幸ノ浦 いいとこ撮り 2/2

1)江田島町北部・幸ノ浦地区 
だれが名付けたか幸ノ浦の名前が示すとおり、風光明媚、穏やかな瀬戸の海に背後の山々から石清水を集めた花ノ木川の清流が注ぎ、一切の喧騒から隔絶された現代の桃源郷がここに実在します。

2012-10-01 002 053 
背後の山、大須林道から見た幸ノ浦集落の中心部です。

111107b 076 
穏やかな瀬戸を挟んで、左に似島と安芸小富士、右が峠島、遠くに宇品島と広島市街の中心部が広がります。

111107b 071 
左沖、峠島の向こうに黄金山、少し手前が金輪島、その右に島のように見えるのは坂町の横浜公園や森山あたりでしょう。

2013-03-03 002 004 
海水の透明度が増す冬場には、海底の岩に張り付くワカメやヒジキが浮き上がって見えます。

2014-02-09 003 003 (800x602) 
突然のモーター音に振り返ると、小型セスナ機が超低空で曲芸飛行を始めます。

2014-02-09 003 005 (800x599) 
広島市の干拓事業で削り取った跡地は、だれも立ち入ることのない、雑草さえも芽吹かぬ不毛の地です。
ってことは、飛行場として利用するには最適の地・・・(*^。^*)です。

2014-02-09 003 084 
採石土から30数年が経過し、少しづつですが地力の回復した土地では、キャベツやキュウリも育ち始めています。

2013-10-26 002 026 
幸ノ浦老人集会所の前に、広島県県知事選挙のポスター掲示板、ゆざき英彦氏と大西オサム氏の一騎打ち・・・。
どちらも緑が基調色です。

平成25年11月10日即日開票の結果は、ゆざき氏646,319票 大西氏81,141票、投票率31.97%でした。
ちなみに、江田島市の当日有権者数は22,298名、投票率は42.39%です。

2014-02-09 003 081 
小さな柿木の下に咲く、日本水仙・・・
日本水仙は遠く地中海が原産とされ、花言葉は「自己愛」、水面に映った自分の姿に恋をした、ギリシャ神話の美少年「ナルキッソス」の伝説から・・・です。

桃源郷に漂う水仙の芳香、「希望」のシンボル花ともなっています・・・(*^。^*)です。
スポンサーサイト

幸ノ浦 いいとこ撮り 1/2

1)江田島町北部・幸ノ浦地区 
幸ノ浦に干拓地が造成されたのは近代になってからだと思われますが、西隣の大須地区にくらべれば格段に耕作地や水資源に恵まれた、まさに幸ノ浦・・・(*^。^*)です。

2013-10-26 002 009 
島の生活といえば、まず漁業資源を求める漁民のイメージが先行します。
が、・・・牡蠣や海苔、鯛やハマチ、あるいはアサリ、真珠貝などの養殖による安定した漁業経営ができるようになったのは、ごく近代にはいってからのことで、いわゆる獲るだけの漁業で生活するのは至難の業でした。

養殖や蓄養、保存のための技術や、流通経路が貧弱な場合、多く獲れれば豊漁貧乏、獲れなければ仲間内での争奪戦、よほど安定した漁業資源と販売ルートがないかぎり、個人で漁師をやることは無鉄砲のきわみです。
 
それに比べれば、天候不順や干ばつに怯えながらでも、畑や田んぼを耕し、沖に鰯の群れが現れた時だけ、資金力のある網元の傘下に入り、日雇い漁師で臨時収入を得るほうが・・・(*^。^*)です。

と、言うわけで漁師は一時雇用のアルバイト、島民の本業は農業であって山を削り取り、石垣を築いて天にのぼる・・・(*^_^*)です。

2013-06-11 002 054 
立派な蔵を備え、藁ぶきの屋根の形状を残したお屋敷が・・・(*^。^*)です。

2014-02-09 003 082 
手入れの行き届いたお庭と、二階建ての大きな蔵が二つ?もある、お屋敷・・・(*^。^*)です。

2012-10-01 002 118 
端正に積まれた石垣の上に、手入れされたマサキの生垣が乗っています。

2013-10-26 002 031 
危険過ぎて?使われなくなった納屋のトタン壁に「安定は、希望です。」公明党・・・(^_^;)です。

2014-02-09 003 027 
希望は安定? 安定は希望? 希望だけでは無理みたい・・・(*^_^*)です。

2014-02-09 003 031 
傾いた納屋の向かいに、黄金に輝く菜の花がすっくと立ち並びます。

幸ノ浦 海上挺進戦隊戦没者慰霊碑

1)江田島町北部・慰霊碑 
江田島と言えば、海軍のイメージしか湧きませんが、江田島町の最北端、ここ幸ノ浦の地には、陸軍の秘密訓練施設「陸軍船舶特別幹部候補生」の船舶操縦養成所がありました。

2012-08-06 002 029 
船舶特別幹部候補生とは15歳から19歳までの志願者で、昭和19年4月に香川県豊浜町にて第一期生約2,000名をもって開隊、教育訓練を開始しました。

同年6月、同部隊は小豆島渕崎村へ移駐、四式肉迫攻撃艇(まるレ)による実戦的訓練を経、8月25日挺進戰隊隊員となるべく養成教育を終了、以後の訓練は江田島の幸ノ浦で実施されることとなりました。


9月初旬当地幸ノ浦において、特攻襲撃となる最終訓練を得て、第一戦隊~第十戦隊の編成を完了、ついで10月には他部隊からの編入も得て第十一戦隊~第三十戦隊の編成を終え、決戦地であるフィリピン・沖縄・台湾へと展開しました。


海上挺進戦隊の一個戦隊は、戦隊長以下104名、「まるレ」艇百隻をもって編成されますので、19年10月までに三十戦隊、「まるレ」艇3,000隻が編成配備されたことになります。

この海上挺進戦隊の任務は敵の上陸部隊を海上で肉迫攻撃、艦船もろとも撃滅せんとす実質特攻艇部隊で、さらには特攻出撃を免れた者であっても、最前線である現地の部隊と合流し玉砕戦に投入される必死の部隊でした。


その後、本土決戦にそなえ、第二期生(2,000名が19年9月入隊)・第三期生(2,00名が20年2月入隊)それぞれ4ヶ月の訓練を終了、第三十一戦隊~第四十戦隊、さらには第五十一戦隊、第五十二戦隊の編成を完了して九州・四国・紀州の各地に展開しました。

また20年6月に入隊した、第四期生である第四十一戦隊~第五十戦隊および第五十三戦隊は仮編成での訓練中に敗戦となりましたが、当地幸ノ浦で原爆に遭遇した第十教育隊隊員は、広島市内において救護活動に専念中敗戦を迎え、当部隊が解散したのはその3週間後であった云います。

 

注) 原爆投下の頃には戦局の悪化や燃料不足により、各地での分散訓練となり当幸ノ浦は第十教育隊となって、総隊員数は100名程度だった???とも、また第二、第三期生の訓練生、各2,000名も順次幸ノ浦を訪れては特攻襲撃訓練を受け、戦隊を編成しては転属となりますので当地での部隊規模は最大でも300名程度であった、と???・・・(^_^;)推測です。

 

ちなみに、原爆投下時の幸ノ浦で「まるレ」艇による特攻襲撃訓練を受けていた「津田 弘毅」さん(広島 被爆時17歳)の回想記では、昼間の訓練は危険なのですべて夜間訓練となりました・・・部隊と言いましても特攻基地の部隊でございますから60名程度の部隊でございます。・・・と。

2012-08-06 002 027 
海上挺進戦隊戦没者慰霊碑は昭和42年12月に建立されましたが、のち平成3年9月の台風により損傷を受け、碑文も読み辛くなりましたので、別建の銅板に清書されました。

 

 海上挺進戦隊顕彰之記

 

昭和十九年戦局の頽勢を挽回すべく、船舶特別幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校の精鋭を以て編成されたる陸軍海上挺進戦隊は、二五〇キロ爆雷を装備せるベニヤ製モータボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第十教育隊に於て昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第一戦隊以下三十ヶ戦隊が同年九月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和二十年一月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同三月以降の沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或は戦局の赴く所已むを得ず挺身陸戦に転じ奪戦せし者を含め戦闘参加の勇士二,二八八名中再び帰らざる隊員実に一,六三六名の多きに達し挙げたる戦果敵艦船数十隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は、秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり。

而して又第二次訓練再開されるや第三十一戦隊以下十二ヶ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第四十一戦隊以下十一ヶ戦隊は終戦時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活躍同年十月艇を焼き部隊を解散せり。

此等教育期間中の殉職者も数十名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆んど生還するを得ず。

その運命を共にせるものの如し。

祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に痛惜の念に堪えず。

ここにその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。

  昭和四十二年十二月三日

       元教育隊長  斉藤義雄 44期

 所在地 広島県安芸郡江田島町幸之浦地区

画像文字変換ソフト「読取革命」を使っての自動変換です。

一字のみ現代表記に替えていますが、他は原文のままに・・・。 

2013-01-06 002 044 (800x599) 
江田島町中央「ふるさと交流館」に展示されている四式肉迫攻撃艇(まるレ)の模型です。

2013-01-06 002 043 (800x600) 
「まるレ」とは正式名称を「四式肉迫攻撃艇」、70馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250kgまたは両舷に120kg×2個の爆雷を装備した陸軍開発の水上特別攻撃艇(計画設計では肉迫攻撃艇)です。

秘匿名称として「連絡艇」とよばれたので、その頭文字をとって「まるレ」と略称されました。

船体はベニヤ製で、約3,000隻?が生産され、実戦部隊では緑色に迷彩塗装を施しアマガエルとも呼ばれました。

                              

その性能は概ね次のとおりです。

 

艇型 半滑走型  全長 5,6m  全幅 1,8m  深さ 0,7m

自重 0,9t  満載排水量 1,7t  吃水 0,26m 

エンジン 日産またはトヨタ製自動車型6気筒ガソリンエンジン、70~80馬力  

最大速力 20~24節  航続力 3,5時間

武装 250kgまたは120kg×2個の爆雷

2013-12-23 004 010 
「まるレ」の係留や揚げ降ろしに使用された石造りの突堤が残ります。
しばらく前までは、幸ノ浦地区で収穫したキャベツやキュウリを広島市場に運ぶ番船が舫っていましたが、今は魚釣りのおじさんが占有・・・(*^_^*)です。

111107b 057 
画像左の砂浜中央から沖へと伸びる突堤だけが当時のままに・・・。
その手前に広がるキャベツやキュウリ畑が幸之浦船舶練習部第十教育隊の用地で、9棟の兵舎が建っていたと・・・。

また、今は土石の採取で平坦地となっている、東側の山には防空壕が掘られ、燃料、資材の格納場所であったとか・・・

2012-08-06 002 030 
波静かな広島湾を挟み10数キロ、肉眼でもはっきりと広島市街を見てとることができます。

昭和20年8月6日午前8時15分、一度に何万個分もの稲光に包まれ、やがて轟音とともに窓ガラスが砕け飛びました。
始めはバラ色の輝きを放っていた雲がむくむくと天をめざし、やがてはどす黒く天を覆いその傘は幸ノ浦の目前まで達したと云います。

10時ごろになって非常呼集があり、新型爆弾だと知らされて救助部隊を編成、片方に水筒、片方にカンパンの入った袋を持ち、大急ぎで大発動艇に乗り込んだと・・・

(前記「津田 弘毅」さんの回想より・・・)


