中町 能美中学校

中町中学校 
右下方でグラウンドが白く光って見えるのが、昭和3 6 年9 月1日に、 高田・中町・鹿川中学校の三校を統合し開校した 能美中学校(開校から5年目)です。

開校当初は、生徒、教職員を合わせ831名の大所帯でしたが、平成27年4月1日現在の生徒数は151名、学級数8学級、教職員22名と大激減しました。

ちなみに左上には当時3棟の校舎をもつ中町小学校も見えます。

中町中学1975 
昭和50年2月の国土地理院空撮画像です。

開校から、13年が経過、能美中学校の設備には大きな変化は見られませんが、中町小学校では校舎を一棟減らし、新たに体育館が作られています。

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平成25年9月に完成したばかりの新校舎(落成式典は26年3月)です。

以下は、能美中学校の主な沿革です。

昭和36年9月  開校(高田・中町・鹿川中学校と統合)
昭和38年5月  体育館完成
昭和59年3月  プール完成
平成15年1月  新体育館完成
平成16年11月 江田島市立能美中学校となる
平成18年4月  能美中学校・沖中学校と統合
平成25年9月  新校舎完成移転

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右手の建物は平成15年1月に完成した体育館です。

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金次郎さんの銅像がなければ学校とは思えない、おしゃれなデザインの新校舎です。

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校庭には巨石がバランスよく配置されていて、リゾートホテル並みの癒し空間が演出されています。

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これらの巨石を配した石庭は「盤石の庭」と命名されており、能美中学校の創立20周年を記念して昭和42年11月、能美町鹿川出身の今田順一氏から寄贈されたものです。

ちなみに昭和22年、6・3・3制により施行された新制中学校はそれまでの、中、高田、鹿川の各小学校に併設されていました。

能美中学岩石園 
上の画像は教育委員会発行の資料よりコピペした旧校校舎を写したものです。

能美町では、温暖な気候を利用し、花き園芸が盛んで、それにともない造園業も発展してきました。
そのためかどうか、能美中学校は昭和47年「学校緑化コンクール準特選」を受賞、他にも多くの環境美化にかかわる賞を取得しています。

その良き伝統は学校成立当初からの校訓である「協力・建設・信頼・感謝」を基とし、新しい学舎に新しい校風の樹立と、よりよい明日への想像、互いに信じ会い共に励み合う仲間づくりをめざしたことにゆらいするもの。だろうと・・・(*^。^*)です。
(一部、能美中学校HPからの要約です。)

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新校舎建設に伴い、それまで教室のすぐ脇に展示されていた岩石園が、校庭の最奥に移設されたのはチョット残念です。

江田島には深成岩である花崗岩と、プレート  テクニクス由来の付加体からなるわずかな量の堆積岩、変成岩しか産しません。
が、なぜか多くの小中学校で、島外から集めたであろう貴重な岩石標本が展示されています。

おそらく、熱心な理科教師や父兄の協力があってのことでしょうが、いまのように便利な重機や運搬車の調達もままならない時代によくぞ、まあ・・・(*^。^*)です。

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丘の上から見た、能美中学校と江田島市スポーツセンター、その先に高田の町や遥か遠く広島宇品方面がみえます。

能美中校章 
中学校の全景を撮ろうと登った丘の上、ふと足元を見ると小さな水晶が土に埋まっていました。

能美中学校校章由来について学校HPより引用します。

校章の下の方の図案は波の形を表し,ある時は平和な穏やかな海を意味し,ある時は大海の荒波を意味します。もちろん島の学校ということも意味します。その上にちょうど現在の校舎のように形の整った「中」があるわけです。風土に恵まれ,平和で穏やかで外観も立派な島の学校を意味します。まして大海の大波を全校協力によって乗りきり,立派な中学校を建設していくという強い意志をも表しています。

能美中学校校歌
作詞:平岡 昭  作曲:峠岡 邦英

1 みどりなる 能美の島に 大いなる 我が学び舎
  建設の 気宇高らかに 白き影 映してぞ建つ

2 見はるかす 江田の内海 れい明の 光あふれぬ
  年若き 我らの伴は  目ざめてよ ここに集えり

3 訪ぬるは 人の世の道 きわむるは 真理の世界
  信頼の 心結びて  いそしまん いざ相共に
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中町 中町小学校・中町保育園

