幸ノ浦 海上挺進戦隊戦没者慰霊碑

1)江田島町北部・慰霊碑 
江田島と言えば、海軍のイメージしか湧きませんが、江田島町の最北端、ここ幸ノ浦の地には、陸軍の秘密訓練施設「陸軍船舶特別幹部候補生」の船舶操縦養成所がありました。

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船舶特別幹部候補生とは15歳から19歳までの志願者で、昭和19年4月に香川県豊浜町にて第一期生約2,000名をもって開隊、教育訓練を開始しました。

同年6月、同部隊は小豆島渕崎村へ移駐、四式肉迫攻撃艇(まるレ)による実戦的訓練を経、8月25日挺進戰隊隊員となるべく養成教育を終了、以後の訓練は江田島の幸ノ浦で実施されることとなりました。


9月初旬当地幸ノ浦において、特攻襲撃となる最終訓練を得て、第一戦隊~第十戦隊の編成を完了、ついで10月には他部隊からの編入も得て第十一戦隊~第三十戦隊の編成を終え、決戦地であるフィリピン・沖縄・台湾へと展開しました。


海上挺進戦隊の一個戦隊は、戦隊長以下104名、「まるレ」艇百隻をもって編成されますので、19年10月までに三十戦隊、「まるレ」艇3,000隻が編成配備されたことになります。

この海上挺進戦隊の任務は敵の上陸部隊を海上で肉迫攻撃、艦船もろとも撃滅せんとす実質特攻艇部隊で、さらには特攻出撃を免れた者であっても、最前線である現地の部隊と合流し玉砕戦に投入される必死の部隊でした。


その後、本土決戦にそなえ、第二期生(2,000名が19年9月入隊)・第三期生(2,00名が20年2月入隊)それぞれ4ヶ月の訓練を終了、第三十一戦隊~第四十戦隊、さらには第五十一戦隊、第五十二戦隊の編成を完了して九州・四国・紀州の各地に展開しました。

また20年6月に入隊した、第四期生である第四十一戦隊~第五十戦隊および第五十三戦隊は仮編成での訓練中に敗戦となりましたが、当地幸ノ浦で原爆に遭遇した第十教育隊隊員は、広島市内において救護活動に専念中敗戦を迎え、当部隊が解散したのはその3週間後であった云います。

 

注) 原爆投下の頃には戦局の悪化や燃料不足により、各地での分散訓練となり当幸ノ浦は第十教育隊となって、総隊員数は100名程度だった???とも、また第二、第三期生の訓練生、各2,000名も順次幸ノ浦を訪れては特攻襲撃訓練を受け、戦隊を編成しては転属となりますので当地での部隊規模は最大でも300名程度であった、と???・・・(^_^;)推測です。

 

ちなみに、原爆投下時の幸ノ浦で「まるレ」艇による特攻襲撃訓練を受けていた「津田 弘毅」さん(広島 被爆時17歳)の回想記では、昼間の訓練は危険なのですべて夜間訓練となりました・・・部隊と言いましても特攻基地の部隊でございますから60名程度の部隊でございます。・・・と。

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海上挺進戦隊戦没者慰霊碑は昭和42年12月に建立されましたが、のち平成3年9月の台風により損傷を受け、碑文も読み辛くなりましたので、別建の銅板に清書されました。

 

 海上挺進戦隊顕彰之記

 

昭和十九年戦局の頽勢を挽回すべく、船舶特別幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校の精鋭を以て編成されたる陸軍海上挺進戦隊は、二五〇キロ爆雷を装備せるベニヤ製モータボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第十教育隊に於て昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第一戦隊以下三十ヶ戦隊が同年九月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和二十年一月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同三月以降の沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或は戦局の赴く所已むを得ず挺身陸戦に転じ奪戦せし者を含め戦闘参加の勇士二,二八八名中再び帰らざる隊員実に一,六三六名の多きに達し挙げたる戦果敵艦船数十隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は、秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり。

