畑 畑漁港 (沖港) 1/2

s-沖美町畑B・畑漁港(沖港) 
畑地区の最南部、沖へと突き出した岬の下に畑の小さな港があり、そこからさらに南下した岡地区にも砂浜を石で囲った小さな港、岡港がありました。
二つの港はそれぞれに改築工事を重ねてはいましたが、昭和50年頃から岡港のさらに南に大きな防波堤を築き、その後畑港を西風から守っていた北西の堤防も延長して、両港をすっぽりと覆った巨大畑漁港が完成しました。

ちなみに同じ港が沖港とも呼ばれるのは、明治22年に是長、畑、岡大王が合併し沖村となりましたが、畑港は沖村役場に最も近く、船の出入りも多い中心港であることから沖港とも呼ばれました。

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畑漁港の北西から延びる長大な防波堤、少々の台風ならヘッチャラ、ヘッチャラ・・・(*^。^*)です。

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その長大な防波堤の先端に大きな無人灯台が建ちます。

灯台側面に付けられた名板には
畑港西 防波堤灯台
初点 昭和41年3月
改築 昭和59年3月

この灯台は太陽光発電エネルギーを用いて、CO2の発生がなく、消費電力が少ないLEDを点灯させる地球に優しいエコ灯台です。・・・(*^。^*)と。

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灯台設置場所から見た宇根山頂上。 画像中央から左側が畑地区、右側の集落が岡地区となります。

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旧畑港の側に係留された小舟です。

漁業のみで生計を立てる船は???半農半漁?、あるいは休日用の釣り船?・・・みたい。

戦前はイワシ漁が盛んで、戦後は石炭運搬船や、砕石運搬船、大黒神で日帰り農業を営む農耕船、廿日市や宇品へ野菜やミカンを運ぶ番船、日用雑貨を持ち帰る船でごった返した時期もあったと云います。

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防波堤の隅に、タコつぼがキッチリ、寸分もたがわぬように整頓されて並べ置かれています。

まだまだ、現役バリバリ真面目で几帳面な漁師さんが、ご健在の様子・・・(*^。^*)です。

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旧畑桟橋に繋がれた中でもっとも古そうで貫禄のある船「第十八幸力丸」です。

しばらく漁にでることも無いようですが、魚介の入った生け簀が海中に下げられていますので、別の僚船が毎日捕った魚を補充してるのかも?・・・です。

幸力丸の船首には巻き上げ用電動ドラムが装備されていますので、刺し網漁あるいは、タコつぼ漁、アナゴ漁などに活躍したのでしょう。
おそらくもう使われることはないと思いますが、非常用?として左舷のスペースに櫓が一挺残してあります。

ちなみに、向こうの船は「第二十幸力丸」まだ現役の様子です。

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舳先に刻まれた独特の文様。
地域によっては船名以外なにも書かれていない場合もあるとか?ですが、江田島市内でみる古い木造船のほとんどには、唐草模様や、目を図案化したものや、幾何学的な模様など、それぞれに個性ある模様が彫り込まれており、さらに原色を使った彩色がなされています。

詳しく資料をあさったわけではありませんが、大型帆船の船首にはよく女神像などが取り付けられており、もとは航海の安全を願う護符でもあるといわれます。

江田島市近辺の漁船がヨーロッパの帆船を真似たとは思えませんが、安全と豊漁を願う気持ちを船首に彫り込む意図は同じものだと思います。

ルーツの一つとして、広島近海の漁業進展索として広島藩主浅野氏が、縁のあった紀州の漁師を呼び寄せ、その高度な漁労技術を当地に指導伝播させたことから、当時の紀州漁師の風習も同時に取り込まれた???

