大原 陀峯山

5)大柿町南部 陀峯山 
大原の真南に位置する、能美島南部での最高峰が陀峯山(438m)です。
陀峯山は独立峰ではなく、高清水山、陀峯山、一本松山と北東から南西へと伸びる尾根の頂点です。
ですので、見る方向によってはとてもなだらかな山に見えますが、北西側と南東側には目がクラクラしそうな断崖を伴います。

さらに、陀峯山(だぼうざん)とも陀峰山とも云われる山名は戦後になって付けられたもので、以前はただ単に、御山(みやま)とだけ呼ばれていたと聞きます。

新たな山名となった事の仔細は不明ですが、いずれにしても、古来より神聖な山として地元住民の敬拝対象であったことには違いありません。

蛇足になりますが、大柿町史では陀(峰)山432,6mと記され、国土地理院の陀(峯)山438mとはずいぶんな標高差があります。
これは、山としての最高地点ではなく信仰対象としての陀峯山聖地の標高を示しているのだと・・・(*^。^*)・・・想像します。

ちなみに、江田島町の古鷹山も山頂石碑には「標高392米」と彫られていますが、地理院標高は394mと記されています。

2012-09-12 001 005 
海を渡った対岸の倉橋島から見た陀峯山の山頂です。右手前のピークは大君地区の深道山(327m)です。

なだらかな山容の陀峯山ですが、対する南東面は急峻な地形で、山頂からほぼ垂直な岩盤が数百m下まで続いているのが見て取れます。

100424 001 
陀峯山登山道の終点である山頂付近はきれいに整地されています。
この日は、無線通信を趣味とする仲間が集まって、「CQ、CQ、こちらJA・・・」とか、よくわからない日本語?をしゃべっていました・・・(^_^;)です。

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陀峯山の最頂部にはTVの中継局があり、一段下がった南側にはログハウス風の天体観測施設があります。

2012-12-02 002 015 
陀峯山山頂の南東側です。
足元は一気に数百メートルの落差があり、初めてだと下を見るのに心の準備が必要です。
数年前まではこの位置に木組みの助走台を取付けて、ハングライダーが優雅に空を舞っていましたが・・・

対岸は倉橋島の岳浦山(491m)です。

2014-05-07 002 105 
東側には音戸町の早瀬、藤脇と倉橋町釣士田の港が見えます。
視界が良い日には遠く四国連山が遠望できます。

2014-05-07 002 109 
陀峯山の東南、画像中央部の尖った山は倉橋町火山(408m)、その先にうっすらと四国連山です。

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山頂から見た北北東、江田島町江南地区の一部や、遠く呉市吉浦から呉市街の半分くらいまでが見えます。

100424 A029 パノラマ写真 
北の大原湾から南西方向の海上に浮かぶ長島、我島にかけてのパノラマです。
画像の最右翼に大原湾、その先に西能美の最高峰野登呂山(542m)、中央部の大きな島が大黒神島、その手前に沖野島、画像左の小さな島が長島でその右に点のように見えるのが我島です。

大黒神島と我島の間に目を凝らせば、遠く甲島(かぶとじま)が見えます。
この甲島は頭にかぶる兜のような特異な形で岩国沖15kmに浮かびます。島の半分が広島県大竹市、半分が山口県岩国市となっていますが、かっては甲島の草刈り権利をめぐって当地能美の島民ともめごとになったこともあったとか???・・・、時の仲裁如何では一部が江田島市となっていたかもぉ~・・・(^_^;)です。
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大原 大又川

八幡・大又川19470313(昭22)A 
米軍機が撮影した、昭和22年3月13日の航空写真です。

新宮八幡宮の左上(現在の大柿中学校敷地)には、昭和20年9月の枕崎台風により氾濫した八幡川の土石がそのままに残されています。

ちなみに現在、広島県立大柿高等学校がある地には当時「大柿高等女学校」があり、現在の新制大柿高校となったのは昭和23年5月3日です。

隣接する江田島市立大古小学校は、当時「大古国民学校」と呼ばれており、現在の1年生から6年生までの学童が「国民学校初等科」にあたり、「国民学校高等科」の2年間と、さらにその上の「国民学校特修科」の1年が今の中学校生徒に当たります。

