津久茂 津久茂農環道

林道・農道・登山道・津久茂農環道 
津久茂山の中腹を半環状に農道兼生活道路が巻きます。

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アスファルト舗装はしてありますが、軽トラがやっとの細い道です。
初夏のそよ風に乗って、ミカンの白銀花が一斉に香ります。


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初冬の木枯らしに葉っぱを飛ばされた山の木々を背景に、ミカンが黄金色となって熟します。

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蜜柑農家さんのりっぱなお屋敷と、裏山には宮島鳥居に使えそうな、クスノキの大木がそびえます。

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下に目をやると、真道山をバックに超巨大なムクロジが、新芽を膨らませて芽出しの時期をうかがっています。

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南向きの斜面は暖かく、冬でも花がなくなることはありません。

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カーブミラーに写った、農道上の民家です。
きれいに手入れされたお家の前は、ミカン畑兼お花畑となって道行く人を和ませてくれます。

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眼下に江田島湾と、黒いシルエットを見せる自衛艦、その先にかすむのは、海上自衛隊第1術科学校、矢ノ浦、鷲部の海岸線です。 

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津久茂農環道から見る、第1術科学校(旧海軍兵学校)の遠景と、最奥のピークは呉市の休山(497m)です。

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人家を過ぎ、津久茂山の北面に回ると農地もまばらとなり、山から傾ぐ木々で日差しが遮られます。
もとは、一面に田んぼや畑があった場所です。
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津久茂 津久茂港

1)江田島町北部・津久茂港 
津久茂港は津久茂山の南面に、花崗岩の石を組んだ防波堤で囲われた、小さな港です。

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津久茂山中腹の、環状農道から見下ろした津久茂港です。
近年になって、石垣の外側をコンクリートで補強されてはいますが、宮ノ原地区の漁港に比べれば、とても粗末な作りです。


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港の立地場所として最適とは言えませんが、北風は津久茂山がしっかりと遮断してくれます。 

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船が舫ってある位置までは、狭い堤防兼歩道を歩いていきます。

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専業の漁師さんはいないようで、舫ってある船は大方がレジャー船のようです。

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津久茂港の東側に作られた野菜集出荷場です。
この地区で作られた野菜などは、ここからトラックに積まれ、主に広島市場に運ばれますが、つい先年までは、番船と呼ばれる小船で広島へと運んでいました。

江田島の各地区には、それぞれ専用の番船があって、その地区で収穫された野菜や果物を市場へと運び、帰りには地区の商店から頼まれた品々を山と積んで往復しました。
早朝一番、それぞれの港から出る番船が、トラックに変わったのは、そう遠い話ではありません。


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津久茂港が近代化整備をされない訳は・・・
この港が漁港ではなく、農港であったからです。

津久茂地区が、大正のころまで佐伯郡に組み入れられていた経緯と、関係があるのかは不明ですが・・・
津久茂山とその山裾だけの僅かな耕地では、生活できる訳もなく、新たな耕作地を対岸の佐伯郡高田に求め、船で津久茂の瀬戸を渡って、耕作地を広げていました。

往きは肥料を積み込み、帰りは収穫物を積んで、対岸の高田とを行き来する船を農船と呼びます。
津久茂港は、農船専用の船溜まりだったのです。 

画像は津久茂の山を右に、瀬戸を渡る農船が描かれた襖画です。
櫓と、一枚帆を巧みに操って瀬戸を行き来する農船は、昭和の30年頃までは普通に見ることができました。

帆走 
今時、帆と櫓(オール)使って昔さながらの航走をみせるのは、なんと海上自衛隊幹部候補生学校の学生たち・・・(実は、風が急に逆風に変わったので、帆をマストに巻いて、オールでもって全力で漕いでいます。)・・・(*^。^*)です。 

ちなみに、前を進む短艇のマストに掲げられた旗は数字の5を、後ろは数字の6・・・(^_^;)です。


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津久茂港の前に広がる江田島湾は、カキの養殖に最適で多くのカキ筏が係留され、作業船が忙しく走り回ります。

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津久茂瀬戸は自衛艦の出入りも多く、海峡の幅が狭くて背景も良いため、艦船ウオッチには最適な場所です。

津久茂 津久茂山(お鉢山)

