであろう鬼瓦???・・・

と、思ったのですが屋根を見上げると、新しい感じがしますし、おそらくは近年になって屋根と天井が作り変えられているのかも???・・・(*^。^*)です。

と、するとこの鬼瓦は海の向こう、広島市三滝からの贈り物???です。

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屋根を支える寄木丸太が丸見えの、荒々しい天井も迫力があって良いのですが・・・

貴船神社の拝殿は実に落ち着きのある上品な天井です。
花鳥画ではありませんが、結構な銘木が板にされ枡内に張られています。

ぶっとい梁材にも緻密な木目が素敵に跳ね踊っています。

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境内忠魂碑の裏側に御神体の予備として、花崗岩で丁寧に仕上げた石の砲弾が一個隠してあります。

万が一の実戦にも使える?ように、真鍮の弾帯が取り付け可能な溝までもが正確に掘り込まれています。

ドカ~ンと景気よく やってみよぉ~ぉよ♪
死に物狂いの 明るさでぇ~~~えぇ~~♪ ・・・(*^。^*)です。

高祖 貴船神社 1/2

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高祖(こうそ)地区は、東側を三吉と接し、西側を美能、南を是長と接する西能美島北端に位置します。

高祖の守り神でもある「貴船神社」は三吉との境界に近い高祖地区の東端に建ち、境内の目の前を県道36号線が横切ります。

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鳥居の前を東西に走る県道36号線上から見た貴船神社です。

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木々が芽吹く前、4月初旬の貴船神社です。

貴 船 神 社 の 由 来 として、以下は「沖美町の文化財をたずねて」よりの引用・・・m(__)mです。

高祖(こうそ)の海岸に、海上業者の守り神として崇められる貴船(きふね)神社があります。

約四百年前の創建と伝えられていますが、今の県道ができる以前は海べりにあって、三吉(みよし)からは海岸伝いに砂浜を踏んで参詣していました。
社殿の裏からは小川が海に注ぎ、その水は出漁者にとって神水として信じられていましたが、今はその痕跡もありません。

明治の頃は九月五日の祭礼日に、網元が「押廻し」といって大きな船を神社の沖でぐるぐる押し回し、神様の乗船を祈願したと伝えられます。

この神社は、昔は竜宮(能美島志)または竜神社(芸藩通志)と呼ばれていましたが、今日地元の人々からは「貴船社」あるいは「ジュンゴの宮」と称され親しまれています。
ちなみに「ジュンゴ」とは、この地域の古い地名であるとされます。

宝暦十三年(1763年)、大原村 農生 久保利右衛門氏が著した「能美島志」には、「竜宮」は高祖村海岸にあり。
楊梅(ヤマモモ)の木ありて土地の人これを龍燈(不知火)という。
時にその樹上に不知火(蜃気楼による怪火現象?)が現れることあり。
子供らがそのヤマモモの実を食べると瘧(おこり)を患う。と、あります。

本殿奥に御神体として安置されているのは石です。
「昔、津久茂の漁師が高祖の沖合で網漁をしていた時、同じ石が何度も上がってきたので不思議に思い、これを此処に置き崇め奉ったところ、その後は豊漁が続いた」と。

又「或る人がこの御神体を持ち帰ろうとして船まで運んだが、船が全く動けなくなってしまい、慌てて元に返した」等の伝説があります。

現在の社殿は昭和十一年(1936年)ごろ広島市の三滝から移築されたものです。

蛇足となりますが、現在の境内にはヤマモモの木は無く、同じ常緑樹の木としてモッコクが植えられています。
1cm弱の球形の実が着き、秋に固い果皮が裂けて中に赤い実が見えます。
野鳥は好物のようですが、モッコクの実を人が食べた話は聞きません・・・(^^;)です。

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移築されてからでも八十年の歳月が経っていますが、傷んだ様子など見受けられません。

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木鼻を飾る獏の彫刻です。
木鼻には一般に、象(ぞう)・獏(ばく)・獅子(しし)・龍(りゅう)・麒麟(きりん)が彫られることが多いのですが、象と獏はとてもよく似ています。

普通には、象は獏よりも鼻や牙を長く造るのですが、当貴船神社の獏は鼻も牙も結構長く造ってあります。
次には目です。象の目は細く、獏の目は見開きます。
次は耳です。象の耳は団扇のように大きく、獏の耳は尖った狼のような耳です。
次に体毛です。象には体毛は無くすべすべ、獏の体毛は渦を巻いたような突起で表現され、首筋やあご下に沢山の渦が彫られています。

これらいずれも、宮大工さんの好みでアレンジされますので、まあ絶対とはいえませんが・・・(*^。^*)です。

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右側の獏は鼻が短くなっており、雌雄を表すのかな?と思いましたが、どうやら長い年月のうちに鼻先が折れてしまったようです。
ちなみに、左右の像形を阿吽とし、阿は口を開いた像形(あぎょう)に、吽は口を閉じた像形(うんぎょう)とすることもあります。

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正面を飾る虹梁(こうりょう)や、その上に乗る蟇股(かえるまた)などの意匠にも結構綿密な手が加えられていますし、そもそもの全体としてのバランスがとても安定して素敵拝殿となっております。

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拝殿奥、「貴船社」と墨書された社額の下に立ち、「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

古い時代の神社名である竜宮・竜神社から貴船社へと変わったことについてのいきさつは不明であるとされますが、揚げられた社額の奉納は明治十八年十月吉日となっております。

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拝殿の右側です。

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石柱の玉垣に廻りを囲まれ、地域の人々から大切に守られた貴船神社本殿です。

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境内には陸軍大将 鈴木荘六 書による大きな「忠魂碑」が建ちます。

忠魂碑背面には
明治27、8年戦役
明治28年7月29日病死
陸軍歩兵一等卒勲八等 三浦勉吉
明治33、4年事変
仝33年10月9日仝
仝上上等兵 仝水戸芳松
仝34年7月16日仝
仝砲兵一等卒 仝岡畑桊一
明治37、8年戦役
仝37年9月2日戦死
仝歩兵上等兵 仝稲見千吉
仝37年10月11日仝
仝上一等卒 仝吉田米助
明治37年11月18日病死
陸軍工兵上等兵勲八等小田杢太郎
仝38年3月1日戦死
仝歩兵仝 仝廣永保太郎
仝?日 仝
仝?上 仝山中?太郎
仝年3月10日仝
仝砲兵助卒 仝山本栄太郎
仝年3月14日仝
仝歩兵上等兵 仝大越福松
仝39年2月11日病死
仝上二等卒 仝後河内梅吉
大正8、9年戦没
大正9年6月4日戦死
仝上上等兵功七級仝河野喜平

以上、墨入れがあり、判読が可能な文字のみの列記です。
誤字、脱字他あれば申し訳ありません・・・m(__)mです。

忠魂碑の建立日は昭和7年3月、その廻りには後の事変、大戦、原爆で死没された、さらに多くの方々の名を刻んだ石板が立て掛けられています。

ちなみに、陸軍大将 鈴木荘六氏は1865年新潟三条市に生まれ、1919年(大正8年) 第五師団長として広島に赴任しました。
1930年退役、1940年76歳で死去されました。

退任後は学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残し、知己の私的世話や郷土の三条、新潟県の公共事業の推進など寸暇を割いて尽力したとされます。
以上、ウィキペディアよりのコピペ・・・です。

美能 古地図(芸藩通志)

高祖・美能古地図完成全図 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

高祖・美能古地図完成全図・美能 
美能地区の部分を拡大掲示しました。

現在の鶴原山(?根)、岸根鼻(カンヌキ?)、大奈佐美島(???山)、絵の島(?)が読み取り不能で表記できないのが残念・・・(^^;)です。

当時、鶴原山と岸根鼻はまだ繋がっていないようですし、高祖と美能間の道路はまだ地図に描くほどのものでは無かったようです。

ちなみに、能美島志(1763年)によれば現美能を箕尾(みのお)とし、その一町ばかり沖に浮かぶ大岩を矢倉石または冠石と云います。
渚干(なさび)島は箕尾の沖十町にあり、小渚干島はさらに八町ばかり沖にあって、大小の小山が寄り添う様子は雌雄のごとしと記されております。(以上、要約。鶴原山、岸根鼻、中ノ瀬の記載はありません。)

美能地区は現在では、江田島市沖美町 大字 美能となりましたが、江戸時代において当美能地区は高祖村に組み入れられていました。

高祖・美能古地図完成全図・高祖 
高祖(こうそ)村の東側部分を拡大掲示しました。

竜神社は現貴船神社と呼ばれ、荒神社、シャカ、西方寺は現在の釈迦堂や光照寺に引き継がれています。

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「芸藩通志」コピペの元画像です。

S37美能高解像度 
昭和37年7月30日に撮影された美能付近の航空写真です。

鶴原山堡塁へと登る軍用道路が再整備された直後の様子で白くくっきりと写っています。
さらに、頂上には航空機誘導電波塔が設置された直後の様子が見えます。

ちなみに、「広島西飛行場」もと「広島空港」が供用開始となったのは昭和36年(1961年)9月15日です。

岸根鼻には海水浴客を運んできた客船数隻が目刺し着けされており、ビーチには沢山の小型船も見えます。

東京オリンピックを2年後に控え、だれもかれも、みんなが一番活気づいていた時期・・・(*^。^*)です。

美能 いいとこ撮り 2/2

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鶴原山堡塁(鶴原山山頂)へと登る軍用道路は山の北側、岸根鼻砲台へと向かう途中を左折しますが、鶴原山の集落側からも山頂へと登れる農作業用の小道があります。

その小道から見た美能集落の東側方向です。
遠く高祖に近い位置に高さ110mのラジオ波用電波塔が建ち、その右側手前には付近の家々を圧倒して、ひと際大きく建つ沖美ふれあいセンターが見えます。

今は多くの家々が建ちますが、眼下に広がる平地は江戸時代中期から明治の初期には塩田として利用されていました。

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美能集落の南側、外海の方向です。

画面右に大きな白い土蔵が見えます。
江戸時代中期に三原より当地に移住し塩田を開発、その経営を担った河野家(播磨屋さん)です。

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河野家の母屋(二重屋根)と土蔵です。

草葺だった屋根は瓦に拭き替えられましたが、その他は江戸時代のもの(推定250年)であると云われます。

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鶴原山の麓に建つ、河野家歴代のお墓です。

河野家のそもそもは伊予国(愛媛県)にあるとされ、天正13年(1585年)豊臣秀吉に敗れ、作州津山に逃れたのち竹原に移り、さらに江戸時代中期に当地美能(美濃)へと移住、塩田開発を手がけたと云います。