米軍機写真撮影の翌月、4月1日の学制改革により、それまでの国民学校制が廃止され、現在の六・三制に移行しました。

しばらくは、中学生も各小学校の教室を借りて学んでいましたが、八幡川の氾濫した土石を整地し、1949年(昭和24年)7月12日 、大柿中学校・深江中学校・飛渡瀬中学校を併せ、組合立学校を創設、新宮八幡宮の下に大柿中学校が誕生しました。
(のち昭和28年、3校に分離しましたが、32年深江中学と、52年飛渡瀬中学と再び統合しました。)


2014-09-15 032 
大又川支流の水源近くに造られた農業用ため池です。
水不足を少しでも軽減するため、ため池を雛段状に2段、3段と増設していましたが、現在このため池の水を利用する田んぼはありません。

2014-10-15 067 
別の支流にあるため池です。
数十年、手入れをされたようすがありません。
湖底には落ち葉がたまり、湖面は種々の水草が繁茂、土手には木々が成長し、枝下に四季の草花が咲き乱れており、人の手をはなれたことで自然循環系のすてきなビオトープとなっています・・・(*^。^*)です。

2015-01-24 045 
少ない水量を、多くの田畑にむだなく均等に供給するため、機能最優先の用水路となった大又川の中流域です。

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大又川と高名津川が合流する付近です。
見渡す限りだった田んぼが姿を消し、利用価値がなくなったために手入れをされることもなくなった高名津川、春風に飛ばされた桜や桃の花びらが舞い降りてよどみを彩ります。

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大又川と高名津川が交わり水量を増して流れます。
川べりに建つ家々の多くは護岸に石段をもうけ、その恩恵にあずかっていましたが・・・。

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大原湾に入港した千石船の積荷を、何艘もの川船に積み替えて白壁の土蔵に運び込んだりしたことも・・・

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川風が、ゆら~~~りそよぐ風景です。

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時間が止まったように、川の流れも止まります。

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柿の実がうっすら黄味を帯び、秋の気配を ・・・ ・・・ ・・・。 

大原 八幡川

5)大柿町南部・八幡、大又川 
大原地区の田畑を潤す有用な水源として、八幡川と大又川の流れがあり、二本とも陀峯山山系に降る雨水を集めて北流し大原湾へと注ぎ込みます。

他にも陀峯山山系の谷筋を南に向かって流れ下る急流が何本かありますが、花崗岩の岩盤を削って流れる急流は水量の変化が極端すぎるために有効利用するための作がありません。

2014-05-07 002 075 
八幡川、大又川の水源付近からみた大原平野と、その流れの先に青く大原湾の水面が輝きます。
遠くに霞む山は野登呂山(542m)です。

2014-05-07 002 018 
陀峯山山系(438m)から、ほぼ一直線に流れ下る八幡川は、度々下流域に大きな災害を及ぼします。
過去幾多の災害経験を活かし、要所要所に小さな防災ダムを作ってはいますが、さらなる災害を想定し、あらたに近代的な砂防ダムの構築を始めました。

2014-05-07 002 014 
八幡川の水源が棚田を潤します。
昭和のころは見渡す限りにあった棚田も、いまは片手の指だけを使って数えることができます。

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川から離れた田畑にも均等に給水するため、大原平野を見下ろす丘の上に八幡川からの水を引いて造った農業用ため池です。

2014-11-24 014 
治水のため両岸ともコンクリートで固められていますが、植物の繁殖力の方が少しだけ優勢な感じ・・・(*^。^*)です。

2015-02-07 023 
今は両岸を殺風景なコンクリトの堰堤に囲まれていますが、対岸の藪の中に「旧御旅所」と刻まれた石柱が建ちます。

御旅所(おたびしょ)とは、新宮八幡社からの御神輿が巡幸の途中で一休みされるための神聖な場所です。
昭和20年の大水害で八幡川が氾濫する以前は、対岸の方に巡幸街道があり、八幡川のせせらぎの向こうに遮るものなく広がる田畑を眺めて御休息された、風光明媚な聖地であったのでしょう。

