畑 古地図(芸藩通志)

畑・古地図完成画 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

畑・古地図完成画・東南 
地図の東南部分を拡大したものです。

畑・古地図完成画・西北 
地図の北西部分を拡大したものです。

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元画像です。

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国土地理院の空撮画像、昭和37年(1962)5月16日、東京オリンピック開催の2年前です。

是長から畑、岡大王、才越を経由して鹿川へのバス路線は昭和13年ごろに開通しましたが、是長から美能、高祖を経由して三高港へと通ずバス路線が開通したのは、この年、昭和37年3月です。

多くの畑にミカンの苗木が植えられており、多くが成長の途中である様子が見えます。
港の中央部には造船所?があり、スベリには建造中の船?が乗っているように見えます。

沖小学校がコンクリート校舎になったのは昭和45年1月、沖中学校は昭和54年10月になってやっとコンクリート校舎が完成、この画像の頃は両校とも木造の校舎でした。
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畑 いいとこ撮り

s-グーグル地図・畑 
一般的な地図では大黒神島は岡大王地区に組み込まれますが、大黒神島の北西部は畑地区が所有します。

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画像は「沖美町史(平成元年三月三十一日発行)」に掲載の画像で、広島県立図書館が運行していた移動図書館船「ひまわり」が畑港へ立ち寄った場面です。

「ひまわり」は昭和36年12月15日、江田島町小用の「江田島造船所」で建造された木造船で、総トン数19.75t、最大速力は19ノットです。

就役期間である昭和37年4月1日から昭和56年7月31日の間、航行距離82,477km(地球を2周半)、利用者数は587,318人、貸出冊数は365,825冊であったと記録されています。

畑港で撮影の写真は昭和37年1月となっておりますので、おそらくは就役訓練を兼ねて畑港に立ち寄り、地元学生を呼んでのお披露目、船内見学などがあったのでは?と想像します。

s-07210005ひまわり 
この画像は2005年7月、初めて買った200万画素のデジカメで写したものです。

船の経年老化と陸上交通の発達により、移動図書館の業務を図書館車「みのり号」にバトンタッチ、廃船となった「ひまわり」は瀬戸田町に寄贈され文化資料として保存活用されることとなりました。

私が初めて「ひまわり」を知ったのは小学生??の頃、おそらくは当時映画上映の前に必ず流される映画ニュースで??、でなければNHKの風土記番組で??・・・そこら辺の記憶は飛んでいるのですが、段々畑に除虫菊の波がうねる瀬戸内海の小さな港に「ひまわり」が静々と入港、桟橋には手に2,3冊の本を持った人々がしだいに集まってくる様子が、今も不思議と記憶の奥に残ります。

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往還道の下に広がる農地です。
ある時は米を作り、麦を作り、芋を植え、エンドウやダイコン、葉タバコ、そして除虫菊の白い花で埋まったこともあったやもしれません。

昭和の30年頃からはミカン作りが奨励されましたが、一帯がミカン畑に変わった途端の大暴落、多くの営農家は一瞬で路頭に迷う状況となりました。

数々の不条理な農業政策に不信の感が渦巻く激動のご時世にあっても、ただひたすら農地を守り育てる善良なお百姓さんの畑は常に美しく草一本も生えません。

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手入れされた畑の向こう、段々畑が何本もの横筋となって見えていた大黒神島も今は草木に埋もれて無人島です。

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往還道を飾る、薄い桃色の梅の花・・・(*^。^*)です。

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人家の密集する畑地区ですが、白壁の大きな土蔵もけっこう目につきます。

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平屋建て、南向き、潮風の吹き抜ける見通しの良い高台、県道わき、広い庭、普通車三台以上が余裕で駐車可能・・・そうゆうのを大豪邸っていいますよね・・・(*^。^*)です。

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大型車は入りづらいかも?ですが、いいな~~~。
こんなお家に住んだら、百歳までは余裕で長生きができそう・・・(*^。^*)です。

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県道から少し路地に入った所のタバコ屋さんです。
手売り販売は止めたようですが、文明の利器である自動販売機が24時間連続勤務で働いてくれます。

赤いプレートに白字で「たばこ」、昔はよくお世話になりました。

奥の方の縦長いプレートには「煙草小賣所 煙草小賣人」ってあります。
タバコ屋のお姉さんって、登録制だったのかなぁ~?。

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道路わきの駐車場に「PORTER CAB」マツダのポーターキャブです。

