中央 県道44号線 1/2

2A)江田島町南部・県道44(鷲部・中央) 
県道44号線は鷲部地区、中央地区を北上し、中央地区の北端、世上口で国道487号線に繋がります。

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山田のバス停です。
今は空き地となっていますが、かっては呉市営バスの待機所となっていて、修理点検用のバラック建屋がありました。


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山田バス停から路地を挟んで南側には、江田島保育園があります。
広い園内を元気に走り回る、小さな島っ子たち・・・(*^。^*)です。

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高台から見た、もと呉市営バス待機所のあった空き地と、その前を横切る県道44号線です。

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バス停の近くにある民家の入口に、古い小さな看板?が掲げられていました。
「奥さま保険」って、いったいどんな保険なんでしょう??? ・・・(^_^;)です。

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江田島郵便局です。
〒看板の下に植えられている樹木は、モチノキ科の常緑樹タラヨウです。
別名を葉書の木、又は郵便局の木とも呼ばれ、爪先を押し当て葉っぱの裏に文字を書くことができます。


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江田島警察署です。
まだ、免許更新でお世話になっただけ・・・(^_^;)です。 

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崖の下に、コンクリート製の焼却炉です。
どこかで見たことのあるタイプだと記憶をたどったら、どうやら私が通った小学校の焼却炉と、そっくりそのままです。

もしやと、ご年配の方にお尋ねすると、昔この場所には江田島中学校があって、この焼却炉はその当時に使用していたものだ、と・・・

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中学校の裏山には、防空壕もあって・・・
今は民間に払い下げられ、軽トラの車庫として利用されています。


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江田島警察署から続くこの狭い敷地に、トンネル校舎とも呼ばれた、木造2階建ての江田島中学校があったのは、1948年7月12日(昭和23年)から1964年10月30日(昭和39年)まででした。

その後、江田島中学校の校舎は県道を挟んで海側、現在の江田島小学校があった場所に移転、のち平成20年8月に小用小学校跡地へ新築移転しました。

当時の中学校跡地は、一部江田島警察署用地を除き、民間に払い下げられています。
 
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中央 矢ノ浦港

2)江田島町南部・矢ノ浦港 
江田島町の中心地に近い良港なのですが、戦前の旧海軍が構築し利用した港であったため、漁船や専業漁師は少ないようです。

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港内には、小型レジャー船がまばらに係留されています。
又、かっては江田島警察署の、専用パトロール艇も係留されていました。


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矢ノ浦港に面して建つ、鉄筋コンクリ-ト4階建ての立派な建物は、江田島市営アパートです。

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江田島市民となれば格安で入居できる、オーシャンビュー、4階建てのすてきなアパートです。
しかも海に面したベランダは、毎年8月の江田島湾納涼花火大会では、かぶりつきの特等席となります。


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4階建て市営アパートの先に矢ノ浦港、鏡のような海面は花火会場となる江田島湾です。
堤防の先に見える小さな岩礁は、「沖ノハヘ」???だろうと・・・(^_^;)です。

中央 井戸

2)江田島町南部・中央地区 
島での生活において、川の水を100%有効利用するのは当然ですが、大半の小川は10日も雨が降らなければ、干上がってしまいます。
 
せめて飲み水だけでもと、花崗岩の割れ目から浸みだす小さな水脈を見つけて掘られた井戸が、今も当時のままに残されています。

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手入れはされていませんが、矢ノ浦地区に残る島内を代表する井戸の造りです。
花崗岩で作られた2本の石柱の上に垂木を通し、中央に滑車を固定して2つの釣瓶をロープで繋ぐ方式です。

垂木の上には雨除けの小さな屋根が乗っていました。
 

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井戸は花崗岩の大きな石板をT字型に切って、枡形に組み合わせた重厚な造りです。
 
今は飲み水として使われることはないようですが、昨年夏の渇水期には、お百姓さんがミカン畑に撒く水をくみ上げていました。

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井戸枠はコンクリートの丸枠ですが、今も頻繁に使われている感じです。

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お家の庭先にある井戸です。
水は電動ポンプで汲み出されていますが、ディスプレー?として、支柱の上に立派な屋根が乗せられ、滑車と釣瓶がセットされています。