1)江田島町北部・津久茂山(263,0m) 
津久茂山は、お鉢山とも呼ばれ標高は263,0mです。

江田島町内では、津久茂山のみが花崗岩ではなく、玖珂層群に属す中生代ジュラ紀の付加体で、泥岩や砂岩、チャート、石灰岩などの海溝堆積物からできています。
恐竜全盛期のジュラ紀、プレート運動により、深海から持ち上げられ、日本列島の原型となりましたが、その直後の中生代白亜紀後期に貫入した、江田島花崗岩や呉花崗岩の熱により大きく変成を受けています。

津久茂山と同じ地層は、津久茂水道を渡った能美町野登呂山や、沖美町の砲台山にあります。


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花崗岩特有の岩肌を見せる、古鷹山の頂から見る津久茂山の東面です。

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広島湾から見る津久茂山の北面です。

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津久茂山山頂にある、花崗岩で作られた三等三角点(263,0m)です。

ちなみに三角点は見晴らしの良い場所を選んで設置されますが、必ずしも山頂に設置されるとは限らず、むしろ山頂以外の場所にあることが多いようです。
 

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津久茂山は花崗岩の大きな台の上に乗っかっています。

その様子は、津久茂の瀬戸に面する山の西側でみられ、花崗岩と玖珂層群の境界が波で削られ、教材標本のような断面を見せています。
画像の下部、白っぽいのが花崗岩で、上部の茶色の部分が玖珂層群の泥岩です。
場所によってはチャートの互層が乗っかっていたり、断層で切られた地層などもあって、この付近の海岸は地学研修に訪れるのに最適なロケーションです。

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風化により、津久茂山から転がり落ちた、玖珂層群の泥岩や砂岩、チャートを組んだ石垣です。

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家々の土台も、畑の石垣も、坂道の石段も、すべて津久茂山からの転石が利用されています。
 
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津久茂山には、戦前の一時期、銅鉱山が稼働していました。
坑内には手押しのトロッコが走り、枝坑や立坑もあって総延長で数百メートルはあり、5,6人の鉱夫が働いていた?・・・とか。

画像は津久茂山の西面に掘られた坑道の入口です。
入口近くまで、地下水が湧きだしていて、坑道内部を見ることはできません。
 

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津久茂鉱山から掘り出された鉱石サンプルが、今も筑波の標本倉庫で眠っています。
なを、表中に古生代泥岩とありますが、最新の地学研究では中生代ジュラ紀とされています。

上記カタログは「地質標本登録データベース」からのコピペ・・・m(__)mです。


水晶採掘 
干潮の時間帯を狙えば、津久茂山の海岸線を歩くことができます。
波に削られた崖を丁寧に見ていけば、ペグマタイトに開いた晶洞に、水晶や、長石の結晶を見つけることもあります。

津久茂 井戸

1)江田島町北部・井戸 
津久茂地区で、水源となる山は、ほぼ円錐形をした津久茂山(263.0m)ただ一山のみです。
しかも、山裾は急傾斜を保ったまま、海へ落ち込んでいますので、途中で水を溜めておくことはまず不可能な地形です。   


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津久茂地区の集落を海上から見ると、家々が積み重なって山に登る様子が秋月地区と酷似します。
秋月地区も背後の山々は低く、雨水が小川となる前に海水とまじり合います。 
平地の水は、すでに先住者が占有していますので、新参者はあらたな水を求めて山を登る???。

もちろん、今は全戸に水道が入っていますし、江田島町内でもっとも早くに下水道が完備されたのは、この津久茂地区です。
ちなみに平成25年9月1日現在での津久茂地区の世帯数は271、男女合計で618名です。


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津久茂地区の海岸部から、品覚寺などのある山間部へと登るメイン道路です。
とはいっても、軽トラがギリギリ対向できるくらいの狭い道、しかも道路の半分は小川の上をコンクリ-トの板で覆い、暗渠となっています。

おそらく、この暗渠となった小川が津久茂地区最大の水量?を持つ小川です。
源流は品覚寺よりも少し上になりますので、標高差やく100m、総延長やく400m程度のおっそろしく短い小川・・・(^_^;)です。


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「津久茂の古いいど」は、旧江田島町教育委員会作成の学校教育資料より、コピペ・・・m(__)mです。

おそらく、津久茂小学校(2007年3月末廃校)生徒や父兄の方々の調査協力で作られたと思いますが、貧弱な小川からの給水を諦めた昔の人々は、井戸を頼りに生活圏を広げていったのだと想像します。

