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三吉 関西美人酒造

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木ノ下川に沿って高松峠へと向かう道を登っていきますと、徳正寺の手前に「関西美人酒造」の建物があります。

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清流木ノ下川沿いの関西美人酒造の醸造所兼酒蔵です。
大正時代初期に、住吉力松氏により創業された酒造所で、清酒「関西美人」が有名でしたが現在は休業中?の様子です。

沖美町には他にも、畑地区において明治2年創業と云われる「岡田酒造」の清酒「松の香」がありましたが、昭和後期に廃業、大王地区で丸本為二郎氏が醸造を始めた清酒「誠心」も、先の大戦中企業統合により廃業となっています。

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昭和後期に増設された、鉄筋コンクリート2階建ての醸造用の建物です。

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白い土壁造りの旧醸造所と三高煉瓦で組まれた四角い煙突が素敵です。

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製品の貯蔵倉?だろうと思いますが、ほぼ全面がツタの葉っぱで覆われてしまいました。

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残念ながら「関西美人」を飲む機会はありませんでしたが、三吉米で作られた清酒は切れ味の鋭い良いお酒だったんだろうと・・・(*^。^*)です。

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いらかの向こうの赤い煉瓦の煙突です。
白い煙が上がり、屋根瓦が水蒸気で濡れるのは・・・

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(*^。^*)・・・です。

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使用されなくなった醸造タンクは、お百姓さんに引き取られ貯水タンクとして再利用されます。

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斜面を削り石を組んで一段づつ積み上げた棚田に、山から染み出す清水を流し込んで作ったお米からは、きっと甘露のお酒が生まれます。

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ススキの穂先に降り注ぐ雨滴が、ぜんぶ清酒となるのなら・・・(*^。^*)です。
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三吉 尾首城跡

s-無題 
昭和59年11月発行の「沖美町の文化財をたずねて」には、「尾首城跡」として、
三吉千城原に高さ30mぐらいの小高い丘があり、地元民は「オンテス(お天守の意味)」と呼んでいます。
頂上やその下の方にいくつかの平坦なところがあり、石垣はほとんど崩れていますが、城跡であることは間違いありません。
付近から五輪塔(侍の墓)が発掘されたこともあります。
尾首城は厳島神社の奉行職であった沖小栗が築いたものといわれており、奥尾城と記したり矢張城とも呼んでいます。

さらに「法蔵寺跡」として、
尾首城跡の南西約300m、山麓に古いしっかりした石垣で囲まれた平坦な畑があります。
広さは200㎡、展望の良い場所で、ここに法蔵寺があったと古老はいっています。
法蔵寺については、能美島志に「三吉にあり、今、小さな茅葺のお堂があって、観自在之像を安置す。」と記されます。

さらには「大護寺跡」が木ノ下川の対岸、大附集落の山中にあってその遺址のほとりに薬師瑠璃光佛を安置するとも記されています。

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画像中央、ミカン畑の上に乗る緑の小丘が「尾首城跡」です。

古くは、尾首城小丘の麓近くまで海が入り込んでおり、付近の中小路、千城原、古戸、大附が三吉の中心地となっていました。

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尾首城跡小丘の頂部です。
頂部は平坦であると云いますが、ミカン畑の上に建てられた墓所より上への道はありません。

1763年に記された郷土史「能美島志(宝暦13年)」には、「奥尾(おび)の城、三吉村にあり。土老いう、沖小栗某築く所なりと、平清盛厳島社を造営するの日、沖氏これが奉行職となると、未だその然否を知らず。」とあります。

また地元古老の間では今も天守と呼ばれていますので、頂部には象徴的な建物があったのでしょうが、この天守だけで城と呼ぶにはあまりにも貧弱です。

おそらくは、背後の法蔵寺や対岸大附の大護寺など各所に砦があり、それらを連携し指揮するための天守であったと思います。

ちなみに、当地が巻き込まれた大きな戦乱は、毛利元就と陶晴賢の合戦「厳島の戦い」の前後、巨大勢力のぶつかり合う谷間において、どちらの山を選ぶかの判断に迷った能美水軍でしたが、調略により陶軍に加担したことで、毛利軍の熾烈な攻撃を受けました。

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画像左上に広島湾と、かっては深い入江だった木ノ下川下流部の堆積平野がみえます。

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季節は早春、3月です。

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6月下旬、梅雨の恵み雨でカエルは跳び跳ね、田んぼの稲はこの時期に一気に生長します。

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千城原地区の家々が密集する一段上に飛び出した尾首城の小丘です。

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尾首城跡の小丘から見た南の方向、遠く山裾に点在する家々は大附の集落です。

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三高山中腹から見下ろした尾首城跡の小丘 です。
手前の集落は千城原、川向こうは徳正寺のある中小路、右の方向に、古戸、大附地区がみえます。

