美能集落の南にあるのが「美能外海漁港」です。
砲台山林道の中腹から見た美能集落と外海漁港です。
外海漁港は冬の北風には強いのですが、台風による南からの風波はまとも影響します。
今に見る防波堤が完成したのは平成14、5年の頃ですが、その直後の平成16年(2004年)9月に発生した台風18号の記録的な破壊力により防波堤先端付近の巨大なコンクリートブロックが根こそぎ倒壊、あらためて台風の恐ろしさを思い知らされることとなりました。
(翌年修復され、より堅牢な防波堤とされました。)
美能漁業協同組合です。
玄関脇に、代理業務のご案内として、沖美町収納代理金融機関・中国電力電気料金収納事務取扱店・日本電信電話公社収入金収納事務取扱店・日本放送協会送受信料収納事務取扱店・水道料金収納事務取扱店と書き出されています。
美能農業共同組合や簡易郵便局が業務休止となった今、頼れるのは美能漁業協同組合のみとなっています・・・(*^。^*)です。
港の背後には小径を挟んで、美能漁業協同組合と美能農業協同組合(現在休業中?)の建物が並びます。
元は長大な砂浜だったところですが、外海漁港を作るにあたり大きく埋め立てて荷揚げ場兼作業場ともなる大広場をつくり、その一角に漁協(JF)の燃料給油ステーション(兼ガソリンスタンド)も作られました。
さすがにJFの給油ステーションです。
船に給油するために岸壁まで燃料パイプを延長し、船から見える位置に燃料給油量の電光表示盤が取り付けてあります。
さらには給油ホースが浮き桟橋まで延長されており、カード式決済が可能なセルフ給油ができるようになっています。
昭和57年7月15日まで運行されていた高速連絡艇、「沖・是長・美能・三高・大須・似島・宇品」航路の美能桟橋待合所です。
内部はまだ綺麗で待合所として使えなくもないのですが、今現在は回収した新聞紙などリサイクル品の一時保管庫となっていました。
在りし日の、沖・宇品航路(畑港沖)を疾走する高速連絡艇「千鳥」です。
「第一千鳥」の要目です。
進水 昭和47年3月
トン数 27.03T
馬力 282PS
定員 34人
船体 鋼製・軽合金
船価 2,120万円
建造 三保造船所
昭和55年1月に日商岩井(株)に売却・・・です。
そもそも明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が鋼鉄製62トンの蒸気船「海勝丸」を運行したのが当地近代定期航路の始まりであるとされますが、以後昭和57年の沖・宇品航路廃止までにはいつの時代にも様々な問題が多発、地域住民の誰にとっても有効となる交通の便を計るのは今も昔も一筋縄ではいかぬようです。
画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。
港の最奥に、電機モータ巻き上げ式のスベリが設置してあります。
漁船の船底掃除(カキ落とし)や船底用塗料の塗り替え、推進装置や舵の点検に使用されます。
港内の様子です。
牡蠣筏も余裕で係留できる大きな港です。
荷揚げ岸壁のほぼ中央部に魚魂碑が建てられています。
衆議院議員 灘尾弘吉 書
大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり。
我等はこの生命の上に生活を築き、今日の繁栄をみる。
願はくば魚介の霊よ安らかに。
ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す。
昭和五十六年三月吉日
美能漁業協同組合
組合長理事 三浦裕直
昭和50年1月の美能外海漁港です。
連絡船着岸岸壁となる、スベリ傾斜のある防波堤がみえます。
国土地理院よりコピペした昭和37年7月の美能地区中心部です。
画面上部が美能内海漁港で、下部が美能外海漁港となります。
港湾施設はとても貧弱で、小舟の多くは当時もまだ砂浜に引き上げていました。
内海には江戸時代に塩田の防波堤補強用に植えられた松並木が続いており、白砂青松、まさに童謡に歌う歌詞そのまんまです。
♪ 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ ♪
