荒神、後浜地区の西側山麓には、今も管理のしっかりした農道が残ります。
風化し崩れやすい急傾斜地で農地として恵まれた環境とは言えませんが、主な斜面が東南の方向を向いているのが多少とも利点となっているようです。
この付近一帯はミカン類の一大生産地だったのですが、現在のミカン畑は往時の十分の一も残っていません。
他の農道であれば雑木の生えるがままにまかせ、数年で軽トラも入ることのできない廃道となるところですが、こちらでは農道脇に花木を植えたり、雑木雑草の刈り払いや清掃作業を年に数回は共同して行なっている様子です。
ミカン類の枯れたあとに桜などの木々を植えたり、草花を植えこんだりして地域の景観保存に尽力されている方がおられるようです。
ミカンの木よりも桜などの花木が優勢となった斜面もあります。
桜の木はミカン畑ほどの頻繁な手入れはいりませんが、だからと言って放っておけば桜の枝下にだってすぐに雑木が蔓延りつる草が巻き付きます。
葉っぱのない中央の木は自然に芽生えた雑木じゃありません。
栗の木・・・(*^。^*)です。
こちらの畑では、水仙いっぱい運動?がこころみられています。
いずれは、淡路島の灘黒岩水仙郷を追い越し、のうみ水仙郷として脚光を浴びる日が来るやも・・・(*^。^*)です。
ちなみに、淡路灘黒岩水仙郷は、西暦1820年代(江戸時代)に付近の漁民が海岸に漂着した球根を山に植えたのがだんだん繁殖したとされており、今ではここ淡路島の南部に位置する諭鶴羽山(標高六〇七.九m)から海に続く45度の急斜面の一帯、約7ヘクタールにわたって500万本もの野生の水仙が咲き誇っています。と、・・・コピペ m(__)mです。
甘夏柑の向こうにも、桜並木の農道・・・(*^。^*)です。
まだ、十年ちょっとの若桜、これからの成長が楽しみです。
小さな小川に沿って、桜以外にも多品種の花木が植えられています。
桜とは対称ととなる晩秋に訪れてみました。
青空をめざし見上げる高さに育った皇帝ダリアがあちこちに林立します。
カメラを向けると大根の抜き取り作業を中断したおじさんが、ダリアや桜の花自慢を始めます。
花を育てる難しさをとうとうと聞かせていただきましたが、ミカン作りや野菜作りの苦労話はまったく出ませんでした。
そうそう、小玉スイカくらいに大きく育ったカリンの実を二つもいただきました。
おかげさまで今年は風邪をひくこともなく、喉の調子も絶好調、ありがとうございました・・・m(__)mです。
追伸です。
その種を庭の隅に埋めておいたら、十数本の芽が出ました。
初め何の植物か思い当たらなかったのですが、20cmばかりに育ったところで、「あっ、昨年頂いたカリンだ」って思い出しました。
一本をそのまま残し、3本を鉢に移して育てていますが、今現在で樹高が1mをオーバーしました。
はてさて、このまま我が家の狭い庭で育てることができるのか??? ・・・(^_^;)です。
往時に比べれば数十分の一へと少なくなったミカン畑ですが、この年も大きな実が枝もたわわに実っています・・・(*^。^*)です。
鹿川地区の東西には、農作業用の軽トラが十分な余裕をもって交互通行のできる幹線農道が2本南北に走ります。
中町・鹿川(真道山西側面)農道
東側の幹線農道は中町の黒張から真道山の西の麓を南下し、鹿川水源地を迂回して小古江との境界近くまで続き、国道487号線に合流します。
高田・鹿川(宇根山東側面)農道
鹿川の西側にある幹線農道は高田の宗崎から中町の高下を経由、宇根山山腹を縫って南下し、才越峠で県道36号線と合流します。
昭和の時代、集落と農地山林とを結んで縦横無尽、シラス網の目のようなち密さで張り巡らされていた農道ですが、平成に入った頃より徐々に失われ、幹線となる農道より他は獣道との区別さえ難しい状態となりました。
鹿川の北西部、宇根山幹線農道からさらに西の尾根へと伸びる細い農道を登っていくと、行き止まりの開けた場所に沢山の樹木が育つ段々畑がありました。