2013-10-26 002 036 
誰の献花か、花が枯れることはありません。

2012-08-06 002 026 (800x599)
今一度、英霊に原爆や数多戦災者の方々に、黙祷・・・m(__)mです。

2014-02-16 002 003 (800x599) 
慰霊碑前の献火献煙台に刻まれた、若葉に舵輪・・・、彼らは少年兵とも呼ばれていました。

注) 上記はすべてネット資料から、要点つかみ取りのコピペ文・・・m(__)mです。
さらなる仔細が入用な方には江田島市在住の戦史研究家、奥本剛氏の著書「陸海軍水上特攻部隊全史」「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」等があります。

幸ノ浦 県道297号(北岸道路) 

1)江田島町北部(大須林道・海岸周回・県道297号)a 
今は県道297号と呼ばれ、大型車の離合も難なく・・・(*^。^*)ですが。

2012-08-06 002 020 
幸ノ浦集落から出て切串寄りの小さな岬に、「愛信貫之」と太く深く刻んだ花崗岩の自然石が建ちます。
当時北岸道路と呼ばれ、切串から幸ノ浦を経由し大原へと抜ける道路が完成したことを歓ぶ記念の碑です。

脇に並んで碑文もあり、「かっての孤立と困難苦難は、難路とともに昔日となった。ご尽力頂いた方々の、義心親愛に信依したことにより昭和25年秋に着工し、昭和32年春竣工と、8年の歳月を掛けこの大事業をなしえた。将来この道が狭いと感じるなら、それはこの道が発展の元となったからで、我らそれを願う。あらためて、お世話になった方々に謝意を表す」と、要約・・・(^_^;)です。


2013-12-23 004 008 
大原(現宮ノ原3丁目)から幸ノ浦峠を越えると、木々の梢に似島の安芸小富士が乗り、遠く広島市街が望めます。

2014-02-09 003 015 
此方は幸ノ浦バイパスとなる新道です。
今までのように対向車を気にすることもなく、大原、切串間を往くことができますが、幸ノ浦地区は素通りです。

左右の平地は山を削り取った跡で、その土石は広島市の発展に寄与しました。
数十年たってやっと地力が回復し、野菜や果樹などが育ち始めています。

2014-02-09 003 058 
今は旧道となる、幸ノ浦地区へと続くイロハ坂?終点です。
途中、早めに対向車を察知し広めの路肩に待機しないと、100mばかりバック運転をすることになります。

2014-02-09 003 026 
道路脇には、季節によりキャベツや、ダイコン、キュウリやスイカが箱に入れたまま放置?されています。

しばらくすると、軽トラが現れ荷台に満載して・・・

昔は地区ごとに番船に積んで広島の市場に運んでいましたが、今はそのままフェリーに乗せたり、まとめて大型車に積み替え陸路呉市場に運んだり・・・(*^。^*)です。

2014-02-09 003 021 
車が増えたとはいっても、本土の交通量に比べれば・・・
で、サイクリング初心者には最適なコースが続きます。

2014-02-09 003 085 
すぐ目の前に見える宇品と幸ノ浦の間に道ができ、第二の「愛信貫之」石碑が建つのはいつのこと・・・(*^。^*)でしょう

2013-03-03 002 003 
海岸道路の脇で、熊さんがスイカを冷やしていました・・・(*^。^*)です。

CIMG1065.jpg 
五月の連休の頃、幸ノ浦峠の草むらにジャケツイバラの花が頭をもたげます。

幸ノ浦 花の木川(本谷川)

グーグル地図(北部江田島町)川名 
幸ノ浦と呼ばれるのは、この花の木川からの恵みがあったからです。
合流する本谷川よりも細く、むしろ本谷川の支流のようにも見えますが・・・

2012-08-06 002 025 
もっとも下流の部分に、小さなすべりを作って、船溜まり(幸ノ浦港?)としています。

2012-10-01 002 134 
西隣りの大須地区に比べれば格段の水量をもった川です。

2013-10-26 002 015 
これだけの水量がいつでもあれば・・・

2014-02-09 003 060 
堤防は花崗岩の切石を一つずつ丁寧に積んでいます。
本流との合流分部では水の流れを考え、上流側は鋭角に、下流は緩い円弧に仕上げてあります。

2014-02-09 003 061 
この部分では、水量が増えれば、より流れやすくするためにV字にカットされています。

2013-10-26 002 018 
川の名前になっている、ハナノキ(ハナカエデ)は木曽川流域の山間部湿地に自生するカエデの仲間で、当地に自生があったとは思えません。

もし、自生する木々から花の木川の名前をとったとすれば、12月から2月ころまで枝先に真っ赤な花のような実をつけるタマミズキのことかも???・・・(*^^*)です。

カキノキならあるんですけど・・・(^_^;)ね。


2014-02-09 003 062 
・・・です。

2014-02-09 003 076 
今は竹藪となっていますが・・・
何世代にもわたり、大切に手入れされた田んぼだったのでしょう・・・

2014-02-09 003 066 
最上流部には、水を溜めるコンクリート作りの大きなタンクが並びますが・・・

2013-12-23 004 009 
もと配水タンク?も・・・

幸ノ浦 幸ノ浦説教所

1)江田島町北部・幸ノ浦説教所 
もとより教法寺の信徒ではありますが、当時の険悪な道路事情にあわせ、西本願寺からの御尊形をいただき、明治10年7月仮説教所として建立、一時期「一念寺」の寺号も賜りましたが、昭和28年、教法寺主管の「幸ノ浦説教所」となって、現在にいたります。

2013-10-26 002 020 
昭和49年に建て直しが行なわれたと云います。

2012-10-01 002 132 
昭和21年、最盛期の幸ノ浦地区の戸数が47戸、総人口が229名、小さな集落ですが立派な造りをした説教所です。

2012-10-01 002 133 
鐘を叩く木槌も新しく、毎朝のお勤め「御晨朝(おじんじょう)」を促す札も貼られています。

 

ちなみに晨朝(じんじょう)とは・・・

 

夜明け方。 午前六時ごろ。 卯()の刻。 現在の午前6時ごろ。 また、その時に行う勤行(ごんぎょう)。 朝の勤め。 晨朝(じんじょう)に寺で打ち鳴らす鐘。

 

などの意味があるとか・・・(^_^;)です。

2013-10-26 002 010 
説教所の脇にある小高い丘に、幸ノ浦を作ったご先祖さまのお墓が並びます。

ところで、「お墓」とは何なのだろうか?

 

少し考えて見たいと思いましたが、かの柳田國男氏でさえ手こずったと云われる難問、私にはとてもとても・・・ですので、下記の本とその評価記事を御紹介します・・・m(__)mです。

 

「お墓」の誕生 ─ 死者祭祀の民俗誌

[著者]岩田重則

 

[評者]鶴見太郎

[掲載]週刊朝日20070223日号

 

日本の「お墓」の変遷を探る

 

 日本人はいったいいつから遺骨、そしてそれを入れる「お墓」という空間に執着し始めたのだろうか。何気ないことかも知れないが、実はこの問いかけは日本史上の大問題でもある。

 

 例えば平安時代の貴族は、自身の近親者がどこに葬られたのかについて、ほとんど関心を払っていない。十世紀初頭の貴族官僚・藤原忠平などは自分の先祖の埋葬場所についての正確な記憶すら持っていない。

 

 無論この背景には、古代から日本人を縛り続けてきた死穢(しえ)(遺体)に対する強い禁忌の念があった。かつて柳田国男と傘下の民俗学者は、日本の墓を「両墓制」という用語で説明した。遺体の埋葬場所とは離れた別の場所へ石塔を建立し、死穢を介さない石塔のほうを祭祀の対象とするシステムだ。死者を怖れた時代と仏教受容によってその障壁が除かれた時代の重層を説くこのモデルは、見事に日本の墓制を解き明かしたかに見えた。

 

 しかしここに重大な落とし穴があったと本書は考える。仔細に見れば、「両墓制」が想定する型の墓地はむしろ少数であった。だが、この事実を踏まえず、沖縄に日本の祖霊祭祀の原型を求める柳田によって同地の習俗がそのまま本土に敷衍され、詳しい検証がなされないまま定説化したことによって、知らず知らずのうちに日本の墓の「原像」というべきものが作られてしまったのである。

 

 この違和感を下地に、本書は周到な方法によって日本の墓制を分類し、その変遷を再検討していく。その結果、中世において土葬・火葬にかかわらずなされなかった石塔建立が、近世の寺檀制度で次第に民間へ浸透し、我々には馴染み深い「先祖累代」と刻んだ墓石が成立するのは近世後期だったという意外な行程が描き出される。

 

 「あるべき仮説」によって原資料を歪めることに著者は強い批判を込める。靖国神社に祀られる戦没者を一種の「両墓制」で説明しようという議論への反駁もまた、しっかりとした方法意識を経ているだけに明快である。


以上、完全なるコピペ・・・m(__)mです。


2013-10-26 002 011 

その、お墓の下には二又に分かれた防空壕が残ります。
ご先祖様に守られ、とても頑丈な防空壕です。

幸ノ浦 幸之浦荒神社

1)江田島町北部・幸ノ浦神社 
1710年(宝永7年)幸ノ浦地区の戸数わずかに1戸、人口が4名、石高は無しです。
ところが、わずか50年後の1760年(宝暦10年)には2町7反の土地と11石7斗の石高を記録しています。

ちなみに、幸ノ浦の開祖とされる、田頭家は広島からの入植だと云われ幸之浦荒神社の元は田頭家の氏神でもあったようです。

その、田頭家について・・・


1701年(元禄14年)宮島管絃祭において、御座船還御のおり洋上において突然の暴風雨に襲われました。

御座船は江波、阿賀の救援船で転覆を免れましたが、陸上の灯火がすべて消えてしまったために、方角を見失い海上を漂うのみでした。

 

それを察知した、江田島幸ノ浦の田頭新蔵が臨機応変、宮島大鳥居を示すかがり火を焚き、それを目当てに怒涛をのり切りって無事に還行が叶いました。

 

その事により毎年、幸ノ浦の田頭家から宮島へかがり灯火の献灯がなされるようになりましたが、のちかがり灯火に替え、直径2メートル、3本のローソクが立てられる大提灯が掲げられることとなりました。

 

この大提灯は普段、この幸ノ浦神社で保管され、今も田頭家により献灯が行なわれています。

推測ですが、この功績により宮島からの保護と支援(お墨付き?)を頂き、幸ノ浦の開発が一気に進んだのでは・・・(*^。^*)です。

注: 1町とは約1ヘクタール、一石とは100升、お米1升は約1.5キログラムですので、1石は約150キログラムとなります。

 

1石は当時の成人1人が1年間に消費する、お米の量にほぼ等しいと見なされ、1/10町である1反で1石、1町で10石の収穫が標準でした。

 

2町7反で11石7斗の石高ですので、当時の幸ノ浦地区では標準的な田んぼに比べ半分以下の収量です。 

2012-10-01 002 129 
宮島に献灯する、かがり灯火のようなヒガンバナが・・・
ちなみに、現在の社殿は明治10年9月の再建になります。 

2014-02-09 003 051  
荒神社の建つ境内は古鷹山系の北斜面を転がり落ちたと思われる苔むした大石に囲まれた小丘で、神社建立には最適の地です。

2012-10-01 002 121 
神社境内に登る石段です。

100409 027 
神社正面から・・・。
 
2014-02-09 003 037 
正面に、明治拾年九月御改築、幸之浦荒神社、と墨書した松板が掲げられ、拝殿天井には大きな木箱がつるされていて、中に宮島管絃祭(旧暦6月17日)に用いられる田頭家の大提灯が格納されています。
また、拝殿側面に荒神社の御由来書があり、それによりますと御祀神は素戔男尊(スサノオノミコト)であり、さらに田頭家とのご縁などが記されているようですが・・・
私には読めません・・・(^_^;)でした。

2012-10-01 002 122 (800x592) 
拝殿内に掲げられた、天橋立画です。
奉寄進
大正拾壱年 丸子保吉  
九月吉日 小中??

