中町 旧中村(中町)郵便局舎

2)江田島町南部 中町郵便局 
大後川を遡って徳正寺に向かう途中、板張り壁に開放的なガラス戸をはめ込んだ洋風感覚の一軒家があります。

2014-08-01 188 
垣根からはみ出した青い朝顔の花に気を取られ、ふと目をやりますと、・・・

え、え~っ、その先の敷地内にある洋館風建物の庇の下に〒のマークが見えます。
きっと、当家の御主人様が郵便マニアの方で、いろいろなグッズとかを集めては家の周りを飾ってるんだろうなぁ~。

2015-04-23 065 
きっと、赤い円柱ポスト(丸型ポスト)とかも収集して飾ってあるかも?って、玄関付近を探しましたがそれらしいものはありません。

ガラス戸の窓枠が青いペンキでセンス良く塗られていて、郵便マニアというよりは、日曜大工やガーデニングが趣味って感じのお宅です。

2015-04-23 068 
でも、やっぱり〒マークはしっかりと張り付いています。

2015-04-23 067 
家の角に取り付けてある丸くて白い外灯も、昔見たことのあるタイプですし・・・

2014-08-01 192 
ご主人様は不在がちな様子で、庭は少し荒れ始めてはいますが、それはそれで・・・いい感じ(*^。^*)です。

アルミサッシ全盛となった時代に、六つに区切られた木枠の窓は、哀愁一杯、これもいい感じ(*^。^*)です。

2015-11-09 049 
念のためもう一度正面から確認しますが、教会のクロスじゃありません。
やっぱり郵便局のマークです。

2015-12-28 073 
田んぼの脇を流れる大後川の向こう、しっかり組まれた石垣の上に乗るこの建物は、旧中村郵便局舎でした。

能美町誌によれば明治7年、下田屋敷に「中村郵便取扱所」が設置され、同8年「中村郵便局」に昇格、同23年になると中村と廿日市の間を番船を利用した便船が運行しました。

大正9年、今田六郎氏が郵便局長を拝命、局舎も下田家から今田家に移転し、その後昭和32年には町村合併により「能美郵便局」と改称しました。

今に見る郵便局舎は昭和12年に建て替えられたもので、同45年まで郵便業務を行なっていました。
局舎が奥に長いのは昭和44年までの間、電話交換局が併設されていたためです。

ちなみに中村郵便局では昭和4年に電信電話事務を始め、同6年に加入電話機10台で電話交換を開始しました。
一般家庭に電話機の普及が始まったのは昭和40年代に入ってからで、昭和43年の電話機加入数は416、同48年1505、同53年2368とわずか十年余で急速な発展をみました。

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昭和45年今までの郵便局舎から大後川に沿って百数十メートル下った位置に新しく「能美郵便局」が建てられました。

その新局舎の玄関横に、いかにも実直そうなお顔の銅像が建てられており、鋳造したプレートには「今田鎭之助氏の像」 衆議院議員議員 灘尾弘吉書 と、あります。

さらに側面には、中国地方特定郵便局長会より、功績をたたえる碑文が添えられています。

要約しますと、豪商今田家に生まれた鎭之助氏は第三代能美郵便局長として四十年余、中国特定局長会会長、全国特定局長会副会長として大いに統率力を発揮、さらには能美簡保センターの誘致他、郵政事業の発展に大きく尽力した偉業功績を後世に伝える。
昭和53年7月吉日
と ・・・m(__)mです。

2015-09-23 026 
あ、あ~っ。
赤い丸型ポストは、こちらに置かれていました・・・(*^。^*)です。
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中町 能美海上ロッジ・シーサイド温泉・ビーチ長瀬

2)江田島町南部・能美海上ロッジ 
中町の東、トトウガ鼻から長瀬海岸の景勝地を利用して、「国民宿舎 能美海上ロッジ」・「シーサイド温泉 のうみ」・「ヒューマンビーチ 長瀬海水浴場」があります。