生け花用の花木が栽培されているようです。
花が咲いていないので???ですが、枯葉の感じからたぶんトサミズキ?・・・(^_^;)です。
右上の遠景は真道山、左は江田島古鷹山系です。
宇根山幹線農道から舗装のない農道を下ってきました。
流れの止まった小川の湖面が青空を写してキラリ輝きました。
十数本の桃の木が植えられた段々畑です。
遠くは陀峯山山系、その手前に鹿川湾の海面が見えます。
才越地区の野菜と花の兼用畑・・・(*^。^*)です。
手前から、菊、春菊?、とう立ちした大根、そら豆、パンジー、最奥はニンニク???です。
中郷地区の畑に紅白の梅の花です。
遠景は宇根山のピークです。
尾登地区の田んぼ跡地に、野生化した菜の花が毎年一斉に花開きます・・・(*^。^*)です。
真道山幹線農道の脇に沢山の花が咲いていました。
赤いのはギョリュウバイ、黄色の花はシナレンギョウ?です。
瀬戸の段々畑は除虫菊栽培で真白に輝いたり、葉煙草や蜜柑で黄色に染まったり、カーネーションやキク、キンセンカと、その時代時代の色に千変万化します。
真道山幹線農道から谷沿いに登る未舗装農道に入ってみました。
3,4百mで行き止まりとなり、軽トラの向こうにミカン畑が見えました。
あたりには枯草を燃した時の香ばしい微かな香が漂います。
鹿川水源地から登る鎌木農道です。
アスファルトに降り積もった笹の葉に轍が二本、平行に続きますので車の出入りはある様子ですが・・・。
竹藪の長いトンネルを抜けると、そこは緑のヤギの国?だった・・・(^_^;)です。
農道に近く日当たりの良い場所には、まだミカンの木が数十本残っていましたが・・・
遠景は宇根山のピークです。
さらに進むと農道脇に雨水の貯水用として、酒造会社からもらい受けた大型のタンクが一基残ります。
雨水は満水で水面にはホテイアオイの花が咲いています。
なのに、タンクの下部に取り付けられた給水バルブは閉めれれたまま、廻りに広がる畑も数年間耕す人もいないようすで、複雑に絡まるつる草の下に埋もれてしまいました。
能美町誌、大柿町史より年表の一部をコピペしました・・・m(__)mです。
1897(M30)自転車現る
1908(M41)鹿川産業組合発足
1921(T10)自転車の普及
1924(T13)各地で県道の整備が始まる。
1925(T14)高田・柿浦間乗合い馬車が走る。
1926(T15)自動車現る
1927(S2)中村・柿浦間に乗合いバス運行
1928(S3)能美バス運行
1930(S5)芳本兄弟自動車商会が中村・柿浦間を6人乗りT型フォードで乗合いバス運行
1936(S11)鹿川・是長間県道完成
1938(S13)鹿川・是長間でバス運行
1943(S18)産業組合を農業会に改組
1944(S19)呉市営バス江能線開通
1948(S23)農業会を農業協同組合と改組
1951(S26)鹿川が町制を施行する
1952(S27)能美島でタクシー営業始まる
1953(S28)芳本兄弟自動車商会を吸収し呉市営バスとなる
1955(S30)高田村・中村・鹿川町が合併、能美町発足
1964(S39)能美島農協発足
1968(S43)能美島農協本所(中町)完成
1973(S48)早瀬大橋開通
1988(S63)能美島地区の呉市営バス撤退により能美バスKK設立
1994(H6)国道487号線の指定
2004(H16)江田島市発足
2008(H20)呉市営バスが全線で撤退し江田島バスKK設立
鹿川旧街道の中心部に元鹿川産業組合の会館(現在は個人所有)が残ります。
鹿川産業組合が発足したのは年表にあるように明治41年(1908)です。
村内からの寄付金、御下賜金を基金とし生活貧窮者を助けるための、今でいうNPO的な活動をおこなう組合でした。
同じような組合は近隣他村にも作られ、急騰した米価に対応し、大量仕入れや外国米の購入で地域住民の食の安定供給に尽力しましたが、戦時下の昭和18年に農業会と名称を変更さらに昭和23年の農業協同組合設立へと繋がりました。
