三吉 三高ダム

s-グーグル地図 三高ダム 
「三高ダム」は三吉地区を南から北へと流れ下る、木ノ下川の上流部にあります。

s-120117 019 
三高ダムは第二次世界大戦中の昭和18年(19年とも?)に海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が築造しました。
戦後はGHQを経て海上自衛隊へと移管、昭和32年に三高簡易水道の水源としても併用、昭和51年には海上自衛隊専用水道と統合し、現在は三高水系として、三吉、高祖、美能、高田の一部に給水(昭和43年には太田川水系とも接続)を続けています。

さらに平成16年、補強及び嵩上げ工事が完了したことによりそれまでの貯水量218千㎥から554千㎥に倍増、沖美町内全域に灌漑用水を供給できるようにもなりました。

s-120117 016 
ほぼ満水状態(554千㎥)の三高ダム貯水池です。

s-2016-07-01 059 
ダム堰堤の上から見下ろした、浄水施設です。

旧三高ダムでは1日/2,000㎥が最大配水量でしたが、嵩上げ工事が完了した新三高ダムでの最大配水量は1日/16,300㎥と大増しました。
この量は江田島市内での上水1日最大給水量(消費量)12,000㎥を上回り、数量的には全江田島市内の水道水を十二分に賄うができます。

・・・が、実際の浄水処理能力は1日/10,000㎥(拡張整備案)がやっとで、しかも少雨や水質悪化等による取水制限、農業用水とのからみなどもあって、???、????な状況です。

s-2014-10-18 017 
旧三高ダムの堰堤上部にあった、遊歩道(点検用通路)の一部が切り取られ残されていました。

三高水源地
このモニュメントは、旧堤体の管理道である天端を切断したものです。
旧ダムは、昭和18年旧海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が2年の歳月をかけ築造され、終戦後は米軍による接収を経て、自衛隊施設及び周辺地域の水道水源として使用されていました。
昭和51年に江能広域水道企業団が大蔵省から譲り受け、現在は江能広域事業組合により、江田島能美地区の貴重な水道用水源として管理されています。
春には桜が咲き町民の格好の憩いの場となっています。

旧ダムの諸元
形式 重力式コンクリートダム
堤高 32.6m
堤長 142.0m
堤頂幅 2.0m
満水面積 2.6ha
総貯水量 226千㎥
有効貯水量 218千㎥

三高旧ダム 
画像は、旧三高ダムを写したものです。

例年桜の時期には場内が一般解放され、グループごとに車座となって花見弁当を広げる光景がありました。

三高ダム断面図B
画像は新ダム堤体の断面図です。

左側が貯水池、右側が下流側となります。
老朽化し、一部に漏水も認められた旧ダムの表面を重機(ビットローラ)で削り取り下流側に分厚くコンクリートを流し込んで旧堤体と密着させ、さらに堤体の嵩上げ工事により貯水量が倍増となりました。

形式 重力式コンクリート
堤高 44m
堤頂長 202m
堤堆積 78千㎥
流域面積 2.8K㎡
総貯水量/有効貯水量 584千㎥/554千㎥
ダム事業者 広島県
着手/竣工 1995/2004

三高ダム受益面積 
三高ダム改修の主目的であった、農業用水配水地域を示すマップです。
(画像は「一般社団法人 ダム協会」HPよりのコピペ ・・・m(__)mです。)

三高ダムを起点とする農業用水配水管は沖美町地区のほぼ全域において配管がなされており、この農業用水を利用できる受益農家数は約800戸であるとされます。

ちなみに、ダム本体の工事費として巷の噂では80億円???とか???・・・(^_^;)です。

s-2015-04-11 012 
ダム本体工事の事業者は鹿島建設・飛鳥建設・大末建設です。

s-2015-04-11 014 
ダムから流れ落ちる水流の波紋が均等で、とても素敵な模様となって現れています。
おそらくは数ミリの誤差もない、最上級の施工がなされているのでしょう。

s-2015-04-11 017 
三高ダムの下部にある沈殿池などの上水道浄化施設です。

s-DSCN2276.jpg 
菊栽培のお花畑の前に農業用配水管の減圧弁を格納する青色の蓋、バックにはその水源となる新三高ダムが両翼を大きく拡げます。

ダムから集水した農業用水はポンプアップされ高松峠近くの貯水槽から地下のパイプを通して各地に配水されます。

沖美町の農道の地中ほぼすべてに農業用水の配管がなされており、要所に減圧弁が設置され、各田畑ごとには給水用のバルブが取り付けてあります。

s-DSCN0707.jpg 
それぞれの畑や田んぼにはバルブをひねるだけで水が流れ出る大きな蛇口が取り付けてあり木ノ下川水源の豊かな水が途切れることなく注がれます・・・(*^。^*)です。
スポンサーサイト