2012-10-01 002 123 
昭和御大典記念
明治三十七年八月二十九日ヨリ九月四日マデニ亘ル遼陽戰闘中
露國軍ヨリ我ガ第五師團ニ發射セラレシ野砲彈
山口小三郎


2012-10-01 002 127 
ちっちゃいけど品のある拝殿と、それを引き立てる巨大な転石・・・

2012-10-01 002 125 
境内も拝殿も奇麗に整理されていて気持ちの良い空間が作り出されています。

2012-10-01 002 128 
いやいやぁ~ ・・・(*^。^*)すてきです。

大須 いいとこ撮り 2/2

1)江田島町北部・大須地区 
見て廻るだけならとても魅力のある地区ですが、何世代にもわたりこの地で生活をするとなると・・・

2013-12-23 004 014 
三方を岩山で囲まれた小さな入り江に、ぎっしりと家々が立ち並びます。

同じように、平地の少ない秋月地区や津久茂地区では、まだ山の斜面を削って屋敷を作ることができましたが、大須地区の山々は急峻な岩山ばかりで、人の力で削り取るなど到底不可能、墓地となるだけの雛段を作り出すのがやっとのこと・・・(^_^;)です。

2012-10-01 002 105 
現在多くの家々が放置され廃屋が目立ちますが、最盛期の昭和21年には、この大須地区の戸数は132戸、人口が566名、家々を結ぶ路地さえ確保できない密集状態でした。
メイン道路は溝に板を渡した、いわゆるドブ板通り、それさえ確保できず家々の前庭や裏の軒下が公共道路として使われていました。

2013-12-23 004 088 
ドブ板はなくなり、コンクリ-トやグレーチングに変わりましたが、道の広さは変わりません。
居間のガラス戸から30cmもない距離を人々が行き交いますので、プライバシー?とかは・・・
大須地区民の、み~んなが一家族・・・(*^。^*)です。

2013-12-23 004 017 
この大須地区には、他地区では見ることのない、長屋作り?的な建物が数軒あります。
狭い土地ですので、真四角な建物ならわかる気がしますが?・・・。
個人的なイメージですが、北の日本海海岸で見たことがあるような?、ないような??、独特な造り???・・・(^_^;)です。 

2013-12-23 004 074 (800x600) 
納屋として作られたようですが?・・・

2013-12-23 004 076 (800x600) 
もしかしたら?ですが、葉タバコの乾燥用に作られた???・・・

2013-12-23 004 091 
庇の短い白壁作りの民家の壁面です。
景観の良い海に面した側ですので、現代の建物なら大きく解放するのですが、防潮堤の貧弱な当時であれば、北からの潮風を防ぐために???

2013-12-23 004 058 
もちろん、狭い土地には最適と思われる四角い家の方を多く見ますが、他地区に比べ庇が短く詰められて敷地目いっぱいに建っています。

2013-12-23 004 031 
軒下を通る狭い路地にジンギスカン鍋が立て掛けてありました。

聞いた話ですが、かって江田島が蜜柑景気で賑わっていた頃、観光みかん園での食事メニューとして、ジンギスカン料理が定番だったとか?
また、そのような場所でジンギスカン料理の提供を始めたのは、江田島町が発案発祥地だとか?・・・

ジンギスカン鍋、私んチにもありましたが使ったのは1回?くらい・・・(^_^;)です。

ちなみに戦後の一時期、江田島町の緬羊生産は全国でも上位の生産量と品質を誇っていました。

大須 いいとこ撮り 1/2

1)江田島町北部・大須地区 
風光明媚な土地ではあっても、潮流と北風をまともに受け、残る三方から急峻な岩山が迫りくる地形であったため集落の形成には時間がかかりました。


1710年(宝永7年)の記録では、切串地区の石高111石、人口120名に対し隣りの孝ノ浦地区は人口4名で、石高は無し、大須、差須浜地区では人口、石高ともに記載がありません。


1745年(延享2年)になって、鷲部の勘兵衛が大須差須浜にコウゾ畑を開いたとされる覚書が残っていることから、彼が大須の開祖と云われます。

 

さらに、1793年(寛政5年)の絵図には「大おふす」「さす浜」「あなじ泊り」「さこう田」の地名がありますので人家や田畑が作られ、人の往来も始まったと思われます。

 

ちなみに、大須開祖の勘兵衛から二百年後の昭和21年2月には、大須、差須浜地区の総人口は556名、戸数132戸、大須国民小学校児童数141名(幸ノ浦の児童も含む)を記録しました。

 

また、勘兵衛が入植当時からの松が「大松の黒松(周囲4.5m、高さ20m)」として広島県文化財天然記念物に指定されていましたが、昭和51年11月17日松くい虫被害のために切り倒されたと江田島町史にあります。


2013-12-23 004 086 
今も「江田島町立 大須小学校」の門標がのこり、校舎や校庭、桜の木々も当時のままとなってはいますが、大須小学校が廃校となったのは2006年3月、学区は切串小学校に統合されました。

2013-12-23 004 044 
大須尋常小学校の創設には諸説ありますが、明治中期に切串の分校として幸ノ浦におかれ明治24年、大須尋常小学校として独立、ほぼ現在地に校舎をかまえたとされます。

ちなみに明治33年に同じ学区の幸ノ浦地区も含め全就学児童は45名、同年8月20日、小学校令により修業年限が4年に統一され、明治40年さらに修業年限を6年とし、加えて2年の高等小学校が義務教育とされました。
小学校6年、中学校が3年と9年間の義務教育が課せられたのは、1947年(昭和22年)4月1日からです。


2012-08-06 002 048 (800x598) 
教室の窓に瀬戸の波しぶきが飛び込みそうな位置に建ち、沖行く船や、風に流れる白い雲を眺め、裏にそびえる大須山からは赤や黄色の落ち葉が吹き込んでくる、そんな夢みたいな小学校があったなんて・・・

こんな学校なら、ずう~っと留年してもいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。


111107b 017 (800x600) 
元、大須小学校・・・ え、え、なぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

2013-12-23 004 087 
もと大須小学校の校門前にある民家の軒下に、ラムネの空瓶が・・・
最後の大須小学校運動会で、ラムネの早飲み競争とかがあったのかも・・・(*^。^*)です。


2012-08-06 002 043 
現在ある、鉄筋コンクリート3階建ての大須小学校が完成したのは昭和53年2月23日です。

それを記念し、さらには機関車のように強くたくましく、就学児童のおおいなる成長を願って、小学校からも近い海岸にD51の動輪が設置されました。

その説明プレートには

・・・ D51形式蒸気機関車の動輪 ・・・


この動輪は「デゴイチ」という呼び名で、みんなに親しまれていたD51形蒸気機関車の動輪です。

「デゴイチ」の仲間は1115両もあって、昭和11年から昭和20年まで造られ、貨物列車を専門にひっぱる最も代表的な蒸気機関車でした。

とても力持ちで、平たんな所ですと、1100tの貨物列車をひっぱって、時速85kmで走ることもできました。


又山陽本線の箱根といわれた瀬野駅と八本松駅急勾配の後押おし機関車としても活躍しました。

この動輪が走った距離は2,038,715kmで、それはちょうど地球を50回も廻ったのと同じくらいの距離になります。

そして主に名古屋、米原近くの東海道本線や山陽本線、呉線など西日本で活躍しました。


・動輪の直径 1.4m

・動輪の重さ 3,025kg

 

この動輪がついていた蒸気機関車の履歴は下のとおりです。

・名称 D51形式蒸気機関車

・車号 D51435

・製造年月日 昭和15年9月25日

・製造会社 日本車輌株式会社

・車両用途廃止年月日 昭和42月9年2月25日

・最終走行距離 2,038,715km

・大きさ全長 19.73m 巾 2.78m 高さ3.98m

・機関車の重量 125t

 

設置年月日 昭和53年8月

寄贈 大須小学校P.T.A

2013-12-23 004 018 
土壁に杉板を重ねた、もと大須農協の店舗兼倉庫です。

2012-10-01 002 109 
電話、電報の取次店?
今は、みかん畑から携帯電話でリアル画像が送れるって・・・(^_^;)です。

右上に、電線を保護する碍管や碍子が見えますので、戦前の建物?かも・・・

2012-10-01 002 107 
農協建物の裏側です。

画像は、2012年10月1日、第46回衆議院議員総選挙の12月16日をひかえ、杉の板壁に2枚、寺田稔氏のポスターが貼られています。
スローガンは「信頼と実行」、前回の選挙で敗れた民主党三谷氏に圧勝し、現衆議院議員としてご活躍中です。

先ほど寺田氏のTweetsをチラ見したら

 

・・・・リース方式を活用して小口農家の農地を借りて大規模化を行い農業法人を中心に担い手支援を行うもので、有効に活用されればかなりの効果が期待できます。まだ具体的な申請要件などはこれからです。積極的に国の施策を活用し農業振興と「攻めの農業」の実現を図ってまいります。

 

以上、コピペ・・・ m(__)mです。

農協の板塀にポスターが貼られただけのことは・・・(*^。^*)あるようです。

2013-12-23 004 090 
画像の撮影は2013年12月23日、この日の板塀には日本国総理大臣安倍晋三氏のポスターが貼られていました。

スローガン? 目標? 「日本を、取り戻す。」・・・ (*^。^*)です。

句読点の付いた、力強い文となっていますが・・・
安倍氏にかぶさるように、皇帝ダリアが植えられています。

大須 大須瀬戸

2014-01-27 003 001 (800x710) 
フェリーの船長から頂いた、「廣島彎 1/75000」昭和5年6月7日海軍水路部発行の海図です。
大須瀬戸最狭部の大須椎ノ木鼻から似島外方ノ鼻まで約800m、最大水深42m、潮流は下げ潮流1kt、上げ潮流3/4ktで、海底電線が横切っています。

ちなみに戦後の海図には、大須山(259m)、大原山(343m)と標高が記されていますが、当時(戦前)の海図では広島、呉湾近辺の標高が故意に抹消されています。


2012-08-06 002 033 
瀬戸に向かう大型貨物船、江田島市(能美海上ロッジ・中町・高田)と広島(宇品)を結ぶ高速艇、長く伸ばしたロープの先にカキ筏を結び全力で引っ張る小型タグボートです。

03110020.jpg 
かっては大須港へも立ち寄っていた市営フェリーですが、現時点ではこの航路を走るフェリーは無く、似島の北側を廻り、江田島(三高)と広島(宇品)を結ぶ航路(江田島汽船)に集約されています。

(画像は2003年3月11日のものです。)
 

2013-12-23 004 099 
似島下高山をバックに、マツダの車を運ぶ自動車専用運搬船「第二東洋丸」です。

ちなみに「第二東洋丸」は2008年10月30日、呉市にある「警固屋船渠株式会社」の第二工場で進水、大阪の海運会社「三徳船舶株式会社」が保有管理し、マツダで作った自動車を広島から東京や千葉に運びます。

全長115m幅20mで、載貨重量が3605DWT、 総トン数4898GT:乗用車715台と、 トレーラーシャーシ40台を搭載できます。


110613 196 
艦番号DE-229、 艦名あぶくま、 三井造船玉野事業所において19881231日進水、 19891221日竣工、護衛艦隊第12護衛隊に所属し呉基地に配備されました。

