国有無番地(旧海軍兵学校) 正門

1)江田島町北部・国有無番地 
明治の始め、この地は安芸郡江田島村本浦と呼ばれる、小さな入り江を埋めた干拓地でした。

間もなく早乙女で賑わう田植えを控え、泥池には馬鍬を引く牛が何頭も入って代掻きにいそしみ、ぬかるむあぜ道には川トンボを追う子供らが走り、夕暮れになるとお寺の鐘がゴォ~ンと響いて、茅葺の屋根から夕餉のしたくを知らせる白い煙が立ち上っていました。

明治19年4月9日、西海鎮守府用地視察団来島 
明治19年6月1日、海軍兵学校用地視察団来島
明治19年8月15日、海軍兵学校用地の引き渡し
明治19年10月、海軍兵学校用地造成着工
明治21年8月1日、海軍兵学校が東京築地より江田島に移転
明治21年8月13日、海軍兵学校開校
明治23年4月22日、明治天皇海軍兵学校行幸
明治26年6月15日、海軍兵学校生徒館(赤レンガ)落成
明治27年3月、海軍兵学校水道施設工事完成
大正6年5月27日、海軍兵学校大講堂落成
昭和11年3月19日、海軍兵学校教育参考館開館
昭和13年、海軍兵学校西生徒館落成
昭和19年10月1日、海軍兵学校大原分校開校
昭和20年10月末、米軍MP海軍兵学校の警備及び接収業務に就く
昭和20年12月12月1日、海軍兵学校閉校

海軍兵学校(分校も含む)卒業生25,794名

昭和21年5月16日、旧海軍兵学校を英連邦軍在日総司令部(BCOF)として使用
昭和23面6月1日、英連邦軍在日総司令部が呉に移転
昭和24年2月、旧海軍兵学校に米軍教育司令部(キャンプ)を設置
昭和25年8月23日、キャンプ内に警察予備隊教育施設「江田島学校」を設置

昭和29年6月9日、防衛庁設置法及び自衛隊法公布
昭和29年7月1日、海上自衛隊呉地方総監部開庁
昭和31年1月10日、米軍江田島キャンプ(旧海軍兵学校本校)施設返還式
昭和31年1月16日、旧海軍兵学校本校に横須賀より海上自衛隊術科学校が移転
昭和31年3月1日、海上自衛隊術科学校学生111名入校
昭和31年3月3日、海上自衛隊幹部候補生教育を開始
昭和31年5月16日、海上自衛隊術科学校開庁式
昭和32年5月10日、海上自衛隊幹部候補生学校設立
昭和33年4月1日、海上自衛隊術科学校を第一術科学校に改編
昭和45年3月2日、海上自衛隊少年術科学校開校
平成9年9月、幹部候補生学校新学生館完成
平成10年、旧兵学校西生徒館を改築
平成23年3月28日、海上自衛隊少年術科学校閉校
(上記年表は江田島町史からのピックアップ・・・m(__)mです。)

江田島と言えば、オウム返しに海軍兵学校と呼ばれた時代もありましたが、戦後も70年となると、・・・(^_^;)です。

ただ、兵学校時代の建物の多くは敗戦前の空襲や、GHQによる破壊、改修にも耐えて現在にその雄姿を残しています。

今は海上自衛隊の教育機関として活用されていますが、老朽化や耐震問題などもあり、夏草に覆われることは無いにしても、いずれ、兵どもが夢の跡・・・です。

旧海軍兵学校正門  
グーグル空撮地図です。

旧海軍兵学校があった江田島町国有無番地(旧本浦地区)には、旧兵学校時代の建物や、文化遺産、伝統を引き継ぎ発展させながら、現在海上自衛隊幹部候補生学校・海上自衛隊第一術科学校・江田島警務分遣隊が存在します。 

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正門です。

防衛庁時代の構内管理は防衛施設庁でしたが、今は防衛省が直接管理します。

海上自衛隊の現用施設ですので、旧海軍兵学校とはどこにも明記されていませんが、正門受付に申し出れば、兵学校時代の建物(大講堂・赤レンガ・教育参考館)や屋外展示物(特殊潜航艇・陸奥砲塔・明石マストなど)、運が良ければ海上自衛隊員の訓練風景なども見て回ることができます。

ただし、見学時間などのこまかい制約事項もありますので、仔細は「海上自衛隊第一術科学校」で検索してください。
 

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ふるさと交流館に展示の古い写真です。
 
構内から写した、正門の向こうに写る建物は旧広島銀行江田島支店です。
現在の広島銀行江田島支店も、当時と同じ位置に建っていますので、兵学校正門の位置が変わったことになります。

じつは、敗戦後の連合軍占領下にあって、大型軍用車両の出入りが便利なようにと、現在の位置に移されました。

また、海軍にあっては船着き場のある江田島湾の方を、表、表桟橋、表門とするために、陸に通づる此方の門は裏門とも呼ばれました。

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江田島湾を望む表桟橋に係留中の練習船12号です。

現代では車で移動する方が便利ですが、VIPの移送や、行事、幹部候補生の卒業式などではこの表桟橋が利用されます。 

幹部候補生の卒業式は圧巻ですし、一般の方も見学することができます。
また、ローカル局TVのニュース番組でも放送されることが多くなりました。 
 
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表桟橋の脇にある衛兵詰所ですが普段は無人みたい・・・(^_^;)です。
松並木の向こうに、兵学校生徒館(赤レンガ)です。