一段と大きく建ち「開郷院観月了喜居士」と深く刻まれたお墓が、美能に移って初代とされる河野通安氏のもので、没年は享保19年(1734年)5月28日です。

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押し寄せる台風の荒波を一手に背負い防いだ、昔の防波堤が今も残ります。
堤防兼通路となるその先に美能農協、美能漁協の建物が見えます。

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集落内の細い路地に面して森川衣料品店さんです。
お隣も、そのまた先のお隣も、もとはお店?だったようですが・・・。

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後河内ストアーさんです。

酒・たばこ・くすり・一般食品・ヤマザキパン・野菜の種・小柴クリーニング・資生堂・江田島自動車学校入校取次所・飲酒運転追放・警察官回寄所・秋の火災予防・・・すべてお任せ下さい・・・(*^。^*)です。

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瓦屋根の上に漁に使うロープが干してあます。

しかも、超芸術的なセンスでもって・・・(*^。^*)スッゲー~~~。

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「終りの日に 人は神の 前に立つ」人類にもいよいよ審判のときが・・・

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「江田島市消防団 第3方面隊 三高分団 美能消防屯所」の脇に、弾道ミサイルの飛来を知らせる高性能スピーカー4基が東西南北を向き、そしてその下に半鐘が一つ・・・

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燃えるような色合いをした、ランタナが庭を大きく占拠して咲き誇ります。

ランタナのまたの名を七変化、美能の町がまた華々しく大変化するときが・・・いつか・・・(*^。^*)です。

美能 いいとこ撮り 1/2

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江田島市の北西端に位置する美能地区は西能美島先端の亀原から砂州で繋がる鶴原山、さらに岸根鼻、瀬戸を隔て大奈佐美島、絵の島へと、島が連なる独特の多島美地形です。

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画像左より、鶴原山、砂州を挟んで岸根鼻、瀬戸の向こうに大奈佐美島が大きく広がり、さらに向こうに小さく絵の島がみえます。

左上の大きな島が宮島さんで、その先に霞むのは本土の廿日市から五日市方面となります。

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鶴原山と岸根鼻、水面下は当然花崗岩の岩盤で繋がっていますが、目に見える地形はまさに砂州によって繋がった理想的な砂浜です。

この砂浜を「がんねムーンビーチ」と名付け海水浴客の呼び込みを試みてはいますが、昭和の高度成長期にあったような日に数百人の人々が集まることなどは、遠いとおい昔の思い出話となりました。
今は数家族がてんでにプライベートビーチを気取って、のんびりと一日を過ごせる超贅沢な癒しの空間となっています。

そういえばいつの頃だったか、この浜でハンドボールくらいの大きさのヤシの実を見つけたことがあります。

「名も知らぬ遠き島より♪ 流れ寄る椰子の実一つ♪  ふるさとの岸を離れて♪・・・」と、一瞬メロディーがよぎりましたが・・・

たぶん誰かが持ってきて捨てた?か、スーパーの売れ残りがゴミステーションから雨で川に流れ出たりしたものか??・・・

ヤシの実は誰に拾われるでもなく、ただ波打ち際をゴロゴロと・・・(^^;)でした。

ちなみに、上の画像の左でヤシの葉に見えるのはフェニックス(カナリーヤシ)と云われる品種の植栽品で、画像右のヤシの木に見えるのは、同じく植栽されたワシントンヤシ(オキナヤシ)です。
共に果実は小さく、ハンドボールのような大きなヤシの実には育ちません。

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美能外海漁港の防波堤から是長へと伸びる海岸線です。
途中、各入り江ごとに小さな砂浜が点在する自然美豊かな海岸です。

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亀原を流れ下る小川の川岸に、防空壕にも見える二つの洞くつがあります。

ただの防空壕にしては付近に人家もないし、入り口廻りの崖にわざわざ石垣を積み上げる必要性もないだろうし・・・???。

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軍事用施設にしては奥行きが感じられないし、煉瓦の積み方も雑で、強度もいまいちな感じが?・・・。

町史ではこの付近?に煉瓦工場がつくられたり?、戦後には大規模なタンカル工場(炭酸カルシュウムの精製)が操業されていたとされますので、それら工場施設の一部なのかも??? ・・・です。

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現在、RCC中国放送局の電波塔が建っている近くの海岸に「石生みの崖」があります。

ちなみに、静岡県牧之原市の大興寺(だいこうじ)裏山にも同じように丸い石を産する崖があります。
大興寺は、今から600年前に大徹禅師によって開山されたと云われ、その大徹禅師が、90余歳で亡くなる前に「わしの身がわりとして裏山より石が生まれるであろう」と言い残して大往生を遂げました。
するとその直後、予言どおりに、裏山の崖からまゆ型の石が生まれ落ちてきました。
弟子たちはその石を建て大徹禅師の墓石としました。
以来、「無縫石」と呼ばれるまゆ型の石は、大興寺代々の住職が往生するたびに必ず生まれ落ちるといいます。

当地の「石生みの崖」には何の伝説も残ってはいませんが、台風や季節風による荒波に削られ毎年数個の丸い石が、誰に見られることもなくひそかに産み落とされています。

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「白砂青松」、最近とりわけて海岸が白く見えるのは、花崗岩から風化した白砂ばかりではなく、波に砕かれたホタテ貝やカキ殻の性でもあります。

魚港の荷揚げ場には大量のホタテ貝の殻が積み上げられ白く輝いています。
これら沢山のホタテ貝殻はカキ養殖の必需品(種付け材)として、遠く北海道や東北から運ばれてきます。

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漁船の船橋(操舵室)部分を真似て造られた船舶販売修理店の看板?社長室??物置???です。

この看板?が造られた目的や経緯は不明ですが、前面に描かれている2人はヤンボー、マーボーです。
夕方の天気予報で流れていた、「ぼくの名前はヤン坊 ぼくの名前はマー坊 二人あわせてヤンマーだ♪」の・・・(*^。^*)です。

最近では聞かなくなりましたが、実は1959年6月1日から2014年3月31日(広島は2013年3月)まで、55年間も聞いた曲です。
たぶん、歌詞もメロディーも、・・・忘れることは無いでしょう。

ちなみにこの曲の作詞は能勢英男氏で、作曲は米山正夫氏です。

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瀬戸の崖上から見た、奈佐美瀬戸を渡る白鳥と碧い海・・・です。

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奈佐美瀬戸の最狭部に近づく護衛艦「いせ」と、その後方には韓国籍?のタンカー 「FORTUNE JIWON」です。

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海を隔てて僅か10km先には喧騒の広島市街地が・・・。

こちら江田島側、周囲をぐるり360度をくまなく見まわしても、人っ子一人見えません・・・(^^;)です。

美能 広島湾要塞(三高山堡塁 2/2)

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砲台場のある稜線を北方向へと下る石段です。

軍事施設であるにもかかわらず、しかもわずか2年ばかりの突貫工事でこんなにも美的なセンスで石段を造ることのできる明治の建築技術に驚かされます。

って、驚かされたのは私だけではないようで、「土木學會選奨土木遺産 2009 旧三高山砲台」って、青銅製の分厚いプレートが埋め込まれた碑が建っていました・・・(*^。^*)です。

ちなみに選奨理由は、現存する最大級の呉(広島湾)要塞の砲台施設。
砲台山森林公園として整備されており、保存状態も良好で学習の場となっている。
・・・と。

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砲台場から石段を下った位置に、赤煉瓦と石材、それをコンクリートで補強した建物(地下兵舎)があります。

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地下兵舎の屋根部分には分厚く土塁が載せられており、出入口は進攻する敵戦闘艦からは見えない反対方向を向いています。

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地下兵舎からさらに進むと調理場やトイレ跡と思える生活空間が設けられています。

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三高山堡塁の乗る稜線の最も北の部分に花崗岩石材を素敵に組み合わせて作った火薬庫と称される建物があります。

一時は荒れ果てた建物だったのでしょうが、補修工事がなされており、おそらくは建設当時よりもさらに立派?に復元されています。

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建設当時は名称どうり「火薬庫」として造られた建物ですが、近くに炊事場施設があることなどから判断して、広島要塞廃止以降は倉庫あるいは兵員隊舎として使われたのでは?と思われます。

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火薬庫は万が一爆発しても被害が最小となるよう屋根はわざと簡素に造られるのだと聞きます。

平成の復元工事は立派すぎた?かも??です???。

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季節は春、4月初旬・・・です。

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弾薬庫のある敷地は他の施設からはもっとも離れた北の外れですので、見晴らしも最高。

眼下に鶴原山堡塁、岸根砲台、瀬戸を隔て大奈佐美島砲台その先に絵の島と続きます。

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目を少し右に向けると三高港とその街並み、沖に浮かぶ似島の安芸小富士(278m)が目線より下に見えます。

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稜線を南(砲台山山頂)の方向に登るとそこには南部砲台跡が残ります。

先の二次大戦において、三高山には米軍航空機の夜間攻撃に対処すべく150cm探照灯装置一式や、空中聴測装置が配備されていたと云います。

根拠としては弱いのですが、より高地であること、日中の格納場所が確保できること、南部トイレの構造が新しい?こと・・・などから、おそらくは此方の南部砲台地域に置かれたのでは???と想像します。

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右手前が小黒神島、左沖に阿多田島がシルエットとなります。

阿多田島までの距離は約10km、「28糎榴弾砲」がいくら頑張っても砲弾の届く距離は8km・・・。

ちなみに旅順攻囲戦(明治37年8月19日から翌38年1月1日)において、旅順要塞に籠城したロシア軍兵士は6万名で、戦死者は1万6千名、戦傷者は3万名です。

この旅順要塞の攻略に要した日本軍兵士の総数は5万1千名以上で、戦死者は1万5千400名、戦傷者は4万4千名であったと云われます。

  君死にたまふことなかれ
                                    合 掌 ・・・ m(__)m ・・・です。

美能 広島湾要塞(三高山堡塁 1/2) 

s-広島湾要塞 
「三高山堡塁」は砲台山(401.8m)から北へと伸びる稜線上にあり、これは是長地区と三吉地区の境界線上ともなります。

ただ、三高山堡塁への軍用道路(現砲台山林道)は美能地区亀原から山上へと切り開かれていますので、当堡塁は美能地区の項において説明させて頂きます・・・m(__)mです。

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画像は三高山堡塁に掲示された案内板です。

三高山堡塁は呉軍港を守る要塞(のち広島湾要塞に昇格)の一翼として、明治32(1899年)3月に着工し、明治34年3月に完成した、大規模(総面積6万坪)で極めて重要な堡塁です。

明治36年6月現在での三高山堡塁配備の大砲は「9珊加農砲」が4門・「28糎榴弾砲」が6門・「9珊迫撃砲」が4門ありました。

ちなみに、糎(センチ)・珊(サンチ)は同じ単位です。
明治維新の日本軍はフランス式軍隊を模範とし、フランス語教育を受けたことからその発音を真似てサンチと洒落?たようです。