而して又第二次訓練再開されるや第三十一戦隊以下十二ヶ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第四十一戦隊以下十一ヶ戦隊は終戦時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活躍同年十月艇を焼き部隊を解散せり。

此等教育期間中の殉職者も数十名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆んど生還するを得ず。

その運命を共にせるものの如し。

祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に痛惜の念に堪えず。

ここにその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。

  昭和四十二年十二月三日

       元教育隊長  斉藤義雄 44期

 所在地 広島県安芸郡江田島町幸之浦地区

画像文字変換ソフト「読取革命」を使っての自動変換です。

一字のみ現代表記に替えていますが、他は原文のままに・・・。 

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江田島町中央「ふるさと交流館」に展示されている四式肉迫攻撃艇(まるレ)の模型です。

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「まるレ」とは正式名称を「四式肉迫攻撃艇」、70馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250kgまたは両舷に120kg×2個の爆雷を装備した陸軍開発の水上特別攻撃艇(計画設計では肉迫攻撃艇)です。

秘匿名称として「連絡艇」とよばれたので、その頭文字をとって「まるレ」と略称されました。

船体はベニヤ製で、約3,000隻?が生産され、実戦部隊では緑色に迷彩塗装を施しアマガエルとも呼ばれました。

                              

その性能は概ね次のとおりです。

 

艇型 半滑走型  全長 5,6m  全幅 1,8m  深さ 0,7m

自重 0,9t  満載排水量 1,7t  吃水 0,26m 

エンジン 日産またはトヨタ製自動車型6気筒ガソリンエンジン、70~80馬力  

最大速力 20~24節  航続力 3,5時間

武装 250kgまたは120kg×2個の爆雷

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「まるレ」の係留や揚げ降ろしに使用された石造りの突堤が残ります。
しばらく前までは、幸ノ浦地区で収穫したキャベツやキュウリを広島市場に運ぶ番船が舫っていましたが、今は魚釣りのおじさんが占有・・・(*^_^*)です。

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画像左の砂浜中央から沖へと伸びる突堤だけが当時のままに・・・。
その手前に広がるキャベツやキュウリ畑が幸之浦船舶練習部第十教育隊の用地で、9棟の兵舎が建っていたと・・・。

また、今は土石の採取で平坦地となっている、東側の山には防空壕が掘られ、燃料、資材の格納場所であったとか・・・

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波静かな広島湾を挟み10数キロ、肉眼でもはっきりと広島市街を見てとることができます。

昭和20年8月6日午前8時15分、一度に何万個分もの稲光に包まれ、やがて轟音とともに窓ガラスが砕け飛びました。
始めはバラ色の輝きを放っていた雲がむくむくと天をめざし、やがてはどす黒く天を覆いその傘は幸ノ浦の目前まで達したと云います。

10時ごろになって非常呼集があり、新型爆弾だと知らされて救助部隊を編成、片方に水筒、片方にカンパンの入った袋を持ち、大急ぎで大発動艇に乗り込んだと・・・

(前記「津田 弘毅」さんの回想より・・・)


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誰の献花か、花が枯れることはありません。

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今一度、英霊に原爆や数多戦災者の方々に、黙祷・・・m(__)mです。

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慰霊碑前の献火献煙台に刻まれた、若葉に舵輪・・・、彼らは少年兵とも呼ばれていました。

注) 上記はすべてネット資料から、要点つかみ取りのコピペ文・・・m(__)mです。
さらなる仔細が入用な方には江田島市在住の戦史研究家、奥本剛氏の著書「陸海軍水上特攻部隊全史」「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」等があります。

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幸ノ浦 県道297号(北岸道路) 

1)江田島町北部(大須林道・海岸周回・県道297号)a 
今は県道297号と呼ばれ、大型車の離合も難なく・・・(*^。^*)ですが。

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幸ノ浦集落から出て切串寄りの小さな岬に、「愛信貫之」と太く深く刻んだ花崗岩の自然石が建ちます。
当時北岸道路と呼ばれ、切串から幸ノ浦を経由し大原へと抜ける道路が完成したことを歓ぶ記念の碑です。

