岡大王 大黒神島

江田島市地図グーグル・大黒神島 
大黒神島(おおくろかみしま)は、岡大王と畑地区の沖合約4㎞に位置し周囲が約12km、面積は約7.25km2で、現在は瀬戸内海で最大の無人島です。

この島は山が険しく、全島が森林におおわれていましたが、天保の大飢饉(1832~1840)のころから新たな耕作地を求めて移住する者が現れ、白瀬川を境に北西側が畑村に、南東側が岡大王村の所属地となりました。
最盛期には水田13町5反、畑12町6反ほどがあり、米や甘藷、西瓜などがよく採れたと云います。

大正中期のころよりは子供の学業などの利便性から能美島に移り、農耕船に牛馬を乗せ櫓をこいで黒神島に渡る、通い農業をする者も多くいたと云います。
昭和50年代までは人の気配があったようですが・・・。
ただ、まったくの無人島と云う訳ではなく、島の南西側では数社が大規模な砕石事業をおこなっており、もと島民が山菜取りなどでときおり訪れている様子です。

現代の生活には不便なこの島も、かっては原生林に近い鬱蒼とした山林があり、産出する木材は寺社や学校建築の用材、建設費用の捻出に大きく貢献しました。

原生林は戦後の山林火災で焼失しましたが、港湾整備や埋め立て事業に必要な石材が大量に眠る宝の島であることに変わりはありません。

この宝の島の帰属をめぐっては、過去に何らかのトラブルもあったようで、その一話として「ふるさとの民話 江田島・能美島」に以下の伝承が記されています。

大 黒 神 島 を 深 江 村 と 取 り 合 っ た 話  (要約)
昔、まだ時計もなく、鶏の鳴き声を夜明けの合図にしていたころの話です。

ある日、大黒神島で大王村の人が畑を耕し、野菜を作ろうとしていたところへ、深江村の人が現れ、「うちの村の土地でなにごとけぇ。この島はうちのもんじゃないけぇ」と言い張ります。
「わしは前々からここでものを作りよるじゃ。どしていけん。早いもん勝ち言うじゃあなぁか」と、争いが始まりました。

深江村の人は「この島は、うちの村の目と鼻の先にあるんじゃけぇ、近い方のもんじゃ。遠くの者がそう言うのはおかしなことじゃ」
一方、大王村の人は「んにゃ見てみい。この島はうちの村の真沖にあるじゃあなぁか。あっちの村の者が、こっちにある島を我がもんじゃ言うて、それこそおかしな話じゃ」
「これじゃあらちあかんけぇ、用意ドン!で競争し勝った方の島にしよう」
「んなら、一番鶏が鳴いたら舟を漕ぎ出し、先に島に着いた方が勝ちじゃあ」ということでまとまり、深江村では鶏にしっかり鳴いてもらおうと、うんと餌を食べさせ、一方の大王村では漕ぎ手が負けんように御馳走を食べさせ早く寝せました。

さて、あくる朝、腹を減らせた大王村の鶏はいつもより早く一番鳴きをはじめ、それを合図に、大王村の漕ぎ手は待ってましたとばかり、一生懸命に沖へと漕ぎ出しました。

一方、うんと食べてぐっすり眠った深江村の鶏は、二番鶏になってしまったのです。
遅れをとった深江村は大急ぎで舟を出し、懸命に漕いだのですが、深江村の人たちが飛び降りた浜辺には、すでに大王村の人たちの草鞋が投げ捨てられており、以後大黒神島は大王村のものになったと云います。

よく似た伝承に、同じく舟での競争で抜きつ抜かれつの接戦の末、大王村の漕ぎ手が船上から投げた草鞋が先に砂浜に落ちたことで大王村の勝ちとなったとも。

他にも「黒神島へは犬を連れ入ってはならぬ」とも云います。

蛇足です。
日本で最大の無人島は、北海道松前郡松前町に属する火山島、渡島大島(おしまおおしま)で、面積は約9.73km2、です。

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黒神島(大黒神島)の命名由来ははっきりしませんが、是長地区の沖にも同じく黒神島があり、大きさの違いで大小、黒神島として区別されています。

