光照寺本堂の正面にそびえる小丘の頂きに、「釈迦堂」が建ちます。
小丘の頂部を平らに削ってつくられた釈迦堂の境内は、「花祭り」を翌日に控えて、紅白の横断幕が張られており、さらに万国旗が天高く掲揚されていました。
釈迦堂の外壁には漆喰が厚く塗られており、全体が土蔵のようにがっしりとした造りになっています。
釈迦堂の正面です。
残念ながら開き戸は閉まったままとなっていましたが、正面に立ち「合掌」・・・m(__)mです。
大正9年の改築時に、昔からの言い伝えを文字として残すべく「大正九年 五八〇年前」と書いた額を奉納したと云います。
言い伝え通りであれば、創建は1340年頃となり南北朝時代前期、かの後醍醐天皇没年の前後となります。
ちなみに、現在のお堂は昭和52年に改築されたものです。
上記絵図は「芸藩通志(1825年)」から高祖村の一部分をコピペしたもの・・・m(__)mです。
「能美島志(1763年)」では、「西方寺これ高祖村にあり、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の像あり、土人毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、記されています。
能美島志から60年ばかり後の芸藩通志絵図では「西方寺跡」とはっきり記されており、その横に「シャカ?」と読める?建物が描かれています。
その下に見える「社倉」よりは小さく、左の「荒神」とは、ほぼ同じ大きさで描かれていますので、「荒神」様と同じようなお堂が建てられて、堂中に「シャカ?」が安置されているのでしょう。
西方寺の釈迦牟尼仏は「土地の人、毎年9月15日をもってこれを祭る。」と、特記されるくらいに有名な釈迦像です。
西方寺が廃寺となったのち、釈迦堂をもうけ「釈迦牟尼仏」を安置するのは至極当然のことです。
ただ、お堂の位置は現在釈迦堂がある位置よりも山手側に描かれています。
後年となって、現在の小丘頂きに移転したものと思われます。
「沖美町の文化財をたずねて」よりコピペの釈迦堂「釈迦如来像」・・・m(__)mです。
釈迦像はおよそ670年の歴史を持つとされ、台座を含めての高さ約80cmで、お釈迦様が悟りを開いた時のお姿(正覚像)を写したものです。
柔和なお顔立の頭部や、膝の上に置かれた手などの一部には制作当時のものと思われる顔料が残りますが、多くは剥げ落ち、各所に虫食いの跡も残ります。
今も4月の花祭りには甘茶がかけられており、地元の方々の深い仏心により大切に守り続けられています。
釈迦堂の大きさに比べ、境内は十分すぎる広さで整地がなされています。
明治8年7月、高祖小学校の前身である「観善館」が高祖宝原阿弥陀堂に造られたと記録がありますので、あるいは明治のころの高祖小学校用地であった?やも??・・・です。
高祖漁港の防波堤から見た高祖の集落と、その中央部となる小丘に乗る釈迦堂の杜です。
県道36号線から坂道となる路地を山手に100mばかり登った先に、真宗木辺派の寺院「光照寺」があります。
ちなみに真宗木辺派とは、滋賀県野洲市の錦織寺(きんしょくじ)を本山とする浄土真宗の一派です。
上り坂の細い路地を曲がると突然に鐘楼門が現れ、門上に「光照寺」と墨書された寺額がきらめきます。
この日は、お釈迦様の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)を数日後に控えており、門の両脇には仏旗が揚げられ春風に揺れていました。
ちなみに、お釈迦様の生涯、誕生、入滅の年月日には所説ありますが、日本では一般に4月8日を釈迦生誕の日とし、入滅日は不明のままとされています。
お釈迦様の生誕日をお祝いする名称も、地域や宗派により、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)、花会式(はなえしき)、花祭(はなまつり)など様々・・・(*^。^*)です。
鐘楼門をくぐり、本堂の前で合掌・・・m(__)mです。