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大きな円形の穴には旋回式28糎榴弾砲が設置されていました。
廻りを囲む花崗岩擁壁に開けられた四角い空間は、戦闘中に弾丸や装薬を一時保管するためのものです。

また、観測指揮所や隣の砲台からの連絡には伝声管を使うために、パイプとなる円形の穴が開けれれています。

ちなみに、日本で電話が開通したのは、グラハム・ベルが電話を発明してから14年後の明治23年(1890年)で、まずは東京-横浜で営業が開始され、当初の加入者数は東京155回線、横浜42回線だったそうです。

一般に普及し始めたのは日露戦争の後からで、明治43年(1910年)全国での加入者が10万を突破しました。
・・・以上は「電話WIKI」よりのコピペ・・・m(__)mです。

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まるで公園、実際沖美町政の時代には「三高山堡塁跡」としてではなく、「創造の森森林公園(三高山砲台跡)」として予算を計上し整備がなされました。

ちなみに江田島市となって後の観光マップでは「三高山(砲台跡)」あるいは「砲台山森林公園」と表記されています。

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擁壁の土塁上から見た28糎榴弾砲設置跡です。

一つの砲台場に二門が並べて置かれていました。

s-榴弾砲[1] 
砲台場には上記写真とともに以下の説明文が掲示されています。

この看板は、28cm榴弾砲をイメージした写真です。
特徴は、地形や建物などに遮蔽されて直接狙えない目標に対し、遮蔽物の上を跳び越す山なりの弾道で射撃する火砲です。
湾曲した弾道から「曲射砲」とも呼ばれていました。

ちなみにこの写真の元は「日本の要塞(学研)」にあるようです?。

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大正15年(1926年)8月1日、広島湾要塞が廃止されたのち、三高山から轟音が響くことは無くなりましたが、代りに米軍のジェット戦闘機2機が山々に大轟音をこだまします。

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戦闘中の弾火薬一時保管庫???。

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砲台場から石段を昇った上に観測所跡がありました。

樹々に覆われていて遠くを見晴らすことはできませんが、海風がサワサワと葉音を立てて通り過ぎていきます。

美能 広島湾要塞(鶴原山堡塁)

s-広島湾要塞 
明治30年(1897年)5月に建設工事が始まった「鶴原山堡塁」は同年3月に着工した岸根鼻砲台に次ぐもので、広島湾要塞の要ともいえる奈佐美瀬戸を標高107mの山上から睨みます。

ちなみに、広島湾要塞は大正15年に廃止となり、任務を芸予要塞、豊予要塞、下関要塞に移譲しましたが、第二次大戦終結までに造られた全国の主な要塞には以下のものがあります。

津軽要塞•東京湾要塞•父島要塞•舞鶴要塞•由良要塞•鳴門要塞•「広島湾要塞」•芸予要塞•豊予要塞•下関要塞•壱岐要塞•対馬要塞•長崎要塞•佐世保要塞•内之浦臨時要塞•奄美大島要塞、このほかにも臨時要塞となったものが数ヶ所、さらに朝鮮半島や台湾、中国などにも設置されていました。

航空機の重要性が低かった当時の要塞建設においては、敵艦船への攻撃を主目的とする海岸砲台を単に「砲台」と指定しました。

さらに砲台としての機能を有しながら、短期間なら単独でも要塞となりえる装備機能を持ち、個別に点在する海岸砲台の背面を支援する多数の戦闘員を有して、陸上戦闘兼用ともなりえる砲台を「保塁」として区別しました。

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鶴原山堡塁へは岸根鼻(がんねムーンビーチ)へと向かう道を途中で左折します。

登り口はご覧のとおり・・・。
かってはアスファルト舗装がされており、狭いながらも普通車で登れた道だったのですが・・・(^^;)です。

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明治期に造られた砲台や堡塁は概ね規格統一がされているようで、立地の地形状況や、使用材料となる煉瓦、石、コンクリートの量比が地域によりばらつく程度で、施設の部分部分の画像だとどこの砲台、堡塁なのかまったく見分けがつきません。

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他地域の砲台を見に行ったことはありませんが、画像情報で見る限りは江田島近辺の砲台には白い花崗岩が多用されており、赤い煉瓦ととても良いバランスでもって組み立てられているように感じます。

もちろん、ひいき目に見ての話・・・(*^。^*)です。

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砲台や堡塁は当然ながら敵戦闘艦からの大口径砲による攻撃が想定されており、施設の多くは地下や半地下に潜り込んでいます。

敵はもとより、味方でさえ外部からは見え難い構造となっています。

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もっとも、ここまで徹底して枯草や木々でカモフラージュする必要もないと思うのですが・・・(*^。^*)です。

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戦闘中唯一、目となり耳となる見張り観測所?の跡です。

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広島西飛行場が使用されていた当時は、同敷地内に航空機の離着陸支援をする電波誘導塔が建っていたそうです。

ちなみに明治36年6月現在の鶴原山堡塁には「24糎加農砲」が6門、「9糎加農砲」2門が装備されていました。

28糎榴弾砲 
上記画像はアジア歴史資料センターよりのコピペで、「王家甸の南西くぼ地にある28センチ榴弾砲の試射(防衛省防衛研究所所蔵)」・・・m(__)mです。

日露戦争の旅順攻略作戦で膠着状態にあった状況を打破する目的で東京湾要塞(箱崎砲台8門・米ケ浜6門)及び芸予要塞(大久野島4門)に配備してあった「28糎榴弾砲」を急遽旅順へ移送しました。
この28糎榴弾砲の威力は旅順攻略作戦に大きく貢献、明治38年1月1日、難攻不落だったロシア軍の旅順要塞は陥落、司令官(ステッセル中将)は白旗を揚げました。

画像は旅順要塞に近い「王家甸の南西くぼ地」で試射を行っている様子で、撮影の日付は不明ですが28糎榴弾砲が内地より旅順に送られた直後(9月14日、6門が旅順に到着)の、9月下旬頃だろうと???。

28 糎 榴 弾 砲 諸 元
口径 : 280mm       初速 : 142~314m/sec
全長 : 2,863m       最大射程 : 7,800m
重量 : 10,758kg      高低射界 : -10~+68度
堅鉄弾 : 217kg       方向射界 : 360度
であったといわれます。

鶴原山堡塁に配備されていた「24糎加農砲」の緒元は不明ですが、弾丸重量の217kgが半減する以外は概ね同一だろうと???・・・(^^;)です。

ちなみに、明治37年(1904年)2月8日に開戦となった日露戦争は、明治38年9月5日のポーツマス条約により終結しました。

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この美能地区には岸根砲台、鶴原山堡塁、三高山堡塁を維持管理するため196名(明治36年6月)の守備隊員が駐屯しており、そのための兵舎や物資保管倉庫は三高山堡塁への軍用道路登り口でもある亀原の丘を削り、その下に広がる入り江や湿地を埋め立てて造られました。

現在は江田島市沖美ふれあいセンター(美能小学校跡地)の建つ広大な干拓造成地です。
この時、江戸時代に塩田の堤を補強するためにつくられた美能松原はさらに延長して植栽され、平成の初期まではその美しい松並木が維持されていました。

敷地内に当時を語る建物等の痕跡はありませんが、唯一、八角形に掘られた大きな井戸が今に残っています。

もともとの住民でさえ飲料水には多いに不自由する美能地区にあって、守備隊員196名への生活用水を確保するのは大変なことです。
この井戸はよほど大切なものだったのでしょう。
花崗岩を正確に切って隙間なく並べた八角井戸は、使われなくなった今も柵で囲い大切に保護されています。

ちなみに、三高山堡塁用に造られた軍用道路(現砲台山林道)の脇に建つ市営住宅付近には、かって弾火薬庫がいくつも並んでいたと云います。

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鶴原山の航空機用電波塔は先年撤去されましたが、その鶴原山の東方、亀原に新たな巨大鉄塔(110m)が建ちました。

これは、2002年10月1日に廿日市市住吉から移転した「中国放送沖美ラジオ送信所」で、中国放送(RCCラジオ)所有の中波放送送信所です。

ちなみに、周波数 1350KHz・空中線電力20KW・放送対象地域は広島県で、 放送区域内世帯数は1,313,440世帯です。

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美能外海漁港からみた鶴原山です。

鶴原山堡塁からの砲弾発射訓練や試験発射は当然何回も行われたと思いますが、きっとぶったまげ~のド迫力だったことでしょう。
今だったら、弁当をもって見学に行きます・・・(*^。^*) タ~マ屋~~~です。

美能 広島湾要塞(岸根鼻砲台)

s-広島湾要塞 
広島湾要塞(当初の名称は呉要塞)で最初に砲台工事が着手されたのは明治30年3月の大奈佐美島砲台(大那沙美島砲台)ですが、次に鶴原山堡塁、鷹ノ巣低砲台、翌31年(1898年)6月には当「岸根鼻砲台」の工事が開始されています。

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岸根鼻砲台は鶴原山堡塁とは砂州で繋がった小島で、大奈佐美島とは瀬戸(約1,000m)を挟んだ対岸となります。

鶴原山との間にある砂州は戦後民用として開放されるや、海水浴場として大いににぎわい、多い日には広島宇品より数百人を乗せた連絡船が3隻4隻と列をなして着岸しましたが、海水浴ブーム?の去った昨今では広い渚に数家族がまばらに憩う、静かなプライベート風ビーチへと進化?しました・・・(*^。^*)です。

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標高49mの小島は人為的にひな壇状に削られており、煉瓦や花崗岩の切り石を巧みに利用して大砲の設置台や、見張り観測施設、弾薬庫、兵員待機所などが作られています。

画像の円形部分、雑木が繁茂し全体がよく見えませんが、おそらくは27糎砲台の設置跡だと思われます。
ちなみに岸根鼻砲台には「27糎加農砲」4門と「斯加式9糎速射加農砲」4門が設置されていました。

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画像は平成27年(2015年)3月の撮影です。

この岸根鼻砲台跡は旧沖美町時代、バブル期の余力でもって観光開発を推進すべく平成5、6、7年ごろ?沖美町が主体となって整備されたのですが、その後の維持管理予算が確保できず平成10年(1998年)頃にはすでに放置されていたようです。

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兵員待機所?・・・です。

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石段脇には手すりが設置されていますが、分厚く丈夫そうな鉄柱もすでに数本が錆びて倒れています。

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一時待避所?です。

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見張り、観測所?・・・です。

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紺碧の奈佐美瀬戸を挟んで大奈佐美島その背後に霞むのは廿日市から宇品方面です。

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観測所からの下り階段です。

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兵員待機所?です。

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登るときには気づきませんでしたが、茂みの奥になにやら・・・。