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よく見る津田式と書かれた、手動ポンプです。

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津田式よりは新型のポンプです。
出水口の上にある部品は、たぶん呼び水用の特殊装置?・・・(*^_^*)です。

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井戸水や川からの水と等しく、あるいはもっと重要だったのは雨水だったかも?・・・です。
我が家の屋根に降った雨水なら、自治組織からの許可や配分とは別に、自由に使うことのできる水です。
雨水を貯める水瓶は、どの家の軒先にもセットできる、自家専用水、そして防火用水・・・(*^。^*)です。

中央 神田川・矢ノ浦川・奥小路川

グーグル地図(北部江田島町)川名 
中央地区を流れるのは、神田川(本浦川)と、その南に矢ノ浦川そして、古鷹山の南面を水源とする、奥小路川があります。 

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中郷地区の谷合から流下った清水は、神田川(本浦川)と呼ばれ、海上自衛隊第一術科学校(旧本浦地区)と向側地区との境界線を流れます。

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海軍兵学校の用地造成で川の流れは変わりましたが、行き着く先は江田島湾・・・(*^_^*)です。
秋、汽水域のわずかな砂地には、広島県絶滅危惧Ⅱ類に指定されるウラギクの紫の花が、人目にふれることもなく咲き乱れます。

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川を覆う歩道の下、人知れずに咲いたウラギクの花は、いま綿帽子となって新天地に旅立とうとしています・・・(*^。^*)です。

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中央地区の南の谷合、山田地区に端を発した小さなせせらぎは、今は廃屋となった小さな食料品店の前を過ぎ、小川沿いに植えられた桜の枝下を照らします。

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左右の護岸をコンクリートで塗り固められた、細く小さな矢ノ浦川の流れは、潮の干満に引き込まれ、江田島湾に消えていきます。

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奥小路ダムの余剰水として流れ出た源水は、丁寧に組まれた花崗岩石の水路を、モミジの葉っぱを浮かべて下ります。

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本来であるなら、最も美しい小川の景観が見られる場所なのですが・・・
農業用水の取水用に作られた、石組を無造作にコンクーリとで塗り固め、共同での取水管理の手間を惜しんで、自分勝手に引いた塩ビのパイプが束となって壁面を這い・・・

共同作業を前提に成り立っていた、日本式集約型農業は・・・(^_^;)です。

奥小路川は、そんな下世話には関係なく、ひたすら低きを求め、第一術科学校校内へと流れ込みます。

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川がこれだけ酷く荒廃したのは、生活排水を管理できなかったことも大きな要因です。
いま、やっと下水道の整備が・・・(*^_^*)です。

中央 矢ノ浦浄水場跡

2)江田島町南部・矢ノ浦浄水場跡 
支那事変の拡大から日米開戦へと続くなか、若き海軍士官の必要をせまられ、兵学校の生徒数はうなぎ登りに増員されました。
それまでの、兵学校の裏山に雨水を集めて作った、奥小路ダムからの水源では、兵学校生徒や職員を含め数万に近い人々の渇きをまかなうことは到底できません。

そのため新たに、沖美町の三高や能美町鹿川に水源を求め、兵学校に近い、この矢ノ浦に浄水場を新設しました。
 

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戦後駐留軍の手を経たのち、江能水道企業団へと移行されましたが、水源が太田川へと変わり、小用地区に前早瀬浄水場が造られて、その役目を終えました。

今は丘の上部に、給配水設備の一部が残っています。
 

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丘の上へと延びる細い一本のレールは、浄水場を管理するための資材を運搬するためにつくられた簡易モノレールです。
 
ミカンでお馴染の愛媛県で発案?され、制作会社の名前から「ちぐさ鉄道」とも呼ばれます。
急傾斜地を登ることのできる索道で、農業資材やミカンなどの収穫物を楽に運搬出来ることから、島内のミカン畑ではごく普通に見ることができます。

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もう数十年も使われていない浄水池ですが、きれいに草が刈られ手入れされた様子に、水道事業に欠かせない、安全安心を供給する心意気が感じられます。