ポーターキャブは1969年3月から1989年まで販売されたそうで、初期型のエンジンは空冷直列2気筒2ストローク360ccだったそうです。

何年型かは分かりませんが、フットワーク良さそうで、細い坂道もスイスイと登れそう・・・(*^。^*)です。

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沖離島農道から見た岡大王集落と畑集落、畑漁港、遠く丘の上には役目を終えたばかりの沖美町役場の庁舎が白く輝き、その先の薄墨シルエットで浮かぶ厳島の山々に対比します。

畑 頌徳碑・軍人墓地

s-沖美町畑B・医師碑 
県道36号線沿い、元 沖小学校(現 沖美市民センター・沖美支所)の北隣り、山側に「世良田三次郎 頌徳碑」が建ち、県道を挟んで海側には「軍人墓地」があって英霊の墓石数十基が建ちます。

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画像は元沖小学校校舎の残る、2013年11月のグーグル地図です。

海側に軍人墓地、山側に頌徳碑、その先の白い建物が2007年3月廃校となった沖小学校の校舎です。

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沖村の誇りとして今に伝わる医師、世良田三次郎氏の頌徳碑です。

廻りに垣を築き、高く積まれた大石の上、瀬戸の大海を眼下にして建ちます。

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大きな石碑の盤面には以下の文字が刻まれます。

頌 徳 碑 (しょうとくひ)
文部大臣 灘尾弘吉 篆額(てんがく)

世良田三次郎先生は資性仁侠四代の医業を継ぎ大正四年より昭和二十八年に至る四十有余年村医を兼ね終始一貫郷土民の健康保全に専念し患者に対しては恰も慈母の子に接するが如く往診は悪路馬に依り速かに病床を訪れ慈愛溢れる手当を終えて宅に帰り寝に就くは深夜二時三時に及ぶが如き又重患と見るや終夜枕頭に在て万善の処置を講ずる等特に利を求めず私財を投げうって施薬治療を貫行せらる嗚呼稀に見る仁医その恩恵に浴したる者数知れず眞に感銘に堪えざる所である依て同志相謀り茲に碑を建て以て比の偉大なる仁徳を永く後世に伝える
昭和三十二年五月 同志八百十名

(篆額とは、石碑の上部に篆書で書かれた題字で、灘尾弘吉氏の書です。)

誤字脱字がありましたら・・・m(__)mです。

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沖村から出征、英霊となった方々の奥津城、身は帰らずとも、魂はこの地に宿ります。

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廻りを囲む玉垣には、「墓苑玉垣 寄贈者 丸本?次? 昭和十四年一月」の文字が見えます。

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遠く海の向こうからお帰りになられたのでしょう。
背を西に、日いずる東を向いての整列です。

深く、深く、さらに深く、合掌・・・m(__)mです。

畑 元沖美町役場

s-沖美町畑B・旧沖美町役場 
今のような、スマホ地図アプリとかが無かった頃だと、初めて沖美町役場へ行くには途中2人くらいに道を尋ねなくては判らないような、場所にあります。

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元沖美町役場は、宇根山から延びる山裾の途中にポッコリとできた小丘を、平に削って造った高台にあります。

実は、この高台に建つ真っ白な建物を始めて見たころは、大会社の保養研修用施設?か、一般人は受け入れない会員制のリゾートホテル??だろうと思っていました・・・ (^^;) です。

白亜の沖美町役場がここに完成するまでには長い歴史と、そこに暮らす人々それぞれに多くの葛藤がありました。

そもそもは明治16年、住民の反対を押し切って岡村と大王村とが合併し岡大王村に、そして明治22年、岡大王村と畑村と是長村とが合併し沖村となりました。

さらに昭和31年、沖村と三高村(三吉・高祖)とが合併し、人口8447人の沖美町が発足しましたが、町役場は取り合いとなり、沖と三高とが2年交代で持ち廻ることとなりました。

全国的にも非常にユニークな発想でしたが、利便性や経費に問題があり、昭和45年となり当畑地区に新庁舎を竣工、沖美町役場として固定されました。

その後平成16年の4町合併により、江田島市沖美支所となりましたが、耐震化等の問題もあって平成29年3月、元沖小学校の跡地に移転と相成りました。

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小丘を登ったところに、明治22年発足の「沖村役場」と深く彫られた門柱が残ります。