♪ 干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ・・・(*^。^*)です。
胡子神社の脇に「波止修築之碑」が建ちます。
裏面は読み取り不能で修築時期は不明ですが、おそらくは昭和42、3年頃だろうと思います。
その時に増設された防波堤兼荷揚げ用岸壁です。
正確に切りそろえた花崗岩が隙間なく積み上げられています。
近年の漁港は浮き桟橋全盛、多くの船が便利な浮き桟橋に付けられていますが、丈夫な浮力材が無い時代、小舟は砂浜に引き上げられ、大型船は沖合いでブイ係留または錨を落として停泊しました。
積み荷の搭載や陸揚げの時だけ岸壁に付けるのですが、潮の干満差が4mもある当地では斜めに勾配をつけた波止、あるいは雁木(がんぎ)と呼ばれる階段状の岸壁が利用されました。
この港が改築された昭和40年代は、まだ雁木が普通に使われていたのでしょう。
画像は昭和50年1月です。
美能松原はまだ青々として元気いっぱいに枝を張り出しています。
それまではてんでに作業場を設けていた牡蠣生産者さんを集めた、カキ打作業団地も完成しています。
現在の美能松原です。
百数十本はあったといわれる松並木は皆無となり、代わりとなる木々が植栽されています。
陶板にプリントした「美能松原公園」の文字が、かっての情景を漂わすのみです。
碧い海に白い砂浜、その浜に添うように緑の松原が続く、総数百数十本もの大きな松の木のある景色は実に素晴らしく島の人々は勿論、沖を通る船の人達にもよく知られていた。
江戸時代の中頃、河野氏が移り住んで塩田を開拓し、潮止めの堤を築き堤の強化を計って松の木を植えたのが、この松原の松であった。
その松は百四、五十年も過ぎて巨木となり、堤を守ると同時に防風林として、住民の家屋を守りまた、夏は涼風を呼ぶ憩いの場として人々に愛され親しまれて来た。
特に、戦前海水浴場として賑わい栄えたこの浜は、戦後時の移り変わりと共に、大きな漁港となり、松は酸性雨と平成三年の台風十九号による風と塩の害を受け更に松食い虫で残念ながら終に一本も残らず姿を消し、唯松原の名のみ残ることになった。
これを惜しみ昔日を偲んで、この所に若木を植えて公園を造り、松原公園と名付けて後世に伝えんとするものである。
陶板にプリントされた、県道36号線に沿う松並木です。
撮影は昭和60年頃?で、海岸の側から南の集落方向を写したものです。
砲台山林道中腹から見た現在の美能内海漁港です。
画像中央部の、もと陸軍兵舎?があった跡地は戦後GHQに、さらに三高小学校美能分教場(昭和26年5月から29年3月?)として利用されましたが、その後は町民グラウンドに、そして今は沖美ふれあいセンター(町民の福祉の増進と、健康で文化的な魅力ある町づくりをめざし、集う・学ぶ・健やかの3部門を中心に建設したもので、地域福祉の拠点、並びに芸術・文化・交流の場として親しみやすい機能的内容の充実した施設です。)となっています。
昭和40年代に改修された雁木の前に舫われた漁船、手前の船は、刺網(建網)漁やタコ壺漁、アナゴ漁仕様の漁船、右手の方には小型底引き漁船が泊めてあります。
沖美町史によれば、当地は古くからナマコ漁が盛んにおこなわれており、江戸期に紀州漁師の指導によりイワシ漁(鰯網)が始まり、他に一本釣り漁・しばり網漁・うたせ網漁・たこ壺漁・貝堀り・カキ養殖・真珠養殖など魚種に合わせた多彩な漁法が発展しました。
牡蠣(カキ)の生産高で全国一位、二位を競う江田島市にあっても、沖美町の美能魚協と三高漁協の牡蠣生産量は群を抜いています。
先年、堅牢長大な防波堤を持つ近代漁港に大改築された、美能内海漁港の港内には何台もの牡蠣養殖筏が係留されており、新規の養殖準備作業が着々と進められています。
牡蠣打ち作業場とその前に泊まる、揚収牡蠣の運搬船(カキ船)です。
この壮大な景観はもはや漁業のレベルを脱しており、牡蠣生産工場といった雰囲気・・・(*^。^*)です。
浜には牡蠣筏の材料となる、孟宗竹と間伐杉の丸太が準備されています。
戦前に造られたであろう波止の突端に小さな漁師小屋が立っています。
二畳ばかりの小さな小屋の中にドラム缶で作った竈(かまど)が置かれています。