脇に並んで碑文もあり、「かっての孤立と困難苦難は、難路とともに昔日となった。ご尽力頂いた方々の、義心親愛に信依したことにより昭和25年秋に着工し、昭和32年春竣工と、8年の歳月を掛けこの大事業をなしえた。将来この道が狭いと感じるなら、それはこの道が発展の元となったからで、我らそれを願う。あらためて、お世話になった方々に謝意を表す」と、要約・・・(^_^;)です。


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大原(現宮ノ原3丁目)から幸ノ浦峠を越えると、木々の梢に似島の安芸小富士が乗り、遠く広島市街が望めます。

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此方は幸ノ浦バイパスとなる新道です。
今までのように対向車を気にすることもなく、大原、切串間を往くことができますが、幸ノ浦地区は素通りです。

左右の平地は山を削り取った跡で、その土石は広島市の発展に寄与しました。
数十年たってやっと地力が回復し、野菜や果樹などが育ち始めています。

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今は旧道となる、幸ノ浦地区へと続くイロハ坂?終点です。
途中、早めに対向車を察知し広めの路肩に待機しないと、100mばかりバック運転をすることになります。

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道路脇には、季節によりキャベツや、ダイコン、キュウリやスイカが箱に入れたまま放置?されています。

しばらくすると、軽トラが現れ荷台に満載して・・・

昔は地区ごとに番船に積んで広島の市場に運んでいましたが、今はそのままフェリーに乗せたり、まとめて大型車に積み替え陸路呉市場に運んだり・・・(*^。^*)です。

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車が増えたとはいっても、本土の交通量に比べれば・・・
で、サイクリング初心者には最適なコースが続きます。

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すぐ目の前に見える宇品と幸ノ浦の間に道ができ、第二の「愛信貫之」石碑が建つのはいつのこと・・・(*^。^*)でしょう

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海岸道路の脇で、熊さんがスイカを冷やしていました・・・(*^。^*)です。

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五月の連休の頃、幸ノ浦峠の草むらにジャケツイバラの花が頭をもたげます。

幸ノ浦 花の木川(本谷川)

グーグル地図(北部江田島町)川名 
幸ノ浦と呼ばれるのは、この花の木川からの恵みがあったからです。
合流する本谷川よりも細く、むしろ本谷川の支流のようにも見えますが・・・

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もっとも下流の部分に、小さなすべりを作って、船溜まり(幸ノ浦港?)としています。

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西隣りの大須地区に比べれば格段の水量をもった川です。

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これだけの水量がいつでもあれば・・・

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堤防は花崗岩の切石を一つずつ丁寧に積んでいます。
本流との合流分部では水の流れを考え、上流側は鋭角に、下流は緩い円弧に仕上げてあります。

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この部分では、水量が増えれば、より流れやすくするためにV字にカットされています。

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川の名前になっている、ハナノキ(ハナカエデ)は木曽川流域の山間部湿地に自生するカエデの仲間で、当地に自生があったとは思えません。

もし、自生する木々から花の木川の名前をとったとすれば、12月から2月ころまで枝先に真っ赤な花のような実をつけるタマミズキのことかも???・・・(*^^*)です。

カキノキならあるんですけど・・・(^_^;)ね。


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・・・です。

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今は竹藪となっていますが・・・
何世代にもわたり、大切に手入れされた田んぼだったのでしょう・・・

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最上流部には、水を溜めるコンクリート作りの大きなタンクが並びますが・・・

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もと配水タンク?も・・・

幸ノ浦 幸ノ浦説教所

1)江田島町北部・幸ノ浦説教所 
もとより教法寺の信徒ではありますが、当時の険悪な道路事情にあわせ、西本願寺からの御尊形をいただき、明治10年7月仮説教所として建立、一時期「一念寺」の寺号も賜りましたが、昭和28年、教法寺主管の「幸ノ浦説教所」となって、現在にいたります。

