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その13 石風呂とシャガ(江田島町宮ノ原)

波静かな江田島湾の北側最奥部、もと海軍兵学校大原分校(現海上自衛隊大原特借宿舎)の正門があった付近の地名を石風呂と呼びます。

さて、時代は今をさかのぼること八百数十年前のこととなります。

治承4年(1180年)12月の平氏による南都焼き討ちにより奈良の都は一夜にして灰燼に帰し、壮大さを誇った東大寺にあっても焼け残ったのは僅かに法華堂や二月堂、正倉院のみとなりました。

その時の大火で金堂と共に崩れ落ちた大仏様が修復され、開眼供養が行われて1年がたった頃の8月初旬、紺碧の海面をムシロ帆に風を受けた船が1隻、津久茂の瀬戸を通過して江田島湾へと入り込んできました。

風がなぎ、さざ波が消えて水面にお鉢山の姿が写ると、水夫2人が手際よくムシロ帆を畳み、櫓を2丁出して前後に押し始めました。

船は速力を増しイワシ浜(江田島町宮ノ原)へと勢いよく乗り上げ、畳んだムシロ帆の影から現れたお坊さんがゆっくりと浜に降り立ちました。

この年は例年になくイワシが大量に獲れ、女衆や子供らが獲れたてのイワシを浜に広げている最中です。

男衆は朝早くからの漁に疲れ、竹竿を組んでムシロ掛けをした中でウトウトまどろんでいたのですが、子供らの騒ぐ声に何事かと外へ這い出してきました。

浜に乗り上げた船の廻りに男衆らも集まったところで、お坊さん曰く「これはすまんことをした。このような忙しい中、前ぶれものう立ち寄ったのには皆の衆に御仏の大事を助けて頂きたいからじゃ。

皆の衆もご承知のとおり、昨年東大寺の大仏さまが元どおりの御姿となられましたのじゃが、その小山のような大仏さまを雨風からお守りする金堂を建てねばならぬのじゃ。

小山のような大仏様にお入り頂く金堂は、まさに天にも届く大屋根としなければならんのじゃで。

そのための大木をいま周防の国の佐波川の奥から切り出しておるのじゃが、そこから都までは瀬戸の海を渡らねばならぬのじゃ。

そこで、このイワシ浜近辺の男衆が、如何に力があり、度量があり、潮や風を知り、船を巧みに操る技量があるとのうわさが都にまで届いたので急ぎ寄らせて頂いたのじゃ。

周防の山では切り出した材木を佐波川に集めておるとろこじゃで、このイワシ浜の男衆にも沖に出てもろうて材木を運ぶ手伝いをお願いしたいのじゃ。

お手伝いを頂くのはこの秋の終わりごろからになりそうじゃが、それまでに皆の衆にはもっと養生をしてもらい、うんと元気になってもらわねばならんのじゃ。

拙僧が南宋で学んだ養生法をここに残して置くゆえ、男衆にはこれから少し手伝ってもらえまいか。

で、イワシ浜の奥の岩窟を広げ、河原から集めた石を積み上げて隙間を粘土で固めた石室を造りました。

その中に山から刈り取ったシバを投げ入れ火をつけて二時、燃え残りと灰塵を掻き出したところで、イワシ浜の沖から刈ったアマモを投げ込みます。

お日様が傾き、そろそろ能美のお山にかかろうとするころ「長老様から順に入ってもらうべ」・・・「いやはや、なんともなんとも、南宋風呂とやらは実に良いものじゃのう、わしらぁ~一足はように極楽浄土を見せてもろうたようじゃで、ささ、若衆もどんどん入んなされや」

そのころお坊様はイワシ浜の老婆に一握りの草束を渡し、「これはシャガと言う薬草じゃ。夏でも冬でも青々と茂り、作物の育たぬ日陰にも育つ。風呂に入れるアマモや他の海草がとれない時にはこのシャガを使うように」と、伝言。

浜から引き出した船に飛び乗って日の沈む津久茂瀬戸の方へと帰っていきました。

「おやおや、お坊さんはもうお帰りなさったか。南宋風呂とゆうものはなんとも心地よいものじゃて。」

今夜は浜の貝や魚を全部集めて皆で風呂祝いをしようと思うたに・・・「なになに、これがシャガと申す薬草か、大事に育てねばのう」

「いやいや、長老様のいうとおりじゃ。わしらもみなみな極楽浄土を見させてもらいましたじゃ。
女子供衆も、はようはよう南宋風呂とやらに入ってみなされ。たまげた事になるでよ」

と、言った次第でその夜は明け方まで飲めや歌えの大騒動となりました。

翌日には隣村やそのまた隣村の人たちも呼んで三日三晩の大騒動。

「昨日のお坊さんは、それはえらいお坊さんで、なんでも大仏様の修復を一任された重源様といわれるお方じゃそうな。」

「秋の終わりごろにはわし等もお手伝いができるそうじゃが、そのときは何をおいてもじゃのう。」

「わしゃあもう十ばかりは若返ったようじゃで、腰や肩の傷みも嘘のように消えたで。ほんにありがたいことじゃのう。」

イワシ浜に現れたお坊様は、俊乗房重源上人(しゅんじょうぼうちょうげんしょうにん)東大寺再建の功績により、のち「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と大和尚の称号を贈られました。

1133年(長承2年)紀氏の出身である紀季重の子として出生

1180年(治承4年)12月、源平の争乱により東大寺大仏殿焼失す

1181年(養和元年)俊乗房重源、東大寺勧進職に就き復興造営に着手す

1185年(文治元年)8月、後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を行なう

1186年(文治2年)4月、俊乗房重源、周防の国司となり赴任す

1195年(建久6年)後鳥羽上皇、源頼朝公の臨席を得て大仏殿落慶供養を行なう

1203年(建仁3年)後鳥羽上皇の行幸を得て東大寺総供養を行なう

1206年(建永元年)7月12日、俊乗房重源上人入滅す


江田島市内において、石風呂・岩風呂の地名は・・・


1)江田島町宮ノ原3丁目の石風呂(石風呂地区名・バス停名・県道297号道路名として今も残ります)

2)江田島町津久茂2丁目の石風呂(国道487号沿い、もと津久茂簡易郵便局の付近?)

3)江田島町鷲部4丁目の石風呂(県道44号沿い、江田島自動車学校の付近?)

4)能美町高田の岩風呂(高田岩風呂神社名・岩風呂山名として残ります)

5)大柿町大原の石風呂(八王子の付近・現寶持寺と炭焼工房の中間あたり?)

の、5地区が知られております。


江田島市内に残る、石風呂・岩風呂の地名(津久茂・鷲部・大原は芸藩通志記載)
s-江田島市内石風呂地名 

東大寺大仏殿(金堂)造営で、周防の国徳地(現山口市徳地)から切り出された木材は1千本、主にヒノキ材で大きいものは長さ30m、直径150cm、山を越えて運ぶには山頂にろくろ(人力巻き上げ機)を据え、両つるべ方式として省力化、水量の少ない川では関水方式を採用、これらは重源が南宋で学んだ技術だとされます。

大きな石を組み上げた陶芸窯のような造りの石風呂はいまも周防大島にいくつか残っており、重源上人がこの地を訪れて造ったとされています。

イワシ浜と同じように、周防大島でも水夫を集め木材の運搬をお願いしたのです。

周防大島久賀の石風呂は昭和20年頃まで使用されており、昭和33年に重要有形民族文化財に指定されました。

石風呂(岩風呂)は、江戸時代の瀬戸内沿岸に数千カ所はあったとされており、各浦々の住民により運営され、疲れを癒やす憩いの場として広く親しまれてきました。

高価な鉄釜を使ってお湯を沸かしたり、人が入れる大きさの五右衛門風呂が各地で利用されるのは明治以降のことで、江田島市内においては個々の家庭ごとにお風呂がつくられたのは本土太田川からの水道網が整った昭和40年頃からとなります。

ちなみに、昭和の時代に広く普及していた「五右衛門風呂」のルーツも俊乗房重源上人が中国宗より学んできたものとされ、山口県防府市の東大寺別院阿弥陀寺の湯屋にある「鉄湯舟」が五右衛門風呂の元祖であるとされています。

ただ、今日一般に見る五右衛門風呂と呼ばれている鋳鉄製の五右衛門風呂は広島の鋳物職人、吉武彦十が明治時代中期に「長州風呂」と名づけて販売したもので、西日本では大いに好評であったのですが、名称の方は本来の長州風呂が五右衛門風呂と混同されてしまい、両方ともに五右衛門風呂と呼ばれます。

今日でも端午の節句のショウブ湯が各地で風習として残りますが、石風呂にも同じショウブ科のセキショウが利用されていました。
アマモなどの海草も薬用やリラクゼーション効果のために使われており、中国が原産のアヤメ科シャガも同じように利用したと思われます。

日照が強く乾燥気味な江田島市内にあってもシャガは強健に繁殖していますし、水がなければ育たないセキショウも市内のすべての川に生育しています。

重源上人がイワシ浜のお婆さんに託したのはシャガの他にセキショウも含めた2草だったやも?・・・(*^。^*)です。


古鷹山山頂から津久茂山(お鉢山)と、左手前が宮ノ原(イワシ浜・石風呂)
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宮ノ原石風呂地区の桜並木です。
桃や菜の花も咲いていて、今でも極楽浄土・・・(*^。^*)です。
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重源上人が訪れた石風呂地区(江田島町宮ノ原3丁目)
浜の人々の憩いの場であった石風呂は跡形もなく取り除かれましたが、今は江田島市内唯一の「電子基準点(建設省国土地理院 NO.960666A)」が設置されています。
s-電子基準点A 

宮ノ原の山上には重源上人が乗ってきた帆掛け船が岩となって残っています。
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津久茂石風呂の近くに岩風呂が・・・と、・・・防空壕・・・(^_^;)でした。
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能美町高田の岩風呂神社です。
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岩風呂に入るのには必需品となるムシロです。
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シャガ(江田島町鷲部)
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アマモ(江田島町切串海岸)
s-110519 033 (2)アマモ? 

コアマモ(大柿町深江海岸)
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セキショウ(江田島町切串)
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鋳物製五右衛門風呂釜(江田島町中央)
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鋳物製五右衛門風呂釜(江田島町津久茂)
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久賀の石風呂(国指定重要有形民俗文化財・山口県周防大島町HPより)
じゃらんnet・久賀の石風呂 

山香の石風呂(国指定重要有形民俗文化財・大分県杵築市観光協会HPより)
石風呂の廻りに生えている草はシャガ・・・(*^。^*)です。
1階部分で火を焚き、上側の床石を暖め、2階部分の床にセキショウやヨモギなどを敷き詰め熱くなると水をかけて中をサウナ状態に・・・。
s-山香(やまが)の石風呂・杵築市観光協会 
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その12 津久茂の金山(江田島町津久茂)

津久茂地区は有史前より江田島町とは陸続きなのですが、行政区は津久茂瀬戸を挟んで対岸である能美と同じ佐伯郡に属しており、近代まで佐伯郡津久茂村となっていました。
大正14年2月1日に至り佐伯郡から離れて江田島村と合併、安芸郡江田島村津久茂となり現在は江田島市江田島町津久茂となります。


20200405古鷹山山頂から見た津久茂山(お鉢山)と津久茂地区
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20100330津久茂お鉢山山頂の三等三角点石柱(262.8m)
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津久茂の歴史は古く、正中(1324~1326年)のころ石垣勘左衛門が開拓、明徳(1390~1394年)のころで戸数7軒であったとされますが、南に波静かな江田島湾を望み、お鉢山(津久茂山262.8m)が、北風を遮る温暖な気候にも恵まれ、最盛期の明治21年(1888年)には戸数230軒、人口1293人にまで膨らみました。

津久茂金山について「江田島町史(昭和57年3月)」には、「おはち山の中腹、津久茂農道の終点(西の平)から400m北方に、津久茂金山の廃坑がある。
この金山は大正6年ころ、橋本力蔵(当時津久茂在住)が山中を跋渉中、鉱脈を発見し、当時二千余円で採掘権を某会社に譲渡、採掘していたが、余りに規模が小さく採算がとれず、まもなく中止した。
その後太平洋戦争中、再び採掘を開始、終戦まで掘られていたものである。
坑道の大きさは直径約2m、各坑とも深さ約30~40mと推定され、横坑が2坑、竪坑が1坑(傾斜45度ぐらい)ほかに数百m離れたところに横坑1坑がある。
この鉱山で働いていた人は数人で、非常に小さい鉱山であったが、銅の含有量は足尾銅山のものより多いといわれていた。
今は、廃坑に地下水がたまりミカンの灌水に使用されているが、やがてまた時代の要求で脚光を浴びるときがあるかもしれない。」と、記されています。

20100330津久茂金山本坑(トロッコ用のレールもあったと聞きました)
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20100330津久茂金山本坑(二股に分かれており、奥には深い立坑があるとされます)
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20100330付近に転がっていた江田島花崗閃緑岩(玖珂層群と反応した部分が黒く変質しています)
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20100330第二津久茂金山坑口?
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20100330試掘調査坑口?
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20100623海岸で転石となっていた津久茂金山の鉱石(銅の成分が酸化し青色の緑青になっていました)
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20131013スラグ(付近の海岸で見ましたが鉄鋼スラグか銅精錬で出たスラグなのかは不明です。津久茂金山の鉱石は船に積んで別子銅山の精錬所に運ばれていたと聞いていますが・・・)
s-2013-10-13 002 009 

はてさて、標高が262.8m、周囲4kmばかりの津久茂お鉢山から金が採れるのでしょうか?

