飛渡瀬 軍艦大淀慰霊碑・慰霊堂

4)能美町・沖美町南部 軍艦大淀慰霊碑 
江田島湾の最奥、北飛渡瀬港からさらに先へと続く防波堤をそのまま北上すると、若桜の下に軍艦大淀慰霊碑と、小さな慰霊堂がみえます。

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軍艦大淀慰霊碑へと通ず、防波堤兼用の細いコンクリート道です。 
正面に霞む尖った山が古鷹山、そして軍艦「大淀」の最後の活躍と、その最期をみとった内海が防波堤の右、春風を受けさざ波をたてます。

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桜花の下、黒御影石には大淀のシルエット画と、「軍艦大淀戦没者碑誌」が刻まれています。

以下、碑誌の全文・・・m(__)mです。

 太平洋戦争の末期、日本国内は長期にわたる戦争のため、あらゆる物資が極度に欠乏し、南海に数々の功績を残した当時の最新鋭巡洋艦大淀も、重油不足により乗組将兵と共に江田島湾の奥深く、飛渡瀬内海沖にその英姿をかくしていた。

 昭和二十年七月二十四日未明のこと米国海軍機動部隊は、突如として土佐沖に姿を現し艦砲射撃を行うと同時に、艦載機による本土攻撃をはじめた。不幸にも大淀はそれらの艦載機の発見する処となり、約一時間におよぶ波状攻撃を受けた。大淀乗組の将兵はこれに屈することなく機銃、高角砲、主砲までも砲門を開き迎撃を敢行した。然し航空機の波状攻撃にはおよばず、戰死傷者続出し、艦内各所に火災が発生し猛威をふるうに至った。米海軍艦載機はその後も攻撃の手をゆるめることなく、五日間断続的に攻撃を繰り返した。

 艦上に炸裂する爆弾、天空も裂けよとばかりに火を吹く主砲、そして高角砲、間断なくうち続けられる機銃、せまい内海を尊い血潮で紅に染めつつ勇敢なる将兵は激戦を続けた。このような極限状況下にあって、当時の飛渡瀬警防団および国防婦人会は、戦闘の合間をぬって燃え続ける艦の消火活動や負傷者の救出、手当等に必死の活躍を続けた。然しその甲斐もなく、昭和二十年七月二十八日、遂に軍艦大淀は十発以上もの至近弾直撃弾により浸水はなはだしく、横転し内海沖に没した。この間、草間四朗大尉以下二百四十余名の若き生命は、祖国の栄光を信じつつこの内海に散華された。

 多くの遺体を荼毘にふす煙は、飛渡瀬の空を三昼夜覆い、純朴な島民の涙をさそった。再び繰り返してはならない、戦争の惨状を後世に伝えると共に英霊の冥福と平和への願いをこめて慰霊碑は建立された。

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花崗岩自然石に大きく、軍艦大淀戦没者之碑と・・・

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斎垣の奥には、岡山常男氏作成の(軽)巡洋艦大淀模型が展示されています。

ちなみに、軽巡洋艦大淀の艦名は宮崎県の大淀川に由来し、潜水艦部隊の旗艦となるべく建造されましたが、のちに改装され、194454日から同年929日までの間、大日本帝国海軍最後の連合艦隊旗艦となりました。

 

起工 1941214 呉工廠

進水 194242

就役 1943228

 

基準排水量 8,146トン

全長 192.0m

全幅 16.6m

最大速力 35.5ノット

航続距離 18ノット/8,700海里

 

主砲 三年式 15.5cm60口径)三連装砲2

高角砲 九八年式 10cm65口径)連装砲4

乗員 730

 

19457281200時頃に江田島湾内海において米軍航空機との熾烈な戦闘の末、被弾転覆着底しました。

 

なを、1947年9月頃?から1948年7月頃?にかけ、転覆した船体を復元して引き揚げ、ドック(呉造船所)まで曳航し解体されました。

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建立は、昭和42年12月、草間四郎大尉以下乗員240余柱の英霊が祀られます。
季節をとわず、碑前に生花が絶えることはありません。

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さらには、木仏を安置した慰霊堂が凜として建ちます。

利根・大淀1947-12-15B 
画像は、国土地理院アーカイブからのコピペ・・・m(__)mです。

米軍撮影1947年12月15日、江田島湾最奥、内海に浮揚作業中の「大淀」が、さらに能美町の中町沖には重巡洋艦「利根」の艦影も見えます。
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