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きれいに草刈りがされた元浄水場の下には、江田島警察署、県道を挟んで江田島小学校が、さらには江田島湾や能美島の野登呂山が一望です。

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丘の斜面には誰がいつ植えたのか、大木となった柿の木の枝が垂れ、赤く色付いた実が小鳥の羽音に揺れていました・・・(*^。^*)です。

江田島水道網1945年 

ちなみに、戦後連合軍に引き渡した海軍施設の目録資料によりますと・・・

水源地として     

奥小路:満水量33.800t、送水管径125mm、送水能力300t/1日

鹿 川:満水量100.000t、送水管径250mm、送水能力700t/1日

三 高:満水量230.000t、送水管径250mm、送水能力2400t/1日

 

また、浄水能力は

奥小路が300t/1日で、矢ノ浦が2800t/1日

 

・・・ですが、お天気が続けば当然、ダム湖の水量は激減するわけで、

呉市狩留賀より300tの水船2隻、250tと200tの水船各1隻を利用し、2.400t/1日の水を小用地区まで運搬する用意もありました。

 

このような経験と、三高、鹿川から江田島小用地区を結ぶ送水管が有った事が、後年の江能水道企業団による太田川から江田島、能美島への水道事業が早期に可能となった一つの要因となりました。

ただし、当時はあくまでも海軍施設に給水するのが主目的であって、一般住民の多くは、井戸水や地区ごとの簡易水道施設を利用していました。

(青図と要目はアジア歴史資料センターより)

中央 奥小路水源地

2)江田島町南部・中央・奥小路水源地 
直下にある、海軍兵学校への給水施設として作られたもので、古鷹山南面に降った雨水を集めて水源としましが、学校の発展と共に慢性的だった水不足がより深刻となり、敗戦前には三高や鹿川地区にも水源を求めました。 

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大きくはないのですが重厚な造りで、骨格となる鉄筋コンクリートの表面には、花崗岩の飾り石が貼り付けられています。

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観賞用に作ったのかと、見まごうような雰囲気の場内と濾過池です。

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ダム湖(池)に溜まっている雨水の量は、ほんの僅か・・・(^_^;)です。

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ダム湖(池)側から見た、庭園のような落ち着きのある浄水場全景です。

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細部まできれいに手入れされた場内に、赤や黄色のモミジ葉が舞ます。

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ずいぶん昔の事ですが、この付近で桜の花見をしたような記憶が・・・(*^_^*)です。

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赤いレンガで覆われた屋やが、過ぎ去った時を感じさせます。
昭和51年11月1日、すべての設備が江能水道企業団へと移管されました。

中央 古鷹山

1)江田島町北部・古鷹山 
標高392m(あるいは394m)、高い山ではありませんが雑木林や竹林の中を進み、尾根筋を歩いたり、岩場を登ったり?と変化のある登山道で、眼下には青い海景色が満喫できます。

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かっては、この付近までミカンを植えた段々畑が続いていました。
さらに、この上の方にもイモ畑やラッキョ畑があって、背負子を肩にしたお百姓さんに道を譲ったことも有りました。
今は段々畑のげしも崩れ、コナラやハゼノキやリョウブの雑木に覆われ、秋の登山道は赤や黄色い落ち葉が敷き詰められます。


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道幅が30cm、雨が降れば水路となる登山道です。
固い花崗岩の山とはいえ 、風化の進んだ山肌では、人の踏み跡が雨水に削られて奇妙な造形美を見せます。


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7合目あたりにある、博打岩と云われる洞窟です。

久枝氏が来島し鷲部に亀山城を築く以前のお話ですが、見晴らしが良く雨露を凌げる大岩の下は、この近辺を拠点とする海賊の見張り所として利用され、戦利品を集めて毎夜賭場が開かれたとか・・・。
花崗岩の天井には、今もたき火の黒い煤が残っていると云われます。

また、この博打岩のすぐ上にある岩の隙間からは、天宮の水と呼ばれる清水が湧き出していましたが、近年になり水脈が変わったのか、水量が少なくなりました。

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古鷹山頂上です。

伝説によりますと、大時化の海で方向を見失った船が、大鷹の導きで無事江田島湾に避難することが出来、その大鷹が舞い戻った山頂に御鷹神社を祀り、付近を航行する船舶の安全を祈願しました。
その故事が今の古鷹山の由来となります。

