往時に比べれば、ずい分と寂れた町となりましたが、今でも、あちこちに温かみを感じます。
他の地区でもそうですが、斜面に建つ家々には、必ず傾斜を有効利用した家畜小屋?があります。
表も崖、裏も崖・・・(*^_^*)です。
江田島町内ではあまり見かけませんが、海風の強い瀬戸の島々でよく見る、二階部分が極端に低い作りのお家です。
民家の軒下に、変わった作りの石臼???です。
明治から戦前にかけて、当地の主要作物は、米、麦、さつまいも、あわ、そば、でしたが、それ以上に多く作られていたのは、さとうきび(かんしゃ)でした。
その、さとうきびを搾るのに使ったのが、この石臼です。
その他には、ワタやコウゾが栽培され、柑橘類のダイダイが明治20年ごろから、温州ミカンが明治33年、ネーブルが大正の初期からと・・・(*^_^*)です。
街並みの向こうに、近年作られた長大な防波堤が伸びます。
対岸は倉橋島ですが、中央部に白く見える部分が三ツ子島で、メキシコから輸入される工業塩(貯蔵量40万トン)の集積地で、日本で利用される工業塩の、75パーセントがここで扱われます。
防波堤の先端部から見た、秋月の中心部です。
導神社の境内に積もる、落ち葉・・・(*^_^*)です。
地図上は、江田島町の中心地や、玄関口となる小用港に近い位置にあるのですが、秋月トンネルが開通する以前は、地理的に隔絶され感が強く、住民の意識や行動も島外へと向いていました。
古くから教育には熱心な地であり、秋月小学校の前身は、1874年3月(明治7年)有隣社と称し、秋付説教場(現教法寺)に男女2人の教員と、男子33人女子2名をもって始められました。
児童数の激減により、2006年3月(平成18年)廃校となりましたが、校舎は今も残り、玄関の上には大きく校章が掲げられています。
デザインは、イチョウの若葉と月と波をイメージしたものだと思いますが???・・・。
クレームがあれば訂正します・・・(^_^;)です。
平成2年、大柿町飛渡瀬から移転した江能准看護学院です。
前身は1969年(昭和44年)3月、江能4町、全医師の総意により出資金を集め、能美町中町に小学校施設を活用して、修業2年、学年定員20名として認可、創設されました。
島内で最も長大(延長1005m)な秋月トンネルが完成したのは、1981年(昭和56年)10月1日です。
秋月地区に隣接する、米陸軍秋月弾薬庫からの避難路として計画されましたが、これにより秋月区の道路事情は一変し、その後の区内道路、港湾整備のさきがけとなりました。
まだ、旧秋月港が賑わっていたころ、桟橋前に建つこの家の土間には、豆腐やかまぼこが並び、棚には駄菓子があって、店には似合わない大きな冷蔵庫に、アイスキャンデーが一杯詰まっていました。
その冷蔵庫を開いて、アイスクリームを3つ買ったら、アイスキャンデーを1個、おまけに頂いた記憶があります。
炬燵でテレビを見ながら店番をし、ガラス戸を開ける音で土間に下り、エプロンの中でつり銭を勘定する時代は、もう、戻ってはきません。
しびれ峠の付近にある、モウソウチクの竹林です。
島に限ったことではありませんが、各地で竹林の荒廃が大問題になっています。
カキ筏の主材料として、もっと利用されても良いように思うのですが、カキ筏用のモウソウチクは何故か、大型トラックで島外から運ばれてきます。
春にタケノコを採る人もなく、島の竹林は今、イノシシの楽園となっています。
よほどのお屋敷で、庭に松や楠木の大木を植えているのでなければ、どのお家にも日の出から日没寸前まで、日の光が燦然と差し込みます。
一見、うらやましくも見える光景ですが、空から、海からと2倍に増幅された強烈な太陽光は、人の健康を害します。
多くの老人は、眼病を患い、眼科医のお世話になっています。
(注 : 太陽光と眼病、その他、疾病との関係には諸説あります・・・(^_^;)です。)
秋月林道に沿い、飛迫山から北に約500mの間に太平洋戦争中の秋月防空砲台跡が点在します。
主には三つのブロックに分かれているようですが、落ち葉やヤブに埋もれはっきりしない人工物もあります。
NTTの秋月基地局がその中心部のようで、付近には巨大な雨水タンク?や高角砲?機銃?の配置跡、レンガやコンクリートを使った建物の残骸らしいものが埋もれています。
灰色をしたレンガで組んだ巨大な雨水タンク???です。