高祖には江戸時代中期の頃まで「西方寺」があったとされますが、芸藩通志(1825年)高祖村絵図ではすでに西方寺跡と記されております。
その後、釈迦堂のもとに小さな草庵を設け仏の御教えを乞うていましたが、明治の中頃に改築して現在の本堂を成し、真宗本願寺派「高祖説教場」としました。
さらに昭和47年9月、新たに寺号認可を受け木辺派「光照寺」となって現在にいたります。
鐘楼門の横につくられた掲示板に、花祭り参集の張り紙がありました。
光照寺本堂の前に小さな丘があり、その頂部を平らにして釈迦堂が建ちます。
丘の上、釈迦堂境内から見た光照寺本堂の大屋根です。
今に見る光照寺本堂は、明治22年(1889年)真宗信徒らが寄贈した五百円余をもって、それまでの草庵から一大伽藍へと再建したものです。
グーグル地図に見る、貴船神社、光照寺、釈迦堂の位置です。
画像の上が高祖漁港となります。
江田島市内の神社拝殿に天井が張られることは珍しいのですが、さすがに広島は三滝から移築された拝殿は立派なものです。
天井の造りだけを見れば江田島市を代表する、三大神社「江田島八幡宮」、「大原新宮八幡宮」、「能美八幡神社」よりも豪華で華麗な造りとなっています。
これで、天井枡の一区画ごとに花鳥画などが描かれていれば、広島県の文化財級扱いとなったかも???・・・(*^。^*)です。
正面の格子戸も、い・い・で・す・ねぇ~~~。
拝殿内にはあまり多くはないのですが、奉納品の数々が揚げられています。
昭和61年10月に、山田建設さんが奉納したもので、世界で一番美しいとされる、チリ海軍の鉄製4檣の練習帆船「エスメラルダ」です。
1954年就役、全長113m、排水量3,653トン、マストは4本、57mm砲2門を搭載し、士官候補生90名、水兵300名を乗せ練習航海で世界を廻ります。
撮影された時期ははっきりしませんが場所は江田島湾内で、バックの建物は旧海軍兵学校、現海上自衛隊第一術科学校内のポンド付近です。
奉納者、奉納時期は不明ですが額内に「文明」のサイン?が見えます。
当地の氏神である能美八幡神社の祭礼で奉納する演目の一つ、「だいば」を舞う勇姿を描いたものです。
奉納、大正15年8月吉日
「下記の八名は七月十八日夕方 廿日市沖にて難船したる女を見て救助したるものなり」
惣田真一・山尾実人・山尾時松・鍵本正夫
浜田清松・名 不 明・吉田繁人・迫田桊造
と、あります。
拝殿の隅に米俵が九俵積んであります。
積む気があればもう一俵載せて、十俵とすることもできると思いますが・・・。
な~~~ぜ、九俵な~のかぁ~ ??? ・・・(^-^; です。
奉納日、奉納者の名はありませんが、おそらくは広島市 藤本正氏の奉納画であろうと思います。
昭和11年以前の旧拝殿屋根を飾っていたであろう鬼瓦???・・・
と、思ったのですが屋根を見上げると、新しい感じがしますし、おそらくは近年になって屋根と天井が作り変えられているのかも???・・・(*^。^*)です。
と、するとこの鬼瓦は海の向こう、広島市三滝からの贈り物???です。
屋根を支える寄木丸太が丸見えの、荒々しい天井も迫力があって良いのですが・・・
貴船神社の拝殿は実に落ち着きのある上品な天井です。
花鳥画ではありませんが、結構な銘木が板にされ枡内に張られています。
ぶっとい梁材にも緻密な木目が素敵に跳ね踊っています。
境内忠魂碑の裏側に御神体の予備として、花崗岩で丁寧に仕上げた石の砲弾が一個隠してあります。
万が一の実戦にも使える?ように、真鍮の弾帯が取り付け可能な溝までもが正確に掘り込まれています。
ドカ~ンと景気よく やってみよぉ~ぉよ♪
死に物狂いの 明るさでぇ~~~えぇ~~♪ ・・・(*^。^*)です。
高祖(こうそ)地区は、東側を三吉と接し、西側を美能、南を是長と接する西能美島北端に位置します。
高祖の守り神でもある「貴船神社」は三吉との境界に近い高祖地区の東端に建ち、境内の目の前を県道36号線が横切ります。
鳥居の前を東西に走る県道36号線上から見た貴船神社です。
木々が芽吹く前、4月初旬の貴船神社です。
貴 船 神 社 の 由 来 として、以下は「沖美町の文化財をたずねて」よりの引用・・・m(__)mです。