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能美海上ロッジは名前のごとく海上に建てられおり、宮島厳島神社と同じく満潮時には床下すれすれまで海面が上昇し、あたかも海に浮かぶ巨大客船となります。

右端が船霊社の祀られているトトウガ鼻の先端部で左に伸びる砂浜がヒューマンビーチ長瀬海水浴場です。

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この付近での潮の満干差は最大で4m近くになります。

画像の状態だとプラス2mくらい、あと1m潮が引けば沖に見えるトトウガ鼻先端まで歩いて行くことができます。

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能美海上ロッジから、小川に架かる橋を渡れば長瀬海水浴場とシーサイド温泉への近道となります。

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潮がいっぱいに引いた長瀬海水浴場の砂浜からみた海上ロッジです。

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海上ロッジ専用のボート係留施設です。
能美海上ロッジは「のうみ海の駅」に指定されており、艇長30フィートまでの中型艇8隻が係留できます。

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のうみ海の駅の桟橋から見た能美海上ロッジ、背後の山は江田島市最高峰の宇根山(542.2m)です。

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長瀬海水浴場への大波やゴミの侵入を防ぐための防波堤と、魚釣りとを兼ね、沖へと伸び出た堤防です。

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長瀬海水浴場の真近に建つ「シーサイド温泉のうみ」です。

海上ロッジは46度の源泉かけ流しですが、シーサイド温泉は濾過循環式です。
共に日帰り利用が可能でレストランも併設されています。

能美海上ロッジ  
グーグル地図でみた、国民宿舎能美海上ロッジの近辺です。

宿泊、天然温泉かけ流しの設備をもつ「能美海上ロッジ」は海の駅や定期船桟橋をもち、日帰り温泉シーサイドや、長瀬海水浴場が隣接したとても恵まれた環境にあります。

とはいえ、経年老朽化による建て替え問題や、さらなる利用客誘致の難しさなど、さまざまな難問も抱えています。

全26部屋を備えた規模の大きな宿泊施設は他に江田島市内には無く、今後の発展が期待されるところです。

中町 石碑

中町石碑 
中町各所に建つ石碑を訪ねてみました。

2015-04-23 108 
グーグル地図の左上、平家落人の伝説がいまに伝わる高下地区の中心部に建つ石碑です。

大きな方の石碑には、「救護金七百圓」明治四十五年壬子五月吉日建之とあり、台座には寄附人の氏名、寄付金額が彫られています。

その後方に建つ石碑には「金五百円也」家敷地 梅河内龍一 寄附人 二井内丈左衛門 昭和十四年六月吉日と読めます。

2015-11-11 118 
戦国の頃、麓城(ふもと城)があったとされる小山の南側に、「麓 樂善金二百三拾円」明治三十三年五月と読める碑が建ちます。

台座には寄附人名 金百円 中河原久次郎? 仝二十円 相野田○平?・・・他、多数のお名前が刻まれています。

2016-03-17 012 
大後川を遡り、人家の途絶えた先の農道脇に「日當講基本金 壹千貳百圓紀念碑」
維時昭和二年十一月 創設之原由及維持? 
之方法規約等登載 一ナ日當講記録田谷之? 
昭和八年五月建之の碑が建ちます。

碑背面には、発起人 日當保○? 吉本○四朗? 世話人 花岡○一郎?、他数名のお名前が見えますし、台座にも多くの寄附人名が彫り込まれています。

2015-12-28 045 
近年埋め立て造成された、中町港みなと公園内に真新しい一本の石柱が建ち、「八幡神社 御旅所」と刻まれます。

毎年九月、能美八幡神社の大祭礼で担ぎ出された御神輿が置かれる神地です。
この神地は沖宮(浜宮)ともよばれ、町内を練り歩いた神輿を留め置き、神事祝詞の後に神楽舞いが奉納されます。

2014-11-06 077 
能美八幡神社の乗る亀山の北に「孝子雛吉之碑」大正八年六月一日が建ちます。

中村の住人、沖上雛吉は15歳で父を失い、早々妻子にも先立たれましたが、誠実で信心深く、さらに、ただ一人残った家族、継母に対する手厚い孝養が広く人々の心を熱くしました。
これらの善行を認められ、明治14年(1881)村民多数の推薦により緑綬褒章が送られました。

