国有無番地(旧海軍兵学校) 記念碑、野外展示物 1/4

旧海軍兵学校グーグル地図・屋外展示物、記念碑 
構内には、おおむね4ブロックに分かれて記念碑や展示物が建立、設置されています。

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教育参考館の館内見学が終わり、まず目に付くのがこの戦艦大和主砲砲弾です。
この砲弾は、戦艦大和と武蔵の45口径46cm主砲用に作られた、91式徹甲弾と呼ばれるものです。
全長1950mm、全重量1470kgの砲弾で、装薬360kgと共に砲身に込めて発射します。
その初速は780m/s、最大射程が42000mとされます。

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大和砲弾と並んで展示されている、全長975mm、全重量450kgの砲弾は、フランス カネー社製38口径32cm砲用の砲弾で、日清戦争直前フランスで作られた防護巡洋艦松島、橋立、および厳島(横須賀海軍造船所で起工)に搭載されました。
装薬220kgを装填し、初速650m/sで、最大射程が8000mとされます。


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1941年12月8日未明(ハワイ時間127日午前755分)の真珠湾攻撃に使用された特殊潜航艇です。

 

参加した特殊潜航艇は、酒巻(稲垣)艇、岩佐(佐々木)艇、横山(上田)艇、広尾(片山)艇、古野(横山)艇の全5隻、10名です。

 

酒巻艇は羅針儀の故障により湾外の浅瀬に座礁し、艇長の酒巻少尉は米軍捕虜となりました。艇は一時期フロリダ州のキーウエストにある灯台博物館にありましたが、現在はテキサス州の「チェスター・ニミッツ提督記念太平洋戰争博物館」で展示されています。

 

岩佐艇は湾内に突入し魚雷を発射しますが戦果は不明。

駆逐艦にモナハン激突されて損傷し沈没。

二週間後に引揚げられ、調査されたのち損傷が酷いために地中に埋められました。

艇内からは大尉の袖章が見つかり岩佐艇だと特定されました。

 

横山艇は2004年、艇を三分割された姿で発見されました。

船体にはロープが巻きついていたことから、一度引き揚げられ、再度海中に投棄されたものと判断されます。

巡洋艦セントルイスの戦闘日誌では、湾外の入り口近くで、小さな潜水艦から二本の魚雷攻撃を受けるも、その魚雷はサンゴ礁に激突して爆発。

魚雷発射で艇首が浮き出た艇が発見され、セントルイスの攻撃を受けて沈没。

戦時中に引き上げられましたが、資料価値がないと判断され、海中投棄されました。

この艇が横山艇とされるのは、魚雷発射を母艦に打電した時間と、セントルイスの魚雷発見が同時刻だったためです。

 

広尾艇?は2002年8月、真珠湾の沖4.8km、水深400mの海底で司令塔に4インチ砲弾の被弾痕跡を残して発見されました。

この艇を撃沈したのは、当時、真珠湾の入り口近くで警戒に当たっていた、駆逐艦ワードで奇襲攻撃の1時間前(0645)に、小型潜水艦を確認し直ちに砲撃を開始、二発目が、小型潜水艦の司令塔に当って沈んだと日誌に記載されています。

この潜航艇は魚雷を装填したまま、今も当時のままに海底にあって、海底史跡として現状保存されます。

 

古野艇?は1960年(昭和35年)7月15日、真珠湾口から3000m、水深40mの湾外で発見され、現在、当地に保存展示されている艇だと思われています。

艇には着彈の痕はなく、推進器に爆雷によるものと思はれる軽度の損傷がありました。 また 魚雷は裝填されたまま引き揚げられましたが、艇内に乘組員の姿はなかっそうです。

 

ただ、諸説があり、広尾艇だとの説もあって確定はされていません。


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全長23.9m、排水量46t、水中速力19kt、魚雷2本を搭載し、艇長と操縦員の2名が搭乗します。
水中速力6ktだと、150km航行可能です。