呉港を出港してから約30分後に大須瀬戸を通過します。


2013-12-23 004 104 
呉港に帰投するため、瀬戸へと急ぐ、輸送艦「しもきた」です。

艦番号LST-4002、艦名しもきた、 三井造船玉野事業所において20001129日進水、 2002312日竣工、 第一輸送隊に所属し呉基地に配備されました。


2013-12-23 004 117 
「しもきた」は先日、1月15日午前8時ごろ、阿多田島沖合において、釣り船「とびうお」と衝突した「おおすみ」艦番号401と同型艦で、全長 178.0m、全幅 25.8m、 深さ 17.0m、基準排水量が8,900 tで最大速力は22ktです。

衝突現場は大須瀬戸から西に20分くらいの航路上です。
 

潜水艦(大須瀬戸) 
Google マップで見る大須瀬戸です。
航跡をのこして呉港に向かう潜水艦が写っています。


潜水艦(大須瀬戸)A 
大須瀬戸を行く潜水艦の拡大画像・・・(*^。^*)です。

2012-10-01 002 038 
大須林道からもよく見えます・・・(*^。^*)です。

CIMG4249.jpg 
真下に大須瀬戸を見ながら、ゆうゆう飛行船が往くこともあります・・・(*^。^*)です。

大須 大須林道

1)江田島町北部(大須林道・海岸周回・県道297号)a 
大須から大須砲台跡(大須山)を経由し、幸ノ浦峠までの全線が開通したのは2、3年前です。 

111107b 017 
大須から大須砲台(大須山)に登る途中、木々の間から大須地区が一望できます。
手前が大須集落の甍、右に白く3階建ての元大須小学校があり、防波堤手前の赤い桟橋が大須フェリーの発着場・・・(^_^;)でした。
大須瀬戸を挟んで、対岸には似島が大きく横たわり、さらに広島市の五日市方面が遠望できます。
三角形の山は似島の下高山(203.1m)で、安芸小富士はもう少し右になります。


2013-03-31 002 030 
南側、津久茂瀬戸の方向です。
山桜の花が白く輝き、春霞の海面にはカキ筏が整然と並びます。

ちなみに、カキ筏(12m×25m)にはホタテガイの貝殻を串刺しにした、長さ10m(5m×2本)のワイヤーが700本海中に吊るされ、1本5mのワイヤーからは100個~150個の大粒カキが収穫できます。

とすると、カキ筏1台で14,000~21,000個、殻つきのカキ1個を100円として140万円~210万円なり~~~ ・・・ヽ(^o^)丿です。

注) カキ筏のサイズは地域により10m×20mだったり、ワイヤーの全長も水深やプランクトンの浮遊状態により10m~6m等さまざま、1台当たりのワイヤー本数も600本~800本、もちろんカキの収穫量も天候その他の状況により激変します。
いわゆる「みずもの」・・・(^_^;)です。


111107b 035 
中央に見える三高山(砲台山401.8m)の尾根には日露戦争を控え急遽構築された「三高山堡塁」があります。
この三高山堡塁は西日本最大規模とも云われ、280mm榴弾砲6門、ピッカーズ式9連加砲や、弾薬庫等を備えた総面積6万坪の巨大な堡塁で、併設の大那沙美島砲台、鶴原山砲台、鷹ノ巣低砲台、岸根砲台、鷹ノ巣高砲台、室浜砲台、大君砲台、早瀬第一堡塁、早瀬第二堡塁、休石砲台、高烏堡塁、大空山堡塁と、広島市段原の要塞司令部をもって、広島湾要塞とし1926年(大正15年)8月1日まで広島湾と呉軍港の防備に当たりました。

今は「創造の森森林公園・砲台山」として整備されていますが、「夏草や 兵どもが ・・・」 (^_^;)です。


111107b 029 
三高砲台山の右に鶴原山砲台、さらに岩根砲台の乗る岩根鼻、奈佐美瀬戸を挟んで大奈佐美砲台の有った大奈佐美島、背後は鷹ノ巣高砲台、低砲台のある宮島です。

2012-10-01 002 056 
大須瀬戸に向かう巨大鉱石運搬船です。
船名が分かりませんので目測ですが、おそらくパナマックス型のバラ積船(鉱石運搬船)・・・(^_^;)です。

 

ちなみに「パナマックス」とは、パナマ運河を通航できる最大船型という意味で、長さ900フィート(約274m)以内、幅106フィート(約32m)で、喫水12m(熱帯淡水において)、最大高が57.91m以内の船で、ばら積み船の場合は載貨重量トン(D/W)が6万〜68,000トンクラスの船を指します。

111107b 043 
青い海に弧を描いて進むのは、宇品港から高田、中町港に向かう旧江田島市営フェリー(現在この航路は高速艇のみ運行)です。

2014-01-11 002 068 (800x599)  
広島市街や元宇品のプリンスホテル、宇品灯台も見えます。

111107b 062  
北側直下には幸ノ浦、右上、切串から沖へ伸びる屋形石の岬、飛行機雲の先には矢野の絵下山デジタルTV電波送信用鉄塔がかすかに・・・(*^。^*)です。

110613 198 
幸ノ浦から切串にかけて、江田島では珍しく平地が広がりますが、元は山、広島市の海岸埋め立てで土石が削り取られた跡です。
40年が経過し、やっと緑が・・・(^_^;)です。


2012-10-01 002 047 
眼下は幸ノ浦地区、おむすび形の島は峠島です。

2013-03-31 002 011 
林道を彩るゲンカイツツジ、3月20日ごろから咲きはじめ約1ヶ月楽しむことができます。
ちなみに、ゲンカイツツジは日当たりを好みますので、高木の多い林内よりも林道工事で削られた法面や岩肌の見える荒れた土地で本領を発揮・・・(*^。^*)です。

大須 北西部海岸道路

1)江田島町北部(大須林道・海岸周回・県道297号)a 
津久茂から海岸沿いに差須浜、大須、幸ノ浦までの農業用道路が開通したのは昭和48年5月、一般車両も通行できるように大須港、差須浜港をまたぐ橋が架けられたのが、昭和54年9月になってからです。

また、現在でも一部離合が困難な個所があり、順次道幅を広げる工事が行なわれています。


2012-08-06 002 068 
津久茂側から見た、差須浜の方向です。

ほぼ全線にわたり道路の路肩が堤防の役割をしていますので、純粋に自然海岸と呼ばれる場所は少ないのですが、まだ自然と触れ合うことのできる海岸線が残っています。

最新の土木技術を駆使した、道路兼用であって手軽に「さと海」に親しみ、遊べる親水海岸道路とかにするなら、いつやるの? いまでしょう・・・(*^。^*)です。
 

2013-12-23 004 119 
これは、杭打式垂下とよばれるカキの養殖法です。
大正末期に発案され昭和20年代には全盛となりましたが、今は水深の深い沖合でカキ筏を使った、筏式垂下養殖法が一般的です。

現在、このような杭打式垂下法はカキの採苗や、幼貝の生育を一時的抑制する生育調整、幼貝を空気中に露出させることにより、風や日光などに当てて耐病性を向上させる目的、等で使われています。


広島県のカキ養殖海面(江田島近海) 

ちなみに、広島湾から江田島市周辺にかけての海域は、県内でもとくにカキ養殖に適していて、江田島市のほぼ全周が赤く塗られたカキの養殖海面となっています。

カキ生産量 
県別のカキ生産量では広島県が断トツの一位、江田島市のカキ生産量を示す最新のデータは見当たりませんが、養殖海面の広さから見ても第一位、あるいはそれに次ぐ生産量を誇っていることに間違いはないとおもいます・・・(*^。^*)です。

注) 上の図は広島県水産海洋技術センターで作成された「広島県のかき養殖漁場」のコピペ、下の表「カキむき身県別生産量」は広島市農林水産振興センター水産部HPからのコピペ・・・m(__)mです。

2013-10-03 002 007 
人の作った人工物ではありますが、今は風景の一部として自然と同化しています。

ちなみに松の枝下に見えるサーモンピンクの部分は、花崗岩中に時々見ることのできる、ペグマタイトと呼ばれるもので、後期白亜紀(1億年~6500万年前)この地域の花崗岩が固化する直前に濃集し、最後にゆっくりと固まったために大きな結晶と化したものです。

ピンク色の部分がカリ長石、灰色半透明の部分が石英で、黒っぽい雲母などを含むこともありますし、その成長過程で空洞が生じた場合などは、そこで自由成長を始めた石英が水晶となって残る場合もあります・・・(*^。^*)です。


2012-08-06 002 065 
南の方向に津久茂山、右の山裾からが津久茂瀬戸で、さらには江田島湾へと続きます。

2012-08-06 002 057 
西の沖合には、白い灯台の安渡島(10.6m)が浮かび、貨物船やタグボートが行き交います。
手前に浮かぶのはカキ筏、それに舫っているのは釣り船みたいです。
左上、背景でとんがっているのは宮島の霊峰、岩船岳です。


2013-12-23 004 078 
差須浜(大須2丁目)の集落を過ぎると、鼻グリの岬が大きく海へと突き出し、その先にある大須(大須1丁目)の集落とを完全に2分します。
気のとおくなる歳月を、瀬戸の急流と寄せる荒波で削られた花崗岩岩肌は、島内唯一の奇怪な造形美を作り出しています。


2013-10-03 002 032 
穏やかに見える波頭ではあっても、まさに「涓滴岩を穿つ」・・・(*^_^*)です。

2012-08-06 002 046 
大須瀬戸を往く巨大鉱石運搬船、呉の日新製鋼所へ鉄鉱石を運びます。

2013-10-26 002 046 
瀬戸を吹く潮風に若松が耐えます。

大須 差須浜の石切山

1)江田島町北部・差須浜石切山 
「石切山」って呼ばれているかどうかは不明ですが、差須浜の南に、かって沢山の石を切り出した断崖絶壁があります。

2014-01-11 002 056 (800x600) 
昭和の40年代まで稼働していた石切場です。
画像に見えるピークの標高が112m、その最上部の大岩にまで削岩用ドリルの痕跡が残っています。


2014-01-11 002 027 (800x600) 
昔は登山道もあったようですが、今はイノシシのお散歩コースとなって踏み固められた獣道をトレースして登ります。
乾燥地で日当たりが良いせいか、イバラの類が多く、うっかり踏み込むとサルトリイバラならず、人捕りイバラ・・・
場所は違いますが昔、両手両足首元を巻かれ、10分ばかりまったく身動きが取れなかったこともあります。
画像は、人の血を吸って真紅に染まったサルトリイバラの実・・・(^_^;)です。


2014-01-11 002 053 (800x586) 
頂上付近の断崖から見る絶景、石柱にはL字の切込みがありますので、標高標識ではなくて境界線標識のようです。
このあたりの尾根から北側に戦時中に作られた、丸いすり鉢状の遺構や、兵舎跡と思われる平坦面がありますので、国有地境界?を示す標識なのかも・・・です。


2014-01-11 002 047 (800x600) 
左に断崖絶壁を見ながら石切山の尾根を北に進むと、直径10m位の廻りを石で囲ったすり鉢状サークルが2つあります。
作りは荒いですが、天端石に切れ込みがあったり、下部には水抜き?用に開けられた穴などもあり、プロの石工さんの技が見えます。


2014-01-11 002 039 (800x600) 
ネット資料「呉周辺の防空砲台」によりますと、大須山防空高角砲台の付属設備として構築されたもので、150cm探照灯や、空中聴音装置などの設置跡だと思われます。
石積みサークルの縁から見た西の方向には、広島湾への出入口となる奈佐美瀬戸や、その向こうには宮島の霊峰、弥山も見えます。


