鷲部 いいとこ撮り 2/2

2)江田島町南部・鷲部地区 
東に山を背負う、江田島花崗閃緑岩地帯ですが、地表に花崗閃緑岩の岩肌を見ることはなく、稀にみる岩肌は、この地帯に岩脈となって入り込んだ、花崗斑岩です。

2012-09-18 002 040 
この付近の基盤となる、江田島花崗閃緑岩は風化が進み、おおかたが真砂土となっています。
そのため、耕作には適しますが、わずかの雨でも表土が剥ぎ取られ、それを防ぐための石垣は必要不可欠となりますし、当然、家々の土台にもお城のような石垣が築かれます。

2012-09-18 002 042 
真砂土と化した江田島花崗閃緑岩は、石垣とはなりませんが、その江田島花崗閃緑岩に大きな岩脈となって貫入た花崗斑岩が背骨のように、何本も背後の山々を貫き、地表にもあらわれています。
しかも、いい具合に風化が進み、適度な大きさにひび割れて山麓に転がっていいます。

古い時代の石垣は、おおかた、この花崗斑岩を拾い集めて積み上げたものです。
もちろん、他所から運んできた、石やコンクリートブロックなど、使えるものはなんでも・・・(^_^;)です。

2012-12-09 002 007 (800x600) 
(画像の左右20cm)
数百年、雨風にさらされていた、花崗斑岩の表面です。
この付近の花崗斑岩の特徴としては、長さが1cm以上はあろうかと思える長石の白い結晶ですが、地域によっては、違った表情を見せる花崗斑岩もあります。

また、おおかたが真砂土と化した、江田島花崗閃緑岩ですが、ときにコアストーンとして、玉ねぎ状の岩が残ることもあります。
梵字の刻まれた「えびすの岩」も、おそらくは江田島花崗閃緑岩のコアストーンだと思います。
 
2012-12-20 002 031 
民家すれすれに積み上げられた花崗斑岩の石垣です。

2012-12-20 002 052 
何段にも積み上げた石垣と、コンクリートの肥溜め、・・・
枯れずに残った数本の夏ミカンに黄色い実が生りますが、だれも・・・見向きもしません。


110323b 087 
屋敷の庭からこぼれ落ちるのは、石垣で暖められた、一足早いボケの花です。

110323b 127 
忘れられた畑の隅にも春は来ます。

110423b 038 
春の遠足
先生の後について、真っ直ぐに歩くんですよぉ~。
スポンサーサイト

鷲部 いいとこ撮り 1/2

2)江田島町南部・鷲部地区 
背後に連なる山々の稜線を境として、秋月地区とは東と西に分断されます。
鷲部地区の、土地斜面は西を向きますが、前面には、波静かな江田島湾が広がり、おだやかな気候に恵まれています。

その為か、北側に隣接する中央地区もふくめ、南方系の樹木、ホルトノキなども普通に自生しています。
 

1825芸藩通志 
鷲部地区の古い地名を画像の右下(南)から左へ紹介します。

石風呂 : 海岸の洞窟などを利用して作った、一種のサウナ風呂です。
約800年前、源平の争乱で焼失した、東大寺を再建するために木材を求て、周防国を訪れた、東大寺大勧進職の重源上人が、木材を運び出す、役夫の保養を目的に作った、「石風呂」が各地に広まりました。
江田島町宮ノ原には、今に石風呂の地名が残ります。

ヲトシ : 香川県女木島では、冬に山を越えて吹き下ろす西風や、その影響で発生する南からの強風を「オトシ」と呼びます。
当地のヲトシと、同じ意味なのかは不明ですが、場所柄、風を意味する地名では?と想像します。

アブノ鼻 : 東方に向かって、朝日を拝する土地を、アブ・アワ・アハ・アヲと呼ぶそうですが、鷲部のこの地は、西に夕日を拝するのに最適の地、ですので、???です。
ただ、単に昆虫のアブが多かった、からの地名かも???です。
ちなみに、「えびすの岩」と呼ばれ、梵字の刻まれた大岩があるのは、このアブノ鼻です。

迫田川 : 古地図にのこる川の名ですが、今は県道の下をヒューム管(コンクリート管)を通して江田島湾に注ぎます。
地図では確認できないくらいの、小さな小川ですが、流域には貴重な水を求めて作った山田の跡や、わずかなミカン畑が今も残っています。

