宮ノ原 石風呂川・渡川・一ツ川

グーグル地図(北部江田島町)川名 
宮ノ原地区には、古鷹山系の南面を削る、石風呂川と渡川、その間に一ツ川があります。

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石風呂川の支流イブネ川には、かって大原水源地がありました。
小さな沈殿槽が2つだけで、お天気が十日も続けば、取水口は干上がり、流の止まった沈澱池には藻が生える状況でしたが、水質としてはそのままでも飲めそうな古鷹の源水でした。

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取水口はイブネ川の上流にあり、山水が10m位の落差で落ち込んだ滝壺でした。
島では珍しい光景でしたが、途中の道が荒れ果て今は近づくことができません。

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追加画像です。
2005年3月2日に写した、「イブネの滝」画像が見つかりました。

滝の落差は約10m、滝壺の直径は2mくらいで深さは約1m、水道用原水の取り出しパイプ(直径約10cm)が直接滝壺の縁にセメントで固定してあったと記憶します。

滝壺の中ではメダカが数十匹泳いでいました・・・(*^。^*)です。

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数十本の塩ビ管が這う渡川です。
古人が苦労を重ね、きれいに組んだ石垣の魅力が台無し・・・(^_^;)です。

私見ですが、日本農業の衰退原因の一つに、この塩ビ管の発明(利用)があるかと思います。

それまで、山の奥から田畑に水路を引くのは、一人や二人で出来ることではありませんでした。何十人もの共同作業で水路を開き、定期的に集まってはその維持管理を話し合い、大雨の翌日には総出で補修に励むなど、零細な農家が集まり協力し合い、一つの会社組織のように地域全体としてまとまり、大きく収益をだすこができていました。
 
それがある日突然、塩ビ管を使うことで、集団を離れ自分勝手な都合が優先することになり、水路や川がどんなに荒れようが、見て見ぬふり、自分専用の塩ビ管だけを見て他を顧みない・・・
 
ま、そこまでひどくは無いにしても、共同、協力、協働が希薄になったことは確かだと思います・・・m(__)mです。

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分厚いコンクリートで固めた橋の脇に、「おおくぼはし」と刻まれた花崗岩の石柱が倒されています。
石組の風流な橋が架かっていたのは、いつ頃まででしょう。

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かって大原と呼ばれた地に「昭和二十年 水害 慰霊碑」と刻まれた黒御影の石碑が建ちます。

昭和20年の水害とは9月17日の14時ごろ、鹿児島県枕崎市付近に上陸して日本を縦断した枕崎台風で、全国で約4000名、広島県内での死者、行方不明は2000名を超えたといわれます。

江田島町では、切串長谷川の氾濫で死者145名、秋月5名、秋月弾薬庫陥没、宮ノ原24名、石風呂(現宮ノ原)12名、大原(現宮ノ原)18名、大須48名と記録されています。


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石風呂川支流のため池です。
段々畑で作物を栽培するのに、水はもっとも貴重なものであり、必要不可欠です。

端正こめて十年間育て、やっと実を付け始めたミカンの樹も、十日間の日照りで黄色く立ち枯れ、今までの苦労がすべて無になってしまいます。
 

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島のお百姓さんが必ず持っている三種の神器は、軽トラックと、貯水タンクとディーゼルポンプです。
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宮ノ原 胡神社

1)江田島町北部・宮ノ原 胡神社 

「宮ノ原」の地名から、お宮が想像されますが、大正末に創建された「胡(えびす)」の宮より古い記録は残っていません。


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胡神社です。
大正11年12月7日、地元有志により中野の浜に建立され、昭和14年に旧漁協の中庭に移されていましたが、近年になり漁協施設「江田島漁業協同組合」が埋め立て地に新築移転しましたので、胡神社もお伴することとなりました。


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新築移転したモダンな建物に「江田島漁業協同組合」「宮ノ原水産振興センター」と、真新しい看板が輝きます。

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戦前の作りを見せる、旧江田島漁業協同組合(旧々宮ノ原漁協?)です。
手前の櫓は半鐘台件消防ホース乾燥台を兼ねる優れものですが、近年になり江田島市防災無線による、緊急放送設備が完備されましたので、半鐘の役目も終わったようです。


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旧江田島漁業協同組合正面です。
胡神社は右手の崖を背に祀られていました。


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島内でも、もっとも早くに近代化整備が終わった宮ノ原魚港です。

