高田 古地図・地質図

高田古地図PNG 
能美町誌に掲載された高田村の古地図(芸藩通史)を元にして書き写したものです。
地名など明瞭でない部分は適宜勝手な主観により創造して記載しています。

改悪となっている部分もありますので、正確には能美町誌、または芸藩通史でお確かめください・・・m(__)mです。

高田古地図南東PNG 
高田村の南東部です。

堀越城跡:それらしい地形が残り、近くにはお墓や耕作地がありますが、樹木が鬱蒼と茂り見晴らしはまったくききません。

小屋城跡:それらしい地形が残りますが、畑地となっておりまた周囲は竹藪や樹木で囲まれます。
南の真道山方向は視界があり、北の竹藪に堀?のような窪みもあります。

八瀬島:戦国のころ小屋城・北堀城の城主として八瀬島氏の名が残ります。

建外田藪:広島藩指定の矢竹の生育保存地です。

北堀城跡:登山道は不明です。

大将軍:位置不明。大将軍とは、本来は方位のことを司る星神(金星)で、陰陽道で祀る八将神の一とされます。

七天達磨:位置不明。意味不明なれど「七転達磨」とすれば、七転び八起の達磨となりますが???。

小城跡:山頂にクスノキの大木が見えますが、登山道は不明です。

光泉寺跡:江戸時代に書かれた「能美島志」宝暦13年(1763)に、光泉寺は高田邑にあり、今延命地蔵像あり、これを堂に安んず、傍に樹あり、其葉茶の如し、然れども其の名を識る者なし、土人これを無名木(ななしぎ)という。と伝わります。

光源寺:僧善了により天正13年乙酉(1585)に開かれ、僧受玄により寛文元年(1661)浄土真宗に帰依しました。

社倉:位置不明。明和7年(1770)広島藩は「社倉法示教書」を公布、広く領内に社倉設立を奨励、天明6年(1786)には町方及び郡中各村あますところなく社倉が造られ、以後明治初年まで存続したと云います。

高田古地図北西PNG 
高田村の北西部です。

えぼし岩:位置不明。烏帽子(えぼし)とは平安時代から近代にかけて和装での礼服着装の際に成人男性が被った帽子のことです。

シノ宮:位置不明。四之宮とは、その地域の中で4番目に社格が高いとされる神社のこと。

建岩風呂山:確証無之候得共。故人の伝ふる處昔玄海翁(1350年頃)と云ふ高僧が高田の里に来たり。岩風呂山に登り頂上の大岩を一撃すると大岩は三つに割れ一つは越後国の高田の里に、一つは伊予国の高田の里に遠く飛散し。此地に残りし大岩に四朗九郎と名付け、この岩を御神体とす。

アメノミ子:位置不明。天の皇子、アマテルの御子、皇太子のオシホミミといわれます。

ウシ口城門:位置不明。丑ノ口城門、十二支の丑の方向(北東微北)にある城門です。

明神ノ鼻迫門:位置不明。迫とは、山あいの小さな谷、あるいはせり出した崖のような地形を云います。

s-江田島大断層PNG 
沖美町是長から高田地区北部を横断し、江田島町津久茂まで、市内で唯一の断層が確認されています。

高田湯田地区の昔話に温泉が湧いていたと云いますのも、あるいは、この「江田島大断層?」が関係していたかも?・・・(^_^;)です。

ちなみに、この断層に並行して「是長鉱山」「三吉鉱山」「畑鉱山」「津久茂鉱山」があり、湯田の温泉、入鹿神社には湯に関係する大きな湯釜もありました。

これら鉱山からの金や銅の産出はごく僅かな量であり、採掘期間も数年ですが、江田島市内でこの断層付近以外に鉱山はありません。

そもそも、金(Au)は酸性の熱水に溶けやすく地上付近で熱水が冷めることにより析出します。
堆積岩である玖珂層群内の微量な金が花崗岩の熱で暖められ、金を含んだ熱水となって断層の割れ目に沿い、上昇して地表付近に集まったと思われます。

つまりは、金のあるところには熱水と熱水が上昇する通路(断層)がある。
江田島にも温泉が自噴する可能性がある?・・・と。

風が吹けば桶屋がもうかる・・・発想・・・(*^。^*)です。

地質図は「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」よりコピペ・・・m(__)mです。

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昭和23年4月7日に撮影された高田地区の航空写真(国土地理院)です。

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高田 いいとこ撮り 6/6

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高田宗崎地区から見た対岸は、江田島町の津久茂地区です。
この津久茂村は安芸郡江田島村と合併する1925年(大正14年)2月まで、高田地区と同じ佐伯郡に属していました。

津久茂村と能美の高田村、中村との交流は古くからあり、お鉢山(津久茂山262.8m)が海岸まで迫る地形で耕地面積の限られる津久茂村には、高田、中村地区に耕作地を持つ者も多くいて、毎日農船を仕立て津久茂瀬戸を渡り、山地の開墾はもとより遠浅の中田湾に新開を干拓する事業にも多く加勢しておりました。

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江田島町津久茂地区から見た高田の宗崎地区です。

余談となりますが、画像の右の小山を越した先に湯田とよばれる地名があります。
昔々の話として、この地には温泉が湧いておりました。

土地の人々はこの温泉を神聖なものとし、決して汚れ物を持ち込み洗濯をするなどのことはなかったのですが、それを知らなかったよそ者が温泉の湯水で洗濯を始めた途端、今までこんこんと湧き出ていた温泉水が普通の冷たい湧き水に変わったと云われております。

この湯田地区には、江田島市内で唯一の断層が東西方向に走っており、地底からの割れ目に沿って温泉水が湧き出ていたのでしょう。

たまたま、よそ者が温泉水で汚れ物を洗っていたそのときに、地震とかの地殻変動で温泉水脈が閉じられたことは十分考えられます。
ちなみに、そのよそ者が村人から責められることはなかったとか・・・。

将来、また画像のような白い湯けむりが立ち昇る日が来る?・・・かも?・・・(*^。^*)です。

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高田では多くの家の屋敷内に柿の木が植えられています。
柿の木は年輪を重ねた和風のお家にとてもよく似合います。

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野菜好きな鳥(ヒヨドリ?)がキャベツの葉っぱをつぎつぎとかじっていきます。

少し驚かせてやろうと、ウサギのぬいぐるみを持ち出し、うまい具合にディスプレーした???のですが・・・

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収穫したタマネギの最適な貯蔵法・・・(*^。^*)です。

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うぅ~~~ん。
残念、タマネギが長ネギになっちゃいましたぁ~~~ ・・・(^_^;)です。

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此方は保存食用にとぶら下げてあるわけではありません。
まぁ~、緊急時の非常食として貴重な蛋白源にならなくもないのですが・・・

超巨大、キイロスズメバチの巣です。
最盛期には働き蜂だけで一千匹もの数になるとか・・・(^_^;)です。

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農作業に使う耕運機です。
小回りが利くように?小型に作られていますので、おそらくビニールハウス内専用仕様じゃないかと思います。

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背負い籠(しょいこ)と呼ばれます。
竹で編んでありますが、目が粗いので蜜柑とかジャガイモなどの小さなものは運べません。

当地では昭和40年頃まで、葉タバコの栽培が盛んでした。
タバコの葉っぱは、団扇の2、3倍はある大きな葉っぱですから網目から落ちることもなく乾燥場へと運ぶことができます。

キャベツや白菜、肥料作りのための落ち葉(シバ)なども運べたかも?です。

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籐(トウ)を編んでで作られた乳母車(ベビーカー)です。

載せられている籐籠が地元高田で作られたものかどうかは不明ですが、大正10年頃より能美地区において、籐製バスケットや籐椅子、籐籠乳母車が盛んに作られたそうです。

もしも?その当時の製品であれば?、この籐籠乳母車で育った赤ちゃん、今は百歳・・・(*^。^*)ですね。

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物怖じしない、高田の猫 ・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 5/6

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農道わきの草むらには前衛芸術家創作???の、投げ込み生け花が普通に咲き並んでいます・・・(*^。^*)です。

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セイタカアワダチソウとコスモス、遠い異国からやってきてまさか日本でここまで大きく花開こうとは・・・。
ちなみにセイタカアワダチソウは切り花用観葉植物として北アメリカから移入、コスモス(オオハルシャギク)はメキシコの高原地帯が原産でヨーロッパ経由で渡来したようです。

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春先の自家用菜園です。
黄色い花はハクサイ、白い花はダイコンです。
孫が来れば食べさせてやろうと、少し多めに植えた残りが花開いたようすです。

眼下は高田の街並みと、その先の霞む江田島湾です。

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水仙の上に枝を張り出して紅梅が咲きます。

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立春前でも瀬戸の日差しで満開に、品種はカンコウバイだと思いますが?・・・(*^。^*)です。

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庭先に植えられたシダレ桜です。
シダレ桜の手前にあった家屋は取り壊されて更地となりましたが、桜は記念樹としてそのまま残されています。

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ビニールハウスの鉄骨材の前に植えられていたコマツナ?・・・野菜も、もともとは野草?・・・(^_^;)ですから・・・。

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物置と路地との僅か20㎝の隙間に、タラノキと水仙が・・・。

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皇帝ダリアが3m、負けず嫌いなサヤインゲン、伸ばせば5mはいけるのですが支柱が2mしかありませんので・・・(^_^;)です。

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大きく育っても屋根よりちょっと低いキンカンと、それなりにがんばって屋根よりも高くなったトウジュロ・・・(*^。^*)です。

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高田公民館、江田島市高田出張所です。

公民館前に書き出されている使用予定表には、三味線教室・楽習院カラオケ・民謡教室・広報仕分け作業・中、畑いきいきサロン・日本将棋連盟江能支部、じつに盛り沢山・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り 4/6

2)江田島町南部 高田地区 
他地区に比べ特別にというわけではありませんが、高田地区でも花好きの方は沢山おられるようで、少しでも土地に余裕があれば何かしらの花木や草花が植え込んであります。

自然力だけの造形美はどれもみな素敵で美しいのですが、人の手や想いが加わることでもっと素敵に変わる造形もあります。

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駐車スペースを残し、庭一杯に広げられた鉢植え植物の数々です。

お花屋さんとか、ご商売で鉢植え栽培をされている方を除けば、おそらくは江田島市内で一番?二番?じゃないだろうか、と思えるだけの数多くの鉢植えが並べてあります。

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白い漆喰壁の土蔵の前に、真っ赤なタチアオイの花が林立します。

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バックは黒い焼杉板の壁でも似合います・・・(*^。^*)です。

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青色が清々しい、ラベンダー・グロッソの大株です。

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通路と壁との僅かな隙間に、キンケイギクとスイセンソウが咲きます。

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畑の隅っこの、ダリア・・・(*^。^*)です。

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一気に背丈を伸ばした夏草に埋もれて、何故かサルスベリの花が一枝・・・です。

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押し寄せる雑草の荒波に立ち向かう?・・・アサガオとコスモスの雄姿・・・(^_^;)です。

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カキの花は小さくて目立たないのですが、燃えるような新緑は遠くからでも人の目を引きます。

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スモモの若葉や花が開く前に、枝下のスイセンが一足早く日光浴・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り(民家) 3/6

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農業用ため池の脇に建つお家です。
赤い土壁の上に漆喰が白く塗られ、窓にはそれぞれ形を変えたガラス戸がはめ込まれています。

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一枚のガラス戸に模様入りの小さなすりガラスが4×4の16枚、手の込んだ仕事が見えます。

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小川の向こうの小さなお家、その小さなガラス戸の前に、小さな植木鉢が整然とかわいく並べられています。

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黒く焼き焦がした杉板が寸分の狂いもなく水平に張られています。
ガラス窓も最適なバランス感覚取り付けられ、横に張られたポスターには「2015島ミュージック 音楽祭」・・・(*^。^*)だって。

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超ロ~~~ングなお家、裏側です。

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古い町屋の外壁は、ほとんどが土壁でその表面には白い漆喰が厚く塗られています。
その時代には、沢山のコテ職人さんが腕を競っていたのでしょう。

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屋根の形が美しいお家です。

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狭い建坪が最大限に工夫され利用されています。
「ハウルの動く城」の高田バージョン・・・(*^。^*)です。

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お庭もきれいですが、玄関屋根の妻壁には素敵な旭日模様が入れられています。

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毎日の手入れが行き届いた、整然としたお庭です。

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広島城の天守閣にあるような廻り縁が付けられたお家、眺めもよさそう・・・(*^。^*)です。

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明治から大正期にかけ、高田地区で盛んに生産された硬質煉瓦を土台にして造られた蔵です。

高田 いいとこ撮り(民家) 2/6

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高田旧街道から少し坂道を登った場所に他とは少し造りの違ったお家があります。

海からは少し離れるのですが、昔は網元さん???・・・かも???です。

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農家造りだと壁を横に張った板塀とすることはまれですし、二階建物の載せ方も少し奇異な感じがあります。
漁具や網などの格納用であれば少し納得なのですが???