ちなみに、ネット検索では愛知県南知多の篠島漁港の漁船船首には唐草模様があるとか・・・(*^。^*)です。

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「第十八幸力丸」とは別の桟橋に、小型底引き漁船「なつき丸」が繋がれています。
幸力丸とはトン数で4、5倍は大きい分、貫禄も十分、舳先に彫られた唐草模様も複雑で手が込んでいますし、その下には目を図案化したような特異な文様も見えます。

このギョロ目でにらまれたら、舳先を泳ぐチヌやスズキはもう身動きができなかったでしょう。

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「なつき丸」、しばらく漁には出ていないようですが、陸に揚げて少し修理をすれば・・・
元々が、頑丈に造られた船ですから・・・。

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防波堤の上に土器製のタコつぼが数個、上げ置かれています。

十年か、それ以上前にタコを狙って沈めたタコつぼでしょう。
繋いだロープの一端が岩の角に引っかかって切れてしまったのかも・・・
そのまま捨て置かれていたものが、網に引っかかり船に揚げられたようです。

重くて、壊れやすい土器製のタコつぼはもう使われることはありません。
ものは良いのだがなぁ~~~
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畑 大坪川・陽津川

s-畑防災PNGa・陽津川・大坪川 
畑地区の主要河川には大坪川と陽津川、さらに是長との境界近くには佐村川があります。

大坪川は江田島市最高峰である野登呂山(542m)の頂上付近の谷から水を集めますが、集水面積はさほど広くはなく、ほぼ一直線に海岸まで流れ下ります。

畑集落の北西、陽津川は数本の谷から水を集めますが、全長が短く集水面積のわりには安定した流量が望めません。

(画像は江田島市防災マップから・・・m(__)mです。)

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大坪川の下流部です。
花崗岩の切り石やコンクリートで頑丈に造られてはいますが、川幅約1.5m、堤防の高さも1.5m弱しかありません。

s-畑19750209(S50)拡大・池・陽津川jpg 
画像は昭和50年2月、中央部の集落が畑地区で、当時はミカンを主力とする農業が最高の活気を見せたころです。

地区の周りは畑の地名ともなったと思える、畑(当時はミカン園)で囲まれており、少ない自然水をやりくりして水田も開拓されています。

不思議なのは、集落への水の供給元はわずかに大坪川のみといった乾燥地域に、これだけの大集落(畑村)がいかになり立ったのか???です。

明記した資料はみあたりませんが、おそらくは海洋性堆積物地層で保水性の良い宇根山(野登呂山)からの豊富な地下水水脈があるのだろうと想像します。

大坪川に集まる表層水のみだと、日照りが1週間も続けばカチカチに干上がってしまいます。

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畑集落では唯一ともいえる、用水池(畑大池)が大坪川中流部に造られています。

農業用給配水設備が完備した今日ではほとんど使われることもありませんが、農業全盛だった昭和後期のころまでは最後に残ったバケツ一杯の水までもが争奪の対象となるくらいに、大切な黄金の水だったに違いありません。

顧みられることのなくなった畑大池ですが、今でも陽の光を反射し、鈍くはなりましたが黄金の輝きを発しています。

s-グーグル畑大池原画Abb 
画像右下の削られた丘の上に畑荒神社が建ち、谷となる大坪川の脇に畑大池が青く水を溜めます。

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畑大池とは小径を挟んで、今は見捨てられてしまった古井戸があります。

ゴミが入らないようにと覆っていたトタン板も風にあおられ垂れ落ちていますが、水道水が通る昭和43年8月の頃までは、大池以上に大切に管理されていました。
(もちろん、それまでにも地区ごとではありますが簡易水道が整備されており、すでに飲用としての役割は終えていました。)

大石の敷かれた洗い場に溜まった水は、一滴も無駄にすることなく大池へと流し込み、さらに農業用水となって再利用がなされていました。

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畑大池から下流方向を見ます。
道路の左が大坪川の流路となっており、そのままほぼ直線で畑漁港へと流れ込みます。

畑大池の脇には「畑ポンプ所」がありますが、このポンプは広島太田川から送られ畑地区へと届いた水道水をさらに高い位置にある貯水兼配水用の水道水タンクへと送るためのポンプであり、畑大池の溜まり水を利用するポンプではありません・・・(*^。^*)です。

