旧兵学校の門を出て、路地坂を左に100mばかり登ったところに、下士官と兵卒の集会所であった「下士卒集会所」と呼ばれる建物があります。
この白い洋館は明治後期、兵学校に勤務する下士官や水兵の集会所(休息や談笑、待ち合わせや軽い飲食、社交の場?)として作られたものです。
戦後民間に払い下げられていたようですが、外観から見る限りは当時のままに保たれています。
実はごく最近まで、この建物を戦前の江田島村役場の跡だろうと、勝手に想像していたのですが・・・(^_^;)です。
坂道をキャリーを引いて登る、戦前生まれのぱみゅぱみゅお姉さんに、「江田島では物を大切にするんですねぇ。これって、昔の役場だったんですか?」「へえっ、あんたぁ? こりゃあのぉ~、昔の海軍さんの・・・」
え、えぇ~~~、超あかっぱじ~ ・・・(~_~;)でした。
で、その旧江田島村役場は江田島八幡宮の北、今は廃園となった旧江田島向側保育園のあった場所だそうで、もう一つ別にあった下士卒集会所は昭和50年に焼失し、跡地には現JA呉江田島支所が建てられたとか・・・
周りは民家に囲まれていますが、屋根の向こうには兵学校の大講堂が見えます。
ちなみに、将校の集会所としては、明治21年(1888年)兵学校校内の高台に、「集会所」として赤煉瓦のりっぱな建物が造られました。
現在は「水交館」呼ばれ、校内行事、国内外の来賓の接遇や、映画、TVの撮影(坂の上の雲)などに使用され、ほぼ当時のままに残されています。
みかんの丘から見た、下士卒集会所の全景です。
さらにその上、古鷹登山道脇に咲くソメイヨシノの大木です。
丘の上、古鷹登山道脇の桜花が、春風にあおられて、ひらり、またひらりと舞おりてきます。
「学びの館」は、平成14年10月、久枝家跡地を活用し、自然観察や郷土のふれあい体験の場として、また久枝家寄贈品や旧江田島町所蔵資料を中心とした風俗資料の保管展示を行う施設として設立されました。
木造2階建てで、1階には展示室・体験学習室・学習室(和室)、2階には、展示室・研修室があります。
展示室は、旧海軍兵学校内に建立されていた八方園神社にちなんで、八角形の屋根にしてあります。
江田島の発展に尽力し、大正6年に逝去された久枝家十八代、久枝与三吉翁の胸像です。
久枝家は伊予河野水軍の流れをくみ、貞和2年(1346年)江田島町鷲部亀山城に居を構え、元亀年間までの約220年間、芸南地域の水軍として活躍しました。
その後、亀山からこの地に居を移し、文禄2年(1593年)久枝重安が江田島庄官となり、代々庄屋として善政を勤めました。
旧久枝邸の外塀を復元したものです。
見とれるようなりっぱな石組です。
瓦葺の大門は、久枝家屋号の「田屋」から「田屋の門」と呼ばれます。
修復された田屋の門や、漆喰の蔵は明治の建築様式を今に伝えます。
広い園内には、流水池があり蛍の飼育もされています。
常設展示の青銅鏡です。
唐草と鳳凰を配した平安時代の「八稜鏡」(直径13センチ)で、1886年(明治19年)に海軍兵学校の建設工事で、宮ノ原妃崎鼻(キサキバナ)で発見されました。
県内でも数例しかない、貴重な資料です。
平成5年4月15日、ふるさと創生事業の一環として、江田島町の唯一最大観光資源である、海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)見学者の便をはかって、学校正門前にふるさと交流館が建てられました。
ふるさと交流館の正面です。
旧海軍兵学校の生徒たちの休養の場であった生徒倶楽部の一つ「橋中生徒倶楽部」の面影を残した建物で、海上自衛隊第1術科学校の見学者の休憩所、町民の憩いの場として親しまれています。また、展示室には旧海軍兵学校ゆかりの品々も展示されています。
以上、 江田島市商工観光課施設ガイドよりのコピペ・・・(^_^;)です。
二階展示室にある、海軍兵学校生徒が使用していた自習机です。
注:館長の許可を頂いて、ノーフラッシュによる撮影です。
海軍兵学校の卒業証書と短剣です。
桜に錨のベルトバックルです。
海軍将官の儀礼用帽子(二角帽子またはナポレオンハットとも・・・)です。
旧海軍兵学校生徒館(通称赤レンガ)の屋根瓦です。
生徒館の屋根は建築当初は日本瓦葺でしたが、明治38年の安芸灘地震後にスレート葺に替えられました。
GHQ時代の兵学校校内案内図?です。
GHQ時代あるいはその直後の、兵学校全景航空写真だと思われます。
トンネル校舎と呼ばれた、江田島中学校がはっきり写っていますので、昭和23年以降昭和39年以前?です。
狭い展示室ですが、1943年(昭和18年)6月8日12時10分、山口県柱島沖で第三砲塔付近から突然白煙を吹き上げ主砲火薬庫が大爆発、謎の爆沈をした戦艦陸奥の遺品も陳列されています。
江田島って言えば、海軍兵学校を抜きにしては語れません。
その兵学校(現海上自衛隊第一術科学校他)の全体が、もっとも画になって見えるのが、この農道からの眺め・・・(*^。^*)です。
向側農道開通記念(平成10年10月吉日)
へぇ~、農道が出来たのはわりと最近のようです。
それまでは、このすてきな景色はお百姓さんの独り占め?
