中町 石碑

中町石碑 
中町各所に建つ石碑を訪ねてみました。

2015-04-23 108 
グーグル地図の左上、平家落人の伝説がいまに伝わる高下地区の中心部に建つ石碑です。

大きな方の石碑には、「救護金七百圓」明治四十五年壬子五月吉日建之とあり、台座には寄附人の氏名、寄付金額が彫られています。

その後方に建つ石碑には「金五百円也」家敷地 梅河内龍一 寄附人 二井内丈左衛門 昭和十四年六月吉日と読めます。

2015-11-11 118 
戦国の頃、麓城(ふもと城)があったとされる小山の南側に、「麓 樂善金二百三拾円」明治三十三年五月と読める碑が建ちます。

台座には寄附人名 金百円 中河原久次郎? 仝二十円 相野田○平?・・・他、多数のお名前が刻まれています。

2016-03-17 012 
大後川を遡り、人家の途絶えた先の農道脇に「日當講基本金 壹千貳百圓紀念碑」
維時昭和二年十一月 創設之原由及維持? 
之方法規約等登載 一ナ日當講記録田谷之? 
昭和八年五月建之の碑が建ちます。

碑背面には、発起人 日當保○? 吉本○四朗? 世話人 花岡○一郎?、他数名のお名前が見えますし、台座にも多くの寄附人名が彫り込まれています。

2015-12-28 045 
近年埋め立て造成された、中町港みなと公園内に真新しい一本の石柱が建ち、「八幡神社 御旅所」と刻まれます。

毎年九月、能美八幡神社の大祭礼で担ぎ出された御神輿が置かれる神地です。
この神地は沖宮(浜宮)ともよばれ、町内を練り歩いた神輿を留め置き、神事祝詞の後に神楽舞いが奉納されます。

2014-11-06 077 
能美八幡神社の乗る亀山の北に「孝子雛吉之碑」大正八年六月一日が建ちます。

中村の住人、沖上雛吉は15歳で父を失い、早々妻子にも先立たれましたが、誠実で信心深く、さらに、ただ一人残った家族、継母に対する手厚い孝養が広く人々の心を熱くしました。
これらの善行を認められ、明治14年(1881)村民多数の推薦により緑綬褒章が送られました。

この善行が西能美5ケ町村民の良き善例となるを祈念し、没年である明治33年3月19日から20年となるを期し、孝子雛吉之碑が建てられました。

2014-12-10 108 
八幡神社の北、孝子碑と肩を並べて石谷広策翁の碑が建ちます。

石谷広策(本名 広二)は、文政元年(1818)中村の里正(今でいう村長)の次男として生まれ、1842年本因坊の門に入り、十四世秀和に三段を許されて「石谷広策」を名乗ります。

明治三十三年(1900)若くして急逝した十五世本因坊秀策の打碁百局を集めて「敲玉余韻」を出版し、囲碁の発展に尽くすも、明治三十九年に89歳で没します。

辞世の句は「のがさじと 弥陀に先手をかけられて 慈悲の征(しちよう)に かかるうれしさ」です。

2014-12-10 040 
八幡神社から国道を挟んで西側に、「忠魂碑」大正十四年七月 陸軍中将岸本廉太郎書、の巨大石柱が建ちます。

さらに、周囲を玉垣に囲われた、この狭い域内に百基に近い戦没者のお墓が建ち並びます。

日中戦争、太平洋戦争(昭和12年から敗戦となった20年8月まで)による能美3村の戦死者の数は、中村193人、鹿川村195人、高田村128人であるといわれ、これに原爆、空襲そのほかによる犠牲者をも加えると、実に膨大な数の死傷者が発生したのであります。
(能美町誌より・・・m(__)mです。)

2014-12-10 044 
忠魂碑のその横に並んで「中村徴兵優待金壹千五百圓」背面には、明治三十二年十二月創立、発起人 中河原久次郎 大石重郎次 中上勘左衛門 津田次郎 後藤常造 相野田藤平の名が記され、台座にも沢山の寄付金の額や寄付者氏名が列挙されています。

2012-06-26 002 192 
真道山の西のふもとに「畜魂碑」の文字が深く彫り込まれた大石が建ちます。
側面には、昭和六十二年三月 山口照夫之建とあります。

戦後しばらくは羊や山羊、ウサギなども飼育されたといいます。
しばらくして、和牛、乳牛、豚や鶏など多くの動物が育てられ、畜産業絶頂期の時期もありましたが、いま、江田島市内で飼育されている家畜家禽の類はほんのわずか、皆無に等しいのが現実です。
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