胡子神社といえば、広島市中区胡町で毎年11月に行われる「胡子大祭」が有名ですが、この胡子神社の御祭神は、蛭子(ひるこ)神・事代主神・大江広元公(毛利家の始祖)の三柱が三位一体となったえびす神で、元は吉田の胡堂に祀られていたえびす神を勧請したのが始まりとされます。

 

胡子神社では商売繁盛を祈願しますが、本来の「えびす神」は海神であって、豊漁をもたらす神として祀られます。

 

先人が、豊漁と商売繁盛も兼ねた「胡神」を祀った御利益により、この宮ノ原地区は漁業が盛況で、港湾や漁業設備など、島内では真っ先に整備され、これからも益々の興進が期待されています。


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漁期に備え整備中の小型底曳き漁船です。

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豊饒の江田島湾では、特産のカキの他にも、ひらめ・かれい・あなご・たい・めばる・かさご・えび・かに・たこ・なまこ・等々、尽きることなく水揚げされています。

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調べてみた訳ではありませんが、瀬戸内西部の島しょ部や、愛媛の漁船は船体やその一部を黄色い色に塗っています。
豊漁のげん担ぎとか、海難除けのおまじない???


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カキの運搬作業船です。
船橋に寄り掛かっている鉄柱(アーム)はカキ筏からカキを吊り上げるクレーンです。
早朝、カキ筏に吊り下げられたカキの連を、クレーで吊り上げ、船上に満載したカキを打ち子の待つ作業場へ運びます。


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旧道脇に年代を感じる倉庫風の建物が・・・

この辺りの地名を鰯浜と呼びますので、おそらく鰯が大量に水揚げされていた頃の、網を格納する網元小屋???、かも・・・(*^。^*)です。

当時、すぐ目の前に広がる砂浜は人々であふれ、地引網からこぼれ出た鰯を天日に干したり、カマスに詰めた鰯を仲買人の小舟に積み込んだり、砂糖キビや綿花の肥料として段々畑に背負い上げたり、みんなが嬉々として働いた時代があったのでは???・・・

国有無番地(旧海軍兵学校) 訓練・行事 2/2

旧海軍兵学校グーグル地図・構内の樹木 
自衛隊記念日である11月1日の前後、吉日を選んで記念式典と軍楽隊を先頭にパレードが行われます。

開催日はその年々により一定しませんが、一般市民も自由に見学できます。
 

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正門で、入構手続きをし会場に向かう途中、式典を前に服装の最終チェックをする、幹部候補生の前を通過しました。

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式典の花、国旗を携えて先頭をきる候補生の、威風堂々たる構えです。

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半年間の教練成果が今日の晴れ舞台で・・・

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華々しく、呉音楽隊が先陣をいきます。

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歩調もそろっていますねぇ~。
パレード(観閲行進)のときは、腕の振りを水平まで上げます。

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すばらしい。

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幹部候補生の行進です。

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お、おぉ~~ ・・・ (*^。^*)です。

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海曹学生(下士官)の行進です。

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海士学生(水兵さん)の行進です。

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少年術科学校生徒の行進です。

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女性自衛官(ウエーブさん)の行進です。


ちなみに、自衛隊が発足したのは1954年7月1日ですが、その時期は天候不順なことが多く自然災害とうの出動要請にそなえる意味もあって、記念日を11月1日にしたそうです。

国有無番地(旧海軍兵学校) 訓練・行事 1/2

旧海軍兵学校グーグル地図・構内の樹木 
兵学校移転の当初から、地域住民との交流は深く、学校行事などへの招待や、祭り(運動会?)、花見見学なども許可されていました。

また、兵学校生徒は休日になると付近の農家や商家に上がり込み、入浴や昼寝をし、甘い菓子や採れたての果物を、腹いっぱいごちそうになったとか・・・

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体育服装をし2列縦隊で歩いているのは、幹部候補生学校の入校式を控え、事前に構内の施設案内を受けている候補生学校入校予定者です。

桜花舞う休日であっても、桜の花をめでる余裕はとてもとても・・・(^_^;)です。


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同じく入校前の構内案内だと思いますが、この日は平日ですので新品の制服を着用しています。
隊列は組んでいますが、足の運びがばらばらです。
このような歩き方は、道足行進とよばれ、構外の人目につかない場所や、あるいは交通量が多く危険な場所で、「みちあ~~し、すすめ」の号令があって初めて可能となります。