鷲部 : 今も残る地名ですが、由来がわかりません。
土居氏が亀山城に入ったのちに、亀山城を鷲部城とも呼んだことから、土居氏の御先祖様に関係する名では?と、推測・・・(^_^;)です。

乙子ハヘ : 江田島図書館の沖あたりになりそうですが、埋め立てにより痕跡をとどめません。
京都上鴨神社では、乙子(おとね)神事とも言わる、平安時代からの祭事があります。
人々が春を待ちこがれて野原に出、若菜を摘み、春の到来を尊び宴遊した野辺遊びを神事化したものですが、当地の乙子ハへと通ずるかは?疑問です。
また、末っ子のことを乙子(おとご)とも言いますので、単に、先っちょの方にあるハエ(岩礁)ということかも・・・(^_^;)です。

江口 : 今も江ノ口(えのぐち)として地名が残ります。
古くは、亀山城を守るため、小さな入り江を利用した、舟隠し(港)があったと思われます。
今、当時の痕跡は皆無ですが、埋め立て地の脇に、コンクリートの波止を伸ばして、小舟が係留されています。

古城山 : 現在の亀山城ですが、江戸時代には、すでに城はなく、1825年の地図では古城山と記されています。

2012-12-01 002 038 (800x598) 
鷲部地区の最南部には、江田島自動車学校があります。 

昭和41年創業、昭和43年に公安委員会からの指定を受け、以来40年以上の歴史を持つ自動車学校です。

戦後生まれの江田島市民は、ほぼ全員?、この学校の卒業生かも・・・(*^_^*)です。
ちなみに、普通車MTで、295.800円(2013.1.21)です。


2012-10-19 002 088 
昔は、多くの人でごった返し、順番待ちをした記憶があるのですが、・・・

今なら貸し切りでゲームができそうです。
ただし、解体更地渡しで16.880万円、先着順みたい・・・(^_^;)です。

2012-12-01 002 065 (800x601) 
鷲部2丁目にある、江田島市消防本部江田島消防署・・・(*^。^*)です。
能美町鹿川には能美出張所があり、全職員65名で江田島市4町の警防、救急の責務を負います。

消防署職員65名の他にも、各地区ごとに消防団が組織され、平成21年4月現在で4方面隊16分団、消防団員定数614名のところを、533名の精鋭をもって、地域の防災に対処しています。

 

内訳は、江田島支部消防団本部(9名)


第一 方面隊(227名)

中央第1分団 (中郷)・(向側)

中央第2分団 (矢ノ浦)・(山田)

分団 (鷲部)・(江

東分団 (秋月)・(小用)

北分団 (切串)・(大幸)

西分団 (津久茂)・(宮ノ原)

 

第二 方面隊(82名)

鹿川分団

中町分団

高田分団

 

第三 方面隊(78名)

沖分団

三高分団

 

第四 方面隊(137名)

深江分団

大古分団

大君分団

柿浦分団

飛渡瀬分団・・・(*^。^*)です。

各分団にはそれぞれ消防車や応急機材が配備され、地域防災無線による緊急呼び出しに即応します。


2012-12-20 002 004  
埋め立て地の脇に、江ノ口港です。

2012-12-20 002 029 
正面に江ノ口港と江田島湾、右の埋め立て地は元鷲部小学校のグラウンドです。

111025 051 
亀山城の北側に伸びる、花崗斑岩の岩脈です。

江田島市の基盤をなすのは、呉花崗岩ですが、沖美町南部から能美町鹿川、大柿町の大原、深江を含む鹿川湾は、音戸花崗閃緑岩、そして江田島湾と鷲部一帯は江田島花崗閃緑岩と呼ばれる、呉花崗岩よりも古い時代の花崗岩があらわれています。

呉花崗岩よりも風化が進み、真砂土となって鹿川湾や、江田島湾を埋めていますが、後の時代に、これらの花崗閃緑岩に貫入した花崗斑岩の岩脈が、小島や岬、山の尾根となり残っています。

亀山城自体も花崗斑岩の岩脈が残ったものですし、その延長と思われる岩脈が民家の脇を堤防のように伸びています。
この付近の埋め立てが始まる遠い昔、この岩脈を利用した強固な舟隠し(港)があり、さらに背後の山々から切り出した木材で作った軍船が、この亀山城のかなめだったろうと?、想像・・・(*^。^*)です。