実は茨城県つくば市にある地質標本館倉庫の奥深くに、当地津久茂金山産出の鉱石が人知れず眠っているのです。

鉱石名は「黄銅鉱・斑銅鉱」、銅を多く含む鉱石ですが場所によっては金が濃縮する部分もあり、産出から百年が経過した今も黄金色に光り輝いています。

※地質標本館資料のコピペ
(金は微量ですが銅鉱石としての品位は極上であったと・・・)
s-津久茂鉱石 

※地質標本館資料よりコピペ
(津久茂金山とは兄弟鉱山?となる対岸、能美の畑鉱山産出の鉱石です。初期のころは銅の含有量も多く有望と思われていたのですが、廃坑前には鉄鉱石ばかりで、女、子供が小遣い銭稼ぎに重い鉄鉱石を背負って港の運搬船まで運び下したと聞きました。
ちなみに、宇根山(野登呂山)の西側、沖美町の畑地区でも戦時中鉄鉱石を掘り出していたと・・・)

s-畑鉱石 

ちなみに、私達が自然界においてもっとも簡単に金(ゴールド)を手に入れる方法は、川や河原の底がすり鉢状に凹んだ部分の砂を集めパンニングとかの比重差を利用した分離法で金(砂金)だけを選り集めます。

砂金は日本国内のほぼすべての川に流れ込んではいますが、肉眼で見えるような大きさの砂金を数時間の作業で集めることができる地域は限られています。

ウチのショーケースに飾られた砂金0.001g(小さなガラス管の中に一粒、知人からの頂き物・・・(^_^;)です。)
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では、この砂金はどこから・・・。

川の上流にある津久茂金山と同じような金を含む鉱脈が風雨の浸食により崩れ落ち、水流により岩石部分が粉砕されて純金だけが残ったものや、目には見えない微細な金粉が水流の作用で集まってくっ付き合い、川底に溜まったものです。

では、津久茂すり鉢山になぜ金鉱脈ができたのでしょう。

すり鉢山の下部は花崗岩でできており、五合目くらいより上には玖珂層群と呼ばれる、地層が乗っかっています。

この玖珂層群(1億7,600万年~1億4,600万年前に海溝で複雑に変形した地層)は、ユーラシア大陸の東岸にくっ付いた付加体で、チャートや泥岩や砂岩を主とし、玄武岩質火山岩や石灰岩などをも含みます。

20170218玖珂層群内で典型的なチャート部分(津久茂金山を下った海岸にある露頭です)
s-DSCN1735.jpg 

20090507呉花崗岩と玖珂層群の接触面(津久茂金山を下った海岸にある露頭です)
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20200511水晶(この水晶は近くの大須林道でみたものですが、津久茂金山でも鉱石とともに普通に産出していたと思われます。金山下の海岸では波に削られ角が丸くなった水晶がときどきみられましたが、現在はコンクリの護岸の下に埋まってしまいました・・・(^_^;)です)
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この玖珂層群の下に地下深くから湧き上がってきたのが江田島花崗閃緑岩や音戸花崗閃緑岩ですが、これらの多くは風化流出しており、これよりほんの少し遅れて上昇した花崗岩が現在江田島市内でごく普通に見る呉花崗岩(広島型花崗岩)です。

この花崗岩、墓石とか、石段、せいぜい国会議事堂の外壁材くらいにしか使えない・・・まあ、特に有用とは思えない普通の岩石なのですが、魔訶不思議いまだに詳しくは解明されていない岩石でもあります。

地球表面はいくつものプレートに分かれており、江田島市の乗る地殻の成因には海洋プレートによる作用が大きく影響しています。

太平洋などの海洋底ではマントル対流の上昇する部分に海嶺と呼ばれる数千キロにもわたるひび割れがあり、その部分からは地球深部のマグマがじわじわと溢れ出しています。

海水に冷やされて固まったマグマは玄武岩質で年に10cmくらいの速さですがユーラシア大陸の下へと潜り込みます。

このときにプレートと共に海水が潜り込みますがこの水分がとくに重要な働きをします。

この水分は岩盤の融点を下げる添加剤となって地下のマントルを溶かし玄武岩質マグマをつくります。

溶解した玄武岩質マグマはバルーン状となり廻りの岩石を熔かしながら地上まで上昇し、大噴出をすることもありますが、多くは地下30kmくらいに留まり、さらにマントルから追従して上昇する玄武岩質マグマから熱や水分をもらい成長しながら再び溶解します。

※気象庁HPよりコピペ
(水は地上においても複雑な働きをしますが、地中の高温高圧下での働きはまだその多くが解明されていません)
s-気象庁解説 

これにより地上へ噴出して火山となりますが、地上に出ることなく地下10km以深でゆっくり冷却したものを花崗岩と呼びます。

大陸の下部は花崗岩であるとされますが、そのように大量に発生するにはまた別のメカニズムが考えられ、現在もはっきりしません。

初期の江田島花崗閃緑岩や音戸花崗閃緑岩の岩体は直径が数kmと小さいのですが、呉花崗岩(1億年前~6,500万年前に地下深部で固化)は広範囲でとても大規模な現象であったと考えられます。

※山口地学会HPよりコピペ
(玖珂層群は中生代のジュラ紀の中生代付加型堆積岩、低圧型変成岩・江田島花崗閃緑岩や呉花崗岩は中生代白亜紀の中生代深成岩、山陽帯の花崗岩類となります)
Ymg_Geol_Era_Table2012[1] 

ちなみに江田島付近の玖珂層群は厚くて隙間もなかったようで、上昇を止められたバルーン(一般には直径10kmくらい)は玖珂層群の下でゆっくりと冷え固まることになりました。

このとき花崗岩の形成に不要となった各種金属類は高温高圧の水に溶かされてバルーンの最上部に集まり、その上部を覆う玖珂層群で冷却、あるいは反応して析出します。

また花崗岩岩体の持つ熱エネルギの作用で玖珂層群内の金属類が接触部近くに濃縮したりもします。

津久茂金山の形成のみについていうなら、おおよそ1億7,000万年前にユーラシア大陸の東岸に、イザナギプレートにより運ばれてきた付加体である玖珂層群がくっ付き、その1億年後に地下で融解しバルーン状となったマグマが上昇、8,500万年前に玖珂層群に接触して金銀銅鉄鉛などが析出しました。

さらに2,300万年前になり大陸から分離、その後の浸食により玖珂層群の大部分は砂粒となって太平洋へと流れ去りましたが、津久茂お鉢山の上の部分には厚さ100mの玖珂層群が残りました。

※ウイキペディアよりコピペ
(中新生前期2,300~1,800万年まえ、日本列島骨格の大陸からの分離活動が活発化し、間に日本海が形成されます)
ウイキペディア  

運よく、その残った100mの地層の中に金銀銅鉄鉛が濃縮した部分があり、大正6年となってやっと橋本力蔵さんに発見されることとなりました。

津久茂金山と同じような成因の鉱山は津久茂瀬戸を挟んだ能美町高田の畑地区にもあります。

今は浸食により花崗岩ばかりとなった江田島市内の各所にも金の濃縮はあったものと思われますが、そのすべてが流出し花崗岩のみが残りました。

※日本シームレス地質図のコピペ
(江田島市北西部の地質図です。津久茂金山は主に玖珂層群と江田島花崗閃緑岩との接触により生成されたもので、呉花崗岩も熱エネルギを供給し手助けをしたのでは?と思われます)
s-津久茂金山A 
江田島市内の川で砂金を見つけ出すのは非常に難しいのですが、かって(2万年くらい前の氷河期、瀬戸内海にマンモスがいたころ)は川の一部であったであろう津久茂瀬戸の海底凹部を探査すれば、彼方此方から集まった小さな砂金が凝集しており、重さ数百キロ、車のタイヤくらいに成長した黄金ナゲットが存在するかも?・・・(*^。^*)です。

ちなみに、日本で採れたもっとも大きな黄金ナゲットは北海道の枝幸町を流れるナイ川で、1900年(明治33年)に見つかった769gだとされますが、公表されなかったもの、昔々の話などなど実際にはもっともっとスッゴイのを内緒で懐に仕舞い込んだ人も・・・。

世界では、1980年にオーストラリア・イングルウッドにあるビクトリアという街で、ケビン・ヒリアー氏が見つけた27.7kgの黄金ナゲットが記録にのこります。

金はええなぁ~~~。

津久茂瀬戸の海底から車のタイヤくらいの黄金ナゲットを拾い上げ、床の間に飾ってみたいなぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。


   ー ー ー 以下は追記となります。 ー ー ー

津久茂金山についての資料収集中に「品覚寺土砂災害の特性と考察」なる報告文書を見るに至り、ここに付け加えさせていただきます。

この時、品覚寺本堂において殉教となった方々のご冥福を祈念いたします。

20190324再建された品覚寺本堂と補強されたお鉢山斜面
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実を申しますと、津久茂品覚寺の土砂災害は江田島広域消防署署員の次、午前6時30分ごろ、その第一報を知る立場となりました。

一報後の対応には最善を尽くしたつもりですし、結果もよかったと自負?しておりますが、その仔細については・・・m(__)mです。

津久茂品覚寺の裏山は昭和56年7月4日6時23分、前日からの激しい雨も上がり雲の隙間に朝日の見え始めたころ、何の前ぶれもなく突然に崩れ落ち本堂を押しつぶすこととなったのですが、その原因は数日前より続いた長雨と、津久茂地区特有の複雑な地質、地形にあったようです。

※新砂防125 昭和57年11月よりコピペ
(ボーリング調査で明らかとなった品覚寺の裏山、お鉢山の断面図です。風化した江田島花崗閃緑岩の上に玖珂層群乗っかっています)
s-崩壊断面図  

※新砂防125 昭和57年11月よりコピペ
(品覚寺裏山の地下水の流れを示したものです。断面図では江田島花崗閃緑岩により、ダムのように堰き止められた地下水が品覚寺の真裏で噴き出しています。平面図では、品覚寺の向かって右方向にある細粒花崗岩脈により導かれた地下水が集まり本堂の真裏で噴き出しています)
s-崩壊略図 
品覚寺がこの地に建てられたのは、お鉢山山腹にあってもふしぎと水の湧き出す、とても便利な場所であったからだろうと思います。

ただ長い時をへて、山腹の風化がじわじわと進み、運悪く続いた長雨に持ちこたえられなくなりました。

これと似たような地形は江田島市内にも彼方此方にあり、普段はとても便利でありがたい水であるのですが・・・あるとき突然に・・・。

自然だけではなく人類がつくり出し、大いに有益な自動車や飛行機、原子力発電や遺伝子操作だって、ほんのちょっとした油断で・・・ ドッカァ~~ン ・・・(^_^;)です。

その11 この山どないなってんの?(江田島町古鷹山)

旧海軍兵学校、現海上自衛隊第1術科学校の背面には大鷹が両翼を広げた様に見える秀峰古鷹山がそびえ立ち、ふもとの町や前面に広がる江田島湾をも優しく包み込みます。

20200408(旧海軍兵学校やふもとの町を大きく包み込む古鷹山)
s-IMG_8168.jpg 
古鷹山の由来は古く、芸藩通志(1825年)に「江田島村八幡宮、鷹神社並びに江田島本浦にあり、鷹神は里俗いひ伝える所、矢野村と同じ百合弱(ゆりわか)の鷹を祭るという。」
とあります。

ちなみに、百合弱(若)の鷹とは、蒙古討伐軍の大将である百合若(ゆりわか)が飼っていた緑丸という鷹のことで、信頼していた部下により無人島に置き去りにされた百合若が、妻の放った鷹、緑丸に助けられ苦難の末に帰郷、裏切り者を成敗する。と、いう内容です。

ストーリーとして成熟したのは室町時代後期に、幸若舞の演目となってからとされますが、
これと、同類であろうとされる伝説は九州地方を主に日本各地に残されています。

江田島鷹宮明神(現古鷹神社)の由来にも百合若伝説に似た部分があり、「江田島町史(昭和57年)」に古鷹山の由来として「その昔びょうぼうたる青海原に浮かんでいた一葉の小舟が折から荒れ狂う風波のため舟をやることができず、力は尽き果て気力は衰えていかんとも手の施しようもなくなった。
風はますますたけり、波はいよいよ狂い舟は木の葉のように奔ろうされて船人の命は風前のともしびより危かった。
このときいづこよりか一羽の大鷹が翔けおりて、へさきに止まり、縄をくわえて大きく羽ばたきながら波静かな入江に導いた。この威に恐れぼう然としている船人にあたかも物いうごとく、高く低く船のほとりを舞いながら峨々たる山上に姿を消した。
我に返った船人は命の救主である鷹を尋ねて山に登り、岩根、木かげを探したが見あたらず。その後鷹の霊を祭るため宮を建立して鷹宮明神と称し、旧暦九月十九日(ナカの九日)には祭礼が行われにぎわった。」と、記されます。