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昭和49年に建て直しが行なわれたと云います。

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昭和21年、最盛期の幸ノ浦地区の戸数が47戸、総人口が229名、小さな集落ですが立派な造りをした説教所です。

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鐘を叩く木槌も新しく、毎朝のお勤め「御晨朝(おじんじょう)」を促す札も貼られています。

 

ちなみに晨朝(じんじょう)とは・・・

 

夜明け方。 午前六時ごろ。 卯()の刻。 現在の午前6時ごろ。 また、その時に行う勤行(ごんぎょう)。 朝の勤め。 晨朝(じんじょう)に寺で打ち鳴らす鐘。

 

などの意味があるとか・・・(^_^;)です。

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説教所の脇にある小高い丘に、幸ノ浦を作ったご先祖さまのお墓が並びます。

ところで、「お墓」とは何なのだろうか?

 

少し考えて見たいと思いましたが、かの柳田國男氏でさえ手こずったと云われる難問、私にはとてもとても・・・ですので、下記の本とその評価記事を御紹介します・・・m(__)mです。

 

「お墓」の誕生 ─ 死者祭祀の民俗誌

[著者]岩田重則

 

[評者]鶴見太郎

[掲載]週刊朝日20070223日号

 

日本の「お墓」の変遷を探る

 

 日本人はいったいいつから遺骨、そしてそれを入れる「お墓」という空間に執着し始めたのだろうか。何気ないことかも知れないが、実はこの問いかけは日本史上の大問題でもある。

 

 例えば平安時代の貴族は、自身の近親者がどこに葬られたのかについて、ほとんど関心を払っていない。十世紀初頭の貴族官僚・藤原忠平などは自分の先祖の埋葬場所についての正確な記憶すら持っていない。

 

 無論この背景には、古代から日本人を縛り続けてきた死穢(しえ)(遺体)に対する強い禁忌の念があった。かつて柳田国男と傘下の民俗学者は、日本の墓を「両墓制」という用語で説明した。遺体の埋葬場所とは離れた別の場所へ石塔を建立し、死穢を介さない石塔のほうを祭祀の対象とするシステムだ。死者を怖れた時代と仏教受容によってその障壁が除かれた時代の重層を説くこのモデルは、見事に日本の墓制を解き明かしたかに見えた。

 

 しかしここに重大な落とし穴があったと本書は考える。仔細に見れば、「両墓制」が想定する型の墓地はむしろ少数であった。だが、この事実を踏まえず、沖縄に日本の祖霊祭祀の原型を求める柳田によって同地の習俗がそのまま本土に敷衍され、詳しい検証がなされないまま定説化したことによって、知らず知らずのうちに日本の墓の「原像」というべきものが作られてしまったのである。

 

 この違和感を下地に、本書は周到な方法によって日本の墓制を分類し、その変遷を再検討していく。その結果、中世において土葬・火葬にかかわらずなされなかった石塔建立が、近世の寺檀制度で次第に民間へ浸透し、我々には馴染み深い「先祖累代」と刻んだ墓石が成立するのは近世後期だったという意外な行程が描き出される。

 

 「あるべき仮説」によって原資料を歪めることに著者は強い批判を込める。靖国神社に祀られる戦没者を一種の「両墓制」で説明しようという議論への反駁もまた、しっかりとした方法意識を経ているだけに明快である。


以上、完全なるコピペ・・・m(__)mです。


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その、お墓の下には二又に分かれた防空壕が残ります。
ご先祖様に守られ、とても頑丈な防空壕です。

幸ノ浦 幸之浦荒神社

1)江田島町北部・幸ノ浦神社 
1710年(宝永7年)幸ノ浦地区の戸数わずかに1戸、人口が4名、石高は無しです。
ところが、わずか50年後の1760年(宝暦10年)には2町7反の土地と11石7斗の石高を記録しています。