産業組合は島内他村においても多く組織されましたが、これだけの立派な会館(事務局)が造られ、しかも今日まで残っているのはこの鹿川産業組合会館のみです。
建設時期はおそらく大正時代後期?のころで、戦後もしばらくは鹿川農業協同組合庁舎として使用されていました。
初めて見たときは、地方銀行の鹿川支店だろうと思いました・・・(*^。^*)です。
現在は個人所有となっていますが、丁寧に使われており窓枠がアルミサッシに、玄関戸にシャッターが取り付けられている他は、ほぼ建設当時そのままに残されています。
国道487号線沿いにある現在の鹿川農業協同組合(JA呉 鹿川支店)です。
昭和39年に能美島農業協同組合に合併、さらには呉圏と合併し、JA(農業協同組合)呉 鹿川支店となって存続します。
ちなみに・・・
JAとは、相互扶助の精神のもとに農家の営農と生活を守り高め、よりよい社会を築くことを目的に組織された協同組合です。
この目的のために、JAは営農や生活の指導をするほか、生産資材・生活資材の共同購入や農畜産物の共同販売、貯金の受け入れ、農業生産資金や生活資金の貸し付け、農業生産や生活に必要な共同利用施設の設置、あるいは万一の場合に備える共済等の事業や活動を行っています。
(JA HPよりコピペ・・・m(__)mです。)
と、まあ農業関係に特化はしましたが、発足当初の鹿川産業組合と根底理念は同じです。
JA鹿川の玄関前に一体の銅像が建ちます。
台座花崗岩に「曽根田弥太郎翁像」背面に打たれた銅板には、「明治十一年・・・鹿川村に生れ鹿水と号す・・・明治四十一年鹿川信用服売購買組合・・・組合長に就任・・・昭和三十八年病のため辞任・・・産業組合中央金庫及び・・・農協組織確立に・・・。
昭和三十九年二月吉日
鹿川農業協同組合建之」
判読不明部分を ・・・ としましたが、明治41年の鹿川産業組合発足当初から戦時中の農業会、戦後再編された鹿川農業協同組合の設立と多難な時期に大きな功績を残されています・・・m(__)mです。
鹿川地区を南北に縦断する大動脈、国道487号線です。
建設された当初からは想像も及ばないほど交通量は増加しましたが、道路脇に広い駐車場をもたない個人商店さんでは、かえって客足が遠のく結果となっています。
呉服・婦人服・洋品・寝具・紳士服販売の御堂岡呉服店さんです。
花き栽培の盛んな鹿川ならではの、国道沿いのお花屋さん、島のお花畑さんです。
切り花のほかにも、鉢植えの花や樹木、季節の果物も販売されています。
旧道と交差する付近の国道脇に、たばこ屋さんが健在です。
ただ、手売りのお客様はめったに現れない様子で、ショーウインドーの向こうに人影はありません。
いまは自動販売機が看板娘?・・・(^_^;)です。
JA鹿川前の交差点、赤いお揃いのウエアーを着たサイクリングの一団が、沖美町方面からの県道36号線を走破し、青信号と同時に国道487号線になだれ込んできました。
ユニホームには、Fire Cycler Hiroshima 炎の自転車乗り 広島 ・・・(◎_◎;)と、です。
鹿川地区を南北に縦断して国道487号線が走り、県道36号線は鹿川を起点に西の才越峠から沖美町へと繋ぎます。
国道487号線の元となる道は古来より中町と大原を繋ぐ幹線道路ですが、鹿川の南部海岸には切り立った崖が多く、近代になり大型土木機械が登場するまでは海岸線を大きく離れた山越えのルートでした。
そもそも人や牛馬が進むには半間(約1m)の道路幅が必要で、島内の多くの道はこの半間幅が基準となっていました。
往来が激しくなれば一間(約2m)の幅、大八車が交差するような大路は二間(約4m)の道幅があれば、それで十分である時代が長く続きました。
ところが世に自動車なるものが普及するにいたり、島内の道路も大正末期の頃から昭和初期にかけ、各村落間を乗合いバスが運行できる程度の道幅(二間、約4m)に、かつ傾斜を緩くして整備され初めました。
