柿浦 楠田川・倉川湧泉井

柿浦地区最大の川、楠田川が地区の最北部を東に流れます。
大柿町史によれば流路延長920m、流域面積が0,48平方キロメートルです。
他にも急峻な谷を駆け下りる流路500mにも及ばない小川が数本ありますが、すべてコンクリートで蓋をされ、水路としてよりも生活道路として重要されています。

イノシシ被害や農業者の高齢化で、ほんの一区画だけが残った、楠田川の水を引く田んぼです。

赤レンガで丁寧に組まれた、貯水タンクです。
地図に名の無い小さな小川も、かっては地域住民の命を左右するものとして、一滴の水も粗末にすることなく蓄えられ、最大の配慮をもって分配されていました。

中郷地区を流れ下る小川(倉川?)の最下流部分です。
打ち寄せる瀬戸の波がゴミを逆流させないように、格子の扉が下ろされています。

最下流から数十メートル遡った位置にある、古い民家です。
左下に、コンクリートで固められた小川があり、さらにその上をコンクリートの蓋で覆って、生活道路として使用されています。
この民家が作られた当時、部屋のガラス戸を開けて手摺にもたれれば、すぐ下の水路をクロダイやコノシロが勢いよく泳ぐ姿が見られたでしょう。
この手摺のある濡れ縁は、右に見える厠への渡り廊下を兼用します。
同じような造りの廊下と厠の配置は、この地区で同時代(昭和初期?)に造られた民家に共通していて、今でも古いお家に多見されます。

前記、柿浦荒神社 2/2 で掲載した、「落人のさと 中郷(二位の谷)古しるべ」墨書板の脇にさらにもう一枚、「倉川伝承記(湧水井)」なる板が掲げられています。
内容は「落人のさと・・・」の一部と、ほぼ同じですが・・・
倉川伝承記(湧泉井)
此処には今は無き倉川の在り、古老の語る伝承の荒ましを積年の聞き取りを基に記するものとする。
今を去る千余年の昔、いづくの地よりか、遠浅の浦を伝い船人が此地に落ちのびて来た。
七戸半かまちの者の二戸の先住者により中郷は拓かれた。との、村の由来が今に語り継がれる。
始め此地をニイの谷と呼び無人の谷間に密かな発祥の明かりをともすとされ是をいつの頃よりか中の谷と改め、文化年間には中の合から中郷えと移り変わるとされる。
時に集落十余戸を数ゆ。
生業については谷間にて農耕に向かづ、すべて船稼業に頼るとは糧の乏しきを哀れにも語り伝へる。
寛政八年六月、及び其後の度重なる大小風水害による海面を埋立てる迠は、船が倉川に横着けされ、飲み水を汲み取って居た。
故に船川として永く大舟主、末友左衛門尉の所有に置かれ、元禄年間に至り、時の有力者、倉田氏の手に移り、以来、倉川の名が残る。と、古老の語り伝える処。
是より約百八十年を経て、明治初年に戸長木村倉次氏の名義となり、其の一字を用い、倉川となる。の、二説在りて今日に至るも、舟川より倉川に終る用の変還を見るに往時は、水枯水餓饉も頻発し其の都度遠くより水乞いに水豊かな倉川道に行列し先を争ら。
此の時は長老指図のもとに若衆等が提灯を立て、水配りに不眠の夜を明かしたとの水物語りさえも残る。
為に水場は命に次ぐものとされ厳に水の掟を定め春秋の二度、井戸替、水神祭の習俗行事も明治末までは堅く守り継がれて来た。
古説倉川が海に続いて居たに就いては大正始め頃に於いてもなを、エビ、ハゼ、の小魚が住む白砂清流を保ち、昔の名残りと見える海石も多く散見され、此の石を洗濯台に上半身裸で洗物をする女性風俗、朝夕は水桶を天秤棒で担う水運び姿、入浴の替りに水浴びをする者、漬物用の四斗樽を川砂で磨くもの、総じて歌や音頭に合わせ釣瓶水を汲上げる仕草は今昔さながらに一景の
思らに昭和四十年上水道普及による井戸無用化へと進み、同五十五年の山崩れに惜くも石囲いの一切が地中に没して往時の影を何一つ残さず、此侭では遠からず其の名さえも風化させて行くであろう時風化させてはならぬ郷千年の無形遺跡として湧泉井倉川伝承記を今玆に標し、懐古の事蹟を後世に永く語り継がねばなりません。
昭和五十六年水無月 奥田権太郎 文識
武本 巽 書

湧泉井倉川から、さらに谷を遡った位置に「北迫中郷ポンプ所」があり、今も清水を汲み上げています。
平成18年8月の江田島市、呉市大断水では付近住民の大きな支えとなったことでしょう。

今は使われることのなくなった崖下の湧水井・・・
かろうじてコンクリトで塗り固められることなく、壁面に小さな口を開きます。

旧柿浦街道の商店街だった位置に、一つの井戸が大切に守られています。

金比羅神社の直下、かっては大賑わいの井戸だったんでしょう・・・(*^。^*)です。