さらにくわえて、「この神は勇猛で権威が強く沖を走る船は帆を下げて敬意を表するのが常であった。これをゲバといった。ある日、切串屋形石沖を走るハンドウ船(陶器の水がめを積んだ船)がゲバをしなかったというので船もろともこの山上にはね上げられたという」と、あることからの推測として、むかしむかし、切串屋形石沖から沖美奈佐美瀬戸あたりまでの航路においては船の速力を落とし、地元の水先案内船の指示を受けて通行税を支払うシステムが有ったと思われます。

それを破れば舳先に縄を結ばれ入江に引かれ、船頭らは古鷹山の牢獄に幽閉されたりしたのかも?・・・そのための権威を示す意味もあって古鷹山上に力のある鷹明神(百合若)を祭ったのでは?・・・ちなみに、切串のすぐ西側には江関(えぜき)と呼ばれる地名もあり、ある時期には海上交通の関所がおかれていました。

時に海賊船、あるいは軍船となって槍や刀を振り回すことはあっても、普段は地元近海の安全と治安を守る海上保安官みたいな役職?の水先案内人ですが、今日の海上保安官のように統治された国から任命されたわけではありませんので、通行税を頂くには鷹明神の権威を着る必要があったのです。

山頂に「鷹明神社」が祀られ古鷹山とされたのは室町~江戸初期のころと思われますが、平安が続き通行税を取れなくなった鷹明神社は本浦の小丘(現海上自衛隊1術校八方園)に移されました。

さらに明治19年、江田島本浦への海軍兵学校の移転に伴い江田島八幡神社へ、明治22年には中郷山ノカミに移されておりましたが、社殿焼失により再び江田島八幡宮に合祀、平成18年となり「古鷹神社」として江田島八幡宮境内に社が再建されました。

20200408(江田島八幡宮境内に再建された古鷹神社)
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と、まあ、ずい分な回り道をしましたが・・・(^_^;)です。

現在の国土地理院Web地図で古鷹山を探しますと、広域画面では「古鷹山・376」とだけ記載されており、2万5千分の1まで拡大しますと、「古鷹山・394」と古鷹山の東の二等三角点「375.7」とが表示されます。

(国土地理院Web地図)
s-3757国土地理院 
大方の江田島市民は鷹明神社のあった古鷹山山頂394mと、二等三角点のある古鷹山山頂375.7mは同じ尾根上にあるとはいえ、まったく別のピークであることは知っておりますが・・・しかしまあ、なんとややこしいことでしょう。

遠くから広域地図、たとえば「コンパニオン全国道路地図帳(ワラジヤ出版)」をたよりに江田島にやって来た人は、古鷹山は376mであると確信するでしょう。

(コンパニオン全国道路地図 平成2年1月)
376mコンパニオン全国道路地図H2年1月s-IMG7994 
さらに、古鷹山に登ってみると、頂上の大岩に「標高三九二米 古鷹山頂上 江田島町」と深く刻んであります。

20200405(古鷹山山頂に据えられた標高三九二米の石碑と何故か古鷹山の山頂にクマン岳への案内標柱が???・・・(^_^;)です。)
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20181229(山頂より見る旧海軍兵学校と江田島湾、左奥はるか先に早瀬瀬戸)
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え、え~っ、なんで392mなんだ?。て、後ろの案内板を見ると「秀峰古鷹山は標高、394メートル。・・・江田島市観光協会」と・・・。

なんじゃこりゃ。

道路地図で374mだったのが頂上の岩には392m、同じ場所に立つ江田島観光協会説明板には394m・・・だって。

20200405(古鷹山山頂とは別のピークにある古鷹山二等三角点)
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ところが、古鷹山の不思議はそれだけじゃないのです。

知人に頂いた戦前の海図(昭和5年)を見ますと・・・驚くなかれ・・・古鷹山山頂には高さを表す数字の記載はなく、さらに古鷹山尾根東側の二等三角点ですら高さの表示はありません。
その三角点には子供が描いたような松の木が3本描かれているのみで、神の山であり、兵学校生徒の鍛錬場となる秀峰古鷹山に高さの表記がまったくないのです。

(海図広島湾 昭和5年6月・江田島能美島の山々に標高表示はありません)
無記載海図広島湾S5年6月s-IMG8000 

(海図広島湾 昭和5年6月・古鷹山二等三角点に松が三本)
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(明治40年代の地図記号 松のような記号は植生・抽出樹(針葉樹)となりますが?)
meiji40s-syokusei1明治40年代の地図記号 
では、では、日本で最も高い山、富士山はどうなんでしょう。

1727年:福田覆軒による計測値は3,895m、1803年:伊能忠敬は3,928mとし、1887年:陸軍参謀本部による計測値は3,778m、1926年:関東大震災の後で陸軍参謀本部が再計測した標高は3,776m、今現在の標高3,775.51m(朝日新聞デジタル記事・2020年2月11日)と、ほぼ同じです。

つまり、日本最高峰の富士山は1887年(明治20年)には、ほぼ誤差無しの標高測定がなされています。

ちなみに、日本の近代測量の基本となった三角測量は、工部省測量司が明治4年に東京府下に13点の三角点を設置したことに始まり、明治8年に関八州大三角測量として測量を開始し、その後全国測量と改称して国境の測量を始め、明治15年、三角点の選点100点が終了し、明治17年からは陸軍参謀本部測量局による全国的な三角測量を開始、大正2年にひととおりの観測を終了しました。

江田島の海軍兵学校用地を測量したのは明治19年とされており、そのおりには明治15年に選定された宇根山(中村山・野登呂山541.8m)の一等三角点や古鷹山二等三角点(375.7m)は大いに利用されただろうし、頂上が視認可能な古鷹山山頂の標高など、かなりな精度で計測できたはずです。

で、あるのにそれらの標高を海図(地図)から削除し、375.7mと記載すべき二等三角点に松の木が三本だなんて・・・(^_^;)です。

そうなったのは、明治20年(1887)に呉要塞(のち広島湾要塞)が計画決定されたからです。

はっきりした時期は不明ですが、そのころから江田島市や呉湾周辺のすべての山々の高さが地図上から削除され、さらに「大東亜戦争」が想定されるに及び一般への地形図の販売が禁止されたり、地形図や海図に「戦時改描」と呼ばれる偽表示が加えられることとなりました。

さらに付け加えるなら、古鷹山は海軍兵学校生徒の訓練地でもあり、一般の登山者は兵学校関係者の指示や案内、許可もなく登ることはできなかっただろうと想像します。

とくに大東亜戦争の先行きが懸念されるころになると古鷹山系の主要な尾根には見張り所や機銃、機関砲などが設置され、高射砲や探照灯などを置くための整地なども始まっていました。

20200405(奥小路水源地の上、古鷹山登山道の1合目付近に掘られた防空壕)
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20040405(古鷹山二等三角点付近にある兵員用貯水タンク)
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そのころになると日本国内であっても軍事施設の廻りはすべて2mばかりのコンクリート塀で取り囲まれ、うっかり塀の向こうをのぞき込むようなそぶりでもしようものなら・・・もうすぐに憲兵さんにしょっぴかれて・・・(^_^;)です。

ちなみに、昭和5年10月23~24日、天皇陛下の海軍学校行幸のみぎり、古鷹山御登山の予定があったのですが、あいにくの雨天のために中止となりました。

これを記念し、山頂近くの大岩に穴を穿ち「天皇陛下 昭和五年十月二十三日 海軍兵学校に行幸被為在」と書かれた朱板が埋め込まれましたが、終戦直後占領軍による嫌疑を恐れて取り外されたようで・・・いまは痕跡のみとなっています。

実を申しますと、現在古鷹山山頂に据えられている大きな石碑「標高三九二米 古鷹山頂上 江田島町」はこの時の天皇陛下の登山に合わせて設置したものであろうと思っていたのですが(^_^;)・・・石碑をよく見ると最後に「江田島町」と彫り込んでありますので、この石碑は江田島町制施行後の昭和26年以降のものとなります。

ですが、伝え聞く古老の話として「昭和11年の古鷹山頂の写真には392mの標柱が建っており、兵学校生徒や、地元の人々も疑うことなく、392mと信じていた。」と、・・・
残念ながらその標柱の写った写真を拝見したことはありませんが、標高表示が軍事機密とされるこの時期に高さを記した標柱を設置したのは天皇陛下の登頂を想定してのことであり、そのおり実際は394mの標高を392mであると改ざんして、御国、美国(みくに)の語呂合わせとし、天皇陛下のご機嫌をとるべく画策した可能性は十分に考えられます。

証明はできませんが・・・、まあ、日本国民(とくに官僚・官吏)はそのくらいの忖度(そんたく)は平気でやってのける民族ですので・・・(*^。^*)です。

江田島村が江田島町となったのは昭和26年(1951)10月1日です。

昭和33年3月発行の旧江田島町史作成時には、戦前の日本軍が空欄もしくは擬装した地図しかなかったようで、占領軍から拝領?したであろう江田島地図に記載された古鷹山頂1286呎(フィート)とした略図が添付されています。

(江田島町史昭和33年3月)
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ちなみに、江田島町史の年表には昭和48年10月21日にオリエンテーリング県大会に古鷹山コースが当てられたと記載されていますので、古鷹山頂に「標高三九二米 古鷹山頂上 江田島町」と彫られた大岩が設置されたのはおそらくはその頃であろうと想像します。

(江田島町史昭和57年3月 古鷹山は392mです)
392m江田島町史S57年3月s-IMG7987 
以上・・・要約しますと、明治20年頃に陸軍参謀本部測量局で宇根山(大原山または野登呂山)一等三角点と、古鷹山二等三角点の標高はほぼ正確に計測されたが、国防機密により非表示とされました。

戦後、占領軍による機密解示により古鷹山の標高は1286呎(フィート)であると地図表記され、旧江田島町史の作成には、この1286呎(フィート)を使用しました。

観光事業の一環として昭和40年代に古鷹山頂に「標高三九二米 古鷹山頂上 江田島町」と彫られた大岩を設置しましたが、その後の国土地理院の再計測により古鷹山頂の標高は394mに改められました。

ちなみに宮島弥山も戦前と戦後しばらくは、540mとされており、現在の535mとは5mの違いがありました。

戦前の地図作成では、一等三角点とか特に有名な山とかでない限り、高さなんて大体なところで良かったのでしょうね???・・・。

先日のニュースで、折角覚えた8848mのエベレストの標高も再計測がなされるとか・・・。

まあしかし、エベレストが10メートル高くなろうが、古鷹山が数メートルくらい高かろうが低かろうが・・・むしろ、392mで美国(みくに)と、語呂合わせにした方が覚えやすいかも・・・(*^。^*)です。

その10 兵学校の赤煉瓦 (江田島町国有無番地)

江田島湾の東、遠浅の葦原を埋めた小さな干拓地で、小川に注ぐ乏しい雨水を集め綿や米を作っていた半農半漁の寒村、江田島村本浦が海軍兵学校の移転用地として接収されたのは1886年(明治19年8月15日)、用地内の村民を立ち退かせ造成拡張工事が始まったのは僅か2か月後の同年10月です。

東京築地の海軍兵学校が江田島に移転し、開校となったのは1888年(明治21年8月)ですが、当初は校舎となる生徒館の建設用地は地固めも終わっていない状況であり、急きょ三菱会社が米国から買い取り「東京丸」としていた蒸気船を改修し「生徒学習船」として校舎代わりとしました。

江田島移転となった5年後の1893年(明治26年3月)、造成地の中央に「海軍兵学校生徒館」が落成、同年6月15日となって、やっと生徒らは劣悪な環境にあった学習船東京丸を降り、海軍兵学校生徒に見合った環境を与えられ士官としての技量習得に邁進することができたのです。

七ふしぎとなるのは、この1893年(明治26年3月)落成となった海軍兵学校生徒館の壁に積まれた赤い煉瓦です。

高温の炎で焼き固められているとはいえ、元はただの土、かれこれ130年の風雨潮風に耐え、いまも鮮やかな赤い色を保つイギリス産とされる煉瓦です。

旧海軍兵学校、現海上自衛隊第1術科学校の構内見学者を案内する際の案内者用解説資料に「この建物を設計したのはイギリス人です。建物の全長は144.8mでレンガの総数は100万個以上、レンガはイギリス産の丈夫なレンガで、イギリス積みに積まれています。この煉瓦は1個ずつ油紙に包んでブリキ缶に入れ、軍艦に積まれて神戸港に到着しました。現在の価格に換算すると一個あたり1万5千円程度、ただ全てがイギリス産のレンガではなく、広島県産のレンガも使用されています。」・・・と。

煉瓦個数100万個以上、1個が1万5千円程度(当時の大工さんの日当と同じであった?)であるとする根拠は不明ですが、まあ単純に100万個×1万5千円で計算すると150億円、軍艦1隻に比べれば安いのでしょうが、当時の日本政府には軍艦の購入代金の他に煉瓦にも多額のお金を払う余裕があったのでしょうか?・・・。

