高田 堀越城・北堀城・小屋城・小城

高田 堀越・北堀・小屋・小城 
高田地区には、堀越城、北堀城、小屋城、小城があったと云われますが、中町から高田にかけての地形には、小城あるいは砦として使えそうな小山がいくらでもあって、しかも城跡を示す案内板、標識とかもなく、さらに、かってはあっただろう小山の山頂へと続く小道はとうの昔に塞がれてしまっています。

と、いうわけで?上図に示す、城跡の表示が間違っている場合もあるやも?・・・m(__)mです。

ちなみに、参考とした資料は能美町誌です。

北 堀 ・ 堀 越 城 跡

高田の豪族として元弘2年(1332年)高田弥十郎直継が衣(江)田島公文職として活躍し、次いで明応2年(1493年)高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続したと云う。
戦国の世となって高田・清能の小屋城は水軍城として、下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったと云う。
(北堀城下の陣場に八瀬島の古墓ありと云う)

また、清能奥の堀越城は水軍城、下井田の小城は跡詰城で、始め永禄2年(1559年)能美左馬亮が、その後、山野井清景の分家、山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城した。

以上、町誌の記載文を要約しました。

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下井田の集落をお散歩中、たまたまお見かけした同年輩の方に、あの付近に城跡があると町誌で見ましたが、もう登り道はないでしょうね。
おっ、城跡がどこかはわからんがのぉ~、近くにウチの畑があるし、道もちゃんと残っとるがのぉ~。
えぇ~~~。登り道が残ってるんですか?。すぐ行ってみます。ありがとうございました・・・m(__)mです。

軽トラが余裕で入れる道を上ると、小屋城があったと思える付近は平地となっており、つい最近までは畑として使っていた様子です。
当然広島城本丸にあるような石垣などまったくあるわけもなく、おそらくはこのあたりが小屋城跡であろうと?・・・想像です。

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登った道とは逆の江田島湾の方へと向かう下り道がありましたので、鬱蒼とした竹藪を恐る恐る行ってみることにしました。

竹藪はすぐに終わり、江田島湾が明るく輝きます。
古くは直下まで波が寄せており、岬の傾斜面を少し削って海との間を高田街道が通っていただろうと思います。

また、この先には小屋門と呼ばれる地名が残ります。
高田街道を封鎖する関所があったのか、あるいは、湾奥の船隠しに出入りする戦船を北風から守る港の出入り口があったのかも・・・(*^。^*)です。

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再び坂道を後戻りして、小屋城よりはさらに高い位置にあるとされる堀越城を目指します。

今は竹藪や雑木が周りを囲み、視界は限られますが木々を払えば、北は津久茂の瀬戸からはるかその先の廿日市、宇品方面まで、南は中町はもちろん、その先の亀山城があったとされる能美八幡神社、新蔵城があったとされる真道山までが、そして東は江田島湾のほぼ全域を見渡すことができる、見張り場所としては最適な位置となります。

画像左は古鷹山、右のほうには呉市灰ヶ峰が見えます。

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南の方向には中町が一望に、その先には真道山が大きく山裾を広げます。

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堀越城があっただろう付近まで辛うじて道は続きますが、木々に閉ざされ周囲の視界はまったくききません。

帰ろうと坂道を下っていると、先に道案内をしていただいた方が夫婦で果樹園の下草刈りをされています。
仕事の邪魔にならないよう、そっと素通りをさせていただきました・・・m(__)mです。

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堀越城の西側中腹まで、お墓へと続く道がありましたので行けるところまで・・・。
中腹からでも高田の町が一望でき、津久茂瀬戸の向こうに似島の安芸小富士がはっきりと見えます。

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左に目をやれば、画像中央付近に北堀城が、さらにもう少し上に登れば右端に小城も見えることでしょう。

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下井田の集落から小屋城、堀越城へと続く農道の入り口です。

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下井田の集落から見た、小城の乗る小山です。
登り道は見当たりませんが、山頂部に大きな楠木?が植えてあるようです。

だれか、目印にと残した野趣のある自然の案内板・・・(*^。^*)です。
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高田 中谷造船所

高田グーグル地図D 中谷造船所 
かって江田島市内(江田島・能美島)には、各浦々ごとに数人の船大工さんがおり、小さなスベリから大漁旗をはためかせた新造和船を次々と沖へ引き出しておりました。

