柿浦 征夷大将軍社

4)能美町・沖美町南部  柿浦大将軍社 
他の地域では明治初期の廃仏毀釈運動で廃れてしまった、大将軍信仰が盛時のまま今に残っています。

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農家の横手にある、昔の葉タバコ乾燥小屋を回り込んで、ミカン畑へと続く小道をたどると、その先の尾根筋に小さなお堂が見えます。

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小さなお堂ですが、あじのある花崗岩切石の上にシャッキと建ちます。

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そもそも、大将軍とは陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一つで、魔王天王とも呼ばれる大鬼神だとされ、平安京遷都にあたり王城鎮護のため都の方除けを負い、東西南北の天門守護として造営されたのが国内での大将軍信仰の始めです。

 

のち、江戸時代に入り方位の厄災解除の他、農耕牛馬の守護や、疫病退散の御利益があるとして、全国に波及し多くの信仰を集めたとされます。

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大将軍のお堂に付随する、拝殿?祭殿?式殿?が大将軍堂の前に建ちます。

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拝殿?は扉をかたく閉ざされていますので、内部の様子は分かりませんが、正面に征夷大将軍社と墨書されています。
一般的な大将軍神社では、征夷は冠しないようですが、より大きな御利益を求めて・・・(*^。^*)です。

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境内の脇に植えられた若桜の枝下、今も大将軍社を敬う里の家々・・・

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大将軍社の前面、同じ尾根筋には五輪塔や古い墓石が並びます。

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大将軍社境内からさらに南へと続くこの尾根は、古くからの里人の墓所としても崇められています。
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柿浦 荒神社 2/2

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柿浦荒神社へと向かう途中、白板に「落人のさと中郷(二位の谷)古しるべ」と題した郷土史家 奥田権太郎氏 の考証となる史文(昭和57年紅葉月)が墨書されています。

村名、郷名の由来、荒神社の開基なども詳しく列記されていますので、原文をタイプし掲載します。

落人のさと 中郷(二位の谷)古しるべ

(一)村名由来と概要史

柿の浦とは即ち中世紀末の頃、故あって隠遁の落人七戸半釜(カマチ)の一行が無人の此地に住着いたものとして、郷村史発祥の通説とする。

今其の荒ましを要約すれば、いつの頃か、さぞかし身分のある長袖姿の舟人が一羽の白鳥に導かれ漂着した。

此点と末友文章に於て、折々柿の浦なる所以は往昔にして安藝戸柿を落ちたる長袖の者流れ着き始めて隠所と定む。

所名の所以即ち舟出地たる戸柿の浦と口遊(クチズサミ)たる故に因むと記され、地名の由来を単直にもたらす。

是に依り発祥と村名を一体のものとして成立する極めて独自性ある背景を鮮明にし遠祖は身分ある落人とされ、乍ら此処に至る過程については空白謎とする面も多く、すべてを片々たる口伝に頼らざるを得ないのが無文史無史跡の中に於ける郷土史考証の実状とされる。

 

(二)郷名由来

往古より此郷は居住に適さぬ深い谷間の地形となり始めて住着いた落人が二位を名乗ったとして郷名も二位の谷と名附けた。

村名と共に郷名由来についても極めて鮮明になされる。

是が江戸中期に至って二位とは余りに畏れ多いとし中郷と改める称名の事由は北迫下岡の中間に当たる方位を示すとし佛護寺の僧に頼み名附けられたもの。

又以前より中の合、中の谷の通称は用いられたとも聞く。

 

(三)  郷名異説

異説としては二位の谷の由来としていつの頃か祈祷師として郷に住み着いた、別當なる者の館に平家落人二位局時子の世をはばかる御一行を囲まう行在所とした。

栄ある由緒を伝えんが為に其御名を郷名とした。

との、秘伝一巻も家實として来たが見ると目がつぶれるので祖先が藩に差出したとか、其上自らも家名とし仁井谷と名乗る。

此為か中郷の中腹に在る元屋敷を行在所とも呼ぶらしい。

今は往古の真偽いづれとしても地名の変遷一つにも、こうした落人哀史に深くまつわる郷史展開を見るに至る。

 

(四)  郷年証史

無文史に於ける唯一年証史料たる承平二年辛卯(932)春二月柿の浦鳶ヶ鼻沖合を書き出しとする。

時の権者衛門尉季友創基になる八幡神社縁起文書に照せば此時代概に郷集落のありかを暗示されると共に落人起源についても概ね平安後期(藤原)前後かと推定され開郷以来即ち千余年を経たる成立年証となし得る。

