中央 矢ノ浦浄水場跡

2)江田島町南部・矢ノ浦浄水場跡 
支那事変の拡大から日米開戦へと続くなか、若き海軍士官の必要をせまられ、兵学校の生徒数はうなぎ登りに増員されました。
それまでの、兵学校の裏山に雨水を集めて作った、奥小路ダムからの水源では、兵学校生徒や職員を含め数万に近い人々の渇きをまかなうことは到底できません。

そのため新たに、沖美町の三高や能美町鹿川に水源を求め、兵学校に近い、この矢ノ浦に浄水場を新設しました。
 

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戦後駐留軍の手を経たのち、江能水道企業団へと移行されましたが、水源が太田川へと変わり、小用地区に前早瀬浄水場が造られて、その役目を終えました。

今は丘の上部に、給配水設備の一部が残っています。
 

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丘の上へと延びる細い一本のレールは、浄水場を管理するための資材を運搬するためにつくられた簡易モノレールです。
 
ミカンでお馴染の愛媛県で発案?され、制作会社の名前から「ちぐさ鉄道」とも呼ばれます。
急傾斜地を登ることのできる索道で、農業資材やミカンなどの収穫物を楽に運搬出来ることから、島内のミカン畑ではごく普通に見ることができます。

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もう数十年も使われていない浄水池ですが、きれいに草が刈られ手入れされた様子に、水道事業に欠かせない、安全安心を供給する心意気が感じられます。

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きれいに草刈りがされた元浄水場の下には、江田島警察署、県道を挟んで江田島小学校が、さらには江田島湾や能美島の野登呂山が一望です。

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丘の斜面には誰がいつ植えたのか、大木となった柿の木の枝が垂れ、赤く色付いた実が小鳥の羽音に揺れていました・・・(*^。^*)です。

江田島水道網1945年 

ちなみに、戦後連合軍に引き渡した海軍施設の目録資料によりますと・・・

水源地として     

奥小路:満水量33.800t、送水管径125mm、送水能力300t/1日

鹿 川:満水量100.000t、送水管径250mm、送水能力700t/1日

三 高:満水量230.000t、送水管径250mm、送水能力2400t/1日

 

また、浄水能力は

奥小路が300t/1日で、矢ノ浦が2800t/1日

 

・・・ですが、お天気が続けば当然、ダム湖の水量は激減するわけで、

呉市狩留賀より300tの水船2隻、250tと200tの水船各1隻を利用し、2.400t/1日の水を小用地区まで運搬する用意もありました。

 

このような経験と、三高、鹿川から江田島小用地区を結ぶ送水管が有った事が、後年の江能水道企業団による太田川から江田島、能美島への水道事業が早期に可能となった一つの要因となりました。

ただし、当時はあくまでも海軍施設に給水するのが主目的であって、一般住民の多くは、井戸水や地区ごとの簡易水道施設を利用していました。

(青図と要目はアジア歴史資料センターより)

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