今は、入校前ですのでゆるされていますが、入校式が終わった後ですと、突然建物の影から鬼の形相をした教官(分隊付)があらわれて・・・

「ぶんたぁ~~い、止まれ」
きさまらぁ~~、小学生みたいな歩き方をするんじゃ、なぁ~~い。
「せいれ~~つ」
「みぎむけ~~みぎ」
「かけあ~~し、すすめ」
今からグラウンドを3周する。ついてこぉ~~い。
足があってなぁ~~い。
もう一回廻りたいのかぁ~~
「ほちょう~~かぞえ」
「1・2・3・4、1234,1234」
グラウンドを3周し、そのまま駆け足で次の教場まで行くことになります。

ちなみに、普通に兵隊さんが足をそろえて行進しているのを「速足行進」と呼び、歩幅75cm、毎分の歩数(105~)120歩、腕はまっすぐ伸ばして前に45度、後ろには15度まで振り、手は親指を外に出し、中指に添えてかるく握る、などなど・・・、目線の位置まで規定されています。


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作業服で整列する、幹部候補生です。
おそらく、行進訓練を徹底教授されている場面・・・(^_^;)です。


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まともに歩ける訓練が終了したら、今度は腹這いになって進む訓練です。
今日は晴天で芝生の上ですが、水たまりだろうが、砂利道だろうが容赦なし・・・(^_^;)です。


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陸の上での訓練を卒業したら、いよいよ海上自衛隊ならではの、遠泳訓練です。
最終的には、8マイル(13km)を8時間かけて泳ぐことになりますが、それまでの訓練が・・・
ちなみに、お昼は近くの小舟に片手でつかまり、船上から差し出されたおにぎりを、片手でほおばります。

小舟の間に見える小さな黒点の一つ一つが、候補生の頭です。


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遠泳訓練も終わり、やっと海上自衛官の体力レベルに達した8月初旬、江田島市の協賛もあって、派手?な夏祭りが開催されます。

肉体的にきつい訓練もほとんど終わり、お盆休みの帰省を控えみんなノリノリ・・・(*^。^*)です。


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この後も、きつい訓練は続きますが、ここまで適応できれば後は惰性で・・・(^_^;)です。

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あまりに物事を真剣に考える人でなければ、春3月、幹部候補生学校でのすべての教育訓練を修了し大講堂での修業式に列席し、表桟橋から数隻の護衛艦に分乗して、実地訓練(内地巡航・遠洋航海)へと、さらに一歩を進めることになります。

画像は、一般幹部候補生の旅立ちではなく、7月1日修業の「幹部予定者課程」修了者の旅立ちです。
3月卒業の一般幹部候補生の場合は、3隻以上の護衛艦が迎えにきます。
 
ちなみに、幹部予定者課程とは、実務部隊において熟練した36歳以上50歳未満の准尉または曹長の中から試験により選考されたもので、候補生学校において12週の教育訓練の後、3等海尉として承認されます。

 

赤レンガでは、4月に入校し3月卒業の「一般幹部候補生」の他に「医科歯科課程」「公募幹部課程」「部内課程」「飛行幹部候補生課程」そして「幹部予定者」課程と、同じ屋根の下に在籍し共に切磋練磨します。

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たまたま、津久茂の海岸を散歩していましたら、突然沖の方から「お世話になりましたぁ~」「ありがとうございましたぁ~」って、・・・・
びっくりして、顔を沖に向けると、護衛艦「やまゆき」2,900トンが眼前に迫ります。


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えぇ~~~、私がお世話した人なんて多分いないし、第一いくら視力のよい海上自衛官だって、この距離では私の顔はわからないだろう~。

ふと、堤防の上に目をやると、いつ現れたのか数人の白い制服を着た方々(分隊長や教官?)が自衛艦旗を振っています。

なぁ~~んだ、やっぱし。帽子を振ったのは私にじゃないよなぁ~~

でも、本当は、「ばかやろぉ~、二度とくるかぁ~~~」って叫びたかったんじゃぁ・・・m(__)mです。

国有無番地(旧海軍兵学校) 構内の樹木

旧海軍兵学校グーグル地図・構内の樹木 
明治21年(1888年)8月に海軍兵学校が移転した後、造成したばかりで砂塵の舞う構内にはさまざまな樹々が植えられました。

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兵学校の桜は、花見客も出るほど有名ですが、もっとも早くに植えられたのは潮風を和らげる松の樹、そして大正期になって全国に流通の始まった桜(ソメイヨシノ)が植えられ、戦後公園樹として人気の出たツツジの類がそれらの樹下を縁取ります。

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海軍と言えば「同期の桜」そして、「桜に錨」をイメージします。