高祖(こうそ)の海岸に、海上業者の守り神として崇められる貴船(きふね)神社があります。
約四百年前の創建と伝えられていますが、今の県道ができる以前は海べりにあって、三吉(みよし)からは海岸伝いに砂浜を踏んで参詣していました。
社殿の裏からは小川が海に注ぎ、その水は出漁者にとって神水として信じられていましたが、今はその痕跡もありません。
明治の頃は九月五日の祭礼日に、網元が「押廻し」といって大きな船を神社の沖でぐるぐる押し回し、神様の乗船を祈願したと伝えられます。
この神社は、昔は竜宮(能美島志)または竜神社(芸藩通志)と呼ばれていましたが、今日地元の人々からは「貴船社」あるいは「ジュンゴの宮」と称され親しまれています。
ちなみに「ジュンゴ」とは、この地域の古い地名であるとされます。
宝暦十三年(1763年)、大原村 農生 久保利右衛門氏が著した「能美島志」には、「竜宮」は高祖村海岸にあり。
楊梅(ヤマモモ)の木ありて土地の人これを龍燈(不知火)という。
時にその樹上に不知火(蜃気楼による怪火現象?)が現れることあり。
子供らがそのヤマモモの実を食べると瘧(おこり)を患う。と、あります。
本殿奥に御神体として安置されているのは石です。
「昔、津久茂の漁師が高祖の沖合で網漁をしていた時、同じ石が何度も上がってきたので不思議に思い、これを此処に置き崇め奉ったところ、その後は豊漁が続いた」と。
又「或る人がこの御神体を持ち帰ろうとして船まで運んだが、船が全く動けなくなってしまい、慌てて元に返した」等の伝説があります。
現在の社殿は昭和十一年(1936年)ごろ広島市の三滝から移築されたものです。
蛇足となりますが、現在の境内にはヤマモモの木は無く、同じ常緑樹の木としてモッコクが植えられています。
1cm弱の球形の実が着き、秋に固い果皮が裂けて中に赤い実が見えます。
野鳥は好物のようですが、モッコクの実を人が食べた話は聞きません・・・(^^;)です。
移築されてからでも八十年の歳月が経っていますが、傷んだ様子など見受けられません。
木鼻を飾る獏の彫刻です。
木鼻には一般に、象(ぞう)・獏(ばく)・獅子(しし)・龍(りゅう)・麒麟(きりん)が彫られることが多いのですが、象と獏はとてもよく似ています。
普通には、象は獏よりも鼻や牙を長く造るのですが、当貴船神社の獏は鼻も牙も結構長く造ってあります。
次には目です。象の目は細く、獏の目は見開きます。
次は耳です。象の耳は団扇のように大きく、獏の耳は尖った狼のような耳です。
次に体毛です。象には体毛は無くすべすべ、獏の体毛は渦を巻いたような突起で表現され、首筋やあご下に沢山の渦が彫られています。
これらいずれも、宮大工さんの好みでアレンジされますので、まあ絶対とはいえませんが・・・(*^。^*)です。
右側の獏は鼻が短くなっており、雌雄を表すのかな?と思いましたが、どうやら長い年月のうちに鼻先が折れてしまったようです。
ちなみに、左右の像形を阿吽とし、阿は口を開いた像形(あぎょう)に、吽は口を閉じた像形(うんぎょう)とすることもあります。
正面を飾る虹梁(こうりょう)や、その上に乗る蟇股(かえるまた)などの意匠にも結構綿密な手が加えられていますし、そもそもの全体としてのバランスがとても安定して素敵拝殿となっております。
拝殿奥、「貴船社」と墨書された社額の下に立ち、「二拝二拍手一拝」・・・m(__)mです。
古い時代の神社名である竜宮・竜神社から貴船社へと変わったことについてのいきさつは不明であるとされますが、揚げられた社額の奉納は明治十八年十月吉日となっております。
拝殿の右側です。
石柱の玉垣に廻りを囲まれ、地域の人々から大切に守られた貴船神社本殿です。
境内には陸軍大将 鈴木荘六 書による大きな「忠魂碑」が建ちます。
忠魂碑背面には
明治27、8年戦役
明治28年7月29日病死
陸軍歩兵一等卒勲八等 三浦勉吉
明治33、4年事変
仝33年10月9日仝
仝上上等兵 仝水戸芳松
仝34年7月16日仝
仝砲兵一等卒 仝岡畑桊一
明治37、8年戦役