「岸根砲台記念館」と読める、鋳物鉄プレートが取り付けられた地下壕(弾薬庫?)が見えます。

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記念館の半開きとなったドアーの向こうからはかび臭い臭気が漂い、展示用パネルの骨組みだけが何故か今も当時そのままに直立します。

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美能内海漁港の防波堤からみた岸根鼻です。

遠目にはこの小さな岬の上に、巨大な大砲が何門も乗っかっていたなんてまったく想像もできません。

美能 広島湾要塞(大奈佐美島砲台)

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人の本性はカマキリさんと同じです。

これは生物として形作られた最初の遺伝子情報に組み込まれおり、以来そのままに引き継がれている本性です。
攻撃があれば守りを図る、余力があれば反撃に出る・・・。

人類誕生のはるか以前から、生きとし生けるものが営々飽きることなく繰り返す生物の本能本性です。

ただ人間には仮想敵を予測しそれに対応する方策を予め準備できる能力が備わっています。
出たとこ勝負がよろしいか、それとも・・・です。

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「広島湾要塞」は直接には日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)に備えたものとなりましたが、計画自体は明治新政府の富国強兵に始まり、具体的には1887年(明治20年)1月には、早瀬瀬戸・那沙美瀬戸の防禦計画が出されていました。

以下、ウイキペディアよりのコピペ・・・m(__)mです。

1897年(明治30年)3月 大那沙美島砲台着工・5月 鶴原山砲台着工・8月 鷹ノ巣低砲台着工

1898年6月 岸根砲台着工・7月 鷹ノ巣高砲台着工・10月 室浜砲台着工

1899年3月 三高山堡塁着工・室浜砲台竣工・5月 大君砲台着工・10月 早瀬第一堡塁・早瀬第二堡塁着工・11月16日 呉要塞砲兵連隊本部並びに第二大隊は、広島市段原村(現在の南区比治山本町)で事務を開始

1900年3月 大那沙美島砲台鶴原山砲台・鷹ノ巣低砲台・鷹ノ巣高砲台竣工・4月 呉要塞司令部設置・6月11日 呉要塞司令部が広島市段原村に開庁・6月 大君砲台竣工・8月 早瀬第二堡塁竣工・9月 休石砲台着工・岸根砲台竣工・12月 高烏堡塁着工

1901年3月 休石砲台・早瀬第一堡塁・三高山堡塁竣工

1902年4月 大空山堡塁着工 ・6月 高烏堡塁竣工


1903年1月15日 要塞司令部は移築工事のため広島市の野戦砲兵第5連隊営舎に移転・3月30日 要塞司令部は広島市段原村の新庁舎に移転・5月1日 広島湾要塞に名称変更・12月 大空山堡塁竣工

1926年(大正15年)8月1日 廃止

ちなみに、これら要衝は古来より防御や見張りの拠点として海賊が砦を築いたり、ペリーの来航以前にも広島藩による砲台の設置場所とされたり、先の二次大戦においても多くが軍事施設となって重用されました。

s-奈佐美砲台敷地図 
カマキリの投影図のようにも見える大奈佐美島(大那沙美島)砲台敷地図です。

大正15年に砲台としての役目は終わりましたが、その後も軍用地として残されており、一部は戦艦長門や、重巡古鷹などの予備品置き場とされていたようです。

s-奈佐美砲台・水雷衛所敷地図 
昭和十年ころの軍用地図です。

島の右側三分の一が水雷衛所、残りが大那沙美島砲台敷地として分けられています。
水雷衛所の役目は、海底に仕掛けた爆雷を敵艦船の通過に合わせて大爆発させることですが、先の二次大戦においてどのような役目を負ったかは不明です。

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大戦末期(昭和19年5月2日)大奈佐美島北部海岸にあった、「大那沙美兵器格納場之圖」です。
場内には「長門砲塔付属品箱物」「陸奥砲塔付属品箱物」「古鷹砲塔付属箱物」などが保管されていた様子です。

ちなみに戦後はGHQにより集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。

上記図面は「アジア歴史資料センター」よりのコピペ・・・m(__)mです。

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昭和40年の大奈佐美島です。
島には農地の痕跡が見えますが、まだ緑豊かな瀬戸の島でした。

戦後払い下げられた国有地には、食料増産のための開拓団が入島して田畑を耕したと云いますが、雨水のみに頼る農業経営は過酷を極め、昭和45年ごろ土石採取業者に転売されました。

高度成長に伴い広大な工業用地を確保すべく、広島宇品近辺の浅海埋め立て事業が盛んとなり、大奈佐美島はその捨て石となって島は大きく蚕食されました。

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昭和50年の大奈佐美島砲台付近です。
赤〇内に砲台跡らしき影がうっすらと見えます。
大規模な土石採取も砲台跡までは及ばなかったようです。

船を手配しなければ入り込めない離島ですので、人為的な破壊は少なかっただろうと想像しますが、鉄材などはすべてはぎ取られており、また小舟で横付けしても砲台跡までの道は藪に塞がれ容易には近づけない状態であると聞きます。

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美能内海魚港の左が鶴原山、その右に砂州で繋がった小さな岸根鼻、奈佐美瀬戸で隔てられた先に大奈佐美島です。

ちなみに、「広島湾要塞備附砲兵器具不足品調査表(明治36年6月調)」によれば、大那沙美砲台の装備砲は「24加砲」が4門、岸根鼻砲台は「27加砲」が4門・「斯加式9速加砲」4門、鶴原山堡塁には「24加砲」6門・「9珊加砲」2門、三高山堡塁は「9珊加砲」4門・「28榴弾砲」6門・「9珊迫砲」4門がありました。

さらに大那沙美の守備隊97名、馬2匹、五十石積和船5隻、三十人乗り小舟1隻を運用、三高山附近(岸根鼻・鶴原山・三高山)の守備隊は196名で、馬2匹、五十石積和船12隻、三十人乗り小舟2隻を運用していました。

また訓練による緊急配備では民用汽船の徴用手配が出来ず、手漕ぎ船での配備であったために5時間のロスタイムが生じた。
物資、人員の迅速な移動を得るために、美能~中村(中町)間の道路整備を急ぐ必要がある。などなど・・・(*^。^*)です。

美能 美能外海漁港

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美能集落の南にあるのが「美能外海漁港」です。

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砲台山林道の中腹から見た美能集落と外海漁港です。

外海漁港は冬の北風には強いのですが、台風による南からの風波はまとも影響します。

今に見る防波堤が完成したのは平成14、5年の頃ですが、その直後の平成16年(2004年)9月に発生した台風18号の記録的な破壊力により防波堤先端付近の巨大なコンクリートブロックが根こそぎ倒壊、あらためて台風の恐ろしさを思い知らされることとなりました。
(翌年修復され、より堅牢な防波堤とされました。)

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美能漁業協同組合です。

玄関脇に、代理業務のご案内として、沖美町収納代理金融機関・中国電力電気料金収納事務取扱店・日本電信電話公社収入金収納事務取扱店・日本放送協会送受信料収納事務取扱店・水道料金収納事務取扱店と書き出されています。

美能農業共同組合や簡易郵便局が業務休止となった今、頼れるのは美能漁業協同組合のみとなっています・・・(*^。^*)です。

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港の背後には小径を挟んで、美能漁業協同組合と美能農業協同組合(現在休業中?)の建物が並びます。

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元は長大な砂浜だったところですが、外海漁港を作るにあたり大きく埋め立てて荷揚げ場兼作業場ともなる大広場をつくり、その一角に漁協(JF)の燃料給油ステーション(兼ガソリンスタンド)も作られました。

さすがにJFの給油ステーションです。
船に給油するために岸壁まで燃料パイプを延長し、船から見える位置に燃料給油量の電光表示盤が取り付けてあります。

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さらには給油ホースが浮き桟橋まで延長されており、カード式決済が可能なセルフ給油ができるようになっています。

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昭和57年7月15日まで運行されていた高速連絡艇、「沖・是長・美能・三高・大須・似島・宇品」航路の美能桟橋待合所です。

内部はまだ綺麗で待合所として使えなくもないのですが、今現在は回収した新聞紙などリサイクル品の一時保管庫となっていました。

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在りし日の、沖・宇品航路(畑港沖)を疾走する高速連絡艇「千鳥」です。

「第一千鳥」の要目です。
進水 昭和47年3月
トン数 27.03T
馬力 282PS
定員 34人
船体 鋼製・軽合金
船価 2,120万円
建造 三保造船所
昭和55年1月に日商岩井(株)に売却・・・です。

そもそも明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が鋼鉄製62トンの蒸気船「海勝丸」を運行したのが当地近代定期航路の始まりであるとされますが、以後昭和57年の沖・宇品航路廃止までにはいつの時代にも様々な問題が多発、地域住民の誰にとっても有効となる交通の便を計るのは今も昔も一筋縄ではいかぬようです。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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港の最奥に、電機モータ巻き上げ式のスベリが設置してあります。
漁船の船底掃除(カキ落とし)や船底用塗料の塗り替え、推進装置や舵の点検に使用されます。

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港内の様子です。

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牡蠣筏も余裕で係留できる大きな港です。

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荷揚げ岸壁のほぼ中央部に魚魂碑が建てられています。

衆議院議員 灘尾弘吉 書

大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり。
我等はこの生命の上に生活を築き、今日の繁栄をみる。
願はくば魚介の霊よ安らかに。
ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す。
昭和五十六年三月吉日
美能漁業協同組合
組合長理事 三浦裕直

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昭和50年1月の美能外海漁港です。

連絡船着岸岸壁となる、スベリ傾斜のある防波堤がみえます。

美能 美能内海漁港

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国土地理院よりコピペした昭和37年7月の美能地区中心部です。

画面上部が美能内海漁港で、下部が美能外海漁港となります。
港湾施設はとても貧弱で、小舟の多くは当時もまだ砂浜に引き上げていました。

内海には江戸時代に塩田の防波堤補強用に植えられた松並木が続いており、白砂青松、まさに童謡に歌う歌詞そのまんまです。

♪ 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ ♪
♪ 干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ・・・(*^。^*)です。

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胡子神社の脇に「波止修築之碑」が建ちます。
裏面は読み取り不能で修築時期は不明ですが、おそらくは昭和42、3年頃だろうと思います。

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その時に増設された防波堤兼荷揚げ用岸壁です。
正確に切りそろえた花崗岩が隙間なく積み上げられています。

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近年の漁港は浮き桟橋全盛、多くの船が便利な浮き桟橋に付けられていますが、丈夫な浮力材が無い時代、小舟は砂浜に引き上げられ、大型船は沖合いでブイ係留または錨を落として停泊しました。

積み荷の搭載や陸揚げの時だけ岸壁に付けるのですが、潮の干満差が4mもある当地では斜めに勾配をつけた波止、あるいは雁木(がんぎ)と呼ばれる階段状の岸壁が利用されました。