そういえばいつだったか、藪から飛び出した小枝に瑠璃色に輝くカワセミを見たことがあります・・・(*^。^*)です。

2014-05-22 002 038 
橋のガードレールに「三月田橋」と書かれたプレートが止められています。
八幡川はこの付近で大きくカーブしますので、それに合わせて、三日月形をした田んぼがあったのでしょう。
八幡川の水は水量を増し、さらさらと流れますが、近くに田んぼは無く、川の水は誰にも利用されることなくさらさらと流れ下っていきます。

2015-01-24 022 
今時にしては珍しく簡素な橋がかかります。
橋の下にはメダカやハヤの影が走り、クレソン(オランダ辛子)が青々と茂ります。

2014-08-11 011 
八幡川に注ぐ支流の源流付近にある地区の水道施設です。

今はまったく利用されていませんが、太田川からの送水を受けて江能上水道組合(昭和40年6月13日通水)が立ち上がるまでは、各集落ごとに小さな水源を見つけ、住民の命の水として大切に管理されていました。

ちなみに、通水当時の水道料金は月額家庭用基本料金が10㎥で250円、超過料金1㎥当たり25円だったと云われます。

以下に太田川からの水道給水が開始される以前の島民の水事情を・・・

「大柿町広報 昭和32年2月号」に、町民の声として掲載されたその一部を要約し転記します。
水道の建設をもっと積極的に考えていただきたい。

家庭生活を営む上に一番重要なのは水であります。
なかんずく食生活にいたっては飲料水の良、不良がそのすべてを左右しているものと存じます。
にもかかわらず、私共は島嶼部という宿命的とでも申しますか・・・地勢的制約のために飲料水には極度の不自由をしいられてまいりました。
そのうえ、この2,3年来の高潮のため海岸線一帯の井戸は、そのほとんど全部が塩害にわざわいされ使用不能となり、飲料水は貰い水にいくのが私共今日の生活の実態であります。
・・・これを機会に部落会も保健所も役場も一緒になってもっと水道建設について積極的に国や県へこの窮状を訴え、一日も早く全大柿町に水道が完備する様考えて頂きたいと思います。

大原 行者堂

5)大柿町南部・行者堂 
大原の中心部を見下ろす行者山の頂きを平らにならし、役行者様を祀る行者堂が建ちます。

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行者堂の周りには、樹齢50年をゆうに超えるソメイヨシノの古木が育ち、毎年春四月の法要のころ、行者山の頂にはピンクの花びらが敷き詰められます。

2015-01-24 073 
深く一礼し、正面の戸を押し開きました・・・m(__)mです。

御本尊行者様の御顔は、幕の陰でよく見えませんが、御供物台にはお酒の他に沢山のお塩がのせられていました。
当地では昭和初期の頃まで製塩業が盛んでしたので・・・おそらく・・・。

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堂内の壁に掲げられた、「東沖行者堂建設発起人会」の皆様です。

行者堂と同時期に建てられた、境内の石板には・・・

行 者 堂 之 由 来

大原行者堂に祭られる本尊は、役氏(えんし)大行者(役之行者)本地は法起菩薩である。

明治の始め吉田仁五郎なるもの、ある朝海岸を散策中に光るものを見、近づいて見ると木箱あり、なかに仏像がおさめられてあり。

家に持ち帰りねんごろ供養するに夜毎枕辺に行者あらわれ「吾は役の行者なり。行者山頂にほこらを建て供養せんに関係地域住民は必ず仏の加護を得ん」とのお告げあり。

不思議に思い、有志名位に意見を求むるに東沖地区住民の守護仏として祭ることに衆議一決し、関係住民より浄財を勧募し行者山頂にほこらを建て、宝持寺住職を拝請し開眼菩薩法要を厳修す。

