大原地区の中心部、国道487号線の東側(星印)に「大柿地区歴史資料館」があります。
二階は、灘尾弘吉氏(元衆議院議員)が収集した貴重な蔵書を集めた「灘尾記念文庫」と成り、一階は大柿地区の歴史資料の展示と六角紫水氏(漆工芸家)の作品が展示されています。
入口には、灘尾氏の胸像が建ちます。
1899年(明治32)12月21日、農業・木綿製造・醤油醸造を営む灘尾家に生まれ、東大卒業後は官僚として栄進、大分県知事、内務次官となる。
戦後GHQによる、公職追放が解除されたのち、1952年衆議院当選、文部大臣、衆議院議長を歴任、1983年政界を引退する。
その後も社会福祉事業等に尽力、1994年(平成6)1月22日94歳で逝去されました。
広島市中区基町には、第74代総理大臣竹下登氏、第78代総理大臣宮澤喜一氏らの発議により灘尾氏の全身立像が建ちます。
一階、歴史資料館に展示された早瀬大橋のプレート文字は、架橋に尽力された灘尾氏によるものです。
ちなみに、説明板には
早 瀬 大 橋
早瀬大橋は倉橋島(安芸郡音戸町)と能美江田島(佐伯郡大柿町)の間の早瀬ノ瀬戸に架けれれる一般道路橋で、倉橋島は音戸大橋によって呉市と地続きとなっている島で、この島と結ばれると波浪・濃霧・夜間の航路停止等の不便不利益を解消し、足掛け10年におよぶ歳年を経て、当時の能美江田島々民47.000人の願望である本土直結が実現し、早瀬大橋は産業開発・地域発展の為、大変寄与するところが大きい。
大柿町重要文化財指定の「能美島志」です。
この能美島志は大原の久保利右衛門が宝暦13年(1763)11月に書き記したもので、能美島各村の地勢や、社(小祠)、寺院(小堂)などの仔細が述べられており、「国郡志御用ニ付下調書出帳(帖))」(1819年)と共に江戸時代の能美島の状況を今日に伝える重要な資料です。
大原「薬師堂」境内から出土した、経石の一部です。
以下、江田島市教育委員会の「経石塔」解説文をコピペ・・・m(__)mです。
薬 師 堂 の 経 石 塔 (きょうせきとう)
江戸時代(大柿町大原 宝持寺)
高さ83cm 幅18.5mm 台座の高さ58cm
大原の薬師堂の境内にみかげ石でできた経石塔がある。
4年に一度は訪れるという洪水や干ばつで、相次ぐ飢饉により死亡した人々の霊を供養するため、宝持寺住職の発願で薬師経を一字一石に写して埋め、経塚にして建てられた石塔である。
表に「薬師経石塔」、側に「当邑横死消除一石一字写者也 安永2年(1773)癸巳5月吉旦 現宝持寺敬白」と刻されている。
経石は一部掘り出され、大柿地区歴史資料館で保管展示している。
一階展示室には、大柿地区の郷土歴史資料とともに、漆工芸家六角紫水氏の作品も多く展示されています。
六角紫水氏は、1867年(慶応3)4月24日、藤岡仲太郎(のち注多良と改名)として当地大原に生まれる。
1893年(明治26)東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業、漆工芸、古美術を研究、一時ボストン及びメトロポリタン美術館に勤務した。
帰国後母校(東京美術学校)で教鞭をとりながら、1925年(大正14)パリ万博に受賞するなど日本の漆工芸界草分けとして大きな功績を残しました。
麒麟ビールの商標(麒麟のラベル画)は六角紫水が図案化したとされます。
木漆、金と艶消しアルマイト箔を施した「翁蒔絵の硯箱」です。
おなじく六角紫水の作品「彩漆かきつばたの図」です。
六角紫水(藤岡仲太郎)氏の生家跡に建つ「六角紫水先生之碑」、春風に桜の花びらがサラサラと舞い降りてきます。
ちなみに、六角紫水の名についての由来を記した記事は見当たりませんが、彼(藤岡仲太郎)が幼少の頃、生家の裏山ともいえる位置にそびえる陀峯山(当時は御山)付近に産出する、紫水晶の形と色の美に触れ、その神秘の輝きに勝る作品を作るべく六角紫水を冠した、と・・・(*^。^*)です。
注) 六角名は養子先であった六角家から ・ ・ ・ とも。
Google 2015 大原中心部の画像です。
星印は行者堂のある行者山です。
新宮八幡宮の下、陀峯山を水源とする八幡川の流れを挟んで、江田島市立大柿中学校があります。
昭和22年4月に国民学校の高等科が廃止され、かわって中学校が設立されることになりました。