厳島合戦で敗れた陶軍の落武者が木ノ下川に沿って登り、高松峠を越えた是長の地で追手にかかり力尽きたと伝わり、霊を弔うための石仏がその名も「大名切(おなぎり)」の地に残ります。
またこの付近からは、武将がお守りとして兜の中に入れる小さな金の仏像も発見されたと云います。
合掌・・・m(__)mです。

三吉 三高中学校

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画像は昭和37年のもので、この当時「三高中学校」や「貴船神社」の前には砂浜が広がっていました。

小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学校4年となったのは、昭和22年の学校教育法と教育基本法が制定されたことによります。

戦前は尋常小学校の6ヶ年が義務教育(戦時中の国民学校は8年)で、さらに高等小学校で2年学ぶか、あるいは試験を受けて5年制中学校へ、さらに3年制大学校へと進学するのが一般的でした。
ちなみに島内に中学校はありませんので、広島市、あるいは都市部の知人、親戚宅などに下宿、居候、書生や養子となって面倒を見てもらうことになります。

昭和22年4月、「三高村立三高中学校」設立、発足当初は小学校に併設す。
昭和22年5月、美能旧軍倉庫(現沖美ふれあいセンター)を仮校舎とす。
昭和29年5月、現在地(柳之前)に新校舎が落成す。
昭和31年9月、「沖美町立三高中学校」と改称す。
昭和36年5月、体育館落成す。
昭和55年5月、鉄筋コンクリート4階建の新校舎落成す。
平成3年3月、新体育館落成す。
平成16年11月、「江田島市立三高中学校」と改称す。

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建設中の三高中学校体育館、落成は昭和36年5月です。
画像右に木造二階建て校舎の一部が見えます。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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三高中学校旧正門と4階建て校舎です。

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校庭の隅に植えられたソメイヨシノです。
開校時に植えられたとすれば、樹齢は64年以上となります・・・(*^。^*)です。

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ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑して生まれた中から選ばれた花数が多くて美しい品種です。
江戸染井村の植木屋が接ぎ木栽培で育成し売り出したことから「染井吉野」と名付けられ全国に普及しました。

ソメイヨシノは花を楽しむために密植され、また成長が早く枝が密生して日照不足となったり、耐病性も低いなど、人が手を掛けないと成長とともに急速に弱っていきます。
その時期は植えられて40年経ったころからで、弱り始めて何も手を掛けずにいれば衰退はいっそう進み、60年が経った頃が寿命だといわれます。

まるで人と同じような生涯を歩むようですが、ケアをしっかりすれば、もう20年くらいは・・・(^_^;)です。

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春の芽吹きの前後はとても情緒漂う柳の枝も校庭からはみ出しています。
柳之前の地名に由来して植えられたものかも? ・・・(*^。^*)です。

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三高中学校の沖側、かっては砂浜がひろがり、大波の飛沫が飛んだ校舎の北側には県道36号線がつくられ、さらにその沖も埋めて新三高漁港と変わりました。

校舎の建て替えに伴い、正門も此方側に移されました。

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新三高漁港を背後に、三高中学校の4階建て校舎が建ちます。

s-三高中学
三 高 中 学 校 校 章 作者 林英世(昭和24年10月)
背景の羽は,三高の「三」と3本の矢の教え(団結)を表し、生徒・保護者・教職員が協力して輝かしい三高中学校教育を創造していくことを表現しています。

三 高 中 学 校 校 歌 作詞 空久保阿津子 作曲 野田耕右
一、
瀬戸の潮風希望に帆上げ
天地自然のめぐみうけ
真理一筋求めつつ
明日に向かってわれら学ばん
二、
燃ゆる大空血潮をわかせ
幾年月がすぎるとも
永遠に平和を願いつつ
未来に向かってわれら築かん

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校 訓 「 自 律 」

学 校 経 営 理 念
ミッション
生徒に「知・徳・体」の基礎・基本の徹底を図り、保護者から信頼され、地域が 自慢する学校づくりをめざします。
ビジョン
(1) 教師が指導力の向上を図り、生徒に確かな学力を身につけます。
(2) 生徒の主体的な取組や体験活動の充実を図り、豊かな心を育みます。
(3) 基本的生活習慣の定着を図り、たくましい身体を育みます。
(4) 開かれた学校づくりに努め、保護者や地域から期待される学校をつくります。

学 校 教 育 目 標

確かな学力と豊かな人間性を身につけ、たくましく生きぬく生徒の育成
めざす生徒像
〇 基礎・基本の学力を身につけ、夢と志をもって主体的に学ぶ生徒に育てます。
〇 感謝の気持ちを大切にし、お互いが思いやりの心で接する生徒に育てます。
〇 身体をきたえ、目標に向けて粘り強くやりぬくたくましい生徒に育てます。
めざす教師像
〇 教育に強い情熱と高い倫理観をもち、感謝と感動を大切にする教職員をめざします。
〇 わかる授業を心がけ、個に応じて細やかに指導できる教職員をめざします。
〇 新たな取組に果敢に挑戦し、生徒、保護者、地域とともに歩む教職員をめざします。