桜は兵学校の時代から植えられ、毎年4月の始めには、構内1000本の桜が一斉に花吹雪を舞い散らせています。

 

ちなみに、「同期の桜」は西條八十の原歌詞「二輪の櫻」を元に、海軍大尉 帖佐裕が兵学校在学中に替え歌にした。 と、言われますが他にも諸説があります。

 

また「桜に錨」は海軍兵学校生徒や海軍甲種飛行予科練習生の七つボタンを飾るものです。

 

なぜ、桜なのか、たしかな由来は不明ですが、明治の国際人であった、新渡戸稲造の書『武士道』で「武士道とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」と冒頭に記してあるように、まず武士道と散りぎわの潔い桜花が結びつき、その武士道を美徳、模範とした旧日本軍で桜花がシンボルにされたと思われます。


当然陸軍においても、五芒星とともに桜花が多用されます。

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兵学校の移転を記念し、明治天皇から下賜された2本の桜(ソメイヨシノ)が、明治26年に落成した生徒館(赤レンガ)の中庭に植えられました。

その桜は、生徒ら同期の絆の象徴として、片方に「貴様桜」、もう片方に「俺桜」、合わせて「同期の桜」と命名されました。
のちに1本が靖国神社に送られ今も健在?のようですが、兵学校中庭に残った1本は敗戦後進駐軍により刈られました。

今、中庭を賑わす桜花は、進駐軍に刈られた枝から芽吹いたと言われる2本のソメイヨシノです。
新「同期の桜」として大切に育てられています。

構内には、現在1000本の桜(主にソメイヨシノ、他にも山桜や八重桜なども)があるといわれますが、本格的に植えられ始めたのは、大講堂が完成した後の大正中期の頃です。
百年の時を刻み、幹の中心部が大きく朽ち始めた桜が目立ちますが、その枝下には新たな若桜が蕾を結んでいます。


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かって、江田島の神社やお寺、路の角々にも、仰ぎ見る大松が育っていましたが、昭和40年ごろからの松枯れで、すべての古松が姿を消してしまいました。

構内に、これだけの数の松(大半は黒松で、赤松や五葉松、ヒマラヤスギも)が残るのは奇跡的です。
また、ほとんどの松がきれいに整枝され、すっくと天を向いていますのは、さすがに兵学校、松でさえ「きおつけぇ~~~」「みぎへぇ~~~ならえ」です。

大方の松は兵学校移転時の明治中期に植えられたものですが、松枯れによる欠損を補充するために、若松の植栽もあります。


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赤レンガを引き立たせるクロマツのシルエットです。

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「イングリッシュオーク」、おもしろい葉っぱを持ったドングリの樹が参考館前の広場に・・・

トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、英本土を守った、イギリス海軍ホレーショ・ネルソン提督と対比される、ロシア、バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥海軍大将の遺髪は、この参考館に安置されています。

背景は、カイズカイブキとソメイヨシノ、フェニックスの葉っぱが2、3枚見えます。
 

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「ホルトノキ」の花です。
ヤマモモの樹とそっくりで、花や実が着かないと判別がむつかしい樹です。

近年は街路樹などにも利用されるそうですが、もとは暖かい場所に育つ常緑樹で、オリーブによく似た実をつける、あまり知られていない樹でした。


そのため、医師でもあった平賀源内が薬用に使われていたホルト油(オリーブ油)の採れる木、オリーブの樹と誤解して「ホルトノキ」と名付けたといわれます。

 

7月ごろ白いきれいな花を付け、翌年秋にオリーブにそっくりの黒っぽい実をつけます。


参考館の前、車路で隔てた位置にホルトノキの大木があり、四方に枝を伸ばしていましたが、今は・・・

他にも何本か構内で見た記憶がありますが、鬱蒼と茂る枝葉にはかなり広い場所が必要です。


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水交館下の法面に育つ、庭園樹風仕立ての松の群です。
一つ一つ見ても見ごたえのある樹形ですが、そんなんがいっぱい植わっています。
庭園植え込みの予備として育てられている感じ? ・・・(*^。^*)です。


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水交館へと上る自動車路がありますが、その坂道を支える石垣と車路の隙間に育った、3本の幹をもつ松の大木がありました。
端正に組まれた石垣を、力強く押し包んで育つ姿は迫力があってすてきだったのですが、この2、3年後、松枯れにより刈り払らわれてしまいました・・・(~_~;)です。


