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三吉 徳正寺 1/2

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浄土真宗本願寺派「盤谷山 徳正寺」は三吉地区のほぼ中央部、木ノ下川の右岸にあります。

蛇足となりますが、浄土真宗本願寺派「擁護山 徳正寺」は能美町中町にあります・・・(^_^;)です。

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木ノ下川の流れに正対して建つ重厚な鐘楼門と本堂は250年ばかり前の明和元年に建てられました。

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徳正寺の周囲には木ノ下川の上質で豊富な水を利用した田んぼや畑が広がっており、平地の少ない江田島市内のお寺としては珍しく、田園風景に囲まれたのどかな環境の中にあります。

現在は駐車場として整備されましたが、つい2、3年前までは鐘楼門の庇の元には野菜畑があってネギやタマネギ、ニンジンやジャガイモ、トウモロコシが育てられていました。

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徳正寺のトレードマークはやはりこの鐘楼門です。

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本堂の背後には四季折々に変化する色彩豊かな山が被さり、今でいうインスタ映えのする風景が・・・(*^。^*)です。

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江戸時代中期に建てられた鐘楼門は、総ツガ造りで姫路城天守閣と同じ建築様式が採用されており、鐘のある二階部分と門となる一階部分の柱の位置が異なって建っており、地震の揺れに対し重心が移動する仕組みであると云います。

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徳正寺本堂です。
正面にて、「合掌」・・・m(__)mです。

徳正寺のそもそもは・・・。
南北朝時代の貞治二年(1363年)北朝軍に敗れた伊予太守河野通朝は、その子徳王丸(のちの六郎通堯)を中村十郎左衛門久枝北ノ方の縁所である、安芸国能美島三吉浦へと逃がしました。
この通堯が開祖となり、三高山山頂付近に山城を兼ねた禅寺を建て、菩提を弔ったとされます。

のち天正二年(1574年)河野左門尉俊高(利堯とも)が釋浄信となって「萬谷山(現盤谷山)徳正寺」を開基、現在ある本堂や鐘楼門は八代達導師により明和元年(1764年)に建てられました。
さらに10代となる道命(没年1812年)は子弟の養成、教学の発展に尽くし、その功績により本願寺より「勧学」の称号を追贈されました。

徳正寺御本尊の阿弥陀如来立像は元禄十二年(1699年)大仏師康雲の作とされ、石山合戦の折に本願寺顕如上人より賜った「六字名号」や、「支那二十四考物語」を刻んだ孟宗の欄間など数多くの寺宝を伝えます。

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経堂は質素な外観ですが、木ノ下川が近いこともあってか石段で5段分の高さに土台を組んだ上に建ちます。

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本堂の横には落ち着いた雰囲気にまとめられた池があり、「無量寿」の額を揚げた品格高いお堂が建ちます。

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本堂の大屋根には重量感のある大鬼瓦が乗り、その下の破風には三重の懸魚と鰭が付けられています。
さらにその奥の妻壁にも巧みに彫り抜かれた飾り板が何重にも止められています。

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境内に育つ大銀杏の枝下の向こう、上下で柱の位置をずらして建てた耐震構造を有する鐘楼門が遠目にも安定感のある姿を見せます。

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徳正寺の真正面に架かる「受徳橋」、昭和35年10月竣工です。

受徳橋の欄干には
発起人
山尾実人・小松正市・石光杉太郎・小田昌三
寄附者
岩国市沖井義光・広島市有本初男・広島市永井勝一・広島市松本利治・矢舗増登・矢舗芳登・山尾勇一・藤井繁太郎・後峯吉・下向井敏一・広島市新田三郎・三吉佛教婦人会・下河内兼松・水越市太郎・下河原良一
と、芳名が入れられています。

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木ノ下川の対岸から見た徳正寺です。

木ノ下川をさかのぼり高松峠から是長へと続く古道は、昭和35年になり海岸沿いに美能経由の県道36号線が開通したのちも順次改良工事が行われ、今でも三吉と是長とを結ぶ主要な交通路となています。
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