以上は三高中学校HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

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右沖の島は似島、その向こうに本土となる広島市は霞んでみえます。

三高中学校生徒数28名、三高小学校生徒数60名、三高保育園定員40名、広島宇品港までは12km、フェリーでの所要時間は40分、車で橋を渡る陸廻りだと2時間と少々、手漕ぎカヌーだと3時間少々・・・

どっちの水が甘いかなぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高小学校・三高保育園

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「三高小学校」は三吉村と高祖村が合併する以前、明治5年の学制制定(太政官布告第二百十四号)に準じ、三吉村に「時習館(明治8年7月)」が高祖村に「勧善館(明治8年7月)」が開かれたことに始まります。

のち、三吉尋常小学校、高祖尋常小学校と改名され、修学年も3年制、4年制と拡充されますが、明治22年の三吉、高祖合併により三高村となるも学舎は分かれたままでした。

明治40年小学校令により義務教育が6ヶ年となるにいたり、明治42年、三吉尋常小学校と高祖尋常小学校が合併「三高尋常小学校(6年)」となり、さらに大正7年になり「高等科(2年)」が併設され「三高尋常高等小学校」となりました。

ちなみに、明治42年当時の尋常小学校では、修身・国語・算術・歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操・裁縫、の習得科目がありました。
また大正7年に高等科が併設される以前は、鍵ヤ谷から山道に入り高田村経由で中村の高等小学校へと通ったそうです。

その後は、昭和16年「三高村国民学校」、昭和22年「三高村立三高小学校」、昭和26年「美能分教場」併設、昭和29年「美能分教場」統合、昭和31年「沖美町立三高小学校」、平成16年「江田島市立三高小学校」となりました。

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斬新的デザインの外観をもつ三高小学校の表玄関です。
平成14年7月に建て替えが完了しました。

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平日でも休日でもよく子供たちの声が聞こえ、校庭を走り回る姿を見るのですが、平成29年の総児童数は60名、1年生はわずかに4名となっています。

ちなみに約30年前の平成2年度の総児童数は188名でした。

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三 高 小 学 校 学 校 教 育 目 標
人とつながり、ともに高め合う児童の育成

め ざ す 学 校 の 姿
〇 一人一人が大切にされ、一人一人が輝く学校
〇 一日一日が充実して楽しい学校
〇 安心・安全・信頼される学校

め ざ す 子 ど も の 姿
〇 元気なあいさつ・返事ができる子
〇 時間を大切にする子
〇 静かに掃除ができる子
〇 自分の考えをもち表現できる子

上記は三高小学校HPよりのコピペです。
読み書きそろばんができればの時代とはだいぶ様子が違うみたい・・・(^_^;)です。

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学校からは目と鼻の先に波静かな瀬戸内海が広がるのですが・・・。
プールが完成したのは、昭和60年です。

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三高港を背後にして建つ三高小学校校舎です。
この地、柳之前に小学校用地が指定され「三高尋常小学校」が開校したのは109年前の明治42年3月です。

三高小校章 
三 高 小 学 校 校 章 作者 椎木 寿(昭和42年11月頃)

三 高 小 学 校 校 歌 作詩作曲 角 清人(昭和39年5月)
一、
ほ う だ い 山 に い だ か れ し
平 和 の さ と に う ま れ い で
の び ゆ く わ れ ら
い ざ や い ざ
学 び の み ち に い そ し ま ん

二、
な が め た え な る せ と 海 に
高 き の ぞ み を た く し つ つ
つ ど え る わ れ ら
い ざ や い ざ
す こ や か に こ そ 育 た な ん

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画像手前の丸い窓がある建物が「三高保育園」です。

保育園の向こうにピンク色の三高小学校が見えますが、保育園も元は小学校と路地を挟んで隣り合っていました。

さらにその先の鉄筋コンクリート造りの建物が三高中学校となります。

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「三高保育園」は、アユの遡上も見られるという清流木ノ下川のすぐ傍に建ちます。

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廻りを田んぼや菊畑に囲まれた中、大地に根を張るように力強く建つ三高保育園の屋舎です。

s-江田島市保育園 
江田島市には、認定こども園が3園と保育園が3園あります。
(「認定こども園えたじま」は現在建設中、今年3月の開園予定です。)

三吉 三高の菊発祥之碑

s-菊発祥之碑A 
山を削り深い谷底を一気に流れ下る木ノ下川は農業用水としては利用しづらいのですが、その豊富な水量は三高地区に大きな恵みをもたらしました。

ただ、その恵みを得るために必要な水路づくりや、井戸を掘るのも、さらにはそのメンテナンスや分配にいたるまで、すべてが人々の協働と協力により成り立っていました。

傾斜地に棚田をつくり、しかも個人ではごく狭い耕作地しかもたない、古来よりの米作りにおいて、地域住民の団結力は絶対的なものです。
三吉にはその団結力と協働協力、生真面目で粘り強い風土が今も息づいており、他地区ではほぼ壊滅した稲作が今も広く行われています。
(もっとも、それが嫌で農業を諦める場合もあるのですが・・・(^_^;)です。)