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元沖小学校・沖中学校の脇を流れ下る陽津川の中流部です。
かってはこの僅かな水も最大限に利用して田んぼや畑がつくられていましたが、残念ながら・・・(^^;)です。

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農道の中央に真新しいコンクリとが白い帯となって続きますが、この部分の地下には遠く沖美町三吉、木下川上流部に造られた三高ダムより送られた、農業用水が流れる給配水管が埋まっています。

そして農道の左には石を積み、コンクリートで防水処理をした小さな水路があります。
農業の盛んだった昭和の時代にはこのような細い水路が縦横に張り巡らされており、河川から流れ下る水を一滴の無駄もなく、田畑に循環させていました。

梅雨に入った今の時期なら、ピカピカに手入れされた水路を細い水流がサラサラと音を立て、下段の田んぼへと途切れることなく水を送っていました。

ただ、毎年同じ時期に同じ量の降水量があるわけなどありえません。
多く降れば、水路や田んぼの畔は決壊し濁流となってさらに下流へと被害を拡大し、少なければ田んぼやあぜ道はひび割れ、丹精込めたミカンの樹も、葉っぱが黄色くなり実が落ち、やがて枯れ木ばかりの畑になってしまいます。

「水を制する者は国を制す」三高ダムからの給配水だけで安心するのは・・・です。

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下水道整備の進捗により再び綺麗な川に戻りつつある、大坪川の最下流域です。
ボラの子やクサフグの影が動きます。
うまくすればシラウオとか、ウナギなんかも、のぼってくるかも?・・・(*^。^*)です。

畑 沖恵美須神社

s-沖美町畑B・恵美須神社 
沖美町畑漁港(沖港ともいいます。)から海岸道路を隔てた埋め立て造成地に沖恵美須神社が建ちます。

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この恵美須神社は旧畑魚港を冬の季節風から守る岬の突端にありました。
石段を上った先の今はコンクリートで固められた大岩(見張石)の上に建っていましたが、残念なことに平成3年の19号台風により倒壊しました。

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岬の突端からこの地に移転し、再建が叶ったのは平成5年の10月です。

神殿脇には、移転再建に尽力された大勢の方々の芳名を刻んだ銅板が残されており、添え文として「平成三年台風十九号により神殿倒壊につき平成五年十月当地に再建されました」
と記され、平成五年十月吉日
代表世話人 沖漁業協同組合
  組合長理事 島津栄三 と、刻まれます。

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二拝二拍手一拝 ・・・m(__)mです。

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撮影は2015年3月、平成5年(1993)の移転再建からすでに21年と半年、銅板葺きの恵美須さんにも目に見えないところで少しづつ傷みが出始めたご様子です。

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境内には魚魂碑が建ち、「大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり 我等はこの生命の上に生活を築き今日の繁栄を見る 願はくば魚介の霊よ安らかに ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す」
平成五年十月吉日
沖漁業協同組合 組合長理事 島津栄三 と、刻まれます。

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後日、再び訪れると・・・

新たな石板も建ち
弐百萬円 江田島町 株式会社フルサワ 代表取締役 古澤成憲
五拾萬円 呉市 大新土木株式会社 代表取締役 新田清剛 
壱百萬円 呉市 ダイユウ技研土木株式会社 代表取締役 井場徳翁
弐拾萬円 能美金属工業団地協同組合 代表理事 古澤成憲
壱拾萬円 
久栄建設・五興石材・小林建設・澤岡鐵工所・三商・七福組・砂川組
空久保建設・空久保石材・坪稀・室来建設工業・三高運送・宮本海産
山根建設・・・などなど地元関連の業者名と寄付者の芳名が続きます。

添文として「平成五年当地に建立された神殿が著しく老朽損傷したため上記有名のご寄付によりここに新しく建立されました」
平成二十八年十月吉日
代表世話人 沖漁業協同組合 代表理事組合長 丸本秀夫 と、です。
(誤字脱字ありましたら・・・m(__)mです。)