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でも、此方から見れば農家風に見えなくもないし?・・・。
とても気を引く造りで、アイデアいっぱいの宝箱のようなお家です。

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傾斜地に作られた農家造りでよく見る建築レイアウトです。

もっとも道路に近い部分に半地下式の「落としばんや」と呼ばれる石囲いの部屋が作られています。
落としばんやは、上の階で飼育した馬や牛などの糞便や敷き藁を落とし入れ、落ち葉や農作物の残滓と混ぜ合わせて、たい肥を作るのが主目的でした。

のち、昭和30年代となり耕耘機など農業機械の普及により馬や牛が飼われなくなると化学肥料や農機具置き場となり、その上にあった家畜小屋は改装され納屋あるいは離れの部屋となりました。

母屋へ通じる坂道を上った位置に、庭とは兼用の農作業スペースがあり、最も奥に母屋が建ちます。
納屋や家畜小屋あるいは離れ部屋は母屋とは直角(曲がり屋風)に建てられ、作業スペースでもある庭に強風が当たらないよう囲みます。

市内で傾斜地に建つ農家の多くは、ほぼこれと同じレイアウトで建てられています。
とくに平地が少なく傾斜地に家々が密集する、江田島町津久茂地区で多く見られる建築様式です。

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今は町屋風建て替えられていますが、元は農業もされてた?の、かも?・・・です。

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このお家も曲がり家の半地下式です。

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平地に建てられた農家には半地下室は作られません。

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このお家には一見半地下室はなさそうですが、よく見ると・・・(*^。^*)です。

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昭和初期(20年代?)のころの標準的お家の造りです。
今は住人がいなくなり、空き地となった庭の部分が一面の大根畑に・・・(*^。^*)です。

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当分は風呂焚き用の薪に不自由することはなさそうなお宅です。

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構造材が頑丈で丁寧に建てられたお家なのでしょう。
農家仕様として建てられた、かなり古そうなお家ですが、今も物置として立派に使われています。

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戦後の建物(昭和30年代)で、初めから納屋として建てられたものです。
壁は煉瓦にも使われた高田名産の赤土で塗り固めてあります。

高田 いいとこ撮り(民家) 1/6

2)江田島町南部 高田地区 
高田地区の背後にそびえる山々は花崗岩よりも保水性に富む堆積岩(玖珂層群)であり、水に不自由する瀬戸の島にあっても、他地区に比べ、わりと容易に上質な飲み水を得ることができました。
そのため人口密度が高く、さらには相応分の耕作地を確保する必要から、家屋敷や生活道路は必要最小限とされたようです。

屋敷面積が少なくなった分を知恵と工夫で面白くしてあるのですが、そのような思い入れの強いお家も、現代の生活様式には適合しづらく次々と取り壊されていきます・・・(^_^;)です。

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長い年月をかけて手入れされたソテツとシュロの樹が、エキゾチックな和洋折半風のお家をより印象深く引き立てます。

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和洋折半の建築は一時流行期があったようで、島内でもまだ何軒かは残っていますが次第に見る機会は少なくなっています。

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お家の周りの柿の木の枝に新緑が芽生え、その下にフキの葉っぱが青々と茂り、ツツジやモミジで覆われた、まさに桃源郷的な条件を満たした、とても気になるお家がありました。

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住人もなく物置として使われている様子で、これが最後のシャッターチャンスだろうと思っていました。

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ところが・・・ぶったまげぇ~~~。
しばらくぶりに訪れると、な~~~んと、驚くほど立派にリフォームされています。

いやぁ~~~、とても、とっても、すてきなお家になりましたぁ~・・・(*^。^*)です。

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こちらのお家でも、庭の真ん中に柿の木が植えてあります。
縁側のある南向きのガラス戸の下には大きな沓脱ぎ石がおかれており、植物好きの御隠居さんが朝晩草履に履き替え、鉢植えの木や草花に水を撒いていたのでしょう。

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手入れがされなくなって、小さな植木や花々は枯れてしまったようですが、根が深く乾燥に強い柿の木やソテツ、ツツジやサツキ、ツバキの類が再び水撒きに現れる御隠居さんを待っています。

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川沿いの小さなお家、カンナの花に囲まれ、庭には柿の木があってまだ数個の赤い実が残っています。

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増築したのでしょうか、少し和洋折半的な感じのお家です。
秋草の中に、黄色いコスモスが野生化?して咲き乱れていました・・・(*^。^*)です。

高田 さつき荘・高田駐在所

s-高田グーグル地図D さつき荘 
「さつき荘(水島観光さつき園)」と「高田駐在所」とは何の関係もありませんが、高田桟橋の目の前にある高田駐在所で、さつき荘の場所を尋ねれば、きっと懇切丁寧に教えて頂けると思います・・・(^_^;)です。

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海とつつじに囲まれた田舎の料理屋「さつき荘」の前面に天高く広がるツツジ庭園です。
撮影した季節はイチョウの葉も落ちてしまった12月初旬、植え込みに点在する桜など落葉樹の葉っぱが無くなった分、小山を覆って植えられたツツジ郡の全体が良く見えるだろうと思います。

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ツツジ庭園は小山を超えたその先の谷も埋め尽くして広がります。
おそらくは御主人が一人で、毎年数メートルづつ植え増して育て上げた庭園(ツツジ山)だと想像しますが、・・・長い年月をかけ、おどろきのツツジ山が完成???です。

ちなみに、サツキとツツジの違いについてですが、一般的にサツキはツツジよりも花や葉が小型で、さらにツツジの開花時期は当地だと4月下旬から5月上旬、サツキはそれよりも一ヶ月くらい遅く咲きます。

s-DSCN9042.jpg 
対岸の津久茂側から見たさつき荘(水島観光さつき園)です。

左端の白い建物がさつき荘で、建物は旧高田小学校校舎を移築したものです。
さつき園はその右側で、画像からはみ出す位置までツツジの群落が繋がります。

さつき荘園 
ツツジ開花時期の画像(さつき荘HPよりコピペ)です。

撮影は5月初旬とありますので、一部サツキの植え込みもあるとは思いますが大部分はツツジで、品種はヒラドツツジ系を主としているようです。

園内にはツツジの他にもサクラやモミジ、イチョウなども植えられていますがツツジの花を楽しむなら四月末から五月初旬がお勧め・・・(*^。^*)です。

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高田港の前に「江田島警察署高田警察官駐在所」があります。
本物の煉瓦を使った建物かどうか?、手で触って確かめる勇気はありませんが、レンガ風の洒落たデザインです。

ちなみに、かって高田地区をレンガの一大生産地となした、その始まりは五日市の西川氏、結城氏が、高田の豊富な粘土質土壌に着目し、高田在住の福田儀助氏に煉瓦製造をすすめたことに端を発します。
大阪堺で、1年間煉瓦造りの技術習得をして帰郷した福田氏が、明治16年秋、屋敷横に窯を設置し煉瓦の製造を始めました。

その後の日清日露戦争による特需や、鉄道トンネル、下水道などのインフラ事業による煉瓦需要の急増で煉瓦産業は大発展を遂げましたが、第一次世界大戦終結後の不況や、大正12年9月の関東大震災などもあって大正14年のころには販売先の決まらない煉瓦が村内各所に山となって積まれ、昭和2年には高田村内にあったすべての工場が閉鎖されました。

高田で生産された煉瓦は海外産や他産地に比べても固く締まった良品で、地下建造物や、下水道、寒冷地での使用に適しており、北海道や韓国方面までも送られていました。

そのことから、通称「赤レンガ」と呼ばれ全国的にも有名な、海軍兵学校生徒館(明治26年、イギリス産の煉瓦を使用して建てられたという)は、高田の煉瓦を使用したのでは?といわれることもありますが、伝え聞く話では高田産の煉瓦は色が悪く、海軍兵学校生徒館に見るような綺麗な赤い色は出せなかった。
内部の基礎部分になら使えるだろうが???・・・と。
今の時代、分析器にかければ一瞬で判定できるとは思いますが、まだその様なことがなされた話は聞きません・・・(*^。^*)です。

能美町誌によれば、明治39年、大柿村大君2、鹿川村1、中村1、津久茂村1、高田村6、と13の煉瓦工場があったと記され、高田村では伊勢屋新開、瀬越新開、田中新開、大新開、清能新開に工場が建てられたとされます。

最発展期である大正5年(1916)の高田村での煉瓦生産個数は9百万個、販売金額は7万2千円なり・・・です。

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江田島市内で最もモダンな駐在所・・・(*^。^*)です。

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やっぱ、本物の高田産レンガを使ってほしかったなぁ~~~。

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蔵の土台部分に使われている煉瓦はおそらく大正の頃の高田産煉瓦です。
重い土蔵を支える強靭さは、まさに高田産硬質煉瓦の本領を発揮しています。

ただ、色は好みにもよりますが、いわゆる赤煉瓦とは呼べそうにありません。

年間1千万個近い膨大な量が生産された高田煉瓦ですが、今に残る高田産と思われるものはほんの僅かです。
売れ残り、野ざらしとなっていた煉瓦の山は、いったいどこへ行ったんでしょう?・・・ね。

高田 日本棋院名誉九段 瀬越憲作

高田グーグル地図D 瀬越憲作像 
高田港とは国道487号線を挟んで反対となる国道沿いの西側に、元日本棋院理事長 「名誉九段 瀬越憲作」の銅座像があります。

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銅座像は北面を向き、対局盤面に石を打たんとするその一瞬を写しており、正午の頃には南中した陽光が像の頭上からキラリひらめきとなって此方を射します。
「瀬越憲作先生像」は尾道市御調町出身の圓鍔勝三氏の作で、昭和五拾七年中秋の刻印があります。

台座背面に埋められた分厚い銅板には
日本棋院名誉九段 正四位 勲二等、瀬越憲作先生は、明治二十二年此地に生まれ、ニ十歳にして上京、専門棋士となり、爾末昭和四十七年逝去されるまで、戦前戦後を通じその高潔な人格、卓越した見識をもって、囲碁界の組織、囲碁の研究普及、棋士の育成等、囲碁の向上発展のために心血を注ぎその赫々たる功績は、まさに斯界を照らす不滅の大光明である。
先生逝いて十一年先生の郷党、門下生、知友相はかって、その限りない敬慕感謝の思いを新たにすると共に、世の人々が永くこの偉大なる先達を偲ぶよすがとなればと念じ、茲にこの顕彰の像を建立する。
昭和五十八年春 瀬越憲作銅像建設委員会
撰文 灘尾弘吉
と、あります。

s-瀬越健作囲碁図書 
画像はアマゾンよりのコピペ・・・m(__)mです。

生涯に100冊以上の書籍を著され、「瀬越囲碁教本」「瀬越囲碁講座」をはじめ、江戸時代の御城碁の棋譜を収めた大著「御城碁譜」全10巻、「明治碁譜」の編纂など、囲碁の技術書から囲碁史書まで幅広くかつ地道に研究されました。

s-DSCN0846.jpg 
銅座像の裏面です。
瀬越九段の羽織った紋付の背には、雪輪に抱き沢瀉(ユキワニダキオモダカ)の家紋が見えます。

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銅像から北に100mばかり離れた、旧高田街道沿いに瀬越憲作氏が羽織った紋付の背にある「雪輪に抱き沢瀉」の家紋を付けた、清楚な門柱が残ります。

今は無人の廃家となっていますが、瀬越憲作九段の生家です。

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人の気配は感じませんが、時々は庭の草取りや落ち葉の清掃に訪れる方がおられる様子です。
母屋とは直角に納屋を配した造りで、当地でもよく見る農家風の建物です。

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納屋は碁会所にリホームされており、近隣あるいは遠路より集う囲碁仲間の憩いの場となっていた様子です。
瀬越九段も疎開あるいは帰郷のおりには、囲碁自慢を集め、その指導やお相手をされていたやも?です。

ちなみに、瀬越九段の生年は、銅座像の顕彰文にもあるとおり、1889年(明治22年)で、没年は1972年(昭和47年)です。

1909年 方円社(本因坊と対峙する囲碁の団体)に入門。
1924年 本因坊派と和解合併、新団体「日本棋院」の創立に尽力。
1945年 東京大空襲により日本棋院会館が焼失し、第3期本因坊戦は広島市郊外の吉見園(現佐伯区五日市町)で行われました。
しかるに8月6日、橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中に原爆が炸裂、爆心地から10km離れた此地にあっても閃光と強烈な爆風に見舞われました。
対局場となった部屋の窓ガラスなどは粉々に飛ばされたものの試合は続行、立会人であった瀬越九段も無事ではあったのですが、爆心直下で当初予定の対局会場であった日本棋院広島支部長の別邸は一瞬で消え、藤井支部長始め多くの人命が奪われました。
その中には瀬越九段の三男や甥も含まれております。
1946年 日本棋院理事長就任。
1955年 名誉九段。
1958年 紫綬褒章受章。
1960年 日中囲碁交流第1回訪中団団長。
1966年 勲二等瑞宝章を受章。
1972年 体の衰えを苦とし自ら命を絶つ。
1983年 功績を讃えて銅像(圓鍔勝三作)が作られ、故郷の能美島に贈られました。
2009年 囲碁殿堂入り。

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生家は背後にある小丘の崖下にあり、瀬越九段が幼少のころには、旧高田街道をまたげばすぐその先に波のざわめきが聞こえる長閑な環境でした。

いつの頃植えられたものかは分りませんが、モミの木が大きく育ち、その梢は屋根をはるかに超えています。

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小丘の上に墓石などあればと登ってみましたが、そこには畑となっており、取り残したダイコンや白菜、小松菜が白や黄色、薄紫色の花を揺らせます。

春霞の江田島湾に並べた牡蠣筏を碁盤に見立て、瀬越9段が対局する相手はだれでしょう。
見えないものを無理に見ることもありません。
霞みはすこ~し濃くなってきたみたい・・・(*^。^*)です。

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生家の脇、旧高田街道に面して大小の石碑が建ちます。

大きな石碑の裏面に、・・・天保十年・・七十五・徳三郎?・・・
小さな石碑に・・・明治・・・新・徳三郎六十六・・・三高道?・・・
残念ながら判読できませんでした・・・m(__)mです。

高田 堀越城・北堀城・小屋城・小城

高田 堀越・北堀・小屋・小城 
高田地区には、堀越城、北堀城、小屋城、小城があったと云われますが、中町から高田にかけての地形には、小城あるいは砦として使えそうな小山がいくらでもあって、しかも城跡を示す案内板、標識とかもなく、さらに、かってはあっただろう小山の山頂へと続く小道はとうの昔に塞がれてしまっています。