今も稲作が盛んな三吉地区ですが、それにも増して盛んとなっているのが花卉類、とくに菊の栽培です。
減反政策による代替え作物として拡大し増産されたのですが、バルブ崩壊後の経済低迷の影響を受け、しだいに縮小傾向にありました。

が、近年の緩やかな経済成長や団塊世代の帰郷就農などもあってか、少しづつですが増産傾向にあります。

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徳正寺から少し上流へと登った古戸地区に「三高の菊発祥之碑」が建てられています。

側面に、栽培面積12ヘクタール・生産本数3百万本・組合員数52名
昭和61年10月 三高花組合建 と、あります。

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6月上旬、露地栽培で生育中の菊です。

黄色い花が見える畝は親となる菊で、そこから芽生えた若芽を4月ごろに切り取り、挿し木にされます。
その挿し木から育てた苗が、向こう側に見える雑草防除用の白いビーニール覆いに開けられた小穴に整然と植えられています。

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6月下旬、ガンガンと急成長しています。

菊は肥料食いで成長も早いのですが、沢山の有機肥料をすき込んだ、水はけの良い土地でないと商品価値のある菊は出来ません。

ちなみに栽培菊は中国唐時代に盛んとなったものが移入された?あるいは日本古来の野生菊からの派生?あるいは両種の混血?などあり、定説とはなっていません。

日本で和歌に詠まれ始めたのは平安時代となってからで、さらに鎌倉初期、後鳥羽上皇(1180~1239)が「菊紋」を皇室の家紋としたことで、春の桜に対する、日本の秋を象徴する花へと昇格しました。

またヨロッパやアメリカで品種改良された洋菊のルーツは、幕末の頃に持ち出された日本の栽培菊であるとされます。
(以上はウイキペディアの要約・・・m(__)mです。)

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品種選択や栽培時期をずらすことにより、周年にわたり生花が出荷できるよう調整されています。

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植えられて間もない温室栽培の菊です。

露地栽培に比べ、より生育管理がしやすく出荷時期の調整も可能ですが、加温や電照など生産コストも高くつきます。

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出荷用に切り取られ、傷みにくいように束にされた温室栽培の菊です。

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軽トラ、いや普通トラックの荷台に山と積まれた菊の巨大花束です。

かっては番船で運ばれましたが、平成に入ったころより、左に見える沖美運送の大型トラックに積み替えられ、陸路花卉市場へと運び込まれます。

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三吉に菊の栽培畑は沢山あるのですが、畑一面に菊の花が咲き乱れることは、まずありません。

開いてしまった菊の花では商品価値がなくなってしまうからです。
たまたま見ることができるのは、切り取ったあとの株から芽生えたわき芽から咲いた花、それも来年の挿し木苗を取るために、親株として残したからです。

普通は蕾で切り取られ、残った根っこは病害虫予防を目的にすぐさま引っこ抜かれて焼却されます。

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」・・・(*^。^*)です。

三吉 三吉の農道

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緑色でなぞった農道の大部分は昭和50年以降、軽トラックが農作物や肥料資材の運搬、人の移動に欠かせないものとなったあとに急きょつくられたもので、場所によっては軽自動車であっても対向車に慌てる道幅しかありません。

また、県道38号線や笠松峠越えの三高是長間道路以外は何れも大型車には不向きな道幅であり、農道兼用の生活道路となっています。

ちなみに、海岸線沿いに高田への道(現県道38号線)が完成した昭和初期以前は、三吉から、中(村)の高等小学校へと通う学童は鍵ヤ谷から山越えで高田(現さつき荘付近)へと抜ける小道を利用していました。

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農道から見下ろす三高港、その沖には大奈佐美島さらに向こうに宮島が見えます。

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実はつい最近地元の方に教えて頂いたのですが、この農道から宮島のロープウェイが見えるんだそうです。

この日はいまいちのお天気だったのですが、目を細めたり見開いたりしたら、なにやら白い点が動いているようで、慌ててカメラのシャッターきりました。

で、最大まで引き延ばしたのが上の画像、右下の隅にゴンドラの白い箱がぶら下がっているのが見えます。
中央付近にロープウェイの山上駅舎獅子岩駅、左上に弥山山頂(535m)の花崗岩巨石と展望台が見えます。

山頂が見えるのは知っていたのですが、ロープウェイはてっきり山の向こう側だとばかり思っていました・・・(*^。^*)です。

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海岸からはずい分上に登った山の中腹近くですが、きれいな清水が湧くのでしょう。
一面にハスの花が咲いていました。

ちなみにハスの根っこ(茎)は食用となるレンコンです。

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三高の町と、その沖はるかに霞むのは本土広島の廿日市から五日市方面です。

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バブル崩壊後しだいに少なくなっていたビニールハウスですが、近年になって少しづつですが復活している様子です。