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ある教官室の玄関脇に育った、オリーブの樹です。

茶目っ気のある教官?が刈り込んだんでしょうが、いいセンスですね。
また、それを笑ってすます上官も・・・(*^。^*)です。

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表桟橋付近の松並木です。

兵学校創設当時に植えられたもので、松枯れの始まる前は並木道のように、2列に並んでいたのですが、台風の潮風をまともに被る、南側の列から枯れ始めたようです。


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第1術科学校庁舎前のロータリに育つソテツです。

構内にはこの他にも大講堂車寄せ前のロータリ、参考館前、水交館まえのロータリと、なぜか建物の前面には必ず?大きなソテツが植えられています。
 
水の少ないやせ地にも強健に育ち、生育がゆっくりで樹形の変化がなく、古木になっても移植が可能なため・・・(^_^;)かな?


ちなみに、江田島市能美町鹿川にある徳勢家の庭には、県下最大のソテツ(樹高約5m)があります。

弘長年間(1261~1264)に屋久島より持ち帰り植樹されたと伝えられ、県の天然記念物に指定されています。

国有無番地(旧海軍兵学校) 屋内展示物

旧海軍兵学校・江田島クラブ  
常設の展示物なのかは???ですが、校内見学者の待合所に指定されている「江田島クラブ」2階で見ることができました。
教育参考館とは違い、他の見学者の迷惑にならない程度であれば写真撮影も黙認されています。


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説明書によれば、「3インチ砲用教練弾薬包」 3インチ砲において、各種試験に使用する。
弾薬砲全長:883mm、弾薬砲重量:11.3kg、とあります。

弾薬砲の上に見える木くず(マカロニ?)のような粒がペレットと呼ばれ、砲弾の発射薬です。

元は米海軍で開発されたものですが、いまは国内でライセンス生産?されています。
改良型は自動装てんで、速射が可能なため航空機や対艦ミサイルの迎撃にも用いられます。


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手前はハプーン対艦ミサイル?・・・たぶん(^_^;)です。
赤いのは、訓練標的専用ジェット機「チャッカ3」?・・・たぶん(^_^;)です。
これらも、ライセンス生産・・・たぶん(^_^;)です。


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ホーミング短魚雷米国製、ライセンス生産?・・・たぶん(^_^;)です。

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魚雷の標的探知追従部になんと、昔の真空管式テレビで見たことのあるGT管が使用されています・・・(^_^;)です。

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ジャイロコンパス レピーター(羅針盤)です。
ジャイロコンパスとは、地球ゴマみたいなのを高速回転させ、地球の回転運動と重力の相互作用を働かせて一定の方向(真方位)を保持させるものだとか・・・(^_^;)です。

このコンパスの精度が良くないと、自艦の進路はもちろん、ミサイルや魚雷、砲弾がとんでもない方向に・・・

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中央のボックスは「ゆき」型護衛艦の操縦ハンドル(舵輪)です。
左は速力指示発信機で、右は非常用のマグネット羅針盤です。

このセットは見学者専用の操艦体験装置???ですが、隊員用にはもっと本格的なものがあります。


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深海潜水用の潜水服とヘルメットです。

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すべての自衛艦(艦橋付近)に取り付けてある鐘です。

一般に船鐘又は時鐘(タイムベル)と呼ばれ、船内で時間を知らせるために使われます(いました)。
今は時間を知らせることはしませんが、海上衝突予防法では、視界が悪い時や船が陸に乗り上げた時などに、他船に自船の存在を知らせる警鐘である“号鐘”を保持することがが義務付けられており、タイムベルがその役割をもちます。


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船乗りの基本ともいえる、ロープワークの見本です。

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海上自衛隊の階級章です。
金の量が多くなるほど、えらいさん・・・(*^。^*)です。

道ですれ違う場合、下級者が先に挙手の敬礼をし、上級者がこれに対し挙手の答礼を返します。
えらいさんだからって、ちょっと会釈で答礼するのはゆるされませんし、キンピカが目立ちますので離れた場所からも敬礼がきます。
欠礼することの無いよう周囲に目を配り、即応できるように右手には物は持ちません。

軍隊のえらいさんには、結構厳しい面もあります・・・(*^。^*)です。

国有無番地(旧海軍兵学校) 記念碑、野外展示物 4/4

旧海軍兵学校グーグル地図・屋外展示物、記念碑 
明治19年6月1日、海軍兵学校用地の視察測量団が訪れたとき、古鷹山の裾野に伸びた岬の先端、今は「八方園」と呼ばれる小丘には、お鷹神社が鎮座していました。