畑仕事で汗をかき、この景色をながめながらお昼のお弁当を広げる・・・
い・い・な・ぁ~~~~~(*^。^*)です。
兵学校の面する江田島湾、現海上自衛隊第一術科学校の沖に浮かぶのは、最新鋭のヘリコプター空母です。
東洋のアナポリスとも呼ばれる、日本海軍兵学校の全景です。
ちなみに、メリーランド州アナポリスにある米海軍兵学校には海上自衛隊から、一等海佐と三等海佐が1名ずつ連絡官として派遣されており、同校の教官としても勤務していて、逆にアメリカ海軍からも大尉が1名、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に派遣され、同様に教官として勤務しているのだとか・・・ウィキペディアより(^_^;)です。
中央が通称赤煉瓦と呼ばれる建物で、明治26年(1893)に海軍兵学校生徒館として建築されました。
現在、第一術科学校の庁舎として使用されている手前の白い建物は、昭和16年(1941)に海軍兵学校の庁舎として建設されました。
大講堂と呼ばれる画像中央のどっしりとした建物は、鉄骨煉瓦を心材とした石造で、外壁には瀬戸内海産の白い花崗岩が貼られています。
大正6年(1917年)に兵学校生徒の入校式、卒業式また教育の場として建築されました。
春霞にゆらぐ白亜の殿堂、大講堂の正面画像です。
平地の少ない島では、どこも最低限の道路幅しか確保されないのですが、江田島町は海軍兵学校があったせいか、他所に比べれば広めの道路が整備されています。
平成22年1月1日、旧江田島中学校の跡地に新校舎を建設し、今までの江田島小、鷲部小、江南小、秋月小に加え、小用小、宮ノ原小、津久茂小学校がこの地で同窓となりました。
高台から見た江田島小学校です。
県道44号線の海側、江田島湾の潮風が吹き抜ける、まばゆいばかりのモダンな新校舎です。
そのまま県道を北上すると、江田島八幡神社前のバス停です。
石段の下には、元治元年(1864年)農作物の害虫除け祈願成就に奉して出雲神社が建立されました。
建立時には浜から海へと向かった参道も、今は黒いアスファルト道路で遮断されます。
たとえ神様といえども、白線を引いた横断歩道を渡らないと、えらい目に遭います・・・(^_^;)です。
中央地区と、旧 海軍兵学校用地(現 国有無番地)を分けるのは神田川と、鉄筋コンクリートのぶ厚い壁です。
塀の内側には、松や桜、カイズカイブキなどが整然と並びます。
島内の史跡では、そのほとんどが松くい虫の被害で倒れたのですが、戦前?に植えられた松の木が、きれいに手入れされて今に残っているのには感心します。
余談になりますが、かっては塀の上にとぐろを巻いて有刺鉄線が張られていましたが、今はレーザー光線???・・・(*^_^*)かな?。
塀の向こう、国有無番地に通ずる、海上自衛隊第一術科学校の正門です。
ただし、海軍でいう表門(正門)とは江田島湾に浮かぶ桟橋であって、陸上に通ずる此方の門は裏門と呼ぶのだそうです。
私のカメラよりもきれいに撮れている、Google マップからの画像です。
県道44号線に続く路地裏です。
かっては、ネオンサインに彩られたスタンドバーやパチンコ店、映画館?もあったようですが・・・
「止まれ」って書かれても、このままじゃ・・・(^_^;)です。
江田島銘醸の酒蔵です。
お酒は古鷹山の軟水を利用し、手間ひまかけた「麹ぶた製法」で作られます。
以下、PR文書のコピペ・・・(*^。^*)です。
明治40年(1907年)創業の江田島銘醸は、旧海軍兵学校で知られる江田島の蔵元で、戦前は「ホマレ」という銘柄で呼ばれ、「海軍御用酒」として兵学校関係者に親しまれてきました。
看板商品の「同期の桜 純米吟醸 純米原酒」をはじめとする「同期の桜」シリーズや、「古鷹」リーズなど、ネーミングやデザインは江田島ならではです。
社長の住岡氏が杜氏として酒造りに打ち込み、米の旨味がしっかりと出た、酒が主役になるような味を追及します。