2)江田島町南部 中町小学校 
能美町誌によれば、江戸時代後期には、中町の徳正寺、高田の光源寺、鹿川の伊木助次氏私宅など各村々において盛んに寺子屋教育が行われていたと云います。

その後、明治5年8月2日「学制」の公布にともない、中村においても、麓、見浪、高下、長石などに分教場を開きましが明治12年4月22日、村内の各分教場を「中村小学校」として長石地区(現在地)に統合しました。

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新たに耐震補強がなされた鉄筋コンクリート3階建ての、江田島市立中町小学校の正門です。

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中町小学校には、現在の正門のほかにも旧正門?、通用門?が三つあります。
こちら、グラウンドへ通じる東門です。

左右にどっしりした花崗岩の門柱が建ち表札を埋め込む(埋め込まれていただろう)窪みが三つあります。
その一つ(左側門柱)には大理石を刻んで「廣島懸中村立中小学校」?と刻まれた表札が残っています。
さて、窪みだけを残し、取り外されている他の二枚にはなんと刻まれていたのでしょう???

想像・・・ですが、「廣島懸中村立中中学校」???「廣島懸中村立中国民学校」???とあったのかも?、です。

注):今日では一般に「中町」といいますが本来の地名は「中」であり、1955年に中村、高田村、鹿川町が合併して能美町となったおり能美町「中町」と改名しました。

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東門に対峙し、同じくグラウンドに通じる南門です。

花崗岩の門柱正面に木札を掛けるL字釘が残りますが表札はありません。
側面には「寄贈者 堀岡○兵○」「明治四十二年三月建之」と刻まれています。

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体育館の前へと通ず西門を入ると、「たくましい中町っ子 育成記念の碑」があります。

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体育館の横には、卒業記念として製作した彫像がたち、銅板に打ち出した文字には「希望 2000年度 卒業生」と読めます。

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他にも、生徒の卒業年は不明ですが、「七転び八起」たくましい中町っ子の卒業記念ダルマ・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの隅っこに奇妙な金属機械が据え付けてあります。

掲示された説明版によりますと、「船用焼玉機関 形式 2-250」
製造所名 宇品内燃機関株式会社
製造年月 昭和26年2月
廃機年月 昭和52年2月
燃  料 重油
出力 50PS 回転数 110RPM

内燃機関の一種 クランク室圧縮式2サイクル機関で
シリンダー上端に焼玉と呼ぶ予備燃焼室を持つのが特徴

寄贈年月日 昭和52年2月21日
寄贈者 高見俊彦 永平良勲 津田紘吏 倉田礼蔵 川空勝司 

この焼玉エンジンを搭載した船舶名は不明ですが、宇品まで農産物を運ぶ番船とか?だった?かも・・・(*^。^*)です。

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見上げれば、体育館の正面に大きく中町小学校の校章が輝いています。
中町の中をデザイン化しものです。

中 町 小 学 校  校 歌
作詞 木戸冨士枝 補作 与田準一 作曲 佐藤勝

1)光ゆたかな 能美島
  希望かがやく 若芽たち
  ほのかににおう 潮の香に
  ともにのびるよ わたしたち

2)花がほほえむ 能美島
  波はささやく 海の幸
  あしたの夢を 語り合い
  学ぶ幸せ いきいきと
  ともに励むよ わたしたち

3)風もみどりの 能美島
  こがねかがやく 父祖の山
  はるかにしのぶ たくましさ
  ゆく手めざして のびのびと
  ともにゆこうよ わたしたち
  中町 中町小学校

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中町小学校の正門から道路を挟んだ向かいの丘には、江田島市立中町保育園があります。

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中町保育園の園庭には大きな一本のセンダンの木があり、園庭のフェンスを越えた大枝が隣の古井戸の屋根に、初秋の薄く黄色に色づいた葉をハラリ、落とします。

故事に云う「栴檀は双葉より芳し」とは、大成する者は、幼いときから人並み外れてすぐれているとのたとえです。
 
中町保育園の園内にセンダンを育てるとは、なか・なか ・・・ (*^。^*) 洒落てます。

センダンには栴檀のような香りはないのですが、田植えの終わったばかりのあぜ道に咲く薄むらさきの花は、農村の原風景を思い起こさせます。

中町 農道 2/2

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迫田地区の春はとてもカラフル、色とりどりに咲き乱れます・・・(*^。^*)です。