2012-10-07 002 004 
戦時中に急増された海軍宿舎用地に、戦後作られた海上自衛隊の鉄筋コンクリート官舎が並びます。
江ノ口官舎または鷲部官舎と呼ばれます。 

2012-12-29 003 022 
昭和十七年八月八日ソロモン空戦に於いて戦死・・・と。

ソロモン戦とは・・・

ガダルカナル島の攻防を巡る戦いです。
ガタルカナル島に飛行場を建設中だった日本軍に対し、1942年8月7日、米軍の強行上陸が成功し、完成間近の飛行場とすべての機材を奪取されました。
再び飛行場を奪還しようとする日本軍は、数度にわたる決死の揚陸作戦で、多くの兵員を送り込むことには成功しましたが、米軍の執拗な攻撃に阻まれ、食料弾薬をはじめ、必要とする多くの物資を陸揚げすることができませんでした。
翌年2月1日からの撤退作戦が行われるまでの間、一切の食料補給を絶たれた日本軍兵士は、ガタルカナルのジャングルをさまよい、空前絶後の地獄を見ることになりました。

 

ガダルカナル島に上陸した日本軍の総兵力は31.404名、うち撤退できたものは10.652名、それ以前に負傷・後送された者は740名です。

死者・行方不明者のうち、直接の戦闘での戦死者は約5.000名、残り約15.000名は餓死と戦病死だったと推定されています。

 

以上は、陸上での戦いですが、海上においても第一次から三次までのソロモン海戦があり、ミッドウェー海戦に続く、艦船、航空機、搭乗員の多大な消耗は、第二次世界大戦の完全なる転換点であると言われます。

ちなみに、戦没者を祀るお墓は、一般に見る墓石よりも細長く、頂部が尖った特別の形をしています。

これは・・・

国難に殉じた御霊を英霊(軍神)として祭るためで、当時仏教よりも上位とされた、神道にもとづく墓です。

 

神道の墓とは・・・

以下、ウィキペディアからのコピペです。

 

基本的な構成は、仏式と同じであるが、神道では焼香を行わないので、香炉は要らない。

また玉串を奉げる為の八足台が要る。

墓石の形は、細長い角柱型で、頂上部は四角錐になっている。

この形は三種の神器の一つ天叢雲剣を表しているとされる。

 

墓石には「○○家奥都城」或いは「○○家奥津城」と刻む。

墓石がない場合は墓標に「○○大人(刀自)命奥都城」と書く。

神道では戒名はなく、姓名の下に、之霊・命・命霊・霊位などを付ける。

 

日本軍人の墓は神道墓で建てられていることが多い。

     二拝二拍手一拝 ・・・ m(__)mです。

鷲部 江田島図書館

2)江田島町南部・江田島図書館 
明治7年、鷲部土居邸に創立した浸潤舎は、明治9年、鷲部小学校と改名し、明治11年にこの地に移転しました。

昭和39年には創立90周年の記念式典を執り行いましたが、児童減少にともない、昭和43年4月に江田島、鷲部、江南の3小学校が統合され、100年の歴史にピリオドを打って、新たに江田島小学校として、中央地区に再建されました。

その後、平成3年6月に、江田島町立図書館が開館、のちに4町合併による、江田島市への移行により、市立江田島図書館となりました。


2012-12-20 002 001 
鷲部公民館と、共用の入口となっています。

2012-12-20 002 002 
もと、鷲部小学校跡地に建つ、江田島図書館です。

明治期、久枝与三吉翁の所蔵書物寄贈に始まる、多くの貴重な書物も、収蔵場所が定まらずに転変としていましたが、平成に入り、やっと、この図書館に安住の地を見つけ、収まることができました。 

2012-12-20 002 006 
もと、鷲部小学校に有ったと思われる、「忠孝」の碑です。

2012-12-20 002 010 
図書館の中庭に、風に飛ばされた張り紙を拾ってみますと・・・

へぇ~~~。
ロックシンガーの浜田省吾さんって、鷲部小学校に通ていた・・・

2012-12-20 002 009 
同じく、風で飛ばされていた、額を拾って見ると・・・
在りし日の、鷲部小学校の写真です。

2012-12-20 002 012 
浜田省吾さん、江田島を再訪されたみたいです。

ウィキペディアより
浜田省吾 1952年(昭和27年)12月29日生まれ 職業シンガーソングライター 愛称ハマショー

はぁ~~~・・・・
昭和は、遠く、とおく、なりにけり・・・(*^_^*)です。

鷲部 亀山城

2)江田島町南部・鷲部・亀山 
亀山城、あるいは鷲部城とも呼ばれます。

1346年(貞和2年4月)四国松山の河野氏一族である、秀清、通重兄弟が北上し、兄秀清は能美島の松尾山に、弟秀清が当地江田島の亀山城に入り、名を久枝忠三通重と称しました。