2014-01-11 002 042 (800x600) 
北の方向に目をやると眼下に差須浜の集落、そして似島と安芸小富士、その向こうに霞むのが広島市の江波から廿日市あたりです。

2014-01-11 002 036 (800x600) 
すり鉢状サークルの脇に、戦後になって積まれただろう無名の石碑が立っています。
工事中の事故、あるいは米軍航空機の攻撃により亡くなられた方がおられたのかも・・・
黙祷 ・・・ m(__)mです。


2014-01-11 002 050 (800x600) 
さらに石碑の裏側には、風化し真砂土となった尾根の一部を土塁代わりに利用した50坪くらいの平坦地があります。
コンクリートで作られたトイレの一部らしきものも残っており、探照灯や聴音装置を運用管理する兵員舎、あるいは発電機建屋などが置かれていたのでは?・・・


2014-01-14 002 013 (800x601) 
余談となりますが・・・
かって日本中の町や村々では、それぞれに近くの山から石を切だして整形し、家々の土台としたり、石畳を敷き、路肩を固め、護岸工事から、防波堤、ほぼすべての工事において、その地域の石が重用されていました。
よく、日本は木の文化、西洋は石文化だといいますが湿潤な大地から木の建造物を守るその基礎は石ですし、加藤清正の熊本城しかり、西洋に負けない石積み技術とその建造物は今も沢山残っています。

ただ近年になって、コンクリートが万能と吹聴されるにいたり、古い石積みは取り壊され、またはコンクリートを盛り上げて埋められるという情けなさ、崩れたのなら積なおし、増設も縮小も自由自在、しかも無限に再利用ができる、エコな日本の石文化が忘れられようとしています。

今、生コンを運ぶミキサー車を見ない日はありませんが、切石の角をハンマーで叩いて一つずつ丁寧に積み上げる現場や、鉢巻をし腰に分厚いエプロンを着けた石工さんの姿を見ることはほぼ皆無です。

画像は、切串、小用間の林道にある石積みです。
昭和53年の江田島町大規模林野火災の復旧工事として、昭和60年頃に作られた広場の土手を補強するものです。
おそらく江田島町(現江田島市)のからむ公共事業で、石積みが使用された最後のもので、のちのちは指定文化財となるかもの貴重な歴史遺産?・・・(^_^;)です。

大須 大須山・大須防空高角砲台跡

1)江田島町北部・大須山 
大須地区の背後にそびえる、標高259.5mの大須山は、広島湾やその入口である奈佐美瀬戸が一望できる絶景の地です。

そのため太平洋戦争(大東亜戦争)初期、敵航空機の飛来を想定した防空用高角砲陣地が構築されました。


2014-01-11 002 059 (800x600) 
近年になり、大須林道が整備されたため、大須山防空高角砲台跡へは車で上ることができるようになりました。

ネット資料「呉周辺の防空砲台」によりますと「大須山防空高角砲台」が計画されたのは昭和16年2月、当初3基の高角砲を設置する予定でしたが、昭和17年7月、89式40口径12.7cm連装高角砲2基をもって竣工したとあります。

同時に付近の山々や見通しの良い尾根を利用し、150cm探照灯や、空中聴音装置などが配置され、密林の奥にはこれらの設置跡や管理用兵舎の痕跡が今も埋もれています。

ともあれ、林道ピークの駐車場から大須山山頂に向かう途中、最初に目にするのがこの赤レンガで作られた兵舎です。

2014-01-11 002 060 (800x591) 
窓枠から覗いた内部です。
設計は良さそうですが、造りは雑に見えます。


2013-03-31 002 025 
付近には水源となる谷川などはありませんので、屋根に降った雨水を利用していたのかも・・・

02270002.jpg 
天井や裏側を囲む壁は崩れ落ち、往時を想像する手掛かりはありません。

2013-03-31 002 019 
兵舎の横を通って高台に出ますと、コンクートの大きなすり鉢状窪地が三つ、おむすび形に配置されています。

画像にあるすり鉢状の遺構は、89式40口径12.7cm連装高角砲の設置跡です。
この砲は、日本海軍が高角砲としてはじめて設計したもので、昭和7年に正式採用となりました。
砲弾重量23kgを装薬34.32kgを使用して、最大射程14,622m、高度9,439mまで打ち上げることができました。

100519 015
林道の完成に合わせ、一度はきれいに整備されましたが・・・

2013-03-31 002 016 
砲台跡から見る、広島宇品の方向です。

2014-01-11 002 064 (800x599) 
砲台跡を離れ、大須山山頂に向かう登山道から・・・

対岸の似島にそびえる安芸小富士(278.1m)がもっとも美しく見える場所です。


2014-01-11 002 065 (800x600) 
右にカメラをふると、奥に元宇品、右の小島が江田島と宇品の中間に浮かぶ峠島です。

2014-01-11 002 074 (800x600) 
大須山頂上(259.5m)に埋められた三角点の石柱です。

2014-01-11 002 093 (800x599) 
真冬の澄み切った青空のもと、雑木林にすこ~し暖かい風が吹くと、そこに妖精たちが現れます・・・(*^。^*)です。

大須 大須フェリー桟橋・大須港・差須浜港

江田島航路(2014-01-10) 
上図は江田島市HP「バス・船時刻表 路線検索」 よりコピペした航路図です。

江田島市では航路やバス路線の見直し作業をしておりますので、上記航路等をご利用の場合、江田島市HP等で最新の情報を取得更新してください・・・m(__)mです。

2014年1月10日現在、大須港に立ち寄る定期航路はありません。

2013-03-31 002 032 
大須フェリー用桟橋と大須港待合所です。
かって通勤通学の人々でにぎわった大須桟橋ですが、先年、定期航路から除外されました。
いつの日か再びの賑わいを夢見て、・・・(*^_^*)です。


2012-08-06 002 036
この付近の航路幅はわずか数百メートル、大須瀬戸はひっきりなしに大型船が行き交いますが、大須港に立ち寄る船はありません。


2012-08-06 002 048 
この付近の道路が整備されるにあたり、旧大須港を内に取り込んで、海側にバイパス道を作りました。
そのため、道路が防波堤代わりとなり、港への船の出入りは道路に架かる橋の下を潜るという、当地では斬新な港が出来上がりました。

画像にはバイパス道路兼堤防と、今は廃校となった大須小学校、その右に旧大須港への出入り口となる橋が見えます。 

2012-08-06 002 052 
バイパス道路の橋から見た旧大須港、港へ伸びる傾斜はスベリと呼ばれるもので、船を整備したり、陸に揚げ降ろしするためのものです。

2012-08-06 002 050 
今は道路の外側に作られた新港が主に利用され、こちらの旧大須港は台風などが予想される場合の避難港として使われているみたい?・・・(*^_^*)です。

2012-08-06 002 060 
旧大須港とまったく同じ作りとなった、差須浜港です。

2012-08-06 002 061  
港の大部分がコンクリトで補強されていますが、右奥に見える石積みは昔の差須浜港を風波から守った堤防の一部です。

2012-08-06 002 059 
半農半漁、ずっと昔からそうやって生活ができていたはずなんですが・・・

2012-10-01 002 064 
大須林道から見た大須地区の家並みです。
廃校となった小学校と、道路の手前に旧大須港、外に新大須港とフェリー桟橋、航路幅数百メートルの大須瀬戸を挟んで対岸似島が見えます。

大須 大須川?

グーグル地図(北部江田島町)川名 
大須、差須浜の地区は、島内でもっとも風光明媚な地域ですが、当世、電気や水道そして車道のない暮らしは成り立ちません。

大須地区には小さな谷川が二本ありますが、急勾配の山裾から直に海へと流れ落ちますし、西の差須浜地区には、その谷川さえもありません。

花崗岩の岩肌を下る谷川には、途中に水を溜めるような場所もなく、少しの日照りにもやきもきする生活が長く続きました。

その大須、差須浜地区に待望の簡易水道が設置されたのは、東隣の幸ノ浦地区も含め、昭和45年6月で、両地区全129戸への給水が始まりました。

2013-12-23 004 039 
大須地区には2本の小川が流れますが、これは東側を流れる水源です。
かぼそい流れですが、整備された庭園を思わせるすてきな景観です。

2013-12-23 004 032 
残念ながら、その岩清水からほんの数m下流は、コンクリーで縁取られ、家庭排水も混じった汚水路に早変わり・・・(^_^;)です。

また、西を流れる谷川はコンクリートで覆われた暗渠となり、川ではあっても簡易車道としての役割が重要視されています。
 

2013-12-23 004 061 
西隣りの差須浜地区には谷川らしいものはなく、崖下(現在は道路下)に湧く清水や、手掘りの井戸が利用されていました。 

2013-12-23 004 052 
大須地区と差須浜地区を分ける岬の高台に、手入れはされていますが、年代を感じる給水タンクが稼働中です。
昭和45年6月の簡易水道設置に合わせ作られたものですが、昭和53年10月、すべての施設が江能水道企業団に統合されました。


2013-12-23 004 054 
給水タンクのある岬の高台から見た差須浜地区の家並です。

2013-12-23 004 056 
又、その岬を削って平成14年3月、農業集落排水処理場として大須浄化センターが稼働を始めましました。

大須 大須説教所・慰霊碑

1)江田島町北部・大須説教所 
小さな入り江に、家々が目いっぱいに立ち並ぶ大須地区ですが、わずかな土地を見つけて明治18年7月、待望の説教所が建てられました。

2012-10-01 002 091 
説教所は、一時期「法信寺」の寺号をもったこともありますが、西本願寺より御尊形を申し受け、教法寺住職が道士となって主管します。

2012-10-01 002 092 
説教所脇には親鸞聖人も・・・
 
2013-12-23 004 050 
頭貫や虹梁の木鼻には飾り彫りがされています。

2013-12-23 004 049 
鐘は、遠くの家々まで聞こえるように、お堂の側面に吊るしてあります。

2012-10-01 002 093 
隣家との境界、苔むす自然石に御大典記念碑(昭和天皇即位)と刻まれています。

2012-08-06 002 037 
大須の家々から少し北に寄った海沿いの道路に、昭和44年9月、戦役、原爆、大水害(枕崎台風)による犠牲者を追悼し、慰霊碑が建立されました。

2012-08-06 002 039 
明治以来の戦役による戦死者16名、昭和20年8月6日の原爆犠牲者10名、昭和20年9月17日の大水害による死者46名の御名が刻まれています。
2013-06-11 002 035 
慰霊碑の横に植えられたサンゴジュが大きく育ち、こぼれんばかりの白花を・・・(*^。^*)です。

大須 大須荒神社

1)江田島町北部・大須荒神社 
大須地区は江田島町の最北西端に位置します。
交通の便が悪く、離島振興対策として道路網が整備される以前、小学校教師には特別に僻地手当が支給されたと云います。

ちなみに、海岸農用道路(津久茂から差須浜、大須)の開通は昭和48年5月、大型車の周遊が可能となったのは昭和54年9月、差須浜港に橋が架かってからになります。
 

2012-10-01 002 094 
大須地区は、長く海上に伸びた鼻グリ岬により、東の大須と西の差須浜に分断されています。
荒神社は大須地区の東側斜面を削って開かれた高台にあり、建立は天保元年(1830年)だと云われます。
なを、現在の本殿は大正14年に江田島本浦にあった明神を譲り受け、そのさいに中門と拝殿が合わせて造営されました。


2012-10-01 002 098 
拝殿に続く中門の奥に本殿が鎮座します。
古くは木仏三体が、また明治初期のころは穀物の神とされる宇賀魂神が祀られていましたが、現在は軍艦「摂津」の艦内で祀られていた御神体と、差須浜(サスハマ)荒神社の御神体が併祀されています。