今でも船大工の腕を持つ方はおられるようですが、木造和船を注文する船主は皆無、数年前に一隻の伝馬船?が進水したと噂を聞いた後は絶えてなくなったようです。

現在市内で造船業を経営しているのは、江田島町小用の「KK江田島造船所」と、能美町高田の「中谷造船KK」だけとなりましたが、江田島造船所は修理修繕業が専門となり新造船を手がけることはありません。

江田島市内で唯一造船所と呼べるのは高田の「中谷造船KK」のみとなりましたが、それでも毎年数隻の新船を造り出し、江田島湾へと華々しく進水させております。

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高田の対岸である江田島町側からみた、中谷造船の全容です。
右の船台(スベリ)では中型貨物船を建造中です。

左に見えるクレーの付いた箱型のものは浮きドックと呼ばれるもので、船台で建造し進水した船の最終艤装や点検修理修繕を行う施設です。

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中谷造船の本社建物です。

外壁の赤レンガに埋め込まれた表札には「中谷造船株式会社 NAKATANI SHIPBUILDING CO.,LTD.」とあります。

以下、中谷造船HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

商   号 中 谷 造 船 株 式 会 社
創立年月日 昭和40年1月11日(創業 明治9年)
本社・工場 広島県江田島市能美町大字高田3328-2
資 本 金 10,000,000円

社指すところは「夢を加えた船づくり」

技術・営業上の特徴
広島の小さな造船所が、3度のシップ・オブザ・イヤーを受賞しています。確かな技術と人間優先のテクノロジーが裏付けされた結果です。
中谷造船のテーマは、船の高速化や自動化はもちろん、居住設備の改善まで含めた人間最優先の近代化です。
『思わず乗ってみたくなる船』『人をわくわくさせる船』。
『夢とロマンがある船』の建造を目指しています。
お客様のニーズに答えた、「より進化した船」を届けることを使命としております。

会社の特色
優秀な人材ネットワーク:研究・開発は国内外関わらず最適な企業集団で効率化・質の向上を行っています。

造船所設備
船台  99.50m×20.00m
1号浮ドック 87.68m×31.0m(4990G/T)
2号浮ドック 106.14m×32.0m
ジブクレーン 50トン1セット・16トン1セット・10トン6セット・ 門型クレーン 5トン1セット・3トン3セット
と、あります。

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船台にて建造中の中型貨物船?です。
船橋構造物も取り付けられており、船台での組み立て作業は終盤のようです。

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海側から見た新造船の後部と船台です。

船の最後部に位置する舵と、黄金色に輝く真鍮製の5枚羽根プロペラが見えます。

コンクリートで傾斜のつけられた船台には何本ものレールが敷かれ、そのうえに沢山の車輪をつけたトロッコが何台もあり、さらにその上に新造船が乗ります。

起工から進水までの数か月、最大1千トン近い重量の船をこのトロッコに載せ、滑り落ちないようにストッパーで支えます。
船の進水時には車輪を固定するストッパーを外すことにより、トロッコは船を乗せたままで船台斜面を転がり落ち、上に乗った船を海上まで導きます。

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万国旗を掲揚して進水したばかりの「SOLID HARBOR」?マニラ船籍の貨物船?です。

船台上で鉄板あるいはブロックをつなぎ合わせて船の形を造り出し、船内に主エンジンや補機類を搭載し、舵やプロペラを取り付けて船台から海面へと滑り落とすまでの工期は約3カ月です。

進水した船はこのあと、桟橋などに舫った状態で電機配線や配管、甲板上の補機類(クレーン、係船機など)、航海計器や居住設備を艤装し、試運転や試験航行、検査、が行われたのちに船主に引き渡されます。

一般的な小中型の貨物船の場合、設計に2カ月、起工から進水まで3カ月、艤装や試験に2カ月くらいの期間を必要とします。

お値段ですが、画像の貨物船だと、たぶん?、5億円くらいだろうと??、想像します・・・(^_^;)です。

注 : 上記に記載の船の建造価格は、「中らずと雖も遠からず」???・・・(^_^;)です。
実際の価格は不明、また船の建造費は主要原材料である鉄鋼の値段や社会情勢などにより2割3割の変動は当たり前です。

貨物船やフェリーボートの建造をお考えの場合、価格より造船会社の技術力と信頼度の方がより重要です。

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上記貨物船と船体の容はよく似ていますが、こちらの船は液体(オイル・ケミカル)を運ぶ船のようです。

船主は韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」で、船名は「KEOYOUNG BLUE 1」、引き渡しは2016年4月、N/Tトン497.0t、G/Tトン1423.0tで、全長が71.9mです。

