柿浦 荒神社 2/2

2014-03-31 002 035 
柿浦荒神社へと向かう途中、白板に「落人のさと中郷(二位の谷)古しるべ」と題した郷土史家 奥田権太郎氏 の考証となる史文(昭和57年紅葉月)が墨書されています。

村名、郷名の由来、荒神社の開基なども詳しく列記されていますので、原文をタイプし掲載します。

落人のさと 中郷(二位の谷)古しるべ

(一)村名由来と概要史

柿の浦とは即ち中世紀末の頃、故あって隠遁の落人七戸半釜(カマチ)の一行が無人の此地に住着いたものとして、郷村史発祥の通説とする。

今其の荒ましを要約すれば、いつの頃か、さぞかし身分のある長袖姿の舟人が一羽の白鳥に導かれ漂着した。

此点と末友文章に於て、折々柿の浦なる所以は往昔にして安藝戸柿を落ちたる長袖の者流れ着き始めて隠所と定む。

所名の所以即ち舟出地たる戸柿の浦と口遊(クチズサミ)たる故に因むと記され、地名の由来を単直にもたらす。

是に依り発祥と村名を一体のものとして成立する極めて独自性ある背景を鮮明にし遠祖は身分ある落人とされ、乍ら此処に至る過程については空白謎とする面も多く、すべてを片々たる口伝に頼らざるを得ないのが無文史無史跡の中に於ける郷土史考証の実状とされる。

 

(二)郷名由来

往古より此郷は居住に適さぬ深い谷間の地形となり始めて住着いた落人が二位を名乗ったとして郷名も二位の谷と名附けた。

村名と共に郷名由来についても極めて鮮明になされる。

是が江戸中期に至って二位とは余りに畏れ多いとし中郷と改める称名の事由は北迫下岡の中間に当たる方位を示すとし佛護寺の僧に頼み名附けられたもの。

又以前より中の合、中の谷の通称は用いられたとも聞く。

 

(三)  郷名異説

異説としては二位の谷の由来としていつの頃か祈祷師として郷に住み着いた、別當なる者の館に平家落人二位局時子の世をはばかる御一行を囲まう行在所とした。

栄ある由緒を伝えんが為に其御名を郷名とした。

との、秘伝一巻も家實として来たが見ると目がつぶれるので祖先が藩に差出したとか、其上自らも家名とし仁井谷と名乗る。

此為か中郷の中腹に在る元屋敷を行在所とも呼ぶらしい。

今は往古の真偽いづれとしても地名の変遷一つにも、こうした落人哀史に深くまつわる郷史展開を見るに至る。

 

(四)  郷年証史

無文史に於ける唯一年証史料たる承平二年辛卯(932)春二月柿の浦鳶ヶ鼻沖合を書き出しとする。

時の権者衛門尉季友創基になる八幡神社縁起文書に照せば此時代概に郷集落のありかを暗示されると共に落人起源についても概ね平安後期(藤原)前後かと推定され開郷以来即ち千余年を経たる成立年証となし得る。

 

(五)  郷開祖家 二位谷本家

由緒ある落人伝承の実在とした二位谷本家については守本家付近に家屋敷跡在りとするのみでさしたる物証も残さず。

最後の当主は佐和ヱ門と伝える明暦(1655)頃に流行の疫病に見舞はれ一家断絶し落人七釜半の本家筋は郷より絶える。

未知の分野の多い中で僅かに「村の名主は佐和ヱ門さんよ」と盆音頭に歌い継がれた古老の口伝を辿れば同家が単なる旧家のみならず、ある時代村落の支配的要位に置かれ、其事蹟に依り歌として残されたものと推察され伝承実在の証としても要目に値するであろう。

 

(六)  郷史家 末友考

千古の郷土史考証に於ける象徴的存在としての末友家は承平二年佐衛門尉季友(スエトモ)神伝事蹟以来の栄光を浴び乍らも、出自系譜初期家名等一切空白の謎を残し乍ら其資料に頼れば、平安後期初の頃に此地一帯を支配する官人として赴き後に大原政所依り中郷に移り土着する。