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東のミカン山から見た旧兵学校の全景です。

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北側のミカン山から見た旧兵学校の全景です。

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古鷹山から見た、旧兵学校(国有無番地)と、中央、鷲部、 江田島湾とその最奥が江南、飛渡瀬になります。

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国有無番地(旧兵学校)の周りは、分厚い鉄筋コンクリとの塀に囲まれています。
体力に自信があれば忍び込むのは容易い感じですが、出てくるのには骨が折れそう・・・(^_^;)です。 
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中央 いいとこ撮り 3/3

2)江田島町南部・中央地区 
江田島町は、海軍兵学校が有ったにもかかわらず、米軍航空機による大規模な空襲を免れたために、戦前に建てられた民家が多く残りました。
しかし、戦後も70年を迎えようとする今日、生活様式の変化や、風雨に耐えられなくなった家々が、次々と取り壊されていきます。

画像を残すなら、・・・いつやるか ?
「今でしょ !」
・・・って、もう少し早い方がよかったかも・・・(^_^;)です。


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時代劇にみる村のお役人さんとかが、階段を駆け下りて来そうな雰囲気をもったお家です。
石段の上に瓦門、右の長屋は奉公人の住まい?。


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柱などは小さ目ですが、気品があり由緒ありそうなお家です。

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左が母屋で、右が納屋、典型的なお百姓さん作りのお家です。

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長めの縁側、コンパクトにまとめられたお家に、微妙なバランスで二階が乗ります。

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総二階の町屋造り?、下駄とか足袋とか小間物を売ってたんでしょうか。

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島の狭い土地目いっぱいに、工夫を凝らした作りのお家です。

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お婆さんが一人、文房具とか売っていた感じの小さな構えです。

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都会で成功され、地元に帰って悠遊過ごされた感じのお家です。

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二軒続きの長屋?、単身赴任のお役人の宿舎だったのかも?

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元は、海軍兵学校関係の官舎のようです。

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典型的?な海軍兵学校教官用官舎で、中央部分を壁で区切られた二軒一屋根作りです。
今は民間に払い下げられていますが、元のままに中央を仕切って二家族がお住まいだろうと思います。

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兵学校官舎に共通する入口門の作りです。
塀のブロックと門灯以外は、作られた当時のままだろうと思います。

中央 いいとこ撮り 2/3

2)江田島町南部・中央地区 
中央地区の北部を小用峠に向かって道なりに・・・(*^。^*) です。

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国道487号線、中央地区と宮ノ原地区とを結ぶ「御殿山トンネル」です。 
 
「御殿」は旧兵学校構内の高台に、現在も高松宮記念館として保存されています。

大正9年(1920年)、高松宮宣仁親王が兵学校に在籍中の特別官舎として、総檜造で建築されたもので、その上に続く小山が御殿山と呼ばれ、その御殿山の中腹に戦時中及び戦後にかけて掘られたトンネルを「御殿山トンネル」と命名しました。


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画像右上が御殿山山頂で、その中腹に立つ二本の携帯電話中継アンテナの下に、御殿((旧高松宮邸)の屋根が小さく見えます。

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御殿山トンネルから国道を外れ、下の路地に入ると、廃家を囲むレンガ塀の隙間でニオイスミレが早春の日差しを独り占め・・・(*^。^*)です。

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空き家の目立つ路地の先、今年も五輪塔の肩に桜の花びらが舞い落ちます。

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桜が植えられる前は、大松の枝下にあった観音堂・・・

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路地を抜け、再び国道に出れば、小用地区に向かう峠道です。
この峠道には、いつの頃からなのか公衆便所が設置され、近隣の住民によりきれいに清掃されています。

排泄物の処理は、古来いろいろな方法が試みられていたようですが、まずは、もよおしたとき、ちょっと人目を避けての垂れ流し、近くに木の葉っぱとかあれば便利かも・・・

 

縄文時代の集落では、川に板を渡しただけの水洗、夏ならお尻を水に浸けても・・・

 

平安のころ、高貴なお方は、下人におまるを用意させ、すべての処理を人任せだったとか、また屋敷内に水路を引いたとか・・・

 

江戸のころ、人糞は金肥と呼ばれ、肥溜めに集められて売買され、最重要の肥料として畑に撒かれたとか、辻便所が整備された町もあったとか・・・

 

明治にいたり、コレラ等の伝染病が流行ったこともあり、大都市では自治体委託業者により収集され、船で積み出して沖合に投棄・・・

 

近年になってやっと下水道が整備され始め、平成23年での普及率は全国で76パーセント、江田島市で53パーセントです。

 

ちなみに、昭和の初期までは島内の各港に、ゴミ揚げ場があって、広島市内の家庭ゴミや糞尿を集め、肥溜めで発酵させて、ミカンやイモ畑の肥料として使用していました。

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清掃された公衆便所の脇に 切串道の石碑が立ちます。
古くは、古鷹山を迂回し、切串に向かう山道があったと思われます。

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神田川に沿ってその道をたどると、まったく同じ寸法に切りそろえた薪が積み上げてあります。

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そこは、真面目で几帳面なお爺さんの野菜畑、いや桃源郷かも・・・(*^。^*)です。
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