と、いうわけで?上図に示す、城跡の表示が間違っている場合もあるやも?・・・m(__)mです。

ちなみに、参考とした資料は能美町誌です。

北 堀 ・ 堀 越 城 跡

高田の豪族として元弘2年(1332年)高田弥十郎直継が衣(江)田島公文職として活躍し、次いで明応2年(1493年)高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続したと云う。
戦国の世となって高田・清能の小屋城は水軍城として、下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったと云う。
(北堀城下の陣場に八瀬島の古墓ありと云う)

また、清能奥の堀越城は水軍城、下井田の小城は跡詰城で、始め永禄2年(1559年)能美左馬亮が、その後、山野井清景の分家、山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城した。

以上、町誌の記載文を要約しました。

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下井田の集落をお散歩中、たまたまお見かけした同年輩の方に、あの付近に城跡があると町誌で見ましたが、もう登り道はないでしょうね。
おっ、城跡がどこかはわからんがのぉ~、近くにウチの畑があるし、道もちゃんと残っとるがのぉ~。
えぇ~~~。登り道が残ってるんですか?。すぐ行ってみます。ありがとうございました・・・m(__)mです。

軽トラが余裕で入れる道を上ると、小屋城があったと思える付近は平地となっており、つい最近までは畑として使っていた様子です。
当然広島城本丸にあるような石垣などまったくあるわけもなく、おそらくはこのあたりが小屋城跡であろうと?・・・想像です。

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登った道とは逆の江田島湾の方へと向かう下り道がありましたので、鬱蒼とした竹藪を恐る恐る行ってみることにしました。

竹藪はすぐに終わり、江田島湾が明るく輝きます。
古くは直下まで波が寄せており、岬の傾斜面を少し削って海との間を高田街道が通っていただろうと思います。

また、この先には小屋門と呼ばれる地名が残ります。
高田街道を封鎖する関所があったのか、あるいは、湾奥の船隠しに出入りする戦船を北風から守る港の出入り口があったのかも・・・(*^。^*)です。

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再び坂道を後戻りして、小屋城よりはさらに高い位置にあるとされる堀越城を目指します。

今は竹藪や雑木が周りを囲み、視界は限られますが木々を払えば、北は津久茂の瀬戸からはるかその先の廿日市、宇品方面まで、南は中町はもちろん、その先の亀山城があったとされる能美八幡神社、新蔵城があったとされる真道山までが、そして東は江田島湾のほぼ全域を見渡すことができる、見張り場所としては最適な位置となります。

画像左は古鷹山、右のほうには呉市灰ヶ峰が見えます。

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南の方向には中町が一望に、その先には真道山が大きく山裾を広げます。

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堀越城があっただろう付近まで辛うじて道は続きますが、木々に閉ざされ周囲の視界はまったくききません。

帰ろうと坂道を下っていると、先に道案内をしていただいた方が夫婦で果樹園の下草刈りをされています。
仕事の邪魔にならないよう、そっと素通りをさせていただきました・・・m(__)mです。

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堀越城の西側中腹まで、お墓へと続く道がありましたので行けるところまで・・・。
中腹からでも高田の町が一望でき、津久茂瀬戸の向こうに似島の安芸小富士がはっきりと見えます。

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左に目をやれば、画像中央付近に北堀城が、さらにもう少し上に登れば右端に小城も見えることでしょう。

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下井田の集落から小屋城、堀越城へと続く農道の入り口です。

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下井田の集落から見た、小城の乗る小山です。
登り道は見当たりませんが、山頂部に大きな楠木?が植えてあるようです。

だれか、目印にと残した野趣のある自然の案内板・・・(*^。^*)です。

高田 中谷造船所

高田グーグル地図D 中谷造船所 
かって江田島市内(江田島・能美島)には、各浦々ごとに数人の船大工さんがおり、小さなスベリから大漁旗をはためかせた新造和船を次々と沖へ引き出しておりました。

今でも船大工の腕を持つ方はおられるようですが、木造和船を注文する船主は皆無、数年前に一隻の伝馬船?が進水したと噂を聞いた後は絶えてなくなったようです。

現在市内で造船業を経営しているのは、江田島町小用の「KK江田島造船所」と、能美町高田の「中谷造船KK」だけとなりましたが、江田島造船所は修理修繕業が専門となり新造船を手がけることはありません。

江田島市内で唯一造船所と呼べるのは高田の「中谷造船KK」のみとなりましたが、それでも毎年数隻の新船を造り出し、江田島湾へと華々しく進水させております。

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高田の対岸である江田島町側からみた、中谷造船の全容です。
右の船台(スベリ)では中型貨物船を建造中です。

左に見えるクレーの付いた箱型のものは浮きドックと呼ばれるもので、船台で建造し進水した船の最終艤装や点検修理修繕を行う施設です。

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中谷造船の本社建物です。

外壁の赤レンガに埋め込まれた表札には「中谷造船株式会社 NAKATANI SHIPBUILDING CO.,LTD.」とあります。

以下、中谷造船HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

商   号 中 谷 造 船 株 式 会 社
創立年月日 昭和40年1月11日(創業 明治9年)
本社・工場 広島県江田島市能美町大字高田3328-2
資 本 金 10,000,000円

社指すところは「夢を加えた船づくり」

技術・営業上の特徴
広島の小さな造船所が、3度のシップ・オブザ・イヤーを受賞しています。確かな技術と人間優先のテクノロジーが裏付けされた結果です。
中谷造船のテーマは、船の高速化や自動化はもちろん、居住設備の改善まで含めた人間最優先の近代化です。
『思わず乗ってみたくなる船』『人をわくわくさせる船』。
『夢とロマンがある船』の建造を目指しています。
お客様のニーズに答えた、「より進化した船」を届けることを使命としております。

会社の特色
優秀な人材ネットワーク:研究・開発は国内外関わらず最適な企業集団で効率化・質の向上を行っています。

造船所設備
船台  99.50m×20.00m
1号浮ドック 87.68m×31.0m(4990G/T)
2号浮ドック 106.14m×32.0m
ジブクレーン 50トン1セット・16トン1セット・10トン6セット・ 門型クレーン 5トン1セット・3トン3セット
と、あります。

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船台にて建造中の中型貨物船?です。
船橋構造物も取り付けられており、船台での組み立て作業は終盤のようです。

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海側から見た新造船の後部と船台です。

船の最後部に位置する舵と、黄金色に輝く真鍮製の5枚羽根プロペラが見えます。

コンクリートで傾斜のつけられた船台には何本ものレールが敷かれ、そのうえに沢山の車輪をつけたトロッコが何台もあり、さらにその上に新造船が乗ります。

起工から進水までの数か月、最大1千トン近い重量の船をこのトロッコに載せ、滑り落ちないようにストッパーで支えます。
船の進水時には車輪を固定するストッパーを外すことにより、トロッコは船を乗せたままで船台斜面を転がり落ち、上に乗った船を海上まで導きます。

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万国旗を掲揚して進水したばかりの「SOLID HARBOR」?マニラ船籍の貨物船?です。

船台上で鉄板あるいはブロックをつなぎ合わせて船の形を造り出し、船内に主エンジンや補機類を搭載し、舵やプロペラを取り付けて船台から海面へと滑り落とすまでの工期は約3カ月です。

進水した船はこのあと、桟橋などに舫った状態で電機配線や配管、甲板上の補機類(クレーン、係船機など)、航海計器や居住設備を艤装し、試運転や試験航行、検査、が行われたのちに船主に引き渡されます。

一般的な小中型の貨物船の場合、設計に2カ月、起工から進水まで3カ月、艤装や試験に2カ月くらいの期間を必要とします。

お値段ですが、画像の貨物船だと、たぶん?、5億円くらいだろうと??、想像します・・・(^_^;)です。

注 : 上記に記載の船の建造価格は、「中らずと雖も遠からず」???・・・(^_^;)です。
実際の価格は不明、また船の建造費は主要原材料である鉄鋼の値段や社会情勢などにより2割3割の変動は当たり前です。

貨物船やフェリーボートの建造をお考えの場合、価格より造船会社の技術力と信頼度の方がより重要です。

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上記貨物船と船体の容はよく似ていますが、こちらの船は液体(オイル・ケミカル)を運ぶ船のようです。

船主は韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」で、船名は「KEOYOUNG BLUE 1」、引き渡しは2016年4月、N/Tトン497.0t、G/Tトン1423.0tで、全長が71.9mです。

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この進水直後の船も、韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」が船主です。
先の「KEOYOUNG BLUE 1」とは姉妹船で船名は「KEOYOUNG BLUE 3」、2016年10月に引き渡されています。

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浮きドックのサイドに繋がれ、艤装工事中のフェリーボートです。
船首に船名が書かれていますが、まったく見たことのない文字・・・(^_^;)です。

船名は判読できませんが、この船は日本の政府開発援助(ODA)によりミャンマー・ヤンゴン市に無償供与されるフェリーボートです。
ヤンゴン市を分断するヤンゴン河で使用される渡河船で、全長41.35m、幅9.40m、深さ7.40m(高さ?)、総トン数290 トン、旅客定員1,200名の要目で発注されたもので、「中谷造船KK」が同型船3隻の建造を総額999,000,000 円で落札しました。

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航行試験や検査も終わり、ODAに引き渡された直後のヤンゴン河渡河船です。

このあと3隻の渡河船(フェリーボート)は広島港外貿埠頭に集められ、川崎汽船株式会社(SAL社)が運航する重量物運搬船「PAULA」(クレーン能力合計700㌧)に3隻(1隻あたりの重量270㌧)を積み込み、2014年10月31日ヤンゴンに到着しました。

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画像は「川崎汽船株式会社」のHPよりコピペしたもの・・・m(__)mです。

中谷造船で建造したフェリーボート3隻をクレーンで吊り上げ、「PAULA」の甲板に登載作業中の画像です。

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中谷造船の林立する沢山のクレーンは、高田地区のどこにいても屋根瓦の上に突き出して見ることができます。

小さな町の小さな造船所が3度ものシップ・オブザ・イヤー賞に輝いた快挙は、元高田小学校の校歌にもある、正しき道を歩み進みて文化を求める高田気質が大きく底流となってあるからです。

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画像は試験航行で呉湾小麗女島の沖をいくJR西日本のフェリー「みやじま丸」です。
「みやじま丸」は中谷造船で建造された、日本で初の小型電気推進旅客フェリーで、シップ・オブ・ザ・イヤー2006、小型客船部門賞を受けました。

両頭双胴船型の電気推進(ディーゼル・エレクトリック方式)旅客フェリーで2006年1月27日竣工、2006年5月27日に宮島航路に就航しました。
総トン数254トン、全長35.0m、速力8ノット、車両7台を搭載し、旅客503名(最大803名)が乗船できます。

高田 元高田小学校・元高田保育所

高田グーグル地図D 元高田小学校 
高田地区の中心部、旧高田街道に面して平成26年3月まで140年の歴史をもつと云われる高田小学校がありました。

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高田小学校の正門です。

門柱前面には真鍮鋳物で高田小学校と書かれた校札が掲げられていますが、花崗岩の門柱自体はそれよりもず~っと古く、明治四十二年九月に地元有志、山﨑三次氏により寄附されたものです。

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正門脇の掲示板に、高田小学校閉校式平成26年3月23日と書かれた張り紙が、錆びた押しピンで止められていました。
どうやら少しばかり前に閉校記念式典が執り行われたようです。

高田小学校の起源として、江戸時代の頃より高田高源寺において、児童を集め読み書き算盤が行われていたと云います。

明治5年8月に定められた教育法令「学制」に基づき、明治7年8月、第4大学区広島県管下第3番中学区内第140番小学校として高源寺本堂に「日新舎」を創設。
同9年本堂南側に校舎を付設、同11年に第4大区(佐伯郡)広島県第140番小学校「高田小学校」となりました。

明治19年「中村簡易小学校 第一分教室」となるも、同24年「高田村公立高田尋常小学校」となって独立、大正12年には校舎を空地区から現在の沖南地区へと拡張移転しました。
校内には判読が困難ですがおそらくはその当時のものだろうと思える、「教育喜捨芳名」の石碑があり、沢山の方々の芳名が刻まれています。
高田地区の児童教育や文化発展に対する熱意が今に伝わります。

そのような恵まれた環境風土にありながらも、高田地区の児童数減少はとどまることなく、ついには2014年3月末をもって惜しまれつつも高田小学校、高田保育所が廃校廃所となりました。

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シーソーの周りをはしゃぎまわる子供らは絶え、鉄道草が一本また一本と数を増やしています。

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卒業生?が残した自画像陶板が23枚、大きな手形は担任の先生のかも?・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの南側には「創立百年記念 昭和四十九年建之」と彫られた陶板と78個の自画像や文字、絵などが書かれた陶板が張られた記念碑が建ちます。

ちなみに昭和49年の高田小学校総児童数は173名となっていますので、陶板の制作にあたったのは5年生と6年生だったのかも?ですね。

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こちらの記念碑には「一以貫之」の周りに、学童らの手形と記念文字が書かれた66個の陶板が張られています。

これが全校児童数だとすれば、平成6年の67名にもっとも近いのですが、制作年は不明?です。
記録に残る高田小学校の児童数として、昭和22年の500名、28年401名、37年322名、41年215名、平成元年105名、閉校となる年度の児童数は51名でした。

ちなみに、制作に使われている陶板?ですが、文政(1818年~1830年)の頃、能美島から瓦用焼土(赤土)を大量に産出しており、明治中期から大正後期にかけては高田を中心に煉瓦の生産が盛んにおこなわれていたと云います。

有名な江田島海軍兵学校(明治26年建築)の赤煉瓦はイギリスからの輸入品であると云われますが、それより他の多くの煉瓦建造物(対ロシア艦隊用の砲台施設など)は、能美町高田や東広島市安芸津で生産されたものが多く使用されたようです。