いやいや・・・昭和後期、バブル当時の日本であっても全部はたぶん無理・・・(^_^;)でしょう。

煉瓦といってもまあピンキリで、大きさ・重量・耐火性・色・強度など多種多様ですが、現代だと上質なもので一個500円くらいが相場です。

案内者解説資料でも、全てがイギリス産の煉瓦ではないとありますが、では総数100万個のうちイギリス産煉瓦は何個あるのでしょう。

「イギリスでつくられた煉瓦を一個ずつ油紙で包み、それをブリキ缶に詰めたものを軍艦に乗せて運んできた。それを、神戸港で小船に積み替え江田島まで運んだ」とするなら、この話の主題ともいえる、その軍艦の艦名はもっとも重要なところでありその軍艦名が今に伝わっていないのはとても怪しいところです。

そもそも軍艦に煉瓦を積むこと自体が疑問ですし、もし軍艦に積んだのならそのまま江田島まで運んで来ても良さそうなものです。

おそらく、軍艦で運んだというのは脚色で、実際は民間の大型商船で輸入したものを神戸港で荷揚げし小船に積み替えて江田島に運んだのだろうと想像します。

では煉瓦の総輸入量は?・・・煉瓦一個を3kgと仮定すれば100万個で3000t、それを油紙で包んで、ブリキ缶に詰めた・・・って、それもちょっと疑問ですね。

まあ、最大に見積もっても300t、個数で10万個、イギリスからの輸入量は煉瓦総使用量の十分の一ってとこが妥協点じゃないか???と、思います。

この量だとうまく使えば兵学校生徒館の表となる144.8mの東側面と北側面、南側面の表層部分ならなんとか間に合うのでは???と、思います。

それと、1905年6月2日(明治38年)の芸予地震(M7.6)で損傷した部色を補修しましたが、主に生徒館の南側の被害が大きかったとされますので、その付近は安芸津町三津産の煉瓦かも???と、思います。

ちなみに、1984年(昭和59年)、呉市建築課長松下宏氏による調査の結果、使用されている煉瓦の一部は広島県東広島市安芸津町三津でつくられたものであると確定されましたが、それがどの部分であるのか、どの程度の量であるのかはウェブ情報では不明です。

安芸津町は兵学校の近隣ではもっとも早くから煉瓦焼成の技術を習得しており、兵学校建設当時にはすでに多くの生産量があったとされますし、さらには、江田島湾を挟んで対岸となる能美町高田でも1883年(明治16年)には、すでに煉瓦製造を始めていたとの話もあります。

で、まあ・・・実際に煉瓦をわざわざイギリスから運ぶのだろうか?しかも軍艦で??

日本の縄文土器なんて、国宝級のすばらしい出来だし、弥生時代だって土器は沢山出土するし、甕棺(かめかん)など人が入れるほど大きな焼成土器なんかも作っているし、江戸時代の有田や伊万里や備前、NHK連ドラで有名な緋色(スカーレット)の信楽焼・・・日本の陶工さんならレンガなんて一目見ただけで、イギリスなんぞには負けない、丈夫で美しいものをつくるのは朝飯前でしょう。

つまり、海軍兵学校の赤煉瓦生徒館は、なぁ~ぜ、イギリスから運ばれた煉瓦で造られたのか・・・が、不思議???なのです。

で、ちゃんとした場所に出向き、ちゃんとした資料を探せば、もっとちゃんとするのでしょうが、・・・炬燵に足を入れたまま、左手に湯飲みをもち、TVでコロナウイルスの拡散状況をチェック(とうとう広島市内でも・・・)しながらの資料集め・・・m(__)mです。

赤煉瓦となる海軍兵学校生徒館の設計者はイギリスの建築家 J・ダイアック(John Diack、1828~1900年)であるとされます。

1870年(明治3年)に工部省の招きで来日し、鉄道建設、建築設計に従事、日本郵船支店等の多くの建築物や東京築地の元海軍兵学校生徒館(煉瓦づくり)の設計者でもあり、江田島では「水交館(明治21年・煉瓦づくり)」の設計者ともされます。

そもそも、日本海軍の創立では当時のイギリス海軍を全面的に模倣したとされており、多くの日本海軍軍艦はイギリスで建造されたものを購入、日露戦争で有名な戦艦三笠もイギリスから購入されています。

設計者がイギリス人で、日本海軍のお手本となるイギリスから軍艦を購入するのですから購入した軍艦の回航に合わせて煉瓦を運んだとする説も有り得る話ではあります。

ちなみに、兵学校生徒館の施工は関西工業組で落札額は6万9千円(現在の貨幣価値で14億円~18億円くらい?)です。

工期は1891年(明治24年6月8日)着工の1893年(26年3月)落成です。

戦前に3回の改修が行われており、戦後は1992~1993年(平成5年)及び2002~2004年(平成16年)の2回で、2002年からの大規模改修では、鉄骨による耐震補強が施されました。

なんだかんだと・・・海軍兵学校生徒館赤煉瓦のふしぎを解明したく頑張ってみたのですが・・・

結果・・・むかしのことはわかりません。

夕方3時ごろから現れる、「科捜研の女」沢口靖子さんにお願いすれば、数十分で解決するやも?ですが、旧兵学校構内の見学ガイドさんが話す、おもしろ説明が半減してしまいますので・・・

解かなくてもよい謎なのですが、昨夜見た夢の中では建物表面の多くの部分でイギリスから輸入した煉瓦が使用されており、その数は総使用量の十分の一程度、見えない部分では多く東広島市安芸津町三津でつくられた煉瓦が使用されており、床下支柱などの過湿部や下水道施設の一部には能美町高田産煉瓦が使用されている可能性もある?・・・イギリス産煉瓦の運搬は、払い下げの元海軍の艦、あるいは海軍が一時徴用した商船でイギリスから神戸港に運ばれ、小船に積み替えて江田島迄運びました。設計者は曾禰達蔵ではないか?とも・・・と、夢でみました(*^。^*)です。

・・・以上、「なにわ会」HPより多くを引用させて頂きました。また海上自衛隊護衛艦艦長を経験された方からは、サンプル程度ならまだしも、それ以上の煉瓦を軍艦に搭載することは普通には考えられないことである。と・・・

ちなみに、日本で建物用煉瓦の生産が始まったのは長崎の海軍伝習所で、1861年(文久元年)落成の長崎鎔鉄所の建設に使われた「ハルデス煉瓦」とされ、国産第二号煉瓦とされる「ヨコスカ製鉄所煉瓦」は1866年(慶応2年)頃から製造され、観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台等の建造に使用されました。

1870年(明治3年)には大阪府堺市に煉瓦(煉化・煉化石)工場が設立され能美町高田で1883年(明治16年)に煉瓦工場を始めた福田儀助氏は、この堺の煉瓦工場で修行したとされ、のち江田島市内でもたくさんの煉瓦工場が設立されており、海軍兵学校が築地より江田島に移転した明治21年には高田地区に煉瓦窯6基があり、珪酸・礬土の含有量が多く品質は輸入品や安芸津産よりも優れており、とくに地下建造物や下水道、寒冷地用に適していたとされます。

ちなみに、記録に残る明治38年、高田村・三高村の両村には10の煉瓦製造事業所があり、年間の煉瓦生産個数は7,325,100個でした。
翌明治39年の煉瓦製造事業所は、大柿村大君2・鹿川村1・中村1・津久茂村1・三高村2・高田村6の計13箇所があり、時代による盛衰はありますが高田地区では昭和2年まで、三高地区では昭和21年まで操業したとあります。


     ・・・ 煉瓦造の代表的建造物として ・・・

*金森赤レンガ倉庫・1869(明治2)築、渡邉熊四郎が明治時代に開業した「金森洋物店」が起源とされる赤レンガ倉庫群

*富岡製糸場・1872年(明治5年)築、木骨赤レンガ

*菅島灯台・1873年(明治6年)築、煉瓦造灯台としては我が国現役最古。リチャード・ヘンリー・ブラントンの指導の下で建造された。現在は無人灯台となり、同時に建造された煉瓦造附属官舎は明治村に移築保存されている。

*猿島砲台(東京湾要塞)・1884年(明治17年)築、現存する数少ないフランドル積の建造物。

*同志社大学・1886年(明治19年)~?築、今出川キャンパスに国の重要文化財指定の煉瓦校舎5棟。

*北海道庁旧本庁舎・1888年(明治21年)築、赤レンガ。

*旧海軍兵学校文庫館・1888年(明治21年)築、赤レンガ、現水交館、当時呉鎮守府にいた曽禰達蔵が設計に関与したのでは?とも。

*旧海軍兵学校生徒館・1893年(明治26年3月)築、赤煉瓦、海上自衛隊幹部候補生学校、通称赤レンガ。

*舞鶴赤レンガ倉庫群・1900年(明治33年)?1920年(大正9年)築。

*旧呉鎮守府庁舎・1907(明治40)年に竣工した地下1階、地上2階建て、レンガと御影石との調和がとれた、赤レンガ構造物です。

*赤坂離宮・1909年(明治42年)築、構造は石造及び鉄骨煉瓦造、外装仕上げは花崗岩貼り

*東京駅・1914年(大正3年)築、国内最大規模の煉瓦建築。空襲で被害を受け、復旧の際に3階建から2階建に改められたが、今は元の形に復原されている。


20190407(桜と旧海軍兵学校生徒館、現海上自衛隊幹部候補生学校庁舎です)
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20100405(真正面から見た赤煉瓦です)
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20100405(全長144.8mの旧兵学校生徒館。見える範囲の煉瓦はすべてイギリス産だと云われています)
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20130331(入校時の記念撮影です)
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20130331(旧生徒館前の松の木は毎日何度も「きおつけぇ~」の号令を聞いていますので姿勢よく真っすぐに育っていましたが、近年女性自衛官が増えてきたため多少腰つきの緩い松が出てきたといわれています)
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20100405(生徒館の西側面です。明治38年の芸予地震では生徒館西側が大きな被害を受けたとされていますが完全復旧がされています。建築当時の屋根は日本瓦でしたが、震災後はスレートぶきに変更されました)
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20100405(西側の入り口から見た生徒館内部の廊下です。この付近の煉瓦は一般見学でも手で触れることができますが、地震被害の修復時に安芸津町三津産の煉瓦に換えられているかも?です)
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20100405(兵学校生徒館の裏側、回廊部です)
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20130331(兵学校生徒館の裏側を南側から見たものです)
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以下はウィキペディアをコピペしました・・・m(__)mです。
当時の日本海軍を代表する一等軍艦「扶桑(ふそう)」です。
1875年(明治8年)イギリスはロンドンテムズ川沿いのサミューダ・ブラザーズに発注された、機帆走装甲フリゲートで、日本初の戦艦であるとされます。
起工1875年9月24日・進水1877年4月17日・就役1878年1月・除籍1908年4月1日 
排水量3,717トン・全長68.5m・吃水5.49m
機関:石炭専焼円缶4基2気筒レシプロ2軸推進
最大出力3,500馬力・最大速力13ノット・航続距離10ノット/4,500海里 
燃料:石炭250トン
乗員:250名
兵装:クルップ24cm20口径単装砲4基・クルップ 17cm25口径単装砲2基・4.7cm単装機砲6基であったとされます。
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その9 オノミチキサンゴ (江田島町津久茂)

江田島町津久茂のお鉢山の中腹に古刹「観海山品覚寺」があり、その少し下に「津久茂荒神社」が祀られています。

その津久茂荒神社本殿には稀に見る大きさのオノミチキサンゴが奉納されています。

残念ながら誰がいつ何処でどのような方法で採取したものなのかは不明ですが、おそらくは昭和の後期に、おそらくは津久茂瀬戸で、おそらくは底引き漁船の網に掛かったものだと推定されます。

名前がオノミチキサンゴですので瀬戸内海のほぼ全域に生育するものと思われますが、ウエブ情報などから日本海側の北限は佐渡島付近、太平洋側の北限は房総半島付近で、南限は九州であるとされます。

ちなみに、広島大学総合博物館には、広島県尾道市向島で採取された左右が50cmくらいのオノミチキサンゴが展示されています。

岩の割れ目や洞くつのような薄暗い場所だと海面に近いところでも稀に見ることがありますが、ふつうは水深10mくらいから2、30mくらいの深海で生育します。

浅海に生育する造礁性のサンゴとは異なり、褐虫藻との共生がないため太陽光はあまり必要とせず、触手を使い海中の動物プランクトンを食べています。

オノミチキサンゴは江田島市内でもごく稀に漁網に架かることがあり、沖美町の安渡島や大黒神島沖の馬ケ瀬、大柿町の長島などで生体を見たとの話も有ります。

いずれにしましても荒神社に奉納されたような大型で形の良いオノミチキサンゴはとても貴重なものです。

それだけなら、まだ「とうない七ふしぎ」にまではならないのですが・・・。

実は代々このオノミチキサンゴを守る猫一族がいるのです。

最初に気づいたのは2012年の7月、このときは朝から蒸し暑い日だったので、「板張りの床の風通しの良い木陰で休むなんて、贅沢な猫だなぁ~」

本殿やオノミチキサンゴを写そうと一度は追い払ったのですが・・・

サンゴに近づこうとすると、ぶっ飛んでもどってきます。

当時はまあ、とくにサンゴに興味があるわけでもないし、離れた位置から2,3枚シャッターを切って引き上げることにしました。

で、その後も通りすがりに何度か確認しましたが、必ず近くにいてサンゴを守るようなそぶりをします。

で、2018年の6月「今日はもういないだろう」って・・・

「いたぁ~、いました」

どうやら世代交代をした様子です。

とうない七ふしぎ その9「オノミチキサンゴ」、希少種となった瀬戸内海の宝、オノミチキサンゴと、それを代々引き継ぎ守り続ける猫一族との不思議な関係・・・この猫一族は津久茂荒神社の神様と一体どんな約束をしたのでしょう。

先日、猫が出払った隙を見て、間近にオノミチキサンゴを写してきました。

これだけ形が整ったサンゴは稀です。

細い枝の一部は折れているようですが、底引き網で引っ掛けた痕跡がほぼ皆無、っていうか、何十年もがっちりと岩にくっ付いていたサンゴが、損傷もなくそんな簡単に剥がれるのでしょうか?