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23年で新しく再建された沖恵美須神社です。
あらためまして、二拝二拍手一拝。 
ま、ぶ、し~~~ (*^。^*)です。

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神殿は真っすぐ畑漁港の方を向き、海の向こうの島影は大黒神島です。

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今一度深く頭を垂れて・・・m(__)mです。

畑 荒神社 (向井神社)

s-沖美町畑A・畑荒神社 
畑地区は西能美である沖美町、旧沖村の岡大王地区と是長地区とに挟まれた、宇根山の南西斜面に位置します。
(グーグル地図でははっきりしませんが、大黒神島の北西部も畑地区に入ります。)

畑地域の氏神、畑荒神社は岡大王地区との境界付近、宇根山から続く尾根の、大きな古松があったとされる小丘を削って建ちます。

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平成14年に再建された畑荒神社に祀られるのは
手置帆負神
屋船久久能智神
屋船豊受姫神
彦狭知神
の四神と、云われます。

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拝殿前で、二拝二拍手一拝・・・m(__)mです。

拝殿内の正面に「荒神社」の社額が掛けられており、左右には仁王様の額が奉納され、額下に沖美町畑  登地靖徳 平成14年11月吉日とプレートが付けられています。

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棟木には板が打ち付けてあり
正殿再建 十月吉日
議員 大?栄 大川秀郎
世話方 中本文吉 岡田岩吉 中田和助
さらに別板に 
世話方(イロハ順)
泉川柳吉 岡田吉松 岡田常太郎 岡田初吉 横田利助
竹本三次郎 空本藤一 坪木泰吉 中本常太郎 熊本庫次郎 
八木仁吉 松本實一 木戸出翁助 木村亀三郎 霜野群三郎
昭和六年十月二十五日再建
八幡神社神官 原勝彦
時ノ村長 神川登
大工棟梁 空久保準一 空久保久雄 鍵野宮夫
石工 川崎喜代次郎 川崎績 中田勇
左官 深江村 米田秀一
木挽 堀川茂 泊野柳一
御殿棟梁 梶亀一
労力奉仕 畑青年団員一同 時ノ支部長 増田宗雄 副支部長 前崎勇三

と、あります。
(誤字脱字は・・・m(__)mです。)

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さらに別の古い板には
正殿再建 十月吉日
本村 加藤伊三吉 加藤重作
日日村 山口幸太郎
左官? 阿加村 ?千助
石工 畑村 泊野清吉
別板に
明治五年 壬申 九月吉日
世話方
森川愛之助 美田清介 大?米助 熊本幸次郎 山根林三郎 谷本谷三郎
森田?太郎 森本次助 尾田准一 山下秋年 前寄?七 伊反田儀一郎
平野栄? 田川虎年
棟梁
高田村 加藤伊三吉 加藤伊サ次郎 加藤重作 山口幸太郎
原田福次 栄田興吉
木挽
大王村 傅次
左官?
阿加村 千助
石工
當村 利?
(誤字脱字は・・・m(__)mです。阿加村は阿賀村です。)

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拝殿内には他にも沢山の写真が額に入れ掛けられています。
おそらくは写真好きの地元有志の方が、荒神社再建後に昔の写真もまとめて現像し奉納されたものでしょう。

左は、昭和32年9月吉日 オタフク舞手 空久保渡
右の額は、昭和37年9月吉日 メンシシ舞手 田代良暁・佐野博隆

メンシシは何処で撮影されたのか不明ですが、オタフクは能美町中町の八幡神社本殿で撮影されたものです。

中町の八幡神社は、沖美町(旧沖村・旧三高村)と、能美町(中町・鹿川・高田)、5地区の総氏神さんで、毎年秋の例大祭はこの5地区が持ち回りで執り行います。
奉納の舞である、お多福や獅子、ダイバ(天狗の面を被り薙刀や刀をもって勇壮に舞う)も、当番となった地区の若者が演じます。