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竹の支柱にツルを伸ばし、白い花を付け始めたエンドウ畑(実エンドウ?)です。

ちなみに当地のエンドウは明治14、5年のころ、鹿川村の一本松丈助氏が種子を持ち帰り、近隣の農家に栽培を奨励したのが始まりであると云われます。
明治38年の作付面積は鹿川村で5町3反、中村で2町1反、高田村で1町が栽培されており、呉、広島はもとより神戸、大阪方面へも出荷し、珍しさもあって高値で取引されていました。
(能美町誌より・・・(^_^;)です。)

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整然と耕された田畑を見るのは、桜の花を見るのと同じくらいに気持ちが良いものです。

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ミカン作りを止めてしまった段々畑を、桜の山にしちゃいました・・・(*^。^*)です。

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収穫した大豆をハゼ(はで・はせ)に掛け、晩秋の秋風を通して自然乾燥・・・(*^。^*)です。

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ビニールの覆いを外され、鉄パイプの骨組みだけとなったハウスがあちこちに目立ちます。

今は原油1バレルが30ドル前後と極端に安くなったようですが、原油1バレルが100ドルの時代には、ハウスの暖房用に使う灯油の代金が急騰し、ハウス栽培の農作物は作れば作るほど赤字が膨らみました。


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ハウス栽培を廃業しビーニールハウスを撤去した畑の隅に、ぽつんと電気配電盤だけが残っています。
タイマーや温度センサーなどが取り付けてあって暖房用ボイラーの発停や、菊などの夜間電照を自動制御する作りのようです。

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宇根山から流れ下る大後川の水を利用して作られた稲が、田んぼの真ん中に立てられたハゼで自然乾燥されています。
2015年11月16日、脱穀を間近に控え、乾燥具合の最終確認に訪れたおじさんの笑顔がとっても素敵・・・(*^。^*)でした。

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米は作らないけど、雑草ばかりが大きく伸びるのは忍びなく・・・
もとは田んぼだった空地の真ん中で、数日前に刈り取った雑草がたき火にくべられていました。

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高下地区の入り口で毎年見る盛大な大根干しの光景です。
乾燥の早い土地柄か、大根は大きな縦切り短冊にして干されています。

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高下地区を見下ろす高台に芽吹いたばかり、新緑がまぶしい柿林(柿畑)です。

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どの地区も、多くの農家がみな高齢者だけとなり、家の前の小さな畑を耕して自給用の作物だけが細々と作られています。

中町 農道 1/2

2)江田島町南部 中町農道 
中町は東の真道山と西の宇根山との間に位置し、江田島市内にあっては農業用地、農業用水ともに他地区よりも恵まれた環境にあります。

両山からの流出土で遠浅となった江田島湾を干拓、あるいは風化した山の斜面を深く開墾したため、海岸から尾根の頂上まで、無数の農道が網の目のように広がります。

と、いうか、国道と県道以外はすべての小路が農道であり、さらに生活道路と兼用となっています。

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中町の東、真道山の中腹を南北に結ぶ農道です。

それまでの谷や尾根に沿って登る何十本もの小さな農道を結び、農作業の効率化が図られる期待の連結農道だったのですが、作られた直後から続く農業不振で利用者は激減、今、イノシシの専用道、あるいは落ち葉の堆積場となっています。

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その真道山農道の下に、今もきれいに整地された段々畑が残ります。

ただ、何十本もあったであろうミカンの木々は順次に枯れていき、青葉を広げるのはわずかに数本だけとなりました。

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真道山から絞り出た清水です。
石を組んで作った立派な水路ですが、休耕となった田畑では必要とされることもなくなり、落ち葉を浮かべ、たださらさらと流れ下ります。

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画像は2012年5月30日のものです。
この年が最後となり、その後この田んぼでお米が収穫されることはありません。

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4月、迫田の尾根に黄色いタンポポの花が咲き、わた帽子は風に飛んでいきます。
その傍で、たわわに実った黄色い甘夏は、いつまでも収穫されることなく枝に残ります。 

