鷲部 いいとこ撮り 1/2

2)江田島町南部・鷲部地区 
背後に連なる山々の稜線を境として、秋月地区とは東と西に分断されます。
鷲部地区の、土地斜面は西を向きますが、前面には、波静かな江田島湾が広がり、おだやかな気候に恵まれています。

その為か、北側に隣接する中央地区もふくめ、南方系の樹木、ホルトノキなども普通に自生しています。
 

1825芸藩通志 
鷲部地区の古い地名を画像の右下(南)から左へ紹介します。

石風呂 : 海岸の洞窟などを利用して作った、一種のサウナ風呂です。
約800年前、源平の争乱で焼失した、東大寺を再建するために木材を求て、周防国を訪れた、東大寺大勧進職の重源上人が、木材を運び出す、役夫の保養を目的に作った、「石風呂」が各地に広まりました。
江田島町宮ノ原には、今に石風呂の地名が残ります。

ヲトシ : 香川県女木島では、冬に山を越えて吹き下ろす西風や、その影響で発生する南からの強風を「オトシ」と呼びます。
当地のヲトシと、同じ意味なのかは不明ですが、場所柄、風を意味する地名では?と想像します。

アブノ鼻 : 東方に向かって、朝日を拝する土地を、アブ・アワ・アハ・アヲと呼ぶそうですが、鷲部のこの地は、西に夕日を拝するのに最適の地、ですので、???です。
ただ、単に昆虫のアブが多かった、からの地名かも???です。
ちなみに、「えびすの岩」と呼ばれ、梵字の刻まれた大岩があるのは、このアブノ鼻です。

迫田川 : 古地図にのこる川の名ですが、今は県道の下をヒューム管(コンクリート管)を通して江田島湾に注ぎます。
地図では確認できないくらいの、小さな小川ですが、流域には貴重な水を求めて作った山田の跡や、わずかなミカン畑が今も残っています。

鷲部 : 今も残る地名ですが、由来がわかりません。
土居氏が亀山城に入ったのちに、亀山城を鷲部城とも呼んだことから、土居氏の御先祖様に関係する名では?と、推測・・・(^_^;)です。

乙子ハヘ : 江田島図書館の沖あたりになりそうですが、埋め立てにより痕跡をとどめません。
京都上鴨神社では、乙子(おとね)神事とも言わる、平安時代からの祭事があります。
人々が春を待ちこがれて野原に出、若菜を摘み、春の到来を尊び宴遊した野辺遊びを神事化したものですが、当地の乙子ハへと通ずるかは?疑問です。
また、末っ子のことを乙子(おとご)とも言いますので、単に、先っちょの方にあるハエ(岩礁)ということかも・・・(^_^;)です。

江口 : 今も江ノ口(えのぐち)として地名が残ります。
古くは、亀山城を守るため、小さな入り江を利用した、舟隠し(港)があったと思われます。
今、当時の痕跡は皆無ですが、埋め立て地の脇に、コンクリートの波止を伸ばして、小舟が係留されています。

古城山 : 現在の亀山城ですが、江戸時代には、すでに城はなく、1825年の地図では古城山と記されています。

2012-12-01 002 038 (800x598) 
鷲部地区の最南部には、江田島自動車学校があります。 

昭和41年創業、昭和43年に公安委員会からの指定を受け、以来40年以上の歴史を持つ自動車学校です。

戦後生まれの江田島市民は、ほぼ全員?、この学校の卒業生かも・・・(*^_^*)です。
ちなみに、普通車MTで、295.800円(2013.1.21)です。


2012-10-19 002 088 
昔は、多くの人でごった返し、順番待ちをした記憶があるのですが、・・・

今なら貸し切りでゲームができそうです。
ただし、解体更地渡しで16.880万円、先着順みたい・・・(^_^;)です。

2012-12-01 002 065 (800x601) 
鷲部2丁目にある、江田島市消防本部江田島消防署・・・(*^。^*)です。
能美町鹿川には能美出張所があり、全職員65名で江田島市4町の警防、救急の責務を負います。

消防署職員65名の他にも、各地区ごとに消防団が組織され、平成21年4月現在で4方面隊16分団、消防団員定数614名のところを、533名の精鋭をもって、地域の防災に対処しています。

 

内訳は、江田島支部消防団本部(9名)


第一 方面隊(227名)

中央第1分団 (中郷)・(向側)

中央第2分団 (矢ノ浦)・(山田)

分団 (鷲部)・(江

東分団 (秋月)・(小用)

北分団 (切串)・(大幸)

