幸ノ浦 幸ノ浦説教所

もとより教法寺の信徒ではありますが、当時の険悪な道路事情にあわせ、西本願寺からの御尊形をいただき、明治10年7月仮説教所として建立、一時期「一念寺」の寺号も賜りましたが、昭和28年、教法寺主管の「幸ノ浦説教所」となって、現在にいたります。

昭和49年に建て直しが行なわれたと云います。

昭和21年、最盛期の幸ノ浦地区の戸数が47戸、総人口が229名、小さな集落ですが立派な造りをした説教所です。

鐘を叩く木槌も新しく、毎朝のお勤め「御晨朝(おじんじょう)」を促す札も貼られています。
ちなみに晨朝(じんじょう)とは・・・
夜明け方。 午前六時ごろ。 卯(う)の刻。 現在の午前6時ごろ。 また、その時に行う勤行(ごんぎょう)。 朝の勤め。 晨朝(じんじょう)に寺で打ち鳴らす鐘。

説教所の脇にある小高い丘に、幸ノ浦を作ったご先祖さまのお墓が並びます。
ところで、「お墓」とは何なのだろうか?
少し考えて見たいと思いましたが、かの柳田國男氏でさえ手こずったと云われる難問、私にはとてもとても・・・ですので、下記の本とその評価記事を御紹介します・・・m(__)mです。
「お墓」の誕生 ─ 死者祭祀の民俗誌
[著者]岩田重則
[評者]鶴見太郎
[掲載]週刊朝日2007年02月23日号
日本の「お墓」の変遷を探る
日本人はいったいいつから遺骨、そしてそれを入れる「お墓」という空間に執着し始めたのだろうか。何気ないことかも知れないが、実はこの問いかけは日本史上の大問題でもある。
例えば平安時代の貴族は、自身の近親者がどこに葬られたのかについて、ほとんど関心を払っていない。十世紀初頭の貴族官僚・藤原忠平などは自分の先祖の埋葬場所についての正確な記憶すら持っていない。
無論この背景には、古代から日本人を縛り続けてきた死穢(しえ)(遺体)に対する強い禁忌の念があった。かつて柳田国男と傘下の民俗学者は、日本の墓を「両墓制」という用語で説明した。遺体の埋葬場所とは離れた別の場所へ石塔を建立し、死穢を介さない石塔のほうを祭祀の対象とするシステムだ。死者を怖れた時代と仏教受容によってその障壁が除かれた時代の重層を説くこのモデルは、見事に日本の墓制を解き明かしたかに見えた。
しかしここに重大な落とし穴があったと本書は考える。仔細に見れば、「両墓制」が想定する型の墓地はむしろ少数であった。だが、この事実を踏まえず、沖縄に日本の祖霊祭祀の原型を求める柳田によって同地の習俗がそのまま本土に敷衍され、詳しい検証がなされないまま定説化したことによって、知らず知らずのうちに日本の墓の「原像」というべきものが作られてしまったのである。
この違和感を下地に、本書は周到な方法によって日本の墓制を分類し、その変遷を再検討していく。その結果、中世において土葬・火葬にかかわらずなされなかった石塔建立が、近世の寺檀制度で次第に民間へ浸透し、我々には馴染み深い「先祖累代」と刻んだ墓石が成立するのは近世後期だったという意外な行程が描き出される。
「あるべき仮説」によって原資料を歪めることに著者は強い批判を込める。靖国神社に祀られる戦没者を一種の「両墓制」で説明しようという議論への反駁もまた、しっかりとした方法意識を経ているだけに明快である。
以上、完全なるコピペ・・・m(__)mです。
その、お墓の下には二又に分かれた防空壕が残ります。
ご先祖様に守られ、とても頑丈な防空壕です。