深江地区に見る、記念碑、記念物的・・・な、もの、など、を列挙します。
沖野島へと渡る手前、島戸の入り江に「魚魂」の碑と「畜魂」の碑が併設されて建ちます。
「魚魂」 衆議院議員 森井忠良
「畜魂」 参議院議員 源田実
碑文には・・・
真如界には自他の差別なく一心法界には生仏の仮名なし 然りと雖も諸縁によりて業果を六道に感じ報命を四生に受く 今現に羽毛魚畜類にその生を受くるもの 重苦はそも奈何あらん 然るに吾等人間多数の生命と蹂躙し無数の生命の犠牲なくしては人命を完うし難しこれ当然のことには非ず 唯々、痛恨懴悔の他はなし これに因りてみ仏の慈光を蒙りて生死諸悪の本を抜断され速かに得脱の善縁を得ん事を念じて
吾等懴悔の意をあつめて魚畜類の諸霊をなぐさめるべく此の碑を建立せり
浄土真宗 宗顕寺住職 慈摂書
昭和五十七年三月吉日 江口昭三建之
・・・ 合掌 m(__)mです。
陀峯山への登山道でもある椿林道から見た、新開地区と沖野島とを結ぶ沖野島農道橋「黄幡大橋」と、その先の「黄幡の生洲」です。
この黄幡大橋は能美島と倉橋島を結ぶ全長623.5mの「早瀬大橋」(昭和48年10月27日開通)をのぞけば、市内唯一の島と島とを結ぶ夢の懸け橋?、しかも、早瀬大橋よりも古く、昭和47年4月に完成しました・・・(^_^;)です。
昭和49年12月の「黄幡の生洲」です。
古く万治二年(1979年)のころから、潮通しの良い湾の入り口を仕切り「いけす」としてして使われていました。
今では当時の痕跡もありませんが、この画像にはまだ仕切の杭がはっきりと写っています。
沖野島の北端に海の駅「沖野島マリーナ」があります。
ヨットなど小型船の係留設備をもち、クラブハウスやメンテナンスヤードなどの設備もあって、休日などは各地から集まったセーラーで賑わっています。
この地では明治24年11月、農務省よりの真珠貝移植計画をうけ、幼貝の移植育成事業がおこなわれました。
ただ、当時は半円真珠も研究段階の状態で、明治38年になってやっと御木本幸吉により真円真珠が生産されるという、真珠黎明期です。
戦後も大君の王泊でミツワ真珠が養殖事業を手掛けるなど、あるていどの発展をみましたが、いずれの事業も数年、数十年で廃業、現在では江田島市沖美町岡大王の「丸本真珠店」さんが、広島県内で一貫生産を手掛ける唯一の真珠店となりました。
ちなみに丸本真珠の養殖場は大黒神島近海です。
田中川農道を上り詰めた先に、今は使われなくなった大きな牛舎がぽつんと残ります。
牛舎の軒下に 「鎮魂」 小松牧場 昭和60年1月吉日 と大書された、大石が建てられています。
碑文には・・・
第二小松牧場造成工事記念
自分の歩んだ道を自分の目と心でふりかえり多くの恩人に感謝すると共に自ら正すべき所は正し、人間としての重大な権利と義務責任の双方を自覚し、果たせ。
その為には、修養と生活設計の目標を樹て、悔いのない月、日、を生きる為の基盤とせよ。
一九八八年一月 昭規
記念碑や付近の状況から察するに、牛肉などのバーベキュー設備を整えた「小松観光牧場」があったようです。
もと深江小学校の正門前にある、深江老人集会所は、もと深江村村役場の跡地に建ちます。
その道路側に建つ青銅座像は村役場の建設に多大な貢献をされた「灘田玉八翁」です。
そえられた碑文には・・・
故灘田玉八翁は立志傅成功の人資性謹嚴にして公共心篤く且つ慈善に富む今回令嗣灘田義雄氏は岳父の遺志に基き本村役場敷地及廳舎購入資金として巨額の金員を寄附せらる仍て本村は此の篤志を偲び翁の座像を建て以て彰功す
昭和十三年五月 深江村村戸主會長 村長 濵岡若太郎
・・・と、です。
ちなみに、深江村は昭和29年11月3日、大柿町と合併しました。
深江市街地の北、畝山の中腹に、大きな大きなクスノキがあります。
楠部家の庭で、歴代当主に保護され大きく育ったのでしょう、「楠部の大楠」とよばれます。
いま、楠部家のお屋敷は移転しましたが、大楠の枝下には楠部家歴代のお墓が整然と並びます。
推定樹齢は4、5百年?くらい、成長の途中でヤブツバキを巻き込み、幹の途中からツバキの枝が生え出ているように見えます。
広島県下で第5位の巨樹ともいわれており、南向きの山腹で、たっぷりの日差しを浴び、この先も百年、2百年、3百年・・・とさらに大きく育つことでしょう。