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建てられた当初は遠目、リゾートホテルにも見えた元沖美町役場庁舎です。

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中央部が玄関で、右に「沖美町民憲章」の碑が建てられており、左側にはなんと、堂々下水管用マンホールの蓋が立て掛けられ飾られています。

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昭和31年誕生の沖美町町名は「青い海と緑の山にとりかこまれた沖の美しい町」からで、町章は昭和54年制定「おきみ」の図案化と沖・三高が中央の山で強く結ばれ、住民の円満と協調のもとに未来に向かってゆるぎなく前進する姿を象徴。(町章原案作者 酒永光志)

沖 美 町 民 憲 章   昭和六十二年九月三十日制定

わたしたちは美しい自然と誇り高い伝統をうけつぎ明るく住みよい郷土沖美町を築くためこの町民憲章を定めます

一、自然を愛し清潔で美しい町をつくりましょう
一、人権を尊重し平和で明るい町をつくりましょう
一、教養を深め文化の香りたかい町をつくりましょう
一、明日への希望をもち元気で働き活力ある町をつくりましょう
一、お互いに助け合い健康で人間味あふれる町をつくりましょう

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江田島市沖支所玄関わきに堂々飾られた、下水道管用マンホール蓋です。

青い空・白い雲・緑の山々・碧い海・輝く波・コスモスの赤い花々・・・(*^。^*)です。 

ちなみに佐伯郡沖美町、町の木はサクラ・町の花はコスモス・合併前の2004年3月末の人口は、4,032人でした。

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「江田島市 沖美支所」2015年3月の画像です。

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沖美支所から見た南の方向、手前が畑地区の家々、ずっと向こうに専念寺本堂の大屋根が見えます。

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畑地区の家々を見下ろし、西洋のお城のように建った沖美町役場も、今その任を終えて・・・。

畑 元沖小学校・元沖中学校

s-沖美町畑B・元沖小学校・中学校 
畑地区集落から是長へと通づ県道36号線の山側に、沖小学校と沖中学校がありました。

沖小学校は2007年3月末に廃校となり、児童の学区は鹿川小学校へ、沖中学校は2006年3月末に廃校となり、生徒の学区は能美中学校へと変わりました。

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「沖美町立 沖小学校」の校札が掛けられた元沖小学校の正門です。

元沖小学校は明治初期に開設された、大王(精練舎)・岡(蒙養舎)・畑(遷心舎)・是長(文明舎)から発展、明治22年、岡大王・畑・是長の合併により沖村が成立後もそれぞれの地区に小学校を擁立していましたが、大正7年4月、是長・畑・岡大王の尋常小学校を統合、高等科を併設し「沖村尋常高等小学校」としました。
開校時の学童数は尋常科720名、高等科の生徒は54名でした。

昭和16年4月「沖村国民学校」、昭和22年4月「沖村立沖小学校」昭和31年9月、町村合併により「沖美町立沖小学校」と改称、昭和45年1月鉄筋コンクリート4階建て校舎竣工、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖小学校」となるも、平成19年(2007)3月末日をもって廃校となりました。

花崗岩の立派な門柱の側面には寄贈者のお名前と、昭和十二年五月十一日の文字がとぎれとぎれにに残ります。

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昭和63年1月に落成し、現在も防災避難所として残されている、元沖小学校屋内運動場です。

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2015年3月の画像です。
廃校当時の面影が残る、沖小学校が中央部、右の校舎は沖中学校、県道36号線の下に超近代的外観をもった学校プールが残ります。

プールの向こう、オムスビ型の小さな島は小黒神島です。

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元沖小学校の校門脇には、市内でも1、2を争う立派な造りの二宮金次郎の銅像が残ります。
中央部奥に見える白い建物は元沖中学校の校舎です。

二宮金次郎(尊徳)像について
二宮金次郎の銅像が最初に作られたのは、1910年(明治43年)彫金家、岡崎雪聲が作った銅像だと言われますが、金次郎が薪を背負って歩きながら本を読んだ逸話は、1881年に発行された「報徳記」に記述があり、それをもとにした幸田露伴の著「二宮尊徳翁」(1891年)で、挿絵となって表されたのが始まりとされます。

ちなみに金次郎像が、小学校に置かれたのは大正13年、愛知県豊橋市「前芝小学校」が最初とされ、その後ブロンズ製品の多くは富山県高岡あるいは大阪で、石像は愛知県岡崎で盛んに造られたようです。
戦時中ブロンズ製の金次郎像は多くが金属供出され、代替え品としてコンクリート製に変わりましたが、戦後も昭和30年頃をピークとして金次郎ブームは続きました。