此間に能美島荘園時代を制する実権を握り、製塩、大舟主、金貸を業とする豪族として広く名をなす卋人は其名声を伝えるに。

八反余に及ぶ屋敷の高石垣上の建物は遠く沖合を通う舟人にも衛門長者御殿として知れ渡る。

すぐ其下は海となり多くの舟倉が建ち並ぶ(大略)と哀運に至る約六百年余の栄光の一片をありありとしのばせる。

更に残文資料中特筆すべき点としては八幡神社縁起原文書に関して応永三年(1396)佐衛門亀重五十有九歳之清書改と有り。

天文十五年(1553)大内公より柿の浦刀禰と任命を授かる。

元亀二年(1571)能美島浦家役に補せらる。

末友姓の確認に付いては永禄六年(1536)山野井家文書に記される迄は不明とされて来た。

末友姓を名乗るに付いては能美荘園制下貢納第一位稱に当たり資料的には寛治5年(1091)以降と考証される。

周知の通り名家として古文資料も多数蔵されてきたが天文二年(1533)の兵火に惜しくも焼失する。

本文の資料は其の残文書に頼るものである。

(七)  佛跡史

阿弥陀堂は北迫寺山在の尊応寺が洪水に流失の後に其流木を集め建立の小堂とされ、現妙覚寺の前身とする。

従って主要な法要は佛護寺より僧が出仕する事となり僧宿は中谷家が務めた。

堂内には倉田傅之進が寄進する六地蔵尊も安置されたが天保七年(1836)六月より九月に続く稀な長雨、大暴風に加え虫害を蒙る大飢饉に見舞はれ、村人は雑草に至るまで食い尽し老人子供を先に死者続出の上で、萬止む無く六地蔵尊を出海(イヅミ)の番舟に積込み食べ物と取替へて多くの命を救はれた悲惨な思出を残すとか。

この寺地に接して村有地には藩の御触書札立場、社庫、もあり又物納年貢の集め場所ともなり年貢日には山の上から触役が大声で「年貢を持って来なハレヨー」と、おらんで知らせる風景も見られた。

其場所も今より約二百六十年前の天保の頃には御堂のすぐ下が波打際で広島や呉に向う番舟に便乗者を乗せるのに、早よう来んと出すドー、と岡に向っておらんで居たと云う。

是より西の清水川までの間が白砂青松の続く美しい浜辺となり女子供達が捕食の貝取りをする場所とされて居る。

 

(八)  神事史 荒神さん

荒神社の開基については郷祖家二位谷の氏神とする説と大君の大荒神分社とに分れ今はいずれとも判じ難く開基年代不明乍らも概に江戸初期版の島古社時志に於て、おく迫荒神と記載これ以外に村には他の神祠は認められず。

かって荒神伝兵衛が郷の代辨人(ダイベンニン)として八幡宮神座の争いで元々は荒神は村郷合祭の行なわれた。

と、指摘を見れば古くより是が唯一の伝統ある神祠とされよう。

尚右の志書には古樫茂る森の奥に鎮座すると在り、思うに往時は樹木深き静域の面影をしのばせる此点宮守荒神家の伝として文政八年(1825)三月、嘉永三年(1850)八月の二度の大水害に社殿は跡形も無く流出する。

其復興に村の者、食うや食わずで難儀するとの事、おそらく多くの風水害が地形を変え今に見る裸の社とさせたのだろうか。

祭事や農事祈願には必ず大般若経を奉するが其頃は誰も字が読めず捧げて拝むだけ(先谷喜十郎)祭にまつわる俗承としては秋祭りの夜ゴロには社の付近のあちこちに若者が思い思いに莚囲い(ムシロカコイ)をして相愛の村娘を待受けて契の一夜を過す風習も古くは行なわれた(幸田伝助)。

荒神には自然崇拝、精霊畏敬、先祖祭、農耕神事、其外の年中行事もなされる。

別して山の神、センチン(便所)の神、水神さん、農作の神、火の神、石の神、雷の神、お産の神、疫病神、竈(カマド)の神、等日常現象万事百般に分別これを一心に崇め信仰の対照として来た。

 