沖美町史によりますと、「安芸国神名帳(鎌倉時代)」に佐西郡興津黒神明神と記される社があり、「芸藩通史(江戸時代)」に黒神島に三興津黒神明神の御社(みやしろ)と呼ばれる地があったと記されます。
島の東に突き出た宮城鼻(みやしろばな)付近がその御社跡では?といわれます。

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沖美町史よりコピペの「黒神島の地図」です。
地図の上方向が東側となりますので、地図の右上に宮城鼻があります。

大黒神は南東部が岡大王地区、北西部が畑地区と二分され、最高峰の櫛ノ宇根(459.9m)は岡大王地区に含まれます。

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花き栽培用のビニールハウス、専念寺の本堂の向こうに見る大黒神島です。

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江田島バスKKの「大王神社前」バス停から見た大黒神島です。

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是長地区の農道から見た大黒神島です。

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畑地区の渚から見た大黒神島です。

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海図「広島湾1/7500」昭和5年5月16日刊行 水路部長 米村末喜、6月7日印刷発行 水路部、のコピペ・・・m(__)mです。

海図であっても主要な山には標高が記載されるのですが、呉軍港付近の山々は故意に標高表示が削除されています。
古鷹山も宇根山(旧名 中村山・野登呂山)も、呉市の灰ヶ峰、休山も・・・(^_^;)です。

海図左下に、艦船速力試験距離と書かれた破線があります。
大黒神島の山裾に白い標識が立てられており、艦船がその2点間(1海里)を通過した時間を計測し、速力測定やプロペラの回転数(翼角)調整などを行います。

最近では電波発信機やGPSによる計測に変わりましたが、白い三角の標識は今も設置されています。

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神秘的山容で横たえる大黒神島です。

ちなみに奈良県にある黒髪山のクロカミは、「クラオカミ」の転じた言葉だとされ、恵みの雨を降らせ、長雨を止める龍神様として信仰されるとか・・・

大黒神島の山容を、龍神にたとえるなら、小黒神島はその龍神の手に乗る玉となるかも・・・(*^。^*)です。
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岡大王 正光川・大森川・流田川・大石川

岡大王防災マップ川 
上記画像は江田島市作成の「ハザードマップ 沖美町畑・岡大王」をコピペしました・・・m(__)mです。

岡大王地区を流れる主な川には南から正光川、大森川、上流部で大森川と合流する流田川、そして大石川があり、さらには、畑地区から流れ下る大坪川が岡大王との境界となって畑漁港に注ぎます。

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農道から見た大王地区集落です。

江田島市最高峰である宇根山の南西斜面は極めて急峻で、さらには深くノコギリの歯状となった谷筋が無数に並びます。
そのため、尾根付近に降った雨は保水される間もなく、わずか数十分のうちに海岸まで流れ下り海へと放たれます。

広島県西部では北東から南西方向の古い断層が無数にあり、さらにこれに直交する断層もあって、複雑な断層谷が形成されています。
江田島市においてもその断層帯の延長となる地形で、大きくは南北方向に3分割、東西方向に3分割された数個のブロックとなって海上に浮きます。

南北方向の断層谷が川となって残るのが江田島町切串の長谷川、沖美町三吉の木ノ下川、能美町鹿川の永田川、大柿町大原の八幡川で、市内では南北の断層帯が著明に残り、それに直交する断層谷や河川は短く急峻です。

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沖美町の農道でよく見る、農業用水専用の導水管空気弁の蓋です。

沖美町の沖地区(岡大王・畑・是長)は江田島市内にあっても特別に急峻な地形で、耕作地の確保はもとより、短く、しかも滝のような急こう配で流れ下る川から生活用水や農業用水を確保できるかどうかは、村落の命運をも左右する重大事でした。

それまで井戸水や、集落ごとに谷川の水を集めた簡易水道で辛うじてまかなっていた生活用水は、昭和40年6月、広島太田川より海底導水管を通し江田島町小用の前早世浄水場ろ過沈殿池が満水となることでやっと本土並みの生活が見えてきました。

前早世で浄水された太田川の水は江能上水道組合(のち江能水道企業団さらに江田島市企業局水道事業)の手により能美町鹿川との境にある才越峠の第三配水池に揚水され、そこから岡大王・畑・是長へと送られます。