で、根っこの部分を拡大してみると、このサンゴ、岩にくっ付いていた痕跡がありません。

根っこ部分にくっ付いているのは、鉄分の多い海底で砂や砂利が固結したばかりのような非常にもろい地盤が薄い板のように剥がれてくっ付いています。

何度も言いますが、硬い岩盤などにくっ付いていた痕跡はまったくありません。

やはり、猫一族が代々守り続けるだけあって、よほど特殊な環境に育ったオノミチキサンゴのようです。

ふしぎ、ふしぎ、益々不思議となるオノミチキサンゴ
二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。


20120820(江田島町中央から見た津久茂のお鉢山です。手前の海は江田島湾で、向かってお鉢山の左下に津久茂瀬戸があります)
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20120415(津久茂お鉢山の中腹にある津久茂荒神社の拝殿です)
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20120715(本殿の扉の前にオノミチキサンゴが奉納されています)
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20120715(奉納されたオノミチキサンゴは猫がしっかりとガードしています)
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20180605(オノミチキサンゴは世代交代をした猫一族により引き続き守られます)
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20180605(オノミチキサンゴには近づけません)
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20200303(猫のいないうちに・・・)
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20200303(真正面から見たオノミチキサンゴです。小枝は数本折れていますが、岩にくっ付く根っこの部分は異状とも思えるほど綺麗に剥がされています)
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20200303(オノミチキサンゴの根っこ部分をアップしました。石英質の砂利をたくさん含んだ土が固まっており、厚さ1cmくらいで饅頭の皮のように同じ厚さで綺麗にくっ付いています)
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その8 天狗の足跡と水晶 (大柿町大君)

江田島市の最南部、陀峯山山系の東側に「天狗岩」と呼ばれる、おどろおどろしい岩山があります。

この岩山が天狗岩と呼ばれる由縁は奇怪な姿形からだけではありません。

山頂近くの硬い岩盤には直径が3、40cmの穴が無数に開いており、それらの穴は天狗様が引島を引っ張り寄せるときに踏ん張った足跡だと云います。

この岩山、元々は今の陀峯山よりも高くそびえており、遠く広島の廿日市や宇品、四国松山までもが見渡せる高く険しい山じゃったそうな。

それゆえ全国から体力自慢の天狗様が集まり、日夜一本歯の高下駄で岩山を駆け巡り、山頂付近の大きな岩塊を持ち上げては海に投げ落としたりと互いに力を競っていたそうな。

地元大君の住民は、天狗様が大岩を下駄で蹴っ転がす音や、不意の甲高い奇声に悩まされていましたが、修行のために集まり日夜鍛錬を重ねる姿には文句も言えず、あきらめ半分に脅威と敬意もこめ、「なんせ天狗様のなさることじゃで、しょうがなぁ~のぉ~、こらえにゃ~のぉ~」

でもまあ、天狗様が夜中でも奇声を上げて走り回っているものですから、山賊、海賊の類も恐ろしがって寄り付くこともなく、それなりの平和が保たれており、むしろ他所からの移住者も増えてきました。

当時の人々や産物の行き来には船が一番なのですが、あいにくと大君には良港といえる船着き場がありませんでした。

とくに台風などの南風はまともに当たりますので皆が往生しておりました。

すると誰いうこともなく、「力自慢の天狗様に防波堤を造ってもらやぁ~のぉ~」
「そうじゃ、そうじゃ、天狗様ならええごとにやっちくれるじゃろうて」

で、恐る恐る岩山まで出かけ、天狗様に相談を持ち掛けてみました。

「おお、よ~ぉわかったで」「わしが一人でも、まあなんとかなるじゃろう・・・よし、やってみるかのぉ~」

と、まあ話はとんとん拍子に進み、今の江田島町江南の南に突き出た秀崎の半分に縄を掛け、遠くが見渡せて足場のしっかりした岩山(のちの天狗岩)の上から引っ張ることになりました。

始めは一番の力自慢を誇る天狗様が一人で引っ張ってみたのですが、顔を真っ赤にして頑張っても、うんともすんとも。

「おい、おい、われらもてご~せんかいや」で、近くにいた4、5人の天狗様が加勢して引っ張ってみたのですが、まだまだ・・・。

「こりゃあいけんのぉ~、もち~っと呼んでこいや~」で、国中の天狗様が集まり縄を引き始めますと、やっとのことで秀崎の先端が動き出し、少しずつですがこちらへと寄せてきます。

大君の人々もみんな集まり加勢しますと、秀崎は餅のように伸びながらも少しずつ寄ってきます。
「もちっとじゃ~、きばらんかぁ~い、そぉ~~~れ」

ぶっ、つ~~~ん。

ここまで秀崎を引っ張って来た縄は山野に轟く大音響とともに切れ飛んでしまい、秀崎の先端は柿浦の沖を通り越し大君の集落にやっと届いた場所で動かなくなりました。

国中の天狗様が力を入れて踏ん張ったせいで岩山自体が大きく沈み込み、足場となった岩山は陀峯山よりもうんと低くなってしまいました。

のち、この岩山は天狗岩と呼ばれるようになりましたが、天狗岩付近の硬い岩盤には天狗様が踏ん張り足がめり込んだ穴の跡が無数のこっています。

この大騒動で強く踏み固められ縮んでしまった天狗岩から絞り出されて晶出したのが水晶であるとされ、戦後この地を遠足で訪れた小学生らは各々ポケットが破れんばかりに水晶を拾って帰ったと、地元古老の自慢話となっています。

全国の天狗様が秀崎から引っ張ってきた島を「引島」と呼び、大君の集落からは少し北に外れますが、その後は立派な防波堤となって台風を防ぎ、ごく最近までは対岸に市営桟橋もあって多くの人々に利用されました。

とうない七ふしぎ その8「天狗の足跡と水晶」、足跡は果たして天狗様が島を引っ張ったときの足型なのでしょうか?、水晶はこの時の大騒動で天狗岩から絞り出されて晶出したものでしょうか?

江田島町江南の秀崎を大勢の天狗様が引っ張って来たのが引島であるとするのは眉唾な話ですが、地元大君には他にも鬼が引っ張ってきたとする話も残っています。

が、地質図から判断しますと、風化に耐えて秀崎を形成する花崗斑岩の岩脈は、柿浦沖では海底に沈みますが、そのまま真っすぐに南下し、引島まで続いています。

天狗様や鬼が引っ張って来たわけではありませんが、何千万年か前に後の日本国となる骨格自体が引っ張られたおりに生じた亀裂に沿って貫入した花崗斑岩の岩脈が江南の秀崎から大君の引島まで真っすぐに続いています。

ちなみに、江田島市内の山の尾根、○○鼻(岬)、○○崎などには、廻りの花崗岩を引き裂いて新たに貫入した花崗斑岩が風化に耐えて残ることが多いようです。

では、天狗岩の岩盤に開いた無数の天狗様の足跡は?、となりますが、これは晶洞と呼ばれるもので、とくに足跡の多く集まる部分は花崗岩質マグマが固結する際に最後まで残った液状成分がこの付近に集中し沢山の気泡とかを含んで固結、のち沢山の気泡は昌液で満たされ、それぞれに小さな水晶や長石の結晶をつくり出しました。

それでは、戦後間もなくの天狗岩周辺で、なぜ沢山の水晶が取れたのかについてですが、それは、この地が軍の管理下にあって、一般人の立ち入りが禁止されていたことによります。

ちなみに、当地のことを記した江戸時代の書物「芸藩通志」には、「水精 国郡志曰 佐西郡能美島産水精 今在大原村山中・・・」とあり、この付近の山中で水晶が取れることは古来より自明のことでありました。

ところが、江戸時代も末期、国内各所に黒船が現れるころとなると、内海とは言え海に面した広島藩、水道などの要所には見張り台をもうけ、さらに砲台までも設置することとなります。

まあ、このころは入山までをも禁止することはなかったようですが、やがて明治政府となり富国強兵、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、大東亜戦争へと続きます。

此の地が呉要塞あるいは広島湾要塞として音戸瀬戸・早瀬瀬戸・那沙美瀬戸・大野瀬戸に要塞砲台の設置が検討された1877年(明治20年)から、そう間を置くことなく付近一帯の山々は一般人の入山をかたく禁止することとなりました。

大東亜戦争に敗れ軍が解体となるまで、ここらの岩山に入って水晶を掘り出すなんて大それたことをする人は誰もいませんでした。

と、言うか、そのころは全国各地で数百の鉱山が稼働しており、多くの鉱山では鉱石に付随して産出する水晶なんて普通でただの石、せいぜい子供のおもちゃ、わざわざ水晶だけを目的に穴を掘るのはほんの僅かで、よほどの高品位水晶でないかぎりは価値がありませんでした。

まあ、そんなこんなで天狗岩の水晶は大砲を構えた軍隊によって厳しく守られていました。

戦後、軍の遺構とか管理地の開放があり、珍しさも手伝ってか小学校の遠足コースとなりました。

たまたま訪れた天狗岩で沢山の水晶ガマ(晶洞)を発見、水晶が半分むき出しで埋まっていたのをわんぱくな学童らが木の枝で掘り起こし、ポケットにぎゅうぎゅう詰めにし、校歌を歌いながら意気揚々、天狗様の隠し置いたお宝を持ち帰っていきました。

綺麗な水晶が沢山詰まっていた水晶ガマは、天狗様の足跡があったところから少し上った天狗岩の頂上付近で、このあたりの岩山は天狗の足跡がある付近よりも、もっと固く締まった岩質で水晶となるケイ素成分がゆっくりと供給され長い時間をかけて固まったようです。

ちなみに天狗山の元となる花崗岩は1億年ばかり前に地下10km付近に直径10kmくらいで風船のような形をしたマグマから発生しました。

このマグマが熱いまま上昇し地表に到達すれば巨大な火山となるのですが、上部に玖珂層群と呼ばれる厚い堆積岩があり、たとえるなら圧力釜の蓋をされた状態でおおよそ1億年をかけてゆっくりと冷やされました。

その間に日本列島の骨格は中国大陸から分離、日本海ができたり瀬戸内海ができたりと・・・。

ちなみに、同時期である1億年ばかり前に、勢い余って地表まで達し火山噴火したのは呉市の焼山~野呂山のあたりです。

話が前後しますが、一般的マグマの直径が10kmとはいっても、その中には沢山の小球体を含んでおり、まあ、数百数千のタマネギを大きな袋に入れたような状態、そのタマネギの一つが天狗岩です。

水晶がつくられる晶洞はそのタマネギの下部や中心部にできることは無く、タマネギの頂部の皮1枚目とか2枚目3枚目くらいのところに発生するのが普通です。

その皮と皮との間にできた晶洞と呼ばれる空間の中で、数万年単位の時間をかけて水晶はゆっくりとつくられるのです。

天狗岩の頂上は今まさにタマネギの皮で3枚目くらい、もっとも晶洞のできやすい場所だったのです。

この皮一枚が風化によって剥がされて行くのには数百年はかかると思いますが、また別の山の頂では新しい皮が現れており、その皮の下からは永い眠りから目覚めた水晶が続々と・・・(*^。^*)です。

地質調査所発行5万分の1地質図(江田島町江南の秀崎から大柿町大君の引島・天狗岩の地質図です。花崗斑岩の細い岩脈が秀崎から引島まで真っすぐに伸びています。江田島市は、江田島花崗岩・音戸花崗岩・呉花崗岩の深成岩からなり、宇根山周辺と津久茂山頂部に玖珂層群と呼ばれる海底堆積岩が乗っかっています。)
無題 