この善行が西能美5ケ町村民の良き善例となるを祈念し、没年である明治33年3月19日から20年となるを期し、孝子雛吉之碑が建てられました。

2014-12-10 108 
八幡神社の北、孝子碑と肩を並べて石谷広策翁の碑が建ちます。

石谷広策(本名 広二)は、文政元年(1818)中村の里正(今でいう村長)の次男として生まれ、1842年本因坊の門に入り、十四世秀和に三段を許されて「石谷広策」を名乗ります。

明治三十三年(1900)若くして急逝した十五世本因坊秀策の打碁百局を集めて「敲玉余韻」を出版し、囲碁の発展に尽くすも、明治三十九年に89歳で没します。

辞世の句は「のがさじと 弥陀に先手をかけられて 慈悲の征(しちよう)に かかるうれしさ」です。

2014-12-10 040 
八幡神社から国道を挟んで西側に、「忠魂碑」大正十四年七月 陸軍中将岸本廉太郎書、の巨大石柱が建ちます。

さらに、周囲を玉垣に囲われた、この狭い域内に百基に近い戦没者のお墓が建ち並びます。

日中戦争、太平洋戦争(昭和12年から敗戦となった20年8月まで)による能美3村の戦死者の数は、中村193人、鹿川村195人、高田村128人であるといわれ、これに原爆、空襲そのほかによる犠牲者をも加えると、実に膨大な数の死傷者が発生したのであります。
(能美町誌より・・・m(__)mです。)

2014-12-10 044 
忠魂碑のその横に並んで「中村徴兵優待金壹千五百圓」背面には、明治三十二年十二月創立、発起人 中河原久次郎 大石重郎次 中上勘左衛門 津田次郎 後藤常造 相野田藤平の名が記され、台座にも沢山の寄付金の額や寄付者氏名が列挙されています。

2012-06-26 002 192 
真道山の西のふもとに「畜魂碑」の文字が深く彫り込まれた大石が建ちます。
側面には、昭和六十二年三月 山口照夫之建とあります。

戦後しばらくは羊や山羊、ウサギなども飼育されたといいます。
しばらくして、和牛、乳牛、豚や鶏など多くの動物が育てられ、畜産業絶頂期の時期もありましたが、いま、江田島市内で飼育されている家畜家禽の類はほんのわずか、皆無に等しいのが現実です。

中町 軍艦利根慰霊碑・資料館 2/2

2015-11-21 099 
「軍艦利根資料館」の入り口である引き戸の鍵は、国民宿舎「能美海上ロッジ」のフロントで管理されていていますが、見学者の多そうな日には前もって開放されています。

引き戸を開けて正面の天井に大きな舵輪が掛けられています。
重巡洋艦利根の舵輪だと思いたいのですが、???・???・???・・・です。

舵輪の由来についての説明は無く、「古沢(古澤?)鋼材株式会社殿」と手書きされた荷札が結ばれているのみです。

2015-11-21 059 
ガラスケースに収められた時計と砲弾破片です。

手前の時計には「時計(軍艦利根)藤岡正作殿 能美町高田」、左奥は「時計(軍艦利根)日当音○○ 能美町高田」、右奥は「時計 古沢鋼材殿 江田島町」、右手前は「砲弾破片 木村新史郎 能美町鹿川」と書かれたプレートが添えられています。

2015-11-21 060 
「霧笛 双眼鏡 中田信夫殿 能美町高田」、「喇叭(ラッパ)飯田義信殿 富山市水橋辻ヶ堂」とあります。

2015-11-21 066 
「コンパス 古沢鋼材殿 江田島町」とあります。

コンパス(磁気羅針器)前面の水準器の中に「コンパス クリノメーター 大阪 ぬのたに せいき 株式会社 おおさか じゃぱん」の文字が見えます。

ちなみに明治の末ごろ、磁気羅針器に替わる航海用方位測定計器として、ジャイロ・コンパスが発明され、イギリスで建造された日本海軍の金剛(明治45年回航)にアンシュツ式のジャイロコンパスが搭載されたのが国内最初であると云われます。