これにより生活用水に不自由することはなくなりましたが、水道水ではお米やミカン、キュウリを育てることはできません。

おりしも、不自由な水環境にもめげずにミカンやキュウリ、イチゴやキクやスイトピーなどの栽培に熱心な沖美地区が県営畑地帯総合整備事業に取り上げられることとなりました。
天水にたより、例年の水不足に悩まされていた当地に農業用水の安定供給は夢のまた夢でしたが、その沖美町内には三吉地区に旧海軍が建設した三高ダムがあります。

この三高ダムは大東亜戦争による江田島海軍兵学校生徒や職員の大激増に伴い、その生活用水を確保すべく、1943年から1944年の僅かな期間で造られたもので、戦後のどさくさに紛れてダムの設計図も残っておらず老朽化が懸念されていました。

この二つの県営事業の組み合わせにより、三高ダムの補強拡張事業と、沖美地区の農業振興事業とが相乗し、ついに平成14年11月、ダムの有効貯水容量を今までの21万8000m3から55万4000m3に倍増した、新三高ダムが完成、沖美地区全域への農業用導水管が敷設されることとなりました。

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農業用導水管は、正光川の源流に近い大王地区の農地、推定標高150mにあるミカン畑までをも潤します・・・(*^。^*)です。

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大森川河口部です。
あと数メートルで海へと注ぐのですが、それでもスベリ台以上の傾斜があります。

夏場はウオータースライダーとして開放されています。ってウソ・・・(^_^;)です。

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大森川(流田川)中流部です。
三段峡・・・(^_^;)です。

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先の撮影場所から下流部を写したものです。
海岸から400mで標高が40m、家々の屋根越しに海が丸見え・・・(^_^;)です。

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右が大森川、左が流田川、二つの川の合流部です。
大雨時には怒涛の流れがぶつかる合流部は、整流効果???を出すために船首のように鋭角となって・・・???。

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大森川の最上流部です。
川の源流部付近から、その川の河口部が見通せる急流川はそう多くは無いと思いますが?・・・。

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大森川源流部近くに残る、貯水槽の石垣と、その水槽を覆うトタン屋根です。

太田川からの水が通ずるまでは、この地域での最重要施設であった簡易水道の貯水槽が今もそのままに残してあります。

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大石川の河口部付近です。
大切な川の堤防は家々の土台よりも丁寧に、僅かな隙間もなく石積みがなされています。

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大石川中流部です。
長年の浸食で細い流れでも深く深く刻まれます。

「雨垂れ岩を穿つ」・・・(*^。^*)かな?

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沖美町の下水道マンホールの蓋です。

上水道の普及により、各家庭ごとにお風呂を沸かし、全自動洗濯機は油汚れを数分で真っ白い生地に漂白し、お米のとぎ汁もみそ汁の残りカスもじゃぶじゃぶ水で濯いで脇を流れる川へと流し込んでいました。

上水道が普及したことにより最大の被害を被ったのが、なんと、いままで最大限大切にされていたすぐ家の脇を流れる川だったのです。

雄大な自然の壮大なサイクルであっても、なにげもないほんの僅かな歪みで、と~んでもないことに・・・(^_^;)です。

岡大王 無量山 専念寺

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浄土真宗本願寺派「無量山 専念寺」は江田島市最高峰の宇根山(541.8m)南面の山裾に沿う、岡大王集落のほぼ中央に建立されています。

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南面する岡大王集落のひな壇中央に、ひと際大きな入母屋のいらかを乗せるのが、無量山専念寺です。

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境内真下を横切る県道36号(高田沖美江田島線)から見上げた専念寺本堂の右側面です。

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入母屋造りの専念寺本堂右側面、破風の部分です。
大屋根には大きな「獅子口(ししぐち)」が乗り破風部には、分厚い板を掘りぬいた懸魚がつけられています。

ちなみに獅子口の上に乗る三つの円筒は「経の巻」とよばれ、その下の山形模様を「綾筋(あやすじ)」、左右に大きく垂れさがる飾りは「鰭(ひれ)」といいます。

破風部の懸魚は「鏑懸魚(かぶらげぎょ)」が、左右と下についた「三ツ花懸魚」とよばれるものです。

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県道から路地を上りますと、すぐに専念寺山門の前に来ます。
紅梅の自然仕立ての枝が、風格のある山門をいっそうと引き立てます。