金次郎像がなぜ全国各地、多くの小学校に立像されたかはっきりしませんが、二宮尊徳の偉業が修身などの教科書に取り上げられ、勉学意欲の向上に役立ったことや、金次郎像の表現する趣旨が一見してわかりやすいこと、販売業者の巧みな宣伝などが合いまったと思われます。

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正門付近から見た、元沖中学校の校舎です。

「沖村立沖中学校」は昭和22年4月沖小学校東校舎を借り、生徒数243名、6学級編成で開校しました。
昭和23年10月になり現在地に新校舎が完成し移転しましたが、24年10月に校舎を全焼、25年6月復旧、昭和31年9月町村合併により「沖美町立沖中学校」と改称しました。

昭和54年10月鉄筋コンクリート3階建て校舎が完成、平成16年11月、4町合併により「江田島市立沖中学校」となるも、平成18年(2006)3月末日をもって廃校となりました。

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昭和49年9月に落成した、沖中学校体育館です。

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校門の脇に建つ「学校保健文部大臣表彰記念碑」 昭和六十二年十一月十二日 文部大臣 中島源太郎 書です。

右横には、卒業記念樹 平成十四年三月十日 卒業生一同のプレート板も見えます。

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県道下に残る、素敵なデザインの学校プールです。
プール付近に人影はなく、水面には人工的に植えられたスイレンが葉を広げ始めています。

入り口の扉に掲示されたポスターには、
えたじま「花とまつり」と「音楽祭」 平成29年6月11日(日) 
10:00~ ホンモロコの鑑賞・水上撮影会
11:00~ アケミ&フレンズの演奏
13:30~ 和太鼓グループ 響輝(ひびき)の演奏

主催:NPO法人 沖美町地域再生会議
共催:沖まちづくり協議会
・・・と。

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元沖小学校前のカーブミラーに写るのは、今も残る沖小学校屋内運動場の建物と、その前の運動場には縄跳びをしたり、追っかけっこをしたり、砂場を掘り返したりする沢山の子供らが映ります。

ミラーには逆さ文字となって「沖美市民センター(沖美支所)」の文字も・・・うつります。

畑 県道36号線

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画像は畑漁港荷揚げ広場に設置された、江田島市作成の「畑漁港 津波高潮ハザードマップ」です。

畑地区を横断する県道36号線は、津波高潮到達予想圏内からは十二分に高い位置にあります。
地震被害に連動する地すべりや建物崩壊、火災等の危険がないのであれば県道まで避難すれば十分な安全が確保できます。

ちなみに、南海トラフ巨大地震が広島県に及ぼすであろう被害想定は、最大震度6弱・最大津波波高4m・津波到達最短時間は186分であるとされます。

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畑地区を貫く県道36号線は、地区の目抜き通りでもあり、多くの商店が軒を連ねています。
いや、・・・連ねていました。

岡大王地区から畑地区に入ると大きな酒屋さん「大勢登酒店」さんがあります。
今は自動販売機だけでの営業ですが、「千福」や「白牡丹」の清酒や、キリン、アサヒのビールケースが何段にも積み上げられた時期も・・・

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ショーウインドゥには、千福の特大十升瓶?と白牡丹の一升瓶がディスプレイされています。

ちなみに、千福(千福醸造元KK 三宅本店)は江戸時代後期の1856年(安政3年)呉市で 創業、清酒醸造に着手したのは1902年(明治22年)、「千福」の商標登録は1916年(大正3年)といわれます。

一方の白牡丹(白牡丹酒造KK)は江戸時代前期1675年(延宝3年)西条にて操業、「白牡丹」の酒銘は天保10年(1839)12月、京都の五摂家である鷹司家より御家紋に因んで白牡丹の酒銘を賜った、と云われます。

ショーウインドゥ 万華鏡のよう 私を見る 私がいるのよ ・・・(^^♪ (^^♪ です。

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「引いてください」と書かれたお店の入り口は固く閉ざされており、その横に小さなテーブルが置かれ、花 ¥100・野菜 ¥100・芋 ¥200・甘柿 ¥200・いちじく ¥300とあり、さらに、「ありがとうございます。お花は新聞紙に包んでお持ち帰りください。」・・・と。