三吉 木ノ下川

木ノ下川・三高ダム 
「木ノ下川」は三吉地区を東西に二分して流れ下る江田島市内最大の川です。

(元画像は江田島市防災マップよりのコピペ・・・m(__)mです。)

グーグル木ノ下川AAB 
木ノ下川の源流は三吉地区の最南に位置する江田島市最高峰の宇根山(541.8m)近くにあり、その延長はおおよそ5,000m、水量も豊で上流には三高ダム(有効貯水量554千㎥)があります。

(画像はグーグル地図鳥瞰図よりのコピペ・・・m(__)mです。)

s-2014-10-18 025 (2) 
三高ダムからさらに遡った木ノ下川の源流部近くには、徳正寺の山号ともなる「盤谷渓」と呼ばれる峡谷があり、大岩の盤上を流れる渓流や、水しぶきを上げる二段滝があると云いますが、今は容易には近づけない状況です。

かわって、支流となる「高松川」の上流部は高松峠へと向かう古道沿い(菊ロード)にあって、車でも容易に近づくことができます。
その源流部、小さな滝から流れ落ちる清水を「山名水 乙女の泉」と名付け、近隣の人々がポリ容器を携えて訪れます。

画像はその迸る清水、「乙女の泉」・・・(*^。^*)です。

s-120117 021 (2) 
三高山の尾根から見た、三高ダムと水を溜め青く輝く三高水源地です。
画像右に向かう谷が支流高松川、画像左の谷は支流大附川です。

s-DSCN2246.jpg 
支流「大附川」の水が張られた大附集落最奥の山田です。

獣や鳥の被害さえなければ西能美一番の美味しいお米が沢山できるのですが・・・。

s-2016-07-01 126 
三高ダムの余剰水と高松川でポリ容器からあふれ出た水が一緒になって流れ下ります。

s-DSCN6678.jpg 
一直線の急流となって流れ下る水の勢いを少しでも緩くし、農地への配水をも兼ねた小さな堰堤です。

川の中で青々と群生するのはサトイモ科ショウブ属のセキショウです。
セキショウは水量の安定した渓流畔に見られることが多い植物で、生活排水の流れ込む淀んだ流域には育ちません。

近年になって木ノ下川にもアユが見られるようになったとの話があります。
アユのジャンプ力は70~80センチメートルであろうといわれますので、この堰を越えることは無理でしょうが、何匹もの若鮎が滝壺から一斉にジャンピングトライする姿が見られるのもまじかだろうと・・・(*^。^*)です。

s-DSCN3712.jpg 
先人が日々一石づつを積み上げてつくった、支流「舟木川」の流れです。

s-2016-07-01 116 
本流である木ノ下川に、山裾から流れ出た急流「舞窪川」が合流する位置に架かる舞窪橋です。

s-2016-07-01 115 
両岸に広がる農地に十分な水量を供給し、余剰水を集めてさらに流れ下る木ノ下川の中流部です。

平成16年に三高ダムの嵩上げ工事が完了したことにより、沖美町内ほぼ全域の農業用地には、バルブをひねるだけでいつでも安定した水量を供給することが可能となりました。

木ノ下川は島内一番の水量豊かな川ではありますが、水源から河口までの約5kmを一直線に駆け下る急流です。
しかも、流域となる農耕地の大半は川の両岸の急斜面を階段状に削ってつくった田んぼや段々畑です。
これら斜面につくられた農地は木ノ下川からの恩恵を受けることはなく、はるか下方をとうとうと流れ下る水の音のみが段々畑の石垣に反射します。

ただ流れ下るのみだった木ノ下川の水を有効に利用することは地域住民の積年の願望でしたが、今、三高ダムから繋がる農業用配水管が町内各所にくまなく埋設されたことによって、やっと現実となりました・・・(*^。^*)です。

s-2016-04-02 069 
木ノ下川扇状地の要ともいえる部分に架かる「宮の桁橋」です。
この付近より両岸の農地面積は倍増して一気に広がり、木下川の水源としての重要性も倍々増します。

かっては、水を満遍なく公平に供給するための堰(せき)を設け桁を渡し、分流用の板材を微妙に調節しながら配水の量を加減した所じゃないかと???
夜中、勝手に我田に引水する輩を戒めるために水神宮の祠とかも置かれていたのでは???と、想像・・・(^_^;)です。

s-DSCN6617.jpg 
国政による減反や、農業者人口の減少、農地の宅地化などにより耕作地は最盛期の何分の一、あるいはそれ以下となりましたが、木ノ下川(三高ダム)の恩恵を最大限に受ける三吉地区は江田島市内で、もっとも多くの田園風景が残る地域となっています。

s-DSCN3767.jpg 
秋、黄金色の稲が刈り取られたあとの田んぼにはレンゲソウの種が蒔かれます。
春、一面に咲き乱れる花々を遠くから見ると低くたなびく雲のように見えることから漢名では「紫雲英」とも記します。