津久茂の人々にとって幸いしたのは、津久茂山の大部分が花崗岩ではなく、変成した堆積岩だったことです。

雨水を一気に流す花崗岩にくらべ、風化の進んだ変成堆積岩は保水力があり、雨水を少しづつ流します。
しかもその変成堆積岩の下には、地下水を遮断する花崗岩岩盤がありますので、井戸から地下水が湧出する好条件がいっそう高くなります。

とはいっても、津久茂山一山では、雨水を受けるための絶対量が不足ですが・・・
 

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もっとも標高の高い(やく100m)ところにある、「ふろのかわ井戸」です。
あまり手入れがされていないようですが、塩ビ管が何本も入っていますので、今も庭の散水や、野菜畑の灌水に使われているようです。

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もっとも下部に掘られた「村田の井戸」です。

井戸端会議ができるよう?まわりに石段が積まれ、雨よけに花崗岩の石柱で屋根が葺かれています。
井戸のまわりで大根や芋を洗い、脇に置かれたバケツの中には、西瓜が浮んでいたかも・・・(*^。^*)です。


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今は、井戸端に集まる人も無く、石柱で支えられた屋根も朽ち果て・・・

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名は不明ですが、古くからの共有井戸のようです。
近くのお婆さんが、時々お掃除に・・・


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石垣を組んだ段々畑の隅にも・・・

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農業用のため池です。
が、この池の周りは雑木が生茂り、畑も田んぼも人影も・・・


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水つながりで、・・・江田島町中央浄化センターです。

江田島町で下水道事業の基本計画が始まったのは、平成元年からで、平成4年に事業認可を取得、津久茂地区から事業を開始することとなりました。

同年、津久茂1丁目に中央浄化センターの建設が始まり、平成9年6月2日、津久茂、宮ノ原地区から供用が開始されました。

ちなみに、平成24年3月31で、江田島市の人口26.301人に対する下水道供用者は13.993人で、普及率は53,2パーセントです。

さらに、広島県全体では69,9パーセント、全国では75,8パーセントです。

津久茂 品覚寺

1)江田島町北部・品覚寺 
浄土真宗本願寺派観海山品覚寺の開山は天承5年(1577年)僧円寿(俗名 板垣竜之進)が地蔵を本尊として真言宗海見山地蔵院品覚寺としたのが始まりです。

二代浄信のとき、浄土真宗本願寺派となって雲海山と号し、のちに観海山と号します。
ご本尊の阿弥陀如来は鎌倉時代(1185~1333年)の作、地蔵菩薩像は東大寺大仏建立に尽力した大僧正行基(668~749年)の作と云われます。


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品覚寺は、津久茂の家々を見下ろす、津久茂山(263.0m)の南東面、標高80m付近にあります。
急斜面の狭小地に、高く石垣を築き山門や鐘楼堂が配置されています。

蛇足として、南東と東南の言い回しについて・・・
南と北を先にする表し方は西洋から、東西を先にする表し方は中国からの慣わしです。
方位を言う場合は、西洋式に北・南が優先で、北東・南東・北西・南西を使います。
で、地名とかを言う場合は、東北地方、東南アジアとか、西南戦争、都の西北とか・・・(^_^;)です。


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急な石段を登ると、石垣からはみ出さんばかりに山門が被ります。
門柱には「浄土真宗本願寺派 観海山(なぜか草書体?) 品覺寺」と表札が掲げられています。


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山門から見下ろす津久茂の家々、江田島湾とカキ筏、さらに対岸に宮ノ原、国有無番地(旧海軍兵学校)、鷲部、江南の地が一望できます。

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山門の横には、ずっしりと重々しく鐘楼(鐘つき台)が建ちます。

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宝暦5年(1755年)に作られた村民自慢の梵鐘は、昭和16年8月30日勅令の、「金属類回収令」で供出、現在の梵鐘は昭和30年10月に寄進されたものです。

ちなみに、「金属類回収令」とは、日中戦争の長期化による物資不足を補うため、官民が所有の金属類を回収するため、昭和16年8月30日勅令、同9月1日から施行されました。

が、戦火は収まることなく、太平洋戦争に突入、さらに回収を進めるために、18年8月12日さらに強制力を強めた「金属類回収令」に置き換えられました。

 