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画像は江田島町史よりの拝借・・・m(__)mです。

お鷹神社(現八方園)は画像中央、古松の根元に鳥居があって、その上の岬の先っちょ、小丘の頂を平に削った場所になります。

本浦地区(現国有無番地)には兵学校の移転前から大規模な干拓地が造成されていて、砂糖キビや綿花、ラッキョウ、サツマイモ、条件の良いところでは稲作も行われていました。
また現在水交館の建つ丘の下には小さな入り江と集落があり、少し奥まった位置には教法寺の大伽藍が完成したばかりでした。

視察からわずか2ヶ月(6月1日視察測量、7月20日買収、8月15日立ち退き完了)、住民や教法寺はただちに移転することを強要されましたが、このまま兵学校の敷地にするには低すぎますので、古鷹山の裾野を削って大量の土石で盛り土をすることになりました。

人力が頼りの当時としては超大規模な突貫工事でしたが、19年10月6日土木工事着工、1日平均10時間就業で、21年5月31日の竣工までに609日を費し、7万4000坪の地上げを成し遂げました。

この土石採取で削り取られたのが、古鷹山からお鷹神社(現八方園)へと続く岬の尾根と、キサキ鼻(木崎鼻)の南面で、このときキサキ鼻からは、県内でも珍しい青銅の八稜鏡が出土しています。
お鷹神社のあった半島の先端は兵学校庭園として残されることになりましたが、お鷹神社は中郷区 山ノカミに移転、その後江田島八幡神社境内に「古鷹神社」となって落ち着くことになりました。 

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この小丘は兵学校移転後、長く庭園とされていましたが、昭和3年11月23日、昭和天皇御大典を記念して「八方園神社」が創建されました。
が、敗戦後の昭和20年、進駐軍の手に渡るのを恐れて撤去、廃社とされました。

二つの神社の礎石に建つ「海軍兵学校之碑」は、かつて、この地で赤心に燃えた若き人々の精神を併せ留め、更にこの上に良き伝統が築かれることを希念して昭和42年に建立されました。


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八方園、小丘の頂です。
木立の先に、大講堂の屋根が続きます。

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八方園小丘の南端に設置された方位盤ですが、昭和16年に設置された初代の方位盤は所在不明です。

以下、「海上自衛隊第1術科学校」HPからのコピペ・・・m(__)mです。 

石造りの方位盤には、国内の県庁所在地及び主要国の都市名が刻まれており、生徒達が自分の出身地の方角に向かって思いを馳せたり、外国各地に向かって広い視野に立つことを目的に設置されました。

現在の方位盤は、昭和43年に幹部候補学校卒業生有志により建立されました。
古鷹山頂にも同様の方位盤が設置されております。

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八方園小丘の北東の麓に砲艦「赤城」の12cm単装砲の砲身が建ちます。

表に「軍艦赤城戦没者の碑」、裏に「明治29年4月 建」「長崎三菱造船所鋳造」と銘が入ります。

 

砲艦赤城は1890年(明治23年)8月20日に神戸「小野浜造船所」で竣工しました。
鋼製の船体に長崎三菱造船所鋳造の12cm単装砲4基を搭載し、排水量622t、最大速力は10ktでした。

 

赤城は日清戦争の天王山と言える1894年(明治27年)9月16日の黄海海戦で大奮戦するも、清国艦隊の集中砲火をうけ、艦長はじめ多数の乗員を失いました。

(戦死者11名、重軽傷者17名、被弾30発、船体中破)


その勇敢な行動をたたえ散華された霊を祀るため、大正6年に現位置に建立されました。

が、裏には「明治29年4月 建」とあることから、他所で建立されていたものを、こちらに移築した???・・・です。


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八方園から外れ、北の方に100mばかり坂道を登った場所に「従道小学校記念碑」が建ちます。
従道小学校は、海軍兵学校在職員等の子息が通う学校として明治23年から昭和20年まで構内に設立されていた小学校です。
校名の「従道」とは西郷隆盛の弟で海軍初の元帥になった西郷従道の名前から命名されました。


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従道小学校の全史を記録した、「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。
昭和13年10月31日に新校舎が建設される前の旧校舎です。
まるで、映画「二十四の瞳」を見ているよう・・・(*^。^*)です。

ちなみに、「二十四の瞳」原作者、壺井栄氏の故郷は香川県小豆島ですが、この物語の舞台は「瀬戸内海べりの一寒村」としてあり、小豆島と設定して書かれたものではありません。