仝37年9月2日戦死
仝歩兵上等兵 仝稲見千吉
仝37年10月11日仝
仝上一等卒 仝吉田米助
明治37年11月18日病死
陸軍工兵上等兵勲八等小田杢太郎
仝38年3月1日戦死
仝歩兵仝 仝廣永保太郎
仝?日 仝
仝?上 仝山中?太郎
仝年3月10日仝
仝砲兵助卒 仝山本栄太郎
仝年3月14日仝
仝歩兵上等兵 仝大越福松
仝39年2月11日病死
仝上二等卒 仝後河内梅吉
大正8、9年戦没
大正9年6月4日戦死
仝上上等兵功七級仝河野喜平
以上、墨入れがあり、判読が可能な文字のみの列記です。
誤字、脱字他あれば申し訳ありません・・・m(__)mです。
忠魂碑の建立日は昭和7年3月、その廻りには後の事変、大戦、原爆で死没された、さらに多くの方々の名を刻んだ石板が立て掛けられています。
ちなみに、陸軍大将 鈴木荘六氏は1865年新潟三条市に生まれ、1919年(大正8年) 第五師団長として広島に赴任しました。
1930年退役、1940年76歳で死去されました。
退任後は学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残し、知己の私的世話や郷土の三条、新潟県の公共事業の推進など寸暇を割いて尽力したとされます。
以上、ウィキペディアよりのコピペ・・・です。
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。
コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。
美能地区の部分を拡大掲示しました。
現在の鶴原山(?根)、岸根鼻(カンヌキ?)、大奈佐美島(???山)、絵の島(?)が読み取り不能で表記できないのが残念・・・(^^;)です。
当時、鶴原山と岸根鼻はまだ繋がっていないようですし、高祖と美能間の道路はまだ地図に描くほどのものでは無かったようです。
ちなみに、能美島志(1763年)によれば現美能を箕尾(みのお)とし、その一町ばかり沖に浮かぶ大岩を矢倉石または冠石と云います。
渚干(なさび)島は箕尾の沖十町にあり、小渚干島はさらに八町ばかり沖にあって、大小の小山が寄り添う様子は雌雄のごとしと記されております。(以上、要約。鶴原山、岸根鼻、中ノ瀬の記載はありません。)
美能地区は現在では、江田島市沖美町 大字 美能となりましたが、江戸時代において当美能地区は高祖村に組み入れられていました。
高祖(こうそ)村の東側部分を拡大掲示しました。
竜神社は現貴船神社と呼ばれ、荒神社、シャカ、西方寺は現在の釈迦堂や光照寺に引き継がれています。
「芸藩通志」コピペの元画像です。
昭和37年7月30日に撮影された美能付近の航空写真です。
鶴原山堡塁へと登る軍用道路が再整備された直後の様子で白くくっきりと写っています。
さらに、頂上には航空機誘導電波塔が設置された直後の様子が見えます。
ちなみに、「広島西飛行場」もと「広島空港」が供用開始となったのは昭和36年(1961年)9月15日です。
岸根鼻には海水浴客を運んできた客船数隻が目刺し着けされており、ビーチには沢山の小型船も見えます。
東京オリンピックを2年後に控え、だれもかれも、みんなが一番活気づいていた時期・・・(*^。^*)です。
鶴原山堡塁(鶴原山山頂)へと登る軍用道路は山の北側、岸根鼻砲台へと向かう途中を左折しますが、鶴原山の集落側からも山頂へと登れる農作業用の小道があります。
その小道から見た美能集落の東側方向です。
遠く高祖に近い位置に高さ110mのラジオ波用電波塔が建ち、その右側手前には付近の家々を圧倒して、ひと際大きく建つ沖美ふれあいセンターが見えます。
今は多くの家々が建ちますが、眼下に広がる平地は江戸時代中期から明治の初期には塩田として利用されていました。
美能集落の南側、外海の方向です。
画面右に大きな白い土蔵が見えます。
江戸時代中期に三原より当地に移住し塩田を開発、その経営を担った河野家(播磨屋さん)です。
河野家の母屋(二重屋根)と土蔵です。
