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三吉 尾首城跡

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昭和59年11月発行の「沖美町の文化財をたずねて」には、「尾首城跡」として、
三吉千城原に高さ30mぐらいの小高い丘があり、地元民は「オンテス(お天守の意味)」と呼んでいます。
頂上やその下の方にいくつかの平坦なところがあり、石垣はほとんど崩れていますが、城跡であることは間違いありません。
付近から五輪塔(侍の墓)が発掘されたこともあります。
尾首城は厳島神社の奉行職であった沖小栗が築いたものといわれており、奥尾城と記したり矢張城とも呼んでいます。

さらに「法蔵寺跡」として、
尾首城跡の南西約300m、山麓に古いしっかりした石垣で囲まれた平坦な畑があります。
広さは200㎡、展望の良い場所で、ここに法蔵寺があったと古老はいっています。
法蔵寺については、能美島志に「三吉にあり、今、小さな茅葺のお堂があって、観自在之像を安置す。」と記されます。

さらには「大護寺跡」が木ノ下川の対岸、大附集落の山中にあってその遺址のほとりに薬師瑠璃光佛を安置するとも記されています。

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画像中央、ミカン畑の上に乗る緑の小丘が「尾首城跡」です。

古くは、尾首城小丘の麓近くまで海が入り込んでおり、付近の中小路、千城原、古戸、大附が三吉の中心地となっていました。

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尾首城跡小丘の頂部です。
頂部は平坦であると云いますが、ミカン畑の上に建てられた墓所より上への道はありません。

1763年に記された郷土史「能美島志(宝暦13年)」には、「奥尾(おび)の城、三吉村にあり。土老いう、沖小栗某築く所なりと、平清盛厳島社を造営するの日、沖氏これが奉行職となると、未だその然否を知らず。」とあります。

また地元古老の間では今も天守と呼ばれていますので、頂部には象徴的な建物があったのでしょうが、この天守だけで城と呼ぶにはあまりにも貧弱です。

おそらくは、背後の法蔵寺や対岸大附の大護寺など各所に砦があり、それらを連携し指揮するための天守であったと思います。

ちなみに、当地が巻き込まれた大きな戦乱は、毛利元就と陶晴賢の合戦「厳島の戦い」の前後、巨大勢力のぶつかり合う谷間において、どちらの山を選ぶかの判断に迷った能美水軍でしたが、調略により陶軍に加担したことで、毛利軍の熾烈な攻撃を受けました。

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画像左上に広島湾と、かっては深い入江だった木ノ下川下流部の堆積平野がみえます。

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季節は早春、3月です。

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6月下旬、梅雨の恵み雨でカエルは跳び跳ね、田んぼの稲はこの時期に一気に生長します。

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千城原地区の家々が密集する一段上に飛び出した尾首城の小丘です。

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尾首城跡の小丘から見た南の方向、遠く山裾に点在する家々は大附の集落です。

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三高山中腹から見下ろした尾首城跡の小丘 です。
手前の集落は千城原、川向こうは徳正寺のある中小路、右の方向に、古戸、大附地区がみえます。

厳島合戦で敗れた陶軍の落武者が木ノ下川に沿って登り、高松峠を越えた是長の地で追手にかかり力尽きたと伝わり、霊を弔うための石仏がその名も「大名切(おなぎり)」の地に残ります。
またこの付近からは、武将がお守りとして兜の中に入れる小さな金の仏像も発見されたと云います。
合掌・・・m(__)mです。
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