 

(五)  郷開祖家 二位谷本家

由緒ある落人伝承の実在とした二位谷本家については守本家付近に家屋敷跡在りとするのみでさしたる物証も残さず。

最後の当主は佐和ヱ門と伝える明暦(1655)頃に流行の疫病に見舞はれ一家断絶し落人七釜半の本家筋は郷より絶える。

未知の分野の多い中で僅かに「村の名主は佐和ヱ門さんよ」と盆音頭に歌い継がれた古老の口伝を辿れば同家が単なる旧家のみならず、ある時代村落の支配的要位に置かれ、其事蹟に依り歌として残されたものと推察され伝承実在の証としても要目に値するであろう。

 

(六)  郷史家 末友考

千古の郷土史考証に於ける象徴的存在としての末友家は承平二年佐衛門尉季友(スエトモ)神伝事蹟以来の栄光を浴び乍らも、出自系譜初期家名等一切空白の謎を残し乍ら其資料に頼れば、平安後期初の頃に此地一帯を支配する官人として赴き後に大原政所依り中郷に移り土着する。

此間に能美島荘園時代を制する実権を握り、製塩、大舟主、金貸を業とする豪族として広く名をなす卋人は其名声を伝えるに。

八反余に及ぶ屋敷の高石垣上の建物は遠く沖合を通う舟人にも衛門長者御殿として知れ渡る。

すぐ其下は海となり多くの舟倉が建ち並ぶ(大略)と哀運に至る約六百年余の栄光の一片をありありとしのばせる。

更に残文資料中特筆すべき点としては八幡神社縁起原文書に関して応永三年(1396)佐衛門亀重五十有九歳之清書改と有り。

天文十五年(1553)大内公より柿の浦刀禰と任命を授かる。

元亀二年(1571)能美島浦家役に補せらる。

末友姓の確認に付いては永禄六年(1536)山野井家文書に記される迄は不明とされて来た。

末友姓を名乗るに付いては能美荘園制下貢納第一位稱に当たり資料的には寛治5年(1091)以降と考証される。

周知の通り名家として古文資料も多数蔵されてきたが天文二年(1533)の兵火に惜しくも焼失する。

本文の資料は其の残文書に頼るものである。

(七)  佛跡史

阿弥陀堂は北迫寺山在の尊応寺が洪水に流失の後に其流木を集め建立の小堂とされ、現妙覚寺の前身とする。

従って主要な法要は佛護寺より僧が出仕する事となり僧宿は中谷家が務めた。

堂内には倉田傅之進が寄進する六地蔵尊も安置されたが天保七年(1836)六月より九月に続く稀な長雨、大暴風に加え虫害を蒙る大飢饉に見舞はれ、村人は雑草に至るまで食い尽し老人子供を先に死者続出の上で、萬止む無く六地蔵尊を出海(イヅミ)の番舟に積込み食べ物と取替へて多くの命を救はれた悲惨な思出を残すとか。

この寺地に接して村有地には藩の御触書札立場、社庫、もあり又物納年貢の集め場所ともなり年貢日には山の上から触役が大声で「年貢を持って来なハレヨー」と、おらんで知らせる風景も見られた。

其場所も今より約二百六十年前の天保の頃には御堂のすぐ下が波打際で広島や呉に向う番舟に便乗者を乗せるのに、早よう来んと出すドー、と岡に向っておらんで居たと云う。

是より西の清水川までの間が白砂青松の続く美しい浜辺となり女子供達が捕食の貝取りをする場所とされて居る。

 

(八)  神事史 荒神さん

荒神社の開基については郷祖家二位谷の氏神とする説と大君の大荒神分社とに分れ今はいずれとも判じ難く開基年代不明乍らも概に江戸初期版の島古社時志に於て、おく迫荒神と記載これ以外に村には他の神祠は認められず。

かって荒神伝兵衛が郷の代辨人(ダイベンニン)として八幡宮神座の争いで元々は荒神は村郷合祭の行なわれた。

と、指摘を見れば古くより是が唯一の伝統ある神祠とされよう。

尚右の志書には古樫茂る森の奥に鎮座すると在り、思うに往時は樹木深き静域の面影をしのばせる此点宮守荒神家の伝として文政八年(1825)三月、嘉永三年(1850)八月の二度の大水害に社殿は跡形も無く流出する。