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手入れがされたミカン畑は残り少なくなってしまいました。

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ミカンの木が枯れた後の畑ではセイタカアワダチソウが黄色い花を咲かせます。

下に伸びる迫田集落の先に、遠く江田島湾が光り、対岸の津久茂山や古鷹山系が青く霞みます。

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尾根の上に残る真面目なお百姓さんの畑です。
水の便が悪い尾根ではミカンよりもラッキョウの方が育てやすいのかも・・・です。

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ミカンの他にもクリやウメ、ナシやカキ、モモなどの果樹も試されたようですが、いずれも過酷な農作業に見合うだけの採算はありません。

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耕されることのなくなった田んぼにも、赤いレンゲの花は咲きます。

中町 国道・県道・旧道

2)江田島町南部・国道487号 
中町からは三方に道路が延びます。

南北に貫くのは大君、大原、鹿川から高田へと抜ける国道487号線です。
さらに海岸沿いを飛渡瀬へと延びるのが県道36号線です。

島の道路は古来、半間(約1m)幅で作られていましたが、やがては大八車の使える一間幅に、さらに客馬車の運行が可能な2間(約4m)幅へと拡幅されていきました。

大正9年になり三高~高田~中村~鹿川~大柿~飛渡瀬間、中村~飛渡瀬間が郡道に認定され、順次改良されてきましたが、今日に見るような自動車道路に整備されたのは昭和も後期に入ってからです。

ちなみに大正14年に柿浦から大原、鹿川、中村経由高田の間を乗合い馬車が運行、さらに昭和3年になり、能美バスが、柿浦から大原、鹿川を経由して中町(中村)への運行を始めました。

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昭和41年(1966/09/13 )の国土地理院空撮画像です。

現在の国道である、八幡宮から中町港桟橋へ、さらに見浪の海岸を通って高田への道はまだ手つかず状態です。

現在の県道36号線である、松ヶ鼻の横断道路は開通まもない様子で、路面が白く輝いています。

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江田島市役所(旧能美町役場)の前を通過する国道487号です。

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能美中学校前付近の国道487号です。

道路脇にガラス戸を閉ざした、兼行たばこ店さんです。
道幅は広くなり、車の通行量は激増しましたが、買い物客が立ち寄ることは無くなりました。

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昭和37年(1962/07/30)の国土地理院空撮画像です。

交通の難所であった、松ヶ鼻付近での道路建設が始まった様子ですが、まだ、飛渡瀬の落走りから入る山越え道がはっきりと確認できます。

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松ヶ鼻隧道です。

中町と飛渡瀬を結ぶ道路は古来、飛渡瀬側の「落走り」から山に分け入り「坪崎山」のふちを回って「胡川」沿いへと出る山道でした。

先の太平洋戦争で江田島本浦にあった海軍兵学校の生徒や、その関係者が大幅に増員されるのに伴い、それまでの奥小路水源からの用水では到底賄うことができなくなりました。
その不足分を確保するため新たな水源として、急遽、三高水源、鹿川水源から水を引くことになりました。

その際、唯一高低差のある松ヶ鼻を通すための水路として松ヶ鼻隧道が掘られました。

小型車両がギリギリで通れるだけの幅があり、戦後、一般道路としても利用されましたが、その後の自動車普及には対応ができなくなり、新たに松ヶ鼻の尾根を削り取って新道が建設されるに至りました。

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松ヶ鼻新道(県道36号)をいく江田島市営バスです。

グーグル中町旧道 
画像はグーグルストリートビュー(2013/10)よりコピペ・・・(^_^;)です。

国道487号を北上し、中町港桟橋の手前「ふみおか仏壇店」の前を左に入ると鹿川から中町、さらには高田方面へと向かう旧道があります。

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自動車が走行中の道路が旧道の鹿川高田線です。
手前に進みますと中町港桟橋へと繋がり、昭和の中頃まではもっとも人の往来が激しい交差点でした。
ヤマザキパンの看板は、土井食料品店さんです。