しかも煉瓦の質としては、高田で生産されたものの方が輸入品や安芸津産よりも上質であったと云います。

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動物の飼育小屋のようです。

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どこから種が飛んできたのか、カワラナデシコの花も・・・

高田小学校閉校式 
江田島市広報誌の表紙となった高田小学校の閉校式です。

高 田 小 学 校 歌
作詞 戸張竹風 作曲 渡辺弥蔵

1、山むらさきに 海深うして
  能美島第一の 文化村
  その少国民 我等のために
  ああ雄々しくたてる 高田小学校
2、古き伝えは よよ美しく
  祖父母も父母も 通いたまいし
  その園に 今我等は遊ぶ
  ああ楽しきかなや 高田小学校
3、清き明かるき 心をもちて
  正しき道を 歩みすすみて
  よき人となる みなもとはここ
  ああ尊いかなや 高田小学校

s-高田さつき荘 
昭和の後期まで使用された高田小学校の木造旧校舎は移築されており、ツツジの名所である高田遠崎地区の水島さつき園で「さつき荘」として現在も使用されています。

画像はグーグル地図よりのコピペ・・・m(__)mです。

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藤の花で飾られた元高田保育所です。
高田小学校の南に併設して高田保育所もありましたが、小学校と同日に閉所となりました。

高田 農道

高田(国道・旧街道・農道) 
国道以外はすべてが農道といってもおかしくはないほど農業の盛んであった高田地区ですが、農業不振、農家人口の急激な減少により耕作地の放棄が止まることなく続いています。

生活道路と兼用のアスファルトで厚く固められた道路以外はすべてが獣道となり、一度イノシシに占拠された農地にはもはや人が入り込める道はありません。

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画像は2014年9月のものです。
案山子と防鳥網に守られていたこの水田もイノシシの執拗な攻撃によりついに陥落、昨年(2016年)秋にはイノシシの運動公園、ぬた場となっていました。

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坂道の上からしだいに近づくエンジン音をいぶかっていると、高田地区で一番の耕耘機操縦技術をもつおじさんの登場です。

耕耘機の発明は1920年頃のオーストラリアだと云われますが、日本での普及は1955年(昭和30年)の8万台から急速に伸び始め、昭和42年には300万台を突破したといいます。

急傾斜で細く曲がった農道にも重い荷物を積んで入り込め、狭い田んぼでも効率よく耕すことができる、昭和の農業発展にもっとも大きく貢献した大傑作機です。

おじさん自慢の愛車?は、HONDA F80(1968年頃の発売?)、半世紀近くも経過したであろう耕運機です。
排ガスや手入れのたびに塗り込まれたグリースで薄黒くはなっていますが、おじさんの巧みな操縦により急な坂道も安定感をもって下っていきました・・・(*^。^*)です。

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米作りが最大の収入源であった農業も、時代の流れから他の作物への転作を余儀なくされ、慣れ親しんだ稲作に代わる新たな作物に挑戦することを求められました。

手前の広い畑では沢山のサトイモが大きく青々と育っています。
下の段では自家用のお米が作られており、夏の陽を目いっぱいに吸収した稲穂が秋風に揺られ少し黄色味を帯びてきました。

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遠くに中谷造船所、さらに江田島湾、古鷹山を見渡せる高台の畑には、エンドウとジャガイモ、ネギの類が生育しているのが見えます。

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火力暖房機を備えたビニールハウスの中に、天井まで伸びたキュウリの蔓が元気いっぱいに葉っぱを広げています。

稲作からの転作初期には、狭い農地でも収益率の高い施設園芸が多く試みられ、沢山のビニールハウスが林立、キュウリやトマトの栽培が試みられました。

ただ、その後の農業労働力の減少や、暖房用燃料費、資材の高騰など何度もの危機を乗り越え、今もハウス栽培を維持経営する農家の数はごく僅かです。

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温暖な気候条件から当地で最も有望視され、多く試みられたのは柑橘類の栽培ですが、これもオレンジの自由化に続く海外からの多彩な種類の果実類や産物輸入により大きな打撃を受けることになります。

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排水の良い傾斜地ではカキ(柿)の栽培も多く試みられています。

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宗方地区を往く農道脇に、秋祭りの幟がはためきます。

対岸の鉢を伏せたような山は、江田島町の津久茂山(お鉢山 262.8m)です。
この津久茂地区とは瀬戸の急流で阻まれてはいますが、大正12年2月1日に津久茂村が安芸郡江田島村と合併する以前は高田村と同じ佐伯郡に属していました。

耕作地の少ない津久茂地区からは多くの農民が農耕船を仕立てて瀬戸を渡り、この高田の地で田畑を耕し、さらには住居を定めたりもして、陸続きであった江田島村よりも、海を隔てた能美の地により親密な関係があったと云います。

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何世代にもわたり石を積み上げて作り出した農地跡に、荒れ地に強いといわれるコスモスが咲き乱れ右に左にへと時代の風にゆれ動きます。

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ここ数年使われることもなく、うすく埃をかぶった農作業小屋(納屋)の内部です。

「豊盛」「日水」「八洋」「村山」と書かれたトロ箱が重ねてあります。
トロ箱といえば普通は魚を入れて運搬するために使いますが、農業用として?転用???キャベツの苗とかを入れて運んだんでしょうかねぇ~ ・・・(*^。^*)です。

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農道わきの柵に・・・、これってジュウヤクと呼ばれる野草、薬用利用として天日干しされている様子です。

漢方書によれば薬用部分は全草で、開花期に根ごと採取して日干しにしたものを十薬という。
薬効としては、痔・高血圧症・便秘・たむし・陰部のただれ・はれもの・かぜ・腰痛・蓄膿・冷え性・帯下に効果ありとされます。

ちなみに、当地における古くからの民間療法の薬草薬物として、ドクダミ、ゲンノショウコ、ハブ草、ヨモギ、フキの根、柿のヘタ、梅肉、イチジク、ショウガ、ミミズ、ドジョウ、タニシ、イナゴ、鯉、イセエビの殻などが利用されたと能美町誌に記載があります。

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農業経営は気候天候に大きく左右されるだけではなく、その時々に必要とされる産物を見極め絶妙なタイミングで供給する高度な技量をも必要とします。
しかも多くの農産品は、生育に長い時間を必要とし、さらにその気候風土に適合したものでなければうまくは育ちません。

この地で過去にどのような作物が生産されていたかを知ることはきわめて重要です。

江戸時代に書かれた「鹿川村書出帳(文政2年)」によれば・・・
当時五穀として、米、麦、大豆、粟(あわ)、黍(きび)が栽培されており、野菜では、あらいも、ごぼう、ちさ、ふき、ほうれん草、わけぎ、ねぶかねぎ、なすび、きゅうり、うり、とうがん、すいか、かぼちゃ、しゅんぎく、みょうが、らっきょうが栽培され、藩の殖産興業政策として、さやえんどう、猿豆(実えんどう?)、小麦、ごま、稗(ひえ)、とうきび、だいこん、そら豆、さつまいも、なたね、さとうきび、たばこ、わた、茶、西条柿、蜜柑、梨、こうぞ、はぜ、くすのき、なども推奨されたとあります。

さらに山野からの採集薬草薬物として、桔梗(ききょう)、橙皮(とうひ)、葛根(かっこん)、忍冬(にんどう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)、麦門冬(ばくもんどう)、防風(ぼうふう)、香附子(こぶし)が記載されます。

その後、明治となって除虫菊や桑(養蚕)の栽培に加え、乳牛、養牛、養鶏なども試みられ相応の成果はありましたが、多くは時代とともに消え去り今に続く農産品はほんの僅かです。

春先の農道、コンクリートの側溝とアスファルト道との数ミリの隙間に、ド根性スミレの青花と白花が混じり合い、互いに競い合って咲いていました。

高田 旧街道 2/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町を結ぶ街道は平地でもあり古くからの主要道でしたが、高田から北、沖美町三吉(三高)への道にはたくさんの小さな岬や断崖が多く、おそらくは牛馬の通行がやっとという、気象条件に左右される険しく細い海岸道だったことでしょう。
それでも、芸藩通史(1825年)には山越え道ではなく、海岸道となって記載されていますので、陸路による往来もけっこう盛んではあったと思われます。

ちなみに、能美町誌によれば、三高村から高田、中村、鹿川、大柿を経由して飛渡瀬村に達する道路(約17km)が佐伯郡郡道に指定されたのが大正9年(1920)4月、同時に中村から飛渡瀬間(約6,6km)も群道指定がされました。

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高田旧街道をさらに北上すると、さんぱつ屋「シモイダ」さんがあります。

玄関前の駐車スペースに沢山の水槽が並べてあります。
中は覗かなかったのですが、ご主人様の趣味でメダカとかが飼育されているのだと思います。

のぼり旗には「赤ちゃんの筆」・・・へぇ~、赤ちゃんの髪の毛を使って筆を作ってくれるみたい・・・(*^。^*)です。

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通りに面する窓に細い格子を取り付けたお家があります。

二階も通り側一面がすべてガラス戸で、手すりの高さまでの格子があります。
旅館業とか?小料理屋さんとか?だったのかも??? ・・・(*^。^*)です。

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市内ではもっとも大きくて洒落た造りをした農業協同組合「JA呉 高田支店」です。

もともとこの位置には高田港の船着き場の一面を占有して、高田農業協同組合があり、何隻もの番船を仕立て廿日市や宇品へ農産物を送り、帰りは肥料や農業資材、生活用品を満載した船が着く広い荷揚げ場でした。

農産物の生産量減少や、トラック便輸送が増えるにつれ番船の出番はなくなり、さらに高田港の埋め立て移転事業により、農協と船との縁は完全に立ち消えてしまいました。

今、農協購買部のショーケースに並べるパンやケーキは、ヤマザキ製パンの工場から直接トラック便で届けられます。

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食料品、雑貨のフレッシュ・スーパー「セルフ つだ」商店さんです。

元はお店の直前まで港があり、早朝から夜遅くまで忙しく出入りする船で賑わっていましたが、新しくなった高田港は、はるか遠く200mばかり離れた沖合にまで離れてしまいました。

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お米、お酒の「丸橋酒店」さんです。

荒くれ船乗りの胃袋を常にアルコールで満たしていた港の酒屋さん、しかし近年になり国土交通省より酒酔い操縦には厳しいお達しが・・・

海上交通における飲酒対策について(平成18年9月29日)

1.一般船舶に対する対策について

(1)安全マネジメント制度に基づく対策
 海上運送法及び内航海運業法に基づき、本年10月から安全マネジメント制度がスタートし、安全管理規程が運航事業者から届出られることとなっている。これに合わせ、当該規程において、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の状態における当直の禁止を明示するように指導を強化するとともに、その違反については安全確保命令の対象とする。

(2)船員法に基づく対策
 船員法に基づく航海当直基準においては、現在においても酒気帯び状態での当直は禁止されているところであるが、対策の推進のため、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の違反については上記安全管理規程の基準と合わせて船員法の戒告の対象とする。

2.小型船舶に対する対策について
 酒酔い操縦の判定基準の一環である数値基準について、船舶がふくそうする水域(港則法及び海上交通安全法上の航路)又は遊泳者等の付近を航行する場合は、呼気1リットル中0.5mg以上から0.15mg以上に引き下げる。

3.対策の周知徹底について
 上記措置については、国土交通省海事局から関係業界へ周知徹底するとともに、現場レベルにおいても、地方運輸局が港湾管理者及び管区海上保安本部と連携して関係者へ周知徹底を図る。

と、・・・(^_^;)です。

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お食事処、大衆食堂の「岡食堂」さんです。
港に出入りする船乗りさんの、あったかい憩いの場です。

高田1986 
高田港埋め立て事業の始まる前、昭和61年6月の高田港付近(国土地理院)です。

岡食堂さんも、丸橋酒店さんも、つだ商店さんも、船頭さんの大声、けたたましいエンジン音、漂う磯の香りと、重油の焼ける匂いの中にありました。

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行き交う機帆船で大波小波がたっていた高田港の奥部は大きく埋め立てられ、そこには潮風や日照りに負けることなくしっかりと土中に根をはった、ハナスベリヒユ(ポーチュラカ)が一面を覆って咲きそろい日差しに赤く輝いています。

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街道は高田港を通過し小方、湯田をへて、さらには沖美町三吉へと続きます。

品のある小窓が並び、ショーウィンドウが残りますが、さて何を商ってたお店でしょう?
かって、高田の主要産業でもあったレンガを使った塀が緑の草木に映えます。

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最近のただ真っすぐに伸び、交差点に当たっては止まる単調な道路とは違い、旧街道は微妙な曲線をもってうねりながら長い調べを奏でて流れます。
るぅ~るるる~、るぅ~るるる~♪ らぁ~ららら、らぁ~らぁら~~ら♪・・・(*^。^*)です。

高田 旧街道 1/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町、鹿川へとつなぐ街道は古くから主要な動脈路となっており、高田港で荷揚げされた最新の商品を街道沿いの商家に並べ、在所近隣から多くの購買客を集める他、陸路中町から鹿川近辺へ、あるいは対岸の津久茂へと商品販売路を広げていました。

昭和48年には、能美、江田島と本土(倉橋島)とを結ぶ早瀬大橋の完成もあり、本島にも急激な勢いで車社会が到来、平成に入り高田市街の沖側には幅広のバイパス道も完成、のち国道487号線へと昇格しましたが、その便利な陸路が在所購買客の大流出につながる結果となり、さらに本土からの商品は船や港を利用しなくても直接陸路を通って入り込むこととなりました。

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国道バイパスの南端、高田旧街道への別れ際に建つ食料品、雑貨、たばこの「池田商店」さんです。

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旧街道に面して今ものこる、元高田駐在所の建物です。
いまの高田駐在所は、島内随一のモダンな造りの駐在所として高田港に面する国道沿いに移転しました。