其復興に村の者、食うや食わずで難儀するとの事、おそらく多くの風水害が地形を変え今に見る裸の社とさせたのだろうか。

祭事や農事祈願には必ず大般若経を奉するが其頃は誰も字が読めず捧げて拝むだけ(先谷喜十郎)祭にまつわる俗承としては秋祭りの夜ゴロには社の付近のあちこちに若者が思い思いに莚囲い(ムシロカコイ)をして相愛の村娘を待受けて契の一夜を過す風習も古くは行なわれた(幸田伝助)。

荒神には自然崇拝、精霊畏敬、先祖祭、農耕神事、其外の年中行事もなされる。

別して山の神、センチン(便所)の神、水神さん、農作の神、火の神、石の神、雷の神、お産の神、疫病神、竈(カマド)の神、等日常現象万事百般に分別これを一心に崇め信仰の対照として来た。

 

(九)  史跡 倉川

郷最古の史跡として知られる倉川千年井戸は古来舟を横着にして水取をした由来から舟川とも呼ぶ郷人の命水として守られ水神さんを祀るが嘉永三年(1850)の水害に祠(ホコラ)は流出する。

古井戸にまつわる説話も殊に多く、夕方になると娘達が集まり井戸に向かって粧うので鏡井戸の名もある。

また、此処だけ特に雪も積まないと不思議な伝えも残る。

さらに、昔は満潮時には塩辛くて飲めず引潮を待って水を使ったと云う。

此点を末友文書を用いて確めれば、「この走井水底三尺許り(バカリ)満ちれば鹹き(シオカラキ)」と、海に接する地形を知らせる。

千古の風土史を語るこの史跡も近年の山崩れに存在性を失い惜しくも還らぬ川となり果てて行った。

 

(十)火葬場

奥進墓地の入口に在り開闢(カイビャク)以来先祖は此処に野辺送りされる古遺跡であるが明治二十七年頃に廃止される。

大正時代始めまでは死者が出ると講中の山より薪を伐り出し火葬に使う仕来たりであった。

葬儀はすべて講中が集まり助け合う。

講組織は郷を上下に別け、上を奥迫、下を下迫とした。

式後の会食用膳椀も共有で講元が保管する。

香典帳は元禄年号の物が幸地家に在り、丸井家にも多く残る。

葬制奇習としては、古くは死者を新しい莚(ムシロ)に包み、近親者が背負い焼場まで送る。

死者が出ると家の者が屋根に登り、西空に向って大声で泣きおらび魂呼びをする。

お通夜には身近な者が死者と同床する習しも在った。

儀式には白い紙緒の草履に男は鉢巻をするのが正装で草履は戸口で焼捨て悪霊を拂はねばならぬ(武川僧)。

 

(十一)名跡茶園

其昔に長谷の奥に茶園と名づく茶畠あり、寿永年の頃郷に身を隠す平家貴人も所望される銘茶を産する誉を残す。

江戸時代には藩主浅野家にも献上を伝える程の由緒ある名跡も時代の風化にさらされ今は道も無き谷間に名も無く荒果てるのみ。

 

(十二)郷本家筋

寛文二年(1663)倉橋島浦役家資料を元に家筋を正せば、末友、奥迫(丸井)、仁井谷、河内(大宮)、となり続く中谷、槇本に至る。

中世発祥以来の無文の歴史に照し遠祖家並に遺跡物の概要を用いて古標とす。

昭和五十七年紅葉月

 

落人の 里に生まれて うたた世を 史に編みぬれば 涙もろかり

奥田 権太郎 識


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水無月の荒神社です。
梅雨入りなのに水無月?、お百姓さんが作物を育てるために天の水をすべて地上へと降らせてしまったので、神様の世界は水無月になるのだとか・・・(*^。^*)です。

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いつ来ても綺麗に掃かれています。

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拝殿内に本殿お供え品を記録した写真が・・・。

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八幡宮(大原新宮)例祭記念 平成15年9月吉日 贈 小松

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「SL C58 114」 昭和53年10月吉日 奥本久雄