日本では1918年(大正7年)に、東京計器製作所がジャイロコンパスの生産を開始、順次今までの磁気コンパス(磁気羅針器)から、モーターの高速回転を利用したジャイロコンパスに取り換えられ、昭和初期にはほぼすべての海軍艦船にジャイロコンパスが設置されたと云われます。

ただし、常用はジャイロコンパスであっても要所には磁気コンパスが置かれ、併用或いは予備として使用されていました。

2015-11-21 068 
船で使われる舷窓とよばれる丸窓です。
古澤鋼材からの提供品ですが、利根で使用されていたものかは不明です。

2015-11-21 064 
プレートには「水桶 能美町交通局」と・・・

その右にある磁気羅針器や航海灯は海軍仕様にも見えますが、仔細説明はありません。
町営の連絡船(中町、宇品航路)で使用されていたもの?かも??? ・・・です。

2015-11-21 078 
プレートには「携行灯・碇泊灯・時鐘・テレグラフ・舷灯・・・古沢鋼材殿 江田島町」とあります。

2015-11-21 079 
「晴雨計・霧中号角・碇泊灯・テレグラフ・・・古沢鋼材殿 江田島町」とあります。

2015-11-21 073 
「工具(利根機関室)提供者 杉浦忠夫氏」とあります。

2015-11-21 080 
「信号燈 藤田隆彦殿 能美町中町」、「霧笛 中田信夫殿 能美町高田」、「鍋 入福信雄殿 能美町中町」、右の木札に「軍艦利根 ほう炊所○○」の文字が見えます。

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「利根レイテ沖海戦ヨリ母港ニ帰投セリ S19.11.17 舞鶴着」

前列中央が重巡洋艦利根、第六代(昭和18年12月~20年1月)艦長の黛治夫大佐です。

2015-11-21 075 
第三代となる、海上自衛隊「護衛艦とね」排水量2,000tのネームプレートも展示されていました。
「軍艦利根慰霊碑参拝記念 平成24年8月30日 護衛艦とね乗員一同」

「護衛艦とね」は、1,900トン型乙型護衛艦として住友重機械工業浦賀工場で、1991年2月8日起工、1991年12月6日進水、1993年2月8日就役、あぶくま型護衛艦の6番艦で、艦名は利根川に由来します。
この名を持つ日本の艦艇としては、旧海軍の防護巡洋艦「利根」1910年5月就役、排水量4,113t、そして利根型重巡洋艦である「利根」1938年11月就役、排水量13,320tに続き三代目の艦となります。

1993年2月8日、佐世保地方隊第39護衛隊に編入されました。

1997年3月24日、佐世保地方隊第26護衛隊に編入されました。

2008年3月26日、第16護衛隊と改称され、護衛艦隊隷下に編成替えされました。

2011年3月16日、第12護衛隊へ編入、佐世保から呉に転籍しました。

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2016年2月29日早朝、母港である呉港を後にし任務に赴く「護衛艦とね」です。

追 記 「 ビ ハ ー ル 号 事 件 」

昭和19年3月9日13時24分、インド洋洋上において、通商破壊戦任務を負う「重巡洋艦利根」による停船命令を嫌ったイギリス客船「ビハール号」やく7,000t、乗船者111名は自らキングストン弁を開き自沈を図りました。

曳航不能となったビハール号は乗船者が退避した13時33分、利根の主砲砲撃により撃沈。

全乗船者111名を捕虜として利根に収容、のち女性2名を含む46名を陸上に移送しましたが、食糧不足を理由に収容所より拒否された65名を船内に残し、次期作戦に向かう途の3月18日の深夜、公海上で彼らを65名全員を斬殺し海中に投棄しました。