(九)  史跡 倉川

郷最古の史跡として知られる倉川千年井戸は古来舟を横着にして水取をした由来から舟川とも呼ぶ郷人の命水として守られ水神さんを祀るが嘉永三年(1850)の水害に祠(ホコラ)は流出する。

古井戸にまつわる説話も殊に多く、夕方になると娘達が集まり井戸に向かって粧うので鏡井戸の名もある。

また、此処だけ特に雪も積まないと不思議な伝えも残る。

さらに、昔は満潮時には塩辛くて飲めず引潮を待って水を使ったと云う。

此点を末友文書を用いて確めれば、「この走井水底三尺許り(バカリ)満ちれば鹹き(シオカラキ)」と、海に接する地形を知らせる。

千古の風土史を語るこの史跡も近年の山崩れに存在性を失い惜しくも還らぬ川となり果てて行った。

 

(十)火葬場

奥進墓地の入口に在り開闢(カイビャク)以来先祖は此処に野辺送りされる古遺跡であるが明治二十七年頃に廃止される。

大正時代始めまでは死者が出ると講中の山より薪を伐り出し火葬に使う仕来たりであった。

葬儀はすべて講中が集まり助け合う。

講組織は郷を上下に別け、上を奥迫、下を下迫とした。

式後の会食用膳椀も共有で講元が保管する。

香典帳は元禄年号の物が幸地家に在り、丸井家にも多く残る。

葬制奇習としては、古くは死者を新しい莚(ムシロ)に包み、近親者が背負い焼場まで送る。

死者が出ると家の者が屋根に登り、西空に向って大声で泣きおらび魂呼びをする。

お通夜には身近な者が死者と同床する習しも在った。

儀式には白い紙緒の草履に男は鉢巻をするのが正装で草履は戸口で焼捨て悪霊を拂はねばならぬ(武川僧)。

 

(十一)名跡茶園

其昔に長谷の奥に茶園と名づく茶畠あり、寿永年の頃郷に身を隠す平家貴人も所望される銘茶を産する誉を残す。

江戸時代には藩主浅野家にも献上を伝える程の由緒ある名跡も時代の風化にさらされ今は道も無き谷間に名も無く荒果てるのみ。

 

(十二)郷本家筋

寛文二年(1663)倉橋島浦役家資料を元に家筋を正せば、末友、奥迫(丸井)、仁井谷、河内(大宮)、となり続く中谷、槇本に至る。

中世発祥以来の無文の歴史に照し遠祖家並に遺跡物の概要を用いて古標とす。

昭和五十七年紅葉月

 

落人の 里に生まれて うたた世を 史に編みぬれば 涙もろかり

奥田 権太郎 識


2014-06-16 002 (97) 
水無月の荒神社です。
梅雨入りなのに水無月?、お百姓さんが作物を育てるために天の水をすべて地上へと降らせてしまったので、神様の世界は水無月になるのだとか・・・(*^。^*)です。

2014-06-16 002 (87) 
いつ来ても綺麗に掃かれています。

2014-06-16 002 (92) 
拝殿内に本殿お供え品を記録した写真が・・・。

2014-06-16 002 (91) 
八幡宮(大原新宮)例祭記念 平成15年9月吉日 贈 小松

2014-06-16 002 (93) 
「SL C58 114」 昭和53年10月吉日 奥本久雄

ちなみに、昭和14年2月に製造された、C58114は210万kmを走り、現在、宮城県玉造郡岩出山町字城山42-2 城山公園で永久保存されています。

2014-06-16 002 (94) 
平成元年十一月三日 丸井五郎 寄贈

2014-06-16 002 (96) 
最奥に、とても頑丈でよく切れそうな包丁と鎌が奉納されています。
いつ頃のものなのか分かりませんが、腕の良い鍛冶屋さんが・・・(*^。^*)です。

2014-06-16 002 (95) 
祭に使う?赤い旗?と・・・
寄贈 荒神社の坂道に手摺一式を 出海 隆 様より寄贈して頂きました。 平成十四年十月吉日

2014-06-16 002 (89) 
荒神社の境内から、大きなムクノキの枝越しに、柿浦小学校の全容が見えます。
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