手前の畑には路地植えの菊が栽培されるのでしょう。
トラクターがフル稼働で土を耕しています。

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季節は四月中旬、間もなくトラクターが入り耕される直前の棚田です。

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最下部を流れる木ノ下川を挟んで、両岸はしだいに高さを増す農地が階段となって続きます。

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田んぼの緑肥となるレンゲソウの花が咲き始めました。

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6月初旬、田植えの最盛期です。

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11月下旬、刈り取られ自然乾燥のためにハザ掛けされている稲束の列です。

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ハザ掛けでゆっくりと自然乾燥したお米は味が違うといわれます。

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木ノ下川の清水と昔ながらの自然農法とで、一味も二味も違う三吉米の脱穀風景です。

燦々と降り注ぐ太陽光のもと、耕し、植え、育て、刈り取って食べる。
そりゃ~うまいにきまっとるがのぉ~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 旧三高(三吉)街道

s-三高街道A 
岬を一つ越えるごとに小さな半農半漁集落があり、それら集落が点となって連なる海岸線に実線となる幅広の道路を建設することは、古来より難事業中の最たるものであります。

さらには、ごく近年になるまでそのような幅広の道などは必要とせず、重量物は船で、小分けできるものは、人の背に乗せて山越えで運搬していました。
またかりにそのような立派な道が造られたとしても、小さな村々の行政では維持管理することもできません。

それは現在においてもいえることで、車の往来がまれな農道や林道の多くが草木に埋もれ、アスファルトを割って孟宗竹や雑木が芽生え始めていますし、集落とを結ぶ幹線道でさえ夏場は両脇から草木がはみ出して上下二車線道路もその半分の路面しか使用できません。

昭和50年代、三高の海岸沿いに幅広の県道36号線バイパスが完成しました。
それが直接の影響だとはいえませんし、三高だけに限ったことではありませんが、三高(三吉)旧街道に軒を連ねて並んでいた商店街は年を追うごとに寂しさが増しています。

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三高商店街の西の入り口、かって旅館業や仕出し、宴席会場などで賑わったであろう立派な店構えのお家でもシャッターが降ろされました。

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店頭に自販機3台を置いたタバコ屋の「みなとや」さん。

お隣は、酒・米・飲料・アイスクリーム・本、と何でも屋の「ISHIGOCHI」さん。

その先の3階建て「三高ビル」の一階は、お食事処の「寄り道」さん。

二階には、美容室・ヘアーメイクの「とも」さん。

三階には、お食事処「横綱」の看板も見えます。

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タバコ屋「みなとや」さんは兼業でお好み焼き店も経営されています。

広島で有名な「オタフクソース」ではなく、あえて「ヒガシマルソース」で勝負されている様子、表に長椅子が出されていますので、時間帯によっては行列ができるのかも・・・(*^。^*)です。

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「三高ビル」の軒下を利用して無人市場が開かれています。

「正直・信頼・感謝」代金は棚の前側の竹筒へ
インゲン豆50エン・パプリカ50エン・スイカ100エン・シシトウ50エン・オクラ50エン・トマト50エン・ピーマン50エン・ナス50エン・サラダ水菜50エン・モロヘイヤ50エン(きざみ、たたく。ねばりが出る。ドレッシングで)・最下段にはキュウリとジャガイモ・・・

うぅ~ん、残念。財布を持って来ていません・・・(^_^;)です。

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酒王千福・サントリーリザーブ・塩・日田天領水・キリン・アサヒビールも販売します「浜井酒店」さんです。

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ギャランン・ランサー・ミニカ・アルト・Kei・ワゴンR・カルタス クレセント・エリオ・エスクード・スイフト・ジムニー・エブリイ・キャリイなどなど、どんな車にも対応できます。
自動車、オートバイ販売修理の「河原モータース」さんです。

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三高街道を高松峠道の方に入り込むと、電柱を沢山の洋服でクリスマスツリー風に飾った、衣料品の大売出し店があります。

大阪の船場あたりへ行けばこういった華々しい商品展示の店を見ることはありますが、・・・
店主のお兄ちゃん、大阪で修行されたんかもしれへんわぁ~。

もうかりまっか。 いやぁ~、ぼちぼちでんなぁ~。
三高のおしゃれをリードする、ファッション ショップ「サカガワ」さんです。

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お店の入り口には、新小学生衣料受付中の大看板が立てられており、外から見える衣料品はすべてが半額表示となっています。

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地域の安全を守る「三高駐在所」さんです。

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街道脇には、地域情報の掲示板が立てられています。

五年生住田さんの力強い筆跡で書かれた「仲間」、野村さん、アンドレさん・内海さんの明るい色調で楽しそうな雰囲気の絵画。
江田島警察署からのお知らせや防犯指導、一年間のゴミ出しカレンダーが貼ってあります。

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「新ながいきくん」「ドリームかんぽ」「ゆうちょスクラッチキャンペーン」などなど、のぼり旗や掲示板がいっぱいの「三高郵便局」さんです。