その焚口の奥で、くべられた薪が燃え尽きる寸前、最後の炎がポッと小さく上がりました。
季節は3月、早朝の漁から帰った漁師さんがしばし暖をとり、世間話を終わって家に帰ったのでしょう。
今さっき、押し車に寄りかかるようにして通り過ぎていったお婆さん、薪が最後まで燃え尽きるのを見届ける火の番を引き受けていたんでしょうね。
この日、春の日差しが快い一日でした。
画像は知人の船長さんから頂いた昭和5年の海図です。
現在「大奈佐美島(オオナサビシマ)」と呼ばれる島は当時「大那沙美島(オオナサミシマ)」と、「絵の島」は「小那沙美島(コナサミシマ)」と記されています。
さらに現在の岸根鼻(ガンネハナ)は神禰鼻(カリハナ)と記され、櫓石(ヤグライシ)は昔、冠石(カフムリイシ)と呼ばれていました。
地名って、こうも簡単に変えても良いものなのか心配になってきます。
昔からの地名である、流れ田や崩れ谷を削って均し、希望が丘とか桜ヶ丘と名付けて団地造成などされたのでは、先人の苦い経験をせめても地名でもって語り継いだ努力が、たかだか五十年に一度の大雨で濁流となって押し流されてしまいます。
印象の悪い地名ほど、後世に正しく広く延々知らしめるべきだと思うのですが・・・(^^;)です。
砲台山から見た櫓石、中ノ瀬灯標(虫眼鏡がないと・・・)、大奈佐美島、絵の島です。
手前は美能内海漁港、左奥が宮島です。
登山道中腹から見た、手前グリーンの灯標が立つ岩礁が「中の瀬」、画面からはみ出して左右に広がる島が「大奈佐美島」、僅かな海面を挟んでその先の小島が「絵の島」です。
絵の島の山頂34.9mに白い灯台が見えます。
昭和22年3月の「大奈佐美島」航空写真です。(上下方向が南北ではありません)
左上に人工物(小さな点が5つ?)が見えますが、これは明治33年(1900年)に完成した大奈佐美島砲台の一部分です。
現在でも構造物の多くが残っていますが(ネット情報)現地探索はかなりしんどいみたい・・・(^^;)です。
ほぼ同じような構造物である三高山堡塁が砲台山に整備された状態で残っていますので、そちらのご見学をお勧めします。
ちなみに砲台としては大正15年にその役目を終えましたが、その後も一部は軍用地として残り、先の大戦終結後には、武装解除で集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。
大奈佐美島の所有権者など詳しくは不明ですが、昭和45年頃より、広島宇品近辺の埋め立て用土石の採取場となり、まさに蚕食鯨呑の在り様です。
宇品港、呉港からの大型艦船が唯一航行可能な、美能岸根鼻と大奈佐美島(中の瀬)との間、奈佐美瀬戸の有効航路幅は500m以下です。
「呉軍港第三区洋上防衛ライン(現広島湾北部地域)」を突破、猪(鯨)突猛進中の潜水艦・・・(^^;)です。
ちなみに対岸である宮島町腰細浦には、花崗岩製で24㎝角、埋込み部分を含めた全長230㎝の軍港第三区境石があるそうです。
探せば鶴原の豪頭鼻付近にも同じ標柱が残っているかも???です。
大奈佐美島の海岸に明らかに人工物と思われる洞窟が暗い口を瀬戸に向けています。
おそらくは先の大戦終盤、敵艦艇の湾内進入を阻止する特攻兵器を隠していたのでしょう。
同じような洞窟は絵の島にもあります。
画像は大奈佐美島島の北に浮かぶ「絵の島」、もとの「小那沙美島」です。
大正末期のころよりリゾート地開発が始まりましたが、宇品港や呉軍港に近い要衝の地であったことから軍部による干渉が付きまといました。
戦後はGHQの保養地に指定されていましたが、昭和28年に瀬戸内海汽船(株)が島を買い取り、海水浴場として利用されました。
ちなみに、島名を「絵の島」としたのは昭和36年、最盛期には年間8万人以上が訪れましたが、平成2年に閉鎖されたといいます。
画像は「沖美町史(平成元年3月31日発行)」よりのコピペ画像です。
愛知県犬山市にある「明治村」に展示のこの灯台は、小那沙美島(絵の島)にあったもので、明治37年から昭和39年までの60年に渡り付近を航行する船舶の安全を見守っていました。
以下は明治村の展示物説明文からのコピペ・・・m(__)mです。