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二重反転プロペラの後ろに展示されているのは、600馬力の推進用直流モーターで、原動力は発進前に充電したバッテリのみです。

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特殊潜航艇「海竜」です。
全長17.28m、排水量19.3t、水中速力10ktで、安全潜航深度が250mもあります。
また、自動車エンジンを搭載しているため、水上なら800km航行可能です。

敗戦時、東日本を重点に100隻あまりが配備されていましたが、実戦での使用はありませんでした。
 

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この展示有翼潜航艇「海竜」は搭乗員の訓練教材として山口県柳井の潜水学校(分校)で使用されたものです。
司令塔横の主翼?と船尾の横舵、縦舵を使用し、飛行機と同じ操縦方式で、航行します。 

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海竜の搭乗員は2名で、潜望鏡が覗ける位置に艇長が座り、その前で艇付(操縦員)が飛行機と同じ操縦桿を握ります。
なを、呉市の海事博物館に展示の海竜(海龍)は、静岡県網代の特攻基地に実戦配備されていた艇で、昭和20年、米艦載機のロケット攻撃を受けて沈没、昭和53年5月に引き上げられました。

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昭和15年1月20日に就役した駆逐艦「雪風」2.033tの錨です。

雪風は大戦中、何度も激戦区に投入されましたが、すべての作戦を無傷で生還し、「奇跡の駆逐艦」と呼ばれました。

戦後、台湾海軍に引き渡され「丹陽」と改名されましたが、中華民国海軍の第一線艦として長く活躍しましたが、1965年に退役、以後保管船として係留されていました。

日本に譲渡の話もあったようですが、1969年の暴風による被害が甚大で解体が決まり、1971128日、中華民国政府より舵輪と錨が返還され、舵輪は参考館内に展示、錨は桜花の枝下に置かれることとなりました。


ちなみに、天号作戦で戦艦大和と共に出撃した沖縄水上特攻でも、ほぼ無傷で帰還しました。


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36cm一式徹甲弾です。

 

この砲弾は、昭和17年(1942年)10月13日夜、ガダルカナル島飛行場の砲撃に参加した第3戦隊の「榛名」、または「金剛」が発射した918発にのぼる主砲砲弾の一つです。

 

ちなみに、榛名は昭和20年7月24日、28日の呉地区大空襲のさいは江田島町小用沖に停泊、三式弾の射撃などによって2機のB-24(タロア号、ロンサムレディー号)を撃墜しました。
しかしながら、米艦載機による20発以上の命中弾を受けて大破浸水、28日午後5時過ぎ遂に着底しました。


慰霊碑は戦死者71名を留魂し小用公園メモリアルヒルに建立されています。

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国有無番地(旧海軍兵学校) ポンド

旧海軍兵学校グーグル地図・ポンド 
通常の見学コースからは外れますが、粘り強くチャンスを待てば・・・(*^。^*)です。
 
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一日の訓練航海を終え、ポンドに憩う練習船です。
右側が練習船13号、左は僚船の練習船12号、バックの山は野登呂山で、左後方にかすむのが大黒髪島です。
 

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ポンド桟橋に横付け作業中の練習船13号です。
この船は学生の訓練航海専用船として設計された最新鋭の船です。

また、過去には米軍貸与のLSSL「あさがお」や「ひなげし」、MSC「やくしま」、国産のYTE11号が操船訓練用に使用されていたそうです。

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訓練航海に、出航の練習船12号です。
12号は掃海艇船体の実験艇としてFRPで作られたのですが、掃海艇には不向きとされ練習船に改造されました。

練習船では将来護衛艦艦長となるために必要な、操艦技術の初歩の初歩を学びます。
艦長として1隻の護衛艦を任されるためには、幹部候補生学校を優秀な成績で修業し、実働部隊で甲板関係の実務経験を積み、各種試験に合格する必要があります。
 

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前方を、ジャイロコンパス越しに凝視しているのは、当直士官(操艦者)見習いとして訓練中の学生です。
艦(艇・船)長から命を受けた艦橋当直士官は、全乗員を指揮し、艦と乗員の安全を保ちながら、予定されたコースを予定時刻に沿って進む責任を負います。