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この進水直後の船も、韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」が船主です。
先の「KEOYOUNG BLUE 1」とは姉妹船で船名は「KEOYOUNG BLUE 3」、2016年10月に引き渡されています。

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浮きドックのサイドに繋がれ、艤装工事中のフェリーボートです。
船首に船名が書かれていますが、まったく見たことのない文字・・・(^_^;)です。

船名は判読できませんが、この船は日本の政府開発援助(ODA)によりミャンマー・ヤンゴン市に無償供与されるフェリーボートです。
ヤンゴン市を分断するヤンゴン河で使用される渡河船で、全長41.35m、幅9.40m、深さ7.40m(高さ?)、総トン数290 トン、旅客定員1,200名の要目で発注されたもので、「中谷造船KK」が同型船3隻の建造を総額999,000,000 円で落札しました。

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航行試験や検査も終わり、ODAに引き渡された直後のヤンゴン河渡河船です。

このあと3隻の渡河船(フェリーボート)は広島港外貿埠頭に集められ、川崎汽船株式会社(SAL社)が運航する重量物運搬船「PAULA」(クレーン能力合計700㌧)に3隻(1隻あたりの重量270㌧)を積み込み、2014年10月31日ヤンゴンに到着しました。

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画像は「川崎汽船株式会社」のHPよりコピペしたもの・・・m(__)mです。

中谷造船で建造したフェリーボート3隻をクレーンで吊り上げ、「PAULA」の甲板に登載作業中の画像です。

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中谷造船の林立する沢山のクレーンは、高田地区のどこにいても屋根瓦の上に突き出して見ることができます。

小さな町の小さな造船所が3度ものシップ・オブザ・イヤー賞に輝いた快挙は、元高田小学校の校歌にもある、正しき道を歩み進みて文化を求める高田気質が大きく底流となってあるからです。

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画像は試験航行で呉湾小麗女島の沖をいくJR西日本のフェリー「みやじま丸」です。
「みやじま丸」は中谷造船で建造された、日本で初の小型電気推進旅客フェリーで、シップ・オブ・ザ・イヤー2006、小型客船部門賞を受けました。

両頭双胴船型の電気推進(ディーゼル・エレクトリック方式)旅客フェリーで2006年1月27日竣工、2006年5月27日に宮島航路に就航しました。
総トン数254トン、全長35.0m、速力8ノット、車両7台を搭載し、旅客503名(最大803名)が乗船できます。

高田 元高田小学校・元高田保育所

高田グーグル地図D 元高田小学校 
高田地区の中心部、旧高田街道に面して平成26年3月まで140年の歴史をもつと云われる高田小学校がありました。

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高田小学校の正門です。

門柱前面には真鍮鋳物で高田小学校と書かれた校札が掲げられていますが、花崗岩の門柱自体はそれよりもず~っと古く、明治四十二年九月に地元有志、山﨑三次氏により寄附されたものです。

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正門脇の掲示板に、高田小学校閉校式平成26年3月23日と書かれた張り紙が、錆びた押しピンで止められていました。
どうやら少しばかり前に閉校記念式典が執り行われたようです。

高田小学校の起源として、江戸時代の頃より高田高源寺において、児童を集め読み書き算盤が行われていたと云います。

明治5年8月に定められた教育法令「学制」に基づき、明治7年8月、第4大学区広島県管下第3番中学区内第140番小学校として高源寺本堂に「日新舎」を創設。
同9年本堂南側に校舎を付設、同11年に第4大区(佐伯郡)広島県第140番小学校「高田小学校」となりました。

明治19年「中村簡易小学校 第一分教室」となるも、同24年「高田村公立高田尋常小学校」となって独立、大正12年には校舎を空地区から現在の沖南地区へと拡張移転しました。
校内には判読が困難ですがおそらくはその当時のものだろうと思える、「教育喜捨芳名」の石碑があり、沢山の方々の芳名が刻まれています。
高田地区の児童教育や文化発展に対する熱意が今に伝わります。

そのような恵まれた環境風土にありながらも、高田地区の児童数減少はとどまることなく、ついには2014年3月末をもって惜しまれつつも高田小学校、高田保育所が廃校廃所となりました。

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シーソーの周りをはしゃぎまわる子供らは絶え、鉄道草が一本また一本と数を増やしています。

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卒業生?が残した自画像陶板が23枚、大きな手形は担任の先生のかも?・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの南側には「創立百年記念 昭和四十九年建之」と彫られた陶板と78個の自画像や文字、絵などが書かれた陶板が張られた記念碑が建ちます。