その後大きく改良されることはありませんでしたが、昭和48年(1973年)の早瀬大橋開通前後になり、やっとさらなる整備改良が進むこととなりました。
しかし、ルートの選定や土地面積が限られる島内にあっては用地買収が容易でないなどの理由で延々とし、今日になりやっと主要な道路が安全に走行できる状態にまで達することが叶いました。
二間幅で造られた旧鹿川街道です。
後に造られたバイパス(のち国道487号線)に平行して約4kmの区間が今も往時の面影を残して残っています。
4km近い区間が改良改幅工事もされず、そのままに残っているのは他所にはない珍しいことだと思います。
往時は切れ目なく並んでいたであろう商家も、残念なことに一軒、また一軒と少なくなりつつはありますが、まだまだ大きなエネルギーを秘めています。
オレンジ色のヤマザキパンの看板が見えますのは大川食料品店さん、向はお好み焼きのまえもとさん・・・(*^。^*)です。
緑のテントに船食・日用品・雑貨・食料品と書かれているのは川原商店さんです。
ちなみに船食とは船が航海中に必要とする食糧品や日用品をまとめ、出港前に届ける便利屋さん的事業をいいます。
タンカーとか大型船なら10tトラックで届けることもあります。
その向こうは船乗りさんが大好きな、芦原リカーショップさん、「瓶ビールな、軽トラに満載して急いで届けて~や。船のほうで冷やすから大至急やでぇ~」・・・(*^。^*)です。
土塀の上からニワウメのピンクの花がこぼれ出ています。
向いは川原理容院さんです。
大きくSUZUKIと書かれた看板は向田自転車商会さんです。
ミヤタ自転車の看板もあります。
小鹿川に架かる橋、まえはまはしです。
花き栽培の盛んな鹿川地区、道路脇には立派なガラス温室もあります。
能美運送株式会社さんです。
軽四輪車から大型車迄輸送の御用命は当社迄とあります。
店名は不明ですが大きな間口のお店です。
元は洋品店???かな・・・(*^。^*)です。
カーブミラーに写し出された鹿川旧街道です。
魔法のカガミならきっと通りを行き来する沢山の人々が見えるのに・・・。
もう、お店はたたまれたようですが、ショーウインドーには陶器で作られた干支の置物や、招き猫なんかも・・・。
んっ、・・・履物屋さん?だったのかも???。
Panasonicの鎌田電気店さんとお酒タバコの長平良商店さんです。
ここにもお家があったんでしょうね。
秋桜(コスモス)
うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている ♪ ・・・です。
魚屋さん?、仕出屋さん?もしかしたら、素敵なガラス窓の二階で宴席なども?・・・(*^。^*)です。
ゆっくり歩けば1時間、ひと昔、ふた昔、もっと昔の情景があれや、これや、想いだされます。
鹿川地区には南に向かって大きく口を開く鹿川湾があります。
湾奥の浅瀬は古くからの干拓事業により農地化されましたが、湾の両側(東と西)は切り立った崖が多く平地は僅かです。
鹿川湾東側に位置する東浜地区の崖下にあった砂浜を埋めて道路を通し(のち国道487号に昇格)その海側には超モダンな外観をした鹿川漁業協同組合の庁舎ビルディングが建ちます。
能美町誌によれば、幕末のころより盛んとなった煮干し(イリコ)作りにより、明治15年の東京全国水産博覧会で、鹿川村の鈴木雛右衛門氏が褒賞を受けたとあります。
のち、明治34年の漁業法交付にともない、明治35年10月9日に鹿川漁業組合が設立されます。
さらに、昭和26年に大矢地区と合併、あらたに鹿川漁業協同組合となって現在に至りますが、組合員数は200名を超え、広島県下でも第三位の規模を誇る大世帯でした。
当時5t未満10馬力以下の動力船を使用した延縄や一本釣り、地引網なども盛んでしたが次第にすたれ、昭和40年代には高性能化した漁船をもって愛媛県境でのエビ漁も行われました。
