幸ノ浦 海上挺進戦隊戦没者慰霊碑

1)江田島町北部・慰霊碑 
江田島と言えば、海軍のイメージしか湧きませんが、江田島町の最北端、ここ幸ノ浦の地には、陸軍の秘密訓練施設「陸軍船舶特別幹部候補生」の船舶操縦養成所がありました。

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船舶特別幹部候補生とは15歳から19歳までの志願者で、昭和19年4月に香川県豊浜町にて第一期生約2,000名をもって開隊、教育訓練を開始しました。

同年6月、同部隊は小豆島渕崎村へ移駐、四式肉迫攻撃艇(まるレ)による実戦的訓練を経、8月25日挺進戰隊隊員となるべく養成教育を終了、以後の訓練は江田島の幸ノ浦で実施されることとなりました。


9月初旬当地幸ノ浦において、特攻襲撃となる最終訓練を得て、第一戦隊~第十戦隊の編成を完了、ついで10月には他部隊からの編入も得て第十一戦隊~第三十戦隊の編成を終え、決戦地であるフィリピン・沖縄・台湾へと展開しました。


海上挺進戦隊の一個戦隊は、戦隊長以下104名、「まるレ」艇百隻をもって編成されますので、19年10月までに三十戦隊、「まるレ」艇3,000隻が編成配備されたことになります。

この海上挺進戦隊の任務は敵の上陸部隊を海上で肉迫攻撃、艦船もろとも撃滅せんとす実質特攻艇部隊で、さらには特攻出撃を免れた者であっても、最前線である現地の部隊と合流し玉砕戦に投入される必死の部隊でした。


その後、本土決戦にそなえ、第二期生(2,000名が19年9月入隊)・第三期生(2,00名が20年2月入隊)それぞれ4ヶ月の訓練を終了、第三十一戦隊~第四十戦隊、さらには第五十一戦隊、第五十二戦隊の編成を完了して九州・四国・紀州の各地に展開しました。

また20年6月に入隊した、第四期生である第四十一戦隊~第五十戦隊および第五十三戦隊は仮編成での訓練中に敗戦となりましたが、当地幸ノ浦で原爆に遭遇した第十教育隊隊員は、広島市内において救護活動に専念中敗戦を迎え、当部隊が解散したのはその3週間後であった云います。

 

注) 原爆投下の頃には戦局の悪化や燃料不足により、各地での分散訓練となり当幸ノ浦は第十教育隊となって、総隊員数は100名程度だった???とも、また第二、第三期生の訓練生、各2,000名も順次幸ノ浦を訪れては特攻襲撃訓練を受け、戦隊を編成しては転属となりますので当地での部隊規模は最大でも300名程度であった、と???・・・(^_^;)推測です。

 

ちなみに、原爆投下時の幸ノ浦で「まるレ」艇による特攻襲撃訓練を受けていた「津田 弘毅」さん(広島 被爆時17歳)の回想記では、昼間の訓練は危険なのですべて夜間訓練となりました・・・部隊と言いましても特攻基地の部隊でございますから60名程度の部隊でございます。・・・と。

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海上挺進戦隊戦没者慰霊碑は昭和42年12月に建立されましたが、のち平成3年9月の台風により損傷を受け、碑文も読み辛くなりましたので、別建の銅板に清書されました。

 

 海上挺進戦隊顕彰之記

 

昭和十九年戦局の頽勢を挽回すべく、船舶特別幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校の精鋭を以て編成されたる陸軍海上挺進戦隊は、二五〇キロ爆雷を装備せるベニヤ製モータボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第十教育隊に於て昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第一戦隊以下三十ヶ戦隊が同年九月以降続々沖縄、比島、台湾への征途にのぼり、昭和二十年一月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同三月以降の沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或は戦局の赴く所已むを得ず挺身陸戦に転じ奪戦せし者を含め戦闘参加の勇士二,二八八名中再び帰らざる隊員実に一,六三六名の多きに達し挙げたる戦果敵艦船数十隻撃沈、誠に赫々たるものありしも当時は、秘密部隊として全く世に発表されざるままに終れり。

而して又第二次訓練再開されるや第三十一戦隊以下十二ヶ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第四十一戦隊以下十一ヶ戦隊は終戦時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活躍同年十月艇を焼き部隊を解散せり。

此等教育期間中の殉職者も数十名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆んど生還するを得ず。

その運命を共にせるものの如し。

祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に痛惜の念に堪えず。

ここにその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。

  昭和四十二年十二月三日

       元教育隊長  斉藤義雄 44期

 所在地 広島県安芸郡江田島町幸之浦地区

画像文字変換ソフト「読取革命」を使っての自動変換です。

一字のみ現代表記に替えていますが、他は原文のままに・・・。 

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江田島町中央「ふるさと交流館」に展示されている四式肉迫攻撃艇(まるレ)の模型です。

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「まるレ」とは正式名称を「四式肉迫攻撃艇」、70馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250kgまたは両舷に120kg×2個の爆雷を装備した陸軍開発の水上特別攻撃艇(計画設計では肉迫攻撃艇)です。

秘匿名称として「連絡艇」とよばれたので、その頭文字をとって「まるレ」と略称されました。

船体はベニヤ製で、約3,000隻?が生産され、実戦部隊では緑色に迷彩塗装を施しアマガエルとも呼ばれました。

                              

その性能は概ね次のとおりです。

 

艇型 半滑走型  全長 5,6m  全幅 1,8m  深さ 0,7m

自重 0,9t  満載排水量 1,7t  吃水 0,26m 

エンジン 日産またはトヨタ製自動車型6気筒ガソリンエンジン、70~80馬力  

最大速力 20~24節  航続力 3,5時間

武装 250kgまたは120kg×2個の爆雷

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「まるレ」の係留や揚げ降ろしに使用された石造りの突堤が残ります。
しばらく前までは、幸ノ浦地区で収穫したキャベツやキュウリを広島市場に運ぶ番船が舫っていましたが、今は魚釣りのおじさんが占有・・・(*^_^*)です。

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画像左の砂浜中央から沖へと伸びる突堤だけが当時のままに・・・。
その手前に広がるキャベツやキュウリ畑が幸之浦船舶練習部第十教育隊の用地で、9棟の兵舎が建っていたと・・・。

また、今は土石の採取で平坦地となっている、東側の山には防空壕が掘られ、燃料、資材の格納場所であったとか・・・

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波静かな広島湾を挟み10数キロ、肉眼でもはっきりと広島市街を見てとることができます。

昭和20年8月6日午前8時15分、一度に何万個分もの稲光に包まれ、やがて轟音とともに窓ガラスが砕け飛びました。
始めはバラ色の輝きを放っていた雲がむくむくと天をめざし、やがてはどす黒く天を覆いその傘は幸ノ浦の目前まで達したと云います。

10時ごろになって非常呼集があり、新型爆弾だと知らされて救助部隊を編成、片方に水筒、片方にカンパンの入った袋を持ち、大急ぎで大発動艇に乗り込んだと・・・

(前記「津田 弘毅」さんの回想より・・・)


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誰の献花か、花が枯れることはありません。

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今一度、英霊に原爆や数多戦災者の方々に、黙祷・・・m(__)mです。

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慰霊碑前の献火献煙台に刻まれた、若葉に舵輪・・・、彼らは少年兵とも呼ばれていました。

注) 上記はすべてネット資料から、要点つかみ取りのコピペ文・・・m(__)mです。
さらなる仔細が入用な方には江田島市在住の戦史研究家、奥本剛氏の著書「陸海軍水上特攻部隊全史」「呉・江田島・広島戦争遺跡ガイドブック」等があります。

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