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山門の扉に付けられた釘隠し、形から「乳金物」ともよばれ、城郭や寺社など格式のある建物の門など目立つ場所に使われます。

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山門をくぐり右手境内に、優美な曲線屋根をもつ白壁土蔵造りのお経堂が建ちます。
出入り口を風雨からまもる重厚な屋根は唐破風です。

毎年枝を刈り込まれたイチョウのシルエットはお坊さん?・・・(^_^;)です。

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境内の海側、大きく切り出した花崗岩石材を巧みに組み上げて鐘楼が建ちます。
鐘つき棒、「撞木(しゅもく)」にはシュロの木が使われていて、鐘には「南無阿彌陀仏 昭和二十四年九月」の文字がみえます。

その前の釣り鐘は戦時の金属供出で行方知れずとなったのでしょう。

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境内には昭和50年5月に広島県天然記念物に指定された樹齢4、5百年と云われる天蓋松「飛鶴の松」がありましたが昭和54年松枯れの被害により失われました。

代二代天蓋松となるべく、境内中央の日当たりに若松が植えられており笠形に剪定されています。

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集落の規模からは想像を越す重厚な本堂が建ち、黄金の寺額「無量山」があげられています。

専念寺保存の古文書「能美島寺社古跡覚書帳」(1715年)によれば当山は11世紀ごろ付近の寺山において寺尾山門禅院洞蔵寺として創建されました。
のち文禄3年(1594年)僧是教が浄土真宗に改宗、その後当地に移りて「無量山 専念寺」として開基したと云います。
現在の本堂は安政5年(1858)から約5年の歳月をかけて完成したもので、柱や梁などには、大黒神島の原始林から切り出された木材が使われています。
また、この大事業には、空喜三右衛門氏が頭取世話人となり、全村民の一致協力があってこそなし終えたと伝えられています。

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山側から見た、本堂の左側面です。

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専念寺大伽藍と、その沖には伽藍の骨組みとなる大量の木材を供給した大黒神島が大きく横たわります。

岡大王 黄幡社 2/2

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靴底の泥を払い、拝殿へと上らせていただきました。
長年の風雪に絶えた頑丈な社殿ですが、万が一に備えて斜めに補強材が入れられています。

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拝殿奥、幣殿とを仕切る格子戸の上に「奉寄進 黄番社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」の社額があげられています。

この社額の他、黄幡(番)社再建の由来を示すものがないことから、現在の社殿は明治24年9月に再建されたものと伝わります。

ちなみに社額の左右にも寄進奉納品を止めた鉄釘が見えます。
長い年月を経る間に失われてしまったものも数多くあったことでしょう。

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大屋根を支える頑丈な木組み(和小屋組み)がもろ見え・・・(*^。^*)です。

画像左から右上に棟木(むなぎ)と並行に伸びる粗削りの大木が桁(けた)と呼ばれる構造材です。
その棟木や桁に直交する湾曲した木材を梁(はり)とよび、これらの木組みを総称して小屋梁(こやばり)ともいいます。

神殿建造物は庇(ひさし)を長く突き出して造ることが多く、その庇の重量を内部にとり込むためにも桁や梁を大きくして、大屋根に乗る瓦の重量でもって長い庇を支える垂木(たるき)が下がらないように抑え込みます。

多くの社殿では棟木、あるいは桁に大工棟梁の名前や建築年月日、棟上げの儀式で使用した木槌や鉋、墨壺、鋸などを取り付け、奉納品とします。

黄幡社にも当然取り付けてあったと思われますが、今は行方知れずとなっております。

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古い奉納絵馬があげられています。
奉寄進 大正十四?九月吉日 願主 青山千一 と読めますが?

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刺繍?画でしょうか?
五本爪の龍(青龍?)と虎(白虎?)が競う絵馬が奉納されています。

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奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正 とあります。

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画像が見難いのですが、一本爪(シングルアーム)の鉄製錨が奉納されています。
見た目で1m近い大きさがあります。
明治初期?百石くらいの帆船に積まれた錨?かも???・・・(*^。^*)です。

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拝殿からみた岡地区と右は岡大王に隣接する畑地区となります。
海の向こうは岩国方面です。

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拝殿を降りると、左に社殿を覆い尽くさんとそびえたつ大楠があり、脇に説明板が架けられています。