変わった色に焼かれたレンガですが、ほぼ同じ色をしたレンガを、小用地区の民家を囲う塀にも見ました。
戦後に植えられただろうヒノキの木々が、何事もなかったかのように天に向かって真っ直ぐに育っています。
ヒノキの林を右に小山に登ると、頂上の部分がすり鉢状に丸くえぐられた直径が20m?くらいの窪地があります。
「呉周辺の防空砲台」等のネット資料によりますと、これらの施設は「秋月防空高角砲台」とよばれるもので、昭和17年に計画、着工し、昭和19年8月には12.7cm連装高角砲2基が発射可能であったといいます。
さらに南下した高台には六角状?に並べられた基礎石が?です。
普通に焼かれた赤いレンガも散在します。
山を削り、石垣を築いて・・・
さらに尾根筋を南下すると円形の広場に、朽ち果て落ち葉に埋まっていた三角点を示す杭と、頭が丸く欠け落ちた飛迫山(179.9m)の三角点石柱です。
戦後の日本を立て直すための隠匿物資とか、軍資金とかが埋まっていないかと落ち葉を掻き分けたら・・・
なんと、ニッキ水のガラス小瓶が出てきました。
小さな気泡が沢山入った、いかにも古そうな小瓶・・・(*^。^*)です。
平地の少ない島では、どこでも同じような坂の小径と、石段は見られますが・・・。
戦後の一時期、はち切れんばかりに人口が密集した秋月の街は、曲がりくねった坂の小道ばかりで、写真に写す適地さえ探しかねます。
石垣の続く小径は、とても大好きな情景です。
そんな小径で大活躍するのが、この手押し車です。
展示販売しているのを見たことはないのですが、みな同じような作りですので、どこかに闇の販売ルートとかが・・・(^_^;)です。
市販のベビーカーを、改造したんでしょうか???
坂の途中に、ナツメの古木が1本。
日露戦争、水師営の故事(唱歌)にならったのかも・・・(*^_^*)です。
だれも、取る人のいないナツミカンが、北風にゆれて落っこち、一つ、2つと坂の小径をころがります。
廃屋となった屋敷への、登り石段にツワブキの花が・・・。
半年も人が歩かなければ、たとえ石段でも草に埋もれます。
何処から種が飛んできたのか、石垣の隙間に源平小菊・・・(*^。^*)です。
古澤鋼材(株)は、秋月地区の最南端部に一画を有し、廃船となった鉄鋼船の解体作業、およびスクラップ金属の販売を生業としています。
船の寿命は・・・
以下、公益財団法人 日本海事広報協会 資料のコピペ・・・(^_^;)です。
「進水してから解体されるまでの年数を船齢(年齢)といいますが、その間どのくらい活躍するかは、手入れの仕方に関係します。手入れさえよければ50年以上の長寿も可能で、そういった例も少なくありません。船齢の平均をみるとタンカーで18年程度、ばら積み船で25年程度、一般貨物船で27年程度ですが、実際は経済性、安全性などを考え、タンカーで13年程度、その他の船で15年程度で解体される場合が多いようです。」
廃船となった船は、海外に運び出されて再生されたり、漁礁として海中に沈められたりもしますが、一般には小さく切断され、金属の種類ごとに分類されて、再び資源として利用されます。
画像は数千トンクラスの貨物船が、解体されている現場です。
海上自衛隊の呉基地が近くにあるためなのか?、特殊な解体技術を持っているからなのか?、海上自衛隊の艦船が解体されている場面に、よく遭遇します。
左の大きな船は、補給艦「さがみ」?のようです。
また、右の黒い船体は涙滴型潜水艦ですが船名は???です。
潜水艦のスクリューは特殊で防衛秘密らしく?、写真に撮られないようにブルーシートで覆われています。
昔に聞いた話で、今はわかりませんが、潜水艦の寿命は15年~20年、護衛艦の寿命は25年~30年くらいだと聞いた記憶があります。
運搬船上に山盛りに積み込まれた、鉄系スクラップです。
鉄スクラップは電気炉で融かされ、成分調整されて、即市場に出されます。
また、鉄鉱石から作りだされる高炉製鉄においても、スクラップは必需品で、金属製品のリサイクル事業は、資源小国のわが国には、とても重要なことです。
ロシア船籍のタンカー、ナホトカ号を解体したのも、この古澤鋼材で、船体の一部を切り取ったものが、本社入口に展示されています。
冬の日本海の荒波は、鋼鉄の船体も、紙切れに等しく切り裂きます。