敗戦後、戦犯として16戦隊司令左近允尚正少将は絞首刑、利根艦長黛治夫大佐は懲役7年の判決を受けるも1951年9月釈放、直接斬殺を指揮した高射長の石原大尉は逃亡し行方不明となりました。

上記は、軍艦利根資料館に寄贈されていた私本、「連合艦隊の精鋭・巡洋艦利根」 鎌田陽司郎 平成25年2月11日 を参考に要約しました。

乗船者人数その他の仔細な状況は公式文章と相違があるやも??? ・・・m(__)mです。

中町 軍艦利根慰霊碑・資料館 1/2

2)江田島町南部 利根記念館 
国民宿舎「能美海上ロッジ」のあるトトウガ鼻には、重巡洋艦「利根」の慰霊碑と利根資料館があります。

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利根慰霊碑のある「利根公園」の入り口です。
この公園は、昭和40年5月、前田雅 相野田藤平 石谷伴蔵 津田孝平 下畠又兵衛 大石重郎次 井上林三郎 島田鶴吉 谷本五郎兵衛 の方々からの土地寄附によって開園されました。

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利根公園最奥には「軍艦利根戦没者慰霊碑」灘尾弘吉書の巨石が建てられています。

慰霊碑背面の銅板には・・・

ハワイ海戦以来の戦歴を誇る一等巡洋艦利根はレイテの戦に傷ついた艦体を修理した後、昭和二十年二月、海軍兵学校練習艦として江田島湾に姿を表わし、五月には此処から二百米沖合いに投錨して全艦を樹の枝で偽装しました。
しかし、米艦載機が野登呂山の頂から急降下して来た七月二十四日から、前後三回に重る爆撃に依り、応戦奮闘の甲斐もなく、七月二十八日の夕闇が迫る頃、軍艦旗を揚げたまゝ艫の方から沈んで行きました。
利根が此の沖に停泊してから空襲を受ける迄の期間、それは僅か、二ヶ月余の間でしたが、一千四百余名の乗組員は民家に宿泊し、或はクラブを置いて島民の世話を受け家族のような交わりをしました。
その心の繋がりのできた人達が、海を血に染めて傷つき倒れ、一方島内に落ちた爆弾のため無辜の住民の中から悲惨な犠牲者が出る様を眼あたりにして、島民は悲痛哀悼の念に堪えず、何とかして慰霊の方法を講じたいと願う気持ちが実を結んで、遂に二十周年を迎えた今日碑の完成を見たものであります。
利根の戦没者百二十八柱と島民の犠牲者十七柱の御霊が、永久に安らかに眠られますよう、祈って止みません。
   昭和四十年七月二十五日
能美町長 相野田敏之

と、合掌・・・m(__)mです。

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慰霊碑傍に建つ石碑に埋められた銅板には島民犠牲者17名、レイテ沖海戦迄の戦没者29名を合わせ、174名のお名前が刻まれています。