20200228(天狗岩頂上部付近には、天狗様の足がめり込んだ跡となる直径30cmくらいの穴がボコボコと無数に開いています。って、実はこれらの穴は晶洞と呼ばれるもので、その穴の中には水晶や長石の結晶がたくさん入っています。ただ、この付近の晶洞は結晶の成長にはあまり条件が良くなかったようで、内部は不完全な水晶片やボロボロとなった長石がほとんどのようです)
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20200228(天狗様の足跡付近から天狗岩の頂上部を写したもので、いかにもおどろおどろしい岩山となっています。戦後地元の小学生がポケットに詰め込んだ水晶は天狗岩頂上部付近の固い岩盤から出たもので、今もこの付近には当時のわんぱく学童が掘りちらかした水晶片などが残っています)
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20200228(天狗岩の頂上から南の方向を写したものです。眼下は恐ろしいほどに切り立っており、南へ長く伸びる白い砂浜は長浜海水浴場、対岸は倉橋島です)
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20170503(秀崎の側からみた引島北端部の灯台です。引島は東西の幅は50mですが南北には300m近くまで引き延ばされた特異な島で全島が花崗斑岩からなり、大君の元市営桟橋の沖合200mに浮かびます)
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20160328(丘の上から見た大君の元市営桟橋付近と、その沖合200mで防波堤となって風波を遮る引島、対岸右は倉橋島、引島の後方は呉市の工場地帯です)
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20160328(元市営桟橋の近くで係留されたままの「平安丸」です。1968年11月の竣工で総トン数が135t、僚船「こがね丸」とともに大君から柿浦経由で元の呉海軍工廠であった、IHI呉造船所や日新製鋼所への通勤船として運行され、最盛期には毎日七、八百名もの工員さんを送り迎えしたそうですが、2009年4月をもって大君や柿浦から呉方面への航路は全廃となりました)
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20170410(大君の街並みとその先に浮かぶ引島、はるか遠景は呉市となります)
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20091125(天狗岩と同じような条件のタマネギ岩は陀峯山山系には他にもたくさんあり、たまたまその中のひとつが風化により皮が剥がれたあとに黒紫の連晶水晶が頭を出していました。天狗様が隠し置いた天狗岩の晶洞には、もっともっと大きくて立派な水晶があったことでしょう。その大きくて立派な水晶は、きっと遠足で学童たちを引率した教頭先生のポケットに入り、いまは立派なお屋敷の床の間で天狗様のお面と共に飾られているんじゃないかと?・・・(*^。^*)です)
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その7 四郎五郎の見張り台 (沖美町是長)

沖美町是長の海岸をくねくねと縫うように走る県道36号線を北上しますと、美能の少し手前に四郎五郎と呼ばれる鼻(当地ではこのような海に飛び出た地形を岬とは呼ばずに鼻と呼びます)
があります。


能美島の西海岸沖は商業都市広島宇品港への南の出入り口として、また早瀬や音戸を通過できない大型船舶の必須航路として昔も今も多くの船舶が間断なく往来します。

いつの頃でしょう・・・ずぅ~っと昔の話、都では権力闘争に明け暮れる日々が何年も続き、地方の諸事などまったく顧みることのない時代がありました。

都の騒動は当然のごとく地方に波及、より一層の修羅を見ることとなります。

日照りが続き水不足となれば、村々あるいは個々で我先にと水利を争うこととなりますが、公平な権力行使のできる分配者がいないとなれば、皆が力ずくでとなり、それに敗れれば敗者集団を組織してさらなる力ずくに及ぶことは必至です。

敗者集団となった、山賊野盗一味、海賊一味、それら山賊海賊の集団を追い払い利権を守るには、各村々や浦々で対抗組織をつくる必要があり、それで足りなければ、その村々浦々が連携した、さらに大きな集団を組織しなければならなくなります。

そのようにして大きく大きくなったのが、まあ、日本国となるのでしょうが・・・平和の続く今となっても皆に公平な分配ができているのかとなると・・・なかなか(^_^;)ですね。

このような過程から生まれ出た敗者集団である山賊や海賊が悪い奴らだとは決していえませんが、その海賊から能美の浦々を守るための防衛団を組織するのもまた、やむえないことであり、そのようにして必然的に生まれでた防衛団団長として、鹿川には一郎、沖に二郎、畑に三郎、是長に四郎、美能に五郎と呼ばれる首領(団長)が選出され、相手海賊の勢力によっては浦々が協力し合って防戦に当っていました。

そんななか、是長と美能との境界近くにあって、のち「四郎五郎」と呼ばれる鼻(岬)に見張り所となる砦が築かれました。

お互いに気が合ったせいもあり、四郎と五郎の両軍で美能沖から畑沖までの見張りにあたることとなりました。

まあ、気が合えば当然のごとく、では一杯ってことになります。

鼻(岬)の下は岩場になっており、アワビやサザエ、タコなんかも取れますし、うまい具合に追い込めば岩の下にもぐり込んだメバルなんかも手づかみで取れます。

そんなこんなで見張りもおろそかになり、ある夜、密かに侵入した海賊一味に美能の浜で精製した塩をごっそりと持っていかれました。

その時は、ほら貝やかがり火を振って、三郎、二郎、一郎に急を知らせ、彼らの協力により逃げる途中の海賊船に追いつき、盗まれた塩も取り戻すことができましたが、・・・大失態。

汚名返上を図るべく思案を重ねるさなか、今は砲台山と呼ばれる山上からときどき近くの浜へと塩汲みに現れる修行僧に相談することとなりました。

「なるほど、さすれば見張りの数を増やして進ぜよう」と、やおら海岸に降り立つ修行僧、鼻(岬)の先端に屏風のように広がる切り立った岸壁に向け、海水につけて塩をたっぷりと含んだ大筆を何度も何度も力強く投げつけ始めました。

「なんともおかしなことをする坊さんじゃ」と思いながらも、相談に乗ってくれただけでもありがたいことじゃ、と、今晩一杯呑むつもりで取っておいたサザエやアワビを差し上げました。

お坊さんも山の上の庵(いおり)へと帰り、夕日が沈むころになって、美能の塩つくり職人たちがにわかに騒ぎ出たてます。

「し、しまったぁ~、変な坊さんに付き合っている間にまた海賊らが塩を盗みに来たんじゃ~」

「わしらはもう美能の浦にはおられんようになるぞ~」と、鼻(岬)の奥に隠し置いていた早舟に飛び乗り、櫓(ろ)も折れんばかりに漕いで美能の塩浜へとたどり着きました。

が、海賊などいません。

すると、塩づくりの親方が出てきて、「四郎殿、五郎殿、ようやった。ようあれだけの見張りを集めたもんじゃで、こげぇ~に数がおったら、なんぼ大海賊が現れても一目見ただけで、尻に帆を掛けてじゃ~。いやいや四郎殿、五郎殿、たいしたもんよのぉ~」

「いや、いや、いや・・・」と、小声で否定しながら、さっき漕ぎ出してきた鼻(岬)の方を振り返ると・・・「お、おぉ~」、鼻の先にある20mの断崖絶壁に何十何百もの目ん玉が現れ、夕日の沈む海面を隅から隅まで、まばたきもせずに見張っています。

塩を含んだ大筆を岸壁に投げつけ、アワビやサザエをもって山へと帰ったお坊さんは、その後再び浜へ降りてくることはなくなりましが、のちに五郎の手下が四国の金毘羅山にお参りしたおり、ふもとの満濃池で大勢の農民を集めて工事の指図をしていたお坊さんが、あの時の修行僧にそっくりであったと云います。

何はともあれ、その後この辺りに海賊が現れたり、美能の浜から塩を盗み出す者もいなくなりました。

そのうちに大きな丸太で作った見張り用の砦も朽ちてしまいましたが、お坊さんが投げつけた大筆の跡は今も赤い夕陽に染まる岸壁に何十何百と張り付き残っています。

やがてこの見張り場は四郎五郎の鼻と呼ばれるようになり、お坊さんが庵(いおり)を構えていた山も四郎五郎の山と呼ばれていましたが、明治になり軍の砲台が築かれたあとは単に砲台山とよばれています。

そのような出来事など知る由もなく幾百年、江田島市の全海岸線を走破探索すべしと美能の塩田跡から歩き始める一人の老人がいました。

潮が満ちる前に100mでも先へと、足元のごろた石に張り付く牡蠣殻に注意しながら進んでいると、何やら人の気配というか、殺気とまではいかないけれど・・誰かに見られているような・・・

廻りをみまわし、海岸に生い茂る草や木々の向こうを透かし見ても・・・だぁ~れもいません。

目の前は大きな岸壁が立ちはだかり人など隠れようがありませんし・・・。

「え、えぇ~~~」
「な、なんだよ、あれは・・・」

岸壁には足元から20mの最上部まで、数百の目ん玉が埋め込まれており、それらの目ん玉が全部私を見つめています。

のちに、これら巨大な目ん玉は「江田島球状花崗岩」とよばれる自然の産物であると知るのですが、いやはや・・・世にも不思議な場面にまったく突然遭遇することとあいなりました。

とうない七ふしぎ その7「四郎五郎の見張り台」には数百人分の目ん玉が埋め込まれた史上最強の見張り台ですが、その目ん玉は「江田島球状花崗岩」とよばれる、摩訶不思議な自然産物でできていました・・・(*^。^*)です。

ちなみに、この「江田島球状花崗岩」の名称について、国内の他産地で見る「球状花崗岩」には同心円構造が見られるが、「江田島球状花崗岩」には同心円構造が見られない。さらに核となる中心部の質の違いなどから、とりあえずは「江田島花崗捕獲岩」とし、今後の研究結果を待って適正な名をつけるべきとの意見もあります。

他にも愛知県豊田市猿投山の近くにお住いの方からは、二度ほど江田島を訪ねて観察したが、国の天然記念物に指定されている猿投山の球状花崗岩に似ており、また岩壁に張り付く産出状態は見事であって、その点ではむしろ此方の方が勝っているのでは、と、のお話も聞いています。

現在考えられている「球状花崗岩」の成因としては、アプライトと呼ばれる長石や石英からなる白っぽい岩石の一部が溶けた状態で岩脈をつくり、さらにその中の固体状態の部分が核となって雪だるまのように転がりながら球状部を形づくるのですが、回転時期を数度に分けて回転するために同心円構造が現れる。と、されています。

「江田島球状花崗岩」には同心円構造が見られないので、一度の回転だけで直径10cmくらいまで一気に大きく成長したと考えられます。

つまり、数度に分けて回転し同心円の残る球状花崗岩よりも、一度の回転だけで直径10cm以上にまで安定して成長した「江田島球状花崗岩」の方が他所よりもよほど珍しいのでは・・・。

いずれにしろ、しっかりとした学術調査がなされ、「江田島球状花崗岩」となる成因、自然原理を詳しく知りたいところ・・・(^_^;)です。

まだまだこの先も四郎五郎のミステリーは続きます。

ちなみに、四郎五郎の鼻はNPO法人所有の「夢来来」なる休息&展望施設となっており、道行く人々の憩いの場とされています。

地理院空中写真(昭和50年1月31日撮影)
四郎五郎の見張り台 

20081101(四郎五郎の鼻の岩壁に見える「目ん玉」は弘法大師さまが投げつけた筆で書かれたものではありません。「江田島球状花崗岩」と呼ばれるもので、当地の平均的球状花崗岩は直径が12cmくらいで、ほぼ真円となります)
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20081101(高さ20m近い岩壁の角の部分で、上へと伸びる球状花崗岩を含む岩脈は幅が1mくらい、上の方は見えませんが10数mくらいありそうです)
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20080917(中心部は長石、球体本体には角閃石の微粒子が多く含まれており薄黒く見えます)
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20080917(球状花崗岩の廻りは粗粒の長石と石英です。岩盤面は西を向きますので夕日が当たると崖全体が真っ赤に輝きます)
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20080917(球状花崗岩を含む岩脈は1mくらいの幅で10mの長さに伸びるものが1つ、他に数mの短く途切れた岩脈が2つ、海中にも1つ以上の岩脈があるみたいです)
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20160208(画像中には最大直径が15cm近い球状花崗岩を含め十数個見られます)
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三重県総合博物館所蔵の球状花崗岩(直径5cm)です。
2002年9月に三重県で初めて産出が確認され、同心円構造から最大3回繰り返し発達しており、球状部分の中心部は粗粒な角閃石であるとされます。
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その6 ソライロタケ (江田島町古鷹山林道)

ソライロタケは、青色をした珍しいキノコでイッポンシメジ科イッポンシメジ属のキノコです。

日本固有の種だと言われており、夏から秋にかけての時期、アカマツの茂った針葉樹林や広葉樹と針葉樹の混じった混成林などの腐葉土が重なっている地上に発生します。

カサは鮮やかな空色で表面には繊毛が有り、直径は20~35mm、円錐形で中央が尖ったような形状です。

柄の長さは40~70mm程度、色は空色で表面には少しねじれたような繊維状の模様が見られます。

発生から1週間くらいは鮮明な空色をしていますが、その後は黄変して消滅します。

アカイボカサタケやキイボカサタケなどと近縁であるといわれておりますが、まだこれらが混生する場面には遭遇していません。

ただ発生環境や時期はソライロタケとよく似ており、付近数メートル以内でならこれらを同じ日に見ることは普通にあります。

ソライロタケのソライロはカメラでは表現できない深みがあり、それは江田島の秋の空、江田島の冬の海と同じ、宇宙へと突き抜ける神秘に満ちた空色、地球の裏側にまで吸い込まれていきそうな深い海を見るような・・・とくべつなソライロです。

全国でも希少種とされるソライロタケが、瀬戸内海の小島の、しかも1978年(昭和53年)に発生した全国的にも例を見ない大規模な林野火災(消失面積947ヘクタール)で、2昼夜にわたって燃え盛ったその中心部に姿を見せたのは、・・・なぁ~~~ぜ、なのでしょう。