ちなみに軍艦「摂津」は、1912年に就役した排水量21,443トン、河内型の戦艦でしたが1923年10月1日のワシントン海軍軍縮条約により退役、のち誘導標的艦として使用されていました。

1945年7月24日、米軍機による呉軍港空襲のおり、差須浜の西、アナジトマリ沖で大破着底、そのまま終戦を迎えました。

除籍となったのは、同年11月20日です。


2013-12-23 004 029 
本殿は、庇を長く前方に突き出し中門に繋げてあります。

2012-10-01 002 095 
拝殿の天井に、滑車を使って吊り上げられた大太鼓・・・(*^。^*)です。

2012-10-01 002 099 
この位置なら、雨風も最小限でしょうし・・・
大太鼓を運搬するための湾曲した担ぎ棒がまたすばらしいアイデア・・・(*^。^*)です。


2013-12-23 004 022 
拝殿に掲げられた奉納画です。
「花と龍」昭和46年8月 大松森一 作、と読めます。


2012-10-01 002 103 
拝殿脇に「三盛亀甲に花菱」をアレンジした鬼瓦が・・・。
近年になって拝殿屋根瓦の修復があったようです。


2012-10-01 002 104 
大須荒神社の境内から見た、大須地区の家並です。
右上に鉄筋コンクリート三階建ての旧大須小学校、その先には大型船の行き交う大須の瀬戸が広がります。


江田島古地図(芸藩通史A) 
江田島町史掲載の古地図(芸藩通史1825年)です。
シシアカリ、大オウス、鼻グリ、サスハマ、油石、アナシトマリ、姥子岩、サカウ田、長濱、大江、江ノ内越、小濱の地名が見えます。

津久茂 いいとこ撮り 1/1

1)江田島町北部・津久茂海岸 
南向きの斜面に石垣を組み、雛段となって並ぶ津久茂地区の家々は、人が暮らすには文句のつけようのない、最適地です。
ただ、今の車社会にはまったくのお手上げで、急こう配の細い道に繋がる家々の多くがやむなく廃家となっています。


2013-10-06 002 072 
高台から見る家並、その先には波穏やかな江田島湾が広がります。

2013-10-06 002 100 (800x600) 
高台に建設中?の「見晴茶屋」

定年を迎えられた、おじさん?の作だと想像しますが、はたしてお客さんに立ち寄っていただけるのか???

里帰りのお孫さん専用の茶屋かも・・・(*^。^*)です。
 

2013-10-06 002 098 (800x600) 
丁寧に築かれた石垣の上に、何軒もの家が建ちます。

12040023 (800x601) 
この地区で、最も典型的な作りをしたお家です。
石垣を積んで平らにした敷地に、花崗岩石材をつかって幅広な階段が作られ、上り切ると手入れの行き届いたお庭に出ます。
母屋の玄関はお庭の中央付近にあって、急峻な狭い土地でも庭と玄関まわりにゆとりの気配りがなされています。
上り石段のすぐ脇には、納屋が作られ一階の部分は家畜小屋や農機具置き場に、また二階の日当たりのよい部分を小部屋として使えるように工夫がされています。


2012-07-15 002 013 
土壁に杉板を巻いた、いかにも農家の蔵らしい情緒の見える仕上がりです。

2013-05-05 002 006 
日光を遮るものが何もない、完全南向き、オールガラス戸のお家・・・(*^。^*)です。

2012-10-15 002 057 
この地区では珍しい平地に作られたお家です。
昔の作りらしい、二階部分を低く抑えて風を逃がす構造です。


2012-10-15 002 060 
往時の津久茂地区は、キャベツ畑に埋まってるんじゃないかってくらい盛んに作られていましたが、・・・(*^_^*)です。

2013-10-03 002 001 (800x583) 
津久茂地区の北東の外れ、海岸沿い道路の脇に、海上自衛隊の実弾射撃訓練施設があります。

立ち入りを希望する人はいないと思いますが、周りは鉄条網で囲まれていて、高台には警備の見張りが立っています。

外から訓練風景を見ることはできませんが、突然にタァ~ン、タタタタァ~ン、とライフル射撃の発砲音が聞こえ、一瞬、ビクッとします。

ちなみに、右奥に並んでいる小さな白いマスが訓練標的で、通常、200ヤード離れた位置から、直径が20cmの黒丸を狙います。

津久茂 植物

1)江田島町北部・津久茂海岸 
気候の温暖な島内では、どこにでも花木や草花が咲きあふれていますが、津久茂地区も例外ではありません。

2012-04-15 002 012 
津久茂港から高台を見あげ、「なんじゃこりゃあ~~」って、声をあげたくなる奇怪な樹形をした大木は、樹齢数百年?のムクロジの樹です。

12040028 (600x800) 
葉っぱが緑のときは、あまり目立ちませんが、秋も深まってくるとその全容が・・・

ちなみに、ムクロジの果皮にはサポニンが多く含まれていて、石鹸として使用されるそうです。
また、黒い種子は固くてよく弾むため、羽子板の羽や、数珠などにも使用されるとか・・・(*^。^*)です。

2012-04-15 002 044 (800x595) 
道路脇の側溝までもが花盛り・・・(*^。^*)です。

110702 173 
農道脇のオオキンケイギクに止まる、ツマグロヒョウモンの雄です。

ちなみに、北アメリカが原産のオオキンケイギクは、大輪の綺麗な花を咲かせますが、繁殖力が強すぎるために、2006年特定外来生物に指定されました。
 

110708 053 
農道の路肩から垂れ下がる、ヒメヒオウギズイセンです。

むし暑い時期に涼しげな花を咲かせる、南アフリカが原産の園芸植物ですが、暖地では野生化が問題になっています。


2013-05-05 002 134 (800x601) 
農道脇には外来種ばかりではなく、よその地区では少なくなったタツナミソウの群落もあります。

2013-05-05 002 121 (800x599) 
ギンランだって・・・

2013-05-05 002 095 (800x600) 
雑木で日陰となった落ち葉の中に、ギンリョウソウだって頭をもたげます。

2013-10-06 002 023 (800x600) 
秋には、農道に覆いかぶさる木立の枝から、アケビがぶら下がります。
 
2013-07-17 002 021 (800x600) 
津久茂山は江田島町では唯一、堆積岩(海溝堆積物が列島に付加したもので、玖珂層群と呼ばれる地層)で出来ています。

花崗岩の他地域よりも保水力があり、土壌が肥えているせいか、よそではあまり見ない、ウバユリや、テンナンショウの仲間、樹木ではバラ科のリンボクなど、珍しい植物を見ることができます。

津久茂 海岸

1)江田島町北部・津久茂海岸 
津久茂地区は津久茂山(お鉢山)を中心に、北東の部分を除いた他の三方がぐるり海に囲まれています。

111101b 021 
津久茂山の北には、荒代と呼ばれる砂浜があります。

もとは、葦の生茂る干潟でしたが防波堤を築き、潮を遮って農地とし、残された砂場を利用してアサリの観光養殖を始めました。
初期の頃はうまくいっていましたが、近年になりアサリの移入金額が急上昇し採算割れをした為に現在、休業状態です。

ちなみに、自然発生のアサリは水がきれい過ぎて、餌となるプランクトンが不足気味なことと、冬場の荒波が強すぎて、うまく生育することができません。


100723 033 
アサリの移入は止まっても、漂着するゴミが止まることはありません。
北方に口を開いた砂浜ですので、少しの北風でも怖ろしい量の、漂着物が流れ着きます。

画像の撮影は7月23日、夏場は北風が吹くことも少なく、この程度の量ですが、台風の後や冬場の漂着ゴミは、見る人を驚かせるのに十分過ぎる量(ぶったまげ~~~)・・・(^_^;)です。

青少年交流の家に研修で訪れた小学校児童の、清掃活動体験学習に必要な教材ゴミ?の漂着が途切れることは絶対にありません。
 

CIMG0618.jpg 
荒代の砂浜から西に向かうと、ゴツゴツとした岩場が続きます。

島ではあっても多くの海岸線が人口護岸となっているなか、津久茂山の西側には貴重な自然海岸を見ることができます。


2013-10-13 002 042 (800x596) 
満潮時には海中に沈みますが、海岸段丘風に削られた花崗岩岩盤が広がります。

2013-10-13 002 027 (800x600) 
波や風に削られた花崗岩の造形美・・・

2013-10-13 002 011 (800x591) 
よせる波と耐える岩、それに根を張り枝をかざす松・・・

2012-06-14 002 138 
西の突端、津久茂瀬戸に立つ大岩の上、ミサゴが巣作りの真っ最中・・・(*^。^*)です。

CIMG4405.jpg 
初夏のミカン畑から見る、津久茂瀬戸・・・(*^。^*)です。

2013-10-06 002 040 (800x601) 
海から数百メートルも離れた、アスファルトの林道で、両腕を広げ威嚇行動を示すアカテガニです。

陸上生活によく適応したアカテガニは、普段、津久茂山の中腹近くまで登り、湿気た斜面に穴を掘って生活していますが、年に一度、7,8月の大潮の時期、仲間と連れ立ってゾロゾロと山を下ってきます。

満潮となった夜、雌は波打ち際に立ち、お腹に抱えた卵から孵ったばかりの幼生(ゾエア)を海に放出します。
その直後、付近の雄と交尾して卵を生み、一か月後の大潮でふたたび幼生(ゾエア)に育てて海に放ちます。

海で成長した幼生が、小ガニとなって陸に上がるのは10月ごろ、さらに2年で大人になり、寿命は数年から十数年といわれます。

津久茂 旧津久茂小学校

1)江田島町北部・旧津久茂小学校 
江田島市立津久茂小学校は、2007年3月末をもって廃校となりました。

2013-10-06 002 073 (800x600)  
津久茂小学校の前身となるのは「梅林舎」と呼ばれ、明治7年5月、浜の谷の浜井新八氏宅に設立され、男女教師1名、男子児童58名、女子児童2名からの出発でした。

その後、津久茂中小路に尋常小学校として開校、長くこの地にありましたが、昭和55年4月、旧海軍兵学校大原分校の用地として造成された地に、鉄筋コンクリート3階建ての新校舎を建設し6学級を想定しました。

しかしながら、その後の児童数は減少の一途、ついに平成19年3月末をもって廃校となりました。
 

2013-10-06 002 113 (800x587) 
何処から種が飛んできたのでしょう。
人っ子一人いない校庭を、北米原産のイトバハルシャギクが黄色い花でうめています。


2013-10-06 002 114 (800x600) 
強健なはずの夏草でさえ枯れ葉が目立つ、その中に、「江田島市立津久茂小学校閉校記念植樹」と記した白い標柱が埋もれています。

2013-10-06 002 110 (800x600) 
校門脇の赤い郵便ポストが、手入れをされなくなった、木々の枝葉に覆い隠されていきます。

100214A 028 
段々畑の上から見る、旧津久茂小学校と津久茂地区の家並み・・・(*^_^*)です。

2013-10-06 002 109 (800x601) 
校門の近くに立てられた、市議会選挙のポスターです。
閉校前の児童数は、こんなに多くはなかったはず・・・(^_^;)です。


2013-10-06 002 005 (800x600) 
キンモクセイの香がすべてを包み込みます。

津久茂 国立江田島青少年交流の家

1)江田島町北部・青年の家 
津久茂山の北に「国立江田島青少年交流の家」があります。
もとは「青年の家」とよばれていましたが、近年になって、少年も含めた名称に変わりました。

海洋活動が可能な、全国唯一、海の「青年の家」として昭和43年7月22日開所、ピーク時には年間10万人もの若人が研修に訪れたと云います。
その後、経営の危うい時期もありましたが、平成13年独立行政法人に移行、平成18年名称を「青少年交流の家」とし、あらたな事業展開をはかっています。 