この港が改築された昭和40年代は、まだ雁木が普通に使われていたのでしょう。

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画像は昭和50年1月です。

美能松原はまだ青々として元気いっぱいに枝を張り出しています。

それまではてんでに作業場を設けていた牡蠣生産者さんを集めた、カキ打作業団地も完成しています。

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現在の美能松原です。

百数十本はあったといわれる松並木は皆無となり、代わりとなる木々が植栽されています。
陶板にプリントした「美能松原公園」の文字が、かっての情景を漂わすのみです。

碧い海に白い砂浜、その浜に添うように緑の松原が続く、総数百数十本もの大きな松の木のある景色は実に素晴らしく島の人々は勿論、沖を通る船の人達にもよく知られていた。
江戸時代の中頃、河野氏が移り住んで塩田を開拓し、潮止めの堤を築き堤の強化を計って松の木を植えたのが、この松原の松であった。
その松は百四、五十年も過ぎて巨木となり、堤を守ると同時に防風林として、住民の家屋を守りまた、夏は涼風を呼ぶ憩いの場として人々に愛され親しまれて来た。
特に、戦前海水浴場として賑わい栄えたこの浜は、戦後時の移り変わりと共に、大きな漁港となり、松は酸性雨と平成三年の台風十九号による風と塩の害を受け更に松食い虫で残念ながら終に一本も残らず姿を消し、唯松原の名のみ残ることになった。
これを惜しみ昔日を偲んで、この所に若木を植えて公園を造り、松原公園と名付けて後世に伝えんとするものである。

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陶板にプリントされた、県道36号線に沿う松並木です。
撮影は昭和60年頃?で、海岸の側から南の集落方向を写したものです。

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砲台山林道中腹から見た現在の美能内海漁港です。

画像中央部の、もと陸軍兵舎?があった跡地は戦後GHQに、さらに三高小学校美能分教場(昭和26年5月から29年3月?)として利用されましたが、その後は町民グラウンドに、そして今は沖美ふれあいセンター(町民の福祉の増進と、健康で文化的な魅力ある町づくりをめざし、集う・学ぶ・健やかの3部門を中心に建設したもので、地域福祉の拠点、並びに芸術・文化・交流の場として親しみやすい機能的内容の充実した施設です。)となっています。

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昭和40年代に改修された雁木の前に舫われた漁船、手前の船は、刺網(建網)漁やタコ壺漁、アナゴ漁仕様の漁船、右手の方には小型底引き漁船が泊めてあります。

沖美町史によれば、当地は古くからナマコ漁が盛んにおこなわれており、江戸期に紀州漁師の指導によりイワシ漁(鰯網)が始まり、他に一本釣り漁・しばり網漁・うたせ網漁・たこ壺漁・貝堀り・カキ養殖・真珠養殖など魚種に合わせた多彩な漁法が発展しました。

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牡蠣(カキ)の生産高で全国一位、二位を競う江田島市にあっても、沖美町の美能魚協と三高漁協の牡蠣生産量は群を抜いています。

先年、堅牢長大な防波堤を持つ近代漁港に大改築された、美能内海漁港の港内には何台もの牡蠣養殖筏が係留されており、新規の養殖準備作業が着々と進められています。

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牡蠣打ち作業場とその前に泊まる、揚収牡蠣の運搬船(カキ船)です。

この壮大な景観はもはや漁業のレベルを脱しており、牡蠣生産工場といった雰囲気・・・(*^。^*)です。

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浜には牡蠣筏の材料となる、孟宗竹と間伐杉の丸太が準備されています。

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戦前に造られたであろう波止の突端に小さな漁師小屋が立っています。

二畳ばかりの小さな小屋の中にドラム缶で作った竈(かまど)が置かれています。
その焚口の奥で、くべられた薪が燃え尽きる寸前、最後の炎がポッと小さく上がりました。

季節は3月、早朝の漁から帰った漁師さんがしばし暖をとり、世間話を終わって家に帰ったのでしょう。

今さっき、押し車に寄りかかるようにして通り過ぎていったお婆さん、薪が最後まで燃え尽きるのを見届ける火の番を引き受けていたんでしょうね。

この日、春の日差しが快い一日でした。

美能 大奈佐美島・絵の島・櫓石・中の瀬

大奈佐美島・海図(S5) 
画像は知人の船長さんから頂いた昭和5年の海図です。

現在「大奈佐美島(オオナサビシマ)」と呼ばれる島は当時「大那沙美島(オオナサミシマ)」と、「絵の島」は「小那沙美島(コナサミシマ)」と記されています。
さらに現在の岸根鼻(ガンネハナ)は神禰鼻(カリハナ)と記され、櫓石(ヤグライシ)は昔、冠石(カフムリイシ)と呼ばれていました。

地名って、こうも簡単に変えても良いものなのか心配になってきます。
昔からの地名である、流れ田や崩れ谷を削って均し、希望が丘とか桜ヶ丘と名付けて団地造成などされたのでは、先人の苦い経験をせめても地名でもって語り継いだ努力が、たかだか五十年に一度の大雨で濁流となって押し流されてしまいます。

印象の悪い地名ほど、後世に正しく広く延々知らしめるべきだと思うのですが・・・(^^;)です。

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砲台山から見た櫓石、中ノ瀬灯標(虫眼鏡がないと・・・)、大奈佐美島、絵の島です。

手前は美能内海漁港、左奥が宮島です。

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登山道中腹から見た、手前グリーンの灯標が立つ岩礁が「中の瀬」、画面からはみ出して左右に広がる島が「大奈佐美島」、僅かな海面を挟んでその先の小島が「絵の島」です。

絵の島の山頂34.9mに白い灯台が見えます。

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昭和22年3月の「大奈佐美島」航空写真です。(上下方向が南北ではありません)

左上に人工物(小さな点が5つ?)が見えますが、これは明治33年(1900年)に完成した大奈佐美島砲台の一部分です。

現在でも構造物の多くが残っていますが(ネット情報)現地探索はかなりしんどいみたい・・・(^^;)です。

ほぼ同じような構造物である三高山堡塁が砲台山に整備された状態で残っていますので、そちらのご見学をお勧めします。

ちなみに砲台としては大正15年にその役目を終えましたが、その後も一部は軍用地として残り、先の大戦終結後には、武装解除で集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。

s-大奈佐美島A 
大奈佐美島の所有権者など詳しくは不明ですが、昭和45年頃より、広島宇品近辺の埋め立て用土石の採取場となり、まさに蚕食鯨呑の在り様です。

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宇品港、呉港からの大型艦船が唯一航行可能な、美能岸根鼻と大奈佐美島(中の瀬)との間、奈佐美瀬戸の有効航路幅は500m以下です。

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「呉軍港第三区洋上防衛ライン(現広島湾北部地域)」を突破、猪(鯨)突猛進中の潜水艦・・・(^^;)です。

ちなみに対岸である宮島町腰細浦には、花崗岩製で24㎝角、埋込み部分を含めた全長230㎝の軍港第三区境石があるそうです。

探せば鶴原の豪頭鼻付近にも同じ標柱が残っているかも???です。

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大奈佐美島の海岸に明らかに人工物と思われる洞窟が暗い口を瀬戸に向けています。
おそらくは先の大戦終盤、敵艦艇の湾内進入を阻止する特攻兵器を隠していたのでしょう。
同じような洞窟は絵の島にもあります。

s-絵の島A 
画像は大奈佐美島島の北に浮かぶ「絵の島」、もとの「小那沙美島」です。

大正末期のころよりリゾート地開発が始まりましたが、宇品港や呉軍港に近い要衝の地であったことから軍部による干渉が付きまといました。
戦後はGHQの保養地に指定されていましたが、昭和28年に瀬戸内海汽船(株)が島を買い取り、海水浴場として利用されました。
ちなみに、島名を「絵の島」としたのは昭和36年、最盛期には年間8万人以上が訪れましたが、平成2年に閉鎖されたといいます。

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画像は「沖美町史(平成元年3月31日発行)」よりのコピペ画像です。

愛知県犬山市にある「明治村」に展示のこの灯台は、小那沙美島(絵の島)にあったもので、明治37年から昭和39年までの60年に渡り付近を航行する船舶の安全を見守っていました。

以下は明治村の展示物説明文からのコピペ・・・m(__)mです。
この燈台が造られたのは、日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されました。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっています。
4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmでした。

ちなみに、現在ある灯台は「安芸絵ノ島灯台」と呼ばれます。
色は白色 でコンクリート造り、灯は単閃白光で毎4秒に1閃光、光度は560カンデラ、光達距離、約14.85km 、高さは平均水面上から灯火までが49m 、地上から構造物の頂部までが13.98mだそうです。

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画像は岸根海水浴場の西、渚から百数十mばかりの沖合にドッカと腰を据えた「櫓石(ヤグライシ)」、古くは「冠石(カフムリイシ)」とも呼ばれた花崗岩岩塊です。

夏場には岸根海水浴場を訪れたお客さんが何人か岩上で日光浴を楽しむ姿も見られますが、付近は奈佐美瀬戸の潮流が複雑に混ざり合いますので水泳上級者専用、たどり着けた人にだけの冠石・・・(*^。^*)です。

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櫓石の向こうは、大竹、岩国のコンビナート、右に宮島、沖を行くのはヘリコプター搭載護衛艦「いせ」です。

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奈佐美瀬戸の最狭部をさらに狭くする「中の瀬」の岩礁に立つ「中ノ瀬灯標」です。

この「中ノ瀬灯標」の初点灯は、明治36年4月1日ですので、「安芸絵ノ島灯台(明治37年3月1日)」よりも一年早く完成、灯標の本体はコンクリート造りで明治36年に造られたままの姿で現在も使用されています。

灯塔の海抜は約2.5メートル、頂部まで約15.0メートルです。
基礎の外径が5.3メートル、灯塔基部外径は約4.8メートルです。
建設当初は石油燈でしたが、大正9年にガス使用に変更、昭和43年に電気、昭和61年からは太陽光発電となりました。
昭和61年8月に、塗色が黒色から緑色に変更され、灯はモールス符号D緑毎8秒、光度120カンデラ、光到達距離は約10Kmです。

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釣り好き船長さんが写した画像を拝借・・・m(__)mです。
灯標上部を改造して、ソーラーパネルが取り付けてあります。

記録に残る最も古い灯台は紀元前7世紀ナイル川河口、寺院の塔上で火を焚いたとされます。
紀元前279年にエジプトのアレキサンドリアに建てられたファロス灯台(アレクサンドリアの大灯台)は高さが134mもあり、灯火は56km先まで届いたとされますが、796年の地震で半壊、その後の地震や要塞の建設により消滅したと云われます。