戦後から一貫して漁労の中心をなしていたのは、底曳網漁とイワシ網漁でしたが、現在底曳網漁は資源枯渇状態となって低迷、他にもクルマエビ、鯛、ウマヅラハゲ、ハマチなどの養殖、定置網漁も試みられましたが大きな成果は得られませんでした。
現時点で最も活気があるのは昭和30年代からの孟宗竹を利用した筏垂下式によるカキ養殖事業で、次にチリメン・イワシの巻き網漁(バッチ網漁)、小型底曳網漁(底生魚・ナマコ・エビ・トリ貝など)の他、蛸壺・イカ籠・アナゴ漁(はえ縄・筒)、刺し網漁、一本釣りが後に続きます。
鹿川漁業協同組合庁舎の裏にある旧堤防(昭和中期の頃の?)です。
近年、さらに沖へと大きく埋め立て、新東浜漁港が整備されましたので今は無用となったコンクリート堤防です。
東浜漁港に造られたスベリ(船を陸に引き上げ、船底修理や塗装などを行う施設)に新鋭の小型巻き網漁船が引き上げられていました。
船底はきれいに磨かれ、赤い防汚塗料が鈍く光ります。
点検修理も終わり、ペンキも乾いたようで、運良く船を進水させる場面に立ち会うことができました・・・(*^。^*)です。
陸上から張っていたワイヤーを徐々に緩め、船を乗せていた架台ごと海中へすべり落としていきます。
使用状況にもよりますが船を海上保管した場合、年に1,2回は船底点検、カキ殻やフジツボの除去と船底塗装のためにスベリに引き上げる作業が必要です。
不精な方はレジャー船といえどオーナーには、ならないほうが・・・(^_^;)です。
年季を重ねた小型底曳き網漁船です。
船首には不思議な模様が描かれていますが、そのいわれについて書かれたものがほとんどありません。
図柄は、唐草、波、目、竜、鳥などを図案化したもののように見えます。
装飾理由としては、魔除け、豊漁祈願、船主識別、飾り、船大工や造船所の識別などが思い浮かびますが確証はとれていません。
私的な想像ですが、多くの船には神棚がしつらえてあり、分霊された神様を祀りますので、その神様の乗る船は海に浮かぶ神殿である。とすれば、陸上で見る神社神殿と同じように飾り模様を取り付けても良いのでは、しかも海にまつわる図案で・・・(*^。^*)です。
桟橋にあげられている黒いパイプ状のものは、アナゴ漁に使うアナゴ筒とよばれるものです。
延縄状にロープに取り付けて海底に沈め、アナゴが筒の中に仕掛けた餌におびき寄せられるのを待ちます。
東浜港とは対岸に位置する大矢港です。
シラスや小イワシを狙う巻き網(パッチ網)船団が係留されています。
巻き網船団は通常4隻(巻き網船2隻・警戒船1隻・運搬船1隻)で編成されます。
小型の高速警戒船はその機動力をいかして魚群を探知し巻き網船に通報、巻き網展張中(漁労中)は他船が近づかないよう周囲の警戒も兼ねます。
高馬力の巻き網船は2隻で協力し巻き網を扇形に展張し、魚群を大きく巻き込んで網に誘いこみます。
魚群の入った網の入り口を徐々にすぼめ、長く伸びきった網を乗員総出で巻き上げます。
揚収したシラスや小イワシは輸送専用船に積み込み、鮮度を落とさないように陸上の加工場へと全速力で運びます。
大矢沖のカキ養殖筏です。
カキ筏の横に付けられている水上ハウス?は、養殖準備をする作業小屋です。
大矢港の近くに、ナマコの天日乾燥場があります。
干しナマコの製造法は古くより(古事記に記載)知られていましたが、江戸時代には俵物と称され干しアワビ、フカヒレと共に、対中国(清)貿易の重要産品とされていました。
近年の中国経済発展にともない、ふたたび干しナマコの価値は上昇しつつあるといわれます。
南中した太陽光を海面に反射し、キラキラとまぶしい後浜港です。
水深が浅いので、小型のレジャー船が多く繋がれています。
浅瀬の多くが周りをコンクリートで囲われ、陸地化されましたが、そんな中、鹿川湾内で唯一?残った砂浜があります。
多分もう使われることはないだろう小舟が一艘、寄せる波とひたすら戯れているだけ・・・です。