ちなみに、幸ノ浦の開祖とされる、田頭家は広島からの入植だと云われ幸之浦荒神社の元は田頭家の氏神でもあったようです。

その、田頭家について・・・


1701年(元禄14年)宮島管絃祭において、御座船還御のおり洋上において突然の暴風雨に襲われました。

御座船は江波、阿賀の救援船で転覆を免れましたが、陸上の灯火がすべて消えてしまったために、方角を見失い海上を漂うのみでした。

 

それを察知した、江田島幸ノ浦の田頭新蔵が臨機応変、宮島大鳥居を示すかがり火を焚き、それを目当てに怒涛をのり切りって無事に還行が叶いました。

 

その事により毎年、幸ノ浦の田頭家から宮島へかがり灯火の献灯がなされるようになりましたが、のちかがり灯火に替え、直径2メートル、3本のローソクが立てられる大提灯が掲げられることとなりました。

 

この大提灯は普段、この幸ノ浦神社で保管され、今も田頭家により献灯が行なわれています。

推測ですが、この功績により宮島からの保護と支援(お墨付き?)を頂き、幸ノ浦の開発が一気に進んだのでは・・・(*^。^*)です。

注: 1町とは約1ヘクタール、一石とは100升、お米1升は約1.5キログラムですので、1石は約150キログラムとなります。

 

1石は当時の成人1人が1年間に消費する、お米の量にほぼ等しいと見なされ、1/10町である1反で1石、1町で10石の収穫が標準でした。

 

2町7反で11石7斗の石高ですので、当時の幸ノ浦地区では標準的な田んぼに比べ半分以下の収量です。 

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宮島に献灯する、かがり灯火のようなヒガンバナが・・・
ちなみに、現在の社殿は明治10年9月の再建になります。 

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荒神社の建つ境内は古鷹山系の北斜面を転がり落ちたと思われる苔むした大石に囲まれた小丘で、神社建立には最適の地です。

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神社境内に登る石段です。

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神社正面から・・・。
 
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正面に、明治拾年九月御改築、幸之浦荒神社、と墨書した松板が掲げられ、拝殿天井には大きな木箱がつるされていて、中に宮島管絃祭(旧暦6月17日)に用いられる田頭家の大提灯が格納されています。
また、拝殿側面に荒神社の御由来書があり、それによりますと御祀神は素戔男尊(スサノオノミコト)であり、さらに田頭家とのご縁などが記されているようですが・・・
私には読めません・・・(^_^;)でした。

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拝殿内に掲げられた、天橋立画です。
奉寄進
大正拾壱年 丸子保吉  
九月吉日 小中??

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昭和御大典記念
明治三十七年八月二十九日ヨリ九月四日マデニ亘ル遼陽戰闘中
露國軍ヨリ我ガ第五師團ニ發射セラレシ野砲彈
山口小三郎


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ちっちゃいけど品のある拝殿と、それを引き立てる巨大な転石・・・

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境内も拝殿も奇麗に整理されていて気持ちの良い空間が作り出されています。

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いやいやぁ~ ・・・(*^。^*)すてきです。

大須 いいとこ撮り 2/2

1)江田島町北部・大須地区 
見て廻るだけならとても魅力のある地区ですが、何世代にもわたりこの地で生活をするとなると・・・

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三方を岩山で囲まれた小さな入り江に、ぎっしりと家々が立ち並びます。

同じように、平地の少ない秋月地区や津久茂地区では、まだ山の斜面を削って屋敷を作ることができましたが、大須地区の山々は急峻な岩山ばかりで、人の力で削り取るなど到底不可能、墓地となるだけの雛段を作り出すのがやっとのこと・・・(^_^;)です。