以来毎年春四月に多くの善男善女参拝し祈祷供養法要を勤め今日に至る。

昭和六十二年四月吉日  東沖住民一同

贈 鴻上石材店
・・・と、あります。

また、行者堂建設寄附者芳名として・・・
一金拾万円也 藤井組社長・川口隆香
一金五万円也 灘尾弘吉・堀幸雄・峯川清・吉田明治・有重勝晴・鴻上益雄・灘尾みどり・大木路子
一金参万円也 川原利雄・上河内光行・石田シマノ・山本芳郎・山本秋三・森本健太郎・能地ハルヨ・花田幸次・小松満義・有重弘・大谷病院・沖井修
他、多くの方々の芳名が記された大板が掲げられていました。

蛇足・・・(^_^;)です。
行者山の頂付近には、古い瓦片が散らばりますし、行者山の山名は古くから呼ばれていた?ようですし・・・、この行者山には行者堂以前にも、古くからのお堂?あるいは祠?が有ったのかも???です。


2015-01-24 068 
昭和50年代の頃まで、この行者山一帯は余すところなく耕され、蜜柑や薩摩芋、麦などが栽培されていました。
段々畑の石垣は今も当時のままに残っていますが、畑を耕しに現れるのはイノシシの大家族とアナグマの親類縁者のみ、コナラの葉っぱが降り積もった下には、彼らの大好物であるミミズやイモムシがウジャウジャ ・・・ (^_^;)です。

2015-01-24 055 
行者堂へと登る道は、この東沖八幡宮の横にある小さな階段をたどります。

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少し登ると、みかん畑の急傾斜法面を削って建てた小さな祠があります。

2015-01-24 062 
中には石仏が安置され、「第十八番 本尊薬師如来?」と墨書された木札が立て掛けてあります。

2014-08-11 050 
さらに、東沖八幡宮の右隣に接して真新しい小さなお堂が建ちます。

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小堂内にはお地蔵様が安置され、格子戸の枡から差し込む光が柔らかに堂内を照らします。

大原行者山(S38?)
昭和30年代?の行者山です。
山の頂まで段々畑が続き、山頂には小さなお堂?が見えます。
右下は大柿高校の木造二階建て校舎です。
(大柿歴史資料館よりコピペ・・・m(__)mです。)

大原 大日堂

5)大柿町南部・大日堂 
大日堂は宝持寺の門前を流れる八幡川に沿って、300mばかり下った畑の中に建ちます。


2014-11-24 097 
建立の由緒は不明ですが、能美島志(1763年)に「大原邑 桑田の上に大日堂あり」と記載されます。

ちなみに桑田とは、桑の栽培地のことです。
日本には弥生時代、すでに絹の製法が伝わってはいましたが、品質が悪いことなどから廃れ、西陣や博多などの高級絹織物は中国からの輸入生糸に頼っていました。
徳川八代将軍吉宗の生糸生産奨励により、江戸中期になってやっと中国産絹糸にも遜色のない品質を取り戻すことができ、全国にも生糸生産が広まりました。

2014-11-24 093 
現在のお堂が再建された時期は不明ですが、傷みがひどくこの先大型の台風にたえられるお姿ではありません。

2014-11-24 090
重い瓦屋根を支える柱に「大日堂」と墨書された木札が掛けられています。

また、お堂の側に立てられた説明板には・・・

大柿町重要文化財(平成4年1月17日指定)
大日堂の木造大日如来坐像  高さ 60cm 幅 42cm 材質 桧 
(1) 胎臓界(たいぞうかい)大日如来像
(2) 金剛界(こんごうかい)大日如来像
大日堂の創建年代は定かでないが概に宝暦13年(1763)に著した「能美島志」に「大原邑(村)桑田の上にあり」と記述されている。
堂内の仏像2体は彩色坐像であったらしく、現在は剥離しているが、光背には美しい彩色が残っている。
堂内に向かって右が胎蔵界大日如来で、左が金剛界大日如来である。
鎌倉時代後期の作と認められる。
大柿町教育委員会・・・と。