ちなみに、昭和14年2月に製造された、C58114は210万kmを走り、現在、宮城県玉造郡岩出山町字城山42-2 城山公園で永久保存されています。

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平成元年十一月三日 丸井五郎 寄贈

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最奥に、とても頑丈でよく切れそうな包丁と鎌が奉納されています。
いつ頃のものなのか分かりませんが、腕の良い鍛冶屋さんが・・・(*^。^*)です。

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祭に使う?赤い旗?と・・・
寄贈 荒神社の坂道に手摺一式を 出海 隆 様より寄贈して頂きました。 平成十四年十月吉日

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荒神社の境内から、大きなムクノキの枝越しに、柿浦小学校の全容が見えます。

柿浦 荒神社 1/2

4)能美町・沖美町南部  柿浦荒神社 
柿浦地区の中心部、もっとも古くから人々の集まった中郷と呼ばれる谷合を往くと、細い坂道の上に柿浦荒神社が鎮座します。

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3月31日、春休みのまっただなか・・・
えらいなぁ~~~~~~~。

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三人姉妹?、おそろいで買ったピンクのカーディガンがとっても良く似合っています・・・(*^。^*)です。

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きれいに掃き清めて頂いた、子供さん達への手前もあって、二拝二拍手一拝も深く強く最敬礼で・・・

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拝殿の奥には、小さいけど威厳のある本殿が・・・

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しっかりと組んだ頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)飾りは、耳がたれて見えるので、象さん?かな・・・

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拝殿屋根の鬼瓦も手の込んだ造りで、最上部には鯱が尾を反らせます。

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拝殿内では新たに皮を貼りかえられたばかりの担ぎ太鼓が出番を待ちます。

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正面天井に木造和船、奉寄進「先谷喜四郎」と読み取れます。

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諸葛菜の紫花弁が陽光に透けます。

飛渡瀬 町景色 6/6

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飛渡瀬地区を南北に走る県道44号線、かって、飛渡瀬運河が利用されていた頃には江田島とを結ぶ、橋とかが架かっていたんじゃあないかって思わせる、少し盛り上がった部分があります。

その当時なら橋のたもとに関所があり、怖ろしい顔の番人が槍を構えて立っていたその場所に、今は、赤鬼が金砕棒(かなさいぼう)を右手に仁王立ちです。

赤鬼が左手に持つ旗には鬼ヶ島をもじって?、豆ヶ島、その奥には番所の代わりに徳永豆腐店が暖簾をはためかせ、日本一辛いといわれる「鬼壺豆腐」など豆を使った様々な製品が直売されています。

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新聞販売店?・・・(*^。^*)かも?

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家の前には下へとおりる石段が組まれています。

今は湿気た荒地ですが、昔は水路があって小舟とか入ってこれたのかも???・・・です。

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飛渡瀬地区では重厚で複雑な造りをした屋根を多く見ます。
鬼瓦なども家々で違った文様が刻まれて関心します。

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玄関の作りにも凝っていて、武家屋敷的雰囲気があります。

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大クスの木を借景に取り入れ、重厚な屋根を乗せた中二階建ての豪邸です。

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漆喰の下の赤土壁の構造がとてもよく分かります。

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大雨が降れば、何軒ものお家が床下浸水をまぬがれない時代が長く続きましたが、今は強力な排水ポンプが設置されました。

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丘の上から見る飛渡瀬地区の南部、この先は柿浦地区へと続きます。

飛渡瀬 町景色 5/6

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山手の農道から・・・

畑の脇に止められたホンダスーパーカブ、農作業用にも快適な取り回しがこのまれているようです。

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ここまで複雑にしなくってもって・・・
とことん凝った、瓦屋根の造形美・・・(*^。^*)です。

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縁側のあるお家って、いいなぁ~~~。

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数十年前なら、近所の悪ガキの溜まり場になりそうなお家です。

今、子供の騒ぐ声など皆無となって・・・

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縁側の下に空になった植木鉢がいっぱい積んであります。
おじいさん(おばあさん)植物いじりが大好きなんでしょうね。

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まだ、出来て間もない赤土壁の納屋です。
竹を編んだり、土をこねたり、まだまだ、すご技は残っています。

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腕の良い左官屋さんのお家?かも・・・
お家の腰壁に、超繊細なコテ絵がびっしりと刻まれています。

ちなみに大分県宇佐市安心院はコテ絵の町として有名がだとか・・・(*^。^*)です。

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また一軒・・・
平成26年3月1日、飛渡瀬町の人口は1423名、世帯数は684です。
 