しばらくはそれまでと同じく小学校の教室を使っていましたが、大柿町、飛渡瀬村、深江村とが一つに集まり、組合立中学校として、昭和24年7月12日、現在地に大柿中学校を開校しました。
その後、交通の便や生徒数の増加などもあって、昭和28年組合を解散し3校に分離しましたが、のち32年に深江中学校を、52年に飛渡瀬中学校を統合して現在に至ります。
ちなみに、平成26年5月1日現在の大柿中学校生徒数は、1年生37名、2年生41名、3年生32名、全生徒数が110名です。
大柿中学校の東側にある丘の上から見た学校校舎です。
広い校庭を縦横に使ってボールを追いかける、野球部の練習風景です。
ボールを全力で追う生徒にレンズを向けると、走りながら「こんにちわぁ~」って、「え、あっ、こ、こんにちわ」、突然の挨拶を受けドギマギしました・・・(*^。^*)です。
11月24日、月曜日、振替休日の日の午後2時。
この日、この時間、大柿中学校の校庭に人影はありませんでした。
遠征試合とかあるのかも・・・(*^。^*)ねっ。
八幡川と校庭との間に植えられたイチョウ並木の葉っぱが、晩秋の陽射しを透かして黄金の光を放ちます。
大 柿 中 学 校 校 歌
作詞 浜口慧正
作曲 幸田春子
1、
波静かなる 内海の
ひざしも清く 空澄みて
亀甲山麓 大柿の
我が学び舎に はげみなん
2、
輝く理想の 彼方こそ
輝くいのち 日の本の
ひやくのせいき 大柿の
我が学び舎に つとめなん
3、
みどりの光に 生いたちて
なごみはるけき 故郷の
恵は深し 大柿の
我が学び舎に むつびなん
広島県立大柿高等学校の正門です。
昭和15年3月に大柿実科高等女学校として隣町の中村実科高等女学校とともに設置、16年6月、地元有志、久保中鷹蔵氏より寄贈された大柿校舎を当地に落成しました。
昭和23年、高等学校設置認可を受け、大柿高等学校(男女共学)を開校、同年9月に県立移管、今の「広島県立大柿高等学校」及び同「中村分校」となりました。
のち昭和39年に中村分校を廃止し、「大君分校」を開校しましたが、平成21年3月その大君分校を閉校して現在に至ります。
町民(村民)有志の熱意を発端につくられた大柿高等学校、江田島市内においてもただ1校のみとなった高等学校ですが・・・
平成26年4月現在で、1年生24名、2年生26名、3年生15名、全学生数が65名です。
耐震工事中の大柿高等学校校舎です。
昭和36年、城山(じょうやま)から見た大柿高等学校です。
左上の山は行者山、頂上に小さく行者堂が見えます。
(原画は大柿地区歴史資料館)
行者山登山道からみた、大柿高等学校です。
耐震工事もおわり、壁面もきれいに塗装されました。
背景中央やや右よりのピークが陀峯山です。
大 柿 高 等 学 校 校 歌
作詞 長坂堯雄
作曲 山本秀
1、
暁に響く潮鳴り 目覚むる叡智
真理の扉 打ち開き
浜の真砂に 輝く真珠
いざ共に拾わん いざ共に
2、
陽炎の燃ゆる大地に 溢るる生気
開拓の鍬 打ち込みて
島の緑野に 鍛える腕
いざ共に振るわん いざ共に
3、
星影の映る学舎 湧き出づる愛
平和の鐘を打ち鳴らし
海の彼方に 栄えある光
いざ共に伝えん いざ共に
あっ、そうそう
大柿高等学校から国道487号線を北に200mばかり行ったとこに、私立の大学があります。
大 学 の 校 歌 (うたいもんく?)は・・・
1、
新鮮な 海の幸
山の幸を たくみに
組み合わせた 心あたたまる
おもてなし
赤いスクールバスもあります・・・(*^。^*)です。
画像は昭和23年1月の大原中心部です。
この年の5月、大柿高等女学校から男女共学校となった現県立大柿高等学校、昭和22年4月、国民学校から新制小学校に改称したばかりの大古小学校、まだ建設中?の組合立大柿・深江・飛渡瀬中学校(昭和24年7月12日設立)の敷地も見えます。
赤い星印は城山(じょうやま)で、昭和36年に、この城山から写した大古小学校や大柿高校の写真が大柿地区歴史資料館に残されています。
大柿地区歴史資料館展示の大柿町制祝賀式のようすです。
大古尋常高等小学校(上の写真)で使われていた校門門柱が現在の大古小学校通用門に建ちます。
表札は昭和2年の町制施行で替えられた「大柿町立大古小学校」とあり、側面に「鐵柵門扉 寄附者 大原 佐々木リハ 發起人 大柿村長 淺木攝 仝助役 濱井英雄 大古校長 本崎藤太郎 制作者 大君 迫平鐵工所 大正十四年十一月」のプレートがとめられています。
