中央 矢野玄鎮の五輪塔

2)江田島町南部・矢野氏五輪塔 
中央地区、矢ノ浦の地名は安芸郡矢野(現 広島市安芸区矢野・・・)から移住した武者、矢野玄鎮と呼ばれた弓の名手に由来すると云われます。

 

そもそも、江田島とその対岸に位置する、矢野、坂、吉浦との交流は深く、古く平安期の頃には、安芸国安芸郡11郷で同じ安芸郡内にあり、源順が記した「和名類聚抄」には、安芸(府中)・船木(荘山田)・養隈(矢野)・安満(江田島)・駅屋(仁保?)・宋山(中野)・漢辨(可部)・彌理(三入)・河内(小河内)・田門(三川)・播良(東野?)が読めます。

 

また、明治22年、市町村制施行当時の安芸郡には1町29村が属していました。

海田市町(かいたいちまち)・牛田村(うしたむら)・江田島村(えたじまむら)・大屋村(おおやむら)・奥海田村(おくかいたむら)・蒲刈島村(かまがりじまむら)・上瀬野村(かみせのむら)・熊野村(くまのむら)・倉橋島村(くらはしじまむら)・警固屋村(けごやむら)・坂村(さかむら)・下瀬野村(しもせのむら)・瀬戸島村(せとじまむら)・荘山田村(そうやまだむら)・渡子島村(とのこしまむら)・中野村(なかのむら)・中山村(なかやまむら)・仁保島村(にほしまむら)・温品村(ぬくしなむら)・畑賀村(はたかむら)・府中村(ふちゅうむら)・船越村(ふなこしむら)・戸坂村(へさかむら)・本庄村(ほんじょうむら)・宮原村(みやはらむら)・矢賀村(やがむら)・焼山村(やけやまむら)・矢野村(やのむら)・吉浦村(よしうらむら)・和庄村(わしょうむら)・・・(*^_^*)です。

 

2004年11月、江田島町と佐伯郡大柿・沖美・能美各町が合併して江田島市が成立するまで江田島町は安芸郡に属し、大柿町・沖美町・能美町は佐伯郡に属していました。

 

ちなみに、和名類聚抄(平安中期 931年~938年)記載の佐伯郡には、養我、種箆、緑井、若佐、伊福、桑原、海、替濃、建管、駅家、大町、土茂、の12郷が読めます。


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安芸矢野の豪族で弓の名手と云われた矢野玄鎮氏の五輪塔と矢野家ご先祖様のお墓です。

矢野玄鎮氏とその縁者とされる五輪塔はかって、矢之浦鼻と呼ばれる小高い丘の上、老松の下にあったとされますが、昭和15年ごろからの海軍兵学校拡張工事で丘の土石が削り取られ、当地に移転しました。

元は3基の五輪塔だったと云われますが、悠久の時をへて、痩せ細った2基が僅かに原型を保っています。
この五輪塔を建立した時期は不明ですが、矢野氏がこの地に居を構えたのは永正(1504~1520年)の頃、戦国真っ只中の時代です。

今は、墓前に手向けられた蜜柑が、冬の寂光を浴びて黄色く浮き上がります。

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五輪塔のある丘から北の方を見れば、青い屋根の八幡神社が、さらにその先には教法寺の伽藍が・・・(*^_^*)です。

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削り取られた矢之浦鼻の丘の下、その土石で埋め立てた地に、江田島小学校の新校舎が建ちました。

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蜜柑畑のげし(土手)に咲く菜の花が数輪、風に揺れて見送ってくれました。
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中央 久枝家の五輪塔

2)江田島町南部・中央・五輪の塔 
観音堂の裏から切通しの道に下り、海側へ十数メートル進めば、亀山城主だった久枝家七代の五輪塔が整然と並びます。 

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初代忠三通重(1356年没)から七代重安こと吉原与三兵衛(1593年?没)まで、37基の五輪塔と多くの墓石が建ちます。

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元は寺山(現教法寺)と呼ばれる地にありましたが、昭和18年ごろ中郷、宮ノ原間の道路工事のため、現在地に移されました。

しばらくは粗末な石段の上で苔むしていましたが、近年になり整備されました。


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五輪塔は、インドの五大思想を取り入れ、密教の教えとしてアレンジしたものの一つで、平安時代末期の頃から供養塔、供養墓として使われました。

 

基本構造は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形=空輪(くうりん)によって構成されます。


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大きさや形、石質にも時代による違いがあります。

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教育委員会による解説文です。

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春には丘の上に咲く桜の花が風に舞い、ヒラリ、またヒラリと五輪の肩に乗ります。

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立ち並ぶ五輪塔の背後にある山道は、古鷹山頂へと通じる登山道です。

中央 観音堂

2)江田島町南部・中央・観音堂 
中央地区のすべてが見渡せる小山の上に、長年の風雨に蝕まれながらも、重い瓦屋根をやっとの力で支えて今に建つ、小さな観音堂があります。

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地盤が緩み、水平を保つことができなくなった、小さな石段をのぼります。