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現在多くの家々が放置され廃屋が目立ちますが、最盛期の昭和21年には、この大須地区の戸数は132戸、人口が566名、家々を結ぶ路地さえ確保できない密集状態でした。
メイン道路は溝に板を渡した、いわゆるドブ板通り、それさえ確保できず家々の前庭や裏の軒下が公共道路として使われていました。

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ドブ板はなくなり、コンクリ-トやグレーチングに変わりましたが、道の広さは変わりません。
居間のガラス戸から30cmもない距離を人々が行き交いますので、プライバシー?とかは・・・
大須地区民の、み~んなが一家族・・・(*^。^*)です。

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この大須地区には、他地区では見ることのない、長屋作り?的な建物が数軒あります。
狭い土地ですので、真四角な建物ならわかる気がしますが?・・・。
個人的なイメージですが、北の日本海海岸で見たことがあるような?、ないような??、独特な造り???・・・(^_^;)です。 

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納屋として作られたようですが?・・・

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もしかしたら?ですが、葉タバコの乾燥用に作られた???・・・

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庇の短い白壁作りの民家の壁面です。
景観の良い海に面した側ですので、現代の建物なら大きく解放するのですが、防潮堤の貧弱な当時であれば、北からの潮風を防ぐために???

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もちろん、狭い土地には最適と思われる四角い家の方を多く見ますが、他地区に比べ庇が短く詰められて敷地目いっぱいに建っています。

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軒下を通る狭い路地にジンギスカン鍋が立て掛けてありました。

聞いた話ですが、かって江田島が蜜柑景気で賑わっていた頃、観光みかん園での食事メニューとして、ジンギスカン料理が定番だったとか?
また、そのような場所でジンギスカン料理の提供を始めたのは、江田島町が発案発祥地だとか?・・・

ジンギスカン鍋、私んチにもありましたが使ったのは1回?くらい・・・(^_^;)です。

ちなみに戦後の一時期、江田島町の緬羊生産は全国でも上位の生産量と品質を誇っていました。

大須 いいとこ撮り 1/2

1)江田島町北部・大須地区 
風光明媚な土地ではあっても、潮流と北風をまともに受け、残る三方から急峻な岩山が迫りくる地形であったため集落の形成には時間がかかりました。


1710年(宝永7年)の記録では、切串地区の石高111石、人口120名に対し隣りの孝ノ浦地区は人口4名で、石高は無し、大須、差須浜地区では人口、石高ともに記載がありません。


1745年(延享2年)になって、鷲部の勘兵衛が大須差須浜にコウゾ畑を開いたとされる覚書が残っていることから、彼が大須の開祖と云われます。

 

さらに、1793年(寛政5年)の絵図には「大おふす」「さす浜」「あなじ泊り」「さこう田」の地名がありますので人家や田畑が作られ、人の往来も始まったと思われます。

 

ちなみに、大須開祖の勘兵衛から二百年後の昭和21年2月には、大須、差須浜地区の総人口は556名、戸数132戸、大須国民小学校児童数141名(幸ノ浦の児童も含む)を記録しました。

 

また、勘兵衛が入植当時からの松が「大松の黒松(周囲4.5m、高さ20m)」として広島県文化財天然記念物に指定されていましたが、昭和51年11月17日松くい虫被害のために切り倒されたと江田島町史にあります。


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今も「江田島町立 大須小学校」の門標がのこり、校舎や校庭、桜の木々も当時のままとなってはいますが、大須小学校が廃校となったのは2006年3月、学区は切串小学校に統合されました。

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大須尋常小学校の創設には諸説ありますが、明治中期に切串の分校として幸ノ浦におかれ明治24年、大須尋常小学校として独立、ほぼ現在地に校舎をかまえたとされます。

ちなみに明治33年に同じ学区の幸ノ浦地区も含め全就学児童は45名、同年8月20日、小学校令により修業年限が4年に統一され、明治40年さらに修業年限を6年とし、加えて2年の高等小学校が義務教育とされました。
小学校6年、中学校が3年と9年間の義務教育が課せられたのは、1947年(昭和22年)4月1日からです。