対岸の倉橋島田原から見た、秋月区の南端部です。
海上には、解体作業待ちの大型船が数隻停泊しています。
右端の、ガントリークレーンは「全農グリーンリソース(株)」の荷揚げ埠頭にあって、海外からの肥料やその原料の入ったコンテナを、貨物船に積み下ろしするためのものです。
バックの山は標高205.1m、仏ノ塔と呼ばれる山で、大戦末期には高射砲陣地も造られていました。
軍用道として作られた道が山頂まで続き、当時の陣地跡や、お地蔵様が祭られていますが、訪れる人は少なく、道は荒れています。
秋月の最北部、小用地区と接して、久村と呼ばれる干拓地がありましたが、明治の中期に海軍省に買収され、以後海軍秋月火薬庫となり、戦後は米陸軍にソックリ接収され、秋月弾薬庫となって今にいたります。
正門は小用側にあり、表の看板には「米陸軍秋月弾薬廠/第83武器大隊 秋月弾薬庫」と記されています。
この先には、衛兵詰所があり、若くて長身、筋骨隆々なアーミーが、腰に実弾入りの拳銃をぶら下げて、仁王立ちに此方を睨み付けています。
「写真を一枚・・・」、なんて言ったら、カメラを没収され、軍法会議にかけられそうな雰囲気でしたので、慌てて引き返しました・・・(^_^;)です。
左に見える街並みが小用区で、右の平地が久村干拓地、現米陸軍秋月弾薬庫です。
戦後、枕崎台風(昭和20年9月)で旧日本海軍の弾薬が被災し、その処理のための強制爆破で、ぶっ飛んだ岩塊が中央の小山を越え、小用区の民家の屋根に大穴を開けたとか・・・(^_^;)です。
また、久村の干拓事業は、当時(1821年)の最新技術を駆使したもので、歴史的な価値が今に残るといいますが、かってに見学することは不可能です。
弾薬庫の廻りは、二重に柵がもうけられ、「立ち入り禁止」の札が掲げられていますが、英語?で書かれてありますので、チンプンカンプン。
おそらく、「この柵内に立ち入る場合は、死を覚悟せよ。」とか、書いてあるんじゃ・・・(*^_^*)です。
弾薬の、荷降ろし場?です。
背の高い電柱が何本も立っていますので、当初ゲリラを感知するための特殊装置か、と思っていましたが、どうやらカミナリを防御する、避雷針のようです。
下に並んでいるコンテナには、実弾がギッシリ詰まっています?・・・(*^。^*)です。
この部隊は、陸軍なのに船も持っていて、呉にある基地との間を行き来しています。
船種は小型上陸用舟艇(LCVP ビギンズ・ボート)だろうと思います。
手前の白い建物は、周りを土塁で囲まれ、入口はトンネル状になっていますので、かなりヤバイ感じ・・・(*^_^*)です。
弾薬庫敷地内で、最も大きな建物で長さが200m近くあります。
これらの建物は、大半が戦前に建てられていたようです。
秋月弾薬庫は街並みの向こう、小山の裏側になりますが、弾薬を格納している地下トンネル網の一部は、この家々の下にまで入り込んでいるとか?
アナ、おそろしやぁ~・・・(^_^;)です。
秋月の地名由来ともなった良港で、秋になれば近隣の船々が北風を避けて舫うため、秋に船が付く、から秋付、そして秋月と呼びます。
陸上交通の発達する前は、能美島の大君や大柿から広島宇品へ向かう中継港として賑わい、当時の秋月区民は呉市の川原石港や、広島宇品港へと買い物に出るのが普通でした。
また、日用品や、食品、衣料なども、番船(廻船)で市場から直接、秋月の商店に仕入れていました。
平成の始めまでは、良港として残っていたのですが、今は船よりもダントツ利用価値の高い、車の駐車場として埋め立てられ、かっての面影はまったくありません。
北にある新港(昭和初期の開港?)です。
すぐ隣が、米陸軍弾薬庫(旧海軍火薬庫)で、その関連施設として整備されたものが民間利用に変わりました。
花崗岩の石で造られた、船を舫う係船柱(ビット)が数本残っています。
長大なコンクリートの防波堤で囲まれた現在の秋月港です。
中央のスマートな船が、秋月港と呉港を約13分で結ぶ高速連絡船で、有限会社バンカー・サプライによって、平日11便が運航されます。
左の黒い船は小型タグボートで、主にカキ筏をひっぱて、定所に移動するのがお仕事です。
プレハブの待合所に張られた、未解決事件の手配書です。
湾の中央に、秋月港桟橋に付けようと、減速を始めた高速連絡船で、右手前の駐車場となっている部分が旧秋月港です。