2012-12-27 002 008 
中央のこんもりした小山が亀山城跡です。

今は、海岸線が埋め立てられていますが、古くは江田島湾に突き出た半島のような地形で半島の根には江ノ口と呼ばれる自然の良港もありました。

竹藪に覆われ、全貌はわかりづらいのですが、三方を急傾斜に守られ、本丸と思われる高台と、それに続く二の丸、周りには空堀が掘られ、規模は小さいのですが実戦的な機能を備えています。
 

2012-12-20 002 014  
室町末期の1570年(元亀元年)まで城主を務めた久枝氏ですが、名を吉原と改めて下城し、亀山城を土居氏にゆだねました。

2012-12-20 002 016 
久枝氏の跡を継いだ土居氏は、亀山城主として、江田島湾を出入りする船の取り締まりにあたり、下城した吉原氏(久枝氏)は、本浦(中央)に住み、明治初年まで、代々庄屋として善政をしきました。

今に残る土居家の長屋門は、亀山城を背負って南面を向き、300年の風雪を耐えてきましたが、今まさに朽ち果てる寸前となっています。


2012-12-20 002 020 
重厚な門扉も、虫食いで無数の穴が開き、工匠が打ち出した飾り釘はさびで覆われています。

100607 172 
この長屋門には、左右に男部屋、女部屋があり、明治7年創設の鷲部小学校の前身、浸潤舎は、この長屋門を教室に当てました。

2012-10-07 002 012 
積まれた石垣には、割石を作るために打ち込んだ、くさびの跡が等間隔に残っています。

2012-10-07 002 007 
亀山城本丸跡は、樹木が鬱蒼として近づけませんが、その下の二の丸跡に残る、土居氏一族のお墓です。

2012-12-20 002 025 
かって、お屋敷のあった部分はすでに竹林となり、最後まで残った長屋門の屋根にも歪みが見えます。
なお、この亀山には黄金伝説も残っています・・・(*^_^*)です。

鷲部 県道44号線

2)江田島町南部・県道44(鷲部・中央) 
島内道路の、ほとんどに共通することではありますが、とくに、この付近の山々は大きく海にせり出していますので、波打ち際とのほんのわずかな隙間に、石やコンクリとを築いて道路を通しています。

2012-12-01 002 063 
県道44号線を北上すると、右側は風化して崩れやすい花崗岩の崖、左側、道路のすぐ下には波が打ち寄せ、最大4mの潮の満ち干がある砂浜には、カキヒビの杭が整然と並びます。 

2012-12-01 002 052 (800x601)  
アップダウンが少なく、道幅が広く改装されたこの付近は、サイクリングには最適の場所で、島外からも沢山のサイクリングツーリストが訪れています。

ちなみに、最後部を疾走?しているのは、地元の70代の小父さんで、飛渡瀬の大型スーパーで買ったお惣菜を、ママチャリの前かごに乗せ、全力でペタルを回します。

おま~ら、わかいもんにゃ、まだまだ、負けるわけにゃ~いかねぇ~ぜ、って・・・(*^。^*)です。

2012-12-01 002 049 (800x600) 
花崗岩の石を、積んで作った小さな防波堤です。
今は、まったく使われることもなく、台風が来るたびに、1つ、2つと積み石が転げ落ちています。

おそらく、この付近に道路ができる前、田んぼや、畑に施す肥料を運んだり、わずかな谷水を集めて作った稲や、段々畑のみかんを積んで集落まで運ぶ、農船の溜り場だったんじゃないかと?、推測・・・(^_^;)です。

2012-12-01 002 043 (800x584) 
カキの幼貝を育成するための、カキヒビです。

2012-12-09 002 034 (800x589) 
カキヒビは、満潮時には海面下となる、浅瀬に杭を打ち、竹竿を結んで、井桁をつくります。
そこへ、ホタテの貝殻に針金を通して、ネックレス状?になったものをぶら下げます。

