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三吉 古地図(芸藩通志)

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画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。
コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。

正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

安堂島は「能美島志(1763年)」よりの引用で、現在は安渡島と記します。

三吉村古地図(北東)AB 
三吉村の北東部分を拡大したものです。

三吉村古地図(南西)AB 
三吉村の南西部分を拡大したものです。

s-三吉村原画 
芸藩通志記載「三吉村」の原画(コピペ)・・・m(__)mです。
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三吉 いいとこ撮り 3/3

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三吉発展の源は木ノ下川からの恵みを受け、営々何世代にも渡って農業に勤しんだことにあります。

農道脇に建つ石板に、後世への遺訓・・・m(__)mです。

母 フ ミ ヨ 遺 訓
祖先の名を汚さぬ様、努力すべし。
働く事を忘れるな。
世話になった恩を忘れるな。
有る金は貸しても、金銭の保証人になるな。
夫婦は親兄弟以上の愛情を持って暮すべし。

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田んぼを覆うレンゲソウ・・・(*^。^*)です。

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田植えが終わったばかりの棚田です。

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梅雨、一気に生長します。

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刈り取られた稲は秋の日射しを浴びます。

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美味しさが最大となる時期を見極めて、一気に脱穀します。

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木ノ下川の両岸には、急な山腹を削ってつくった石垣が天まで続きます。

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多少でも雨水の集まる谷筋は石垣を組んで田んぼにしました。

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田んぼとして使われなくなった後も、野菜をつくったり花を植えたり・・・。

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石垣の隙間にはシュウカイドウの花が似合ます。

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石垣とアジサイもお似合いです。

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石垣の上で、さらに上へと伸びるタチアオイの花です。

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路地脇の僅かな隙間にも咲きます。

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畑との境にも・・・。

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沖合を外国からの物資を満載した巨大船が横切ります。

美味しい三吉米を供給した自慢の棚田は、一段また一段と草に埋もれます。

三吉 いいとこ撮り 2/3

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以下は「沖美町史(平成元年)」の要約となりますが、平地の少ない島しょ部にあり、さらには農地の確保が最重要な時代背景にあって、住居の選定はおのずと傾斜地を削って新たに造成した土地に限ることとなります。

最低条件として近くで飲み水が確保できる必要はありますが、屋敷の前面、側面は石垣を築き背後には薪を供給する山、あるいは段々畑を背負うことが普通でした。

近年の農業不振と車社会の到来により、平地へと建て替えられる家々が多くなり、かってのひな壇集落は急速に減少し、風通しの良さだけが最大の売りだったかっての住居は消滅、その真逆となる気密性に優れ高い省エネ効果?をもち車庫を備えた近代的住宅へと急速に変わっています。

上の画像は沖美町史より転写した母屋の間取り図です。

昭和初期のころの一般的家庭の母屋部分で、おくの間には床の間や仏壇をもうけ、客間としてのものであって、普段生活で家人が使用することはありません。

おもて
は家族の居間であり、機織機が置かれるなど仕事場を兼ねる場合もあります。

なかえ
(なんど)は寝室として使用され、寝具衣類を格納する押入れやタンスが置かれます。

台所は家族の食事場であり、土間であるにわの奥に煮炊きに使う、くど(かまど)や流し場、水を溜めるはんどう(水がめ)が置かれ井戸水が溜めてありました。

にわ
は来客の取つぎ場でもあり、だいがら臼(唐臼)を設置し精米作業が行われたり、夜間や雨天時の作業場ともなりました。

小便所は玄関脇の囲いの中に置かれ、大便所は屋敷の外に小屋をつくって離れた場所に置かれました。

母屋に付属して、しころ(漬物倉)・納屋・農機具置き場・牛馬家畜小屋・こなしや(堆肥)・焚きもの小屋・風呂・便所・門長屋・土蔵(くら)など、用途や敷地に合わせ様々に工夫されていました。

蛇足となりますが「39尺造り」とは田の字型に造られた4部屋のうちの、2部屋が6畳間、もう2部屋が4畳半間で、その4部屋を合わせた一辺が21尺と18尺となり、その2辺を足すと39尺となります。一尺は約30cmです。

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集落を見下ろす高台に大きな長屋門をもつお家がありました。