ちなみに昭和22年が最高で3120名、世帯数は記録にある昭和25年で700世帯、江田島市内で最も減少率の少ないのが、この島の中心部に位置する飛渡瀬地区です。

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屋敷跡に日本スイセンが目いっぱい春の陽光をあびます。

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廃家の脇に放置された、当時最新のIC(集積回路)使用、ナショナル製小型白黒テレビ TR-121A・・・
このテレビが映し出していた風景は、今どこへ・・・。

飛渡瀬 町景色 4/6

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大きくて豪華な作りのお家ですが、飛渡瀬地区でもっとも標準的な設計に基づいて作られています。
このような、家の設計配置が考案されたのが何時ごろの年代かは不明ですが、(おそらくは大正期???)斬新的で、機能美のある作りです。

敷地内に立ち入ったことはないので、外観からの推測ですが・・・
左の半二階建てが母屋で、右側に少し間をおいて直角に建つのが納屋または離れです。
母屋と納屋(離れ)の間は大八車くらいが入れる屋根付きの土間で、その奥に白壁の土蔵が隠れています。

元々はお百姓さん仕様で、母屋の半二階で養蚕がおこなわれたり、右の納屋では牛馬が飼われていましたが、今は物置や離れ(客間、子供部屋)として使われている感じです。

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お、お、お、おもしろ~~~い・・・(*^。^*)です。

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干拓地は農産物生産のためであって、人が住むのは飲み水がぎりぎりまかなえる山の斜面・・・(^_^;)でした。

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このお家も、飛渡瀬地区の基本形を残す造りで、母屋との間に屋根付き土間があり、右側に建つ建物は家畜小屋兼納屋の造りだったのを、近年になり離れ風に改装がされています。

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玄関は母屋から直角に突き出した入母屋造りで、さらに風格を上げています。

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少し古いお家には、すべて蔵が隣接しています。

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設計の段階から納屋ではなく2階建て離れとして作られていますが、母屋とは間があり、直角に配置がされています。

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中二階作りで、土壁の見える納屋が残っていました・・・(*^。^*)です。

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すばらしい石組をした、お屋敷の入口です。

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お屋敷は車が入らないので、取り壊されてしまいましたが、高台の敷地内には方形の石組井戸があり、脇には祭事に多用された石臼が残されていました。

飛渡瀬 町景色 3/6

飛渡瀬19810917(S56)
航空写真は、1981年(昭和56年)9月17日撮影の国土地理院アーカイブ画像からコピペ・・・m(__)mです。

南北に走る緑の線、県道44号線が開通したのは、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の2月16日 です。
http://wakiwakidonn.blog97.fc2.com/blog-entry-3291.html

それまでは軽トラの離合もままならぬ旧道が、柿浦から飛渡瀬を縦断して能美町中町、高田へと繋がっていました。
その旧道が赤い線で示した部分ですが、今も普通車で乗り入れるには気の重くなる道幅です。

以下の画像は、その旧道が最盛期であったころを体験したとても貴重な建物です。

ちなみに、航空写真の右下隅っこに見えるのが、昭和44年9月廃校となった江南小学校で、中央下部に四角いグラウンドが見えるのが平成24年3月廃校の飛渡瀬小学校です。

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飛渡瀬農協倉庫として建てられたもののようです。

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旧道を挟んで農協倉庫の側面をみます。
今の建物に曲がった柱を使うことはまずありませんが、昔はあるものを人の知恵で最大限に利用していました。
 
しかも、美的に・・・(*^。^*)です。

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今、農協の本質をめぐってって多々問題が提起されていますが・・・
農業協同組合が、もっともたよりにされていた時代に増築された、巨大な資材倉庫が残ります。

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官舎建て???
遠くから赴任してきた、学校の先生とかの??? ・・・(*^_^*)です。

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旧道沿いに・・・、この付近に残る一番の大きな店構えです。

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乗石酒店と看板がありますが、すてきなガラス戸を見せる二階は宴席場仕様でしょうか?
下の飾り窓で、小さなまねき猫が手を振っていました・・・(*^。^*)です。

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「お買い物は地元商店で」って大きな看板が立て掛けてありますが・・・

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なに屋さんだったんでしょう。
「ひやかしのお客さんはこまるよっ」な~んて、・・・

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柱に「プラトンインキ」って、商標が打ち付けられていますので、文房具やさんかも?