この燈台が造られたのは、日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されました。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっています。
4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmでした。
ちなみに、現在ある灯台は「安芸絵ノ島灯台」と呼ばれます。
色は白色 でコンクリート造り、灯は単閃白光で毎4秒に1閃光、光度は560カンデラ、光達距離、約14.85km 、高さは平均水面上から灯火までが49m 、地上から構造物の頂部までが13.98mだそうです。
画像は岸根海水浴場の西、渚から百数十mばかりの沖合にドッカと腰を据えた「櫓石(ヤグライシ)」、古くは「冠石(カフムリイシ)」とも呼ばれた花崗岩岩塊です。
夏場には岸根海水浴場を訪れたお客さんが何人か岩上で日光浴を楽しむ姿も見られますが、付近は奈佐美瀬戸の潮流が複雑に混ざり合いますので水泳上級者専用、たどり着けた人にだけの冠石・・・(*^。^*)です。
櫓石の向こうは、大竹、岩国のコンビナート、右に宮島、沖を行くのはヘリコプター搭載護衛艦「いせ」です。
奈佐美瀬戸の最狭部をさらに狭くする「中の瀬」の岩礁に立つ「中ノ瀬灯標」です。
この「中ノ瀬灯標」の初点灯は、明治36年4月1日ですので、「安芸絵ノ島灯台(明治37年3月1日)」よりも一年早く完成、灯標の本体はコンクリート造りで明治36年に造られたままの姿で現在も使用されています。
灯塔の海抜は約2.5メートル、頂部まで約15.0メートルです。
基礎の外径が5.3メートル、灯塔基部外径は約4.8メートルです。
建設当初は石油燈でしたが、大正9年にガス使用に変更、昭和43年に電気、昭和61年からは太陽光発電となりました。
昭和61年8月に、塗色が黒色から緑色に変更され、灯はモールス符号D緑毎8秒、光度120カンデラ、光到達距離は約10Kmです。
釣り好き船長さんが写した画像を拝借・・・m(__)mです。
灯標上部を改造して、ソーラーパネルが取り付けてあります。
記録に残る最も古い灯台は紀元前7世紀ナイル川河口、寺院の塔上で火を焚いたとされます。
紀元前279年にエジプトのアレキサンドリアに建てられたファロス灯台(アレクサンドリアの大灯台)は高さが134mもあり、灯火は56km先まで届いたとされますが、796年の地震で半壊、その後の地震や要塞の建設により消滅したと云われます。
日本での記録は承和6年(839年)で、九州地方の岬や島端に狼煙(のろし)や篝火(かがり火)を焚き遣唐使船の帰路を誘導したとされます。
江戸時代以前にも主要な港には石造りの台をもうけ、その上に小屋を建て中で火を焚く、「かがり屋」がありましたが、慶長13年(1608年)日野長兵衛が能登の福浦港に建てた石造りの「灯明台」は、日本初の光源に油を使った灯台であったと云われます。
さらには代々灯明役であった日野家、日野吉三郎が明治9年(1876年)高さ5mの三層西洋式木造灯台を建造、日本最古の西洋式木造灯台として石川県指定史跡となっています。
これら地域の有力者が建てたとされる「灯明台」や「常夜灯」は明治初年、全国に百基以上があったとされます。
ちなみに、現在に見る西洋式灯台の最初は、神奈川県の観音崎灯台で明治2年1月1日に点灯、当初の光源は石油ランプでした。
灯台用の光源としては、薪を燃すかがり火や松明、油やローソク、石油灯(落花生油・パラフィン油・鯨油・石油)、ガス灯、アーク灯、タングステン電球(窒素・アルゴン)・水銀灯・ハロゲン電球、メタルハライドランプ、LEDなど時代や地域、灯台ごとにありとあらゆる光源が使用されてきましたが、近年になり太陽光発電(ソーラーパネル)によりバッテリーを充電しLEDを点灯させる方式がもっともポピュラーとなっています。
美能地区内にお寺はありませんが、地区中央部の一等地に「美能説教場」が建立されています。
車寄せ風に張り出した玄関は間口も広く、説教場としては立派な造りとなっています。
導師様は何処から来られるのか?、予定表とかは張ってなかったのですが、もっとも近いお寺なら高祖の光照寺、あるいは三吉の徳正寺からでしょうか???