壁一面にツタが絡んでいますが、手入れされた庭木もあって時々はお掃除に来られる方がおられる様子です。

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失礼ながら長屋門をくぐらせて頂きますとその正面が母屋(客間?)となっており、客人用の玄関?となる部分が真正面にせり出して造られています。
始めて見る構造で仔細は分かりませんが、おそらくは当地の庄屋さんクラスの方のお住まいだったのでは???です。

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高く優美に組まれた石垣と、幅広の石段を設けた由緒ありそうなお家ですが・・・。

植木として植えられたモミジの大樹、屋根を覆いつくす勢いで成長を続けています。

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斜面を削り取り、石垣を積み、何代にも渡って増改築されたであろう、白壁のすてきなお家です。

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納屋の下を半地下(こなしや)とした、典型的なお百姓さん造りのお家です。

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古い集落は皆、木ノ下川の両岸にせり出す山の斜面を削ったひな壇につくられています。

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ここまで登らなくっても・・・って思うくらいの高所まで・・・。

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三高名産の赤煉瓦を積んだお家です。

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ここの煉瓦はこの家のお爺さんが積んだんだよ。って、教えて頂きました。

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三吉地区には白壁の建物を多く見ます。
むか~し(昭和30年代まで)、三高ダムの近くで石灰岩を採掘し、焼成工場が稼働していたと云いますので、そのせいかも・・・(*^。^*)です。

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土蔵の焼杉板に、「不二わた」「贈り物専門店ハリカ江能店」のブリキ看板が打ち付けてあります。

「不二わた」は「藤野綿業株式会社」が製造する布団綿の商標です。

藤野家は広島藩主浅野候が紀州和歌山から国替えとなった時に随伴、綿繰屋として創業し「富士屋」と称しました。
明治10年、新たに「藤野綿業」となって近代化をはかり英国製綿打ち機などの導入により一気に生産力を向上させました。

主力製品には、「不二わた」「天使綿」があり、本社工場(広島市東蟹屋町130番地)の他、広島県千代田、豊平、大分県、京都府、朝鮮半島、中国にも工場を持ち、昭和初期の頃は全国一の生産量を誇っていましたが、綿需要の変化などもあって昭和56年、廃業するに至りました。

ちなみに、「株式会社ハリカ」は東京都板橋区板橋に本社を置き、ハリカギフトチェーンの統括、カタログ販売とう、贈答用商品を扱う現役の会社です。
資本金9千万円、従業員180名(2016年)です。

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役所とか学校の先生を退役したお爺さんのお家?
大きな沓脱石が置かれ、気品のあるスマートな燈籠が建てられています。

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町屋造り?。
一般的な町屋造りは、居住空間や家人用の玄関は道路から見えない奥の方に置かれるのですが、商売用のアルミサッシ引き戸と同列に道路に沿って建てられており、とても贅沢な造りのお家です。

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明治のころ三吉村から中村の尋常高等小学校へと通う学童の通り道だった山道の先に大きな廃屋があります。

はるか遠くから大屋根が見えるのですが、山腹にポツント屋根だけしか見えないので、どの道を行ったら良いのか?わからずにいましたが、たまたま間違って?進んだその先に・・・

なんとその建物には看板が残っており「青少年研修??? 江能自然の森」と読めます。

「わしものぉ~、詳しいこたぁ~知らんがのぉ~、ずい分と昔に廃止され、職員は江田島青少年交流の家に移ったと聞いたがのぉ~???」って、たまたまお会いした方からの立ち聞き情報です。

三吉 いいとこ撮り 1/3

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三吉、高祖地区の海岸を北側からみた、グーグルの3D地図です。

右側の三高山(砲台山)山系と左の宇根山(野登呂山)山系の真ん中を南から北へと深く削って流れ下る木ノ下川と、その流域に沿って発展した三吉地区の地勢が一見して伺えます。

木ノ下川が削り取った砂礫は急流を一気に流れ下り、河口部に僅かな扇状地を残すのみで大半は海中へと呑み込まれてしまったようです。

その風化花崗岩である砂礫の一部は白く長い砂の帯となって、三吉から高祖、美能へと繋がっておりましたが、台風や季節風を防ぐ目的でつくられた防波堤、水害からの被害を防ぐためにつくられた多くの砂防ダムや河川の護岸工事により新たな砂礫の移動や供給は止まりました。

