鹿川 大矢鼻・三菱油槽所

4)能美町・沖美町南部 大矢鼻 
鹿川地区の西側には江田島市最高峰である宇根山(542m)を頂点とする尾根が半島となって南へ伸び、その最先端部が大矢鼻と呼ばれます。

A.jpg 
大矢鼻の先端部分に行くのは容易ではありませんが、大潮の干潮時なら隣町、岡大王の側から歩いていくこともできます。

その先端に続く海岸には、画像のような白黒模様が珍しいダルメシアン石(角閃石含有の花崗岩アプライト)の露頭があり、さらに進むと永年の浸食に耐えた花崗斑岩の岩脈が風波に磨かれ、芸術作品となって残る様を手に触れて観察することができます。

B.jpg 
潮の引いた海岸を岩脈となって縦断する、ダルメシアン石(ダルメシアンジャスパーとも)の露頭です。
詳しくは江田島市能美町の石「花崗閃緑班岩(ダルメシアンジャスパー)」をご参照ください。


2012-12-07 002 012 
大矢鼻に続く半島の東側には沢山の円筒形タンクが並びます。

海軍鹿川貯油所 
この半島には、戦前海軍艦艇への燃料補給を目的とする、油槽所施設(1930年設置)がありました。
上は米軍航空機が撮影した昭和22年3月の大矢鼻付近の空撮画像です。

丸く見える一つ一つが燃料備蓄タンクです。
当時のタンク容量を記載した資料がありませんが、目測で直径24m高さを24mと仮定すれば内容量は約1万tとなります。

ちなみに、戦艦大和の燃料搭載量は6,300tで、全速に近い速力26.6kt(出力8/10)で1時間航走すると44.76tを消費するそうです。

単純計算だと燃料満タン、速力26.6ktで141時間、6,934kmを行くことができます。
東京、ハワイ間が6,550kmですので、この速力だと片道分の燃料にしかなりません。

ただし、巡行速力の16ktで航走すれば東京からロサンゼルスの間を余裕で往復できます。

一般に大和最後の作戦行動となった沖縄参戦には片道分の燃料で出撃したと云われますが、実際には徳山燃料廠の努力により簿外の燃料を捻出するなどして十分に往復できる4,000tの燃料を搭載していたそうです。
とはいえ、戦闘艦が燃料60パーセント量で出撃するなどは前代未聞のことです。

前大戦においては燃料不足による敗因が大きく知らされておりますが、他にも良質な潤滑油やオクタン価の高い航空燃料を作る技術がなかったことなども大きく影響したようです。

2015-05-13 049 
旧海軍油槽所の一部を払い受け1953年に設立された、三菱 鹿川ターミナル株式会社の正門付近です。
敷地内には総容量約76万キロリットルの原重油タンクを有しており、西日本の電力各社のほか、一般産業界に向け原重油の受け入れや貯蔵・払い出しの業務を行っています。


2015-05-13 046 
海軍油槽所のころよりも敷地面積では半減しましたが、タンク製造技術の進歩により貯油量は数倍にアップしております。

2012-12-07 002 024 
原油陸揚げ作業中のタンカーです。
「OMEGA LADY MIRIAM」2003年に韓国STX造船所で建造、総トン数41.787t、船籍はマーシャル諸島です。

2015-05-13 047 
原油の払い出しを受けている富士海運所属のタンカー「翠龍」999t、全長78・35m、幅12mで船籍は山陽小野田、乗組員は10人です。
1航海当たり2000kLの重油や原油を、当鹿川石油基地から九州電力や四国電力などの火力発電所に輸送します。

2012年6月20日、熊本県八代市の熊本ドックで進水しました。
(以上、宇部日報よりコピペ・・・m(__)mです。)
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鹿川 山(真道山・立山・砲台山・藤浦山)

鹿川山名 
鹿川地区を囲む山々として東側には、真道山(286.3m)と立山(148.7m)があり、西側の宇根山山系から南に伸びる尾根筋(半島)に砲台山と藤浦山があります。