ちなみに昭和49年の高田小学校総児童数は173名となっていますので、陶板の制作にあたったのは5年生と6年生だったのかも?ですね。

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こちらの記念碑には「一以貫之」の周りに、学童らの手形と記念文字が書かれた66個の陶板が張られています。

これが全校児童数だとすれば、平成6年の67名にもっとも近いのですが、制作年は不明?です。
記録に残る高田小学校の児童数として、昭和22年の500名、28年401名、37年322名、41年215名、平成元年105名、閉校となる年度の児童数は51名でした。

ちなみに、制作に使われている陶板?ですが、文政(1818年~1830年)の頃、能美島から瓦用焼土(赤土)を大量に産出しており、明治中期から大正後期にかけては高田を中心に煉瓦の生産が盛んにおこなわれていたと云います。

有名な江田島海軍兵学校(明治26年建築)の赤煉瓦はイギリスからの輸入品であると云われますが、それより他の多くの煉瓦建造物(対ロシア艦隊用の砲台施設など)は、能美町高田や東広島市安芸津で生産されたものが多く使用されたようです。

しかも煉瓦の質としては、高田で生産されたものの方が輸入品や安芸津産よりも上質であったと云います。

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動物の飼育小屋のようです。

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どこから種が飛んできたのか、カワラナデシコの花も・・・

高田小学校閉校式 
江田島市広報誌の表紙となった高田小学校の閉校式です。

高 田 小 学 校 歌
作詞 戸張竹風 作曲 渡辺弥蔵

1、山むらさきに 海深うして
  能美島第一の 文化村
  その少国民 我等のために
  ああ雄々しくたてる 高田小学校
2、古き伝えは よよ美しく
  祖父母も父母も 通いたまいし
  その園に 今我等は遊ぶ
  ああ楽しきかなや 高田小学校
3、清き明かるき 心をもちて
  正しき道を 歩みすすみて
  よき人となる みなもとはここ
  ああ尊いかなや 高田小学校

s-高田さつき荘 
昭和の後期まで使用された高田小学校の木造旧校舎は移築されており、ツツジの名所である高田遠崎地区の水島さつき園で「さつき荘」として現在も使用されています。

画像はグーグル地図よりのコピペ・・・m(__)mです。

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藤の花で飾られた元高田保育所です。
高田小学校の南に併設して高田保育所もありましたが、小学校と同日に閉所となりました。

高田 農道

高田(国道・旧街道・農道) 
国道以外はすべてが農道といってもおかしくはないほど農業の盛んであった高田地区ですが、農業不振、農家人口の急激な減少により耕作地の放棄が止まることなく続いています。

生活道路と兼用のアスファルトで厚く固められた道路以外はすべてが獣道となり、一度イノシシに占拠された農地にはもはや人が入り込める道はありません。

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画像は2014年9月のものです。
案山子と防鳥網に守られていたこの水田もイノシシの執拗な攻撃によりついに陥落、昨年(2016年)秋にはイノシシの運動公園、ぬた場となっていました。

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坂道の上からしだいに近づくエンジン音をいぶかっていると、高田地区で一番の耕耘機操縦技術をもつおじさんの登場です。

耕耘機の発明は1920年頃のオーストラリアだと云われますが、日本での普及は1955年(昭和30年)の8万台から急速に伸び始め、昭和42年には300万台を突破したといいます。

急傾斜で細く曲がった農道にも重い荷物を積んで入り込め、狭い田んぼでも効率よく耕すことができる、昭和の農業発展にもっとも大きく貢献した大傑作機です。

おじさん自慢の愛車?は、HONDA F80(1968年頃の発売?)、半世紀近くも経過したであろう耕運機です。
排ガスや手入れのたびに塗り込まれたグリースで薄黒くはなっていますが、おじさんの巧みな操縦により急な坂道も安定感をもって下っていきました・・・(*^。^*)です。

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米作りが最大の収入源であった農業も、時代の流れから他の作物への転作を余儀なくされ、慣れ親しんだ稲作に代わる新たな作物に挑戦することを求められました。

手前の広い畑では沢山のサトイモが大きく青々と育っています。
下の段では自家用のお米が作られており、夏の陽を目いっぱいに吸収した稲穂が秋風に揺られ少し黄色味を帯びてきました。

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遠くに中谷造船所、さらに江田島湾、古鷹山を見渡せる高台の畑には、エンドウとジャガイモ、ネギの類が生育しているのが見えます。