永年、老松の枝下に続いた長い遠浅の砂浜は、もはやその姿を取り戻すことはありません。

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木ノ下川の河口右岸に僅かに残った砂浜です。

砂防ダムや河川整備が整い新たな砂礫の流入が止まったことにより、砂浜は次第にやせ細ってきましたが、それでも一日二回の干潮時には沖合数十メートル先までの砂浜が現れます。

ただ、その沖合にはカキの抑制棚が林立しますので、素足で水遊びをするのは止めた方が・・・。

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遠浅の海面を占有するのは、杭打垂下法とよばれるカキの養殖に使われる井桁の列です。

昭和30年代まではカキ養殖の主流として使用されていましたが、現在ではカキの発育調整など限られた使用がなされるため、時期によってはホタテの貝殻を連ねたカキの養殖連をまったく見ないこともあります。

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中央部の密度が高く黒く見える部分には出荷調整用のカキ養殖連が吊り下げてあります。

カキは梅雨が明けたころから、親カキが一斉に放卵、放精を始めます。
放卵放精のタイミングはいまだ人知の及ばないところですが、条件によってはその付近の海面が真っ白に変色し、一見して放卵放精を知ることができます。

受精した卵子は間もなくして幼生となり、付着物を見つけて着床しますので、そのタイミングでホタテ貝殻の連を海中に下げ、貝殻一枚あたり100個の幼生を着床させます。

一般にはこの幼生カキが着床した1mばかりのホタテの貝殻連を、杭打抑制棚に垂下して養生、抑制し耐性を強くした連を出荷時期に合わせて回収します。
この幼カキの着床したホタテ貝殻40枚を長さ9mの針金に等間隔で取り付けて一連とし、沖に係留した筏に600本の連を取り付けます。

ホタテ貝殻一枚あたり10個のカキが成熟しますので筏一台あたり、カキ10個×ホタテ貝殻40枚×連600本となり、成熟カキが240,000個が収穫できます。
殻付きカキを一個を100円で販売すれば、筏一台で2千400万円の収入となります・・・(*^。^*)です。

以上は理想論です。
今まで三高沖は幼生の発生が盛んで、カキの種付け(採苗)場として最良の海面であるとされてきましたが、近年その発生率が安定せず、カキ養殖の最大の要となる種付け作業に一喜一憂する状況であるといいます。

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杭打垂下棚(抑制棚とも)とその沖を行く自衛艦、他所ではまず見ることのできない不可思議画像?・・・(^_^;)です。

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ホタテ貝殻を連ねた採苗兼育成連です。
貝殻の表面に小さなカキが密生して成長しています。

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7月下旬の様子です。
採苗に成功した連を育成(抑制)棚に取り付ける作業です。

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この年はうまく採苗(種付け)ができた様子で、連を手渡す掛け声にも張りがあります。

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一月中旬の様子です。
抑制棚で一冬の間寒風に当て、耐性のある丈夫な幼貝に育てます。

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12月下旬のカキ殻一時海中集積場の様子です。
正月用に大量に剥かれたカキの殻は各漁協ごとに決められた海中集積場に投下され一時保管されます。

集積量が増えた時点でクレーン船により回収されてカキ殻処分工場へ引き取られます。
カキ殻は、農作物の肥料、土壌改良剤、ニワトリなど家畜の飼料、道路等の凍結防止剤、融雪剤、ラインマーカー、建材製品、漁礁としての再利用や、水質浄化用など利用法は多岐にわたっています。

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季節は6月、新しいカキ筏を準備したり、採苗用のホタテ連を準備したりと、筏の並ぶ海面では作業船が大忙しの様子です。

この三高港沖の航路は呉港にある海上自衛隊基地へと出入りする護衛艦や潜水艦などが、ごく日常的に行き交っています。
でも反行する二隻の潜水艦を一画面に捕らえられるのは、ラッキー・・・(*^。^*)です。

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三高漁港防波堤の先端にある赤灯台です。

沖の航路を西行するのは瀬戸内海汽船のベイクルーズ船「銀河」です。
穏やかな瀬戸の島々を眺めながら、ランチ、ディナー、パーティー、さらに船上結婚式なども執り行うことができます・・・(*^。^*)です。
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