2016-03-25 039
砲台山の下、大矢地区の海岸から見た真道山(左端のピーク)と、立山(右端のピーク)です。

真道山については一般的な登山道である千本桜林道の起点がある中町の項で説明(真道山1/2 ・ 真道山2/2)しましたが、真道山の山頂部付近は鹿川地区に属します。

登山道は北側の中町地区から千本桜林道が、東の飛渡瀬地区からは地元有志が維持管理する登山遊歩道があり、南側には鹿川水源地が起点となる鹿川林道と、さらには西側の真道山森林公園からも山頂に続く遊歩道が整備されています。

2015-03-31 093 
画像中央部付近のなだらかな部分が立山の山頂です。
立山は建山ともよばれ、古くは砦などが配された由緒ある山のようですが仔細を記録したものが見えませんし、かってはあった頂上への登山道は藪に覆われてしまいました。

鹿川からの登山道は藪に閉ざされてその入口さえも見えず、小古江から伸びる農道が頂上の100mばかり手前まで通じていますが、その先はターザンもためらう密林?となっています。

立山山頂(昭和56年) 
画像は国土地理院昭和56年の航空写真です。

当地においてはわりとなだらかな地形である立山山頂の廻りは青々としたミカン畑に囲まれており、まだ作られたばかりの真新しい農道が日の光を反射して白く輝いて見えます。

ちなみにこの写真の1年後、1982年当時よりアメリカによるオレンジを含む農産物の自由化圧力が増大、1991年ウルグアイラウンドにより牛肉やオレンジなど農産物の輸入自由化が本格的に実施されます。
このことにより、1996年には、国内生産のミカンは最盛期の3分の1近くになり、江田島においても多くのミカン畑が放置され、年をまたずしてイバラの繁茂する雑木林となりました。

2016-05-14 075  
立山の中腹付近から見た砲台山と藤浦山が乗る半島です。

最背部に霞む険しい山容は黒神島の櫛ノ宇根(459.9m)で、その手前、円筒形の貯油タンクが並ぶ後ろの尾根が藤浦山、同じ尾根の、画像では右端付近が砲台山です。

今は砲台山への登山道はありませんが、終戦間際、旧海軍の燃料貯蔵設備があったこの地を空襲から防護するために対空用砲台が築かれていたと云われます。

貯油タンクの裏山となる藤浦山には物見石などもあって見晴らしの良いところだと云われますが、現在は三菱商事傘下「エム・シー・ターミナル鹿川油槽所」となっており、一般の立ち入りには制限があるだろうと思います。
かりに登頂したとしても、眼下の貯油タンクを眺めて気分爽快とはならないだろうと・・・(^_^;)です。

この藤浦山は江戸時代には御留山となっており、非常時に備えて弓矢に使う矢竹を移植栽培していたと云います。

ちなみに能美町誌によれば、御建山(立山)・御建藪とは、藩主が農民の狩猟・伐木を禁じた山で、能美町では高田の岩風呂山・北堀白尾跡の上の藪・中町大後の寺迫山・飛渡瀬との境の落走山・坪崎山などがそうであったと、記されています。

鹿川 鹿川水源地

永田・郷・才越川地図c 
小鹿川の上流を堰き止めて、市内で第二の貯水量を持つ鹿川水源地があります。

2014-10-26 035 
この鹿川水源地(貯水量112.000㎥)は、海軍兵学校用水として昭和16年に築造されました。
戦後は進駐軍に接収されましたが、のちに能美町に移管され現在は江田島市企業局水道施設課で管理されます。

アース式ダムの貯水池や白壁の管理棟、その手前に並ぶ沈殿池もほぼ戦前のままに使われています。

2014-10-26 034 
管理棟裏手のなだらかなスロープが貯水池の堤防(アース式ダム)です。

2015-08-07 134 
貯水池湖面です。
集水流域面積は僅か0.89K㎡と狭く、夏期や渇水時には集水不足や水質悪化のため、頻繁に取水制限となる頼りない貯水池ですが、市内では三高水源地に次ぐ第二の重要な自己水源となっています。