以下は説明板の要約・・・m(__)mです。
黄 幡 社 の 大 楠
目通し周囲 6.70m
樹高 25m
江田島市随一の巨木です。
主幹に空洞がありますが、大磐石のような根をどっしりおろし、1本の木で鎮守の森を形成しています。
まさに岡地区もシンボルといってもよいでしょう。
ちなみに、明治24年の再建にあたり、この大楠の枝から柱などの材料をとったとされ、そのことで現在の樹形が成ったと云われます。

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たしかに大きな楠木ですし、社殿再建時に枝を切られたような窪みもみえます。

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クスノキ(樟、楠)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木で、幹周囲10m以上の巨樹になる個体も珍しくなく、木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れています。

そのため海上に建つ宮島(厳島神社)の大鳥居には古来よりクスノキが使用されています。
大鳥居は、平安時代から造られ始め、現在までに8回造り替えられているそうですが、永禄4年(1561)の厳島神社大鳥居の改築にあたりましては、当地、能美島より東西2本の眞柱(主柱)が搬出されています。

その西の眞柱は能美佐馬允氏社(大柿町大原新宮八幡宮?)から、東の眞柱は能美中村八幡宮(能美町中町八幡神社)から出されたものです。

ちなみに現在の大鳥居は、明治8年(1875)に再建されたものです。
高さ約16.6m
棟(大棟・笠木)の長さ24.2m
主柱周り9.9m
総重量は約60t
社殿から海に向かって右側(東側)の柱が福岡県久留米市、左側(西側)の柱が佐賀県佐賀市から取り寄せたものです。

クスノキの生育には、台湾、中国、ベトナムといった暖地が適しますが、広島県沿岸部では珍しい木ではなく、市の木、町の木として、広島市、福山市、三原市、安芸郡府中町、海田町で指定されています。

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大楠の枝下に溶け込むように建つ、岡の鎮守の黄幡社・・・(*^。^*)です。

岡大王 黄幡社 1/2

s-グーグル岡大王・黄幡社 
岡大王の旧岡地区、山裾に沿った丘の上に「黄幡社(おうばん)」があります。
大王の天満宮と同様、岡の黄幡社も江田島市内では唯一の黄幡社となります。

ちなみに明治24年寄進の拝殿社額には「黄番社」と書かれています。
また、江田島町江南に「大判神社(おおばん?)」と呼ばれる祠がありますが黄幡につながるかは不明です。

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黄幡社は、島内最大といわれる大楠の枝に優しく抱かれ守られています。

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境内の地盤を守る石垣は何度も崩れたり積み替えらりしたのでしょう、角の尖ったのや丸く風化したものなどがあったり、大小もさまざまに積まれています。

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村の鎮守にふさわしい、頑丈さと優美さ機能性をバランスさせたモデル的な建築仕様です。

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鎮守様としては大きめに作られた社殿ですが、屋根に覆いかぶさる大楠との対比で小さく見えます・・・(*^。^*)です。

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拝殿横の軒下に、何個もの電線ドラムが置かれています。
お祭りのあとに、電線ドラムをテーブル代わりにして盛大な飲み会とかがあった?のかも???・・・(*^。^*)です。

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遅くなりましたが、拝殿正面にて「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。

以下は、沖美町史よりの抜粋です。
岡の黄幡社は竈(かまど)や農業の神様である奥津日子神(おくつひこ)ほか四柱を祀っています。

古老の言い伝えによりますと、享禄年中(1528~1532)、岡村の森沢喜左ェ門・山田勘九郎という二人の村吏が夢を見た。
「森山の木末に幣帛がある。この村を守護する神であるから早く社を建て祀るべし」と。
直ちに二人は森山に行って見ると霊験神託たがわないことがわかったので村人と協議して社殿を建てた。
この神の鎮護により村内に火難がないので村民のこの神を尊敬することが日夜盛んなりと。

また能美島志には、「黄幡神社、岡村森山ニアリ、往古ヨリ六月虫祭り之節合祭ス」と記してあります。
尚、拝殿の正面の額に「奉寄進 黄番(黄幡)社 明治二十四年九月吉日 願主 當村 長岡喜一郎 敬白」と記されていますので現在の社殿はこの頃に再建されたものと伝わります。