ちなみに、日本でもっとも古木とされるクスノキは樹齢3千年と云われる、柞原八幡の大クス(大分県大分市八幡)と、川古のクス(佐賀県武雄市若木町川古 日子神社)の二本があります。
宮島の大鳥居に使われることがなければ、あと2千5百年は十分に生き抜くことができそう・・・(*^。^*)です。
深江地区の北部にある、大附の海浜公園です。
とは、云っても今は訪れる人も多くはないのですが、昭和の一時期には海水浴客で細い海岸線道路が身動き取れないほどの人、人、人であふれたことも・・・(^_^;)あります。
自然の残る海岸線で、生物相も豊富なのですが、海砂の採取??あるいは防波堤の工事???、しだいに砂浜が減少し、テトラポットで大波を遮る状況になってしまいました。
大附の海岸線を守る自然林です。
山に自然がもどれば、やがては直下の砂浜も、またその先の海も生き物も、連鎖して素敵な調べを奏でます。
江田島市最南端の地に、小豆島にも匹敵するオリーブの一大生産拠点をつくろうと現在全市をあげて(オリーブの島計画)奮闘中です。
直接のきっかけとなったのは、民間の会社がゴルフ用地として開発すべく取得していた114ヘクタールもの土地が、そのまま江田島市へ譲与されたことによって始まりました。
広大な無償譲与地の有効利用と、地域振興策とを兼ねたモデル事業として、江田島市主導のもとにオリーブ園造成工事がはじまりました。
画像は山林伐採が終わった、2012年6月の状況(西の沖野島方向)です。
南の親休鼻方向です。
今回は、約7ヘクタール(造成規模約13ヘクタール)のオリーブ園地を造成する予定で、造成総事業費は約2億5000万円とか。
この付近の地質はすべて、花崗岩が風化したまさ土です。
しかも、かなりな深層まで風化されていますので、造成作業自体は容易です。
ただ、先年の広島市北部で起きた土砂災害に見るように、雨に対してきわめて流出しやすい性質をもちますので、豪雨に対する土止め作業や、反対に晴天となった場合の土壌固化の防止、無機質土壌の改良、暴風対策、など、ハードルは結構高いところにあります。
造成中の丘から南東の秀地、柿木鼻方向をみます。
表層の土壌は細粒に風化が進んでいます。
白いのは長石が風化しカオリン化したもので、もう少し大量にあれば、陶石、陶土として焼き物に利用できるのですが・・・(^_^;)です。
まもなく削り取られる丘の上、ヤマツツジが最後となる花を満開に咲かせました。
2012年11月、小山が一つ無くなりました。
2013年11月 椿林道から見るオリーブ園造成地です。
沖には、我島、長島が浮かびます。
2015年3月 早くに植えた樹は腰の高さ以上に育っています。
今年の秋には収穫があるかも・・・(*^。^*)です。
当初計画の植栽は、ほぼ完了しました。
江田島市HPからのコピペで、「オリーブの収穫、収益表」・・・m(__)mです。
平成50年(2038年)には、収益2億7,720万円かぁ~~~。
グーグル地図にもオリーブ園がはっきりと写る広さとなりました。
譲与地はまだまだ、101ヘクタールもあります。
平成24年の香川県オリーブ収穫量は153t、全国シェアーの96.8%です。
(農林水産省 特産果樹生産動態等調査 香川(153t) 大分(3t) 熊本(2t))
このままだと23年後(平成50年)には江田島市のオリーブ収穫量は396tですので全国シェアーの71%を締めることとなり、オリーブの島計画、大、大、大成功ぉ~~~ ・ ・ ・ 正夢 (◎_◎;) です。
県道300号線を深江港へと下るその沿線南側に、もとの深江小学校を利用した「さとうみ科学館」大柿自然環境体験学習交流館があります。
深江小学校は明治6年(1873年)の創設以来、129年の歴史をもちましたが、2002年3月(平成14年)に廃校となり、学区は大古小学校に統合されました。
ただ、2005年からの鹿川小学校大改築に伴い、2006年3月までの1年間、鹿川小学校代替え校舎として使用されました。
市内に残る廃校となった多くの小中学校校舎や施設が、ほぼ放置状態にある中、唯一、多くの児童、生徒あるいは研修生などを受け入れ、自然学習の指導支援をする教育施設、「さとうみ科学館」として存続しています。
廃校となって13年になりますが、校舎入口には「大柿町立深江小学校」の文字と学校章が残されています。
深江小学校校章は、桜花と校舎を見下ろす丸小山に建つ「十王堂」の宝珠をデザインした中に深の文字が入れられています。