この日とくに説教日とかではないようですが、玄関まわりは綺麗に掃き清めてありました。
鐘楼は災害時の警報も兼ねて?鉄骨で組まれた高い櫓の上に取り付けてあります。
この高い位置に付けられた鐘を叩くには普通なら、梯子をのぼって・・・ってことになりますが、実はこの鐘、梯子をのぼらなくても叩けるよう、驚きの工夫が施されています。
鐘を叩くハンマーに長い柄が付けられており、その真ん中辺に支点があってシーソーのように下の方を引っ張ると、ハンマーは反対方向に揺れて、ガァ~~~ン、ガァ~~~ンと・・・(*^。^*)です。
美能集落から高祖へと向かう県道36号線に亀原と書かれたバス停標識がありました。
江戸時代の古地図にはこの付近に祠があり明神と記されています。
もしや、その名残があるやもと付近を見まわしますと、道路のり面の上に祠があり、小さなお地蔵様が安置されていました。
江田島市内に亀と名の付く地名はいくつかありますが、そのどれもが神社神域や城など要衝地に付けられています。
美能の亀原について、沖美町史や能美島志に記載はありませんが、芸藩通志のみ絵図面に明神と書かれています。
さらに、偶々のこととは思えない位置、西に300mばかり離れて鶴をイメージする鶴原なる山があります。
鶴原と亀原、なんとも目出度い地名が・・・(*^。^*)です。
亀原バス停から数十mの位置に安置された、愛らしい雰囲気が漂うお地蔵様です。
鶴原砲台山の麓、固い岩盤に掘り込まれた防空壕の前には座像のお地蔵様が安置されています。
付近には他にも数本の防空壕が掘られており、ここ鶴原に安置のお地蔵様が昔からあるものなのか、あるいは先の大戦下、防空壕の建設や空襲により難をおわれた方々を弔うものなのかは不明です。
いずれにいたしましても、鶴原のお地蔵様に深く一礼、そして亀原に向かいましてさらに深く一礼・・・m(__)mです。
西能美の北西端、美能内海漁港には花崗岩の立派な玉垣をめぐらして「美能胡子神社」が建ちます。
現在は此の地を沖美町大字美能と称しますが、古くは高祖村箕尾浦(みのおうら)とも美濃ともよばれ、高祖村の一部でした。
昭和31年の沖美町成立に合わせ大字美能としました。
美能内海漁港の奥、元塩田防波堤の上に建立されたピカピカの胡子神社です。
美能地区の主要部は、島だった鶴原山(107.2m)の付け根部分を埋めた砂州を干拓したもので、その干拓地の南北両側に港をもちます。
胡子神社のあるのは美能内海漁港で、魚魂碑のある南(是長)側が美能外海漁港です。
この付近よりも陸(南)側には、江戸時代中期に竹原より移り住んだ河野家(播磨屋)が、広い塩田を開き製塩業を営んでいました。
品質的には良くなかったようで(背後の山林が貧弱で、塩釜で煮詰めるための燃料不足から?)、能美島志(1763年)では「高貴の人の食に堪えない」と酷評されました。
その塩田の防波堤を補強するため百数十本の松が植えられ、その白砂青松を「美能松原」と称賛されるとともに集落を風波から守っていましたが、松枯れや平成3年の19号台風の被害を受け、ついには全滅となりました。
神社を訪れたのは春3月でしたが、正月用に張られたしめ縄がほぼそのままに残っていました。
社殿脇に建てられた、建立寄附者の芳名を記した銅板が陽光にまぶしく輝きます。
美 能 胡 子 神 社 建 立 寄 附 者 御 芳 名
平成17年9月吉日建立
建築施工 谷本建築
芳名者五十音順
金 参 拾 萬 円
寺本昭登
金 弐 拾 萬 円
垣内厳・久保河内克彦
金 壱 拾 萬 円