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沢山の花々で飾られた「迫製麺所」さんです。

四代にわたる技術の蓄積を持ち、伝統製法による完全天日干しで熟成された旨味とコシのあるウドンや、ソウメン、ソバもつくられています。

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昭和中期の頃までは人々の往来が絶えることなく続いた、三高街道、三高商店街通りです。

きっちりと組まれた赤煉瓦の塀を、手入れされた緑の木々の枝葉がやさしく覆う、すてきな生け垣が残されています。
かって大正の頃には広島県下最大ともいわれ、従業員270人、年間1080万個の煉瓦を生産した三高地区に残る赤煉瓦の塀です。

「降る雪や 昭和は遠く なりにけり」 ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高フェリー桟橋

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江田島市内と広島宇品港とを結ぶ航路は「三高から宇品(瀬戸内シーライン)」「中町・高田から宇品(瀬戸内シーライン)」「切串から宇品(上村汽船)」「小用から宇品(瀬戸内シーライン)」の4航路があります。

江戸時代、佐伯郡に属する能美住民は郡役所のある廿日市とのつながりが強く、郡や村の役人が公用で利用するのはサンパン(全長5m程度の小型通船)とよばれる櫓押しの船で、村人が交代で任に就いたため番船ともよばれました。

安政4年(1857年)とされる、廿日市から三吉・高祖間の番船(サンパン)使用料金として、二丁立(二本の櫓で漕ぐ)で米5升6合7勺 ・ 三丁立は米7升6合7勺 ・ 四丁立は米9升6合7勺と、漕ぎ手の人数により運賃が変わります。

一般の住民は、農作物や生活物資などの運搬船に便乗して渡海しましたが、普通は一往復に三日を要したといいます。
ただ、櫓漕ぎの小型船であっても、気象や潮、積み荷の量などの条件が良ければ宇品までの12kmを3時間程度で往くこともできました。

ちなみに、現在の三高~宇品間の運賃は大人680円、所要時間40分です。

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三高港桟橋待合所です。

芸備商船の撤退後、しばらくは市営(第三セクター)となる江田島汽船株式会社が三高航路を運行していましたが、平成28年10月、瀬戸内シーライン株式会社へ併合されました。

ちなみに能美の定期連絡船事業は、明治38年、沖村の岡田岩吉氏が「海勝丸(62t)」を能美、広島間に就航させたのが始まりであるとされます。
以後、多くの個人や海運会社、村営、町営などが乱立しましたが、長期に渡り安定した経営を続けることはなかなかに難しいようです。

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待合所前につくられたロータリーに「NIHON MARU」寄贈 沖美町三吉 沖正美・フミコ 平成元年とプレートの付けられたプロペラとシャフトが置かれています。

日本丸といえば帆船の航海練習船、「海の貴婦人」と呼ばれた初代日本丸をイメージしますが???、???まさか???。

ちなみに、日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船で、昭和59(1984)年までの約54年間に、地球を45.4周する距離を航海し、11,500名の実習生を育ててきました。
昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存されており、一般公開されています。

その日本丸のプロペラを取り外し三高へと持ち出した?とは思えませんが???。
ただ実習生としてより他に、日本丸と地元能美船員との関係があるとすれば、戦時中日本丸は石炭運搬船として瀬戸内海航路を何度も往復しましたので、当時石炭運搬に多く携わっていた能美出身の船員さんが日本丸に乗船していたとしてもおかしくはありません。

また帆船日本丸は普通「Nippon Maru」と呼ばれますので、三高の「NIHON MARU」とは違う船?プロペラも少し小ぶりだし???、 三高ミステリー ・・・(^_^;)です。

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昭和50年の三吉地区の中心部です。

木ノ下川河口防波堤の左に、カーフェリーが着岸しいています。
その左に現在ある待合所やロータリー、フェリー桟橋などが建設途中です。

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現在のフェリー桟橋と、着岸しているのは「シーフレンド」です。

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シーフレンドの船橋(操舵室)部分です。
マストに揚げられているのは、緑十字旗と瀬戸内海汽船の社旗です。
また操舵室窓の下には建造元である内海造船の文字が記された楕円形の真鍮プレートが取り付けられています。

シーフレンドは因島田熊内海造船において1998年1月に竣工、山陽商船、芸備商船、 瀬戸内海汽船、安芸津フェリー、江田島汽船などを転籍(共有予備船利用もあり)現在は瀬戸内汽船に在籍し、子会社である瀬戸内シーラインの宇品~三高航路に投入されています。

全長49.9mで排水量312t、ディーゼル2軸で1,600ps、乗用車10台、トラック4台、船客250名が乗船し、11.5ノットの速力でもって航行します。

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速力を緩め着岸準備中のシーフレンドです。
現在の宇品三高航路はこの「シーフレンド」と「入船」の二隻で運行されています。