ちなみに、「このインクの製造元、プラトン文具株式会社は、インクの他に万年質やペン軸、鉛筆やクレヨン、シャープペンシルなども作っていましたが、戦後まもなく廃業しました。」・・・と。

飛渡瀬 町景色 2/6

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沖美10km、能美4kmと表示板がある県道36号線沿いはいつもお花で縁取られています。

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この飛渡瀬地区の北部を往く県道36号線沿いには、無人の農産物販売所が何ヶ所もあり、いつも四季折々の花々や、ミカンにダイコン、ハクサイ、キャベツにニンジンと、その日取れたばかりの品々が並びます。

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この日は、カーネーションや小菊が一束200円、ハッサクがネット袋にぎっしり詰まって300円、もちろん、消費税込み・・・(*^。^*)です。

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えっ。
まさか、軽トラの荷台一杯に買うつもりじゃ・・・(*^。^*)です。

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桜並木の枝下に、スズキ電動カート「セニアカー」の縦列駐車・・・(*^。^*)です。

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もっとも飛渡瀬らしい景観美です。

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潮の満ち干は4m以上あります。

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少し早いけど、お花見好きのコイが泳ぎます。

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まさに「春風駘蕩」・・・(*^。^*)です。

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江田島湾最奥の内海を巡る、一回り小さ目な車体の江田島市営バスです。

飛渡瀬 町景色 1/6

飛渡瀬村古地図BA 
大柿町史に転写された「芸藩通史(1825年)」飛渡瀬村絵図写をさらに模写したもの・・・m(__)mです。

読み取り不明な個所などは推定で書いていますので、原本に忠実な資料ではありませんが、江戸後期のころの佐伯郡飛渡瀬村の概略が把握できます。

絵図の下方、江田島に属する安芸郡飛渡瀬村(現江南)と、東(西)能美島に属する佐伯郡飛渡瀬村はこの地で接します。

飛渡瀬村古地図BE
上図の解像度を上げるため、妙覚寺の部分で左右二分割としました。

芸藩通史の絵図ではもっと右の方にまで山々が連なっていますが、地名の記載がありませんので現在の深江造船所あたりから先は平地がなく未開発だったようです。

飛渡瀬村古地図BD 
江田島湾の最奥、内海が妙覚寺の境内近くまで入り込んでいます。

また、安芸郡江田島との境界付近の砂浜?が「両群寄合間」と記載されていますので、大潮の時期には両群の老人や子供らのアサリ獲りで賑わったのではないかと・・・(*^。^*)です。

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上図の「大柿町合併経過図」は大柿町史(平成6年11月3日)のコピペ・・・m(__)mです。

佐伯郡飛渡瀬は、昭和29年11月3日まで、村として独立していましたが、小古江、大君、柿浦、大原に深江を加え佐伯郡大柿町として町制が施行されました。
さらに2004年(平成16年)11月1日、同佐伯郡能美町、同沖美町に、安芸郡江田島町を加えた4町合併により、江田島市制が施行されて現在に至ります。

飛渡瀬航空写真(19480107) 
上の航空写真は国土地理院アーカイブ(1948/01/07米軍撮影)のコピペ・・・m(__)mです。

今江田島町でもっとも交通量の多い、県道36・44号線もなく、内海港も奥深くまで入り込んでいます。
また、山々のほとんどが稜線近くまで耕されており、その地肌が白く輝いて見えます。

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能美町中村からか大柿町柿浦へと続くかってのメイン道路と、脇を並走して流れる梅迫川、そのほとりに大きな石碑が建ちます。

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大判の石碑には「銘功碑」と記され、乳牛の導入や飼育、共同搾乳施設の設置に尽力のあった島本清松氏の功績を称えます。

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梅迫川をはさみ「銘功碑」の東側に大きく広がっていた干拓地新開、今はアスファルトに覆われ、大型ショッピングセンター「you me town」なって、島本清松氏が奨励した乳製品が山と積まれて販売されています。
ちなみに、「ゆめタウン江田島」は株式会社イズミの運営するショッピングセンターで、1992428日に「ゆめタウン江能」としてオープン、その後の200611月、店名を「ゆめタウン江田島」と改称しました。

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ご先祖様が長い年月を要して作り出した、江田島市最大の干拓地は、いま島内一番の発展期にあり、槌音も軽く次々最新の家々が作り出されています。
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