いちじく、食べたいなぁ~。 甘柿もいいなぁ~。 芋かぁ~、うまいだろうなぁ~。

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このお家?、外からの雰囲気だと洋品店さん??? ・・・かなぁ~。

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こちらは?、そうですねえ~、雑貨屋さん?わからんなぁ~???。

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江田島警察署 沖警察官駐在所です。
まん丸いガラス玉の赤色玄関灯はもう時代遅れのようで、今は蛍光灯を覆う赤い長方形の玄関灯に変わったんですねぇ~。

でも、玄関の左右に建つ花崗岩の門柱は昔のまま、シャキッと威厳をもって直立不動の姿で残してあります。

掲示板には、不正大麻・けし撲滅運動と、自転車安全利用5則を指導するポスターとが並べて貼ってあります。

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沖郵便局です。
掲示板には夜間警戒強化中の張り紙と、「浅田真央♡リカちゃん人形セット(記念フレーム切手セット付)」予約販売用ポスターとが並べてあります。

沖美町史を要約すれば、明治以前にも飛脚制度による連絡網はあったが、明治7年10月16日、中村に郵便局が設置され、明治15年7月31日、岡と三吉にも郵便局が新設されたとあり、さらには明治18年、畑村の岡田岩吉氏方に郵便函場・郵便切手売捌人が置かれました・・・と。

ちなみに、大正8年頃に郵便集配人を勤めた立畑繁夫氏の談によれば、早朝5時に岡大王の自宅を出て、雀峠を越え、中村港6時30分発江田島行の郵便船に郵便物を届けます。
帰途、中村郵便局にて沖村宛郵便物を仕分けて11時頃には帰宅。
午後は各戸への配達と各郵便函を廻っての集荷を済ませ、夕刻になり帰宅するのが日々の日課であった・・・と。

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小さな小さな電気屋さん。
でも修理の腕は超一流だったんでしょうね。

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「〇ほ」の屋号?が残るお店です。
間口が広いから八百屋さん???。食品雑貨も商っていたのでしょうか???。

ベニア板を打ち付けて閉ざした窓には、「日本再興へ全力政治!!」とスローガンの書かれた平口ひろし氏のポスターが一枚のみ貼られています。

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畑地区を横断する県道36号線は、細くって、右に左にカーブして、そして下がったり、そして上がったりと ・・・ 遠い昔話の聞こえてくる小道・・・(*^。^*)です。

畑 畑漁港(沖港) 2/2

s-畑19750209(S50)畑漁港(沖港) 
上の画像は、昭和50年(1975)2月9日に撮影された畑漁港(沖港)です。

沖港の旅客船桟橋は港の中央部、大きな荷揚げ倉庫の右から沖へと突き出したコンクリート製のスベリで、倉庫の右に小さな乗船待合所の四角い屋根がみえます。

そもそもこの地で人々が社会生活を営むためには、四方を囲む海を往来するしか方はなく、昭和48年、早瀬大橋が開通するまでは船が交通の主役であり、住民の足でした。
ディーゼル船や船外機エンジンが世に広まるまでは、中学生程度の体力があれば皆が櫓舟を操り、一里(4km)沖の大黒神までなら一時(2時間)で行って帰ってこれたと云います。

ちなみに、この地で元祖定期航路と云われるのは、明治38年、沖村の岡田岩吉氏が蒸気船海勝丸(62t)で、大原・深江・沖村・是長・美能・高祖・三吉・高田・中村・江田島・津久茂・大須・似島・宇品の間を一日一往復で結んだのが始まりです。
採算が取れず、3年ばかりで敗退となりましたが、住民の要望や自治体の支援、船の性能アップなどもあって、その後は倉橋、東能美、西能美、江田島、似島などそれぞれに多くの航路が乱立しました。

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現在も沖港に残る、沖・宇品航路乗船客待合所です。

戦中、戦後の混乱期を乗り越え、
昭和39年、三高・宇品間にカーフェリー就航
昭和41年、「鯉城」沖・宇品航路に就航
昭和47年、「千鳥」三高・宇品航路に就航
昭和50年、「高速艇」沖・宇品間に就航
昭和57年、沖・宇品航路廃止

と、一時は高速艇により、沖から・是長・美能・三高・大須・似島を経由して・宇品の間を1時間弱で結んだこともありましたが・・・。

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待合所の壁に今も残る昭和57年当時の、沖・宇品航路、高田・宇品航路の、高速艇航路図と時刻表です。