大越睦行・垣内隆二・久保河内鎭孝・久保河内進・河野憲三・坂田幸信・重松建設(株)・ダイユウ技研土木(株)・三高運送(有)・三高鉄工(有)・山勝建設(株)
(株)ユービィーケイ
金 五 萬 円
大越善美・久保河内慶・久栄建設(株)・河野祥和・(株)大新土木・寺本龍二・三戸充
金 参 萬 円
垣内仲仁・河野春登・山本勇二
金 弐 萬 円
後河内千秋・後河内友喜・大越敏弘・大越則秋・大越秀成・大越英樹・大越道政・垣内宏・勝田啓敏・勝田覚・勝田弘・勝田正弘・川崎照秋・久保河内力・河野孝明・河野成明・河野道孝・谷本貞夫・東和科学(株)・増田喜代信・松岡修・丸本久清・三浦美行・三戸直樹
金 壱 萬 円
市谷シズコ・石田勝活・後河内信枝・後河内浩・後河内学・後河内義明・上向吉臣・沖本誠・大内一二三・大越勇・大越泉男・大越勝博・大越数幸・大越サカヱ・大越真也・大越艶子・大越積・大越敏春・大越信夫・大越秀道・大越保則・大越博喜・大越正樹・小川電機(株)・垣内哲夫・垣内英子・勝田哉也・勝田浩一・勝田誠・勝田康彦・川崎一義・川崎真司・川崎誠司・川崎博美・川崎法人・川崎佳彦・久保河内香・久保河内勝見・久保河内清人・久保河内武・久保河内忠・久保河内忠一・久保河内博美・久保河内忠正信・久保河内満弥・久保河内六十・久保河内ヤエ子・久保田進・河野考也・河野武浩・河野秀明・河野善行・河野幸雄・坂田浩二・武田民子・田中啓伯・谷アサノ・谷本爽一・谷本信明・寺本繁樹・寺本紀昭・東昭三・東雅信・畠山尚・原庸介・広永博美・広永弘・広永光正・三浦篤務・三浦一幸・三浦繁之・三浦威・三浦達彦・三浦広和・三浦悟文・三浦政寛・三浦政秋・三浦正信・三浦正也・三浦義秋・三浦ミエ子・三戸美俊・松岡則文・水口順子・山路昇・山本光雄・山本俊幸・脇西薫・和田道則
誤字脱字などありましたら・・・m(__)mです。
社殿正面に立たせていただき、二拝二拍手一拝 ・・・m(__)mです。
標柱の裏面には「美能漁業協同組合」「新生活運動推進協議会委員」「平成十七年九月吉日」と彫られています。
ちなみに、江田島市内の神社では一般的に見る鳥居ではなく、石柱二本だけが建つ標柱が多く用いられています。
一説には、鳥居形式への発展前段階であるともいわれますが、広島県神社庁の説明では・・・
以下はコピペ文・・・m(__)mです。
標 柱 (しめばしら)
皆さんが神社を訪れたときその入り口に 、むずかしそうな文字が刻まれている、一対の石柱を目にされると思います。
しかし、一般にはその 読みや意味がなかなか理解しにくく、あることは知っているものの、余り読む事を意識されてないのが実情であろうと思われます。
この石柱は 「標柱(しめばしら)」 といい、そこに彫られた語句は 「宣揚文(せんようぶん)」 といいます。
この「標柱」というものの建立は全国的なものではなく、瀬戸内に多く、中でも広島県が圧倒的に多くその数約1千百社、1千五百対(平成10年)あるそうです。
「宣揚文」 を刻む目的は五穀豊穣祈願、国家繁栄祈願、凱旋記念、神社の改装記念、中には個人的な記念などもあるようです。
江田島市内においては単に神社名が彫られることが多いのですが、唯一、能美八幡神社と深江荒神社には石鳥居に加え、その前面に宣揚文を深く刻んだ大きな標柱が建ちます。
「深江 荒神社」の宣揚文には「刀兵不能害」「水火不焚漂」とあります・・・(*^。^*)です。
玉垣の外から胡子神社の右側面です。
砲台山登山道中腹から見た美能内海漁港、画像右上の島は大奈佐美島、左上に宮島弥山が見えます。