2015-08-07 133 
貯水池堤防から、上水道施設や管理棟を見下ろします。

アース式ダムは土堰堤ともよばれるように、土を台形状に盛って造る古典的な形式です。
瀬戸内沿岸に見られる灌漑用ため池のほとんどは、このアースダム方式で造られていますが、土を盛るだけの工法ですので地震には弱いとされます。

国内でもっとも古くに造られた上水道用ダムとしては明治24年(1891年)長崎県の本河内高部ダムが最初とされ、もっとも堤防が高く盛られたのは堤高60.5mの熊本県の清願寺ダム、貯水量では宮城県の長沼ダムが31,800千㎥で最大です。

2014-08-27 006 
貯水池の廻りは回遊式に整備された遊歩道があり、子供遊園地や野鳥の観察ステーション、風の丘公園なども配置されています。

2014-10-26 041 
島内にはこのような花崗岩の石杭を多く見ます。

鹿川水源地の旧正門?付近にあるこの石杭には、画像のような二重の波線が刻まれており、裏側には九三の数字が見えます。
海軍の軍用地を示す境界標石だと思われますが仔細は???・・・(^_^;)です。

江田島市水道敷設図(H20-3) 
江田島市企業局水道事業発刊(平成20年頃)の「江田島の水道」パンフレットから、上水道の「主要な施設位置と基幹管路」図です。

水は生命の源です。
これからも、ず~っと、大切に使いましょう ・・・ (*^。^*)です。

鹿川 文久防災緑地・南蛮樋

永田・郷・才越川地図c 
東の真道山山系と西の宇根山山系とに挟まれ、遠浅の入り江だった鹿川湾は、江戸時代に何度も干拓が行われました。

2012-12-07 002 017 
鹿川地区での干拓事業が最も大規模に行われたのは江戸時代後期(1860年代から)の文久新開干拓事業ですが、それ以前にも機会あるごとに、干拓事業は続けられてきました。

ここ文久防災緑地(文久新開調整池)に移設復元された、南蛮樋と呼ばれる水門は文久新開干拓事業より以前(1769年ごろの築造と云われます)に使われていたもので、今の荒神地区を流れる永田川と才越川の合流部付近で発見されました。

2015-06-23 100 
河川の修復工事中に南蛮樋遺跡が見つかった永田川と才越川の合流部です。

2015-03-20 272 
永田川河口部に広がる汽水域は、江戸時代末期に干拓された文久新開の調整池です。

2016-05-26 046 
この文久新開調整池は、石油貯蔵施設立地対策等交付金事業として(平成10年度~平成12年度)改良整備され、現在は文久防災緑地と呼ばれます。

2015-06-23 079 
公園風に整備され、一時期は不法投棄場となって汚れていた湖面が、ボラやチヌ、コノシロの泳ぐ清浄なる汽水域としてよみがえりました。

2015-06-23 080 
緑地に生えるチガヤの白穂が初夏を運ぶ浜風にゆらぎます。

2015-06-23 082 
整備改修された文久防災緑地(文久新開調整池)に、移設し復元された南蛮樋の脇には一枚の説明版が立てられています。

復 元 「 南 蛮 樋 」

この樋門は、現在の荒神地区の永田川と才越川の交わる地点に架けられている「古樋橋」のすぐ下流にその遺跡が残っていた。
河川改修工事にあたり掘り出されていたものをもとにして、復元したものである。
江戸時代に入って全国的に干拓工事が盛んに行なわれるようになり、鹿川でも寛文十一年(1671年)頃から、現在の鹿川小学校あたりから沖合に向かって、古新開、大矢小高新開、鬼崎新開、更には宝暦十年(1760年)頃から江ノ内新開と干拓工事が続けられた。
そうして、現在の古新開、西浜、荒神地区一帯の干拓が一段落したところで、永田川と才越川の合流した河口に、満潮時の海水流入を仕切るために設けられたのがこの樋門であった。
(文久新開は1860年代からの工事である。)