ただし、たとえ周りには何もない安全な海面であっても、予定されたコースや通過予定時刻を外した場合、即刻その理由と対処法を艦長に報告し、許可を受けなければ、自身で勝手に艦の進路や速力を変えることはできません。
艦長が食事中であっても、就寝中であっても・・・です。
(緊急の場合は事後処理も可能ですが、緊急に至る前になぜ発見報告ができなかったのか・・・後で作文を書くことを命じられます) 

瀬戸内を訓練航海中の一コマ・・・(*^_^*)です。

見張り員
「モーターボート2隻、右60度、5.0(500m)島影より出て左に向かう」
当直士官
「了解、そのボート視認した。右のボート測的始め」
 レーダー員
「了解、距離400m、2隻目のボートは艦首を50mでかわります」
当直士官
「艦首50m、了解」
副直士官
「その目標、方位わずかにのぼる」
当直士官
「方位のぼる、了解」
見張り員
「ボートの乗員はこちらを視認した、船名ムーンリバーとブルーインパルス」
当直士官
「了解、ブルーインパルスを注視せよ」
見張り
「注視せよ了解、ブルーインパルス、手を振っています。艦首を横切るもよう」
当直士官
「了解」「艦長、ボートが2隻、進路直前を横切ります。速力を落とし微速とします」
艦長
「両舷停止、面舵一杯」
当直士官 
「両舷停止、面舵一杯、短1声」
速力通信員
「両舷停止、両舷停止とした」
操舵員
「面舵一杯、面舵回頭中、舵角35度」
副直士官
「短1声」「右10m等深線まで400m。付近に岩礁等なし」
見張り
「ブルーインパルス艦首かわった、50m」「後部より近付く目標なし」
レーダー員
「左艦首100m、2隻のボートの他、付近に目標なし」

自衛艦は想定以上の回避行動をとる(法令に忠実)場合があります。
ちょっとからかって、前を横切るふりをしよう。なんて、考えで近付くと、急に艦首を振って向かってきます。
まずい、やりすぎた。自衛艦の後ろに廻ろう。なんて、左に舵を切ったりしたら、確実に正面衝突となります。

君子危うきに近寄らず
自衛艦や大型船、航路運行船には近付くべからず・・・(*^_^*)です。

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女猫ノ瀬戸を訓練航行中の練習船13号です。
川尻町と下蒲刈島を結ぶ安芸灘大橋は全長1.175mで2000年1月18日に開通しました。 

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学生の弥山登山競技支援のため、宮島桟橋に横付け中の練習船12号です。
日頃の古鷹山登山で鍛えた成果を試すため、春と秋の2回、クラス対抗の登山競技があります。
もちろん、歩いてではなく、走って登ります。


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ポンドに係留中の、海上浮遊ゴミ回収船(右の双胴船)と、潜水作業支援船(左)です。

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流出油防止訓練で、オイルフェンスを展張中の交通艇です。

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陸上保管中のヨット群です。
使用時はポンド内に係留します。

国有無番地(旧海軍兵学校) 気になる建造物 3/3

旧海軍兵学校グーグル地図・ASU84 
見学コースではありませんが、塀の外、御殿山のミカン畑から見下ろすことができます。
また、特別な行事(花火大会・トライアスロン競技)等が有れば、より近くから見ることもできます。 

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戦前に作られた、水上飛行機の格納庫だと思ったのですが、敗戦時連合軍に引き渡した建物図面に記載がありません。
 
1948年4月の米軍航空機撮影写真では、それらしいのが確認できますので、彼らが造った特大倉庫なのかも???・・・(^_^;)です。

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建物の屋上に、レーダーアンテナがズラリ並んでいます。
ミサイル迎撃用とか、気象観測用とかには見えませんので、おそらく電子関係を学ぶ学生の教材だと思います。