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二間幅(約4m)基準の道路です。

かっては途切れることなく商店が立ち並び、賑わいのある通りでしたが、・・・撤去した商品のかわりに、見事に手入れされたサクラソウの鉢が並べられています。

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会席・弁当・御料理仕出の西浜ストアーさんです。

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明るいナショナル ・・・ラジオ、テレビなんでも ♪ ♪ ♪ の小西電機さんです。

中町 中町港

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上の航路図は能美町誌に記載されたものをコピペ・・・(^_^;)です。

年代の記載がありませんが、海田市駅~呉駅間の鉄道路記載がないので、呉線開業の明治36年(1903)以前から、山陽線広島駅~徳山駅が開通した明治30年(1897)以後の間(明治30年~36年)と思われます。

明治30~36年頃の航路図 
町誌記載の航路図(明治30年~36年頃)をグーグル地図に転記しました。

当時、上記主要航路以外にも番船と呼ばれる貨客帆船が多く利用されていて、中村の隣町である高田港を午後2時に出港すれば、翌早朝に江波港へ、潮が良ければさらに進んで本川橋の堤に着くことができたと云います。

その後、明治38年(1905)になり、沖村の岡田岩吉氏が鋼鉄製62トンの蒸気船「海勝丸」を、同40年、蒸気船「浅見丸」を運行し、大原―深江―鹿川―沖―是長―美能―三高―高田―中村―江田島矢浦―津久茂―差須浜―大須―似島―宇品―廿日市―厳島を1日一往復させたのが、能美地域の近代定期航路の始まりであるとされます。

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画像は「能美町営船 50年の歩み」表紙に掲載の第7千代丸(S23.10~S35)です。

船名:第7千代丸
進水:昭和9年8月
屯数:132.3屯
馬力:150馬力
定員:378人
種類:木造旅客船
船価:日本近海汽船(神戸市)より200万円で購入。

昭和23年10月23日、高田村三ヶ村交通事業組合を設立する。
出資金額、高田村120万円、中村120万円、鹿川村80万円、三高村80万円とする。

昭和24年1月4日から中村~宇品間の定期運航を開始(1日2往復)運賃は35円の設定としたが、競合が激しく、のち23円に値下げする。

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中町港ターミナルです。

戦後、能美町営、のちに江田島市営となって多く通勤通学通院者、買い物や旅行客を宇品港へと運ぶ大動脈として重要な役割をはたしていましたが、近年の人口減少や交通の多様化、さらに人件費や燃料、新造船建造費の高騰などの悪条件が重なり、官営での航路維持が難しい状況となりました。

今でも多くの通勤通学客でにぎわいますが、ひところの活気はなく、官営事業としての採算ラインを大きく下回り、江田島市政の足かせとなってしまいました。

多くの打開策が出され検討が続けられてきましたが、最終案として平成27年10月1日から、「中町・高田~宇品」航路の運航事業者を江田島市企業局から民間事業者である瀬戸内シーラインに譲り渡すことで航路存続をはかることとなりました。

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2011年12月まだ江田島市営だったころの「スーパー千鳥」手前と「ニュー千鳥」です。

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江田島湾を疾走する「ニュー千鳥」です。

船型:大型双胴高速艇、総トン数:79トン、速力:26.0ノット、全長:24.52m、幅:6.80m 旅客定員:220人、就航年月は1993年12月21日と云います。

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宇品港内をいく「ニュー千鳥」です。

瀬戸内シーラインは、「ニュー千鳥」、「スーパー千鳥」、「ロイヤル千鳥」の3隻で、中町港から高田港経由宇品間、行程15.9kmを30分で結びます。

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中町港待合所に展示されている、江田島近海の海洋生物です。

画像は2011年12月のものですが、当時の水槽には、ヨウジウオ・ハオコゼ・マヒトデ・マナマコ・ホンヤドカリ・アラムシロガイ・アミメハギ・アサヒアナハゼ・ニホンクモヒトデ・ムラサキウニ・ケアシホンヤドカリ・フレリトゲアメフラシ・ドロメ・バフンウニ・コシマガリモエビ・スジエビモドキ・ユビナガホンヤドカリ・イトマキヒトデが入れられていたようです。

1昨年、江田島市沖美町の海岸で、新種となるエタジマホンヤドカリが発見されましたので、今なら水槽内に展示されているかも???・・・(*^。^*)です。
管理は、さとうみ科学館(江田島市教育委員会学校教育課)でなされています。