草葺だった屋根は瓦に拭き替えられましたが、その他は江戸時代のもの(推定250年)であると云われます。
鶴原山の麓に建つ、河野家歴代のお墓です。
河野家のそもそもは伊予国(愛媛県)にあるとされ、天正13年(1585年)豊臣秀吉に敗れ、作州津山に逃れたのち竹原に移り、さらに江戸時代中期に当地美能(美濃)へと移住、塩田開発を手がけたと云います。
一段と大きく建ち「開郷院観月了喜居士」と深く刻まれたお墓が、美能に移って初代とされる河野通安氏のもので、没年は享保19年(1734年)5月28日です。
押し寄せる台風の荒波を一手に背負い防いだ、昔の防波堤が今も残ります。
堤防兼通路となるその先に美能農協、美能漁協の建物が見えます。
集落内の細い路地に面して森川衣料品店さんです。
お隣も、そのまた先のお隣も、もとはお店?だったようですが・・・。
後河内ストアーさんです。
酒・たばこ・くすり・一般食品・ヤマザキパン・野菜の種・小柴クリーニング・資生堂・江田島自動車学校入校取次所・飲酒運転追放・警察官回寄所・秋の火災予防・・・すべてお任せ下さい・・・(*^。^*)です。
瓦屋根の上に漁に使うロープが干してあます。
しかも、超芸術的なセンスでもって・・・(*^。^*)スッゲー~~~。
「終りの日に 人は神の 前に立つ」人類にもいよいよ審判のときが・・・
「江田島市消防団 第3方面隊 三高分団 美能消防屯所」の脇に、弾道ミサイルの飛来を知らせる高性能スピーカー4基が東西南北を向き、そしてその下に半鐘が一つ・・・
燃えるような色合いをした、ランタナが庭を大きく占拠して咲き誇ります。
ランタナのまたの名を七変化、美能の町がまた華々しく大変化するときが・・・いつか・・・(*^。^*)です。
江田島市の北西端に位置する美能地区は西能美島先端の亀原から砂州で繋がる鶴原山、さらに岸根鼻、瀬戸を隔て大奈佐美島、絵の島へと、島が連なる独特の多島美地形です。
画像左より、鶴原山、砂州を挟んで岸根鼻、瀬戸の向こうに大奈佐美島が大きく広がり、さらに向こうに小さく絵の島がみえます。
左上の大きな島が宮島さんで、その先に霞むのは本土の廿日市から五日市方面となります。
鶴原山と岸根鼻、水面下は当然花崗岩の岩盤で繋がっていますが、目に見える地形はまさに砂州によって繋がった理想的な砂浜です。
この砂浜を「がんねムーンビーチ」と名付け海水浴客の呼び込みを試みてはいますが、昭和の高度成長期にあったような日に数百人の人々が集まることなどは、遠いとおい昔の思い出話となりました。
今は数家族がてんでにプライベートビーチを気取って、のんびりと一日を過ごせる超贅沢な癒しの空間となっています。
そういえばいつの頃だったか、この浜でハンドボールくらいの大きさのヤシの実を見つけたことがあります。
「名も知らぬ遠き島より♪ 流れ寄る椰子の実一つ♪ ふるさとの岸を離れて♪・・・」と、一瞬メロディーがよぎりましたが・・・
たぶん誰かが持ってきて捨てた?か、スーパーの売れ残りがゴミステーションから雨で川に流れ出たりしたものか??・・・
ヤシの実は誰に拾われるでもなく、ただ波打ち際をゴロゴロと・・・(^^;)でした。
ちなみに、上の画像の左でヤシの葉に見えるのはフェニックス(カナリーヤシ)と云われる品種の植栽品で、画像右のヤシの木に見えるのは、同じく植栽されたワシントンヤシ(オキナヤシ)です。
共に果実は小さく、ハンドボールのような大きなヤシの実には育ちません。
美能外海漁港の防波堤から是長へと伸びる海岸線です。
途中、各入り江ごとに小さな砂浜が点在する自然美豊かな海岸です。
亀原を流れ下る小川の川岸に、防空壕にも見える二つの洞くつがあります。
ただの防空壕にしては付近に人家もないし、入り口廻りの崖にわざわざ石垣を積み上げる必要性もないだろうし・・・???。
軍事用施設にしては奥行きが感じられないし、煉瓦の積み方も雑で、強度もいまいちな感じが?・・・。
町史ではこの付近?に煉瓦工場がつくられたり?、戦後には大規模なタンカル工場(炭酸カルシュウムの精製)が操業されていたとされますので、それら工場施設の一部なのかも??? ・・・です。