呉港に停泊する護衛艦のマストにも、同じようなレーダーアンテナが取り付けてあります。

84号特務船 
特務艇84号(ASU84)です。
主には、特別警備を学ぶ学生の臨検訓練に使われるため、自衛艦塗装色から、民間船っぽく塗りかえてあります。

ちなみに特務艇84号は大分県臼杵鉄工所で建造、1972年9月13日に就役し、呉地方隊佐伯基地を母港として、洋上支援業務に従事、平成13年9月14日除籍となりました。

その後江田島湾に回航し、第1術科学校学生の訓練教材として使用されています。

特務艇84号が係止される以前は、戦後初の国産護衛艦「はるかぜ」1.700tが係止されていました。

兵学校位置図 大正13年水泳場

大正13年、水泳場を作るために提出?された構内図です。
こじんまりした敷地に船着き場(ポンド)が大きく山裾まで入り込んでいて、瀬戸内情緒の残る景観が想像できます。

 

当時、兵学校生徒を世界水準、それ以上の海軍士官へと教育鍛錬するため、国内の有能な教授を多く招致したのは分かりますが、それにしても沢山のりっぱな官舎群が目立ちます。

海上からみれば、巨大リゾートのコテージハウス?


記:図面は、アジア歴史資料から・・・m(__)mです。

兵学校敗戦時青図 
敗戦後、構内施設を進駐軍に譲渡するため作られた図面です。

昭和12年ごろから20年にかけて、南の海面を大きく埋め立てています。

また、瀬戸内風情の残るポンドも埋められて、新たな船着き場(ポンド)が沖に作られました。


記:図面は、アジア歴史資料から・・・m(__)mです。


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1948年4月7日、米軍機による空撮です。

南の埋め立て地に、進駐軍仕様のハウスが沢山建築され、正門の位置はすでに小用方面への向きに変えられています。

 

記:国土アーカイブより・・・m(__)mです。

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1975年2月24日(昭和50年)の空撮です。
まだ、お百姓さんが元気で、ミカン山が全盛のころです。
全国的に、松枯れが猛威を振るい始めた頃でもありますが、構内の木々は青々と・・・(*^。^*)です。。

 

記:国土アーカイブより・・・m(__)mです。


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1977年7月26日の空撮です。

画像右端の防波堤に係止されている艦は「いかづち」1.070tで、川崎重工業神戸造船所で建造されました。
1956年5月29日に就役、呉地方隊に配属され、20年間、海上防衛の任を果たし、
1976年3月31日、搭載武器の旧式化にともない、保管船となって、江田島湾に回航、学生の訓練教材として、1983年3月30日までこの地にありました。

戦後この位置に係止された艦艇には 、米海軍から貸与の、PF「もみ」、PF[けやき」、そしてDE「いかづち」、DD「はるかぜ」、ASU「84号」などなど、そうそうたる艦艇が最後の輝きを放つ場となりました。

蛇足になりますが、この空撮の1年後、1978年6月1日、撮影機直下のミカン畑から出火した炎は、折からの強風にあおられて、3日間にわたり燃え広がりました。
この未曽有の林野火災により、江田島町全山林の80パーセントにあたる、1.000ヘクタールが跡形もなく灰燼に帰すこととなりました。

国有無番地(旧海軍兵学校) 気になる建造物 2/3

旧海軍兵学校グーグル地図・砲術講堂   
この付近も見学コースには入っていますが、学生の訓練や、天候その他の都合でパスされる場合もあります。

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表桟橋から見た、短艇と、短艇収容装置(ダビット)です。
海面に突き出したアームの先端に滑車が付いていて、ロープに結ばれた短艇を人力で揚げ降ろしします。

ちなみに、近年の短艇(カッター)はFRPで作られていて、基準排水量が1.5t、全長9m、幅2.5m、深さ0.8m、喫水が0.4mです。
通常のクルーは漕手が左右で12名、船尾で舵を握る艇長と、全体をみる艇指揮の14名です。

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まもなく幹部候補生学校に入校を控えた学生が、構内見学をかねて訓練内容の事前説明を受けている様子?です。
 
