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美能 大奈佐美島・絵の島・櫓石・中の瀬

大奈佐美島・海図(S5) 
画像は知人の船長さんから頂いた昭和5年の海図です。

現在「大奈佐美島(オオナサビシマ)」と呼ばれる島は当時「大那沙美島(オオナサミシマ)」と、「絵の島」は「小那沙美島(コナサミシマ)」と記されています。
さらに現在の岸根鼻(ガンネハナ)は神禰鼻(カリハナ)と記され、櫓石(ヤグライシ)は昔、冠石(カフムリイシ)と呼ばれていました。

地名って、こうも簡単に変えても良いものなのか心配になってきます。
昔からの地名である、流れ田や崩れ谷を削って均し、希望が丘とか桜ヶ丘と名付けて団地造成などされたのでは、先人の苦い経験をせめても地名でもって語り継いだ努力が、たかだか五十年に一度の大雨で濁流となって押し流されてしまいます。

印象の悪い地名ほど、後世に正しく広く延々知らしめるべきだと思うのですが・・・(^^;)です。

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砲台山から見た櫓石、中ノ瀬灯標(虫眼鏡がないと・・・)、大奈佐美島、絵の島です。

手前は美能内海漁港、左奥が宮島です。

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登山道中腹から見た、手前グリーンの灯標が立つ岩礁が「中の瀬」、画面からはみ出して左右に広がる島が「大奈佐美島」、僅かな海面を挟んでその先の小島が「絵の島」です。

絵の島の山頂34.9mに白い灯台が見えます。

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昭和22年3月の「大奈佐美島」航空写真です。(上下方向が南北ではありません)

左上に人工物(小さな点が5つ?)が見えますが、これは明治33年(1900年)に完成した大奈佐美島砲台の一部分です。

現在でも構造物の多くが残っていますが(ネット情報)現地探索はかなりしんどいみたい・・・(^^;)です。

ほぼ同じような構造物である三高山堡塁が砲台山に整備された状態で残っていますので、そちらのご見学をお勧めします。

ちなみに砲台としては大正15年にその役目を終えましたが、その後も一部は軍用地として残り、先の大戦終結後には、武装解除で集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。

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大奈佐美島の所有権者など詳しくは不明ですが、昭和45年頃より、広島宇品近辺の埋め立て用土石の採取場となり、まさに蚕食鯨呑の在り様です。

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宇品港、呉港からの大型艦船が唯一航行可能な、美能岸根鼻と大奈佐美島(中の瀬)との間、奈佐美瀬戸の有効航路幅は500m以下です。

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「呉軍港第三区洋上防衛ライン(現広島湾北部地域)」を突破、猪(鯨)突猛進中の潜水艦・・・(^^;)です。

ちなみに対岸である宮島町腰細浦には、花崗岩製で24㎝角、埋込み部分を含めた全長230㎝の軍港第三区境石があるそうです。

探せば鶴原の豪頭鼻付近にも同じ標柱が残っているかも???です。

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大奈佐美島の海岸に明らかに人工物と思われる洞窟が暗い口を瀬戸に向けています。
おそらくは先の大戦終盤、敵艦艇の湾内進入を阻止する特攻兵器を隠していたのでしょう。
同じような洞窟は絵の島にもあります。

s-絵の島A 
画像は大奈佐美島島の北に浮かぶ「絵の島」、もとの「小那沙美島」です。

大正末期のころよりリゾート地開発が始まりましたが、宇品港や呉軍港に近い要衝の地であったことから軍部による干渉が付きまといました。
戦後はGHQの保養地に指定されていましたが、昭和28年に瀬戸内海汽船(株)が島を買い取り、海水浴場として利用されました。
ちなみに、島名を「絵の島」としたのは昭和36年、最盛期には年間8万人以上が訪れましたが、平成2年に閉鎖されたといいます。

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画像は「沖美町史(平成元年3月31日発行)」よりのコピペ画像です。

愛知県犬山市にある「明治村」に展示のこの灯台は、小那沙美島(絵の島)にあったもので、明治37年から昭和39年までの60年に渡り付近を航行する船舶の安全を見守っていました。