近くには高田郵便局もありましたが、これも近年になり国道側に新築移転しました。

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旧街道をさらに行くと、Panasonic「山野井デンキ」があります。
右隣の敷地には、・・・えっ、大きな白い船のマストが据え付けられています。

軍艦並み(対空用?、対水上用?)に上下2段に分かれてレーダーアンテナが装備されています。
さらにマスト頂部には方向探知用ループアンテナがあり、信号灯もまだ使えそうです。

きっと、江田島上空に飛来するUFOを監視し信号灯を点滅させて連絡を取り合っているのかも???・・・(*^。^*)です。

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元高田小学校(2014年3月廃校)の正門前にあるお店です。
おそらくは文房具屋さん?・・・だった?のかも?。

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元高田小学校とは路地を挟んで並び建つ、小さな小さなお肉屋さん「肉ノ山下」さんです。

もう、お肉の販売は止めたようですが、赤いネット袋に入った蜜柑が300円で出されています。
中央の柱には「110番の店・家」江田島警察署のステッカーも貼ってあります。


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街道をさらに北へと進むと、中国新聞・朝日新聞・毎日新聞・NIKKI日本経済新聞の看板が掲げられたお店があります。

小さなショーウィンドーにメリークリスマスと書かれたタペリストが下げてありますが、色あせており、数年前のクリスマスに出されたもののようです。

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元はクリーニング店、タバコ屋さんも兼ねての商売をされていた様子です。

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間口の広いお店が二軒続きますが、どんな商いをされてたんでしょう?、呉服屋さん???・・・かなぁ~。

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ガラス戸に張られたポスターを見ると、薬屋さんのようです。

化粧品とかも商ってたんでしょうか?
私はまだ必要とはしませんが、資生堂の発毛促進剤アテノゲンって文字も見えます・・・(^_^;)です。

高田1990 
画像は平成2年12月の高田地区航空写真(国土地理院)です。

高田街道のバイパス道路(国道487号線)の工事が完成間近な様子です。

高田 沖南港・南港

高田 S22-H25 
画像左のモノクロは昭和22年の高田間所~沖南~南地区、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

戦後もしばらくは高田港以外に防波堤を築いた港は無く、台風など自然の猛威を避けるには砂浜に引き上げるくらいしか方法がありませんでした。

その砂浜も干拓事業で奥行きが狭くなり、船もエンジン付きで重く大型化したため簡単に引き上げることはできません。

戦後まもない昭和20年9月17日の枕崎台風による甚大な被害はもとより、昭和26年10月14日のルース台風では、高田地区だけでも機帆船19隻が沈没し遭難者21名を出す大惨事となりました。

平素は穏やかな江田島湾内であても、防波堤なくしては船を安全に維持することはできません。

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画像は「沖南港」に停泊中のタグボート「第十大徳丸」「第二十大徳丸」です。

北側の防波堤は花崗岩の切り石を丁寧に組んで作られておりますので、まだ石材事業が全盛のころ(昭和36年以前?)に作られたようです。

南側防波堤主材はコンクリートで昭和40年頃?に作られたようです。

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沖南港はタグボート専用港というわけではないと思いまが、停泊船の多くが小型タグボートで占められています。

港中央部の桟橋には大型の「第八金福丸」(赤色のマスト)を中心に左が「第七金福丸」、後ろに第五、第三、第二、・・・全八隻?の金福タグボート船団が繋がれています。

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第八、第七金福丸の後方に繋がれた、一回り小型の金福タグボート船団です。
黒い網籠状の形象物を揚げたマストが6本も見えます。

ちなみに「丸・ひし形・丸」と繋がった形象物は、本船は「操縦性能制限船」であるから、本船を回避して航行せよ・・・(*^_^*)です。

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後日、江田島湾への入り口である津久茂瀬戸を、親船「第八金福丸」の後を追っかけて、カルガモのように一列縦隊で通過する金福船団を見ました・・・(*^。^*)です。

沖南港へと帰る、カルガモ船団を護衛?している灰色の船は、海上自衛隊第一術科学校所属の練習船です。

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こちら「南港」には牡蠣養殖業者さんの専用船が多くとめられています。
防波堤が造られたのは「沖南港」よりも古い様子で、昭和36年よりも以前となります。

画像の「明宝丸」は牡蠣の養殖作業でもっとも重要な働きをする、牡蠣船です。

マスト型のクレーンを使い、沖の筏で養殖した長さが9mもある牡蠣連を船内に揚収し、その牡蠣を満載し、打ち子さん(牡蠣剥き作業をするお姉さん)の待つ港の牡蠣打ち作業場まで高速で運搬します。

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海の家?・・・
じゃなくって、海上移動式の牡蠣養殖用作業小屋です。

真夏の直射日光、突然の夕立のもとにあっても、沖に設置してある竹筏に牡蠣連を取り付けるなどの作業に必要な洋上作業小屋です。

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日よけのブルーシートが張られた中で、杭打ち垂下式の牡蠣養殖用垂下連が作られていました。

東北、北海道方面から取り寄せたホタテ貝殻の中央に穴をあけ、間にプラスチックパイプを入れて互い違いにワイヤーに通し、ネックレス状にします。
杭打ち垂下式だと連の長さは1.6mが標準のようです。

えっ。
後姿だとまったく気づきませんでしたが、会話の内容がまったく聞き取れません。
皆さん外国からの牡蠣養殖研修生の方々・・・(*^。^*)でした。

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牡蠣連作り用のホタテ貝が準備されまもなく作業開始の様子です。
日よけのテントが張られていますが、なんと広島県立江田島高等学校と書かれています。

江 田 島 高 等 学 校 とは・・・

1948年「広島県呉竹高等学校江田島分校」として江田島町中央地区(旧江田島中学校内?)に開校。
1949年「広島県呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1951年江田島町小用地区へ移転。
1968年「広島県立呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1972年「広島県立江田島高等学校」として独立。
2010年3月31日 閉校。広島県立呉三津田高等学校へ統合。
 分校創立からの卒業者数は合計5,086名です。

以上ウィキペディアからの要約・・・m(__)mです。

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桟橋に置かれたステンレス製の巨大な機械???

奥の円筒型機械は水揚げした牡蠣を水洗いするドラム型洗濯機?で、手前はベルトコンベアー、それらを結ぶ複雑な配管と交差する電線・・・まるで野外工場ですね。

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近年になっての新技術で、牡蠣の養殖場や揚収後の蓄養、洗浄作業にマイクロ(ナノ?)バルブとなった空気を通すと生育や衛生面で非常に良い結果が得られるとか???

手前の黒い網籠や空色のエアータンク?、それらを結ぶ配管はそのための最新秘密?装置だと思います。

もとは波静かな入り江に投げ込んで置く(石蒔き式養殖法・地蒔き式養殖法)だけだった牡蠣の養殖法が、ヒビ建て養殖法に、そして現在の杭打ち垂下式養殖法・竹筏を利用した沖合垂下式養殖法へと大きく進歩してきました。

いやいやいや・・・漁師さん家業もたいへんだぁ~~~・・・(*^。^*)です。

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港のすぐ沖ではイワシ漁の船が重そうな網を引き揚げていました。

きっと、大漁なのでしょう。
カモメの群れがおこぼれを頂戴しようと、水面下で足をバタバタしています・・・(*^。^*)です。

高田 高田港桟橋

高田・中町航路図 
高田港は地形に恵まれたせいもあって、古くから本土である廿日市や宇品とを結ぶ多くの船便がありました。
とは言っても、定期船としてほぼ時間どおりの旅客船事業を始めたのは、明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が蒸気船「海勝丸」62tを貨客船として就航させたのが始まりとされ、さらに明治40年に「能美汽船株式会社」を設立し、蒸気船「浅見丸」58tをもって江能の各浦々と本土とを周回する蒸気船航路を創設、その利便性が認められ関係する町村からの補助を受けることもできました。

のち、発動機エンジン「神座丸」、「能美丸」、「中吉丸」、「上田丸」、「日乃出」、「天竜丸」など船も船主も雨後の竹の子のように現れては消えしましたが、昭和3年当時の能美、宇品航路は一日6往復であったと云います。

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現在の、「中町(一部能美ロッジ寄港)・高田~宇品」航路を往くのは瀬戸内シーラインの高速艇「ロイヤル千鳥」です。

他に「ニュー千鳥」と「スーパー千鳥」の三隻をもって運行、ともに速力は26kt、船便は一日23往復(平日)です。

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高田港桟橋に横付け中の「スーパー千鳥」です。

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高田港桟橋を出港、宇品港へと向かう「ロイヤル千鳥」です。

赤灯台は港から出るときには船の左舷(左手側)に見るのですが、高速艇が発着する高田港桟橋は港の外(赤灯台のある防波堤の左外側)にあります。

高田港赤灯台には、「安芸中田港 小方北 防波堤灯台 初点 平成3年3月」海上保安庁と記されています。

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高田港桟橋待合所です。

高田港でも数年前までは車が搭載可能なカーフェリーの発着がありましたが、現在では車が搭載可能なフェリー桟橋は沖美町三吉の三高港(瀬戸内シーライン)と江田島町切串の切串桟橋(上村汽船)、吹越桟橋(さくら海運)、江田島町小用の小用桟橋(瀬戸内シーライン)のみとなりました。

乗船誘導待機場所に車を止めても車ごとでの乗船はできません・・・(^_^;)です。

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高田港桟橋待合所内の壁に「ありがとうドリームのうみ」と大書された寄せ書きが掲げてあります。

「気仙沼大島のためにいっぱい働いていただき本当にありがとうございました。今後も皆で頑張ります。」
「広島からわざわざ私達のためにありがとうございました。本当に本当に助かりました。もう乗れなくなるのはさみしいですが、これからも前を向いて頑張りまーす。」

宮城県気仙沼市大島の皆さんからの寄せ書きです。

2011年( 平成23年)3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って 発生した大津波により、壊滅的被害を受けた大島島民の方々の足となるべく、当時の江田島市が所有するカーフェリ「ドリームのうみ」を貸し出したことに対するお礼の寄せ書きです。

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画像は、2012年(平成24) 3月14日、気仙沼大島での輸送任務を終え中町港桟橋へと着岸する「ドリームのうみ」を出迎える田中江田島市長です。

以下は、気仙沼市産業部商工課作成の「 記 者 発 表 資 料 」(平成24年2月24日)のコピペ・・・m(__)mです。

カーフェリー「ドリームのうみ」の返還について

広島県江田島市の御厚意により大島汽船株式会社に無償貸与いただいておりましたカーフェリー「ドリームのうみ」(397 トン)が、平成24年2月29日(水)をもって最終運航となります。
平成23年4月27日(水)の運航開始以来、大島地区住民の通勤・通学・通院のための交通手段として、また生活物資・支援物資の輸送に加え工事車両の搬送などに大活躍し、大島の復旧・復興に大いに貢献していただきました。
「ドリームのうみ」は、平成24年3月2日(金)に気仙沼を出港し、広島県内で点検
整備を受けたうえで江田島市へ返還されることになりますのでお知らせします。

           記

1 最終運航便 平成24年2月29日(水) 18時20分・エースポート発
2 出港日 平成24年3月 2日(金) 9時30分・魚町二丁目地先岸壁発
3 その他
・「ドリームのうみ」の運航開始にあたっては、公益社団法人Civic Force からも仲介や各種協力など多大な御支援をいただいております。
・貸与期間について、当初は10月15日まででありましたが、大島汽船:白幡昇一代表取締役社長が10月5日に江田島市を訪問し、田中達美市長、同市議会、同自治会連合会に期間延長をお願いし、本年3月15日まで延長することでご快諾いただきました。
・「ドリームのうみ」の運航終了に伴い、これまでカーフェリー2隻で運航されてき
た大島航路は、平成24年3月1日から1便ごとに旅客船「海来みらい」と「フェリー亀山」が交互に運航することになります。

※旅客船「海来」は、津波で浦の浜に打ち上げられたものの修理を終え9月末から運航可能でありましたが、「ドリームのうみ」借用期間中は復旧工事車両の搬送を優先し、カーフェリー2隻による運航体制となっておりました。(一部を省略)

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画像は「本瓦造船株式会社」HPよりコピペの「ドリームのうみ」です。

以下は、「ドリームのうみ」の要目です。

建造所    本瓦造船株式会社(広島県福山市鞆町後地1717番地)
起工    2004.9.6   
進水    2004.11.25   
引渡    2005.1.31   
全長    47.3m   
垂線間長    42.0m   
全幅    11.0m   
深さ    3.7m   
喫水    (dext(summer))2.6m   
国内総トン    (JG)397T   
載貨重量    (design)118.29t (summer)116.05t   
試運転最大速力    14.605kn   
速力    14.5kn   
航続距離    約970浬   
主機関    YANMAR 8N21A-EN×2   
出力    (M.C.R.)1,324kW×900min-1 (N.O.R.)1,125kW×853min-1   
プロペラ    5Blades FPP×2(スキュー付)   
乗組員数    3   
旅客数    300   
燃料油槽    34.7立方メートル   
清水槽    11.8立方メートル   
航路    中町~高田~宇品   
その他    運航者:江田島市
(新造船要目データベースより)

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画像及び下記文章は、気仙沼大島「島おとめ」さんのプログよりのコピペ・・・m(__)mです。

広島県江田島市に感謝!! 2011-04-27 17:27:13 記

本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。
これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。
全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。

ちなみに江田島市の市営船事業撤退にともない「ドーリムのうみ」は姉妹船である「レインボーのうみ」とともに余剰船として売却されました。

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高田港から中町港へと疾走する「ニュー千鳥」です。

以下、能美町誌より・・・

昭和24年公営船の運行が始まる。
昭和31年鋼製旅客「能美丸」が進水する。
昭和30年高田村、中村、鹿川町が合併し能美町となる。
昭和33年高田港に接岸施設が完成する。
昭和39年鋼製フェリーボート「第5のうみ」運行する。
昭和42年高田フェリー接岸施設完成する。
昭和43年高田港桟橋待合所が完成する。
昭和47年新鋭高速艇「千鳥」就航する。
昭和57年高田港埋め立て工事着工
昭和61年新高田港桟橋待合所が完成する。