ちなみに提婆(ダイバ)とは、釈迦仏の弟子である、提婆達多(だいばだった)のことで、のち釈迦に違背し分派して新しい教団をつくったとされます。
他にも釈迦への敵対行為が多く、仏の道を邪魔する鬼にもたとえられましたが、死期を悟ると再び釈迦に帰依したため、許され地獄道を脱したとされます。

提婆の舞は江田島八幡宮、大原新宮八幡宮でも奉納されますが、共に荒ぶれる勇者の一面が強調された舞いとなっています。
また、四国(愛媛)にも提婆の風習が残りますが、こちらでは棒を振り回しながら神輿の先導を務めたり、反対に邪魔をしたりと入信、背信を繰り返した提婆達多をそのままに演じている様子です。

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昭和42年9月吉日 オンシシ舞手 山西松雄・泊野己亜とあり、撮影場所は畑荒神社?だろうと・・・です。

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昭和52年9月吉日 オタフク舞手 空久保稔、撮影場所は八幡神社本殿。

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昭和57年9月吉日 ダイバ舞手 空久保一美、撮影場所は八幡神社本殿。

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昭和62年9月吉日 ダイバ舞手 空久保一美

平成9年9月吉日 ダイバ舞手 木原忍、共に撮影は八幡神社。

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平成4年9月吉日 オタフク舞手 空久保美幸、撮影は八幡神社。

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畑荒神社 取壊し安全祈願祭 荒神社にて平成14年8月8日・・・と。

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平成14年9月吉日 オンシシ舞手 神垣勝則・空久保雅樹、撮影場所は八幡神社。

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奉納寄進 鯨之歯 施向政助 昭和十四年八月吉日。

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再建された荒神社本殿です。
観音開きの頑丈な鉄扉は旧本殿の扉がそのまま再利用されました。

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再建された拝殿の右側面です。
まだ、新築の匂いが漂い、新瓦は銀色に輝いています。

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旧畑荒神社の大屋根に乗っていた鬼瓦です。

広く整地し直された境内の隅に、しっかりと固定し立て掛けてあります。
浮き出る模様は打ち出の小槌、信心深い畑の人々にはたくさんの幸せが振り出されました。

岡大王 古地図(芸藩通志)

岡大王地図(芸藩通志)
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

岡大王古地図jpg南側 
地図の東南側です。

岡大王地図(芸藩通志)北西側
地図の西北側です。

s-DSCN4924 (2) 
もと画像です。

岡大王 いいとこ撮り 2/2

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人口減少が甚だしい江田島市内にあって、さらに過疎化が懸念される旧沖村地区(是長・畑・岡大王)ですが、かっては廿日市や宇品は対岸であるという利便性を発揮し、経済的にも文化的にも他地域以上の発展を見ました。

現在の江田島市内にあっても他では見ることのない様な、すばらしくりっぱな石垣を組んだ大邸宅がこの旧沖村地区には沢山あります。

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往還道沿いに、高く積まれた石垣の上に土塀を築いたお城のようなお屋敷もあります。
さらにその広い邸内からはみ出したソテツは、広島県の天然記念物である鹿川の大ソテツを凌駕する勢いで育っています。

このような、お城の石垣にも匹敵するような巧みな石組みは江田島市内でも旧沖村地区、中でも是長地区で際立っており、農閑期に段々畑に石垣を積み上げる技術から発展したものとは全く異質なものです。

お城を築くことのできる、特殊技能を継承した石工の小集団が、旧沖村地区に移住し活動した可能性も十分に考えられます。

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県道沿いの路肩に二台の脱穀機が並べ置かれています。

より新型と思える手前の脱穀機には「KATAKURA」の名が入った片倉機器工業株式会社製の片倉式脱穀機です。

この片倉機器工業株式会社は長野県松本市にあり、昭和19年、空襲を逃れて疎開した三菱重工名古屋航空機製作所の技術者と設備を継承し、同21年農業機械の生産販売を始めました。

