国有無番地(旧海軍兵学校) 記念碑、野外展示物 4/4

旧海軍兵学校グーグル地図・屋外展示物、記念碑 
明治19年6月1日、海軍兵学校用地の視察測量団が訪れたとき、古鷹山の裾野に伸びた岬の先端、今は「八方園」と呼ばれる小丘には、お鷹神社が鎮座していました。

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画像は江田島町史よりの拝借・・・m(__)mです。

お鷹神社(現八方園)は画像中央、古松の根元に鳥居があって、その上の岬の先っちょ、小丘の頂を平に削った場所になります。

本浦地区(現国有無番地)には兵学校の移転前から大規模な干拓地が造成されていて、砂糖キビや綿花、ラッキョウ、サツマイモ、条件の良いところでは稲作も行われていました。
また現在水交館の建つ丘の下には小さな入り江と集落があり、少し奥まった位置には教法寺の大伽藍が完成したばかりでした。

視察からわずか2ヶ月(6月1日視察測量、7月20日買収、8月15日立ち退き完了)、住民や教法寺はただちに移転することを強要されましたが、このまま兵学校の敷地にするには低すぎますので、古鷹山の裾野を削って大量の土石で盛り土をすることになりました。

人力が頼りの当時としては超大規模な突貫工事でしたが、19年10月6日土木工事着工、1日平均10時間就業で、21年5月31日の竣工までに609日を費し、7万4000坪の地上げを成し遂げました。

この土石採取で削り取られたのが、古鷹山からお鷹神社(現八方園)へと続く岬の尾根と、キサキ鼻(木崎鼻)の南面で、このときキサキ鼻からは、県内でも珍しい青銅の八稜鏡が出土しています。
お鷹神社のあった半島の先端は兵学校庭園として残されることになりましたが、お鷹神社は中郷区 山ノカミに移転、その後江田島八幡神社境内に「古鷹神社」となって落ち着くことになりました。 

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この小丘は兵学校移転後、長く庭園とされていましたが、昭和3年11月23日、昭和天皇御大典を記念して「八方園神社」が創建されました。
が、敗戦後の昭和20年、進駐軍の手に渡るのを恐れて撤去、廃社とされました。

二つの神社の礎石に建つ「海軍兵学校之碑」は、かつて、この地で赤心に燃えた若き人々の精神を併せ留め、更にこの上に良き伝統が築かれることを希念して昭和42年に建立されました。


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八方園、小丘の頂です。
木立の先に、大講堂の屋根が続きます。

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八方園小丘の南端に設置された方位盤ですが、昭和16年に設置された初代の方位盤は所在不明です。

以下、「海上自衛隊第1術科学校」HPからのコピペ・・・m(__)mです。 

石造りの方位盤には、国内の県庁所在地及び主要国の都市名が刻まれており、生徒達が自分の出身地の方角に向かって思いを馳せたり、外国各地に向かって広い視野に立つことを目的に設置されました。

現在の方位盤は、昭和43年に幹部候補学校卒業生有志により建立されました。
古鷹山頂にも同様の方位盤が設置されております。

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八方園小丘の北東の麓に砲艦「赤城」の12cm単装砲の砲身が建ちます。

表に「軍艦赤城戦没者の碑」、裏に「明治29年4月 建」「長崎三菱造船所鋳造」と銘が入ります。

 

砲艦赤城は1890年(明治23年)8月20日に神戸「小野浜造船所」で竣工しました。
鋼製の船体に長崎三菱造船所鋳造の12cm単装砲4基を搭載し、排水量622t、最大速力は10ktでした。

 

赤城は日清戦争の天王山と言える1894年(明治27年)9月16日の黄海海戦で大奮戦するも、清国艦隊の集中砲火をうけ、艦長はじめ多数の乗員を失いました。

(戦死者11名、重軽傷者17名、被弾30発、船体中破)


その勇敢な行動をたたえ散華された霊を祀るため、大正6年に現位置に建立されました。

が、裏には「明治29年4月 建」とあることから、他所で建立されていたものを、こちらに移築した???・・・です。


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八方園から外れ、北の方に100mばかり坂道を登った場所に「従道小学校記念碑」が建ちます。
従道小学校は、海軍兵学校在職員等の子息が通う学校として明治23年から昭和20年まで構内に設立されていた小学校です。
校名の「従道」とは西郷隆盛の弟で海軍初の元帥になった西郷従道の名前から命名されました。


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従道小学校の全史を記録した、「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。
昭和13年10月31日に新校舎が建設される前の旧校舎です。
まるで、映画「二十四の瞳」を見ているよう・・・(*^。^*)です。

ちなみに、「二十四の瞳」原作者、壺井栄氏の故郷は香川県小豆島ですが、この物語の舞台は「瀬戸内海べりの一寒村」としてあり、小豆島と設定して書かれたものではありません。

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「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。

昭和3年11月に創建された、八方園神社に参拝する従道小学校児童です。


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「せんだん」江田島従道小学校の記録 からのコピペ・・・m(__)mです。
 
昭和初期(昭和10年頃?)の兵学校空撮写真です。
神田川からの土砂が兵学校の方へ流れないよう堤防が造られています。
のち、神田川の流路を変えて、この堤防より内側が埋め立てられました。

ちなみに、センダンの花は淡い紫色をしています。
小さな花の集まりですが、羽状複葉の若葉から透かし見る薄紫の花はとても爽やかです。
鳥が種を運ぶようで、どこにでも芽生えて急速に大きく育ちますが、田植えの終わったばかりのあぜ道に大きく枝を広げ、風に揺らぐ花は最高の農村原風景を表わします。

兵学校校内にも「センダン」は大きく育っていたと思いますが、あるいは教育用語の「栴檀は双葉より芳」からの引用である「せんだん」なのかも?・・・(*^。^*)です。


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明治20年、海軍兵学校の用地造成中にキサキ鼻(木崎鼻)から出土した青銅製六稜鏡です。
平安中期のものと推定され、他に香炉や土器などもあったとされます。

出土理由は不明ですが、古くはこの地が「きさきといのうち」と呼ばれていたことから「妃土居ノ内」とし、高貴な女性の舘があったのでは?と、江田島町史に記載があります。
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