利用客の急激な減少や、燃料費の高騰、新造船問題などの悪条件が続き、能美町町営から江田島市市営、三セク事業移管当々、市民の足となる宇品航路の維持に多くの努力がなされましたが、結果として完全民営化により航路を維持することとなりました。

現在、中町から高田を経由し宇品とを結ぶ航路(一部が能美ロッジ寄港)を維持するのは、瀬戸内シーラインです。

高田港 石船(新栄丸・日栄丸・共栄丸)

高田港砕石運搬船 
画像はグーグル2014年11月4日撮影の高田港です。

高田港には3隻の砕石運搬船(石船)「第二新栄丸」「日栄丸」「共栄丸」が舫ってありました。

この3隻がいつごろまで現役で稼働していたのかは不明ですが、日本の高度成長期である昭和30年ごろから、平成へと変わる前までは瀬戸の海を東へ西へ、重い砕石を目一杯に積み海水が木造甲板を洗うのをものともせずに全速力で走り回ていた石船船団が存在していました。

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「第二新栄丸」です。
要所を鉄板で補強されてはいますが、生粋の木造石船です。

石切り場で切り出した砕石を船橋の前の平らな甲板が海水に浸かる寸前まで満載し、全速力で埋め立て地に向かう石船船団最後?の生き残りです。

埋め立て地の砕石投入ポイントに到着するや、すぐさま甲板上のもっとも大きな砕石にワイヤーを掛けクレーンで持ち上げて左右に振ります。
その反動で船は大きく傾き、甲板上の砕石は一気に海中へと落とし込まれます。

反動が弱ければ甲板の砕石をうまくポイントに落とすことができませんし、強すぎれば大石もろとも一瞬で転覆です。

後には分業や共同経営もありますが、基本は夫婦で船長と機関長となって石材を運搬し、父母や兄弟子供が地主から借り受けた浦々の石切り場でダイナマイトを使った砕石作業をおこなうという、危険でそのうえ資金力もない零細な家族経営、只々深い家族愛と度胸一本だけでなり立つ生業です。

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長い年月を目いっぱいに働いたのでしょう。

熟練の船大工さんが最大の強度で仕上げた船体も、ギシギシ、ガタガタ、ボロボロに・・・m(__)mです。

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船首に描かれた模様には魔よけの意味があるといいます。

おそろしく危険な航海を数千、数万回と乗り越え、無事この港に帰ってこれたのですから、魔よけのご利益は絶大だったようです。

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これだけのダメージを受けているにもかかわらず、まだ船内に海水が入り込む僅かな隙間もありません。

画像は2014年10月16日、私がこの石船、第二新栄丸の雄姿を見た最後でした。

ちなみに、山田洋次監督制作(1972年)の映画「故郷」では倉橋島を舞台に石船による砕石運搬を生業とする家族の様子が、当時の瀬戸の穏やかな風景とともに深く鋭く描かれています。

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岸壁に繋がれた「第二新栄丸」の他にも、沖へと延びる浮桟橋には戦友である「日栄丸」と「共栄丸」が舫ってあります。

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手前に繋がれている「日栄丸」です。
木造船体の周りすべてを鉄板で覆い補強がされています。

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甲板上は搭載した石材が大波や船の進路変更の動揺で滑り落ちないよう、食い込みの良い木造のままとなっています。

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日栄丸の船橋です。
分厚い踏板が一枚、甲板と船橋とをつないで渡されています。

他所の港で船を岸壁に繋ぐ場合は岸壁との間をこの踏板一枚だけで繋ぎます。
明りの無い夜中の2時3時、たとえ一升、二升を飲んでふらつきながらでも阿波踊りの要領でバランスをとり、ヨイヨイヨイって渡り切ります。

落ちたら三途の川(海)・・・(^_^;)です。

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沖側に繋がれた「共栄丸」、まだ十分に現役復帰ができそうです。

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日栄丸とは姉妹船のようで、船橋の造りもそっくりです。

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共栄丸の船橋部分です。
手すり部分の支柱、凝ってますねぇ~~~。

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最後部に梯子が取り付けてあります。
まさかその上がサンデッキってことはないと思いますが・・・(*^。^*)です。

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2015年6月の高田港です。

「第二新栄丸」が舫ってあった場所にはなにもありません。
満ち潮で小さなさざ波が寄せるだけです。

浮き桟橋に繋がれていた「日栄丸」も「共栄丸」も・・・・・・・です。

高田 高田港

高田・中町航路図 
江田島湾の南西部、高田地区の小方から高田港、沖南港、南港そして中町地区の中町港を含めて大きくは中田港といいます。

最北に位置する高田港を除くこれらの港は元々は河川からの堆積土で遠浅となっており、毎日砂浜に引き上げる木造の伝馬船には最適の環境でしたが、船が大型化し、さらには船長一人のみで漁労に従事する省力化漁業が一般化するにいたり、毎日船を砂浜へと引き上げることははできなくなりました。
上げ下ろしの手間を省き、船を海上に浮かべておくためには、桟橋を沖へ出して、その周りを頑丈な防波堤で囲う近代的港湾が必要となります。

高田 S22-H25 
左の画像は昭和22年、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

中田港内にあって、唯一高田港(間所)のみは自然の天恵に恵まれており、古くから大型船の出入りに便利な着岸施設と防波堤の整備が進んでいました。

そのため本土とを結ぶ船便の数も多く、帆船全盛の古きころから、中村(中町)や遠くは鹿川からの乗船客もあったようです。

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高田港に停泊中の給油船です。
事前の取り決めや電話連絡を受けて指定場所(洋上あるいは他港)まで出向き、燃料やオイル、場合によっては水や食料品なども運搬し給油する、海上のガソリン・重油スタンド?です。

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給油船の甲板です。
桟橋や船舶への横着け時に必要な防舷物(緩衝材)や油送ポンプ、給油ホースが所狭しと並べ置かれています。

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小型タグボートです。
大型船の出入港支援や、バージ(はしけ)をけん引したり押したりするのが一般的ですが、当地では主に牡蠣筏の移動や設置作業に使われます。

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潜水作業支援船です。

手前の船(船名景虎)は潜水作業員(ダイバー)を輸送したり、搭載のコンプレッサーで水中作業中のダイバーにエアーを送ったり、また水中通話装置などを装備しています。

緑色のクレーン船(船名KOORYU)は潜水作業員の指示を受けて、海中に重量物を投入したり移動、回収したりするために使います。

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用途不明の船が2隻係留してあります。
NAKATANI 5 との船名がありますので、近くの中谷造船所で使用する特殊作業船だろうと思いますが???な船です。

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第十政福丸、牡蠣作業船です。
牡蠣筏に吊るした、長さ9mもある牡蠣養殖の垂下連(ホタテ貝の殻にワイヤーを通した巨大ネックレスのようなもの)をクレーンを使って筏に設置したり、成熟した牡蠣を洋上の筏から揚収して、牡蠣うち作業場まで運搬したりの作業を行う専用船です。

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個人所有のヨットや、プレジャーボート、釣り船なども係留されています。

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牡蠣作業船第三睦栄丸が入港してきました。
今日の筏での作業が終了したのでしょうか?
それとも作業資材の補充に立ち寄ったのでしょうか?

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大きなバージを押してタグボート(プッシャボート)も入ってきます。

チョット見はのんびりした港の風景ですが、右から左からエンジン音が聞こえては遠ざかり、風の向きで排ガスのにおいが流れて来てはまた消えます。

松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ
干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ♪ ♪ (*^。^*) です。

高田 手押しポンプ

水道基幹管路(H18) 
画像は「江田島市の水道」江田島市企業局水道事業(平成18年ごろ?)からのコピペ・・・m(__)mです。
  
昭和40年6月26日、太田川から天応を経由しさらに海底送水管(1,840m)を通過した用水が江田島町小用の前早世浄水場へと注ぎ込まれ盛大な通水式が執り行われました。

前早世で浄水された水は、時を置かず江田島町から、大柿町、能美町、沖美町へと送られ、それにより島内の水事情は一変、電気、ガス、水道がそろった本土並みの文化生活へと移行しました。

もちろんそれまでも、各地区、あるいは各水系ごとに簡易浄水道設備はあったのですが、各家庭にお風呂を置き、水をだしっぱなしで洗濯機を回すだけの水量は望むすべもありませんでした。

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高田地区を散策中偶然にも、現役で使用中の手押しポンプを見ました。

今までにも手押しポンプを見ることはありましたが、使用できる状態の手押しポンプはほぼ皆無、しかも、オールドファッションのこの優美な姿に一目ぼれ・・・(*^。^*)です。

検索しますと、東邦工業社製のTB式自在口共柄ポンプ「ガチャポン35」と呼ばれるもののようです。

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手押しポンプは本来なら能美町鹿川地区の項で説明すべきでしたが、うっかり・・・(^_^;)でした。

上に見るポンプは、ひし形内に大臣と書かれたマークをもつ、ケーボー号「津田式」ポンプで、明治21年(1881)7月11日に鹿川村で誕生した津田喜次郎氏(旧姓 前)により、改良された手押しポンプです。

大正9年(1920)10月の広島発明品展覧会に出品された津田氏の改良手押しポンプは、時の藤沢商工大臣に大称賛され、「津田式ポンプ大臣号」と名付けて生産販売を開始しました。
高い性能が認められ全国的にも広く普及しましたが、生活用水の多くを井戸水に頼る当地においては特に女性や子供らの水汲み労働の軽減に多大なる寄与がありました。

ちなみに「津田式ポンプ製作所」は昭和45年(1970年)に倒産、その後特許・販売権を興陽産業製作所に譲渡、商表名を「KOYO」として継続製造されましたが、平成22年(2010年)2月に工場を閉鎖、これによって「津田式ケーボー号」の生産は終了しました。

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上記ケーボ号とよく似たポンプですが、CONDITION JAPAN ???そしてダルマさんのマークがあって、ひし形内にHB のマーク?が、・・・です。

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まったくタイプの違う手押しポンプですが、鋳物作りの柄の部分に津田式ポンプとあり、本体にはひし形内に大臣のマークと大きく津田式と文字が浮き出ています。

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鹿川将軍神社に併設する郷土資料館に展示の、シリンダーが連結式となった手押し消防ポンプです。
文字は読みにくいのですが二連式ケーボー号??? 津田式と書かれているようです。

(ちなみに名にある「ケーボー号」の意味や由来は不明・・・m(__)mです。)

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昭和45年に倒産となった「津田式ポンプ製作所」から特許・販売権を引き継いだ「興陽産業製作所」が製造した「KOYO」コーヨーポンプです。
下部にMADE IN JAPAN の刻印が打たれています。

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釣瓶桶から手押しポンプへ、さらには電動井戸ポンプへと・・・。

津田式ポンプが大活躍したのはほんの一瞬間でしたが、そんな 時代も あったねと ♪ ♪ ♪ ・・・(*^。^*)です。

夢の海底トンネル 
蛇足となりますが・・・

画像と下記文章は、平成27年3月発行の情報誌「海陽彩都」よりのコピペ・・・m(__)mです。

太田川の水を江田島へ、「 夢 の 海 底 ト ン ネ ル 」

島で急傾斜地の多い江能地区(当時の江田島町、能美町、沖美町、大柿町)では、永年、水不足に苦しんできた。
元々水源が乏しいうえに、わずかな湧き水も明治21年の旧海軍兵学校の設立以来、軍用水道として使われてきた。
家庭では個人の井戸や共同井戸、井戸のない家はもらい水をしたり、風呂をわかしたら近所に伝えて風呂に入るのをすすめたそうじゃ。
夏場や渇水期には飲料水も足りないこともたびたびで、雨水に頼ることもあった。
伝染病の恐れや水汲み労働の開放など、上水道の創設は島民の命にかかわる切実な願いじゃった。

昭和36年、広島県で呉市の工業地帯まで送る工業用水道が計画された。
これに江能4町で便乗して水道敷設に取り組むことになった。
つまり「太田川から海底トンネルで水を運ぶ」という壮大な計画。
島民の誰もが目を丸くしたじゃろう。
取水口は広島市東区の牛田の水門。
山沿いに水道を敷設して、呉市天応町と旧江田島町高須間の海底水道管を敷設した。
深いところでは水深38m、距離は1840m。
水道管は海中で接続して海底に沈めた。
海底にはヘドロが堆積しているので、鉄筋を打ち込みそれにくくりつけて動かないようにした。
この大工事が約3年で完了したことには本当に驚く。
前早世に通水記念碑が立っとる。

そして昭和40年6月から家庭に給水された。
本管から家庭につなぐ支線の施設費として各家庭で自己負担金約8,000円が必要だった。
月々の貯金を呼び掛けたが、「貯金をしてまで・・・」「井戸があるから」など進展しない。
困り果てた当時の土木課長がひらめいたのが、主婦の力を借りようという案じゃった。
台所をあずかり水の不自由に泣いている主婦なら、水道の必要性を十分に理解してくれるだろう、と。
婦人会に相談したところ、江能上水道事業に賛成し、貯金の世話を引き受けてくれた。
婦人会が各家庭を回って集金したそうじゃ。

誤字脱字などありましたら・・・ m(__)m です。

高田 井戸・ため池

高田グーグル地図D 
高田地区の背後には宇根山山系から北へと伸びる堆積岩の尾根がそびえます。
また標高200m付近からは傾斜が緩くなる地形ですので、他地区の土壌に比べれば保水力もあって、地下水にも恵まれた環境にありました。