かっては、海中を浮遊するカキの幼生を、付着させるために使われていましたが、近年の養殖技術の進歩により、幼生の付着(採苗または種付け)は、別の管理された場所で、計画的に行われます。

今はカキの幼貝に、風や陽光を当てたり、潮の干満を経験させることなどで、抵抗力のある強健なカキを育てるため、または成長を抑え、出荷時期を調整するため、などの目的で使用されます。

2012-12-01 002 057 (800x600) 
古くより、「えびすの岩」と呼ばれる、梵字の刻まれた、花崗岩の大岩です。

北上する県道の右側、かっては岬の先端部で、強い北風が吹けば、波しぶきが飛んでくるような位置にあったろうと思いますが、いまは県道の護岸にまもられ、焼き肉店駐車場の奥に鎮座します。

キリーク 

薬研彫りで刻まれた、この梵字は、キリークと呼ばれ、阿弥陀を表すことから、磨崖仏の簡略画にあたります。

 

梵字とは古代インドの文字で、遣隋使のころに中国経由で日本に伝わりました。

日本へ伝った梵字は悉曇(しったん)と呼ばれ、密教の教理と密接なかかわりを持ち、弘法大師空海により、文字で、ほとけのさとりあらわすことができる、と説かれました。

 

推定では室町時代の作と言われ、「えびすの岩」と呼ばれることから、海の幸を求める、海部族による信仰があったといわれます。

2012-12-01 002 060 
鷲部から中央にかけての県道44号線は、この十年間、飽きることなく、掘ったり埋めたり、を繰り返しています。

まず、下水管を埋めるのに片方の車線を掘ったり埋めたりで3年間、次に反対車線を同じように3年間、やっと下水管が終わったと思ったら、次は水道管を掘ったり埋めたりで、3年間、またまた、反対車線を堀り始めているようですし、まだまだ先は、なが~~~くなりそう・・・(^_^;)です。

画像は掘り出された水道管です。
材質は鋳鉄?のようですが、たしかにひどく老朽化しています。
 

2012-12-01 002 064 
たぶん、新規の水道管だと思います。
今は、プラスチックで、大丈夫なんだぁ~~~。 

鷲部 農道

2)江田島町南部・鷲部・中央農道 
農道廻りには人家も多く、生活道路として頻繁に車が行きかいます。

2012-12-03 002 026 
数年前までは、山の頂まで、みかん、ミカン、蜜柑、でした。

晩秋の、からっ風が木々の隙間を、ひゅ~~、ひゅうひゅ~~・・・と。


陽光で温まった石垣を背にすれば、一つ一つの石が風の音を反射し、遠くに人の話し声が聞こえてきます。

 

 

おうよ。

のつんぼ~が、げんきやっちょるかいのぉ。

 

おうおう。

の~たれぇが、なが~こと、みんかったのぉ~

こね~なとこさぁ来て、だれがぁ、いがてからぁ~おもぉ~て、たまげこくったがやぁ~

 

ばかたれ~が。

われも、ちゅうがくんときの、こずらげぇな顔つきが、こね~なやわろぉなっとるで。

 

やちのぉ~

ここんとこ、おとなしゅうしとるげなが、われのわるさ~しらんやつらぁ、このしまにゃあ、おらんちゅ~じゃに。

 

まぁ、やげろぉしかぁ~話は、今度のおりせに、同窓会やるっちゅうけえ、そんときにおいといてのぉ~

わがたぁ~らぁ、みかんどがんすっとやぁ~

 

おう、おう、わがたぁ~とこの畑も、お~かた、みかんがうわっちょるげなのぉ~

こまったもんでよぉ~

 

じつぁのぉ~、そげなことで、われを探してきたじゃがのぉ~

わしらぁ、組合の元気な衆集めて、うつらかしちゃろ~おもぉ~てのぉ~

まぁ~、わしらがほざいたかて、んならぁ~、どがぁ~もこがぁ~もじゃろうが、こがなことでもせにゃ~、腹の虫がもてんがじゃけぇ~なぁ~

ほいでのぉ~

われも、こっちのほうの組合じゃあ、ごおぎなもんじゃげなでのぉ~

 