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「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。

昭和3年11月に創建された、八方園神社に参拝する従道小学校児童です。


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「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。
 
昭和初期(昭和10年頃?)の兵学校空撮写真です。
神田川からの土砂が兵学校の方へ流れないよう堤防が造られています。
のち、神田川の流路を変えて、この堤防より内側が埋め立てられました。

ちなみに、センダンの花は淡い紫色をしています。
小さな花の集まりですが、羽状複葉の若葉から透かし見る薄紫の花はとても爽やかです。
鳥が種を運ぶようで、どこにでも芽生えて急速に大きく育ちますが、田植えの終わったばかりのあぜ道に大きく枝を広げ、風に揺らぐ花は最高の農村原風景を表わします。

兵学校校内にも「センダン」は大きく育っていたと思いますが、あるいは教育用語の「栴檀は双葉より芳」からの引用である「せんだん」なのかも?・・・(*^。^*)です。


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明治20年、海軍兵学校の用地造成中にキサキ鼻(木崎鼻)から出土した青銅製六稜鏡です。
平安中期のものと推定され、他に香炉や土器などもあったとされます。

出土理由は不明ですが、古くはこの地が「きさきといのうち」と呼ばれていたことから「妃土居ノ内」とし、高貴な女性の舘があったのでは?と、江田島町史に記載があります。

国有無番地(旧海軍兵学校) 記念碑、野外展示物 3/4

旧海軍兵学校グーグル地図・屋外展示物、記念碑 
この付近の見学は、天候や学生の屋外訓練の状況によって許可されない場合もあります。

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説明板には 「明石マスト」 巡洋艦明石(3,000TON)は、明治32年に国産鋼鉄巡洋艦「すま」型の2番艦として就役、日露戦争参戦後、大正時代には地中海方面で駆逐艦の旗艦として活躍し昭和3年廃艦となった。 と、あり、第1術科学校学生館の正面にグラウンドを挟んで対峙します。

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「気になる建造物 2/3」でも説明しましたが、この明石マストが当地に移管された目的は、生徒(学生)の旗りゅう信号送受信訓練のためです。

マストの右下に見える2つの鋼鉄箱の中には、国際旗りゅう信号に使用する信号旗が格納されています。

このカラフルな旗は、旗りゅう信号として以外にも満艦飾などにも使用されます。


ちなみに、海上自衛隊の満艦飾は、停泊中の艦艇(船)において、建国記念の日、天皇誕生日、憲法記念日、海の日、文化の日、自衛隊記念日、および観艦式実施日の朝8時から日没まで行われます。


旗は艦尾の自衛艦旗とは別に、マスト最上部にも自衛艦旗を掲揚し、船首から船尾まで信号旗を連揚します。

また、この信号旗の並びは適当に・・・ではなく、「海上自衛隊旗章細則 第17条」に従い掲揚旗の順序は厳密に規定されています。

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「わかば」搭載???の爆雷(Mk6)と爆雷投射機、後ろに爆雷格納ラックです。

爆雷は潜水艦の攻撃に使用するもので、先の大戦では重要兵器とされ、多用されました。

右斜め上に伸びる円筒が爆雷を発射する装置で、その先のハンドルのような輪っかが付いた球体が爆雷本体です。
円筒の投射機から、火薬の圧力でぶっ飛ばされた爆雷は海中に沈み、あらかじめ調定された深度で水中爆発します。

付近に潜水艦がいれば強力な水中爆圧により船体に大きなダメージを受けます。

また、潜水艦が真近の海中にいる場合は、ラックから手動で転がり落としたりもしますが、爆発調定を誤ると、自艦のスクリューや舵を損傷します。

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人力で転がして運びやすくするため、前後に丸いガード(輪っか)が付いた爆雷です。
米海軍が開発し戦後海上自衛隊でも多く使用されました。

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イギリス海軍で開発された対潜用小型爆雷投射機「ヘッジホッグ」です。
先の大戦では米海軍艦艇にも採用され、日本海軍潜水艦の多くが被害を受けました。

戦後、対潜ロケット砲や対潜誘導魚雷が開発されるまでの間、海上自衛隊の艦艇でも長く使用されていました。

ハリネズミのような投射機に、重量26kgの小型爆雷をセットし、同時に射出した24個の爆雷が投網を投げるように広がって、海中の潜水艦を広範囲に補足します。
 

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スウェーデンのボフォース社が開発した375mm 4連装対潜ロケットランチャーです。
対潜ロケット爆雷(ボフォース弾)を発射し、遠隔からの潜水艦攻撃が可能です。

無誘導ですが構造が簡易で破壊力もあり、多くの海自艦艇に搭載されています。(いました?)
 