1週間後には、あの笑顔を交えた教官の説明に、「なるほどぉ~、苦い薬を糖衣に包んだ、うまい説明だったなぁ~~~」と、深ぁ~く感嘆し、心に涙 ・・・(~_~;)です。

地獄のとう漕訓練が終わり、短艇の揚収作業がすべて終了し、今日は外出日だったなぁ~~なんて思った途端・・・

隣の短艇は3cmも低いじゃないか。もう一度海面まで降ろせぇ~~。

なんだぁ~、後ろが下がってるぞぉ~。君たちにの水平感覚はなんだぁ~。もう一度沖まで出て、水平線がどんなものか確認してこぉ~~~い。短艇降ろし方よぉ~~~い。

余ったロープのエンドが前後で違うじゃないか?。もともと同じ長さに切ってあるのに、違うはずはなぁ~い。すべて伸ばして長さを確認しろぉ~~~。

手に出来たマメの痛さや、お尻のアザよりも、心の方がもっと・・・(^_^;)です。
 
おや?、短艇の向きが出船に?

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砲術講堂です。
昭和10年に西生徒館(現1術校学生館)が計画された再、砲術講堂もこちらに移転しました。
急作りだったせいか老巧化が激しく、立ち入り禁止の張り紙が見えます。

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右が砲術講堂で、画像左の鉄柱は昭和3年(1928年)に除籍となった、巡洋艦「明石」のマストです。
グランドを挟んで対面する2本のマストと共に、学生の旗りゅう信号の送受信や発光モールス信号送受信の訓練に使用されています。

ちなみに。巡洋艦明石(2,755t)は1899330日、横須賀で竣工し、三等巡洋艦として日露戦争に従事、第一次世界大戦では遠く地中海での作戦に旗艦として参加しました。
1928年4月1日除籍となり、その後193083日、伊豆大島東南方で、急降下爆撃の実艦標的とされ海没しました。


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手前に見える対潜ロケット砲ボォフォース、その先、3階建ての建物が、元少年術科学校の生徒館です。

少年術科学校は1970年(昭和45年)開校、海上自衛隊生徒の教育機関でしたが、1982年(昭和57年)9月をもって縮小、第1術科学校生徒部に属しました。
その後、海上自衛隊生徒制度の廃止に伴い、2011328日をもって廃止、廃校とされました。

 
本来ならば、海軍兵学校、七つボタンを引き継ぐべく?、中卒者を採用、教育期間を4年として創設されたのですが、時代背景と、戦後の6・3・3制度がネックに?・・・(^_^;)です。

蛇足になりますが、幹部候補生学校や、第1術科学校の入校者は学生で、兵学校や少年術科学校では生徒と呼びます。

国有無番地(旧海軍兵学校) 気になる建造物 1/3

旧海軍兵学校グーグル地図・江田島クラブ 
見学コースから少し外れていて、普通は引率ガイドさんの説明がない建造物を紹介します・・・(^_^;)です。
 
記 :見学者は、2、30人のグループにまとめられますが、その引率者に地元有志のボランティアガイドさんが当たれば幸運です。
とても物知りで、ユーモアを交えた説明はおもしろく、戦前、戦中を知らない方々にもしごく好評・・・(*^。^*)です。

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江田島クラブです。
見学者の待合所に指定されています。
売店や、食堂もあって部外者(見学者)にも開放され、隊員と同じ割引価格?で、自衛隊グッズや江田島のお土産を買うことができます。

食堂では海軍カレーも提供されていますが、隊員専用食堂のカレーとは一味?違うとか・・・
昼休みや休日には隊内食だけで満足できない、食欲旺盛な若い隊員も利用しています。 

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カレーのお話の後になりますが、赤レンガに付属する別棟の厠です。

案内表示やガイドさんによる説明はありませんが、大講堂のすぐ脇に赤レンガ作りの小さな倉庫風建物が見えます。
赤レンガ(兵学校学生館)と同時期に作られたもので、水洗便所が無かった当時、匂いのきついトイレは別棟で、本館から離れた位置に建てられました。