玄関庇に「大柿町立深江小学校」の文字を残したまま、玄関脇の表札は「さとうみ科学館」・・・(*^。^*)です。
「さとうみ科学館」とは、以下コピペ・・・m(__)mです。
広島湾に浮かぶ能美島にある大柿町は、瀬戸内の美しい自然に恵まれています。
この豊かですばらしい自然環境を活かそうと、平成12年1月、大柿町町制45周年記念事業として「大柿町海辺の生き物調査団」が発足され、身近な海辺にすむ生き物を調べていく中で、自然に親しみ、自然に学ぶ活動を行ないました。
記念事業は、2年間の期限付きでしたが、このような活動を今後も形を変えながら継続し、得られた財産(標本、写真、資料、人材など)を環境教育の教材として活用していこうと、平成14年4月、廃校となった旧深江小学校を活用して「大柿町自然環境体験学習交流館(環境館)」が設置されました。
平成16年11月、江能四町が合併して江田島市となり、施設名も、「大柿自然環境体験学習交流館」に変更され、江田島市教育委員会生涯学習部生涯学習課所管の施設になりました。
平成22年7月には「さとうみ科学館」という愛称も決定し、平成25年度から学校教育課の所管となりました。
さとうみ科学館では、小中高等学校の枠にとらわれず、個人やグループの自主的な学習を支援し、「市民に開かれた研究機関」として、身近な自然に直接ふれながら、「海辺の自然」、「ふるさとの自然」をテーマとした科学研究や環境学習の場を企画・運営しています。
展示品のカブトガニ脱皮殻(腹部側)です。
江田島近海(江田島湾)に生息するカブトガニの経年調査も、業務の一環で、館内にはカブトガニの脱皮殻が多数保管されており、また偶然捕獲された生態が一時的に飼育されていることもあります。
教室を改造し設置した、科学館スタッフの手作り水族館です。
昨年、さとうみ科学館スタッフが捕獲した、変なヤドカリが、今年2月に新種のヤドカリであると判明、「エタジマホンヤドカリ」と命名されました。
このエタジマホンヤドカリ、新種の割には強健で飼育も容易、水槽内で卵のふ化なども観察されたとか・・・
常設展示がされています。
体育館を利用して、毎年市内小学校児童の科学観察発表会が開催されます。
四方を海に囲まれた環境ではあっても、直接海の生き物と接触する機会は限られます。
定期的な自然観察会の他にも、理科教育の一環として釣附海岸などで野外観察授業が行なわれます。
でも、雨が降り出したりしたら、急遽、館内の展示水槽から集めた生き物をたらいに放ち、ナマコやタコ、ウニやカニにも素手で触ってもらいます。
地域の方々が定期的に整備されているグラウンド。
今日は、お父さんが息子二人にノックの猛特訓? ・・・(*^。^*)です。
戦後の一時期、この狭い敷地に対向し、中学校も併設されていたとか。
校庭の隅っこに、昭和52年度卒業生の記念碑がのこります。
って、昭和40年生まれだから、今年は50歳 ・ ・ ・ (*^。^*) で・す・よ・ねぇ~。
昭和22年3月の深江地区航空写真です。
当時の小学校はまだ国民学校と呼ばれており、同年4月から現在の6・3・3制へと変わり、深江村立小学校となりました。
追加画像です。(2017/02/26)
深江在住の方よりご提供頂いた写真です。
「深江尋常高等小学學校上棟間祭」昭和三年五月十五日と見えます。
昭和49年12月の田中川付近の空撮画像です。
当時八王寺農道は計画もありませんし、田中川農道も舗装整備がされているのは下流域の一部のみです。
農道の多くが手押し耕うん機も入らぬ、未整備状態にもかかわらず、田んぼや畑、果樹園は今では想像もつかない山の頂まで耕されていいます。
ちなみに、明治15年の深江村普通物産表によれば
米(43町1反)・うるち米(3町8反)・裸麦(74町)・粟(1町5反)・大豆(3町5反)・小豆(3町1反)・蕎麦(1町5反)・空豆(1町4反)・甘藷(30町)
明治15年深江村特有物産表に
実綿(33円)・葉煙草(38円)・茶(13円)・甘藷(450円)・木綿(4800円)とあります。
さらに、深江村の明治14年と昭和33年の土地利用状況では田(554反→662反)、畑(1,009反→963反)と、ほとんど変わらぬ耕地面積です。
つまりは、山の頂まで余すところなく土地が耕されていたのは遠く明治のころ、あるいはそれ以前からの変わらぬ風景として、昭和の後期まで続いていたのです。