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かって、境内には何本もの松の大木があったと言われますが・・・

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観音堂の正面には「東栄山」の山号額が掲げられています。

久枝家の古記録では、今の教法寺のある寺山に、東栄山洞仙寺があったとされますが、初代忠三道重が来島した1346年にはすでに廃寺となっていました。
亀山城主時代の久枝家は、七代にわたり、この寺山に墳墓を構えていました。

この観音堂は、久枝氏が亀山を下城し、吉原と改名した30年後の慶長5年(1600年)、久枝家八代にあたる吉原次郎左衛門重宗が、東栄山洞仙寺の御本尊であった、十一面千手観音を安置建立しました。
のち、この地を吉原家の墳墓としたことから、祖先の埋葬地である「東栄山」の山号額を掲げたのだろうと?・・・(^_^;)推測です。


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お堂の内部を、ガラス戸越しに写して見ました。
白く靄ってはっきりしませんが、これは、カメラを向けるなってこと・・ ・m(__)m です。

ちなみに、堂内に安置されている十一面千手観音立像は、鎌倉時代の作で桧の一木造り、高さ102cmであると云われます。 

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小鳥が落とした種から芽生えただろう、クロガネモチが大きく育ち、屋根瓦に当たる日差しを和らげます。

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お堂の裏手には、久枝氏、吉原氏、と刻まれた古い墓石が並びます。

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「文化七庚午八月十九日」と読めます。 

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観音堂の裏道は切通しとなり、石を端正に積んで補強されています。

中央 応谷山教法寺

2)江田島町南部・中央・教法寺 
中央地区と呼ばれるこの地は、かって中郷、向側、矢ノ浦、山田と呼ばれる集落に分かれていましたが、平成6年から9年にかけての江田島町新住居表示により、「中央」と一括されることになりました。
また、広く海岸を占有し、現在「国有無番地」と呼ばれる、海上自衛隊第一術科学校の敷地は、本浦と呼ばれる大きな干拓地でした。

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古鷹山山麓、旧海軍兵学校を見下ろす地に、浄土真宗本願寺派応谷山教法寺です。

応谷山教法寺は、寛永12年(1635年)に、初代延宋が矢ノ浦の地に応谷山と称して開山したのが始まりです。

その後、現在地から南西に400mばかり下がった位置、(現在は海上自衛隊第一術科学校敷地内)にあって、広大な境内には、明治15年に完成したばかりの、五百人は収容できるといわれる大本堂を有しました。
ところが、建立4年後の明治19年、突然の海軍兵学校江田島移転によって、立ち退きをせまられ、海軍省からの通知後わずか25日間ですべての伽藍を解体し、更地として開け渡すことになりました。


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急遽移転先に選ばれたのは、古鷹山の山麓、寺山と呼ばれる東栄山洞仙寺の跡地です。
狭い土地を広く削り、解体後野積みとなっていた部材を集め、2年半の歳月を労して、やっと大伽藍の移築建立を終えました。


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本堂正面の柱に五色の旗が結ばれています。
 

これは旧仏旗と呼ばれる、緑・黄・赤・白・紫(黒)の五色で中国の陰陽五行説からきているといわれます。

 

古来、仏旗は仏教を象徴する旗であって、「六色仏旗」「六金色旗」と呼ばれ、国や宗派により様々な形式の旗が用いられていましたが、1950年スリランカでの第一回世界仏教徒会議で正式に「国際仏旗」として採択された色は、青・黄・赤・白・樺の五色を使用し、教法寺で掲げられているものとは少し違いますが、その意図することは同じで、お釈迦さまの教えを守り、仏の道を歩む旗印です。

 

新規に制定された国際仏旗は、左から青、黄、赤、白、橙、そして一番右の列には五色を上から順番に並べた縞模様となっており、それらの色にはそれぞれ意味が込められています。

※ 青は仏陀の頭髪の色で、「定根」をあらわす。

※ 黄は仏陀の身体の色で、「金剛」をあらわす。

※ 赤は仏陀の血液の色で、「精進」をあらわす。

※ 白は仏陀の歯の色で、「清浄」をあらわす。

※ 樺(橙)は仏陀の袈裟の色で、「忍辱」をあらわす。

※ 残りの一色は「輝き」をあらわし、旗の六列目には独自の色は配されず、他の五色を上から順に並べた縞模様で表現されます。


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梵鐘は享保5年(1720年)の銘が入ったものでしたが戦時供出に遭い、戦後の昭和24年、新たに鋳造されました。

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鐘楼は弘化2年(1845年)に建立されたものが移築され、今に残ります。

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鐘楼の鬼瓦です。
まだ、新しい感じがしますので、昭和46年の本堂、鐘楼屋根の葺き替えが行なわれた際に取り換えられたのかも?・・・(*^。^*)です。