今は倉庫?として使用されています。

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高松宮宣仁親王、専用のトイレです。

赤レンガ厠の、さらに向こう側にありますので、よほど注意しないと見逃します。
入口のドアーに「火気厳禁」とありますので、そうとうな量のメタンガスが発生していると思われます。

ちなみに、高松宮宣仁親王は大正9年4月に学習院中等科を三年で退学、海軍兵学校予科に入学し、大正10年8月24日、海軍兵学校本科(52期)に編入、大正13年7月24日、海軍兵学校を卒業し少尉候補生となりました。

他にも、大正9年(1920年)に建築された親王専用の特別官舎が「高松宮記念館」として、御殿山の下に現存して見えますが、普段の見学はできません。

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幹部候補生学校 学生館です。

戦後海上自衛隊に引き継がれたのちも、赤レンガを幹部候補生の学生館として使用していましたが、明治期には最新式であっても・・・で、赤レンガは改修して候補生学校庁舎として使用し、学生館は別の場所に最新の設備で建てられました。

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桜の時期の幹部候補生学生館入口です。

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正規の入口は先の画像ですが、学生が普段出入りするのは、こちら側(裏口?)です。
号令一下、数百人の学生が一斉に行動しますので、広い階段が必要になるみたい・・・(*^。^*)です。

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撮影時には気づきませんでしたが、画像中央に1部が見える赤いレンガの建物は、明治37年(1904年)に建築された、兵学校理化学講堂・・・(^_^;)です。

国有無番地(旧海軍兵学校) 第1術科学校庁舎

旧海軍兵学校構内図B 
現在、第1術科学校庁舎として使用されているこの白亜の建物は、海軍兵学校庁舎として、昭和16年1月24日に着工し、同年11月22日、日米開戦のわずか2週間前に完成しました。

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庁舎の東側、みかん畑からの撮影です。
 
部分改修をしながら使用されているようですが、遠目だと新築されたようにきれいに見えます。
白い庁舎の先には赤レンガの幹部候補生学校庁舎、右上が大講堂です。

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庁舎の正面を右側から写しました。
米国との開戦をまじかに控えながらも、一見ホワイトハウスに似た感じ?の建物・・・(^_^;)です。

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左から写した玄関(車寄せ)です。
内部の見学はできませんが、桜の季節に「観桜会」が催され、外周を散策することができます。

教育施設ということもあってか、普段の見学には制約が多いのですが、4月ごろの「観桜会」、7月ごろの「サマーフェスタ」、11月ごろの「自衛隊記念日」、などには善良な一般市民に広く解放されます。

また、前もって予約の団体見学者には、特別に案内者が付いて希望にそった見学ができるみたい?です。
とくに、「全国?高等学校 就職支援 担当者 御一行30名 様」とかには、超破格な優待があるみたい???・・・(*^。^*)です。

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向側農道からの撮影です。
庁舎の向こうは、第1術科学校学生館、右の赤い建物は見学者の一時待合所や、売店、食堂のある江田島クラブです。

見学その他の正確な情報は、HP「第1術科学校」をご覧ください・・・m(__)mです。

国有無番地(旧海軍兵学校) 第1術科学校学生館

旧海軍兵学校構内図B 
第1術科学校学生館は、平成10年(1998年)から部分ごとに改築工事をはじめ、やく10年を経て現在の鉄筋コンクリート4階建ての建物に完全リニューアルされました。

この学生館とほぼ同じ位置に、同じような外観をもった「海軍兵学校西生徒館」が計画着工されたのは、風雲急を告げる昭和10年9月7日(1935年)のことです。
建設途中、更なる生徒の増員が見込まれ、2階建から3階建てに計画変更をされたりもしながら、昭和13年7月9日に落成式が執り行われました。

ちなみに、昭和13年12月の在校生徒数は1300名を超えたとか・・・(「なにわ会」 HPより引用・・・m(__)mです。) 