(10反=1町≒1ヘクタールです。また明治中期の頃の1円は、今の2万円くらいとも云われますが????です。)
田中川に沿って登る田中川農道です。
一足先に刈り取りが終わり、稲はぜに架けられた早場米です。
稲穂が垂れ、ヒガンバナの咲く農道は日光東照宮の日暮門よりもあでやか・・・(*^。^*)です。
お百姓様、ありがとう・・・m(__)mございます。
お地蔵様、ありがとう・・・m(__)mございます。
市街地の裏手もはるか山の頂まで細い道が続いていましたが、今残るのはご先祖様が祀られた墓所までがやっと・・・
地域の宝だったため池も・・・
やがて少しづつ堆積した土砂で埋まり、稲穂の代わりにキショウブが黄金色に輝きます。
陀峯山系の清水を集めて下る鳴河川を水源に、田植えがされたばかりの田んぼです。
お米、美味しいでしょうねぇ~~~ ・ ・ ・ (*^。^*)です。
人のいなくなった山野はイノシシさんの楽園です。
高品質の野菜や果物を求め、団体で爆買(食)ツアーに訪れます・・・(^_^;)です。
能美島東岸の柿浦を始点に大原を横断し西岸の深江と通ず県道300号線がこの地区のメイン道路となります。
この300号線は親休鼻の付け根ともいえる釣附橋まで南下し、途中の新開からはいまだ未開通の南部海岸道路(県道121号線)に枝分かれします。
他には、大原から深江市街地をバイパスして南部海岸道路につなぐ八王寺農道がありますが、その他の道路は軽自動車がやっと離合できる程度の生活兼農(林)用道路があるのみです。
深江市街地の北部、畝山(116,6m)の中腹を縫う環状農道から見た沖野島方向、眼下は深江漁港です。
四月上旬、梨の花が満開となっていました。
カメラを西に振ると、はるか沖合に沖美町岡大王の大黒神島が入ります。
手前の尾根筋には今も数段の蜜柑畑が健在ですが、かって昭和50年代までは画像に写るすべてが蜜柑の緑の葉っぱで覆われていました。
それまでのレモンやグレープフルーツの自由化に加え、1991年(平成3年)オレンジの輸入自由化により、日本産みかんの消費量は大きく減少しました。
自由化から5年後の1996年には、国産みかんの消費量は最盛期の3分の1近くになったと云います。
それまでの過剰な生産や、消費選択多様化の変化があったとはいえ、零細なみかん農家にとっては有無を言わさずの大打撃、他の果樹や作物への転換も試みられはしましたが・・・
転作の生育試験で植えたのか?カリンの樹が一本だけ、農道脇でピンクの花を咲かせていました。
精巧な擬似のカラスに守られた、お花畑がありました。
手先の器用なお百姓さんが作る小菊は、なんとか採算が取れているみたい・・・(*^。^*)です。
この環状農道には、たくさんのポエムがただよいます。
おてゝつないで のみちをゆけば
みんなかわいい 小鳥になって
うたをうたえば くつがなる
はれたみそらに くつがなる
みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく かすんでる
大きな栗の木の下で
あなたとわたし
なかよく遊びましょう
大きな栗の木の下で
1番
さいた さいた チューリップのはなが
ならんだ ならんだあか しろ きいろ
どのはな みても きれいだな
2番
ゆれる ゆれる チューリップのはなが
かぜにゆれてにこにこ わらう
どのはな みても かわいいな
3番
かぜに ゆれる チューリップのはなに
とぶよ とぶよちょうちょが とぶよ
ちょうちょと はなと あそんでる
3番まであるとは知りませんでした・・・(*^。^*)です。
春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た
花がさく 花がさく どこにさく
山にさく 里にさく 野にもさく
鳥がなく 鳥がなく どこでなく
山でなく 里でなく 野でもなく
1 雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人でからかさ さして行く
からかさないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく
2 急がにゃお馬よ 夜が明けよう
手綱の下から ちょいと見たりゃ
お袖でお顔を かくしてる
お袖は濡れても 干しゃ乾く
