鹿川 長塚山石仏

4)能美町・沖美町南部 長塚山石仏 
かって、南蛮樋と云われる汐留水門のあった永田川の右岸に、長塚山と呼ばれる小山があります。

2015-03-20 282 
江戸中期には鹿川干拓事業の最前線であったこの付近は、複雑に絡む水利権や流水誘導の目的もあり、狭い間隔をもって3本の水路が平行し流れ下ります。

2015-03-31 156 
長塚山は河川整備や道路拡張のために一部を削り取られましたが、その崖下には一枚の大石板が建てられており、長塚山石仏の縁起が詳しく語られています。

長塚山石仏縁起
現在ここに架かる橋「古樋橋」の名が示すように、かってこの橋の下には、十七世紀末頃、築造された当時としては新式の南蛮樋の遺跡がありました。
当時はこの辺りが鹿川湾の最真部だったのです。
江戸時代中期から後期、飢饉や疫病が流行する度に多くの死者がでたり、行き倒れて漂着する死体も多かったようです。
この南蛮樋門辺りにも死体が流れ着くことがあり、それを目にするこの村落の人々は、死者を哀れと思い無縁仏として手厚く供養し、見晴らしの良い長塚山頂上に立つ大松(長塚松といった)と、風雨に耐え海を見下ろすように立っていたしだれ桜の傍らに葬りました。
この無縁仏を祀る習わしは後々まで受け継がれて、いくつもの墓石が並び、あたりにはきれいな小石を敷きつめ慰霊の願いを込めた石仏が数十体安置されていました。
人々はそこに敷きつめられた小石を、「ゴイシ」と称して持ち帰ると罰が当たると言い伝え、子どもが持っていったりすると返しに行かせるほどでした。
しかし、昭和二十年代に長塚山一帯で道路工事が行われた際、敗戦後の混乱した社会情勢からか、墓石が石積みにされたり、石仏も草陰に放置され、二体のみ残されたまま時が移りました。
その工事の頃、樹齢三百年と言われた長塚松は既に枯れていましたが、固い肥え松の中心部だけが残り、それでも直径三十センチ以上ありました。
「神宿る木」とされていたので、切り取って近所の人が預かったが、細工物にすることもならず近所の人達で丁寧に御祓いをして燃やすと、大変な勢いで燃え真っ黒い煙が天高く舞い上がったそうです。
長塚山石仏とそこに込められていた先人達の心情はいつしか今住む人々の視野からも胸の内からも遠く消えていったのでした。現在の長塚山石仏とその一帯は、この語り伝えられてきた石仏にまつわる古里の先人たちの美しい心情を今明らかにし、末永く受け継ぐよすがとして平成十六年初夏、現在の姿に復元したものです。

平成十八年五月吉日
鹿川文化掘り起こし同好会
と、・・・ m(__)m です。

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崖の裏手に廻ると、長塚山頂部へと登る細い参道があり、新規に植えられた桜の下に「長塚山石仏之碑」が建ちます。

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長塚山の頂部、白いゴイシを敷いた中に、お地蔵様が2体、西方を向いて建てられています。

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長塚山は高さにして20mばかりの小山ですが、思った以上に鹿川の町を見通すことができます。

北東の方向、中央の山が真道山(286.6m)、その下に勝善寺の大屋根、さらに手前が鹿川小学校校舎となります。

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東の方向、文久新開から中浜、さらにその小山の向こうには鹿川水源地があります。

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南東の方向、永田川河口部の向こうは後浜、さらに鹿川湾、大原湾、そのはるか先に陀峯山(438m)が大きな山容を見せます。

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