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この宇品三高航路は安渡島付近で、大型船が頻繁に行き来する航路と直角に交差しますので、左右を見張り、間合いを取って航行する必要があり、気の抜けない航路となります。

カキ筏では何隻ものカキ船が作業中であり、潜水艦1隻が東進中、超大型のバラ積み船「新音戸」と海上自衛隊呉警備隊所属の高速連絡艇が西進中です。

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桟橋に着岸中の「入船」です。

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2012年4月撮影、在りし日の「ドリームのうみ(江田島汽船)」です。

売却予定だった「ドリームのうみ」ですが、2011年3月11日、未曽有の大惨事となった東日本大震災の直後、被災した気仙沼市の大島汽船へと無償賞与されました。

画像は約1年間の賞与期間を終了し再び江田島市所有船となり、江田島汽船にて就航中のドリームのうみです。

ドリームのうみはその後も2014年10月まで江田島汽船にて運行されていましたが、翌年、尾道市の和気海運商事に2億5400万円で引き取られました。

「ドリームのうみ」は広島県福山市鞆町の本瓦造船株式会社で建造されました。
発注者 江田島市(合併前の能美町)
竣工 平成17年1月31日
船 型 単頭ニ軸船 船首尾ランプドア (油圧シリンダ方式)
全 長 59.375m
幅 11m
喫 水 2.6m
総 ト ン 数 395t
主 機 関 ヤンマー  8N21A-EN×2基 1800ps
航海速力 14.5ノット (85%出力)
載貨重量118.29t
最大搭載人員 旅客300名 乗組員3名
搭載車両 バス4台または普通乗用車10台

建造費の明記はありませんが、おおよそ5億円???くらい・・・です。

三吉 三高港

三高港 
狭議で三高港といわれるのは、木ノ下川河口の西につくられた小さな港ですが、今日では高祖西港や、完全に埋め立てられ痕跡も留めない高祖東港、三高(三吉)港、小島(小山)港を合わせて、「三高港」と呼びます。

ちなみに元の三吉港が三高港となったのは、明治22年(1889年)に三吉村と高祖村(美能地区も含む)が合併し、三高村が発足したためです。

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画像は昭和37年の三高港付近を空撮したもので、左上には円形の高祖東港があり、三高中学校や貴船神社はもろ砂浜に面していました。

画像では、木ノ下川や柳之前川の河口に広く砂溜まりが見られ、港の入り口にまで押し寄せています。
台風もしくは大雨により河川から土砂が流出したのでしょうが、このようなことが頻繁に起こっては港として機能しません。

三高港が現在あるように大規模に改港されたのは、このような理由からではと?・・・推測です。

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改修された古くからの三高港港内です。
水深は浅く、係留されている多くは小型船です。

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港内の水深のある位置には小型底引き船です。
主には冬場、鉄枠に取り付けた網で海底を引いて廻り、ナマコやカレイ、ヒラメ、エビなどを捕獲します。

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小型の海上作業船「第五ひで丸」です。
主にカキ筏の移動や設置作業などを行いますので、小型でもエンジンは高馬力です。

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「沖美運送(有)」の大型トラック「三菱ファイター」です。

かって、この付近の岸壁には沢山のミカンやダイコン、ハクサイやキャベツが山と積まれ、番船と呼ばれる小型船に積み込まれて、広島や呉の市場へと運ばれていましたが、カーフェリーの就航や早瀬大橋の開通(昭和48年)島内道路の整備、農業の衰退などもあり、今日番船を仕立てて市場へと乗り込むことは無くなりました。

この三菱ファイターはその番船の代わりとなるもので、三吉や近隣農家の産物(近年では菊など花卉類が多い)を積み込み市場へと運び込みます。
トラック運転席側のフロントには市場への乗り入れ許可証が置かれています。

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画像は昭和56年10月の空撮(国土地理院)です。

先の昭和37年からわずか20年でここまで整備が進みましたが、この後も改港工事は大きく進み、左上に見える高祖東港は埋め立て工事により完全消滅、三高中学から三高桟橋への道路(県道36号線)も新設されました。

また、同時に河川工事も並行して行われ、大雨があっても大きな土砂の流出はなくなりました。

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改港された、新三高港の埋め立て地は主に三高特産物のカキ養殖事業者に提供され、事業の近代化に有効利用されています。

最盛期にはカキ連の揚収クレーンをマストのように掲げたカキ運搬作業船が、早朝から何隻も出入港を繰り返し、船からベルトコンベアーで作業場に陸揚げされたカキは、すぐさま大きな回転ドラムに入れられきれいに洗浄されます。

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家内作業で行われていたカキ養殖業も、今は外国からの研修生を何十人も雇い入れ、すべてを効率的におこなう、工場生産にも似た大規模な近代化がなされています。

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大きく様変わりした三高港の全景です。

ちなみに、平成27年の都道府県別カキ養殖量(殻付き重量)は
広島県106,851t ・ 宮城県18,691t ・ 岡山県10,657t ・ 全国計で164,380tとなり、広島県のシェアは65.0%、むき身生産量だと広島県は19,322tでシェア68.1%です。