雨降りお月さん 雲のかげ
お馬にゆられて ぬれてゆく
3 雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人でからかさ さして行く
からかさないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく
農道は、ぽ・え・む だなぁ~ ・・・(*^。^*)です。
文政二年(1819年)広島藩に提出した「国郡志御用ニ付下調書出帳」によれば、深江村海産物として、煎海鼠(イリナマコ)、鯛(タイ)、鱸(スズキ)、玉口魚(グチ?)、海鼠(ナマコ)、栄螺(サザエ)、鯵(アジ)、鰯(イワシ)、小貝、めばる、蛸(タコ)を産したとあります。
画像は大柿地区歴史資料館展示の、昭和24、25年ころの深江漁港です。
画像をみると、当時すでに整然とした護岸が組まれており、干潮時に船底点検が可能な広い台場のある、すばらしく機能的な港があったようです。
撮影の経緯は不明ですが、さらに港を改築する相談かも? ・・・(*^。^*)です。
津波、高潮ハザードマップが掲示されています。
これを見ると、戦後の深江港改築は目を見張るスピードで進んだようです。
とくに南西からの風波を遮る長大な防波堤と、湾内南側の埋め立てによる土地造成により、最新の施設設備を備えた近代漁港へと大変貌しました。
南岸埋め立て部につくられた、最新の係留桟橋と陸上漁業施設です。
防波堤からみた旧深江漁港方向です。
専業漁船に混ざり、一般レジャーボートの係留も多く見ます。
深江漁港最奥部の様子です。
昭和25、26年頃にあった石垣の防波堤はコンクリートの下に埋もれたようです。
半農半漁、あるいはレジャー的要素の強い漁船が多い中、いかにも漁船らしい船が一隻係留されていました。
「克己丸」、土佐のカツオ一本釣り漁船のようなスマートな船型ですが・・・
遊漁船仕様に改装されているような???
いずれにしても静穏な瀬戸内海で使うには惜しいような、すてきな船型です。
湾内北側は防波堤こそコンクリートで固められていますが、まだ昔の穏やかな情緒が残る落ち着いた雰囲気です。
砂浜があって、その奥の松の木の枝下に櫓を乗せた木造船が引き揚げられている、そんな光景はもう見ることができなくなりました。
深江漁港の奥部、古くからの港部分です。
湾手前のコンクリート建物が深江農協、漁協は対岸にあり農協よりも小さく見えます。
いまは農業目的で深江港を使うことはほとんどありませんが、かって、昭和後期のころまでは、肥料や農業資材の搬入、収穫物の穀類、芋や野菜、蜜柑などを満載した農船がひっきりなしに出入りしていました。
また、早朝一番に広島の市場に野菜や花卉を運ぶ運搬船(番船)は、帰りには生活用品を満載し各商店に積み荷を分配していました。
南岸の新しく埋め立てられた一画に、慰霊碑「海はわすれない」が建ちます。
この碑は戦時中、米軍機により投下敷設された機雷により、戦後の昭和23年、昭和25年の二度にわたる漁船の触雷爆発事故(長島沖)による犠牲者の御霊を祀ったものです。
後備の石板には
犠 牲 者 氏 名
昭和二十三年五月二十五日
深江地区
上河内傅造 天野浩
昭和二十五年七月二十七日
深江地区
樋上舛夫 樋上秋義 川中繁
江野脇斉 天野辰夫 天野勝一
久保久一 重田亀一 尾勢六太郎
古本善二 鬼頭清八 江口秋義
江口豊 江口厚 江野脇キクノ
山下マサコ 楠部マツコ 部屋ミスノ
大原地区
山根新太郎 宮本光五郎
柿浦地区
小倉石寿徳 中岡積 山本定夫
山本洋右
合掌 ・ ・ ・ m(__)mです。
画像は「呉戦災を記録する会」HPの「広島湾ー呉軍港の機雷投下敷設図」から、その一部をコピペさせていただきました・・・m(__)mです。
○や●が米軍爆撃機B29より投下した機雷の敷設位置です。
上空からのパラシュート投下ですので正確な位置ではありませんし、着水衝撃などで予期しない爆破設定となったりで、戦後の掃海作業でも処理できなかった機雷が相当数残りました。
追加画像です。(2017/02/26)
深江在住の方よりご提供頂いた深江漁港の写真です。
手前の木造和船に「HS3-1410?」の文字が見えます。遠景には現在と同じ鉄筋コンクリート造りの深江農業協同組合やその前に乗用車がみえます。
昭和30年代後半から40年くらい?の撮影だと思われますが???。