現在、RCC中国放送局の電波塔が建っている近くの海岸に「石生みの崖」があります。
ちなみに、静岡県牧之原市の大興寺(だいこうじ)裏山にも同じように丸い石を産する崖があります。
大興寺は、今から600年前に大徹禅師によって開山されたと云われ、その大徹禅師が、90余歳で亡くなる前に「わしの身がわりとして裏山より石が生まれるであろう」と言い残して大往生を遂げました。
するとその直後、予言どおりに、裏山の崖からまゆ型の石が生まれ落ちてきました。
弟子たちはその石を建て大徹禅師の墓石としました。
以来、「無縫石」と呼ばれるまゆ型の石は、大興寺代々の住職が往生するたびに必ず生まれ落ちるといいます。
当地の「石生みの崖」には何の伝説も残ってはいませんが、台風や季節風による荒波に削られ毎年数個の丸い石が、誰に見られることもなくひそかに産み落とされています。
「白砂青松」、最近とりわけて海岸が白く見えるのは、花崗岩から風化した白砂ばかりではなく、波に砕かれたホタテ貝やカキ殻の性でもあります。
魚港の荷揚げ場には大量のホタテ貝の殻が積み上げられ白く輝いています。
これら沢山のホタテ貝殻はカキ養殖の必需品(種付け材)として、遠く北海道や東北から運ばれてきます。
漁船の船橋(操舵室)部分を真似て造られた船舶販売修理店の看板?社長室??物置???です。
この看板?が造られた目的や経緯は不明ですが、前面に描かれている2人はヤンボー、マーボーです。
夕方の天気予報で流れていた、「ぼくの名前はヤン坊 ぼくの名前はマー坊 二人あわせてヤンマーだ♪」の・・・(*^。^*)です。
最近では聞かなくなりましたが、実は1959年6月1日から2014年3月31日(広島は2013年3月)まで、55年間も聞いた曲です。
たぶん、歌詞もメロディーも、・・・忘れることは無いでしょう。
ちなみにこの曲の作詞は能勢英男氏で、作曲は米山正夫氏です。
瀬戸の崖上から見た、奈佐美瀬戸を渡る白鳥と碧い海・・・です。
奈佐美瀬戸の最狭部に近づく護衛艦「いせ」と、その後方には韓国籍?のタンカー 「FORTUNE JIWON」です。
海を隔てて僅か10km先には喧騒の広島市街地が・・・。
こちら江田島側、周囲をぐるり360度をくまなく見まわしても、人っ子一人見えません・・・(^^;)です。
砲台場のある稜線を北方向へと下る石段です。
軍事施設であるにもかかわらず、しかもわずか2年ばかりの突貫工事でこんなにも美的なセンスで石段を造ることのできる明治の建築技術に驚かされます。
って、驚かされたのは私だけではないようで、「土木學會選奨土木遺産 2009 旧三高山砲台」って、青銅製の分厚いプレートが埋め込まれた碑が建っていました・・・(*^。^*)です。
ちなみに選奨理由は、現存する最大級の呉(広島湾)要塞の砲台施設。
砲台山森林公園として整備されており、保存状態も良好で学習の場となっている。
・・・と。
砲台場から石段を下った位置に、赤煉瓦と石材、それをコンクリートで補強した建物(地下兵舎)があります。
地下兵舎の屋根部分には分厚く土塁が載せられており、出入口は進攻する敵戦闘艦からは見えない反対方向を向いています。
地下兵舎からさらに進むと調理場やトイレ跡と思える生活空間が設けられています。
三高山堡塁の乗る稜線の最も北の部分に花崗岩石材を素敵に組み合わせて作った火薬庫と称される建物があります。
一時は荒れ果てた建物だったのでしょうが、補修工事がなされており、おそらくは建設当時よりもさらに立派?に復元されています。
建設当時は名称どうり「火薬庫」として造られた建物ですが、近くに炊事場施設があることなどから判断して、広島要塞廃止以降は倉庫あるいは兵員隊舎として使われたのでは?と思われます。
火薬庫は万が一爆発しても被害が最小となるよう屋根はわざと簡素に造られるのだと聞きます。
平成の復元工事は立派すぎた?かも??です???。
季節は春、4月初旬・・・です。
弾薬庫のある敷地は他の施設からはもっとも離れた北の外れですので、見晴らしも最高。
眼下に鶴原山堡塁、岸根砲台、瀬戸を隔て大奈佐美島砲台その先に絵の島と続きます。