軍 艦 利 根 戦 没 者 氏 名  昭和二十年七月二十八日
新潟県
衛長鍋谷吉紀 機曹長坪谷宣二 整長高木佐 上主久我三郎 二曹高橋確郎 二曹渡辺安二郎 二曹宮下善助 二曹清水信次 水長石田竹太郎 上水曽田正 上水桂澤正一 二曹石澤義次郎 一曹櫻井米作 上水吉田秀雄 二曹村上二吉 水長佐藤博司 水長坂田三武郎 水長堀井保一 水長櫻井友重 水長星野一九郎 上水白石幸雄 上水林元 上機小菅元春 一機曹青野一雄 機兵長山田芳正 上水桑原五三 上水住吉堅一 上水松倉要治郎 機兵長風間廣吉 機兵長逸見正一 上主小山昭二 機曹長大原光 上機曹今村四治 上機小野盛一機曹長田口二男 機兵長今坂利一 二衛曹佐藤清 上主上杉新次 上主山田栄一 上機曹伊丹作吉 二整曹横尾貞美 兵曹長神山益富美 上機曹金子清春 水長杉山芳太郎 上機曹大平宏平 計四十五名
岡山県
医中佐見藤正男 計一名
大阪府
中尉辻本寛治 計一名
兵庫県
中尉松林幸政 計一名
福井県
上曹津田三郎 一曹堀田舟夫 二曹武田貞雄 上機若山高茂 上機水谷三作 二機曹山田武男 機兵長飯田正治 機兵長木林茂志 上二曹谷口隆 工兵長中山守男 水長百田保夫 計十一名
富山県
中尉坂田鉄治 一曹窪喜正一 上水東海一雄 工曹水木義明 一曹西川興篠夫上水植野喜作 上水若島清作 水長神代峯元 兵曹長伊東義夫 水長笹倉金太郎 上水山本興作 上機木島勝夫 二機曹山西清示 二機曹餅川鉄雄 機曹長曻興蔵 主長最上友治 機兵長真野光安昭 二工曹山田義治 上曹絹野俊一 一機曹宮前誠一 計二十名
山形県
上主犬飼周治 上水小松健太郎 水長佐藤繁 水長井上富五郎 主長高橋渡 上主工藤幾弥 主長齋藤春市 水長石川正治 上水後藤新一 二機曹池原吉郎
機兵長小川照雄 機兵長小野寺勇 機曹長横山喜代吉 二機曹石川八郎 機兵長西塚信雄 水長八鍬金蔵 計十六名
滋賀県
一曹西橋三男 一曹田中育三 水長岸田勇次 水長小倉一依 水長駒井時敏 兵曹長滝川岩次郎 一曹尾本俊勇 上主門谷重三 上機曹島田好次 計九名
石川県
二曹新田三重良 一曹東与作 二曹森由雄 水長表茂 上機奥田實 上機中島義秀 二工曹秦長榮 主長定木辰實 兵曹長宿谷正吉 上整曹長原長治 計十名
京都府
水長山中善也 兵曹長駒崎壽美雄 兵曹長高矢辰之助 上水羽上田利夫 水長岡本正一 機兵長大西房次郎 工兵長石野滋 水長小林重春 整曹長谷口三郎 機曹長林哲造 機兵長森脇七郎 工曹長江口源一 上主廣野敬道 上衛曹岡本秀夫 計十四名
計百二十八名

レ イ テ 島 沖 海 戦 迄 
 昭和十九年十月二十五日
一曹青柳勇吉 上水岩佐政一 上飛曹江川五雄 二曹笠原惶 二曹加藤岩雄 飛曹長片桐一英 整長梶原半市 二曹片村信久 二曹河合秀松 上機加藤清勝 主中尉笠井喜代治郎 少尉木村末蔵 飛少尉久保武雄 二曹草野要治 上曹兒玉芳雄 一機曹込山政一 二飛曹佐藤武千代 二曹田村伊三郎 上曹谷口廣美 水長田村英蔵 二機曹高尾治三郎 上水坪木秀蔵 一整曹辻強 上飛曹成田市太郎 水長中大路秀一 水長中川義雄 二曹長谷川梅治 二曹三浦吾一 一曹山田文信 計二十九名
他ノ戦歿者一同

軍 艦 利 根 町 内 被 爆 犠 牲 者 氏 名
中町
船田ツル 小松ヨネ 小松幸子 小松令子 小松義忠 吉川サワ 高橋ヨ子 船崎平想 大浜信夫 木戸忠男
高田
山崎百合枝 山中テルコ 山崎治三 原田フジヱ 原田ユキ 池本政市 沖井ユテノ

利根19471215 
国土地理院アーカイブ空撮画像です。

昭和22年12月15日の中田港です。
港内に着底した利根をドック(呉造船所?)に曳航し解体するための船体引き上げ作業が行われている様子です。

利根タミヤ模型 
重巡洋艦利根の雄姿を写した画像が検索できませんでしたので、「タミヤ模型」さまのHPより 「1/350 日本重巡洋艦利根」の模型画像をコピペさせていただきました・・・m(__)mです。