古文書「国郡志御用に付下志らべ書出帳」文政二年(1819年)によると、明和六年(1769年)頃に築造されたものと考えられる。
この樋門はそれ以前に造られていた「唐樋門」の遮蔽板を水圧で開け閉めする開き戸方式に比較して、遮蔽版を上下させて開閉することで、大型化ができ水圧に耐える力も強力で「南蛮樋」と呼ばれた。
この南蛮樋がつくられるようになって干拓事業はより大規模なものになっていったという技術的、歴史的に大きな意義のある樋門である。
平成十六年十月 復元

2016-05-26 034 
現代の最新式南蛮樋?・・・(*^。^*)です。
増水時には高出力の電動ポンプがうなりを上げて干拓地を守ります。

鹿川 川 ( 永田川・田の上川・郷川・才越川・中郷川・小鹿川 )

永田・郷・才越川地図c 
鹿川地区には長年にわたり鹿川湾に土砂を流し込み、干拓地造成の元となった永田川(えいだがわ)水系と小鹿川(おがのかわ)水系があります。

2015-12-05 107 
田の上川に注ぐ一筋の支流です。

自然石を積み上げただけの細い流れですが、脇に広がる田んぼに何百年も清水を供給し続けた小川です。
長年放置され、雑木林となってしまった田んぼの脇をだれに利用されることもなく、たださらさらと流れていきます。

2015-06-23 048 
才越川の下流です。
才越川は水源としての水量を多く期待できるだけの広い源流域を持ちませんが、この付近の川幅はとても広く造ってあります。

水を流す川としての働きとともに、渇水期には水を溜める貯水池の役をも兼ね備えた一石二鳥となる設計です。
水不足に悩む先人の大きな知恵で造られた、鹿川の文化遺産?なのかも・・・(*^。^*)です。

2015-11-10 105 
大将軍社の北側を流れ下る郷川です。
急な流れを少しでも抑えるため、川底には石がはめ込まれています。

2016-05-26 101 
真道山を源流とする、永田川、郷川と、宇根山山系を水源とする田の上川の清水を集め流れ下る永田川の中流部です。

この付近は江戸時代中期以前の干拓地です。
勝手気ままに流れ下っていた、永田、郷、田の上の流れを人為的に一つにまとめ、灌漑に適した管理された流れとなっています。

2015-03-20 298 
才越川と永田川との間に挟まれた狭い土地に、もう一本の水路が流れます。
何のために作られたのでしょう?

想像ですが、大正の頃までは当地でも盛んだったと云われるサトウキビ栽培で、収穫したキビから糖液を絞り出すために必要な石臼を回すための水車の動力源としての水路???・・・(^_^;)かもです。

2016-05-26 106 
江戸時代中期(1769年の頃)のころ、干拓用防潮扉として南蛮樋が設置されていたとされる場所です。

ここで、左の才越川、水車用?水路、永田川とが合流します。
幅広だった才越川の出口は1m幅に狭まり、水路の高低差もあって、素人考えの及ばない不思議な合流点となっています。

2015-03-20 293 
永田川の下流部です。
この一帯は文久新開とよばれ、江戸時代末期の1860年代から干拓事業が始まったとされます。

2015-06-23 086 
永田川の最下流部、調整池への接続部です。
画像中央部、木立の向こうに移転復元された「南蛮樋」が説明版とともに設置されています。

現在では南蛮樋に代わり、電動モーターによる大型ポンプでもって水位調整がおこなわれています。

2016-05-26 083 
中郷川と小鹿川の合流点に架かる前浜橋です。

干拓地にほとんどの用水を供給した中郷川は幅50cmの道路側溝となって小鹿川までたどりつきます。
右の大きな流れが小鹿川で、鹿川水源地からの余剰水が流れ下ります。

ちなみに、この前浜橋は大原から小古江、鹿川を縦断して、中町へとつなぐ旧道の要所でした。

2016-03-25 057 
前浜橋の下、鹿川水源からの余剰水に遊ぶアオサギです。

2016-03-25 051 
中郷川と合流し、前浜橋の下をくぐり抜けた小鹿川は干拓地の東側を潤して、鹿川湾へと流れ下ります。
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