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赤レンガの前を通って、教育参考館の方へ曲がる途中にある、構内でもっとも大きな建物です。

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外観は兵学校当時の西生徒館に似せて作られていますが、内部は超近代的な4階建ての鉄筋コンクリート作りです。
また、外壁の一部には白い花崗岩が貼り付けてあって、兵学校当時と変わらぬ威厳を保っています。

第1術科学校では、赤レンガを卒業し部隊経験を積んだ幹部自衛官や、海曹、海士自衛官に対し、より専門的な術科(
砲術・水雷・船務・統率・艦艇用兵・航空用兵・気象海洋・航海・通信・電子・体育・掃海機雷・運用・応急・潜水・警備・教育技術など)の知識や技術習得のための教育訓練を行っています。

この学生館は彼ら学生の、
教育指導をおこなう教場及び寄宿舎として使われます。 

記:「海上自衛隊第1術科学校」 HPを参考にしています・・・m(__)mです。
 
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表桟橋付近から見た、第1術科学校学生館と、幹部候補生学校庁舎(赤レンガ)です。
バックの尖った山が、兵学校発足の当初から学生(生徒)の体力錬成に多用される(古鷹山394m)です。

ちなみに、日露戦争での旅順港閉塞作戦で、「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐は、左足を患いながらも96回、古鷹に登頂したと伝えられます。

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桜と・・・(*^。^*)です。

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学生館の左右に立つ鉄塔は、船のマストをイメージしたもので、学生の旗りゅう信号送受信訓練に使用されます。

だれもが携帯電話を持てる時代になりましたが、海上自衛隊ではまだまだ古い通信技術を教育し、訓練運用をしています。

★ 無線電話・・・無線機やトランシーバーによる会話( チェックメイト・キング2、こちらホワイトルークどうぞ)
★ モールス電信信号・・・電鍵のオン、オフによる電波通信
★ モールス音声信号・・・水中で空気ボンベを叩いたり、船体を叩いて音をだす。
★ モールス光信号・・・灯光器の光を点滅させる通信。
★ 汽笛信号・・・汽笛の長短や回数で船意を知らせる。
★ ラッパ(信号)・・・決められた吹奏音階で即応行動をうながす。
★ 警報(信号)・・・決められた警報音で即応行動をうながす。
★ 号令・・・定められた単語や動詞を発声し即応行動をうながす。(きおぅつけぇ~・かしぃ~らぁ~みぎ・なおれ・せいれぇ~~つ やすめ・みぎむけまっえぇ~~ すすめ、などなど・・・)
★ 手先信号・・・決められた身振り手振りを使う、手話通話の部内発展型
★ 手旗信号・・・赤旗と白旗を使った視覚信号
★ 旗りゅう信号・・・国際信号旗に決められた意味を組み合わせ、マストに掲げる。
★ 形象物(信号)・・・マストや高所に、決められた形象物を掲げ、自船の状況を知らせる。
★ 電話・・・一般的な艦内通信ですが、部外とも繋ぐことができる。
★ インターホーン・・・艦内の主要部を繋ぐ。
★ 無電池電話・・・電話機本体のみで音声振動を電気信号に替え、また音声に戻す、糸電話の糸を電線に替えた発展型
★ 伝声管・・・音声振動をパイプを通して送る。
★ ボディータッチ、アイコンタクト・・・???(*^。^*)です。

その他にも、超音波を使った水中通話、超長波を使った水中通信、極超短波を使う敵味方識別、人工衛星を利用したGPSやデータリンクとかも???

でも、携帯電話が一番便利だったりして・・・(^_^;)です。

2013-03-31 002 230  
・・・(*^_^*)です。

2013-07-01 001 001 (596x800) 
普段は学生館館内への立ち入りはできませんが、この日なら館内のトイレと、そこまでの通路が解放されます。
 
館内のトイレはいつでも新品同様ピッカピッカに磨かれています。
とくに撮影禁止とは書いてなかったと思いますが、あまり不審な行動をすると別の軽犯罪法?に触れるかも・・・(^_^;)です。
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