これにより、お寺の梵鐘は言うに及ばず、学校の二宮尊徳像、台所の鍋釜まで、あらゆる金属が没収されることとなりました


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鐘楼横には、白壁もまばゆい宝蔵が並びます。


品覚寺には、寛政(1789~1801年)末期のころ、僧叡石泉が滞在し「観海山記」、「三帖和讃観海編」を編修、その後も多くの学僧が訪れたと云います。

また、兵学校が移転以来、多くの生徒がここを訪れ、記名帳に落書署名した、「津久茂帳」なる綴りが寺宝として残ると云います。



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眼下の江田島湾が借景となり、狭小な境内が極楽浄土の金雲となって、浮かびます。

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あろうことか、昭和56年7月4日の早朝、前夜から続く激しい雨が、やっと小雨に変わったその時、突然品覚寺裏山の土石が、轟音とともに本堂を押し倒しました。
本堂には朝参りの門徒さんが、集まっていたのですが、一瞬にして大屋根の下敷きとなり、門徒集4名の尊き御霊を送る大惨事となりました。

元禄10年(1697年)建立の本堂は見る影もなく、やっと山門と、鐘楼を残すのみでしたが、昭和58年10月28日、本堂を再建、亡くなられた方々の名を銘記した碑を建てました。


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小島に建つ、津久茂住民先祖代々のお墓の向こう、最上部に、品覚寺大屋根が見えます。

津久茂 荒神社・胡子神社

1)江田島町北部・津久茂荒神社 
津久茂山(お鉢山)とその山裾に広がる津久茂の地は、大正14年2月1日までは佐伯郡に属していて、完全な陸続きであるにもかかわらず、安芸郡に属する江田島村とは違う行政区にありました。

ちなみに、津久茂の地名由来について、湿地に自生する、カヤツリグサ科「フトイ」の古語である、江浦草(つくも)からであると江田島町史にあります。

さらに、津久茂の開祖とされる、石垣(石内迫)勘左衛門は1325年(正中2年)2月、伊豆の国から渡来し、津久茂山の7合目あたりに居を構え、のちの、明徳の頃で(1390~1393年)、戸数7軒と云われます。
 

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桜花の元、津久茂荒神社拝殿が建ちます。

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津久茂荒神社の由来については不明ですが、6月の荒神祭にあずきご飯をお供えし、おさがりを参詣者で奪い合うならわしがあると云います。

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拝殿の背後、白い花崗岩台座の上に本殿が鎮座します。

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本殿扉の前には、特大のオノミチキサンゴが供えられ、お守り役の白猫が不審者を威圧します。

ちなみにオノミチキサンゴは、江田島近辺でもまれに見られ、海水がきれいで潮通しの良い、やや深い場所に生息します。
そのため普通には見ることが出来ませんが、底曳きの網などに絡まって上がることがあり、珍しさもあって、神社やお寺に寄進されたりします。

干潮時、ときどき目にする、キクメイシモドキもりっぱな造礁サンゴです。
海水の停滞する湾内や、どろや砂の舞う海岸でも生育できるため、江田島湾内や広島湾近郊でも見つけることのできるサンゴです。
 

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拝殿に掲げられた、1枚の合成写真。
特殊潜航艇5隻に分乗し、真珠湾攻撃の先陣を飾った九軍神の遺影です。

この時、奇跡的に助かり、捕虜となった酒巻和男少尉は、復員後トヨタ自動車に入社、トヨタ・ド・ブラジルの社長や現地日系商工会理事となって、ご活躍されました。

ちなみに、額下には「昭和37年11月18日 奉納 浜野峯次郎」とあります。
 

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津久毛港の防波堤にほど近い場所に、胡子神社があります。

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この胡子神社の由来は不明ですが、豊漁を祈願した津久茂漁師さんの気概と結束力を現わしたものであろうと・・・m(__)mです。

津久茂古地図 
江田島町史掲載の津久茂古地図の一部をコピペしたもの・・・m(__)mです。
津久茂地区には、古地名が沢山残っていて、うらやましい限りです。

シオヤとありますので、海岸で塩を煮詰めていたんでしょう。
小島はもっと古い地図では離れていましたので、干拓で陸続きに・・・
アジュウタって???
  
 
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対岸の、鷲部地区から見た、津久茂山とその山裾に並ぶ津久茂地区の家々です。
お鉢山とも呼ばれ、ほぼ円錐の津久茂山ですが、家々があるのはこの南東面のみ???です。
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