昭和30年動力脱穀機の日本工業規格第一次の表示許可を取得、昭和44年オールスチール製軽量自動脱穀機を開発、その後も多岐にわたる農業機器の開発を手掛け、「消費者を大切にしたもの造り」をモットーとし躍進を続けています。

画像の脱穀機は自動式には見えませんので、昭和30年~40年くらいの間に製造されたもの?でしょう。

s-DSCN0704.jpg 
主要部以外は木製の脱穀機です。

「TRADE HARAK」「MALUYO」と銘の入った脱穀機?です。
昭和40年代???まで、マルヨ式脱穀機として生産販売がされていた様子ですが仔細不明・・・(^^;)です。

おそらくは、昭和30年以前の動力式脱穀機だと思うのですが???・・・。

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左は、陶製の醤油樽で、上部をとても器用にくり抜いていあります。

右の火鉢のような陶製品は何でしょう???。
下部に穴が開いています???
縁の部分に「發明人 本藤光太」って、刻印も入っています。

二つとも、水に関する物のようですが???。
水には大変な難儀をする地区でしたので、屋根に降った雨水の集水枡?かも???・・・です。

s-DSCN0699.jpg 
お百姓さん必衰の文明利器、軽トラです。

マツダの「ニューポーターキャブ」、エンジンは三菱自工製2G23型4ストローク2気筒SOHC「バルカンS」550cc、発売は1977年(S52)からです。

フロント下部に自然対流式外気取り入れ口があり、作動は運転席に座ったまま足で蹴り上げる?だったと思います・・・(*^。^*)です。

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農道脇にクワの樹の古木がありました。
大正時代に試みられたと云われる養蚕のなごりかも?です。

ちなみに日本最大とされる桑の樹は群馬県沼田市の「薄根の大クワ」です。
薄根の大クワは、幹周り5.6m、樹高13.6m、推定樹齢1500年とされます。

当地岡大王の大クワは、幹周り約2m、樹高約7m、推定樹齢おおよそ100年???・・・(^^;)です。

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農道脇や、家々を結ぶ小径の石垣の上にはよくスイセンが植えられています。

早春のまだ花の少ない時期に、心和むほのかな香りを漂わせます。

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往還道沿いのわずかな平地を利用してトタン屋根が架けられ、その下で真っ白な大根が切り干しにされています。

年明けの爽やかな春風を受け小刻みに揺れます。

s-DSCN2532 (2)  
岡大王の沖、阿多田島との間にある航路を海外からの大型客船が広島港へと進みます。

江田島市内にあっても、もっとも早くに異国の新風を感じ取ることのできる土地柄・・・(*^。^*)です。

岡大王 いいとこ撮り 1/2

s-グーグル岡大王(PNG)b 
グーグル地図から沖美町岡大王地区を切り出したものです。

大黒神島の地図がはっきりしませんが、実際は大黒神島の左上、北西部分、島の1/3が畑地区で残り2/3の南東部分が岡大王地区となります。

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此のあたりで、もっとも古くから人々が住み着いたであろう付近の、展望の良い小丘の上に樹齢200年はありそうな柿の木が育ち、その下にカーテンの閉ざされたお家が残ります。

そもそも治安の悪い太古瀬戸内に点在した小部落には自衛力などありません。
集落は海からの外敵に備え、いつでも山中に逃れることができる場所であることを第一に、次には飲み水と食量、さらに住居や煮炊きに必要な木材などが確保できる地があれば、そこが楽園でした。

やがて近隣の統治者の庇護を受けるために、高い年貢を支払う代償として、最低限の安全と利権が得られる世となりますが、権力者に媚びる(責務を果たす)ことにより安全と利権が担保となる人間社会の定めが変わることは、今もこの先もありません。

一生、だれとも遭遇せず、一人で無人島に隠れ住む暮らしができれば別ですが・・・(*^。^*)です。

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放任され、しばらく剪定を免れたモミジが大きく自己主張を始めてきました。