2012-08-06 002 070 
入口に通ずる道路にはフェニックスの並木があり、海洋と南国感を醸し出しています。

ちなみに、一般的にフェニックスと呼ばれている、この椰子は、アフリカ西海岸やカナリア諸島が原産の、「カナリーヤシ」のことです。
日本では東京以南で生育可能で、宮崎県では県木に指定されています。
 

111101b 054 
高台にある管理研修棟です。

110630 085 
両側を小さな岬に囲まれて、交流の家専用のプライベートビーチがあります。

110630 090-1 
真っ白い砂のビーチでは、専門スタッフのもと、遊泳やカヌー研修が行なわれます。

2013-01-31 002 020 (800x597) 
別の入り江には、カッターの格納庫や揚収設備もあって、上級者には宮島まで往復する、1日コースも用意されています。

2012-11-25 003 005 (800x601) 
毎年11月中旬には、地域交流の一環として、フェステバルが開かれ、地元住民にも開放されます。
 
2013-11-16 002 016 (800x600) 
今年のフェステバルでは、白いカモメが、流木で作られた長椅子の上を舞っていました・・・(*^。^*)です。

津久茂 国道487号

1)江田島町北部・R487 
江田島市内を走る唯一の国道、R487が津久茂地区の南側海岸線を巻きます。

このR487は、江田島町津久茂と能美町高田の間が津久茂瀬戸により分断されているため、当然、車や人が行き交うことはできませんし、その間を結ぶ連絡船もありません。

将来的には架橋も考えられてはいるようですが、国道指定(1993年)されて20年たった今も、仮想国道のまま・・・(^_^;)です。


12040033 (800x600) 
仮想国道R487の津久茂側始点はこのあたり、瀬戸を挟んで対岸の能美町高田とは海上わずか、500mもありません。

音戸、早瀬は馬でも越すが、越すに越されぬ津久茂瀬戸・・・(*^_^*)です。


2013-09-06 002 031 (800x602) 
仮想国道を波で蹴散らして進む、能美町中町と広島市宇品を結ぶ双胴式高速艇です。 

ちなみに、船名はロイヤル千鳥 

船主 江田島市

建造 三保造船所 大阪

竣工年月 1993年8月

総トン数 79.00トン

全長 26.08m

型幅 6.80m 

機関 ディーゼル×2

機関出力924ps×2

旅客定員191名

元は「わかしお」の船名で「広今あきなだ高速」の所有船でしたが、2006年11月、広島今治航路の廃止にともない江田島市へ移管されました。


03170004 (800x600) 
「杭打垂下法」と呼ばれるカキの養殖風景ですが、現在はカキ筏を使った「筏式垂下養殖法」が主流で杭打垂下は採苗や、蓄養などに利用されています。

2013-09-06 002 005 
津久茂港に面して、江田島農協津久茂支所・・・が、ありました。
錆びたシャッターが下ろされ、往時を偲ぶものは、前面に掲げられた「江田島農協津久茂支所」の看板と、柱にぶら下がる「日本電信電話公社収入金取扱店」の札と・・・(^_^;)です。

2012-08-06 002 078 
このあたりは小島と呼ばれます。
古くは、離れ島の埋葬地だったろう、小丘を迂回して国道が往きます。

お盆を前に、安芸門徒の風習である、カラフルな盆燈籠が準備され始めています。


110722 069 
国道の防波堤越に、沖を見渡せば、小舟のあいだを数十の黒い頭が浮き沈みします。
海上自衛隊第1術科学校や、幹部候補生学校の学生による遠泳訓練で、毎年7月から8月初めにかけての風物詩?と、なっています。


101010 093 
津久茂山の山裾と、国道との僅かな隙間に、とっても感じの良いお家があります。
藁ぶきの屋根をトタンで覆ってありますが、なんとものどかな雰囲気が・・・(*^。^*)です。
 

03140039 (800x600)  
家の前の畑で、ブロッコリーが・・・。

2013-10-06 002 115 
畑の隅っこに置き去りにされた、大八車の車輪が、土に埋まろうとしています。

もう、国道487号を走ることはないでしょう。

ちなみに、大八車の名称由来について・・・


* 一台で八人分の仕事ができるところから代八車。

* 車台の大きさが8尺(約2,4m)のものを大八と呼んだ。

* 現在の滋賀県大津の八町で使われていたことから、「大津八町の車」が略され「大八車」になった。


以上、ウィキペディアからのコピペ・・・m(__)mです。

津久茂 津久茂農環道

林道・農道・登山道・津久茂農環道 
津久茂山の中腹を半環状に農道兼生活道路が巻きます。

CIMG4398 (624x458) 
アスファルト舗装はしてありますが、軽トラがやっとの細い道です。
初夏のそよ風に乗って、ミカンの白銀花が一斉に香ります。


120212 030 
初冬の木枯らしに葉っぱを飛ばされた山の木々を背景に、ミカンが黄金色となって熟します。

2013-04-12 003 097 
蜜柑農家さんのりっぱなお屋敷と、裏山には宮島鳥居に使えそうな、クスノキの大木がそびえます。

2012-04-15 002 016 (800x600) 
下に目をやると、真道山をバックに超巨大なムクロジが、新芽を膨らませて芽出しの時期をうかがっています。

2012-04-15 002 048 
南向きの斜面は暖かく、冬でも花がなくなることはありません。

2012-06-14 002 095 (800x600) 
カーブミラーに写った、農道上の民家です。
きれいに手入れされたお家の前は、ミカン畑兼お花畑となって道行く人を和ませてくれます。

2013-07-17 002 027 
眼下に江田島湾と、黒いシルエットを見せる自衛艦、その先にかすむのは、海上自衛隊第1術科学校、矢ノ浦、鷲部の海岸線です。 

2013-10-06 002 079 (800x601) 
津久茂農環道から見る、第1術科学校(旧海軍兵学校)の遠景と、最奥のピークは呉市の休山(497m)です。

2012-10-15 002 009 
人家を過ぎ、津久茂山の北面に回ると農地もまばらとなり、山から傾ぐ木々で日差しが遮られます。
もとは、一面に田んぼや畑があった場所です。

津久茂 津久茂港

1)江田島町北部・津久茂港 
津久茂港は津久茂山の南面に、花崗岩の石を組んだ防波堤で囲われた、小さな港です。

2013-10-06 002 108 (800x599) 
津久茂山中腹の、環状農道から見下ろした津久茂港です。
近年になって、石垣の外側をコンクリートで補強されてはいますが、宮ノ原地区の漁港に比べれば、とても粗末な作りです。


2012-08-06 002 072 
港の立地場所として最適とは言えませんが、北風は津久茂山がしっかりと遮断してくれます。 

2012-08-06 002 073 
船が舫ってある位置までは、狭い堤防兼歩道を歩いていきます。

2012-08-06 002 074 
専業の漁師さんはいないようで、舫ってある船は大方がレジャー船のようです。

2013-04-12 003 001 
津久茂港の東側に作られた野菜集出荷場です。
この地区で作られた野菜などは、ここからトラックに積まれ、主に広島市場に運ばれますが、つい先年までは、番船と呼ばれる小船で広島へと運んでいました。

江田島の各地区には、それぞれ専用の番船があって、その地区で収穫された野菜や果物を市場へと運び、帰りには地区の商店から頼まれた品々を山と積んで往復しました。
早朝一番、それぞれの港から出る番船が、トラックに変わったのは、そう遠い話ではありません。


2013-10-16 002 005 (800x562) 
津久茂港が近代化整備をされない訳は・・・
この港が漁港ではなく、農港であったからです。

津久茂地区が、大正のころまで佐伯郡に組み入れられていた経緯と、関係があるのかは不明ですが・・・
津久茂山とその山裾だけの僅かな耕地では、生活できる訳もなく、新たな耕作地を対岸の佐伯郡高田に求め、船で津久茂の瀬戸を渡って、耕作地を広げていました。

往きは肥料を積み込み、帰りは収穫物を積んで、対岸の高田とを行き来する船を農船と呼びます。
津久茂港は、農船専用の船溜まりだったのです。 

画像は津久茂の山を右に、瀬戸を渡る農船が描かれた襖画です。
櫓と、一枚帆を巧みに操って瀬戸を行き来する農船は、昭和の30年頃までは普通に見ることができました。

帆走 
今時、帆と櫓(オール)使って昔さながらの航走をみせるのは、なんと海上自衛隊幹部候補生学校の学生たち・・・(実は、風が急に逆風に変わったので、帆をマストに巻いて、オールでもって全力で漕いでいます。)・・・(*^。^*)です。 

ちなみに、前を進む短艇のマストに掲げられた旗は数字の5を、後ろは数字の6・・・(^_^;)です。


2013-09-06 002 053 (800x601) 
津久茂港の前に広がる江田島湾は、カキの養殖に最適で多くのカキ筏が係留され、作業船が忙しく走り回ります。

2012-06-14 002 121 
津久茂瀬戸は自衛艦の出入りも多く、海峡の幅が狭くて背景も良いため、艦船ウオッチには最適な場所です。

津久茂 津久茂山(お鉢山)

1)江田島町北部・津久茂山(263,0m) 
津久茂山は、お鉢山とも呼ばれ標高は263,0mです。

江田島町内では、津久茂山のみが花崗岩ではなく、玖珂層群に属す中生代ジュラ紀の付加体で、泥岩や砂岩、チャート、石灰岩などの海溝堆積物からできています。
恐竜全盛期のジュラ紀、プレート運動により、深海から持ち上げられ、日本列島の原型となりましたが、その直後の中生代白亜紀後期に貫入した、江田島花崗岩や呉花崗岩の熱により大きく変成を受けています。

津久茂山と同じ地層は、津久茂水道を渡った能美町野登呂山や、沖美町の砲台山にあります。


2012-10-20 002 047 (800x593) 
花崗岩特有の岩肌を見せる、古鷹山の頂から見る津久茂山の東面です。

2012-08-06 002 065 
広島湾から見る津久茂山の北面です。

100330 011 
津久茂山山頂にある、花崗岩で作られた三等三角点(263,0m)です。

ちなみに三角点は見晴らしの良い場所を選んで設置されますが、必ずしも山頂に設置されるとは限らず、むしろ山頂以外の場所にあることが多いようです。
 

100330 104 
津久茂山は花崗岩の大きな台の上に乗っかっています。

その様子は、津久茂の瀬戸に面する山の西側でみられ、花崗岩と玖珂層群の境界が波で削られ、教材標本のような断面を見せています。
画像の下部、白っぽいのが花崗岩で、上部の茶色の部分が玖珂層群の泥岩です。
場所によってはチャートの互層が乗っかっていたり、断層で切られた地層などもあって、この付近の海岸は地学研修に訪れるのに最適なロケーションです。

2013-10-06 002 091 (800x602) 
風化により、津久茂山から転がり落ちた、玖珂層群の泥岩や砂岩、チャートを組んだ石垣です。

2013-10-06 002 084 
家々の土台も、畑の石垣も、坂道の石段も、すべて津久茂山からの転石が利用されています。
 
100330 056 
津久茂山には、戦前の一時期、銅鉱山が稼働していました。
坑内には手押しのトロッコが走り、枝坑や立坑もあって総延長で数百メートルはあり、5,6人の鉱夫が働いていた?・・・とか。

画像は津久茂山の西面に掘られた坑道の入口です。
入口近くまで、地下水が湧きだしていて、坑道内部を見ることはできません。
 

20120203145613225[1] 
津久茂鉱山から掘り出された鉱石サンプルが、今も筑波の標本倉庫で眠っています。
なを、表中に古生代泥岩とありますが、最新の地学研究では中生代ジュラ紀とされています。

