美能 古地図(芸藩通志)

高祖・美能古地図完成全図 
画像は「芸藩通志」文政8年(1825年)をコピペし、地名を書き加えたものです。

コピペ精度不足により読み取りが不能となった文字は未記載、あるいは創作して書き加えています。
正確には「芸藩通志」をご覧ください・・・m(__)mです。

高祖・美能古地図完成全図・美能 
美能地区の部分を拡大掲示しました。

現在の鶴原山(?根)、岸根鼻(カンヌキ?)、大奈佐美島(???山)、絵の島(?)が読み取り不能で表記できないのが残念・・・(^^;)です。

当時、鶴原山と岸根鼻はまだ繋がっていないようですし、高祖と美能間の道路はまだ地図に描くほどのものでは無かったようです。

ちなみに、能美島志(1763年)によれば現美能を箕尾(みのお)とし、その一町ばかり沖に浮かぶ大岩を矢倉石または冠石と云います。
渚干(なさび)島は箕尾の沖十町にあり、小渚干島はさらに八町ばかり沖にあって、大小の小山が寄り添う様子は雌雄のごとしと記されております。(以上、要約。鶴原山、岸根鼻、中ノ瀬の記載はありません。)

美能地区は現在では、江田島市沖美町 大字 美能となりましたが、江戸時代において当美能地区は高祖村に組み入れられていました。

高祖・美能古地図完成全図・高祖 
高祖(こうそ)村の東側部分を拡大掲示しました。

竜神社は現貴船神社と呼ばれ、荒神社、シャカ、西方寺は現在の釈迦堂や光照寺に引き継がれています。

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「芸藩通志」コピペの元画像です。

S37美能高解像度 
昭和37年7月30日に撮影された美能付近の航空写真です。

鶴原山堡塁へと登る軍用道路が再整備された直後の様子で白くくっきりと写っています。
さらに、頂上には航空機誘導電波塔が設置された直後の様子が見えます。

ちなみに、「広島西飛行場」もと「広島空港」が供用開始となったのは昭和36年(1961年)9月15日です。

岸根鼻には海水浴客を運んできた客船数隻が目刺し着けされており、ビーチには沢山の小型船も見えます。

東京オリンピックを2年後に控え、だれもかれも、みんなが一番活気づいていた時期・・・(*^。^*)です。

美能 いいとこ撮り 2/2

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鶴原山堡塁(鶴原山山頂)へと登る軍用道路は山の北側、岸根鼻砲台へと向かう途中を左折しますが、鶴原山の集落側からも山頂へと登れる農作業用の小道があります。

その小道から見た美能集落の東側方向です。
遠く高祖に近い位置に高さ110mのラジオ波用電波塔が建ち、その右側手前には付近の家々を圧倒して、ひと際大きく建つ沖美ふれあいセンターが見えます。

今は多くの家々が建ちますが、眼下に広がる平地は江戸時代中期から明治の初期には塩田として利用されていました。

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美能集落の南側、外海の方向です。

画面右に大きな白い土蔵が見えます。
江戸時代中期に三原より当地に移住し塩田を開発、その経営を担った河野家(播磨屋さん)です。

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河野家の母屋(二重屋根)と土蔵です。

草葺だった屋根は瓦に拭き替えられましたが、その他は江戸時代のもの(推定250年)であると云われます。

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鶴原山の麓に建つ、河野家歴代のお墓です。

河野家のそもそもは伊予国(愛媛県)にあるとされ、天正13年(1585年)豊臣秀吉に敗れ、作州津山に逃れたのち竹原に移り、さらに江戸時代中期に当地美能(美濃)へと移住、塩田開発を手がけたと云います。

一段と大きく建ち「開郷院観月了喜居士」と深く刻まれたお墓が、美能に移って初代とされる河野通安氏のもので、没年は享保19年(1734年)5月28日です。

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押し寄せる台風の荒波を一手に背負い防いだ、昔の防波堤が今も残ります。
堤防兼通路となるその先に美能農協、美能漁協の建物が見えます。