押さえられればしとやかに弱弱しく育つモミジの樹々も、ひとたび開放されればその勢いは思った以上に・・・(*^。^*)です。

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防風、あるいは崖の補強になればと残したアベマキ?の樹が、お家よりも大きくなりました。

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つい最近までご隠居さんがお住まいだったみたい?、余分な飾りのない端正なお家です。

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かなり大きな農家をされておられるご様子で、納屋が2つもあって曲がり屋風にくっ付いて作られています。
もしかしたら、二階は子供部屋?だったのかも・・・(*^。^*)です。

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大きめの基礎石を組んだ上に、重厚な造りの土蔵が乗ります。
ご先祖様伝来のお宝が、ぎっしりと詰まっていそうな・・・(*^。^*)です。

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とても落ち着く設計のお家です。
格子のガラス戸玄関も、シンプルでいいなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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小さめなお家だけど、これまた端正な造りです。
お百姓さん家じゃなさそうだから、御隠居さんは元は公務員(官吏さん)とか?か?、なぁ~ ・・・(*^。^*)です。

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大石川を挟んだ北側に建っていますので、となりの畑地区?かもですが、その此方側に建つ沖農協の倉庫となります。

今の新しい畑魚港ができる前は、おそらくこの倉庫の前に直接船を繋いで、荷物の出し入れをやってたのだろうと思います。

建てられた時期は不明ですが、土壁に漆喰を上塗りした白壁造りです。

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お屋敷の裏に急峻な段々畑を背負って建つ、農家造りのお家です。
右の納屋には牛が飼われていて、その下に広がる田んぼを耕し、敷き藁や牛糞は裏の段々畑に肥料として背負い上げていたのでしょう。

ちなみに、江戸後期の「芸藩通志」によれば、岡村の農家は66戸で牛の飼育数が26頭、大王村の農家は85戸で、30頭の使役牛が飼育されていたと記載されます。

昭和40年代となって化学肥料の急速な普及や、農作業の機械化により使役牛としての役割は終えましたが、今までの育成技術を生かし、乳牛や食肉牛の肥育が試みられました。

ただ、当地において広大な牧草地や飼料畑などは望むべくもなく、大半の飼料を輸入品にたより、さらに一家に1、2頭の零細経営では他地域、さらには海外の畜産業に太刀打つことはできません。

それでも、昭和後期までは各村々に一軒程度はあった畜産農家も、拡大する農産物自由化の荒波に呑まれ、ついには市内で牛を見ることはなくなりました。

学校帰り、田んぼを耕す牛さんの力強い姿にひかれ、遠回りをしてあぜ道に入り込み、レンゲの花を食べさせようと大声で牛を呼んで、まだ仕事中だとおじさんに怒鳴られたり・・・と。

そんな♪ 時代も♪ あったねと♪・・・(^^♪ です。

岡大王 能美金属工業団地

s-グーグル岡大王・工業団地 
岡大王の南端、大矢鼻から赤曲鼻の間の浅海を干拓して能美金属工業団地があります。

金属団地 
鹿川の大矢地区から大矢鼻、岡大王の赤曲鼻付近(横網代)は、戦前旧海軍の燃料保管庫として干拓造成がなされたもので、昭和22年の航空写真にも、燃料タンクのあった痕跡が沢山確認できます。

赤曲鼻農地 
これらの旧海軍用地は戦後農地として近隣住民に払い下げられましたが、鹿川大矢地区の南部は1953年、三菱系資本により買収され「鹿川ターミナル 株式会社」が設立されました。
現在総容量約76万キロリットルの原重油タンクを保有し、西日本の電力事業者や一般産業家向けに原重油の受け入れ、貯蔵・払い出しの業務を行っています。

大矢鼻より西側の大王横網代地区はその後も農地として葉タバコなどを栽培していましたが、販売価格の低迷や、連作障害、農業用水不足などの諸問題もあり、昭和45年に横網代地区の一括売却が決定、46年造成工事、47年ころより一部企業の操業が開始され、「能美金属工業団地協同組合」が発足、約20社の三菱造船下請会社が移転して、建造船の部品などの製造をはじめました。