日本の軍艦建造技術の粋を集約した大艦です。
この最高傑作である利根を、海軍兵学校練習艦に艦籍を替えて江田島湾に係留させた経緯は、あるいは?、敗戦となった後も練習艦名目で後世に残すことができるのでは?との考えが多少なりともあった?のかも???です。

2015-11-21 159 
利根公園に隣接して「軍艦利根資料館」があります。

資料館の前に大きな錨が展示され、錨本体に「2T NO4 昭和14-11」読める文字が浮き出ています。

軍艦利根の副錨?あるいは作業用錨では?と思われますが、特に軍艦利根搭載品である、との説明書はありません。
ちなみに、利根の進水は1937年(昭和12年)11月21日、就役は1938年(昭和13年)11月20日です。

錨の提供は「古澤鋼材株式会社」平成6年とあります。

2015-11-21 057 (2) 
資料館中央に置かれた利根の巨大模型です。

寄贈 神戸市 空田重男 昭和53年4月 100分の1模型とあります。
ちなみに、重巡洋艦利根の全長は201.6m 排水量13,320t、速力35.55ノットです。

2015-11-21 074 
資料館に展示された、米海軍航空機による直撃爆弾6発の攻撃を受け、大破着底し左舷に傾いた重巡利根です。

2015-11-21 085 
同じく資料館展示の大破着底した重巡利根と、僚艦筑摩と並走の創造画?です。
寄贈者は、猪島吉久 富山市呉羽町1762 とあります。

2015-11-21 061 (2) 
昭和20年7月24日と、7月28日における呉周辺海域への米軍航空機による攻撃は、米軍側の圧倒的優勢のもとに行われ、残存する日本海軍艦艇は一瞬のうちに消滅しました。

とはいえ、日本軍の必至の反撃により米航空機数機が被弾し墜落しました。

展示資料には・・・
昭和20年7月28日の呉沖海空戦で、「戦艦榛名」の砲撃を受けたコンソリデーテッドB24爆撃機「ロンサムレディー」号(9人乗り)が山口県に墜落。同日「巡洋艦利根」の砲撃を受けたSB2Cヘルダイバー(2人乗り)は広島県の山中に墜落。同戦では20機以上が墜落。同機と他での捕虜も含め、当日広島市内に居合わせた12名(推定)が、8月6日の原爆で亡くなりました。
と、・・・です。

2015-11-21 090 
軍艦利根(BATH-TUB)浴槽(湯ぶね) 能美町 藤田義雄 との表示があり、バスタブに付けられた銘板に、㋔ 大阪市 鷲尾工作所 ⚓ 製造 検 水 の文字が読めます。

ちなみに鷲尾工作所は現在も「ワシオ厨理工業株式会社」として健在です。

以下、ワシオ厨理工業株式会社HPからのコピペ・・・m(__)mです。
大正 7年
 大阪市に鷲尾工作所として創業。厨房機器製作を始める。
昭和15年
 海軍管理工場として艦載用厨房機器製造に従事する。
昭和19年 
 株式会社鷲尾工作所に改め、大阪市東淀川区に工場を新設。
昭和22年 
 現大阪市淀川区に本社工場を移転。主として船舶用厨房機器を製造する。
昭和23年 
 一般厨房機器の製造を始める。
昭和29年 
 舶用品の受注活発となり、防衛庁向け艦載用厨房機器の生産を再開する。
昭和38年 
 創立45周年を機に、ワシオ厨理工業株式会社と改称する。

2015-11-21 157 
軍艦利根 士官室机 と表示されています。
机の裏側天板には、艦の補強に入れられるフレームの出っ張りが入り込むように切込みが入れられていますので、この机が船で使用されたものであることに間違いはないと思います。

卓上に置かれた一枚の紙には
「 お 願 い 」
利根資料館に多くの展示品をご出品下さりありがとうございました。
展示物の整理のうえで出品者のご芳名に誤りがありましたら事務局へお申し出くださるようお願いいたします。
   利根慰霊碑保存会

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