ほ~かいや、どだい、おおげなことになりよるのぉ~

わしらじゃけて~の~、むなくそがわる~うて、みんな衆で、むしゃんこうゆうとるが、どがいも、もってきばがなぁ~でのぉ・・・

わりゃ~なんぞ、つてがあるんかい。


 

おや、おや・・・

小春日和の石垣に背もたれていたら、うとうとと、・・・夢の世界をさまよってきました。

 

注記 夢で見た?会話の中に、江田島方言を多く取り入れたつもりですが、中には関西弁や土佐、肥後弁なども入り込んでいるかも?・・・m(__)mです。


江田島市の方言は、大きくは旧佐伯郡の能美島と、安芸郡の江田島に二分されるかと、思いますが、実はもっともっと局所的で、小さな岬を一つを越えた、浦々で大きく違っています。


しかも、お互いに、「○○のやつら、言葉があろう~てのぉ~・・・」って、・・・
(^_^;)です。


旧町史などにも、方言を集めた記載がありますし、島内にも個人的趣味で集めておられる方もいます。

深入りを始めたら、抜けられなくなりそうですので、早々に・・・(*^^*)です。

 

110323b 108 
鷲部地区では、ハッサクや夏ミカンも多く植わっています。

・・・江田島町のミカン栽培・・・


古く、中国浙江省から、熊本県八代市に小ミカンが伝り、高田みかんとして大切に栽培されていましたが、16世紀のころ、和歌山県有田に移植され、キシュウミカンと名付けられて、大量に生産されました。

また、ウンシュウミカンは紀元1500年ごろの、鹿児島県出水郡長島町が原生地といわれ、中国から伝わった柑橘の中から突然変異したとされます。

親は明らかではありませんが、近年のゲノム解析の結果では、クネンボと構造が似るそうです。

当初は長島密柑と呼ばれ、まったく人気がありませんでしたが、江戸時代後期から徐々にキシュウミカンにとって代わり、明治後期には各地で栽培が盛んとなって、名前も新たにウンシュウ(温州)ミカンと呼ばれるようになりました。

1619(元和5年) 津久茂村のミカンを藩主に献上(山野井文書)

1819(文政2年) 津久茂村の産物「ミカン・ダイダイ・リンゴ・ビワ」(芸藩通志)

1887(明治20年)切串に山口県萩よりダイダイ伝わる。

1892(明治25年)切串・鷲部にダイダイの苗が大量入荷

1900(明治33年)中郷奥小路(現、中央)に兵庫県伊丹よりウンシュウミカンの苗を移入

1920(大正9年)御殿山(現、中央)のネーブル畑を、海軍が接収


戦時中は、多くのミカン畑が食料増産政策のために、イモやムギ、キビやソバ畑に強制転換されました。

(1943年6月4日)「食糧増産応急対策要綱」閣議決定

(1945年8月15日)三国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾・終戦


1952(昭和27年)愛媛県温泉郡に柑橘視察派遣

1957(昭和32年)宮ノ原で柑橘技術指導講習会・小用柑橘組合結成

1960(昭和35年)農林漁業地域の指定を受ける。

1961(昭和36年)この年、町内に移植された柑橘類の苗木6万2000本

1963(昭和38年)異常寒波襲来

1965(昭和40年)宮ノ原に柑橘選果場が新築落成

1966(昭和41年)大干ばつ

1971(昭和46年)江田島観光みかん組合結成

1972(昭和47年)グレープフルーツの輸入自由化

1978(昭和53年)江田島大規模林野火災

1981(昭和56年)異常寒波襲来・被害果樹園緊急対策が講じられる。

1991(平成3年)オレンジの輸入自由化

1992(平成4年)オレンジジュースの輸入自由化


2012-09-18 002 043 
この辺りには、立派な棚田が何段も重なっていました。
傾斜の緩い土地は、石垣を積んで水平にならし、ため池を作って水を引きます。
いま、・・・ため池には土が盛られ、車が何台も止められています。
 

2012-08-20 002 046 
斜面に点在する、いらかの向こうに、穏やかな江田島湾です。

2012-09-18 002 046 
農道のアスファルトにこぼれ落ちた、イチジク科のツル性樹木、イタビカズラです。
ちっちゃい実ですが、甘酸っぱくって、とてもおいしい野生の果実です。
 