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待合所の片隅には能美町特産品である季節の花々も展示販売されています。

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近年最新の繋船桟橋が整備された中町漁港です。
ただ、地図記載では中町、清能、高田港などを合わせて、中田港と呼ばれます。

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対岸のレンガ色の建物は江田島市庁舎です。

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すべりでは漁船の船底掃除が行われていました。

市内では珍しい船型の船です。
船名「進栄丸」、おそらくは、イカ籠漁?、タコ壺漁?、あるいはアナゴの延縄漁をする漁船だと思いますが???・・・(^_^;)です。

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グラスファイバーで補強された木造の小型釣り船です。
戦前の漁船は、みな砂浜に乗り上げ、松の幹につなぎ留められていました。

中町 松ヶ鼻 ・ トトウガ鼻

中町地質図(松ヶ鼻) 
中町には江田島湾に突き出た2本の鼻、松ヶ鼻とトトウガ鼻があります。
(画像は地質調査所 1/5万 地質図です。)

江田島市の土台である呉花崗岩が、地中深くで誕生したのは1億年前~6500万年前の間だといわれます。
その後中国大陸から分離、上に覆い被さっていた10km近い厚さの地層が剥がれ落ち、深性岩である呉花崗岩の最頂部が地表に現れ出た瞬間が、今の東西能美島、江田島の地表です。

地質図には何本もの赤や黄色の筋がありますが、これは呉花崗岩の上層部がほぼ固まったのち、その深部に残った未固結の溶岩状だった花崗岩が、なんらかの地殻変動を受けひび割れた呉花崗岩や、さらにその上層に載っていた堆積岩の隙間に貫入したものです。

赤は珪長岩、黄色は花崗斑岩あるいは花崗閃緑斑岩と呼ばれる岩脈で、呉花崗岩よりも粒子が細かく貫入年代も新しいことから、風化や浸食に強く、海に突き出た岬あるいは山々の尾根となって残っています。

江田島市内にある、海上に突き出した○○崎や○○鼻の多くは、風化に強い珪長岩や花崗斑岩あるいは花崗閃緑斑岩です。

(市内には呉花崗岩に包有され、さらに年代が古いとされる江田島花崗閃緑岩や音戸花崗閃緑岩もあります。)

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長瀬海水浴場のビーチより見た松ヶ鼻です。

数年前までは、かんぽの宿「能美」の大きな建物が建っていましたが、いまは取り壊され開所当時に植えられたソメイヨシノの桜木が数十本残るのみです。

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かんぽの宿があった、松ヶ鼻の高台を囲って咲くソメイヨシノです。

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松ヶ鼻の突端には大潮の時以外は、歩いて行けません。
潮の引いた砂浜の先に並ぶのはカキの養殖棚、遠くは津久茂山です。

松ヶ鼻 
最先端に大きな独立岩が残ります。

江田島市では昭和50年ごろからの松枯れ被害で、多くの古松が枯れてしまいましたが「松ヶ鼻」の名前どおり若松が数本、新たな枝を伸ばしはじめています。

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松ヶ鼻の高台から見た、国民宿舎「能美海上ロッジ」とトトウガ鼻です。
背後の山は江田島市最高峰の宇根山(542m)です。

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トトウガ鼻の先端には2つの小島が残り、船霊社が祭られています。
満潮時には黒い筋のある部分まで海面が上昇し、江田島湾に浮かぶ夫婦島となります。

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波静かな江田島湾内にあっても、休むことなく繰り返す波風は固い花崗岩や珪長岩であっても少しずつですが、確実に削り取っていきます。

2015-08-26 033 (4) 
能美町誌にある「中村」の絵図の一部をコピペしたものです。

もとは1825年の芸藩通史に記載されたもので、当時、今の「松ヶ鼻」には古松が大枝を海面に這わせていたようで、岬も「下り松?」と呼ばれたようです。
また、「トトウガ鼻」の記載もなく、沖に浮かぶ島?は「ク郎石磯?」と読め???ます。

2012-05-12 002 003 (2) 
宇根山登山道の2合目あたりから見た中町の中心部です。
中町桟橋の向こうに、トトウガ鼻、その先に松ヶ鼻が突き出しています。
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