昭和31年全校生徒(先生も含む?)780名・・・(◎_◎;)です。
ちなみに平成27年3月1日現在の児童数は(大古小・深江小・大君小の学校統合で)152名です。
大古小学校は2002年深江小と統合、2004年2月、RC構造2階建て校舎に改築、2009年大君小と統合しました。
統合年は不明ですが、大正末年???ごろ小古江尋常小学校とも統合しました。
昭和36年、小学校の南西にある小丘、城山(じょうやま)からの撮影です。
校舎の周りは水田、山々は山頂まで耕され、左に大柿高校校舎の一部が見えます。
同じ城山からの撮影を試みたのですが、山(丘)上は樹木鬱蒼とし、まったく視界が利きません。
やむなく小学校の東に位置する小丘に登ってみましたが、当時学校の周りを囲った水田はあとかたもなく、今はカラフルな屋根の新興住宅が立ち並びます。
かろうじて、左に体育館、右に2階建て校舎が視認できました・・・(^_^;)です。
南に開いた、大古小学校正門です。
昭和29年、一部校舎の造改築にともなって造られた二代目?正門がモニュメントとして展示されています。
灘尾弘吉氏書による「大柿町立 大古小学校」の表札と、「昭和二十九年三月 寄贈者 坂井次太郎 設計者 串田 好章 発起人 平野千太郎 仝 豊島靖夫 仝 山野井勲の石板プレートが貼られています。
ちなみに、この昭和29年11月3日には、大柿町・深江村・飛渡瀬村を合併し、新制大柿町が誕生しました。
新校舎壁面には、正門と同じく南面して大古小学校校章が貼られています。
校章の意味を記した資料は見当たりませんが、大古と深江、大君の統合により三つの山と三つの海が一緒になったと?、大古の文字も入ってそうな?? ・・・(^_^;) ???です。
その校章の下には、黒御影の石碑に大古小学校校歌も刻まれています。
大 古 小 学 校 校 歌
作詞 長坂堯雄
作曲 山本秀
1、
島いそに寄する波音
よきゆりかご
幼きわれら
清き心に
ともに進まん
大古大古わが大古
2、
山青くはゆる
日のかげよき学舎
幼きわれら
真求めて
常にはげまん
大古大古わが大古
3、
空高くかける鳥群
よきふるさと
幼きわれら
つばさきたえて
強くすだたん
大古大古わが大古
陀峯山山頂へのルートは大君からの隠地林道、深江からの椿林道と、大原から登る陀峯山登山道の3ルートがあります。
陀峯山登山道はもっとも古くにつくられたルートで、もとは高清水山付近までの細い農道でしたが、昭和41年ころに陀峯山山頂にテレビ中継塔を作るための機材運搬道として山頂までの簡易作業道路がつくられました。
昭和43年、その簡易作業道路を拡張整備し、観光道、林道、農道を兼ねた陀峯山開発道路、通称陀峯山登山道が完成しました。
登山道沿いに沢山の農地が耕されていた昭和後期の頃までは、のどかな牧歌的雰囲気の漂う観光登山道兼農道兼林道として大活用されてきましたが、その後、高齢化や離農、イノシシの被害拡大により沿道の耕作地や森林の多くが放棄され、いま農道や林道として使われることはなくなりました。
さらに、大君からの遠望ができて景色の良い隠地林道の開通もあって、陀峯山観光登山道としての価値は急落、登山道は深い雑木で覆われ、遠景や牧歌風情を楽しめるル-トではなくなりました。
車の通行もほとんど無くなった陀峯山登山道は、野草を探したり、チョウチョや小さな昆虫を追っかけてのんびりできる、ほんまもんの陀峯山登山道となってしまいました。
画は、ナミアゲハ(雌?)
柑橘栽培の盛んな当地ではどこにでも普通に見られるチョウです。
性別は分かりづらいのですが、お腹が大きいので多分雌?です。
ベニシジミ(夏型)(雄?雌?)
幼虫の食草はスイバやギシギシですが、ベニシジミの成虫はヒメジョオンの蜜がお好き?みたい・・・(*^。^*)です。
ツマグロヒョウモン(雄)
幼虫はスミレ類の葉っぱを食べます。
セイタカアワダチソウの花に止まりました。
ヤマトシジミ(雄?雌?)
幼虫の食草でもあるカタバミの花に止まります。
雄雌の判定は、翅の上面が雌は黒っぽく、雄は光沢のある水色だと・・・(^_^;)です。
モンシロチョウ(雄?雌?)
ヤマハッカで蜜を吸うモンシロチョウです。
性別判定は難しいのですが、紫外線をあてれば雄は白っぽく、雌は黒く見えるそうです。
幼虫の食草はアブラナ科、中でもキャベツが大好物だとか・・・(*^。^*)です。
アサギマダラ(雄?雌?)