ちなみに正式名称は「ゲンゲ」でマメ科ゲンゲ属、古くに中国から渡来(一説には17世紀とも)し、根に共生する根粒菌が窒素を固定しますので、田んぼの緑肥となり化学肥料の使用量を抑えることができます。
さらには家畜の飼料としても利用できる他、ミツバチが集める花の蜜は「れんげ蜂蜜」として珍重されます。

他にも若葉の食用や民間薬としての効能などもありますが・・・、レンゲソウの花を見れば誰だって心がいやされ、春の陽だまりのようにポカポカとあったか~い気持ちになれます・・・(*^。^*)です。

三吉 薬師堂

s-薬師堂グーグル 
「薬師堂」は徳正寺から、さらに木ノ下川を逆登った先の大附集落南部の高台にあります。

s-2016-07-01 077 
大附集落の家々を結ぶ小道に面して建つ薬師堂です。

この付近の地名は大護寺とも呼ばれており、かって薬師堂背後の山中にはお寺があったと云われます。
大附薬師堂の薬師如来像は、その大護寺より移したものであるとも云います。

s-2016-07-01 078 
堂の扉は閉まっていましたが、格子戸の桟の間から内部を拝ませていただきました。

帽子を取り、姿勢を正して「合掌」・・・m(__)mです。

一般的な薬師如来像は右手を上げ(施無畏印)、左手のみが膝の上(与願印)、あるいは薬壺を持ちますが、大附薬師如来像は両手を膝の上に乗せる「禅定印」で現わされています。

この所作は古い時代の薬師如来像に多く、京都嵯峨薬師寺の薬師如来像とよく似た御姿となっています。

s-2016-07-01 082 
堂内側面の壁にタペストリー?が掛けてあり、「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」と文字が書かれています。

これはすべての薬師如来に共通する「真言」と呼ばれる音です。

「真言」は梵語で「マ ントラ(मन्त्र [mantra])」といい、「いつわりのない真実の言葉」という意味を持ちます。
伝統的に言葉の意味を詮索しません。
なぜなら、真言は音が重要であり、知識や理屈に執着しないためです。
あえて翻訳せず音写を用いるので、 漢訳では咒(明咒)と訳されます。
一心に称(とな)え続ける心境がもっとも仏に近く、あらゆる功徳がその称えの中に含まれます。
と、以上は「一畑薬師」さまHPからの、引用・・・m(__)mです。

s-2016-07-01 080 
大附薬師如来像は左手に薬壺をお持ちになりませんが、何故かお堂の奥に「サントリー リザーブ」と刻印のある通常よりも一回り大きな壺(瓶)が置かれています。

劇薬、あるいは気違い水となる場合もあるとは思いますが、御人によっては最上の「お薬」「活力の源」ともなる「お神酒(おみき)」・・・(*^。^*)です。

s-DSCN6723 (2) 
お堂は昭和の頃に建て替えられた様子・・・境内は狭いのですが、左右に石灯籠が置かれ、ソテツが大きく葉を広げ、ナンテンの実が赤みを増しています。

ちなみに、ソテツは有毒なサイカシンを多量に有し、ナンテンもアルカロイドなどの有毒成分を有しますが、「毒は薬なり」で、古来より毒成分をうまく希釈調合して薬としても利用されていました。

何にでも効く薬の調合は望めませんし、常に健康な体を維持することもできませんが、自身で可能な養生「過度な飲食を慎み、規則正しい生活」くらいは実践しましょうね・・・(*^。^*)です。