以下は明治村の展示物説明文からのコピペ・・・m(__)mです。
この燈台が造られたのは、日露戦争の開戦前後で、わずか3ヶ月という短い期間で建造されました。
工期を短縮する目的と、急傾斜の山に造る上での便宜から、鋳鉄造の組み立て式燈台になっています。
4段の円筒形燈柱に燈篭と天蓋が載せられており、高さは7m足らずである。光源にはアセチレンガスを用い、光度は60燭光、光の届く距離は約10kmでした。

ちなみに、現在ある灯台は「安芸絵ノ島灯台」と呼ばれます。
色は白色 でコンクリート造り、灯は単閃白光で毎4秒に1閃光、光度は560カンデラ、光達距離、約14.85km 、高さは平均水面上から灯火までが49m 、地上から構造物の頂部までが13.98mだそうです。

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画像は岸根海水浴場の西、渚から百数十mばかりの沖合にドッカと腰を据えた「櫓石(ヤグライシ)」、古くは「冠石(カフムリイシ)」とも呼ばれた花崗岩岩塊です。

夏場には岸根海水浴場を訪れたお客さんが何人か岩上で日光浴を楽しむ姿も見られますが、付近は奈佐美瀬戸の潮流が複雑に混ざり合いますので水泳上級者専用、たどり着けた人にだけの冠石・・・(*^。^*)です。

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櫓石の向こうは、大竹、岩国のコンビナート、右に宮島、沖を行くのはヘリコプター搭載護衛艦「いせ」です。

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奈佐美瀬戸の最狭部をさらに狭くする「中の瀬」の岩礁に立つ「中ノ瀬灯標」です。

この「中ノ瀬灯標」の初点灯は、明治36年4月1日ですので、「安芸絵ノ島灯台(明治37年3月1日)」よりも一年早く完成、灯標の本体はコンクリート造りで明治36年に造られたままの姿で現在も使用されています。

灯塔の海抜は約2.5メートル、頂部まで約15.0メートルです。
基礎の外径が5.3メートル、灯塔基部外径は約4.8メートルです。
建設当初は石油燈でしたが、大正9年にガス使用に変更、昭和43年に電気、昭和61年からは太陽光発電となりました。
昭和61年8月に、塗色が黒色から緑色に変更され、灯はモールス符号D緑毎8秒、光度120カンデラ、光到達距離は約10Kmです。

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釣り好き船長さんが写した画像を拝借・・・m(__)mです。
灯標上部を改造して、ソーラーパネルが取り付けてあります。

記録に残る最も古い灯台は紀元前7世紀ナイル川河口、寺院の塔上で火を焚いたとされます。
紀元前279年にエジプトのアレキサンドリアに建てられたファロス灯台(アレクサンドリアの大灯台)は高さが134mもあり、灯火は56km先まで届いたとされますが、796年の地震で半壊、その後の地震や要塞の建設により消滅したと云われます。

日本での記録は承和6年(839年)で、九州地方の岬や島端に狼煙(のろし)や篝火(かがり火)を焚き遣唐使船の帰路を誘導したとされます。
江戸時代以前にも主要な港には石造りの台をもうけ、その上に小屋を建て中で火を焚く、「かがり屋」がありましたが、慶長13年(1608年)日野長兵衛が能登の福浦港に建てた石造りの「灯明台」は、日本初の光源に油を使った灯台であったと云われます。

さらには代々灯明役であった日野家、日野吉三郎が明治9年(1876年)高さ5mの三層西洋式木造灯台を建造、日本最古の西洋式木造灯台として石川県指定史跡となっています。
これら地域の有力者が建てたとされる「灯明台」や「常夜灯」は明治初年、全国に百基以上があったとされます。

ちなみに、現在に見る西洋式灯台の最初は、神奈川県の観音崎灯台で明治2年1月1日に点灯、当初の光源は石油ランプでした。

灯台用の光源としては、薪を燃すかがり火や松明、油やローソク、石油灯(落花生油・パラフィン油・鯨油・石油)、ガス灯、アーク灯、タングステン電球(窒素・アルゴン)・水銀灯・ハロゲン電球、メタルハライドランプ、LEDなど時代や地域、灯台ごとにありとあらゆる光源が使用されてきましたが、近年になり太陽光発電(ソーラーパネル)によりバッテリーを充電しLEDを点灯させる方式がもっともポピュラーとなっています。
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