幼虫の食草はガガイモ科のキジョラン、イケマなどで、猛毒のアルカロイドを持つのだそうですが、そのような植物はいまだ見たことがありません。
が、成虫のアサギマダラは林道などでよく見ますし、年によっては大発生?して、5,6羽がヒラリヒラリと頭上を乱舞することもあります。
また、雄のアサギマダラには後翅端に濃い褐色斑ができるのだとか。
と、すれば画像のアサギマダラの後翅端は、なにやら黒っぽいので雄?なのかも・・・(*^。^*)です。
陀峯山登山道から遠景が望める場所はほとんどありません。
視界が開けるのは山頂にたどり着いてからです。
陀峯山山頂からみる西の方向です。
手前が沖野島、砕石事業で山肌が削られているのが大黒髪島です。
阿多田島が小さく右上に、本土の岩国方面は空と同化し霞んで見えます。
北の方向です。
手前が大原の町と大原湾、その向こうの海は津久茂の瀬戸から先に広がる広島湾です。
北東の方向です。
手前に柿浦の港、さらに北に飛渡瀬の町、その先は江田島町の山々、右は呉湾になります。
竹藪を抜け、小さな菜園兼みかん畑へと向かう農道です。
島内に多くの孟宗竹が植えられたのは戦後になって、牡蠣筏(カキイカダ)で孟宗竹が多用されるようになってからです。
孟宗竹が植えられるまでは、急斜面を削って作った段々畑が山々の尾根まで続き、サツマイモやラッキョ、土地の肥えたところでは、綿花や葉タバコ、大豆、蜜柑などの栽培が試みられましたが、とてもとても労力に見合う収益を得ることなど出来るはずもなく・・・(~_~;)です。
労働に見合う収益を得ることはできませんが、自身が責任を負い、安全に美味しく作った野菜や果物は、子供や孫の健康を願う、お爺さん、お婆さんには止めることのできない楽しい作業です。
島内では、このような竹藪や雑木林、人跡未踏?のその先に切り開かれた耕作地をわりと良く目にします。
そんな土地の水には生活、産業汚水が一切入り込むことがない清水だから・・・です。
自然用水の限られたこの地で農業が急速に減退したのは、農業用水路に生活汚水が大量に入り込んだことも、その大きな一因です。
丘の斜面を削って作ったミカン畑、周りから押し寄せる雑木の新緑に押しつぶされそうになりながらも、五月の風に蜜柑の花が甘い香りを漂わせます。
田んぼを一枚でも多く作るため、集落は一段も二段も高い丘の上につくられました。
過去何百年にもわたり、生活の基盤であったはずの田んぼが今生茂る夏草に埋もれ、基盤を失った集落も、また一軒さらに一軒とビンボウカズラに覆われて朽ちていきます。
柿木の下の野菜畑、コンクリートで舗装されてはいますが、道幅1mもない生活道路兼用の農作業路、はるか遠くの丘にご先祖様のお墓が並びます。
家の軒下にある野菜畑でさえもイノシシの被害を避けるために金網で囲います。
でなければ、一夜のうちに穴だらけ、百姓屋であてもナス、キュウリ、タマネギ、皆スーパーで買うことになります。
秋のコスモス。
秋桜は荒地が好きな花です。
ご先祖様が精魂込めた農地が、まずはお花畑に、そして・・・
つい4,5年前までは、大根や、ホウレンソウの若葉がさんさんと注ぐ初秋の陽光を受けて育つ、手入れの行き届いた菜園だったのですが・・・
シロハギ、キバナコスモス、シオンの咲くお花畑に変わりました。
庭先に沢山の石臼が集められています。
そんなに興味があるんなら一つ持って帰るかい???
いやいやいや、もうそんな余力は・・・(^_^;)です。
少しだけ遅れて作られた感のある八王寺農道ですが、・・・
能美の歴史が刻み始められた、奈良、平安の頃から数えて千二百年、いまさら十年や二十年の時の遅延は桜の花びらが風に舞う時間よりもっともっと短いほんの一瞬です。
豪雨による土石流に埋まった、旧宝持寺の境内に舞い落ちていた桜花が、いまはその跡地を貫く八王寺農道の路面に舞い落ちます。
桜の枝先はるかに、再建されたばかりの新宝持寺本堂の屋根が光ります。
注) 農道名は八王寺農道で統一されるようですが、地名や山名は資料により八王子と八王寺が混在します。
元々がどちらかに決められていたわけではないので、どちらも正しい表記です。
山の名前など、地元民の間では、高山、裏山、御山、とかの呼び名で十分通じ合えたのですが、広域地図とかに表わそうとすれば判別しやすい名がどうしても必要ですから・・・(^_^;)です。