とうない七ふしぎ その6「ソライロタケ」は、40年前の大規模林野火災で焼き尽くされ、未だ復興途上にある貧弱な雑木林に発生した、ありえないような美しい空色をした小さな小さなキノコ・・・(*^。^*)でした。

ちなみにソライロタケとアカイボカサタケとは近縁であるとされ、キイボカサタケやシロイボカサタケはそれらよりもやや遠い遺伝子関係にあるといわれています。

江田島市内ではキイボカサタケやそれに酷似したシロイボカサタケは普通に見ますが、アカイボタケの発生は少ないようです。

20161003(古鷹山林道の道路脇で初めて見た発生初期のソライロタケです)
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20161009(上記と同じ場所で6日後の撮影です。3本ありました)
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20171012(上記と同じ場所で1年後の撮影です。計3本ありました)
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20180928(上記発生場所はイノシシに荒らされて皆無。近くを探索し、200mばかり離れた別の場所で5本見つけました)
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20180928(画像中に3本。付近にもう2本ありました)
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20180928(上記のソライロタケです)
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20180928(同じ日、上記場所から20mくらい離れたやや湿気た環境で、アカイボカサタケを5、6本見ました。色は違いますがとてもよく似ています)
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20171011(キイボカサタケは古鷹山系では普通にみます。ソライロタケとほぼ同じような生育環境に発生しますが、やや湿気た感じのところで多く見ます)
s-DSCN2865 (2)キイボカサタケ 

1978年6月2日、呉市天応付近から見た江田島古鷹山系を呑み込み焼き尽くす紅蓮の焔です。画像は消火活動や支援作業に全力で対処に当たった「海上自衛隊第1術科学校」のHPより拝借しました・・・m(__)mです。
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その5 ライオンの舌 (沖美町是長)

沖美町是長入鹿鼻の手前にある砂浜(サンビーチ沖美)の奥に嘉慶元年(1387年)創建の「入鹿明神社」があります。

その入鹿明神社の拝殿前にほぼ等身大に模した木彫りのライオンが置かれていますが、・・・さて、・・・。

入鹿明神社創建にかかわる由緒では、宮島から榊葉をくわえた鹿が泳ぎ着いたこの地に海の神「上津綿津見神」を祭ったとされており、ライオンとの関りはどこにもありません。

入鹿明神社とは関係なさそうなライオン・・・実は江戸時代に書かれた「能美島志(1763年)」に記された「社後峻巌千尺、小松森々タリ・・・」の中にひそんでいるのです。

峻厳(しゅんげん)とは、おごそかであり非常に厳しいさまであり、千尺とはおよそ300m、そこに小さめの松が、盛んに茂っている・・・と。

入鹿明神社の背後は当時とほぼ同じですが、岩山はもっとも高いところで127 mですので、倍以上の誇張があったようです。

ただ、多少は誇張のある江戸時代の書にも、背後の岩山にライオンが住んでいるとは一言も書かれていません。

では、そのライオンはどうやったら見られるのでしょう。

神社の境内からだと、木彫りのライオン以外は見ることができません。

鳥居を出て、そのまま砂浜を歩き波打ち際まで行って後ろを振り返ると・・・。

峻巌千尺小松森々の中にはっきりとライオンの姿を見ることができます。

でも・・・見ようによってはトラにもネコにも、ウサギ、いやネズミかも?・・・いやいやこれはライオン、ライオンですよ。

拝殿の前にあった木彫りのライオンと、まったくもって、そっくりそのまんまではありませんか。

まあしかし、人それぞれに感じ方も違うでしょうし、もっと近くから見ればライオンだってはっきりするのでは、と、「峻巌千尺小松森々」の岩山へとよじ登ることにしました。

峻巌千尺、高さに誇張はありますが、地形はまさに断崖絶壁、小松の根元を両手で掴みながら地を這うような姿勢で次々と隣の松へと移動、10mを進むのに10分間かかる場所もあります。

で、ライオンの顔をほぼ真横から写せる場所に到着しますと、・・・

顔の目の部分にはスズメバチの巣があって、瞳となっており、吠えかかる口の中には舌が見えます。

えぇ~、超リアル~~。

口の中の舌は上にも下にも隙間があって風が吹けばゆらゆらと動き出しそうな感じ・・・、ちょっとした地震でも起これば、即座に滑り落ちていきそうな雰囲気です。

こっわぁ~~~。

とうない七ふしぎ その5「ライオンの舌」とは、入鹿明神社背後の峻巌千尺小松森々に隠れ住むライオンの口から今にも滑り落ちそうな巨大な石の舌・・・(^_^;)でした。

さらに云えば、この入鹿明神社には古くからの言い伝えがあります。

「神域において、もしも石を盗ることがあれば神罰現然たり」と。

うっわぁ~~~、それってライオンが吐き出した、巨岩の舌がビュウ~ンとぶっ飛んでくるってことですよね。

くわばら、くわばら・・・この神域近くで水晶を拾うなんてこと・・・もう絶対にしません・・・m(__)mです。

20150325(沖美町是長の入鹿明神社です)
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20150325(入鹿明神社拝殿の横に、大きな木彫りのライオンが寄贈されています)
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20150325(入鹿明神社背後の峻巌千尺小松森々にひそむライオンです)
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20150325(トラ?ネコ?ウサギ?ネズミ?いえいえライオン・・・(*^。^*)です)
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20170225(神社背後の峻巌千尺小松森々に分け入りライオンの調査を・・・)
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20170225(ライオンの口の中には今にも滑り落ちそうな巨大な舌が・・・)
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20170225(ライオンが舌を吐き出せば、浜辺に駐車中の車10台くらいは間違いなくペッチャンコとなります・・・(^_^;)です)
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20071004(神域からは遠く外れており、ライオンさんからは見えない入鹿鼻で見つけた水晶・・・(*^。^*)です。)
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その4 保育園の赤い糸 (江田島町小用)

2012年7月23日(月曜日)学校は夏休みに入ったばかり、晴れてはいますがまだ梅雨が続いているかのような、もわぁ~~~っとした熱気に汗が吹き出します。

お散歩に出てはみたものの、・・・♪腕を振って 足をあげて ワン・ツー ワン・ツー 休まないで歩け~♪・・・なんて気にはとてもとても・・・。

江田島町小用公園のワシントンヤシの下に、園児20人くらいの小用保育園がありました。
(数年前に廃園となり、現在は更地・・・土地の購入者を募集中・・・(^_^;)です)

その横の細い路地をだらだら歩いていますと、白い塀に園児の服からちぎれたであろう赤い糸クズがくっ付いています。

後方から息苦しくなるような、湿気を含んだ風がむわぁ~~っ・・・すると、その赤い糸クズがふわふわ~~~っと飛んでいきます。

え、えっ・・・糸クズじゃないや、トンボだ、イトトンボだ、でもこんな赤くてちっちゃなトンボは初めて見ます。

汗ばんだ手をポケットに突っ込み大慌てでカメラをとりだします。

トンボはこちらの仰々しい気配を察してか、少しずつ距離を置いて止まります。

に、に、に、逃がしてなるものかって距離を詰めるとまた数メートル先へ、詰めると先へ、ピントなど合わせる余裕もなく、なんとか数枚シャッターを切った時点で、あぁ~あ、見失ってしまいました。

でも、暑いのを我慢してお散歩に出た甲斐がありました。

さっそくに画像をPCにとり込みましたが、まあなんとか見れる画像は一枚だけであとはすべてがピンボケでした。

その一枚を頼りにネット検索を始めると、「ベニイトトンボ」「希少種」・・・やった~~~江田島市内でベニイトトンボが見つかるなんて、大発見だぁ~~~(*^。^*)です。

しかし、画像が一枚だけでは・・・よぉ~~~し、再度挑戦・・・翌日、水筒をもって再び保育園へと出かけました。

で、・・・保育園の廻りの草むらを1時間ばかりゴソゴソと動き回って、やっと一匹を見つけることができました。

水筒を首にぶらさげた爺さんが、保育園の廻りをうろうろ、うろうろ・・・保育士さんとかに見つかっていたら間違いなく不審者として通報されていたでしょうね。

数枚の画像が撮れたので一安心、あらためてネット情報を精査すると・・・なんと、小用保育園とは古鷹山を越えた反対側、同じ江田島町内の切串地区につくられたビオトープでの発見例がヒット、しかもベニイトトンボはビオトープづくりのために他所から移入した水草などに付着した幼虫などが原因ではないか?・・・と、・・・。

で、・・・7月27日、山越えをしてその切串ビオトープを訪ねますと、いました・・・2匹もいました・・・なぁ~~んだ。

がっくり・・・です。

ベニイトトンボへの興味が一気に薄れてしまいました・・・(^_^;)です。 

で・・・、2013年はベニイトトンボのことは一切忘れていたのですが、翌2014年・・・なぁ~んと、小用保育園とは直線距離で300m、江田島町秋月のため池の廻りでベニイトトンボが数十匹ブンブン?と元気に飛び回っており、ハート型にくっ付いた数組のカップルもいます。

なぁ~んてこった。

ビオトプに移入された水草にたまたまくっ付いていたベニイトトンボが、こんな短期間でこんなに沢山に増えるわけがないじゃないか。って思っていると・・・さらなる朗報、江田市の最南端大柿町深江のさとうみ科学館から、事務室に迷い込んだベニイトトンボを捕まえた。って情報をいただきました。

切串につくられたビオトープは江田島市内でも、もっとも人里はなれた位置にある昔からの田んぼの跡ですし、ベニイトトンボが永年世代交代を繰り返していたとしても、不思議ではなく、素直にうなずける場所です。

じゃあ・・・似たような場所を探せばベニイトトンボは他の地域でも生き残っているはずです。

市内の彼方此方、小川やため池廻りの草をかき分けて探索していますと、稀にですが、「こいつなんだよ、何やってるんだろう」っていかにも不審者をとがめる雰囲気をもった方にお会いします。

第一印象は不審者であっても、お話を始めるきっかけにはなりますので、此方としてはありがたいことです。

「実は・・・ベニイトトンボをさがしているんです。赤い色をしてるんですが、歌にある赤とんぼみたいに胴体が太いのじゃなく、つまようじよりももっと細い胴体をした真っ赤な糸とんぼです。」・・・で、2、3人の方から、「おお~、おったのぉ~、わしらがこまいごろにみたがのぉ~、あのごらぁ~ここらぁ~みんな田ぁつくりょったがのぉ~」

やっぱ、ベニイトトンボは昔から江田島市内にいたんだぁ~。

とうない七ふしぎ その4「小用幼稚園の白い塀にくっ付いていた赤い糸クズ」はベニイトトンボでした。

決して水に恵まれているわけでもない、瀬戸内海に浮かぶ小島になぜ他所よりも高い密度でベニイトトンボが生息しているのかは今も解りませんが・・・

ネット情報では近年、江田島市以外でも各地でベニイトトンボがよく見られるようになったとか・・・、十年ばかり前までは、ほとんど見つかることのなかったベニイトトンボが急速に生息地を広げたわけは・・・生物の増減にはほんのチョットしたことが引き金となるみたいです。

最近ではサンマとかイカとかが急激に減少したり・・・人間だって、わ・か・ら・ん・ぞぉ~~~(^_^;)です。

祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
    盛者必衰の理をあらわす
  おごれる人も久しからず
     ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
       偏に風の前の塵に同じ

20120723(小用保育園の前で初めて見たベニイトトンボです)
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20120724(翌日、草むらを1時間探して再会したベニイトトンボです)
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20120724(在りし日の小用保育園、今は更地となっています)
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20120727(江田島町切串の、田んぼ跡につくられたビオトープです)
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20120727(切串ビオトープで見たベニイトトンボです)
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20140720(小用保育園から300m、秋月地区のため池で大発生していました)
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20190608(江田島市の最南端、大柿町深江のため池で見たベニイトトンボです)
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2016年6月15日~7月21日の間に見たベニイトトンボの確認地です)
ベニイトトンボ発生地160721aa 

その3 アスファルトに咲く花 (江田島町津久茂)

もとは農道としてつくられた道、アスファルトで舗装されていますが両側から木々が生い茂り路面にはわずかな木漏れ日しかあたりません。

20年、いや30年・・・もっと前だったかもですが、サツマイモとかコムギとかを育てていた畑にはコナラやヤマハゼ、アカメガシワ、ヤブツバキやツブラジイ、カゴノキ、カクレミノの木々が大きく成長し、場所によっては路面のアスファルトを破って孟宗竹の大きなタケノコが伸び出す状態です。

とは言っても、僅かに残された畑の手入れや、イノシシ罠の点検、道に迷って入り込んだ釣り人?の乗った車が日に数台は行き来しますので道の真ん中を、ぼ~~~っと歩くのは危険・・・(^_^;)です。