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火力暖房機を備えたビニールハウスの中に、天井まで伸びたキュウリの蔓が元気いっぱいに葉っぱを広げています。

稲作からの転作初期には、狭い農地でも収益率の高い施設園芸が多く試みられ、沢山のビニールハウスが林立、キュウリやトマトの栽培が試みられました。

ただ、その後の農業労働力の減少や、暖房用燃料費、資材の高騰など何度もの危機を乗り越え、今もハウス栽培を維持経営する農家の数はごく僅かです。

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温暖な気候条件から当地で最も有望視され、多く試みられたのは柑橘類の栽培ですが、これもオレンジの自由化に続く海外からの多彩な種類の果実類や産物輸入により大きな打撃を受けることになります。

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排水の良い傾斜地ではカキ(柿)の栽培も多く試みられています。

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宗方地区を往く農道脇に、秋祭りの幟がはためきます。

対岸の鉢を伏せたような山は、江田島町の津久茂山(お鉢山 262.8m)です。
この津久茂地区とは瀬戸の急流で阻まれてはいますが、大正12年2月1日に津久茂村が安芸郡江田島村と合併する以前は高田村と同じ佐伯郡に属していました。

耕作地の少ない津久茂地区からは多くの農民が農耕船を仕立てて瀬戸を渡り、この高田の地で田畑を耕し、さらには住居を定めたりもして、陸続きであった江田島村よりも、海を隔てた能美の地により親密な関係があったと云います。

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何世代にもわたり石を積み上げて作り出した農地跡に、荒れ地に強いといわれるコスモスが咲き乱れ右に左にへと時代の風にゆれ動きます。

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ここ数年使われることもなく、うすく埃をかぶった農作業小屋(納屋)の内部です。

「豊盛」「日水」「八洋」「村山」と書かれたトロ箱が重ねてあります。
トロ箱といえば普通は魚を入れて運搬するために使いますが、農業用として?転用???キャベツの苗とかを入れて運んだんでしょうかねぇ~ ・・・(*^。^*)です。

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農道わきの柵に・・・、これってジュウヤクと呼ばれる野草、薬用利用として天日干しされている様子です。

漢方書によれば薬用部分は全草で、開花期に根ごと採取して日干しにしたものを十薬という。
薬効としては、痔・高血圧症・便秘・たむし・陰部のただれ・はれもの・かぜ・腰痛・蓄膿・冷え性・帯下に効果ありとされます。

ちなみに、当地における古くからの民間療法の薬草薬物として、ドクダミ、ゲンノショウコ、ハブ草、ヨモギ、フキの根、柿のヘタ、梅肉、イチジク、ショウガ、ミミズ、ドジョウ、タニシ、イナゴ、鯉、イセエビの殻などが利用されたと能美町誌に記載があります。

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農業経営は気候天候に大きく左右されるだけではなく、その時々に必要とされる産物を見極め絶妙なタイミングで供給する高度な技量をも必要とします。
しかも多くの農産品は、生育に長い時間を必要とし、さらにその気候風土に適合したものでなければうまくは育ちません。

この地で過去にどのような作物が生産されていたかを知ることはきわめて重要です。

江戸時代に書かれた「鹿川村書出帳(文政2年)」によれば・・・
当時五穀として、米、麦、大豆、粟(あわ)、黍(きび)が栽培されており、野菜では、あらいも、ごぼう、ちさ、ふき、ほうれん草、わけぎ、ねぶかねぎ、なすび、きゅうり、うり、とうがん、すいか、かぼちゃ、しゅんぎく、みょうが、らっきょうが栽培され、藩の殖産興業政策として、さやえんどう、猿豆(実えんどう?)、小麦、ごま、稗(ひえ)、とうきび、だいこん、そら豆、さつまいも、なたね、さとうきび、たばこ、わた、茶、西条柿、蜜柑、梨、こうぞ、はぜ、くすのき、なども推奨されたとあります。

さらに山野からの採集薬草薬物として、桔梗(ききょう)、橙皮(とうひ)、葛根(かっこん)、忍冬(にんどう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)、麦門冬(ばくもんどう)、防風(ぼうふう)、香附子(こぶし)が記載されます。

その後、明治となって除虫菊や桑(養蚕)の栽培に加え、乳牛、養牛、養鶏なども試みられ相応の成果はありましたが、多くは時代とともに消え去り今に続く農産品はほんの僅かです。

春先の農道、コンクリートの側溝とアスファルト道との数ミリの隙間に、ド根性スミレの青花と白花が混じり合い、互いに競い合って咲いていました。
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