とはいっても、戦中から戦後の農地造成に伴う農業用水の確保や急激な人口増加による生活用水を宇根山山系からの自然水だけで賄うのは大変な苦労であり、高田地区を流れる川の整備状況を見ればいかに水資源が大切であったかを一目で知ることができます。

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高田地区で唯一?、今も現役で使用されている井戸です。

電動ポンプが据え付けられており、蛇口をひねればいつでも水が出るようになっています。

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民家の庭先に、井戸の周りを煉瓦で囲んだモダンな井戸があります。

雨よけの屋根に鋳物製の滑車が取り付けてありますが、ここしばらく使われた形跡はありません。

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お庭の中ほどに円形の井戸があり、傍にはコンクリート作りの流し台が残ります。

もとは、水屋となる建物で囲われており、近所の方々にも開放された共同井戸だったのでは?と想像します。

隣家の敷地から伸び出た枝先には、黄色く色付いた夏ミカンが・・・(*^。^*)です。

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高台にある宗崎集落のさらに上に作られた農業配水用のため池です。

眼下は津久茂瀬戸、対岸は津久茂山(御鉢山263m)です。

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中地区の田んぼに配水するために造られた灌漑用のため池です。

深い池の廻りを自然石で垂直に積みあげて造られており、先人の巧みな技が感じられます。

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同じく中地区にある小さな池(井戸?)です。

まもなく春も本番となり、池の回りに植えられた黄スイセンやムスカリの花々が咲き乱れ、水面にはソメイヨシノの花吹雪が舞うことになるでしょう。

高田 小方川

高田 川・池 
小方川の源流部は尾根をまたいで原地区の上部にまで伸びます。

ちなみに島内を流れる川は全長が短いこともあって一つの谷を真っすぐに流れ下ることがほとんどですが、高下川、二谷川、空川、小方川は中流域から流れを北向きに変えています。

もしや~~~?ですが、津久茂の瀬戸から高田、中町、鹿川、深江島戸瀬戸にかけ南北に延びる隠れ断層とかがあるんじゃないか?、と???・・・(^_^;)です。

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小方川の源流近くに作られたため池です。

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小方川ため池の土手からは下方に小方地区を見ることはできません。

眼下には原地区、間所地区が下流部であるかのように見え、実際一部の水流は人工的に原地区へと流れるように水路が枝分かれをしています。

想像ですが、これだと水利権をめぐっていろいろとあっただろうなぁ~、って???・・・(^_^;)です。

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原地区とは尾根をまたいだ北側、小方地区の最上部です。

尾根を横切って流れ出た小方川の清水をつかって、ごく最近まで田んぼが作られていましたが、残念ながら・・・

青い海は江田島湾の出口となる津久茂瀬戸、対岸は江田島町津久茂となります。

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小方川の中流域になります。

イノシシ対策のためにミカン畑の廻りには金網が張り巡らされています。
そうでなくとも人手のかかる傾斜地でのミカン栽培、イノシシの他にもアナグマやカラス、ヒヨドリ・・・

お米作りには八十八の手間がかかるといいますが、島の段々畑で作る蜜柑には・・・(^_^;)です。

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小方川は急流のまま一気にふもとへと流れ下ります。

干拓事業が始まる前は遠浅の芦原だったろう小方干拓地ですが、大型土木機械の無い時代、ほぼ人力のみで造られた干拓地は地表面も低く、台風や高潮による塩害は日常茶飯事、干拓後も少しずつ表土を盛り上げ肥料をすき込んで改良し作り出したギリギリの農地です。

先人の多大な努力の末に作り出された干拓農地ですが、後継者が・・・

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小方干拓地の中央を流れる小方川です。

植物による光合成から生まれたエネルギーは人に優しく美味しく蓄えることもできますが、直接モーターを回したり、車を走らせたりはできません。

ソーラーパネルからは最も利用に便利な電気エネルギーを直接に得ることができます。

本当に本当はどっちが良いんでしょうねぇ~・・・(*^_^*)です。

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小方川は国道487号線に架かるコンクリート橋をくぐり抜けて江田島湾に注ぎます。

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干潮で海水面が海砂の下となった小方川河口部です。
目の前は津久茂瀬戸、はるか遠くのとんがり部は古鷹山です。

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北風が気になりだした11月、小方干拓地の調整池には例年通りに水鳥(コガモ?)がやってきました・・・(*^。^*)です。

高田 間所川・原川

高田 川・池 
高田地区の中心部を抜ける空川は原川と間所川の流れを取り込んで、江田島湾に注ぎます。

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間所川の上流部です。
昭和の後期まで、両岸はすべて黄金色の稲穂に埋め尽くされていましたが、平成に入りセイタカアワダチソウの黄金花で埋められ、さらに進んでクズやススキの原にと・・・です。

ちなみに、源流はさらに山深くへと伸びますが、道は雑木に埋もれ近づくことはできません。

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人家近くになるとしだいに川面が見え始め、サラサラと水の流れが聞こえてきます。

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中流域に入りますと、あきらかに人の手が感じられます。
年に数度は区民総出の川掃除がなされている様子です。

高田地区の川には他所で見るような灰色をした塩ビ管をまったく見ません。

塩ビ管の発明は計り知れなく有用で画期的なことではありますが、零細な農家が共同作業によって辛うじて農業生産を維持している地域においては、個人個人が塩ビ管により簡単に「我田引水」をすることになり、共同作業でなければ不可能な水源や水路の管理、農道や路肩の整備などに無関心となり、ひいては地域共同体の崩壊に繋がります。

「我が家はべつに農道を利用しなくても家の周りが農地だし、水は我が家の裏山から塩ビ管で引きますので、利用することのない農道の整備や川掃除には参加しません。」って、ことに・・・(^_^;)です。

なにより、川岸を数十本の「我田引水」用の塩ビ管がのたうつ姿はとても醜く、それはもう川じゃないし・・・です。

ちなみに日本で塩ビ樹脂が生産販売されたのは1941年、塩ビ管が普及し始めたのは1951年頃だといわれます。

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田んぼはほとんど見なくなりましたが、手入れされた川からの清水を利用して、サトイモやダイコン、小菊などの花き栽培がおこなわれています。

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庭の木々を潤して・・・

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間所川は個人宅の庭の中央を分断して流れます。
原川とはこのすぐ先で合流します。

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原川と合流した間所川は、この地点で空川に合流します。

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原川の源流付近から見た、カキ筏の浮かぶ江田島湾です。

源流付近のわずかな清水を利用して、ごく近年まで田んぼ(標高約180m)がありました。
高田地区の語源になったかも?の高地に作られた田んぼです。

宇根山の東側山腹、中町から高田にかけ標高200m付近以下で傾斜が緩くなる河岸段丘的?な地形となっています。

この緩くなった地形と、その上部に乗る古生層(玖珂層群)から染み出す水と養分を最大限に利用して多くの畑や田んぼが作られました。
海岸部の干拓が進む以前から宇根山東側山腹には江田島市内では稀な高地集落、高下、畑、宗崎の開墾が始まっていました。

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原川源流からの水量は少なく、農業全盛のころにはほぼすべての表層水は農地に吸収され、原川には大雨で溢れた余剰水のみが流れ下っていた時期もありました。

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原川の細い水路は、家の土台下や庭の中を蛇行して通り抜け、この先で間所川と合流します。

大量の生活排水が流れ込むようになり、コンクリートで塗り固められた排水路と変わる前は、原地区の人々にとってもっとも大切な天からの恵みであり命の絆でした。

いま下水道の整備が進み、まさに再び原川の清水が天の恵みになろうとしています。
土手に植えられた花木や草花がその恩恵を真っ先に感じ始めています・・・(*^。^*)です。

高田 空川・光泉寺池

高田 川・池 
空川は支流である原川、間所川と合流して江田島湾へと注ぎます。

高田地区の干拓が始まる江戸時代以前にはこの三本の川はそれぞれに別れた流れを作っていたかも?・・・です。

光泉寺池は空川と間所川の間にあり、これらとは別の水脈を利用して造られています。

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画像は畑集落です。
空川の源流は高田地区で最も高い位置にある畑集落からさらに登った、奥深い谷間にあります。

この空川源流付近には江田島花崗岩と堆積岩である玖珂層群が接触変性して生じた鉱脈があり、鉄鉱石を主体に銅なども産出した畑鉱山がありました。

この畑鉱山から産出した黄銅鉱、磁硫鉄鉱は今も筑波の地質標本倉庫に眠ります。

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畑集落から急流のまま流れ下った空川は空地区に入り、少し流れを緩くして蛇行します。

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流れの脇には定番の柿の木と、その根元を飾るツワブキの黄金花・・・(*^。^*)です。

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多くの家々は川の流れにより沿うように、配置されています。

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どのお家も空川と並走する道路の方に向かって草花を手入れし、花木の枝を川面に張り出して道行く人々の目を和ませてくれます。

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空川はこの付近で間所川と合流します。

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間所川と合流した空川はさらに川幅を広げます。
この日、間所川沿いの光源寺で催し物があったようで、その道中はいつもにない人出が・・・(*^。^*)です。

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空川は高田商店街の中心部を抜けます。

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空川の河口部です。
前方に見える国道487号線に架かる橋を抜け、高田荒神社の脇で江田島湾に注ぎます。

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雨の日の光泉寺池です。
この光泉寺池はとても水源があるとは思えぬ尾根筋先端部の崖下にあります。

地上には水の入り込む水路は見当たりませんので、地下に地層の境界面か?あるいは断層面?があってその隙間から清水が集まる特殊な場所なのかも?・・・(*^。^*)です。

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光泉寺池の土手から見る高田の町と、その先のクレーンは中谷造船所、江田島湾の向こうに旧海軍兵学校(現海上自衛隊)と古鷹山、さらに遠く呉市の山々までが望めます。

左の鬱蒼と木々が繁る小山には光泉寺地蔵堂が乗ります。

高田 二谷川

高田 川・池 
高田二谷地区最奥の深い谷を源流とし、二谷地区、下井田地区の田畑を潤した二谷川は沖南胡子神社の脇から江田島湾へと注ぎます。

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二谷川の河口部です。
青い橋の左に沖南胡子神社の銅板葺き屋根が見えます。

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二谷川は国道487号線の下をくぐり、食料品・雑貨・たばこを商う池田商店の脇を抜けます。

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川に沿って、農道兼生活道路が並走しますが、軽自動車の離合にも苦労する狭い道幅です。

農地の確保が最優先の時代に作られたもので、車社会の到来はまったくの想定外、造られた当初は広すぎるって、苦情が出たりしたんじゃ・・・(^_^;)です。

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庭先に植えられた柿の木です。

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ザクロの木もよく植えられています。

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収穫時期を過ぎても残された柿の実は、山鳥の大御馳走になります。

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お米が作られなくなってもう何年もたった農地ですが、今でも草刈りがされており、川もきれいに手入れがされています。

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川もきれい、農道もきれい、でも田畑に出て作業をする人を見ません。

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二谷川の源流はこの先に見える山間の谷にあります。

その深い谷間の両岸にも小さな棚田が何重にも重なっていましたが、今は人の手をはなれ自然へと回帰しつつあります。

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二谷川源流近くの元は田んぼだった湿地に、小さなベニイトトンボが数羽、真夏の陽光に揺らいでいました。

ベニイトトンボ発生状況 
今年の夏の江田島市内でのベニイトトンボ発生状況です。

そもそもは江田島町切串地区にあった昔からの水田跡地に造られたビオトープでベニイトトンボの発生が確認されたことに始まります。

当初はビオトープに植栽された水草に紛れ外部から持ち込まれたものだろうといわれていましたが、その後の島内探索で各所に群生地を発見、地域の方々からも「そのトンボなら昔からおるよ」ってお話を聞きました。

希少種と呼ばれたベニイトトンボですが、近年広島県内でも各所で新(再?)発見が相次ぎます。
農薬や生活排水が流れ込むような池ではまったく見ませんので、近年の下水道普及率に比例して生息範囲を広げているのかも?・・・(*^。^*)です。

高田 高下川

高田 川・池 
高下川(こうげがわ)の源流は中町高下地区にあり、その中流部以下が高田清能地区を流れ下ります。

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今回たどり着けた高下川の最上流部です。
左右に積まれた石組には何世代もの労力をかけて開墾した田畑の痕跡がしのばれますが、今は完全にイノシシのなわばりに取り込まれてしまいました。
イノシシの防衛線は強固で、イバラや笹竹を何重にも組んで人の侵入を固く拒みます。

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辛うじて人間の縄張りである最上流にコンクリートの頑丈な橋が架かり、山城跡かと紛う石垣が積まれています。

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石垣が積み上げられた最上部には、なぁ~~~ンとお城じゃなくって、ため池(高下池)がありました。
古くに作られた池でしょうが、灌漑用としてはまったく使われていません。

ただ、ここまで私が来れたのは、どうやら消防団?の方々が地域防災のための非常用水確保を目的に進入路を整備された直後だったから?・・・のよう・・・m(__)mです。

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高下池から枯れ枝や蜘蛛の巣を払いながら4,5百m下ってやっと高下地区の人家が見える場所に立つことができます。

眼下、江田島湾の向こうに古鷹山、さらに呉市の山々までが一望・・・(*^。^*)です。

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川沿いに進む道がないので迂回路をいきますと、お、おぉ~~~、風格の漂うモミジの大木が色づき始めています。

推定ですが、樹齢300年?、江田島市ではもっとも大きく古い?モミジだろうと思います。
谷沿いに流れ下る高下川の川霧に包まれて、ここまで大きく成長したのでしょう。

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老モミジの枝下をくぐり、再び高下川の川沿いに出ます。

転落防止用の白いガードレールには毎年12月頃、目一杯に切干大根が下げられています。
今は11月、左に見える畑では、切干用の大根が晩秋の太陽光を浴びてグングンと大きく育ちます。