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金属工業団地内の案内図です。

江田島市唯一となる工業団地内には、最盛期20社の造船業下請け企業が集中しましたが、その後の造船不況で半数が撤退することとなりました。

今に残る企業は精鋭中の精鋭、更なる技術の開発発展集約を目指し日本工業会をけん引すべく大きく活動を続けています。

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横網代の能美金属工業団地遠景です。
船体ブロックや、大型の部品も簡単に搬入搬出が可能な大きな天井クレーンのトラスレールが海上にまで張り出しています。

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金属工業団地に隣接する、フルサワ K K(旧古澤鋼材 KK)の船舶解体場で解体作業を待つ、護衛艦「ひえい」と、「SUPER LINER OGASAWARA(スーパーライナー オガサワラ)」です。

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ちなみにスーパーライナー オガサワラは、東京~小笠原間を乗客742名と貨物210トンを搭載し、速力38ノット約16.5時間で結ぶ夢の高速連絡船となる予定でしたが、往復の燃料費が2,500万円(2005年当時)掛かることから、購入元の小笠原海運が引き取りを拒否、完成後もPR活動等に使用されたのみで、長く建造造船所である、三井玉野造船所の岸壁に係留されたままとなっていました。

2012年になって解体が決定し、江田島市のフルサワ KKが受注、当地岡大王の赤曲鼻沖に回航されました。
(ウイキペディアより引用・・・m(__)mです。)

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2014年4月、解体場へ陸揚げされ艦首部分を残すのみとなった護衛艦「ひえい」です。

右側が艦首方向で、上甲板の中央に残った2つのドラム缶状のものは揚錨機、錨の上げ下ろしや係船用のロープを巻き取る作業で使用します。

船内の様子はわかりませんが、一般的にこの付近は倉庫として使われることが多く、錨鎖(錨用チェーン)庫、索具(ロープ)庫、ペイント庫、応急修理予備品庫などがあり、最下部にはソナードームやソナー探知機器がある?と思うのですが???です。

ちなみにヘリコプター搭載護衛艦「ひえい」は、石川島播磨重工業東京で1973年に進水1974年就役し、横須賀第51護衛隊に編入されました。
基準排水量5,050トン、全長153m、機関は蒸気タービンで70,000PS、最大速力31ノットで、5インチ速射砲、20mm機関砲、アスロック、シースパロー短SAM、短魚雷発射管を装備し、ヘリコプター3機を搭載しました。

武器など装備品を除く建造費は91億円???・・・とも。

最終所属は呉第4護衛隊、退役は2011年3月16日で、就役期間36年3ヶ月は歴代海自艦艇の中で最長、地球44周に相当する航海を無事に終え、当地で終焉を迎えることとなりました。
(ウイキペディアより引用・・・m(__)mです。)

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昭和20年8月、人類史上最大最悪の戦が終結しました。
大きく深い反省と急速な復興とを果たしつつ、平和の時を長く満喫し続けた赤曲鼻の白砂に小さなさざ波が寄せます。

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鉄サビのような赤い色をした花崗岩から名付けられたであろう赤曲鼻先端部です。
その先端を取り囲むように届くさざ波の向こう、大黒神島がさらなる大波到来を固く防ぐ格好で両袖を大きく広げます。

神風が吹くか、それとも台風か、できることなら薫風のままで ・・・ ・・・ です。

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その後の「オガサワラ」は2015年8月25日、沖美町岡大王から江田島町秋月の船舶解体場(フルサワ KK)へ、最後となる航海をタグボートに引かれていきました。

当時の東京都知事石原慎太郎の典子夫人により命名された「SUPER LINER OGASAWARA」は、2017年5月、すべてが解体されて、ただのアルミニュームの金属片となりました。

ちなみに研究費などを除く建造費は一説によれば115億円???とも。
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