【 宇品行き 第1便 】
沖(07:10)・是長(07:15)・美能(07:25)・三高(07:40)・大須(-)・似島(-)・宇品(08:00)・・・です。

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港の中央部に建つ、番船積み出し用の農産物一時保管倉庫です。

最盛期には数隻の番船が目ざし状に並び、舳先から渡した踏板を通ってミカンやスイカ、ダイコンやイモ、キュウリやナス、トマト、キャベツなどなど、隣の番船と競争で積み込まれていました。

ちなみに帆船時代の番船(農産物運搬船)は、広島(本川橋 集散場)までを通常3日で往復、冬場の悪天候だと1週間かかることもあったが、発動機船(トントン船)となってからは2日、昭和30年代にディーゼル船となって、やっと日帰りができるようになったと云います。

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荷揚げ広場から海底へと続く急なコンクリート製の階段は、雁木(がんぎ)と呼ばれる港湾設備で、竜宮城へと続く階段ではありません。

当地は4m近い潮の満ち引きがあり、丈夫な鋼鉄製で浮力のある浮き桟橋が一般的となる前は、このように石やコンクリートで階段を作り、潮の満ち引きに影響されることなく、船からの荷揚げや積みこみ作業をおこなっていました。

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手前のレール状に木材が取り付けられた斜面は、船の修理や船底掃除などをするためのスベリです。
その先にコンクリートで階段状に造られた雁木(がんぎ)がみえます。
最奥に見える大きな建物が、農産物の積み出し品を一時保管庫したり、船から荷揚げした物資を保管する倉庫です。

古くからの港にはこの三点がセットとして必ず造られていましたが、船(番船)による農産物や物資の輸送が無くなったことから、倉庫をなくして駐車場に、雁木は港湾改築でコンクリートの下に埋められ、代わりに浮き桟橋が繋がれるようになりました。

スベリは今も使われていますが、多くの船は整備会社に一任し、船長自らが修理したり船底のペンキを塗ったりすることは少なくなりました。
また、小型船などはグレーンで持ち上げ、台車に乗せて保管場に移動してから点検整備を行います。

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港として、最低限必要とされるのが防波堤です。
古い時代に造られた多くの防波堤が取り壊されたり、新たに築かれた荷揚げ場の下に埋もれたりしていますが、ここには旧畑港当時の防波堤が今も残っています。

天下の大阪城桜門には蛸石と呼ばれる大石(5.5m×11.7m 推定重量130t)、京橋口には肥後石(5.5m×14.0m 推定重量140t)などなど、とてつもなく大きな石を使った工事がなされています。
(ちなみに、蛸石は備前犬島から切り出された花崗岩、備前石は讃岐小豆島の花崗岩、ともに工事担当者は岡山藩主池田忠雄です。)

このような国家規模の一大プロジェクトであれば数十トンの大石を運搬し正確に設置する技術もあったようですが、漁港の防波堤工事にお殿様が威信をかけるはずもなく、大型重機の無い戦前であれば、2、3人の石工さんが滑車やカナテコを使って動かせることができる、最大でも数百キロ程度の石で築かれます。

ちなみに花崗岩の比重は約2.7ですので、50cm四方の石だと340kg、普通石垣に使用される表面が50cm角の四角錐だと重量も110kg程度で、この防波堤もそのような重量の石を集めて構築されています。

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古い防波堤の上にコンクリート柱が立てられており、側面に字が読み取れます。

昭和十二年??竣工
工事請負者
倉橋島 中川己之助・中川九?

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岬の突端付近に、煉瓦とモルタルで作られた、燃料保管庫と思える建物があります。

使用されている灰色の煉瓦はおそらく「炭滓煉瓦」とよばれるもので、大正時代に宇部・小野田で石炭灰(石炭ガラ)を利用して作られた無焼成煉瓦では???と思いますが???。

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燃料保管庫?の壁から送油管らしきパイプが突き出ています。

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畑港を北風から守る、岬突端部分の花崗斑岩です。
この花崗斑岩は江田島の基盤となる呉花崗岩の割れ目に貫入した岩脈で、呉花崗岩よりもやや風化に強く岬や山の稜線部分を形成することが多い岩石です。

その固い花崗斑岩に、海風と砂によって半球状の穴があけられています。
岩をここまで穿つには、さて、幾千年の年月ぞ・・・(*^。^*)です。
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