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教室の窓に瀬戸の波しぶきが飛び込みそうな位置に建ち、沖行く船や、風に流れる白い雲を眺め、裏にそびえる大須山からは赤や黄色の落ち葉が吹き込んでくる、そんな夢みたいな小学校があったなんて・・・

こんな学校なら、ずう~っと留年してもいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。


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元、大須小学校・・・ え、え、なぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

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もと大須小学校の校門前にある民家の軒下に、ラムネの空瓶が・・・
最後の大須小学校運動会で、ラムネの早飲み競争とかがあったのかも・・・(*^。^*)です。


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現在ある、鉄筋コンクリート3階建ての大須小学校が完成したのは昭和53年2月23日です。

それを記念し、さらには機関車のように強くたくましく、就学児童のおおいなる成長を願って、小学校からも近い海岸にD51の動輪が設置されました。

その説明プレートには

・・・ D51形式蒸気機関車の動輪 ・・・


この動輪は「デゴイチ」という呼び名で、みんなに親しまれていたD51形蒸気機関車の動輪です。

「デゴイチ」の仲間は1115両もあって、昭和11年から昭和20年まで造られ、貨物列車を専門にひっぱる最も代表的な蒸気機関車でした。

とても力持ちで、平たんな所ですと、1100tの貨物列車をひっぱって、時速85kmで走ることもできました。


又山陽本線の箱根といわれた瀬野駅と八本松駅急勾配の後押おし機関車としても活躍しました。

この動輪が走った距離は2,038,715kmで、それはちょうど地球を50回も廻ったのと同じくらいの距離になります。

そして主に名古屋、米原近くの東海道本線や山陽本線、呉線など西日本で活躍しました。


・動輪の直径 1.4m

・動輪の重さ 3,025kg

 

この動輪がついていた蒸気機関車の履歴は下のとおりです。

・名称 D51形式蒸気機関車

・車号 D51435

・製造年月日 昭和15年9月25日

・製造会社 日本車輌株式会社

・車両用途廃止年月日 昭和42月9年2月25日

・最終走行距離 2,038,715km

・大きさ全長 19.73m 巾 2.78m 高さ3.98m

・機関車の重量 125t

 

設置年月日 昭和53年8月

寄贈 大須小学校P.T.A

2013-12-23 004 018 
土壁に杉板を重ねた、もと大須農協の店舗兼倉庫です。

2012-10-01 002 109 
電話、電報の取次店?
今は、みかん畑から携帯電話でリアル画像が送れるって・・・(^_^;)です。

右上に、電線を保護する碍管や碍子が見えますので、戦前の建物?かも・・・

2012-10-01 002 107 
農協建物の裏側です。

画像は、2012年10月1日、第46回衆議院議員総選挙の12月16日をひかえ、杉の板壁に2枚、寺田稔氏のポスターが貼られています。
スローガンは「信頼と実行」、前回の選挙で敗れた民主党三谷氏に圧勝し、現衆議院議員としてご活躍中です。

先ほど寺田氏のTweetsをチラ見したら

 

・・・・リース方式を活用して小口農家の農地を借りて大規模化を行い農業法人を中心に担い手支援を行うもので、有効に活用されればかなりの効果が期待できます。まだ具体的な申請要件などはこれからです。積極的に国の施策を活用し農業振興と「攻めの農業」の実現を図ってまいります。

 

以上、コピペ・・・ m(__)mです。

農協の板塀にポスターが貼られただけのことは・・・(*^。^*)あるようです。

2013-12-23 004 090 
画像の撮影は2013年12月23日、この日の板塀には日本国総理大臣安倍晋三氏のポスターが貼られていました。

スローガン? 目標? 「日本を、取り戻す。」・・・ (*^。^*)です。

句読点の付いた、力強い文となっていますが・・・
安倍氏にかぶさるように、皇帝ダリアが植えられています。

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