日本での記録は承和6年(839年)で、九州地方の岬や島端に狼煙(のろし)や篝火(かがり火)を焚き遣唐使船の帰路を誘導したとされます。
江戸時代以前にも主要な港には石造りの台をもうけ、その上に小屋を建て中で火を焚く、「かがり屋」がありましたが、慶長13年(1608年)日野長兵衛が能登の福浦港に建てた石造りの「灯明台」は、日本初の光源に油を使った灯台であったと云われます。

さらには代々灯明役であった日野家、日野吉三郎が明治9年(1876年)高さ5mの三層西洋式木造灯台を建造、日本最古の西洋式木造灯台として石川県指定史跡となっています。
これら地域の有力者が建てたとされる「灯明台」や「常夜灯」は明治初年、全国に百基以上があったとされます。

ちなみに、現在に見る西洋式灯台の最初は、神奈川県の観音崎灯台で明治2年1月1日に点灯、当初の光源は石油ランプでした。

灯台用の光源としては、薪を燃すかがり火や松明、油やローソク、石油灯(落花生油・パラフィン油・鯨油・石油)、ガス灯、アーク灯、タングステン電球(窒素・アルゴン)・水銀灯・ハロゲン電球、メタルハライドランプ、LEDなど時代や地域、灯台ごとにありとあらゆる光源が使用されてきましたが、近年になり太陽光発電(ソーラーパネル)によりバッテリーを充電しLEDを点灯させる方式がもっともポピュラーとなっています。

美能 美能説教場・鶴原亀原地蔵

s-美能 説教所 
美能地区内にお寺はありませんが、地区中央部の一等地に「美能説教場」が建立されています。

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車寄せ風に張り出した玄関は間口も広く、説教場としては立派な造りとなっています。

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導師様は何処から来られるのか?、予定表とかは張ってなかったのですが、もっとも近いお寺なら高祖の光照寺、あるいは三吉の徳正寺からでしょうか???

この日とくに説教日とかではないようですが、玄関まわりは綺麗に掃き清めてありました。

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鐘楼は災害時の警報も兼ねて?鉄骨で組まれた高い櫓の上に取り付けてあります。

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この高い位置に付けられた鐘を叩くには普通なら、梯子をのぼって・・・ってことになりますが、実はこの鐘、梯子をのぼらなくても叩けるよう、驚きの工夫が施されています。

鐘を叩くハンマーに長い柄が付けられており、その真ん中辺に支点があってシーソーのように下の方を引っ張ると、ハンマーは反対方向に揺れて、ガァ~~~ン、ガァ~~~ンと・・・(*^。^*)です。

鶴原(明神) 
美能集落から高祖へと向かう県道36号線に亀原と書かれたバス停標識がありました。
江戸時代の古地図にはこの付近に祠があり明神と記されています。

もしや、その名残があるやもと付近を見まわしますと、道路のり面の上に祠があり、小さなお地蔵様が安置されていました。

江田島市内に亀と名の付く地名はいくつかありますが、そのどれもが神社神域や城など要衝地に付けられています。

美能の亀原について、沖美町史や能美島志に記載はありませんが、芸藩通志のみ絵図面に明神と書かれています。

さらに、偶々のこととは思えない位置、西に300mばかり離れて鶴をイメージする鶴原なる山があります。

鶴原と亀原、なんとも目出度い地名が・・・(*^。^*)です。

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亀原バス停から数十mの位置に安置された、愛らしい雰囲気が漂うお地蔵様です。

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鶴原砲台山の麓、固い岩盤に掘り込まれた防空壕の前には座像のお地蔵様が安置されています。

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付近には他にも数本の防空壕が掘られており、ここ鶴原に安置のお地蔵様が昔からあるものなのか、あるいは先の大戦下、防空壕の建設や空襲により難をおわれた方々を弔うものなのかは不明です。

いずれにいたしましても、鶴原のお地蔵様に深く一礼、そして亀原に向かいましてさらに深く一礼・・・m(__)mです。

美能 美能胡子神社

s-胡子神社 
西能美の北西端、美能内海漁港には花崗岩の立派な玉垣をめぐらして「美能胡子神社」が建ちます。

現在は此の地を沖美町大字美能と称しますが、古くは高祖村箕尾浦(みのおうら)とも美濃ともよばれ、高祖村の一部でした。
昭和31年の沖美町成立に合わせ大字美能としました。

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美能内海漁港の奥、元塩田防波堤の上に建立されたピカピカの胡子神社です。

美能地区の主要部は、島だった鶴原山(107.2m)の付け根部分を埋めた砂州を干拓したもので、その干拓地の南北両側に港をもちます。

胡子神社のあるのは美能内海漁港で、魚魂碑のある南(是長)側が美能外海漁港です。

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この付近よりも陸(南)側には、江戸時代中期に竹原より移り住んだ河野家(播磨屋)が、広い塩田を開き製塩業を営んでいました。
品質的には良くなかったようで(背後の山林が貧弱で、塩釜で煮詰めるための燃料不足から?)、能美島志(1763年)では「高貴の人の食に堪えない」と酷評されました。

その塩田の防波堤を補強するため百数十本の松が植えられ、その白砂青松を「美能松原」と称賛されるとともに集落を風波から守っていましたが、松枯れや平成3年の19号台風の被害を受け、ついには全滅となりました。

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神社を訪れたのは春3月でしたが、正月用に張られたしめ縄がほぼそのままに残っていました。

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社殿脇に建てられた、建立寄附者の芳名を記した銅板が陽光にまぶしく輝きます。

美 能 胡 子 神 社 建 立 寄 附 者 御 芳 名
平成17年9月吉日建立
建築施工 谷本建築

芳名者五十音順
金 参 拾 萬 円
寺本昭登
金 弐 拾 萬 円
垣内厳・久保河内克彦
金 壱 拾 萬 円
大越睦行・垣内隆二・久保河内鎭孝・久保河内進・河野憲三・坂田幸信・重松建設(株)・ダイユウ技研土木(株)・三高運送(有)・三高鉄工(有)・山勝建設(株)
(株)ユービィーケイ
金 五 萬 円
大越善美・久保河内慶・久栄建設(株)・河野祥和・(株)大新土木・寺本龍二・三戸充
金 参 萬 円
垣内仲仁・河野春登・山本勇二
金 弐 萬 円
後河内千秋・後河内友喜・大越敏弘・大越則秋・大越秀成・大越英樹・大越道政・垣内宏・勝田啓敏・勝田覚・勝田弘・勝田正弘・川崎照秋・久保河内力・河野孝明・河野成明・河野道孝・谷本貞夫・東和科学(株)・増田喜代信・松岡修・丸本久清・三浦美行・三戸直樹
金 壱 萬 円
市谷シズコ・石田勝活・後河内信枝・後河内浩・後河内学・後河内義明・上向吉臣・沖本誠・大内一二三・大越勇・大越泉男・大越勝博・大越数幸・大越サカヱ・大越真也・大越艶子・大越積・大越敏春・大越信夫・大越秀道・大越保則・大越博喜・大越正樹・小川電機(株)・垣内哲夫・垣内英子・勝田哉也・勝田浩一・勝田誠・勝田康彦・川崎一義・川崎真司・川崎誠司・川崎博美・川崎法人・川崎佳彦・久保河内香・久保河内勝見・久保河内清人・久保河内武・久保河内忠・久保河内忠一・久保河内博美・久保河内忠正信・久保河内満弥・久保河内六十・久保河内ヤエ子・久保田進・河野考也・河野武浩・河野秀明・河野善行・河野幸雄・坂田浩二・武田民子・田中啓伯・谷アサノ・谷本爽一・谷本信明・寺本繁樹・寺本紀昭・東昭三・東雅信・畠山尚・原庸介・広永博美・広永弘・広永光正・三浦篤務・三浦一幸・三浦繁之・三浦威・三浦達彦・三浦広和・三浦悟文・三浦政寛・三浦政秋・三浦正信・三浦正也・三浦義秋・三浦ミエ子・三戸美俊・松岡則文・水口順子・山路昇・山本光雄・山本俊幸・脇西薫・和田道則

誤字脱字などありましたら・・・m(__)mです。

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社殿正面に立たせていただき、二拝二拍手一拝 ・・・m(__)mです。

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標柱の裏面には「美能漁業協同組合」「新生活運動推進協議会委員」「平成十七年九月吉日」と彫られています。

ちなみに、江田島市内の神社では一般的に見る鳥居ではなく、石柱二本だけが建つ標柱が多く用いられています。

一説には、鳥居形式への発展前段階であるともいわれますが、広島県神社庁の説明では・・・
以下はコピペ文・・・m(__)mです。

標 柱 (しめばしら) 
皆さんが神社を訪れたときその入り口に 、むずかしそうな文字が刻まれている、一対の石柱を目にされると思います。
しかし、一般にはその 読みや意味がなかなか理解しにくく、あることは知っているものの、余り読む事を意識されてないのが実情であろうと思われます。

この石柱は 「標柱(しめばしら)」 といい、そこに彫られた語句は 「宣揚文(せんようぶん)」 といいます。
この「標柱」というものの建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。

「宣揚文」 を刻む目的は五穀豊穣祈願、国家繁栄祈願、凱旋記念、神社の改装記念、中には個人的な記念などもあるようです。

江田島市内においては単に神社名が彫られることが多いのですが、唯一、能美八幡神社と深江荒神社には石鳥居に加え、その前面に宣揚文を深く刻んだ大きな標柱が建ちます。

「深江 荒神社」の宣揚文には「刀兵不能害」「水火不焚漂」とあります・・・(*^。^*)です。

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玉垣の外から胡子神社の右側面です。

s-内港胡子神社 
砲台山登山道中腹から見た美能内海漁港、画像右上の島は大奈佐美島、左上に宮島弥山が見えます。

是長 古地図(芸藩通志)

是長芸藩A 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

是長芸藩A南西 
地図の東南部分を拡大したものです。

是長芸藩A北西 
地図の北西部分を拡大したものです。

小黒神島の山名は残念ながら読み取りできませんが、「留 小???山」あるいは、山頂に小さな祠があって、「チ????山」???。
やっぱ、「留(留山) 小クロカミ山」でしょうね? ・・・(*^。^*)です。

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「芸藩通志」コピペの元画像です。

是長 いいとこ撮り 2/2

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是長地区からはどこからでも素敵な海を見ることができます。
往還道からみた是長集落と海の向こうは、小黒神島、さらに宮島の方向です。

ちなみに、是長地区から見える海域のほぼすべては広島湾南部海域と呼ぶのが正しく、北は美能岸根鼻までで、南は倉橋島大向鼻から来島海峡、周防大島(屋代島)までとイメージ以上に広大な海域です。

できればもう少しコジャレタ名前があれば、なぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

追伸です。
国土地理院地図(電子)には、絵の島・大奈佐美島・安渡島の付近に安芸灘の名があり、小黒神島・阿多田島の間に広島湾とあって、さらには芸予諸島との名が入っています。
何処をどう呼んで良いのやら??? ・・・(^^;)です。