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左右には広い田畑が広がりますが、今利用されているのはその5分の1?、あるいはそれ以下です。
高下川は少しだけ川幅を広げ、手を振るススキに送られたださらさらと流れ下ります。

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人家の庭先に川へと降りる石段が残ります。
人と川とが本当に仲良く過ごせたのは・・・いつごろまでだったでしょう。

夏休み、どんな小さな川にも竿や網やバケツを手にした子供らであふれていたのですが・・・。

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高下川、ここらから高田清能地区にバトンタッチ・・・(*^。^*)です。

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流れも緩やかになり水量の増えた高下川の水はハウス栽培に利用されます。
ハウス内には小さな蕾を持った、たくさんの小菊がみえました。

お正月前後に出荷するのかも?・・・(*^。^*)です。

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高下川の河口部です。
振り返ればはるか江田島市最高峰の宇根山、その尾根に降った一滴一滴の雨水が・・・。

高田 浜地蔵

2)江田島町南部 浜地蔵 
能美町誌に浜地蔵の記事があります。

ところが、高田の町を何度訪れてもそれらしいお地蔵さまにお会いすることができませんでした。

で、運よく出会ったご婦人にお尋ねしますと、「えっ。浜地蔵???。お地蔵さんならその先のお家にあるんだけど???。昔は子供らを集めてにぎやかなな地蔵祭りがあって・・・。」

そう、そうです。そのお地蔵様です。

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で、・・・。

てっきり家と家との間の細い路地に入るのだと思ったのですが、な、なっ・・・なんと、路地じゃなくって民家のお庭じゃないですか。

しかも、お庭の最奥に安置されています。

「こんにちわぁ~~~」

ご不在のようですが、失礼して・・・、きれいに手入れされたお庭に入らせていただきました・・・m(__)mです。

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お庭の最奥まで入り込み、ふか~~~く、一礼してシャッターを切らせていただきました。

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江戸時代の中頃、石炭問屋であった浜屋にいつも石炭を満載して出入りする船があった。
その船の船主がなくなって、後、浜氏が眠っていると、船主の家族が枕神となって現れ、「どうか船主を祀ってくれるように」とお告げがあったので、享保8年(1723)8月24日、お地蔵様を建立したと伝えられている。
その時以来8月24日を浜地蔵祭とし、盛大に祭る習慣が続いている。

以上、能美町誌に記載の浜地蔵さまの由緒・・・m(__)mです。

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苔のむした大きな庭石の隙間に植えられたサザンカの枝から、花びらがヒラリ足元に舞い降りてきました。

今一度一礼・・・m(__)mです。

高田 光泉寺地蔵堂

高田グーグル地図D・光泉寺 
「光泉寺地蔵堂」は「光源寺」と同じ空地区にありますが、光源寺からはさらに農道を10分ばかり登った先の小さな丘の上に建ちます。

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大きく育ったソメイヨシノの枝下、木漏れ日を受けて建つ光泉寺地蔵堂です。

江戸時代に書かれた「能美島志」宝暦13年(1763)に、光泉寺は高田邑にあり、今延命地蔵像あり、これを堂に安んず、傍に樹あり、其葉茶の如し、然れども其の名を識る者なし、土人これを無名木(ななしぎ)という。と伝わります。

今もこの小丘には多種の木々が鬱蒼としますが、無名木がどの樹を指すかは不明です。

光源寺由緒に云われる、畑地区の山中にあった禅門道場がこの地に移りて光泉寺となり、その法師受玄が浄土真宗光源寺二代目となった寛文元年(1661)以後、光泉寺(禅寺?)は解かれ、跡に堂を建てて延命地蔵が置かれたことになります。

ちなみに、わが国における喫茶の始まりは「日本後記(815年)」にある、嵯峨天皇に大僧都永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った。であると云われます。

その後臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(1141-1215年)は宋に学び、茶の専門書である「喫茶養生記」を著して、お茶の効能を説きました。

光泉寺のもとは禅門道場にあると云われますので、あるいは特別な茶?を飲用、あるいは平家一門だったころに海外から移入した茶葉に似た珍な植物を育てていた?のでは???・・・(*^。^*)です。

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光泉寺地蔵堂は昭和60年3月に再建されたばかりですが、地蔵堂としては随分と立派な、しっかりした造りとなっています。

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お堂の廻りを囲う木々が大きく育ち、境内からの展望はまったくありませんが、四方からツクツクボ~ウシ ツクツクボ~ウシ、と大合唱・・・(*^。^*)です。

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格子戸の奥、赤い座布団を敷いて座位の仏像(延命地蔵尊?)が置かれています。

ちなみに江田島市内で唯一の禅寺である曹洞宗「嶺雲山 宝持寺」の御本尊は延命地蔵尊です。

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地蔵堂のある小丘の直下で枝垂桜が満開です。

小丘だけですと寺を結ぶには手狭ですので、あるいはこちらに光泉寺本堂が建っていたやも?・・・(*^_^*)です。

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境内にはいつ誰が植えたのか、古木となった柿の木が春に緑に萌え、秋に赤く落葉するを繰り返します。

高田 光源寺

高田グーグル地図D・光源寺 
高田の空地区、間所川の急流が緩み始める位置に、浄土真宗本願寺派「海谷山 光源寺」が建ちます。

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開基が天正十三年(1585)であると云われる光源寺は、高田の街並みや江田島湾、遠く呉の山々を見通せる高台にあり、年代を感じさせる野面に積んだ石垣で囲われています。

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改築されたばかりの山門です。

光源寺HPによれば、旧山門は弘化元年(1844)に建立されたもので、平成22年に大修復をしたと記されてあります。
部分的に使える旧部材はそのままうまく生かして組み直された様子が見えます。

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海谷山光源寺本堂です。
先ずは姿勢を正し、両手を合わせて ふか~~~く一礼 ・・・・m(__)mです。

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正面の大きな寺額からは「海谷山」の文字が黄金の輝を放ちます。

海谷山光源寺の沿革として、「光源寺」HPより引用し要約しますと

そもそもの起こりは文治元年(1185)壇の浦の戦いで敗れた平家の一族である伊地宗顕が、一門の菩提のために高田畑地区山中の寺屋敷とよばれている地に草庵を結び、禅門道場としたことに始まります。
その後、高田空地区(現 地蔵堂光泉寺)に移り、一宇を建立して光泉寺と号したと云います。

時代は下り浄土真宗を手厚く庇護した毛利氏に続き、福島氏、浅野氏と続いた安芸藩主も浄土真宗を深く信仰、これにより安芸国各地隅々まで浄土真宗が浸透し、人々は競って安芸門徒へと回心しました。

この大きな教化の波の中、光泉寺(禅寺?)の法師であった受玄は寛文元年(1661)浄土真宗に帰依しました。
受玄は当時すでに僧善了により天正13年乙酉(1585)に開かれていた光源寺に入寺し、開祖である善了を継いで第二代の光源寺住職となりました。

受玄の帰依により光源寺は広島仏護寺(浄土真宗本願寺派)の末寺となり、山号を「海谷山」寺号を「光源寺」として開山するに至りました。

それ以来、光泉寺は廃寺となりましたが、今は地蔵堂光泉寺となって残っています。
また、平家一族伊地宗顕が開いた禅門道場は、宇根山林道の7合目付近にあって「寺屋敷慰霊碑」の石碑が建ちます。
と、・・・ m(__)mです。

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鐘楼の大鐘とは別に、本堂の右隅に一つの小鐘が提げ置かれてあります。

これは喚鐘と呼ばれるもので、 勤行や法会など集まりの開始を報じるために木槌でもって連打します。
火災や水害などの非常事態を知らせることもありますが、現代では島内各所に立てられた防災無線からのスピーカーによる放送がその役を担っています。

この梵鐘は直径約40cm、高さ70cmで、元禄十一年(1698)に市良右衛門の寄進であると刻まれています。

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本堂の右側、広い階段をもうけた書院風の建物が何の違和感もなく寄り添います。
てっきり本堂創建時の設計により建てられた、門徒の控室あるいは有力者を招いての宴席場?なのかなぁ~って思っていたのですが・・・

実はぁ~~~「小・学・校」だった。の・・・(◎_◎;)でしたぁ~~~。

明治7年8月、高田小学校の前身となる「日新舎」が本堂を教室として開校されました。
明治9年2月に本堂南側に学校場が付設されて現在の姿になったといいます。
ちなみに初代校長は12代住職である晃耀法師で、教場には「午前8時昇校、午前3時降校之事」と書かれた木板が今に残るそうです。

ちなみに、この光源寺小学校(日新舎)は明治19年12月に中村簡易小学校と合併するまで、長く高田村児童の修養就学の場としての重責を担いました。

2016-08-27 075 
本堂の脇に植えられた百日紅が、海浜から山門を抜けて吹きあがる微風にゆらぎ、夏の暑さを和らげます。
な~んて、訳はなくやっぱ夏は暑いのですが・・・(◎_◎;)です。

いつ訪れても境内は清掃がされた直後のようで、サルスベリの花びら一つ落ちてはいません。

毎日の手入れで掃き清められた境内の中央に建つ光源寺本堂は、文化14年(1817)3月に再建されたもので総欅作りであると云います。

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そそぎ降る日差しを遮り、大きく四方に張り出した庇が魅力の鐘楼です。

明治12年(1879)に建立されましたが、初代の梵鐘は戦時の金属類回収令により供出されました。
二代目となる梵鐘は、昭和25年(1950)蓮如上人450回大遠忌のおり奉献されたもので、四方の柱は山門と同じく平成22年の大修復で取り換えられました。

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白壁もまぶしい経蔵です。
経蔵は大正14年(1925)に建立され、仏典『大蔵経』全巻のほか、古書類多数が納められています。

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本堂大屋根と直立する杉の対比、光源寺の前身ともいえる禅寺をおもわせる凛としたシルエット・・・(*^。^*)です。

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高台から見た光源寺全景と廻りを囲む高田空地区の家々です。

光源寺に伝わる希少な伝統として、正月のご正忌法要と秋の報恩講には「立華」飾ります。
松を主体とした盆栽風の生け花ですが、高さは2m近くあって迫力満点のお供え花です。

また、光源寺の清らかな境内を利用し、毎年数回の「えたじま手づくり市」が開かれており、島の数少ない賑わいの場となっているとか・・・(*^。^*)です。

以上、主には、光源寺HPからの引用ですが、誤記蛇足などありましたら・・・m(__)mです。
詳しくは「浄土真宗本願寺派 光源寺」をご覧ください。

高田 南胡子神社

高田グーグル地図D・沖胡神社 
「沖南胡子神社」からさらに南に下がった位置に牡蠣事業者専用の港、中田南漁港があります。
その魚港の荷揚げ場の一部を花崗岩石柱をもって玉垣とし、朱塗りの「南胡子神社」が建ちます。

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青い銅葺屋根をのせた朱塗りの南胡子神社は江田島湾を背にし南を向いて建ちます。

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社殿の前に建つ石碑には、胡子神社建立記念碑 昭和四十五年元旦 とあり、もう一つ別の石板に、胡子神社建立世話人として
山崎末一・秋元勉・原田実夫・片平勇・小笹山定雄・山本幾次・小川己稔・清次武夫・池本才松・古本英雄・山崎康・平井勝の名があり、

寄付者芳名かき業者の部として
山崎末一・小笹山定雄・片平勇・原田実夫・小川?稔・山本幾次・清次武夫・池本才松・石田章・石田勝・石田善理・原田春男・片平光秋・山崎康・古本久夫・古本英夫・古本幸夫・秋本勉・秋本智敏・下家九一・森野清・原田稔・井原義夫・橋本俊一・西原?男・西原一正・中下倉次・中下巌・山岡正悟・柳川清美・古本紀昭・小笹山譲・陣森節士・山崎利相・平本博
の御名があり、さらに一般寄付者大勢の芳名がつづきます。

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中田南漁港の防波堤内とはいえ、北風や波しぶきがまともに吹き抜ける位置に建ちます。

台座の石垣は隙間なくぎっちりと組まれ、社殿はその上のぶ厚いコンクリート台に埋められたアンカーボルトできつく抑えてあります。

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神社境内に大岩を建て、昭和四十五年春 牡蠣供養塔 高田牡蠣業者一同と深く刻まれています。

能美町誌によれば、元禄13年(1700)のころには安芸草津産の地蒔き、あるいは、ひび建て養殖で育てた牡蠣が大阪方面に出回っていたと云われます。
能美における牡蠣養殖は昭和3年(1928)広島市観音の住人が当地高田漁場において契約養殖を始めたのをきっかけとし、昭和13年になり高田村漁業者による簡易垂下方式(杭打ち式)が普及、数年のうちに牡蠣養殖に適する浅海海面は手狭となり昭和20年には飛渡瀬の漁業会とも合併し規模の拡大を図りました。
その後昭和23年(1948)には、筏垂下式養殖法も導入され、さらに昭和30年頃より筏の素材を柔軟性のある孟宗竹としたことにより、利用できる海面は一気に広がり、江田島市の牡蠣生産量は国内第一位あるいは第二位を争うほどに大発展を遂げました。

この大岩は、能美あるいは江田島市の「牡蠣発祥の地」記念碑でもあるわけ・・・(*^。^*)です。

高田かき筏19471215(昭22)A 
画像は昭和22年12月の中田港(高田、中町沖の海面)です。
牡蠣養殖の筏はまだ設置されていないようです。

中田港中央に見える白い船影は米軍爆撃機の攻撃により大破着底した日本海軍の重巡利根です

1966 09 13(S41)かき筏 
昭和41年9月の中田港です。
無数の牡蠣筏が見えますが、まだ係留技術が発展過渡期?のようで、筏も雑然と浮いています。

高田沖かき筏ぐーぐる2016 
現在の中田港の様子、統制され整然と浮かぶ筏群です。
これだと養殖管理作業で巡回する作業船も安心して走れそう・・・(*^。^*)です。
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