県内でのカキ生産量第一位を誇るのは呉市、第二位は江田島市であるといわれますが近年のデーターは不明、あるいは県下第一位に躍り出ているかも???・・・(*^。^*)です。

三吉 小島港(小山港)・馬脊島・中小島・脇小島

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能美島志(1763年)に、「稲積」は三吉村の海岸にあって、小島分れ並ぶ、風色愛すべし。と、記されます。

また、芸藩通志(1825年)では、「馬脊島」、「脇小島」、「中小島」は三吉村に属す。
馬脊(うまのせ)は、周一町三間(114.5m)、脇は廿四間(43.2m)、中は七間(12.6m)に過ぎず礁苫の類なり。と、記されます。

ちなみに、能美島志で「稲積」と云われたのは、島を構成する花崗岩の風化節理の模様が稲束を積んだように見えたから???でしょうか。
芸藩通志に云う馬脊(うまのせ)とは島の頂部や稜線が馬の背のようにやせ細っていることからでしょう。

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画像は、昭和初期の三高商店街地図(沖美町史掲載)です。

右下に小島港の石積み防波堤が書き込まれており、その沖に三つの島(脇小島と中小島の礁苫)が見えます。
当時はそれぞれの島に名前が残っていただろうと思いますが、戦後?これらの島はコンクリートで固く繋がれ小島(小山)港を守る防波堤の一部となりました。

それとともにこれらの島を一まとめにして、「小島」と呼ばれるようになり、港も「小島港」となりました。
ちなみに地元の方々の話では、陸側(現農協倉庫)には陸続きとなった小山(馬脊島)があり、この付近の元の地名は小山であったといいます。
農協倉庫の脇、東側には中町・高田港から宇品を結ぶ貨客船が途中寄港し、付近の田畑で生産された農産物や農業資材を運ぶ番船も多数出入りしていました。
昭和40年頃に車を搭載することのできるカーフェリーが就航する以前は、三高桟橋よりも此方の小山(こやま)岸壁の方が賑やかなこともあったと云います。

上記画像の、「昭和初期の三高商店街地図」には「小山岸壁」は載っていませんので、それ以降から、昭和22年までの間(昭和22年10月の航空写真には小山岸壁が写っています)に岬先端の小山(馬脊島)を削り取り、農協資材倉庫や小山岸壁が造られたのだろうと推測します。

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コンクリートで固く繋がれ防波堤の一部となった、脇小島と、その手前には辛うじて浸食を免れた小さな中小島です。

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脇小島(わきこじま)の北東面です。

風波による浸食で痩せ細り、島の頂部へと登るのは危険な状態です。
現在海図等では島として認められていないようで標高が記載されていませんが、推定で5、6mくらいだろうと思います。

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脇小島のどてっぱらには海食洞となる大穴が穿かれており、港側から外海に浮かぶ「笠磯灯標」を覗き見ることが可能です。

もう数百年?もすれば、脇小島の一部は防波堤から切り離され「脇ノ脇子島」??が誕生するかも???・・・(*^。^*)です。

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脇小島から腕のように延長された石組みの防波堤には、係船用のビット(係船柱)が埋め込まれています。

この石組み防波堤は「昭和初期の三高商店街地図」にも載っていますので、おそらくはそれ以前に造られたものだろうと思います。

沖に見えるフェリーボートは三高桟橋から宇品港へと向かう「シーフレンド」312tです。

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西側防波堤から見た小島港港内と、北風を遮て立つ脇小島です。

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三吉農道から見た、小山地区の家々と小島港、防波堤の一部となった脇小島と中小島です。

右沖に笠磯灯標、はるか沖合を西進するのは、艦番号403、潜水艦救難艦「ちはや」5,400t、全長128m、深海救難艇を搭載、2000年に岡山県玉野市三井造船所で建造されました。

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潮の引いた小島港の砂浜に船底を横たえる小型木造漁船の「胡子丸」です。
木造の船体を滑らかに仕上げ表面をグラスファイバーで覆った、当時としては最新の技術で作られた多目的漁船です。

一本釣りや延縄、刺し網や吾智網漁、蛸壺、アナゴ籠と、小型船の機動力を生かし瀬戸内狭しと走り回ったのでしょう。
潮が引けば港内に砂浜の現れる、非効率ではあっても昔と変わらぬ、ゆったりとした時間をもっとたのしみましょう。

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老船のたまり場となった小島港です。

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小島港の東、岬の先端にあった馬脊島を削り取って造った農協資材倉庫も、最近では入り口シャッタが開くことは稀となり、その脇に花崗岩を組んで造られたスベリ岸壁に、番船や貨客船が横着けすることも無くなりました。

沖に見えるのは広島港との中間に位置する似島です。
西端の岬「地獄鼻」を廻って何隻もの番船が抜きつ抜かれつ、我先にと行き交ったのはそんなに昔のことではありません。
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