広島湾海域 
上記画像は「広島湾再生プロジェクト(広島湾とは)」よりのコピペ・・・m(__)mです。
(画像中の、阿多田島、大黒神島、柱島とかの位置が南の方向にずれて記載されていますが???まっ、愛嬌・・・(*^。^*)ですか。)

美能地区の岸根鼻よりも北の広島湾や江田島湾、大君地区早瀬瀬戸より北の呉湾を含めて広島湾北部海域と呼びます。
たまたま?なのかもですが、広島湾北部海域は、呉軍港と広島湾への敵国艦船進入を阻止するために、明治20年に計画(明治30年着工)された「広島湾要塞(音戸瀬戸・早瀬瀬戸・那沙美瀬戸・大野瀬戸)」と同一海域となっております。

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往還道からみた大黒神島の方向です。

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大黒神島です。

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屋根の向こうにも大黒神島です。

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ビニールハウスの向こうにも大黒神島・・・(*^。^*)です。


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これも大黒神島。

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これは阿多田島です。

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菜の花の向こうの大黒神島です。

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これは~~~、甲島(かぶとじま)、その左はるか遠くに尖がった山は周防大島嵩山です。

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小石の浜の向こうに大黒神島です。

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イワシ漁に使う網を運搬中の「大井丸」、向こうは阿多田島です。

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護衛艦「さざなみ」と甲島(かぶとじま)、灯台は白石、その間の小さな島は姫小島です。

是長 いいとこ撮り 1/2

s-是長地図グーグルBB 
是長の地は、頼杏坪の「松と鶴」でもたとえられたように、南北に長く引き延ばされた山地の西側斜面です。

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山の斜面に平地を作り出すためには石を積み上げるほかはありません。
重い石を積み上げた汗の結晶が、紅白の鮮やかな花となって春を告げます。

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一つづつ向きとバランスを考えて積み上げられた石垣の、ランダムだけど規則的な模様は、ほんと素敵なアートです。
冬でも緑の葉っぱが茂るイヌマキは、冬の北風からミカンを守るために植えられています。

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石垣は昼間の太陽熱をため込む蓄熱機です。
夜もやさしくあっためられた水仙の球根からは、太陽のような明るい花が開きます。

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こっちの石垣にも水仙・・・(*^。^*)です。

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瓦の再利用。

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沖十万石?にふさわしく長屋門を構えたお家が何軒もあります。

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昔なら籠か馬が用意してあるのでしょうが、今はやっぱ車の方が便利だし・・・(*^。^*)です。

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庭先に川があって、自家専用の橋を持つ・・・私の理想とする最高の立地条件なんですけど・・・。

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今はさびれてしまいましたが、是長の商店街通りです。
大福食堂・資生堂チェーンストア川中・曽根時計店・ヘァーサロンニシカワ、の看板が見えます。

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真っ赤なフォルクスワーゲン、もう一度走らせてほしいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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道路脇に落っこちてました。

キャラクターのリスは林野庁が1974年に制作した山火事防止啓発用のアニメ映画「リスのまとい」で登場したのが最初であるといわれます。
ちなみに、ネット上では「まといリス」などの名前でよばれますが、正式名称は決められていないとか・・・(*^。^*)です。

下記に注意
上記は「withnews(ウィズニュース)」よりのコピペ・・・m(__)mです。

是長 十万石の石垣

s-是長 石垣 
是長地区には10万石の城下町にも負けないくらいの立派な武家屋敷???が何軒も建ち並びます。
それも、家老職とか侍大将とかの上級武士の屋敷が・・・(*^。^*)です。

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是長港から遠くない段々畑の上に、お城と見紛うような長大で緻密な石垣が立ちはだかります。
石垣の角は、熊本城の石垣でも頑丈さが証明された算木積みが施されています。

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その石垣の上を漆喰の土塀で囲んだ中に是長の名家、野間家があります。

文政初期のころ、島を訪れた儒者「頼杏坪」が泊まったとされ、そのときにみた掛け軸「松と鶴」を愛で、この村に宿りてこの絵のかかれるを見てたわむれに「くびながし くちばしながし すねながし よはひはさぞや 是長のさと」と詠みました。

上記「芸南地方 瀬戸の島」よりの要約・・・m(__)mです。

頼杏坪_近世名家肖像[1] 
画像は「谷文晁」作の「頼杏坪」、ウィキペディアよりのコピペ・・・m(__)mです。

頼 杏坪(らい きょうへい)は、頼山陽の叔父に当たります。
文政13年(1830)まで、三次町奉行の職を勤め天保5年(1834)79歳で病没。
「芸藩通志(1825)」などの藩史編纂にも携わったとされます。

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石垣で囲われたお家が野間家だけなら、まあ、まあ、すっごいな~~~、と感嘆詞の一言あるいは二言で終わるのですが・・・。

是長地区の石垣屋敷の多さには、おどろき、びっくり、ぎょうてん、ぶったまげ、日本版マチュピチュ?、世界遺産登録?も夢じゃないかも・・・(*^。^*)です。

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このお家、是長地区でもずいぶん高い位置にあります。
これら沢山の大石、山から転がり落とした石には見えないし、いったいどこから・・・。

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このお家もまたすっごい。
積まれた石垣の量は、たぶん野間家よりも多いかも。
ず~っと、ず~っと先が見えなくなるくらい先までびっしり積まれています。

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このお家もまたまた、すっごいなぁ~~~。
石に着いたコケや、継ぎ目で芽生えたシダが・・・ええなぁ~~~。

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石垣が積まれているのは屋敷ばかりじゃありません。
ミカン畑も、タケノコ林も・・・

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丁寧に積まれた石垣の上には、普通にキンシバイの花が植えてあり、普通にウメの木の枝が垂れ下がっています。
その裏っかわには、たしかムギが植えてあったと (^^;) ・・・。

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耕作地と、道路の路面以外はすべてが石垣です。

是長地区で五万石、畑と岡大王とで五万石、全部の石垣を集めれば、十万石に匹敵するお城と城下町が造れるんじゃないでしょうか???

♪♪♪ 沖の石垣 十万石 全部合わせりゃ 城がたつ ♪♪♪ ・・・(*^。^*)です。 

是長 鹿田港

s-是長・鹿田港 
この付近の地名を、砠(そうわ)といいます。

砠のいわれは不明(辞書には石山・土山)ですが、御子祖山との付け根に船隠しのような入り江があり、「鹿田港」と呼ばれます。

この港は昔、村上水軍の監視人とされる佐村久右ヱ門が居住していたとされます。
南からの強風を遮る避難港として重要であり、芸藩通志には二反帆の船7、8隻が泊まれたと記されています。

上記「沖美町の文化財をたずねて」より引用・・・m(__)mです。

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上記掲載画像は、HP「風の馬 るんた」から「三反帆(さんだんぼ)で熊野川(2010年12月11日)」の記事をコピペ・・・m(__)mです。
熊野川を航行中の三反帆船で昭和30年ころまでは使われていたそうです。

ちなみに、画像の三反帆船は川船ですので、芸藩通志にいう二反帆船とは船型なども違うと思います。

s-鹿田港5002 
昭和50年2月の鹿田港付近です。
港に転倒船(石材運搬船)が1隻みえます。

県道はアスファルト舗装がされ、別荘用地にも家々が建ち始めています。

s-グーグル鹿田港 
現在の鹿田港です。

港の左に放射状に沖へ伸びるのは桟橋ではなく、船首を陸側に固定し停泊中の大型石材運搬船(プッシャーボート)です。
積載量は推定?ですが左が1,000t?、右は3,000t?くらいだろうと・・・???です。

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鹿田港港内からみた別荘地の方向です。

この付近には雨水を運ぶ大きな川もなく、水質は常に良好ですのでスキューバダイビングの練習ポイントともなります。

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小型底引き魚船「五洋丸」が、陸に引き上げられています。

すでにプロペラが外されていますので、おそらくは解体場へと運ばれるのでしょう。
水線下の部分にはグラスファイバーが巻かれていますが、基本は木造船のようです。
お疲れ様でした。

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鹿田港から別荘地へと続く小道は、昔懐かし海岸沿いの小径・・・(*^。^*)です。

昔々は、浦々へと通ず小径はみんなこんな感じだったような・・・(*^。^*)です。

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波静かな瀬戸の砂浜に、こ~~~んなに大きな流木が・・・。

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木造の小舟が朽ち果てる寸前で、入り江の奥に収まっています。

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大きすぎて港に入ることのできない、沖泊まりの船との通船???
それとも、むかしむかしの、船隠しにひそむ海賊船が幻影となって現れ出たのかも???

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夏の一時期をのぞいては、今も、むかしむかしの静寂をたもつ、砠(そうわ)の里海・・・(*^。^*)です。

是長 是長港

s-是長・鹿田港 
是長地区には集落の前面に是長港があり、入鹿鼻の北側には鹿田港があります。

s-是長港S3705 
昭和37年5月の是長港付近の画像(国土地理院)です。

ほぼ同じような大きさの船が十数隻、水深の浅い港にはすべての船が入港するのは無理のようで、半数は港の外で係留されています。

これらの船は転倒船ともよばれる石材運搬船です。
最盛期の昭和40年ころには沖地区だけでも5、60隻はあったといわれます。
積載量約50tくらいのディーゼル船で、乗員は2名、船長と機関長を夫婦で分任し、埋め立て地に運んだ石材を、船を大きく傾けることで一度に海中に投入する離れ業をやってのけました。

能美町高田港で最後まで残っていた転倒船「新栄丸・日栄丸・共栄丸」です。

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昭和50年2月の是長港付近です。

戦後の20年間、是長港の改築はまったくの手付かずでしたが、昭和40年代に入りやっと一回り大きな防波堤で囲われることになりました。

s-是長港グーグル 
現在の是長港です。

一時期は転倒船で溢れかえった是長の港も、昭和45年ころよりはプッシャーボートで一度に数千トンの石材を運ぶ方式に変わり、徐々にその隻数を減らしていきました。

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是長集落の前で寄せる大波を固くグロックする最新防波堤です。

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もと、宇品・沖航路連絡船用の桟橋で、これからタコ漁に出かけるという漁師さんが大忙しで準備作業をされています。

仕事の邪魔にはなると思いましたが、「タコたくさん獲れますか?」「だめだなぁ~、年々獲れんようになりょ~るが」豊穣の瀬戸内海であっても、専業の漁師さんで生活するのは、なかなか厳しいようです。

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赤い浮き桟橋の手前にあるスベリは昭和50年に運行が開始された、沖・宇品航路連絡船の桟橋として作られたものですが、残念なことに昭和57年には連絡船航路が廃止されました。

