鹿川 文久防災緑地・南蛮樋

永田・郷・才越川地図c 
東の真道山山系と西の宇根山山系とに挟まれ、遠浅の入り江だった鹿川湾は、江戸時代に何度も干拓が行われました。

2012-12-07 002 017 
鹿川地区での干拓事業が最も大規模に行われたのは江戸時代後期(1860年代から)の文久新開干拓事業ですが、それ以前にも機会あるごとに、干拓事業は続けられてきました。

ここ文久防災緑地(文久新開調整池)に移設復元された、南蛮樋と呼ばれる水門は文久新開干拓事業より以前(1769年ごろの築造と云われます)に使われていたもので、今の荒神地区を流れる永田川と才越川の合流部付近で発見されました。

2015-06-23 100 
河川の修復工事中に南蛮樋遺跡が見つかった永田川と才越川の合流部です。

2015-03-20 272 
永田川河口部に広がる汽水域は、江戸時代末期に干拓された文久新開の調整池です。

2016-05-26 046 
この文久新開調整池は、石油貯蔵施設立地対策等交付金事業として(平成10年度~平成12年度)改良整備され、現在は文久防災緑地と呼ばれます。

2015-06-23 079 
公園風に整備され、一時期は不法投棄場となって汚れていた湖面が、ボラやチヌ、コノシロの泳ぐ清浄なる汽水域としてよみがえりました。

2015-06-23 080 
緑地に生えるチガヤの白穂が初夏を運ぶ浜風にゆらぎます。

2015-06-23 082 
整備改修された文久防災緑地(文久新開調整池)に、移設し復元された南蛮樋の脇には一枚の説明版が立てられています。

復 元 「 南 蛮 樋 」

この樋門は、現在の荒神地区の永田川と才越川の交わる地点に架けられている「古樋橋」のすぐ下流にその遺跡が残っていた。
河川改修工事にあたり掘り出されていたものをもとにして、復元したものである。
江戸時代に入って全国的に干拓工事が盛んに行なわれるようになり、鹿川でも寛文十一年(1671年)頃から、現在の鹿川小学校あたりから沖合に向かって、古新開、大矢小高新開、鬼崎新開、更には宝暦十年(1760年)頃から江ノ内新開と干拓工事が続けられた。
そうして、現在の古新開、西浜、荒神地区一帯の干拓が一段落したところで、永田川と才越川の合流した河口に、満潮時の海水流入を仕切るために設けられたのがこの樋門であった。
(文久新開は1860年代からの工事である。)

古文書「国郡志御用に付下志らべ書出帳」文政二年(1819年)によると、明和六年(1769年)頃に築造されたものと考えられる。
この樋門はそれ以前に造られていた「唐樋門」の遮蔽板を水圧で開け閉めする開き戸方式に比較して、遮蔽版を上下させて開閉することで、大型化ができ水圧に耐える力も強力で「南蛮樋」と呼ばれた。
この南蛮樋がつくられるようになって干拓事業はより大規模なものになっていったという技術的、歴史的に大きな意義のある樋門である。
平成十六年十月 復元

2016-05-26 034 
現代の最新式南蛮樋?・・・(*^。^*)です。
増水時には高出力の電動ポンプがうなりを上げて干拓地を守ります。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

カレンダー
02 | 2017/03 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
検索フォーム
カテゴリ
リンク
最新記事
月別アーカイブ
プロフィール

Author:わきです
FC2ブログへようこそ!