目を少し右に向けると三高港とその街並み、沖に浮かぶ似島の安芸小富士(278m)が目線より下に見えます。
稜線を南(砲台山山頂)の方向に登るとそこには南部砲台跡が残ります。
先の二次大戦において、三高山には米軍航空機の夜間攻撃に対処すべく150cm探照灯装置一式や、空中聴測装置が配備されていたと云います。
根拠としては弱いのですが、より高地であること、日中の格納場所が確保できること、南部トイレの構造が新しい?こと・・・などから、おそらくは此方の南部砲台地域に置かれたのでは???と想像します。
右手前が小黒神島、左沖に阿多田島がシルエットとなります。
阿多田島までの距離は約10km、「28糎榴弾砲」がいくら頑張っても砲弾の届く距離は8km・・・。
ちなみに旅順攻囲戦(明治37年8月19日から翌38年1月1日)において、旅順要塞に籠城したロシア軍兵士は6万名で、戦死者は1万6千名、戦傷者は3万名です。
この旅順要塞の攻略に要した日本軍兵士の総数は5万1千名以上で、戦死者は1万5千400名、戦傷者は4万4千名であったと云われます。
君死にたまふことなかれ
合 掌 ・・・ m(__)m ・・・です。
「三高山堡塁」は砲台山(401.8m)から北へと伸びる稜線上にあり、これは是長地区と三吉地区の境界線上ともなります。
ただ、三高山堡塁への軍用道路(現砲台山林道)は美能地区亀原から山上へと切り開かれていますので、当堡塁は美能地区の項において説明させて頂きます・・・m(__)mです。
画像は三高山堡塁に掲示された案内板です。
三高山堡塁は呉軍港を守る要塞(のち広島湾要塞に昇格)の一翼として、明治32(1899年)3月に着工し、明治34年3月に完成した、大規模(総面積6万坪)で極めて重要な堡塁です。
明治36年6月現在での三高山堡塁配備の大砲は「9珊加農砲」が4門・「28糎榴弾砲」が6門・「9珊迫撃砲」が4門ありました。
ちなみに、糎(センチ)・珊(サンチ)は同じ単位です。
明治維新の日本軍はフランス式軍隊を模範とし、フランス語教育を受けたことからその発音を真似てサンチと洒落?たようです。
大きな円形の穴には旋回式28糎榴弾砲が設置されていました。
廻りを囲む花崗岩擁壁に開けられた四角い空間は、戦闘中に弾丸や装薬を一時保管するためのものです。
また、観測指揮所や隣の砲台からの連絡には伝声管を使うために、パイプとなる円形の穴が開けれれています。
ちなみに、日本で電話が開通したのは、グラハム・ベルが電話を発明してから14年後の明治23年(1890年)で、まずは東京-横浜で営業が開始され、当初の加入者数は東京155回線、横浜42回線だったそうです。
一般に普及し始めたのは日露戦争の後からで、明治43年(1910年)全国での加入者が10万を突破しました。
・・・以上は「電話WIKI」よりのコピペ・・・m(__)mです。
まるで公園、実際沖美町政の時代には「三高山堡塁跡」としてではなく、「創造の森森林公園(三高山砲台跡)」として予算を計上し整備がなされました。
ちなみに江田島市となって後の観光マップでは「三高山(砲台跡)」あるいは「砲台山森林公園」と表記されています。
擁壁の土塁上から見た28糎榴弾砲設置跡です。
一つの砲台場に二門が並べて置かれていました。
砲台場には上記写真とともに以下の説明文が掲示されています。
この看板は、28cm榴弾砲をイメージした写真です。
特徴は、地形や建物などに遮蔽されて直接狙えない目標に対し、遮蔽物の上を跳び越す山なりの弾道で射撃する火砲です。
湾曲した弾道から「曲射砲」とも呼ばれていました。
ちなみにこの写真の元は「日本の要塞(学研)」にあるようです?。
大正15年(1926年)8月1日、広島湾要塞が廃止されたのち、三高山から轟音が響くことは無くなりましたが、代りに米軍のジェット戦闘機2機が山々に大轟音をこだまします。
戦闘中の弾火薬一時保管庫???。
砲台場から石段を昇った上に観測所跡がありました。
樹々に覆われていて遠くを見晴らすことはできませんが、海風がサワサワと葉音を立てて通り過ぎていきます。