2014-11-24 094 
一礼し、格子戸越しに拝顔させていただきました。
向かって右が胎蔵界大日如来様、左が金剛界大日如来様・・・m(__)mです。

2014-11-24 096 
以下、ネットコピペ・・・m(__)mです。

大 日 如 来 と は ・ ・ ・
大日とは「大いなる日輪」という意味で太陽を遙かに上回る光ですべてを照し、太陽を司る毘盧舎那如来がさらに進化した仏様です。
密教では大日如来は宇宙の心理を現し、宇宙そのものを指します。
すべて命あるものは大日如来から生まれたとされ、釈迦如来も含めて他の仏は大日如来の化身と考えられています。大日如来には悟りを得る為に必要な智慧を象徴する金剛界大日如来と、無限の慈悲の広がりを象徴する胎蔵界大日如来という二つの異なる捉え方があります。
金剛とはダイヤモンドのことを指し、智慧がとても堅く絶対に傷がつくことがないことを意味します。
胎蔵とは母親の母胎のようにすべての森羅万象が大日如来の中に包み込まれている様を意味します。
この二つが揃って大日如来を本尊とする密教の世界観が達成されます。

2014-11-24 098 
お堂の周りに桑の木は無く、水を張った田んぼもありません。
甘柿と蜜柑の木が数本だけ…残ります。

大原 阿弥陀堂

5)大柿町南部・阿弥陀堂 
明慶寺からさほど遠くない、裏山とも思える小さな丘の上に阿弥陀堂と呼ばれる小堂が建ちます。

2014-09-14 074 
丘の上に大樹を背負い、周りを大理石のお墓で囲まれた様子は、宮崎駿監督のアニメ作品「天空の城ラピュタ」を思い浮かべます。

2013-03-15 002 023 
その天空の城を覆っていた、龍の巣と呼ばれる巨大な低気圧の雲も吹っ飛び、真っ青な空が広がりました。

2014-09-14 076 
右の門札に「阿弥陀堂」、左の門札に「祖先墳墓之霊地」とあります。

2015-01-24 080 
端正に積まれた石段が、阿弥陀堂までまっすぐに伸びます。

2013-03-15 002 025 
ご近所のお父さん、畑仕事の前に、お墓のお手入れ・・・m(__)mです。

2014-09-14 079 
だれが記したのか?、お堂の壁に紙の説明書きがピン止めされていました。

史跡 堂様(だうさま)
堂様阿弥陀堂は平成九年を坂のぼること五百年、大永年間(室町時代)大原住人 山野井入道宋和の母、妙慶尼の建立になり大原明慶寺由緒のお堂である。
その時代に樹齢百五十年~三百年のクロガネモチを植えられたと云えられる。
大樹である故(天然記念物)名勝である。
その時代の安芸灘、宮島周辺の海域では、尼子経久、毛利元就ら大内義興と戦う。
大原の医王山薬師堂の下の能美城の城主 能美様之介もこの戦いに参加している。
・・・と。

または、武田信玄の家老長坂長閑が子孫、藤四郎が出家し道恵となってこの阿弥陀堂で教えを説いた。これ、明慶寺の開祖なり・・・とも。

2014-09-14 087 
御再建の年は不明ですが、鬼瓦もかなり傷んできたようすです。

2015-01-24 084 
この阿弥陀堂の屋根を覆う大樹、クロガネモチは広島県天然記念物に指定されています。

広島県天然記念物 大原のクロガネモチ
所在地 江田島市大柿町大原字峯1,682番地のうち、樹の根元を中心とする半径7mの円内の地域
指定年月日 昭和60年3月14日
推定樹齢 500年
胸高幹囲 3.90m  樹高 17.16m
クロガネモチは、暖帯ないし亜熱帯に自生する雌雄異株(本樹は雄株)の常緑広葉樹である。
本樹は、今のところ県内第2位のクロガネモチの巨樹で、特に樹幹基部の異常肥大は学術上注目すべきものである。
江田島市教育委員会・・・と。

2015-01-24 089 
阿弥陀堂の下には間違いなく、青い光を放つ「飛行石」が眠っています。

やがては目覚め、はるか大宇宙へと飛び立っていくことでしょう。

2014-10-15 070 
まわりの小枝が風にザワザワと騒ぎはじめました。
巨大な渦巻き雲、龍の巣が近づいてきた様子 ・ ・ ・ (◎_◎;) です。

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