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護衛艦「いそなみ」の主錨です。

説明板には、(昭和33年3月14日竣工 昭和62年7月1日除籍 新三菱神戸建造)
海上自衛隊創設期の国産護衛艦として建造した、DD型護衛艦いそなみ(基準排水量1,700トン)に装備していた主錨(1,8トン)であり、教育資料として昭和63年4月11日に現位置(旧海軍軍艦千代田艦橋跡)に設置した。 と、あります。

ちなみに、主錨と呼ぶのは、他にも錨があるわけで、非常用?あるいは後部投錨用?として、後部甲板あるいはその付近に予備の錨があります。

また、軍艦千代田の艦橋は海軍兵学校の号令台としてこの位置で使われていましたたが、敗戦後に撤去されました。

国有無番地(旧海軍兵学校) 記念碑、野外展示物 2/4 

旧海軍兵学校グーグル地図・屋外展示物、記念碑 
表桟橋付近の展示物で真っ先に目につくのは巨大な二連装の大砲です。

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この巨大砲塔は、戦艦「陸奥」の4番砲塔、45口径41cm連装砲です。

「陸奥」は長門型戦艦の2番艦として、横須賀海軍工廠で建造、1921年(大正10年)11月22日、就役しました。

あろうことか、大戦中の1943年(昭和18年)6月8日、原因不明の大爆発事故を起こし柱島沖で沈没。

戦後になって浮揚作業が行われ、艦体の一部や菊の御紋章が教育参考館に、主砲砲身やプロペラなどが、呉海事博物館に展示されています。

 

この4番砲塔は1935年(昭和10年)の大改装で取り変えられたもので、教材として海軍兵学校に持ち込まれました。


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陸奥とは姉妹艦、戦艦「長門」の九一式徹甲弾、砲弾重量は1020kgです。

この41cm砲の最大射程が38430mくらいになりますので、この位置から発射しますと山口県岩国の町とかは余裕で飛び越すことができます・・・(^_^;)です。


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駆逐艦「梨」に搭載された主砲で、対空火器としても使える「40口径八九式12.7cm高角砲」で、最大射程は14622mです。

 

駆逐艦「梨」は戦時急造艦として、川崎重工業神戸造船所で1945年3月15日竣工しましたが、同年7月28日、山口県柳井沖で米艦載機グラマンF6Fのロケット攻撃により沈没しました。

 

1954年9月21日に「梨」をスクラップを目的に引き上げたところ状態が良好であったため、改装を施し警備艦「わかば」と改名し、海上自衛隊に編入、1958年に兵装を装備した上で護衛艦として就役しました。

のち、実験艦としての任務をおびましたが、1971年3月31日に除籍、江田島の古沢鋼材に払い下げられ解体処分されました。


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日本海軍が高角砲として設計した初めての砲ですが、発射速度の毎分14発を維持するのは人力頼みです。

砲弾と弾薬包(薬きょう)、合わせて34.32kgを毎分14回、両腕で抱え上げ砲身に装填します・・・(_;)です。


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同じく、駆逐艦「梨」の甲板に装備されていた、九二式61cm4連装魚雷発射管です。

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発射管の魚雷装填口(裏蓋?)です。

魚雷を装填し、裏蓋を閉じて高圧空気を吹き込み、吹矢の要領で発射します。
打ち(吹き)出され海面に落下した魚雷は、あらかじめ調定された深度と方向を保って自力で進みます。


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水上艦艇用九三式酸素魚雷(直径61センチ)です。

酸素魚雷は日本海軍が世界に先駆けて開発に成功した、秘密兵器?でした。
航続距離、速力、破壊力、隠密性など、ずば抜けた利点もあったのですが、なにごともパンフレット通りには・・・(^_^;)でした。

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護衛艦「わかば」???あるいは、戦後米国から貸与された「くす」型護衛艦(PF)に搭載されていた米海軍の艦砲、「Mk.22」3インチ単装緩射砲です。

ちなみに、これと同じ3インチ砲3門が、三浦半島「観音崎警備所」に設置されていて、現在も礼砲として運用されています。
 

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同じく「わかば」???、あるいは「くす」型護衛艦に搭載されていた米海軍40mm連装機関砲(ボフォース社の Mk1)です。
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