三吉 徳正寺 2/2

s-DSCN3690 (2) 
田園風景に溶け込む徳正寺の伽藍です。

s-DSCN6642 (2) 
鐘楼門の前を流れ下る木ノ下川と、高松峠へと登る旧街道です。

s-DSCN6648 (2) 
晩秋の日射しを透かす境内のモミジ葉と鐘楼門の格子窓です。

s-DSCN6650 (2) 
日射しに手をかざして見上げる鐘楼門です。

s-DSCN6652 (2) 
本堂と鐘楼門と境内を囲む白壁の塀が最適なバランスにて配されています。

s-DSCN6655 (2) 
正面より仰ぎ見る鐘楼門です。

s-DSCN2234 (2) 
秋の陽を浴びて黄金色に輝く鐘楼門です。

s-DSCN6666 (2) 
受徳橋を渡りて、さらに振り返り見る鐘楼門・・・(*^。^*)です。

三吉 徳正寺 1/2

s-徳正寺グーグル 
浄土真宗本願寺派「盤谷山 徳正寺」は三吉地区のほぼ中央部、木ノ下川の右岸にあります。

蛇足となりますが、浄土真宗本願寺派「擁護山 徳正寺」は能美町中町にあります・・・(^_^;)です。

s-2015-06-27 161 (2) 
木ノ下川の流れに正対して建つ重厚な鐘楼門と本堂は250年ばかり前の明和元年に建てられました。

s-110530 094 (2) 
徳正寺の周囲には木ノ下川の上質で豊富な水を利用した田んぼや畑が広がっており、平地の少ない江田島市内のお寺としては珍しく、田園風景に囲まれたのどかな環境の中にあります。

現在は駐車場として整備されましたが、つい2、3年前までは鐘楼門の庇の元には野菜畑があってネギやタマネギ、ニンジンやジャガイモ、トウモロコシが育てられていました。

s-2015-06-27 166 (2) 
徳正寺のトレードマークはやはりこの鐘楼門です。

s-2012-04-23 002 012 (2) 
本堂の背後には四季折々に変化する色彩豊かな山が被さり、今でいうインスタ映えのする風景が・・・(*^。^*)です。

s-2015-06-27 195 (2) 
江戸時代中期に建てられた鐘楼門は、総ツガ造りで姫路城天守閣と同じ建築様式が採用されており、鐘のある二階部分と門となる一階部分の柱の位置が異なって建っており、地震の揺れに対し重心が移動する仕組みであると云います。

s-2015-06-27 169 (2) 
徳正寺本堂です。
正面にて、「合掌」・・・m(__)mです。

徳正寺のそもそもは・・・。
南北朝時代の貞治二年(1363年)北朝軍に敗れた伊予太守河野通朝は、その子徳王丸(のちの六郎通堯)を中村十郎左衛門久枝北ノ方の縁所である、安芸国能美島三吉浦へと逃がしました。
この通堯が開祖となり、三高山山頂付近に山城を兼ねた禅寺を建て、菩提を弔ったとされます。

のち天正二年(1574年)河野左門尉俊高(利堯とも)が釋浄信となって「萬谷山(現盤谷山)徳正寺」を開基、現在ある本堂や鐘楼門は八代達導師により明和元年(1764年)に建てられました。
さらに10代となる道命(没年1812年)は子弟の養成、教学の発展に尽くし、その功績により本願寺より「勧学」の称号を追贈されました。

徳正寺御本尊の阿弥陀如来立像は元禄十二年(1699年)大仏師康雲の作とされ、石山合戦の折に本願寺顕如上人より賜った「六字名号」や、「支那二十四考物語」を刻んだ孟宗の欄間など数多くの寺宝を伝えます。

s-2015-06-27 173 (2) 
経堂は質素な外観ですが、木ノ下川が近いこともあってか石段で5段分の高さに土台を組んだ上に建ちます。

s-2015-06-27 179 (2) 
本堂の横には落ち着いた雰囲気にまとめられた池があり、「無量寿」の額を揚げた品格高いお堂が建ちます。

s-2015-06-27 182 (2) 
本堂の大屋根には重量感のある大鬼瓦が乗り、その下の破風には三重の懸魚と鰭が付けられています。
さらにその奥の妻壁にも巧みに彫り抜かれた飾り板が何重にも止められています。

s-2015-06-27 184 (2) 
境内に育つ大銀杏の枝下の向こう、上下で柱の位置をずらして建てた耐震構造を有する鐘楼門が遠目にも安定感のある姿を見せます。

s-2015-06-27 200 (2) 
徳正寺の真正面に架かる「受徳橋」、昭和35年10月竣工です。

受徳橋の欄干には
発起人
山尾実人・小松正市・石光杉太郎・小田昌三
寄附者
岩国市沖井義光・広島市有本初男・広島市永井勝一・広島市松本利治・矢舗増登・矢舗芳登・山尾勇一・藤井繁太郎・後峯吉・下向井敏一・広島市新田三郎・三吉佛教婦人会・下河内兼松・水越市太郎・下河原良一
と、芳名が入れられています。

s-2015-06-27 198 (2) 
木ノ下川の対岸から見た徳正寺です。

木ノ下川をさかのぼり高松峠から是長へと続く古道は、昭和35年になり海岸沿いに美能経由の県道36号線が開通したのちも順次改良工事が行われ、今でも三吉と是長とを結ぶ主要な交通路となています。
カレンダー
11 | 2017/12 | 01
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
検索フォーム
カテゴリ
リンク
最新記事
月別アーカイブ
プロフィール

わきです

Author:わきです
FC2ブログへようこそ!