スベリ型桟橋は耐久性は高いのですが、波による影響を強く受けるために連絡船への乗降には不便な施設です。
いつ航路が再開されても間に合うよう?赤い浮き桟橋が整備されましたが、いまは航路再開の予定がありません。

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連絡船用に作られた「是長桟橋待合所」です。

まだ十分に使える姿で残してありますが、内部は新聞や雑誌、ダンボールなどのリサイクル資源一時集積所となっていました。

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是長港防波堤の沖をゆく護衛艦「うみぎり」基準排水量3,550トン  全長137m 出力54,000PS  最大速力は30ノットです。

洋上訓練を終わり、母港である呉港に帰る途上のようです。

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戦前からある???、旧防波堤内には今も小舟が舫われています。

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花崗岩石を丁寧に積み上げて造った防波堤で、少なくとも70年、あるいはそれ以上の年月を耐えてきました。

ここまで古くなれば、人工物か自然物であるかの判断もできません。
自然岩の空隙であると勘違いしたハマナデシコが、防波堤の占有を開始しました・・・(*^。^*)です。

ちなみに、港から道路を隔てた陸側正面には「JA呉 是長支店」が建ちます。
是長は漁村ではなく農村なのです。

背後に控える広大な農地(耕して天にのぼる)から生産された膨大な量の農産物は、すべてがこの是長港から船に積み込まれていました。
そんな・・・時代も・・・ありました。

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船を舫うロープを巻き付ける係船柱(ボラード、ビットとも)です。

一般には鉄で作られますが、この防波堤上にある7本の係船柱はすべて花崗岩石柱です。

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石積防波堤の先端部は後年の港改築で短く切られて積み直されましたが、すてきな曲線に仕上げてあります。

鉄筋コンクリートだと再利用はほぼ不可能ですが、石積だと好きな形に組み替えて再び利用することができます。

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近代的で機能的な造りとなった是長港にあっても、石積防波堤は港の主要ポイントとなってのこります。

是長 サンビーチおきみ

s-サンビーチ沖美 
元の入鹿海岸あらため、「サンビーチおきみ」となって宿泊施設も完備した海水浴場があります。

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江田島市内では他に見ない、立派な建物が白い砂浜の向こうに建ちます。

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いらっしゃいませ サンビーチおきみ

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全室オーシャンビューの公共の宿「サンビーチおきみ」です。

江田島4町の合併前に沖美町主体で作られた施設で、台風被害や海水浴客の減少など逆風を受けながらも、展望大浴場(循環型天然温泉)をそなえ、洗練された瀬戸の味を前面に江田島の魅力を残らず堪能できる宿泊施設として運営されています。

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ビーチの中央付近に大きな羽釜がセットされていますが、この巨釜は海水浴に訪れた方々のお昼ごはんを用意するものではありません・・・m(__)mです。

建てられた説明板によれば、「え、えぇ~~~。せ、説明板がなぁ~~~い。」

てっきり羽釜の説明板だと思ったのに、文面には羽釜のハの字もなく、その向こうにあるごく普通の岩の由来が説明されています。

弁慶岩
鎌倉初期の僧、武蔵坊弁慶がこの岩を厳島弥山、海抜530mの山頂から、沖の平家軍船に目掛けて投げたところ力余ってここまで届いたといわれ、以後もここに鎮座し、弁慶自慢の力もさすがと弁慶をしのぶ縁となっております。・・・と。

弁慶岩よりも羽釜の方が気になるんですけどぉ~。
もしかしたら、冗談じゃなくホントにお昼ご飯を焚く巨釜なのかも・・・ (^^;) です。

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2004年(平成16年)9月7日、山口県西部をかすめて北上した台風第18号は広島市においても14時20分に、観測史上第一位となる南の風60.2m/sの最大瞬間風速を観測しました。

この台風による風と高波のため国宝厳島神社の平舞台は波にあおられ四方に流れ去り、本殿の檜皮葺屋根は大きく剥がれ落ち見るも無残な状態となりました。
沖美町においても港湾などに大きな被害をうけたうえ、完成まもなかった「サンビーチおきみ」においても、船舶係留桟橋の崩壊、ビーチ砂浜の流出など一時はサンビーチ自体の存続も危ぶまれる惨憺たる被害に合いました。

画像は翌年4月、重機を投入し夏を前に急ピッチで砂浜の復旧工事を始めたころのものです。
(夫婦岩も、この18号台風の高波をまともに受け倒壊しました。)

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復旧工事が終了し、もとの静かな瀬戸の渚となりました。

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この沖はひっきりなしに船が行き交う主要航路、豪華巨大客船も大型タンカーも、外国の旗を揚げた軍艦も、潜水艦も、三本マストの大きな帆船も・・・です。

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長い長い砂浜に小さな小さな波が きらきら キラキラ きらめきます。 

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是長の北に伸びる海岸には、何故かすべてにカタカナの名前がついています。
カーサブルビーチ・ブルービーチ・グリーンビーチ・ニューブルービーチ・・・
以上、グーグル地図より・・・(*^。^*)です。

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続く、続くよ、ビーチはつづく ・・・です。

是長 入鹿鼻・四郎五郎

入鹿鼻・四郎五郎  
是長地区の長い海岸線には、背後に急峻な山がせまり僅かな平地しかないのですが、反面、自然美あふれる豊かな景観が今も各所に残ります。

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サンビーチおきみの白い砂浜から海岸をさらに北へと行った所の、断崖の先に特異な容の大岩が見えます。

今でも特徴のある大岩ですが、十年ばかり前に台風の大波を受けて破壊されるまでは、大岩の上にさらに二本の大石柱が高くそびえ立っており、その姿を夫婦が寄り添う姿にたとえ「夫婦岩」と呼ばれていました。

この付近の岩山は古くより砕石場となっておりましたが、さすがの石工さん達もこの「夫婦岩」に手を下すことは無く、江戸後期の「芸藩通志(1825年)」にも「メウト石」となって記載されております。

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上部の三分の二が台風の大波に折られてしまいましたが、いまも残った二つの大岩はしっかりと寄り添い支え合っています。

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「夫婦岩」よりさらに北へと進んだ先に、なんと「やもめ岩」があります。

先年の台風にも耐え、一人だけが寂しく残った「やもめ岩」です。

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夫婦岩ほどの大迫力はありませんが、岩盤にしっかりと根をはり気丈に立ちます。

入鹿鼻の沖を行き交う船や、カモメの群れを追いつつさらに幾百年、穏やかな瀬戸、荒れ狂う怒涛の瀬戸をただ一人見つめ続けることとなります。

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幾百年、幾千年、幾万年も不動かと思える花崗岩の岩山も、それは人の思う時間軸に当てはめてのことであり、人には無限とも思える時間も自然界にとっては一瞬間でしかありません。

目の前にみる花崗岩が、地下十数キロの深さでマグマ状の巨大な塊から、冷え固まったのが1億年ばかり前のことです。

その後比重の軽い花崗岩は次第に地表へと浮き上がり、さらにその上部を覆っていた堆積岩が浸食されて、ついさっき江田島市の基盤となって地表に現れたばかりです。

ついさっき現れた硬い硬い花崗岩が、もうすでに、台風の大波に打ち砕かれ、松の木の根っこで割られて崖下に落ちています。

その崖下に落っこちた花崗岩の大岩にウミウが羽を休めます。

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崖から落っこちた大岩の角が波に削られ丸くなるには、人にとっては長い長い歳月ですが・・・

さっき、その大岩の上に羽を休めたウミウは、わずか数秒でまたどこかへ飛び立っていきました。

で、余計なことですが、鵜飼に使われる鵜はカワウではなくウミウが使われるとか・・・(*^。^*)です。

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画像は昭和37年7月、県道の開通から2年後の様子です。

その後も何度か拡張改良工事が施され、西能美の動脈路となりましたが、その県道36号線の途中に「四郎五郎」とよばれる岬があります。

今はNPO法人所有の「夢来来」なる、休息&展望施設となって道行く人々の憩いの場とされていますが「四郎五郎」なる地名は、古く江戸時代の書にも記載があります。

「夢来来」の前に張り出された説明板によれば、安芸灘に出没する海賊に対抗し、鹿川の一郎、沖の二郎、畑の三郎、是長の四郎、美能の五郎らが協力し西能美の守りを固めてていました。

神出鬼没の海賊集団に対しては、より早い発見と迅速な現場到着は必至で、この岬は海賊を見張るための砦の一つとして、是長の四郎と美能の五郎とが共に利用したとされます。

彼らは個々に水軍を所有しており、のろしや松明、鐘や太鼓やほら貝などで互いに通報し合って協動、いち早い行動と勇猛な戦いは能美水軍の名を一挙に広めたと云います。

ちなみに、現在も伝えられる見張り場所として、鹿川との境である才越峠の南の「物見石」、畑港の防波堤付け根の「見張石」があります。

県道から谷に沿って分け入った先に「四郎五郎水源池」があります。

今はまったく使われることもありませんが、昭和40年6月江能水道組合が供給する太田川を水源とする上水が通ずまで、「四郎五郎水源地」からの水源は美能地区の人々にとってはかけがえのないものでありました。

是長地区で集水された水が隣の美能に供給されるきっかけは昭和31年に沖村と三高村が合併し沖美町が誕生したことや県道整備の進捗によりますが、美能地区の人々が切望する四郎五郎水源池からの給水が始まったのは昭和も34年となってからで、他に主水源をもたない美能地区の念願がやっと叶いました。

四郎五郎水源池が大切にされたのは僅か6、7年のことでしたが、その恩恵は計り知れないものでした。

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「四郎五郎」岬の先端部はナイフで切られたように垂直な断崖となっておりますが、その崖の一部には天然記念物に指定されてもおかしくない摩訶不思議な花崗岩の産状(崖の左上部分)がみえます。

わたくし的には摩訶不思議なその球体を「球状花崗岩」としましたが、岩石の専門家的には、球状花崗岩の特徴である白と黒の縞模様が見られないことから、捕獲岩としては特異な産状ではあるが「江田島花崗捕獲岩」とすべきで、詳しくはさらなる研究が必要うだろう。・・・ (^^;) と。

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赤い岩肌に直径が約10cmの球体が煎餅を並べたように何十個も繋がります。

この球体捕獲岩(江田島花崗捕獲岩)は長石質の赤い岩盤を割って貫入した岩脈で、岩脈の幅が1mくらい、長さは視認できる範囲で5mくらいあります。
岩脈は他にも何本?かあって海中に向かう脈も視認できます。

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わたくし的に「球状花崗岩」、専門家が「江田島花崗捕獲岩」とする球体のアップ画像、直径が12cmです。

はたしてどんなメカニズムでこんな奇怪な石ができるんでしょう。
自然は不可思議なり・・・(*^。^*)です。
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