ちなみに、ウイキペディアには黄幡神(おうばんしん)とは、九曜の一つである羅睺(らごう)を奉ったもので、集落の中心や三叉路、あるいは境や辻に、道祖神、守り神として祀られると。

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拝殿の右側面です。
拝殿の一段上方には、常世との境を石柱の玉垣で囲った赤い屋根の本殿があります。

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石工さんの腕前が光る花崗岩石組みの壇上に接着剤でくっつけたようにピッタリと本殿が乗ります。
現代のような大型の岩石切断ノコなどのない時代に、石ノミと玄能だけで叩き出した味のある岩肌と角の尖った直線の組み合わせが何とも言えません・・・(*^。^*)です。

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本殿の破風部を飾るのは大王天満宮の「いのめ懸魚」とは違って「かぶら懸魚」が架けられています。
大楠の枝葉から漏れる優しい太陽光が本殿の屋根に虹を作り、拝殿の瓦屋根にキラリ反射します。

岡大王 天満宮(しるごき天神)

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江田島市内で唯一、の天満宮である「しるごき天神」は沖美町大王の王城と呼ばれる岬の上に鎮座します。

古来、大王(大生)は、西能美の「中村、鹿川、高田、三吉、是長、大生(だいおう)」の一浦でした。
16世紀のころより三吉と高祖、是長と畑、大生(大王)と岡、の集落に分れますが、この新6浦が行政区画としての村と呼ばれたのは寛永15年(1638年)の浅野氏による検地が行われたのちとなります。

その後明治14年の記録では、三吉村376戸(2126人)、高祖村128戸(833人)、是長村236戸(1327人)、畑村241戸(1068人)、岡村154戸(776人)、大王村199戸(1017人)が暮らしておりましたが、明治16年に岡村と大王村が合併し岡大王村に、明治22年、三吉と高祖が合併し三高村に、是長と畑と岡大王が合併し沖村となりました。

さらに昭和31年となり沖村と三高村が合併して沖美町(1891戸・8447人)となり、字名として、岡、大王、畑、是長、美能、高祖、三吉をのこします。

そして平成16年、佐伯郡沖美町、佐伯郡能美町、佐伯郡大柿町、安芸郡江田島町が統合し江田島市沖美町字大王となりました。

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天満宮は岬の先端、王城と云われる地に建ちます。

見晴らしの良い断崖の上ですので、古くは見張り用の砦とかがあったやも???ですが、大王(大生)、王城、ともに地名の由来は不明です。

が、・・・一説には壇ノ浦の戦い(1185年4月25日)で源氏に破れ敗退した平家の落ち武者が、安徳天皇を奉じて一時この地に立ち寄ったとも・・・???です。

以下は春先の妄想夢です。

寿永2年(1183年7月25日)木曽義仲に敗れ都を追われた平家一門は、安徳天皇を擁して西国へと逃れました。
一時は優勢となるも、一ノ谷の戦い(1184年3月20日)、さらに屋島の戦い(1185年3月22日)に敗れ、瀬戸内海を流浪したおりに大君(江田島市大柿町大君)の地において手厚い保護を受けました。

その後源平最後の決戦、壇ノ浦の戦い(4月25日)に敗れての敗走中、再び保護を受けるべく大君を目指した平家落ち武者の一団がおりました。

しかしながら、大君を目前に早瀬海峡の警備が物々しいことを察知し、宮島、大奈佐美島の方向へと向かうのですが、こちらは早瀬以上に警備が厳しいことを知ります。
そのため当時は無人島で、原生林に覆われた大黒神島に隠れ住むのですが、やがて対岸である当地(大王)の住人が知るところとなり、この地で匿われます。

しかし、浦々を厳しく探索する追手を警戒し背後の宇根山へ、さらに山越えして、平家落ち武者伝説を今に伝える能美町中町の高下地区へと移り住んだのでは???と・・・(^_^;)です。

さらなる蛇足となりますが、当地では宮島造営や音戸瀬戸拡張工事、造船、海運業などで平清盛とのつながりも深く、平家に恩義を感ずる者も数多くいたと思います。

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かっては正面である海側から登る参道があったやも???ですが、今は裏側に参道がつきます。
手前が本殿、屋根にあげられた千木が外削ぎですので男の神様が祀られています。