西分団 (津久茂)・(宮ノ原)

 

第二 方面隊(82名)

鹿川分団

中町分団

高田分団

 

第三 方面隊(78名)

沖分団

三高分団

 

第四 方面隊(137名)

深江分団

大古分団

大君分団

柿浦分団

飛渡瀬分団・・・(*^。^*)です。

各分団にはそれぞれ消防車や応急機材が配備され、地域防災無線による緊急呼び出しに即応します。


2012-12-20 002 004  
埋め立て地の脇に、江ノ口港です。

2012-12-20 002 029 
正面に江ノ口港と江田島湾、右の埋め立て地は元鷲部小学校のグラウンドです。

111025 051 
亀山城の北側に伸びる、花崗斑岩の岩脈です。

江田島市の基盤をなすのは、呉花崗岩ですが、沖美町南部から能美町鹿川、大柿町の大原、深江を含む鹿川湾は、音戸花崗閃緑岩、そして江田島湾と鷲部一帯は江田島花崗閃緑岩と呼ばれる、呉花崗岩よりも古い時代の花崗岩があらわれています。

呉花崗岩よりも風化が進み、真砂土となって鹿川湾や、江田島湾を埋めていますが、後の時代に、これらの花崗閃緑岩に貫入した花崗斑岩の岩脈が、小島や岬、山の尾根となり残っています。

亀山城自体も花崗斑岩の岩脈が残ったものですし、その延長と思われる岩脈が民家の脇を堤防のように伸びています。
この付近の埋め立てが始まる遠い昔、この岩脈を利用した強固な舟隠し(港)があり、さらに背後の山々から切り出した木材で作った軍船が、この亀山城のかなめだったろうと?、想像・・・(*^。^*)です。

2012-10-07 002 004 
戦時中に急増された海軍宿舎用地に、戦後作られた海上自衛隊の鉄筋コンクリート官舎が並びます。
江ノ口官舎または鷲部官舎と呼ばれます。 

2012-12-29 003 022 
昭和十七年八月八日ソロモン空戦に於いて戦死・・・と。

ソロモン戦とは・・・

ガダルカナル島の攻防を巡る戦いです。
ガタルカナル島に飛行場を建設中だった日本軍に対し、1942年8月7日、米軍の強行上陸が成功し、完成間近の飛行場とすべての機材を奪取されました。
再び飛行場を奪還しようとする日本軍は、数度にわたる決死の揚陸作戦で、多くの兵員を送り込むことには成功しましたが、米軍の執拗な攻撃に阻まれ、食料弾薬をはじめ、必要とする多くの物資を陸揚げすることができませんでした。
翌年2月1日からの撤退作戦が行われるまでの間、一切の食料補給を絶たれた日本軍兵士は、ガタルカナルのジャングルをさまよい、空前絶後の地獄を見ることになりました。

 

ガダルカナル島に上陸した日本軍の総兵力は31.404名、うち撤退できたものは10.652名、それ以前に負傷・後送された者は740名です。

死者・行方不明者のうち、直接の戦闘での戦死者は約5.000名、残り約15.000名は餓死と戦病死だったと推定されています。

 

以上は、陸上での戦いですが、海上においても第一次から三次までのソロモン海戦があり、ミッドウェー海戦に続く、艦船、航空機、搭乗員の多大な消耗は、第二次世界大戦の完全なる転換点であると言われます。

ちなみに、戦没者を祀るお墓は、一般に見る墓石よりも細長く、頂部が尖った特別の形をしています。

これは・・・

国難に殉じた御霊を英霊(軍神)として祭るためで、当時仏教よりも上位とされた、神道にもとづく墓です。

 

神道の墓とは・・・

以下、ウィキペディアからのコピペです。

 

基本的な構成は、仏式と同じであるが、神道では焼香を行わないので、香炉は要らない。

また玉串を奉げる為の八足台が要る。

墓石の形は、細長い角柱型で、頂上部は四角錐になっている。

この形は三種の神器の一つ天叢雲剣を表しているとされる。

 

墓石には「○○家奥都城」或いは「○○家奥津城」と刻む。

墓石がない場合は墓標に「○○大人(刀自)命奥都城」と書く。

神道では戒名はなく、姓名の下に、之霊・命・命霊・霊位などを付ける。

 

日本軍人の墓は神道墓で建てられていることが多い。

     二拝二拍手一拝 ・・・ m(__)mです。

スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
検索フォーム
カテゴリ
リンク
最新記事
月別アーカイブ
プロフィール

わきです

Author:わきです
FC2ブログへようこそ!