海の向こうは、倉橋島音戸町で、右に見える小さな島が1億1万円で落札された、三ツ小島の北側小島です。
整備された良港に安心して憩う、小型タグボート・・・(*^。^*)です。
??? クジラを釣り上げるための、釣針でないのはわかりますが、はて???・・・(^_^;)です。
沖を走る船や、給油設備のない小さな港に停泊する船に、給油をして回る小型給油船です。
いつの頃からなのか、農道として、牛馬の通れる道はあったと思いますが、小用から秋月を経由して飛渡瀬へと続く道が県道(298号・299号)に指定されたのが、昭和44年5月です。
しかも、秋月から南に下がり、飛渡瀬へと結ぶ県道299号線のアスファルト舗装が完了したのは、じつに昭和45年12月です。
とくに主要地を結ぶ幹線道路ではありませんので、交通量も少なく、多目的三輪自転車も、のんびりと走ることができます。
農地の少ない秋月の中心部から、遠く離れ散在する農地に向かうには、最適な乗り物です。
行きは農業資材や道具を積み、帰りには収穫物のダイコンやジャガイモを満載することができます。
東は海、西は急斜面の山々が連なる秋月地区ですが、 土砂崩れでわずかに開けた谷筋に農地をもとめ、小石を積み上げて田畑が開墾されました。
遠望すれば、ペルーのマチュ・ピチュ遺跡にも見える、秋月中心部の家々が小さく雛段状に並びます。
沖には、何隻もの大型船が、荷降ろしの順番を待って停泊しています。
風が穏やかで、水深、底質の一定した秋月沖には、海上自衛隊の大型艦船もよく停泊します。
急傾斜の山裾には、戦時中に使用した、いくつもの防空壕跡が残っています。
近くで農作業中の古老の話では、この付近の防空壕には、航空燃料となるアルコールが多く保管されていて、戦後そのアルコール類を盗み出し、飲用した多くの若者が目をやられてしまい、大騒動になったとか・・・(^_^;)です。
今は、入口にりっぱな玄関用引き戸が付き、お百姓さんの農機具置き場として使用されています。
かって、雲母工場だった建物が売りに出されていました。
なぜ、この地に雲母を扱う工場があったのか不明ですが、戦時中、軍用品としての需要があったのでは???・・・(^_^;)です。
オーシャンビュー、桟橋と荷揚げ用のクレーンが付き、工場用の大型変圧器のある希少物件はいかがでしょか?・・・(*^。^*)です。
かって、小用、秋月間には、海沿いを行く道もあったろうと思いますが、明治の中期に秋月南部の、久村地区を海軍省に買収されたために、陸路は海軍火薬庫用地を大きく迂回する、山道だけとなりました。
小用から、しびれ峠を経由し、秋月へと向かう道は、海軍火薬庫の塀沿いに作られました。
当時から農道としての役割はありましたが、バス道路として拡張整備されたのは昭和35年10月です。
今、沿道を彩る、ソメイヨシノの大木は、バス道路の開通を祝って、当時の秋月婦人会が中心となり植樹されました。
ソメイヨシノは60年寿命説もあるくらい、短命な性質をもった桜であり、今まさに植栽から60年をむかえようとする老桜は、見た目にも痛々しい姿で立つものも多く、今後の管理育成が懸念されます。
道路脇の農地は、すべてがミカン畑だった時代もありますが、祖先の築いた段々畑を引き継ぐのは並の努力では無理なようで、年々夏草に覆われる畑が増えていきます。
県道298号線の、もっとも標高の高い位置に、しびれ峠があります。
しびれ峠の名が、いつの頃から言われたのかわかりませんが、景色の良さに心が感動し、シビレるから・・・(*^。^*)です。
古くは、この峠付近を「日本ノゾキ」とも、又、近くの山を「耳タレ山」とも呼んでいたようです。
しびれ峠から見た東の方向(呉市街)です。
ほぼ中央の小さな島が小麗女島(こうるめじま)、左の少し大きい島が大麗女島(おおうるめじま)です。
中央の山が休山(497m)です。
そのふもと、赤白のクレーンが立ち並ぶ場所には、戦前呉海軍工廠があり、戦艦大和が建造されました。
現在は石川島播磨重工業の呉造船所として、数十万トン級のタンカーや貨物船を建造しています。
花見の時期には、提灯が下げられ、道路脇のアスファルトにゴザが敷かれます。
わき見運転の車も多いので、十分気を付けて花見を楽しんでください。
じびれ峠を越え、その後も続く数十本の桜の枝下をくぐり抜けると、やがて、秋月の家々のいらかが光ります。