鹿川 古地図

鹿川古地図全PNG  
上記地図は能美町誌に掲載されていた芸藩通史鹿川村絵地図を修正したものです。
判読が困難な地名が多く、除外した地名や誤記地名があります。

正確な地名を必要とする場合は、能美町誌あるいは芸藩通志の方をご覧ください。

注(1) :北側にある飛渡瀬との境界線が、中村の方に寄り過ぎている?ようなのですが、原画のままです。
注(2) :文久新開工事が開始されたのは文久元年(1861)です。

鹿川古地図PNG 
鹿川絵地図の右半分を拡大したものです。

「芸藩通志」文政8年(1825)に掲載の各村々の絵地図には村の中心部に必ず社倉と記載された建物が描かれています。
社倉とは古代中国の村々に置かれた食糧庫で、飢饉などのとき農民を救済するために平常から穀物を貯蔵しておいた倉のことです。

広島藩における社倉の起こりは海田市の儒者加藤缶楽(かとうふらく)の教えをうけた安芸郡矢野村の神官香川正直(かがわまさなお)の指導によって、矢野村・挿込村で寛延2年(1749)に社倉法を定め、凶作・飢饉に備えて村内の者が穀物を出し合って社倉に納めました。
備蓄穀物(主に麦)の徴収や保管配給は村民による自治運営でなされました。

その効果を認めた広島藩は明和7年(1770)「社倉法示教書」を公布し、広く領内に社倉設立を奨励、安永8年(1779)藩が元麦の下付けを下達したことにより、天明6年(1786)には町方及び郡中各村あますところなく社倉が造られ、以後明治初年まで存続したと云います。

ちなみに、享保17年(1732)の「享保の大飢饉」では冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地、中でもとりわけ瀬戸内海沿岸一帯が大凶作に見舞われ、島内においても甚大な数の餓死者を出しましたが、社倉が完備した時期の「天明の大飢饉」天明2年(1782)から天明8年(1788)においては、サツマイモ栽培の普及などもあって、島内村民の飢餓者は皆無だった(国郡志書出帳 文政2年1819年)と云われます。

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上の画像は、広島文化大百科「下筒賀の社倉」よりのコピペ・・・m(__)mです。

以下、山県郡安芸太田町「下筒賀の社倉」の説明文です。
明和7年(1770)、広島藩が社倉を制度として奨励し始めたため急速に普及。
各地に社倉が建った。下筒賀の社倉も、安永8年(1779)発起、建設されたものと見られている。
下筒賀の社倉は、穀物の搬出入に便利な往還沿いにある。木造2階建て、土壁、茅葺き屋根、建坪は約5坪(約16.53平方メートル)。広島県内に残る社倉の中では、創建時の形態をよく残しており、昭和36年(1961)11月1日県史跡に指定された。
土蔵の構造は、「坊主型」と呼ばれ、屋根と蔵の本体が別になっており、屋根を置いた形となっている。

鹿川やその他の村々の社倉も「下筒賀の社倉」と同じような造りだったろうと思われます・・・(*^。^*)です。
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