この天満宮が「汁御器(しるごき)天神」と呼ばれるのは、大王の船頭さんが廿日市草津から肥料を運ぶ途中、船上での食事が終わり、器に残った梅干しの種を海中に投げ捨てようとするのですが、何度試みても種が器に残ったままとなり、そのことを中村八幡神社の神主に相談、「これは天神様の化身なり」として海を見下ろす岬の上に祠を建て祀ったことが始まりとされます。

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南の方角に向いて建つ天満宮拝殿です。

のべつ浜から吹き上げる風も、雪交じりの冷たい北風も、南から近づく台風も、すべてをまともに受けて建ちますので並みの造りだと吹っ飛んでしまいます。

近年の想定外に発達する巨大台風に備え、鋼鉄のアームでしっかりとした補強が追加施工されています。

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二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。
拝殿正面には駿馬の額があげられており、奉納 平成16年3月吉日 広島市 藤本正の名があります。

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屋根を支える垂木が合わさる中に、棟梁が奉納した木槌が留め置かれています。

ちなみに、現在の拝殿は昭和33年9月に再建されたものですが、1841年(天保12年)の再建記録も残っており、その時の総事業費は「十三貫百七十六匁二分五厘」であったと云います。

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昭和33年9月再建時の棟札です。

祀神として八神の名が記されていますが、初めの「屋舩勺々廼智命(やふねくくのちのみこと?)」以下は判読が???・・・m(__)mです。
八神名の後に、記録として
棟札と同衫
奉再建志
奉納 棟梁 木挽 佐官 脇棟梁 石工
大下佐平 七十六才
山中春夫 四十六才
原口清三 三十九才
宮總代
今田敏美 四十三才
寺野下政一 七十七才
花崎泰造 五十八才
原田四市 五十六才
世話人
寺西豊市 五十四才
下西武 二十九才
吉野政一 三十九才
尾城啓 ?才
二本松万太郎 五十才
尾上明夫 三十五才
島津孝一 五十三才
中川伍一 五十一才
昭和参拾参年九月吉日
の文字が見えますが、転記ミスがありましたら・・・m(__)mです。

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御寄附芳名札も貼られています。
右から
一金壱萬圓也 文部大臣 灘尾弘吉
一金参萬圓也 懸会議員 平塩五男
一金五萬圓也 広島市 田丸四郎
一金五萬圓也 神戸市 寺野下隆義
一金五萬圓也 神戸市 松尾政次郎
一金四萬圓也 大柿町 二矢川建設株式会社
一金弐萬圓也 畑 吉本関太郎
一金弐萬圓也 大柿町 中本正数
一金五千圓也 神??道具一式 広島市 中山良一
一金壱萬参千圓也 寺尾孝壐
一金壱萬圓也 花神安太郎
以下にも、ハワイや神戸在住者のご芳名が続きます。

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説明文はありませんが、西能美地区の惣氏神である能美中町八幡神社の祭祀を沖美町の沖地区が授かった年に奉納舞いを演じた子供たちの集合写真です。

ちなみに、能美中町八幡神社の祭礼は9月中旬の(第三土曜日、日曜日)に行われます。
祭礼に伴う準備や祭りでの出し物(だいば ・おたふく・ 雄しし ・雌しし)は西能美の旧5ヶ村(鹿川村・中村・高田村・沖村・三高村)の持ち回り(かやっちょう)となります。

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拝殿の左の木鼻には鋭いタッチで像が彫られています。

木鼻には獅子(しし)や像(ぞう)、あるいは獏(ばく)が彫られることが多いのですが、しるごき天神の木鼻は右が獅子、左には像です。

像と獏は共に長い鼻があり牙もあって、とてもよく似ていますが、一般に目の形状が三日月形で細長いのが像で、丸いギョロ目は獏だといいます。
さらに、耳が団扇のように大きいのが像で、犬のような尖った小さな耳は獏です。
他にも獏には体毛を表す渦のような模様が付きますが像にはありません・・・(*^。^*)です。

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拝殿の入母屋破風(いりもやはふ)には、ハート型の穴があけられた猪の目懸魚(いのめげぎょ)が架けられています。

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天満宮境内からの展望です。
いらかの向こうに見える港は中央から手前が正光港その先は小田港と呼ばれます。

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昭和33年に再建された大王天満宮は、来年、2018年9月に築60年を迎えます。
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