子供のころ、親父に連れられ、風呂焚き用の薪を集めに、裏山に登りました。

「おい、これを食べてみろ」って、指さされましたが、始めて見るものだし、なかなか食べる気になれずに、うじうじしていた自分が・・・(^_^;)です。


当時は、必要に迫られてではありますが、親の仕事を手伝い、多くのことを直接、親から学んだ気がします。

だからでしょう。 学校には遊ぶために行っていました・・・(*^^*)です。

あっ
イタビカズラの仲間には、雄樹雌樹とがあって、雄樹も外見は同じような実が付きますが、此方はまずくて食べることはできません。
しかも、雄樹は普通に見ますが、雌樹は私の知る限り、島内にこの一本だけです。


110323b 110 (800x599) 
お百姓さんが、畑を耕すまでの数日、イヌフグリさんとホトケノザさんが世間話で盛り上がっていました。

111204b 034 
お鉢山の上に乗る、ゴハン雲?

110323b 101 
農道に、春を告げる水仙の花が香ります。

鷲部 鷲部林道

2)江田島町南部・秋月林道・鷲部林道A 
鷲部から、秋月へ抜けるクルマデ峠を経由し、中央地区の小用峠まで続く林道です。

2012-10-31 003 025 
山の稜線よりも、少し下に下がった部分を通りますので、視界はあまりよろしくないのですが、・・・ 。

黄色い花はツワブキ、左の竹林はハチクです。
ハチクとマダケはそっくりで、見分けるのが難しいのですが、タケノコの皮を見れば簡単に識別できます。
ハチクの皮は茶褐色の単色ですが、マダケの皮には黒い雲文(豹文)が目立ちます。

2012-10-31 003 030 
雑木に覆われた林道は、涼しい風が吹き抜けます。

2012-10-31 003 022 
木々の隙間に、波静かな江田島湾が広がります。

対岸の岬は能美町の松ヶ鼻、その向こうには江田島市最高峰の野登呂山(542.0m)です。
この野登呂山頂上には、一等三角点と天測点があります。

一等三角点は、全国で974ヶ所、広島県内では17点がありますが、天測点があるのは、広島県内で江田島市の野登呂山のみで、全国でも48ヶ所しかありません。

2012-11-14 002 021 (800x600) 
紅葉する鷲部林道・・・(*^。^*)です。

当地は、気候温暖、昼夜の気温変化も少ないせいか、きれいな色の紅葉樹にあまり恵まれていません。
ただ、年や場所によっては驚くほど鮮烈な赤い葉っぱ(ハゼノキ・カエデ)や、透き通るような黄色い葉っぱ(コシアブラ・コブシ)を見ます。

画像中の赤い葉っぱは、ハゼノキです。
もとは、南方系(沖縄)の植物ですが、江戸時代に木蝋を採取するために栽培が奨励され、瀬戸の温暖な気候に合って自然繁殖域を広げています。
 

2012-09-30 002 061 
ハリエンジュの小道?・・・(*^_^*)です。

ニセアカシアとも呼ばれる、マメ科の樹木で1873年に北米より渡来し、街路樹、公園樹、砂防・土止めに植栽されます。

子供のころ、学校でニワトリを飼っていて、飼育当番への申し次に、トウモロコシや、米ぬかの他にも、小道に生える緑の葉っぱを採ってきて、包丁で小さく刻んで与えるようにって・・・。

「うっとおしいなぁ~」って、校舎の周りを見回したら、ハリエンジュの枝に小さな緑の葉っぱがいっぱい・・・。
たぶん毒はないだろうって、それに小さな葉っぱだから、包丁で刻まなくっても・・・。

で、エサ箱に投げ込んでいるところを先生に見つかり、「チェッ」また、校長室にでも立たされるれるのかなぁ~って、覚悟をきめたとき、「ほぉ~、おまえ、思ったよりもかしこいなぁ~」って・・・。

他に、先生に褒められた記憶がありません・・・(^_^;)です。

2012-10-31 003 033 
その後、次の飼育当番が回ってくる前に、ニワトリはいなくなったように記憶しますが?、まさかハリエンジュのはっぱ、毒じゃないですよねぇ~。

晩秋、林道脇の土手にフユイチゴが鈴なりです。
人が食べても安全・・・(*^。^*)です。
カレンダー
12 | 2013/01 | 02
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
検索フォーム
カテゴリ
リンク
最新記事
月別アーカイブ
プロフィール

わきです

Author:わきです
FC2ブログへようこそ!