長くこの場所に御鷹神社が祀られていましたが、いつのころか本浦の小高い丘に移され、さらに明治19年、本浦地区が海軍兵学校用地となって、一時、江田島八幡神社に預けられることになりました。
のち中郷地区、山ノカミに社を建立しましたが火災により焼失、再び八幡神社に合祀されていましたが、やっと平成18年、八幡神社境内に「古鷹神社」として再建されました。

いま、古鷹山頂の御鷹神社跡地には海軍兵学校八方園(元、御鷹神社のあった丘)にあった方位盤のレプリカが据えられています。
他にも、兵学校で用いられた五つの訓戒「五省」や石柱、案内板などが雑多に配置され、神聖な山頂も俗っぽさがムンムンです。

頂上を示す石柱と、目立たない位置に小さな説明板の一つもあれば、それで十分だと思うのですが・・・(^_^;)です。


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山頂のもっとも高い位置にある花崗岩の岩に「標高392米 古鷹山頂上 江田島町」と彫り込まれています。

が、国土地理院の地図では、394mです。
他にも古鷹山376mと記した地図を見ることもあります。
 376mというのは、古鷹山頂の東200mの位置にあるピークで、国土地理院の二等三角点の標高を記載した間違いですが、394mと392mの違いがなぜなのか???です。

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眼下南面には、日の光を反射する波静かな江田島湾と、手前に旧海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校、第一術科学校、他)が一望できます。

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西面は、均整な山容から御鉢山とも呼ばれる津久茂山263mと、津久茂の瀬戸を挟んで能美の山々、さらにその先には宮島や遠く中国山地の山々が霞みます。

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太陽を背にして、順光で眺める北面の景色もすばらしく、オカカ入りのおむすびが、一気に三ツ星にグレードアップ ・・・(*^。^*)です。

気分は風に乗り、眼下の切串の街並みから、広島市街地、遠く中国山地へ一跳びで吹き抜けます。


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もう一つの?古鷹山の由来?・・・
中央の古鷹山頂が鷹の頭に、左の白い大岩が鷹のくちばしに、左右の山々を大きく広げた翼と見ることもできます。
 
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追記画像(古鷹山頂上394mの北、約20mの位置にあるもう一つのピーク)です。

古鷹山の標高が394m、あるいは392mと伝わる理由について、NHK広島TVの番組「お好みワイド」あなたの声コーナー(担当者 山口さん)で調べていただきました。
取材された古老の話では、測量技術の未熟?からか、昭和11年の古鷹山頂の写真には392mの標柱が建っており、兵学校生徒や、地元の人々も疑うことなく、392mと信じていたそうです。

ですが、明治大正期の測量技術が未熟?、しかも2mも誤差があるとは信じがたく・・・

たとえば、東に約200mの位置にあるピークは、二等三角点として1899年(明治32年)大日本帝國陸地測量部により正確に376,0m(古鷹山)と測量されています。
なのに、もっとも高い地点である古鷹山頂は、故意に正確な測量がされず、392mよりは少し高いようだが、392m(御国あるいは美国)とした方が語呂がいいからって、392mとしたんじゃ・・・。

さらに、昭和11年10月27日、昭和天皇が軍艦愛宕にて江田島を訪問されたさい、古鷹山登頂計画があり、昭和天皇に地史などを説明をするのに古鷹山の標高を語呂合わせで御国(392m)とした方がよいだろうと?・・・。

ま、当時は三角点でもない山の高さが、2mくらい違ってもどうってことはない、あるいは、古鷹山頂を392m(御国)と呼びたいために、わざわざ三角点を別の尾根に持っていったんじゃ・・・(*^_^*)です。

ということで、392mは古鷹山の美称「御国古鷹」であって、実際の標高は国土地理院地図にも表記される394mです。

ちなみに、上の画像に写る北のピークは標高が392m?くらいで、昭和天皇の登頂(実際には雨天のため中止)を記念して、大岩になにやら刻み込まれていましたが、現在は判読不明となっています。
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