上記カタログは「地質標本登録データベース」からのコピペ・・・m(__)mです。


水晶採掘 
干潮の時間帯を狙えば、津久茂山の海岸線を歩くことができます。
波に削られた崖を丁寧に見ていけば、ペグマタイトに開いた晶洞に、水晶や、長石の結晶を見つけることもあります。

津久茂 井戸

1)江田島町北部・井戸 
津久茂地区で、水源となる山は、ほぼ円錐形をした津久茂山(263.0m)ただ一山のみです。
しかも、山裾は急傾斜を保ったまま、海へ落ち込んでいますので、途中で水を溜めておくことはまず不可能な地形です。   


2012-08-20 002 045 (800x589) 
津久茂地区の集落を海上から見ると、家々が積み重なって山に登る様子が秋月地区と酷似します。
秋月地区も背後の山々は低く、雨水が小川となる前に海水とまじり合います。 
平地の水は、すでに先住者が占有していますので、新参者はあらたな水を求めて山を登る???。

もちろん、今は全戸に水道が入っていますし、江田島町内でもっとも早くに下水道が完備されたのは、この津久茂地区です。
ちなみに平成25年9月1日現在での津久茂地区の世帯数は271、男女合計で618名です。


2012-07-15 002 010 (800x600) 
津久茂地区の海岸部から、品覚寺などのある山間部へと登るメイン道路です。
とはいっても、軽トラがギリギリ対向できるくらいの狭い道、しかも道路の半分は小川の上をコンクリ-トの板で覆い、暗渠となっています。

おそらく、この暗渠となった小川が津久茂地区最大の水量?を持つ小川です。
源流は品覚寺よりも少し上になりますので、標高差やく100m、総延長やく400m程度のおっそろしく短い小川・・・(^_^;)です。


2012-12-31 002 020 (800x600) 
「津久茂の古いいど」は、旧江田島町教育委員会作成の学校教育資料より、コピペ・・・m(__)mです。

おそらく、津久茂小学校(2007年3月末廃校)生徒や父兄の方々の調査協力で作られたと思いますが、貧弱な小川からの給水を諦めた昔の人々は、井戸を頼りに生活圏を広げていったのだと想像します。

津久茂の人々にとって幸いしたのは、津久茂山の大部分が花崗岩ではなく、変成した堆積岩だったことです。

雨水を一気に流す花崗岩にくらべ、風化の進んだ変成堆積岩は保水力があり、雨水を少しづつ流します。
しかもその変成堆積岩の下には、地下水を遮断する花崗岩岩盤がありますので、井戸から地下水が湧出する好条件がいっそう高くなります。

とはいっても、津久茂山一山では、雨水を受けるための絶対量が不足ですが・・・
 

2013-10-06 002 086 
もっとも標高の高い(やく100m)ところにある、「ふろのかわ井戸」です。
あまり手入れがされていないようですが、塩ビ管が何本も入っていますので、今も庭の散水や、野菜畑の灌水に使われているようです。

2012-07-15 002 003 (800x580) 
もっとも下部に掘られた「村田の井戸」です。

井戸端会議ができるよう?まわりに石段が積まれ、雨よけに花崗岩の石柱で屋根が葺かれています。
井戸のまわりで大根や芋を洗い、脇に置かれたバケツの中には、西瓜が浮んでいたかも・・・(*^。^*)です。


2013-05-05 002 004 
今は、井戸端に集まる人も無く、石柱で支えられた屋根も朽ち果て・・・

110524 043 
名は不明ですが、古くからの共有井戸のようです。
近くのお婆さんが、時々お掃除に・・・


2013-01-29 002 023 
石垣を組んだ段々畑の隅にも・・・

2013-09-06 002 065 (800x601) 
農業用のため池です。
が、この池の周りは雑木が生茂り、畑も田んぼも人影も・・・


2013-01-29 002 004 
水つながりで、・・・江田島町中央浄化センターです。

江田島町で下水道事業の基本計画が始まったのは、平成元年からで、平成4年に事業認可を取得、津久茂地区から事業を開始することとなりました。

同年、津久茂1丁目に中央浄化センターの建設が始まり、平成9年6月2日、津久茂、宮ノ原地区から供用が開始されました。

ちなみに、平成24年3月31で、江田島市の人口26.301人に対する下水道供用者は13.993人で、普及率は53,2パーセントです。

さらに、広島県全体では69,9パーセント、全国では75,8パーセントです。

津久茂 品覚寺

1)江田島町北部・品覚寺 
浄土真宗本願寺派観海山品覚寺の開山は天承5年(1577年)僧円寿(俗名 板垣竜之進)が地蔵を本尊として真言宗海見山地蔵院品覚寺としたのが始まりです。

二代浄信のとき、浄土真宗本願寺派となって雲海山と号し、のちに観海山と号します。
ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代(1185~1333年)の作、地蔵菩薩像は東大寺大仏建立に尽力した大僧正行基(668~749年)の作と云われます。


2012-10-15 002 038 
品覚寺は、津久茂の家々を見下ろす、津久茂山(263.0m)の南東面、標高80m付近にあります。
急斜面の狭小地に、高く石垣を築き山門や鐘楼堂が配置されています。

蛇足として、南東と東南の言い回しについて・・・
南と北を先にする表し方は西洋から、東西を先にする表し方は中国からの慣わしです。
方位を言う場合は、西洋式に北・南が優先で、北東・南東・北西・南西を使います。
で、地名とかを言う場合は、東北地方、東南アジアとか、西南戦争、都の西北とか・・・(^_^;)です。


2013-04-12 003 044 
急な石段を登ると、石垣からはみ出さんばかりに山門が被ります。
門柱には「浄土真宗本願寺派 観海山(なぜか草書体?) 品覺寺」と表札が掲げられています。


110524 030 
山門から見下ろす津久茂の家々、江田島湾とカキ筏、さらに対岸に宮ノ原、国有無番地(旧海軍兵学校)、鷲部、江南の地が一望できます。

2013-04-12 003 039 
山門の横には、ずっしりと重々しく鐘楼(鐘つき台)が建ちます。

2013-04-12 003 041 
宝暦5年(1755年)に作られた村民自慢の梵鐘は、昭和16年8月30日勅令の、「金属類回収令」で供出、現在の梵鐘は昭和30年10月に寄進されたものです。

ちなみに、「金属類回収令」とは、日中戦争の長期化による物資不足を補うため、官民が所有の金属類を回収するため、昭和16年8月30日勅令、同9月1日から施行されました。

が、戦火は収まることなく、太平洋戦争に突入、さらに回収を進めるために、18年8月12日さらに強制力を強めた「金属類回収令」に置き換えられました。

 

これにより、お寺の梵鐘は言うに及ばず、学校の二宮尊徳像、台所の鍋釜まで、あらゆる金属が没収されることとなりました


2013-04-12 003 038 
鐘楼横には、白壁もまばゆい宝蔵が並びます。


品覚寺には、寛政(1789~1801年)末期のころ、僧叡石泉が滞在し「観海山記」、「三帖和讃観海編」を編修、その後も多くの学僧が訪れたと云います。

また、兵学校が移転以来、多くの生徒がここを訪れ、記名帳に落書署名した、「津久茂帳」なる綴りが寺宝として残ると云います。



2013-04-12 003 037 
眼下の江田島湾が借景となり、狭小な境内が極楽浄土の金雲となって、浮かびます。

2012-10-15 002 035 
あろうことか、昭和56年7月4日の早朝、前夜から続く激しい雨が、やっと小雨に変わったその時、突然品覚寺裏山の土石が、轟音とともに本堂を押し倒しました。
本堂には朝参りの門徒さんが、集まっていたのですが、一瞬にして大屋根の下敷きとなり、門徒集4名の尊き御霊を送る大惨事となりました。

元禄10年(1697年)建立の本堂は見る影もなく、やっと山門と、鐘楼を残すのみでしたが、昭和58年10月28日、本堂を再建、亡くなられた方々の名を銘記した碑を建てました。


2013-09-06 002 004 
小島に建つ、津久茂住民先祖代々のお墓の向こう、最上部に、品覚寺大屋根が見えます。

津久茂 荒神社・胡子神社

1)江田島町北部・津久茂荒神社 
津久茂山(お鉢山)とその山裾に広がる津久茂の地は、大正14年2月1日までは佐伯郡に属していて、完全な陸続きであるにもかかわらず、安芸郡に属する江田島村とは違う行政区にありました。

ちなみに、津久茂の地名由来について、湿地に自生する、カヤツリグサ科「フトイ」の古語である、江浦草(つくも)からであると江田島町史にあります。

さらに、津久茂の開祖とされる、石垣(石内迫)勘左衛門は1325年(正中2年)2月、伊豆の国から渡来し、津久茂山の7合目あたりに居を構え、のちの、明徳の頃で(1390~1393年)、戸数7軒と云われます。
 

2012-04-15 002 050 (800x602) 
桜花の元、津久茂荒神社拝殿が建ちます。

2012-10-15 002 023 
津久茂荒神社の由来については不明ですが、6月の荒神祭にあずきご飯をお供えし、おさがりを参詣者で奪い合うならわしがあると云います。

2012-07-15 002 019 (800x597) 
拝殿の背後、白い花崗岩台座の上に本殿が鎮座します。

2012-07-15 002 026 (800x589) 
本殿扉の前には、特大のオノミチキサンゴが供えられ、お守り役の白猫が不審者を威圧します。

ちなみにオノミチキサンゴは、江田島近辺でもまれに見られ、海水がきれいで潮通しの良い、やや深い場所に生息します。
そのため普通には見ることが出来ませんが、底曳きの網などに絡まって上がることがあり、珍しさもあって、神社やお寺に寄進されたりします。

干潮時、ときどき目にする、キクメイシモドキもりっぱな造礁サンゴです。
海水の停滞する湾内や、どろや砂の舞う海岸でも生育できるため、江田島湾内や広島湾近郊でも見つけることのできるサンゴです。
 

2012-07-15 002 017 (800x584) 
拝殿に掲げられた、1枚の合成写真。
特殊潜航艇5隻に分乗し、真珠湾攻撃の先陣を飾った九軍神の遺影です。

この時、奇跡的に助かり、捕虜となった酒巻和男少尉は、復員後トヨタ自動車に入社、トヨタ・ド・ブラジルの社長や現地日系商工会理事となって、ご活躍されました。

ちなみに、額下には「昭和37年11月18日 奉納 浜野峯次郎」とあります。
 

2012-06-14 002 173 
津久毛港の防波堤にほど近い場所に、胡子神社があります。

100723 107 
この胡子神社の由来は不明ですが、豊漁を祈願した津久茂漁師さんの気概と結束力を現わしたものであろうと・・・m(__)mです。

津久茂古地図 
江田島町史掲載の津久茂古地図の一部をコピペしたもの・・・m(__)mです。
津久茂地区には、古地名が沢山残っていて、うらやましい限りです。

シオヤとありますので、海岸で塩を煮詰めていたんでしょう。
小島はもっと古い地図では離れていましたので、干拓で陸続きに・・・
アジュウタって???
  
 
2012-08-20 002 036 
対岸の、鷲部地区から見た、津久茂山とその山裾に並ぶ津久茂地区の家々です。
お鉢山とも呼ばれ、ほぼ円錐の津久茂山ですが、家々があるのはこの南東面のみ???です。
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
検索フォーム
カテゴリ
リンク
最新記事
月別アーカイブ
プロフィール

わきです

Author:わきです
FC2ブログへようこそ!