そんなこんなのアスファルト舗装道路なのですが、いったいなにを好んでアスファルトの隙間を広げて可憐な花が芽を出すのでしょう。

道路の廻りは、ほぼ原生林に近い状態、その落ち葉でふかふかのところに生えたほうがよほど幸せだと思うのですが・・・。

その可憐で不可思議な花とは・・・ラン科植物のギンランです。

さすがにわだちの内側で芽を出すことはありませんが、軽トラが作ったわだちから20cmばかり外側のアスファルトの路面で花を咲かせています。

小さな白い花ですので、車の中から気づくことはありませんし、ほんの少しハンドルを外側に切れば間違いなくタイヤの下敷きとなる位置です。

ギンランは希少種ではありませんが、やたらとそこいらに見る植物ではありませんし、江田島市内でもおそらくは数ヶ所?・・・私は当地以外で見たことはありません。

ちなみに、ラン科植物は日本に75属230種があるといわれますが、私が江田島市内で見たことのある野生ランは、シュンラン・ネジバナ・コクラン・オオバトンボソウ・カキラン・シュスラン、そして当地のギンランのみです。

ラン科植物は植物分化の過程ではまだ新参者とされます。
そのためかどうか、他の植物とは違った特殊で微妙な形態、たとえば特定の昆虫との共進化を見せるものがあったり、根や種子の発芽に菌との共生あったりと、短期間で急速な適応放散がみられ、現在もなを進化を続けている特異な存在であるとされます。

ラン科植物の共生菌は主に担子菌ですが、それ以外の菌群とも複雑に絡んでいるのではとされており、また、特定の菌群に対して高い特異性を示すなど、ラン科植物は環境の変化に弱く、そのことがさらなる分化の原動力ともなりうるといえます。

そんな微妙で多様な発展段階にあるラン科植物ですので、なかにアスファルトが大好きな種が出てきてもおかしくはありませんし、さらに発展してアスファルト以外の場所では生育が困難な種の出現も考えられます。

  涙の数だけ強くなれるよ♪ アスファルトに咲く花のように♪
     
     見るものすべてにおびえないで♪ 明日は来るよ君のために♪

とうない七ふしぎ その3、「アスファルに咲く花」は発展段階のラン科植物、ギンランでした。
しかし、このラン科植物の本当の不思議はまだまだで、解明が必要とされる分野は山ほどあります。

そう遠くない将来、アスファルト道路のセンターライン用として、白や黄色い花色のラン科植物が咲き乱れる時代が・・・(*^。^*)です。

20150502(道路側溝から30cmくらいのアスファルト路面で咲くギンランです)
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20150502(道路側溝から30cmくらいのアスファルト路面で咲くギンランです)
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20150502(アスファルト路面まで逃げ出しても、まだそれを追ってくる虫がいます)
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20130505(道路路肩のアスファルトが崩れた中で咲くギンランです)
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20130505(道路路肩のアスファルトが崩れた中で咲くギンランです)
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20120509(道路路肩のアスファルトが崩れた中で咲くギンランです)
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20191205(大柿町深江・スミレの仲間もアスファルトが好きみたい・・・(*^。^*)です)
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その2 はちかめ (大柿町大原)

承平元年(九三一年)創建と伝えられる「新宮八幡宮」は陀峯山より流れ出た清流八幡川に削り出された亀甲山に鎮座します。

大原の古社、新宮八幡宮の拝殿には手作りの額に収められた「はちかめ」が奉納されています。

額の左縁には「はちかめ」と名があり、右縁に大柿町 酒井 ?、下側に昭和26年八月と書かれた額の中央には、何やらおどろおどろしい物体が今にも風に飛ばされそうな状態でぶら下がっています。
(注:奉納者のお名前が読めません。画像では「大ユ」と見えるのですが、・・・ご教示お願いします)

判別が不能なくらいに傷んでいる「はちかめ」と呼ばれる奉納品、実は「はちかめ」とはカブトガニのことです。

カブトガニの生態を十数年調査研究している「江田島市 さとうみ科学館」のお話では、現在、江田島市内でカブトガニが見られるのは江田島湾内のみで、年間の発見個体も数匹から数十匹、年によってはまったく見つからないこともあるそうですが、「はちかめ」が奉納された昭和26年ころまでは大原湾近辺においても稀に網にかかるなどしていたのでしょう。

ちなみに、ネット検索で濁音を付けずに「はちかめ」と呼んだのは、山口県防府市大道の70才台男性(2013年)のみで、各地での呼び名調査をされた笠岡市立カブトガニ博物館の資料でも「はちかめ」と呼ぶ地域は記載されていません。

同資料などによればカブトガニを「はちがめ」と濁音で呼ぶのは山口県~大分県~福岡県~佐賀県~長崎県だそうで、広島県では一般に「だんがめ」と呼ばれていたそうです。

他には、岡山県「どんがめ」、徳島県・和歌山県「びぜんがに」、愛媛県「かめごうら」「がわら」、香川県「がんざめ」、福岡県や佐賀県などでは「はちがめ」の他に「がめ」「うんきゅう」、大分県で「うんぺこ」「はちがんす」、鹿児島県で「ひがんがに」と呼ばれていました。

「はちかめ」を漢字表記すればおそらくは「蜂亀」でしょうが、「鉢」とか「瓶(カメ)」とかも候補にあがります。

で、・・・現在一般に通用している「カブトガニ」名の起源は・・・

大和本草(1709年)に、「鱟魚(ウンキウ)」「カブトガニ」との記載がのこります。

江戸時代の本草学者の間ではすでにカブトガニが一般名だったようですが、各地でさまざまな呼び名が残るのは、おそらくカブトガニは誰もが食べたり利用する流通物ではないので一般の庶民には呼び名など必要がなく、各地の浜や入江ごとにそれぞれ呼び名をつけ、食糧難のときにだけ救荒食として利用したのでは?・・・。

ちなみに、現代版大和本草ともいえるウィキペディアではカブトガニの漢字表記として、甲蟹、兜蟹、鱟、鱟魚が記されています。

カブトガニの生育には、産卵用の細粒砂浜と、体を隠し餌を捕らえることのできる微細粒底質で遠浅の海が必要です。

そのためには河川からの新しい砂の補充は重要な要素になるのですが、護岸や河川堤防のコンクリート化、砂防ダムや取水ダム、堰などにより砂の流出が止まってしまった現代は・・・カブトガニにはちょっと住みにくい世の中・・・(^_^;)かも?です。

とうない七ふしぎ、その2「はちかめ」とは、カブトガニのことでした。

生きた化石とされるカブトガニの生態それ自体に不思議を感じた方は、大柿町深江にある「さとうみ科学館」を訪ねてみてください。

さとうみ科学館には十数年にわたるカブトガニの観察記録が保管されており、飼育や採卵、孵化などの研究もされています。

さらに能美図書館で先月発刊された児童文学誌「小鳥」第15号には童謡「チビカブちゃん ~てのひらのカブトガニ~」が作詞作曲されて巻頭を飾っています・・・(*^。^*)です。

20130214(新宮八幡宮に奉納されている「はちかめ」)
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20100314(さとうみ科学館で飼育中のカブトガニ)
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20121129(さとうみ科学館で飼育中のカブトガニの腹部)
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20090307(さとうみ科学館で展示されているカブトガニの脱皮殻)
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20100314(さとうみ科学館で展示されているカブトガニの脱皮殻)
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20120914(江田島湾内でカブトガニの幼生を発見)
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国立科学博物館に展示された「大和本草」・左下の図がカブトガニです
s-大和本草(国立科学博物館) 


その1 七色に輝く竹やぶ (大柿町飛渡瀬)

その日は快晴だけど風の冷たい冬の日でした。

そこは、お散歩で月に2、3度は通る、なじみの農道です。

その農道の脇に、しばらくは誰も入った形跡のない竹やぶがあり、冬の日射しは背の高い竹に遮られて日中でも薄暗くなります。

特にキョロキョロとするわけでもなく、まあ普通に歩いていますと、えっ・・・、竹やぶの中が虹色に輝き始めました。

まさか、竹やぶだからって、かぐや姫が現れることはないでしょう。

目の焦点を合わせ直すと虹色の輝きは竹やぶからではなく、その先にあるため池からのようです。

そうかぁ~、ため池の水面に沢山の竹の葉が落ち、それが分解して油分が水面を覆ったんだろう。

その油膜に太陽光が反射してゆらゆらと虹色に輝いているんだろう。

光りは微風でゆらゆら揺れますし、カメラを向けてもきれいには撮れないだろうと思いつつも竹やぶ越しに数枚の画像をカメラに収めて持ち帰りました。

で、パソコンで画像を拡大してみると、おやおや、思ったよりも幻想的に撮れています。

こらならいけるかもって、NHK広島放送局の写真投稿番組に応募しました。

すると、番組スタッフの方から、光り輝くのは油膜じゃなく「ヒカリモ」の可能性があるのでは?・・・って教えていただきました。

なるほど・・・、そのときは虹色に光る原因は油膜以外にはないと思いこんでいましたから、ため池の水面を詳しく観察するなんてことはしませんでしたが、・・・いわれてみれば油膜とは少し違うような雰囲気もありました。

ネット検索の結果「ヒカリモ」は藻の一種であり、球形の単細胞生物の組織がうまい具合に光を反射して七色や黄金色に光るのだ、そうです。

水面が虹色に光るのは油膜なのか「ヒカリモ」なのか?、数日後の晴天時を選んで再び神秘の竹やぶを訪ねてみますと、おぉ~~、この日の竹やぶも七色の光に満ち溢れていました。と、言うか、竹やぶのむこうにあるため池の水面が太陽光を反射して虹色に輝いています。

竹やぶをくぐり抜けため池の水を手ですくってみましたが、油膜とはまったく違います。

水面を広く覆っているのは黄色っぽい色をした微生物の集まり、おそらくは「ヒカリモ」あるいは「ヒカリモ」と同じような構造の単細胞生物です。

それら微生物の浮遊体に竹やぶの隙間から絶妙な角度で注ぎ込む太陽光が反射して、虹色に輝いているのでした。

太陽光線とは別の角度から観察しますと、虹色に輝くことはありませんが、水面に大量の微粒子が浮かんでおり薄い褐色の膜にみえます。

とうない七ふしぎの一つ「七色に輝く竹やぶ」、実はため池の水面に繁殖した藻の一種だと思われますが、その正体はいまだになぞのまま・・・(*^。^*)です。

あっ、そうそう先日変な夢をみました。

虹色に輝く水面に、突然白い髭を長く伸ばした神様が現れ、金銀銅や鉄やアルミなど様々な金属で造られた斧を抱えています。

で、静かな口調で、「お前が池に落としたのは、どの斧だ」っておっしゃいます。

こういう場合どう言ったら良いんだろう。
たしか、昔の童話では金だと嘘をついたら・・・

そもそも、神様ともあろうお方が、池の中で拾った斧が誰のものなのかも分からないなんて・・・

「斧なんて落としたことはありません」と言うべきか?「金の斧を下さい」って言うべきか・・・悩んでいる間に・・・目が覚めてしまいました・・・(^_^;)です。


20200118(竹やぶの中が七色に輝いています)
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20200118(実は竹やぶの向こうに農業用ため池があり、太陽光がまともに水面に当たり反射しています)
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20200118(水面に直射日光が当たり、竹やぶの向こうが虹色に見えるのは午前10時前後の1時間くらいです)
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20200129(ネット情報などから、「ヒカリモ」が大量に発生するのは冬~春くらい?、直射日光には弱い?ようです。
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20200129(竹やぶで強烈な太陽光や、真冬の強風を遮断できることでヒカリモ?もしくは類似の微細生物発生を手助けしているのでしょう)
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20200129(太陽光から90度ずらして撮影した水面)
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20200129(褐色で微細な生物?が粉を撒いたように水面を均一に覆っています)
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おそらくは「竹取物語」の作者も、これと同じ場面に遭遇、かぐや姫の出現をこの七色に輝く竹やぶとしたに違いありません・・・(*^。^*)です。

以下は追加記事です。

後日(2020年4月2日)同じ「ヒカリモ現象」を能美町中町の池でも見ることができました。

20200402能美町中町
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20200402能美町中町
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20200402能美町中町
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とうない七ふしぎ(目次)

 と う な い   ふ  し  ぎ 
目   次
・・・実話事例などを参考としたフィクションです・・・
s-s-IMG_4297 (2) その1 七色に輝く竹やぶ(大柿町飛渡瀬)
s-s-100314 002 (2) その2 はちかめ(大柿町大原)
s-2015-05-02 071 (2)aa150 その3 アスファルトに咲く花(江田島町津久茂)
s-s-IMG_7698 (2)150 その4 保育園の赤い糸(江田島町小用)
s-2015-03-25 231 (2)150 その5 ライオンの舌(沖美町是長)
s-s-2016-10-09 173 (1280x960) その6 ソライロタケ(江田島町古鷹山林道)
s-CIMG2739.jpg その7 四郎五郎の見張り台(沖美町是長)
s-s-20191005 (20) その8 天狗の足跡と水晶(大柿町大君)
s-s-DSCN3179 (2) その9 オノミチキサンゴ(江田島町津久茂)
s-100405 030 その10 兵学校の赤煉瓦(江田島町国有無番地)
s-s-DSCN6084.jpg その11 この山どないなってんの?(古鷹山)
s-s-20190919 (6) その12 津久茂の金山(江田島町津久茂)
s-CIMG2954 (2) その13 石風呂とシャガ(江田島町宮ノ原)
―――作成途中・・・(^_^;)です―――

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