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秋の小春日和に揺らぐ教法寺全景です。

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古鷹山の山裾に、大伽藍の甍が光ります。

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境内には、古鷹の山から浸みだした清水が湧きます 。

中央 江田島八幡神社 2/2

浜本氏作成(昭和10年ごろ)a  
この地図は、山田在住の浜本達治氏が「昭和10年頃 矢ノ浦区概略図」として回想、製作されたものの部分図です。

今もそのまま残っているのは、八幡神社とその石段くらいです。
当時の神田川は、まっすぐに江田島湾へと注ぎ、川辺りには商家が整然と建ち並んでいたようです。
八幡神社の参道も埋め立て地をまっすぐに伸びて、沖の岸壁まで続いています。

この数年後には、埋め立て事業の障害となる神田川は、流路を大きく左へと曲げられます。
さらに付近の岬や小山を削り取った土石で、沖に浮かぶオカノイソ、オキノイソと呼ばれる岩礁をのみ込んで広大な干拓が行なわれましたが、そのすべてが海軍軍用地として、ときの政府に接収されました。


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元は古鷹山の山頂にあった古鷹神社ですが、幾多の遍歴のあと、平成18年江田島八幡神社の境内に再建されました。

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古鷹神社(古鷹大明神・鷹宮大明神・大鷹・雄鷹・古雄鷹の宮・鷹神社)の由緒書です。

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金光稲荷神社です。
昭和51年京都伏見稲荷大社の御分霊を鎮祭しました。

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八幡神社へと向かう裏参道に消防車が・・・

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もしや、一大スクープ画像が・・・

この日は1月25日、明日1月26日の文化財防火デー本番訓練にむけての、さらなる事前訓練中・・・(^_^;)でした。
寒風の中での水仕事、・・・皆さま、ご苦労様です。


ミミズバイA (800x598) 
鎮守の森に残るミミズバイです。
過去には、もっと豊富な植生があったろうと思いますが、周りを車道として削り取られ、防災工事と称して山肌をコンクリートで塗り固め、植樹と称して勝手な木々を植え込み、・・・(^_^;)です。


イズセンリョウB (800x601) 
樹下の暗闇に、イズセンリョウの白い実が・・・

オガタマノキA (800x600) 
植樹されたオガタマノキ(招霊木)が大きく茂り、社務所の屋根に白い花弁を落とします。

中央 江田島八幡神社 1/2

1)江田島町北部・江田島八幡神社 
江田島町の中心部として、古くから人々の集まった地であり、八幡神社境内や裏山などから、平安末期ごろと思われる土器類が発見されています。 

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大鳥居をくぐり、急峻な百八つの石段を登り切った先に、五本の鰹木と両端に千木を乗せた八幡神社の拝殿が あります。

拝殿の千木先端部は垂直に切ってあり、外削ぎと呼ばれ男神を祀る社殿に用いられます。
ちなみに、水平に切ったものは内削ぎと呼び、女神を祀る社殿とされます。
また、千木からさらに外側に飛び出した、棟木のような材は鳥ふすまと呼ばれます。
 

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千木が外削ぎである江田島八幡様は、応神天皇を主祭神とし、厳島明神、熊野権現が奉祀されています。
建立時期は不明ですが、元和2年(1616年)丙辰2月6日再興と記された棟札が残されています。


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今の拝殿は、天保11年(1841年)に改築されています。

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拝殿回廊には江田島銘醸の四斗樽が・・・

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正面には立派な書額が奉納されています。
大正4年11月・・・ 


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享保12年(1728年)8月17日安芸国藩主浅野吉長が、大正13年(1924年)7月17日高松宮殿下が・・・

2012-10-24 002 016 
文政10年(1827年)丁亥2月・・・??? 吉原信春拝
画は、第一回帝国議会開院式? 岩倉大使訪米???

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昭和20年7月28日、小用沖で大破着底した戦艦榛名の生還乗員一同による奉納です。


奉納写真の説明文を記載します。


大破着底した榛名・・・戦後、米戦略爆撃調査団の撮影したもので、広角レンズによる撮影であるため船体は非常に長大に見えるが、艦は相次ぐ攻撃により浸水がひどく海底に鎮座し、やや左舷に傾斜している。

主砲塔、艦橋部にはマダラ模様の迷彩塗装がほどこされているのが見える。

砲塔、艦橋部、煙突ふきんには大戦中増強された機銃、高角砲の砲座が見えるが、大戦中、本艦の対空兵装は12.7センチ連装高角砲6基、25ミリ3連装機銃30基、連装機銃2基、単装機銃28基に達した。


昭和20年7月24日、同28日の両日にわたる米艦載機の攻撃により、榛名乗員71柱が召されました。


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本殿は最も奥にあって、正面からは見えませんが明治42年に改築された、切破風造りの銅板葺きです。

千木は拝殿とは違って、四角い風穴が開けられ、先端部は凹字形に加工してあります。

千木の云われは他にもありますが、一説では、東風をコチといい、疾風をハヤテ(古語ではハヤチ)といったように、チギは風木だとも云われます。

さらに、千木には強い風を避ける為として、いくつかの穴があけられています。

この穴や、先端部を強風が通り抜ける、ピュウ~~って音、いかにも神様が現れ出るような雰囲気に・・・(*^_^*)です。

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