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集落内の細い路地に面して森川衣料品店さんです。
お隣も、そのまた先のお隣も、もとはお店?だったようですが・・・。

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後河内ストアーさんです。

酒・たばこ・くすり・一般食品・ヤマザキパン・野菜の種・小柴クリーニング・資生堂・江田島自動車学校入校取次所・飲酒運転追放・警察官回寄所・秋の火災予防・・・すべてお任せ下さい・・・(*^。^*)です。

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瓦屋根の上に漁に使うロープが干してあます。

しかも、超芸術的なセンスでもって・・・(*^。^*)スッゲー~~~。

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「終りの日に 人は神の 前に立つ」人類にもいよいよ審判のときが・・・

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「江田島市消防団 第3方面隊 三高分団 美能消防屯所」の脇に、弾道ミサイルの飛来を知らせる高性能スピーカー4基が東西南北を向き、そしてその下に半鐘が一つ・・・

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燃えるような色合いをした、ランタナが庭を大きく占拠して咲き誇ります。

ランタナのまたの名を七変化、美能の町がまた華々しく大変化するときが・・・いつか・・・(*^。^*)です。

美能 いいとこ撮り 1/2

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江田島市の北西端に位置する美能地区は西能美島先端の亀原から砂州で繋がる鶴原山、さらに岸根鼻、瀬戸を隔て大奈佐美島、絵の島へと、島が連なる独特の多島美地形です。

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画像左より、鶴原山、砂州を挟んで岸根鼻、瀬戸の向こうに大奈佐美島が大きく広がり、さらに向こうに小さく絵の島がみえます。

左上の大きな島が宮島さんで、その先に霞むのは本土の廿日市から五日市方面となります。

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鶴原山と岸根鼻、水面下は当然花崗岩の岩盤で繋がっていますが、目に見える地形はまさに砂州によって繋がった理想的な砂浜です。

この砂浜を「がんねムーンビーチ」と名付け海水浴客の呼び込みを試みてはいますが、昭和の高度成長期にあったような日に数百人の人々が集まることなどは、遠いとおい昔の思い出話となりました。
今は数家族がてんでにプライベートビーチを気取って、のんびりと一日を過ごせる超贅沢な癒しの空間となっています。

そういえばいつの頃だったか、この浜でハンドボールくらいの大きさのヤシの実を見つけたことがあります。

「名も知らぬ遠き島より♪ 流れ寄る椰子の実一つ♪  ふるさとの岸を離れて♪・・・」と、一瞬メロディーがよぎりましたが・・・

たぶん誰かが持ってきて捨てた?か、スーパーの売れ残りがゴミステーションから雨で川に流れ出たりしたものか??・・・

ヤシの実は誰に拾われるでもなく、ただ波打ち際をゴロゴロと・・・(^^;)でした。

ちなみに、上の画像の左でヤシの葉に見えるのはフェニックス(カナリーヤシ)と云われる品種の植栽品で、画像右のヤシの木に見えるのは、同じく植栽されたワシントンヤシ(オキナヤシ)です。
共に果実は小さく、ハンドボールのような大きなヤシの実には育ちません。

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美能外海漁港の防波堤から是長へと伸びる海岸線です。
途中、各入り江ごとに小さな砂浜が点在する自然美豊かな海岸です。

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亀原を流れ下る小川の川岸に、防空壕にも見える二つの洞くつがあります。

ただの防空壕にしては付近に人家もないし、入り口廻りの崖にわざわざ石垣を積み上げる必要性もないだろうし・・・???。

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軍事用施設にしては奥行きが感じられないし、煉瓦の積み方も雑で、強度もいまいちな感じが?・・・。

町史ではこの付近?に煉瓦工場がつくられたり?、戦後には大規模なタンカル工場(炭酸カルシュウムの精製)が操業されていたとされますので、それら工場施設の一部なのかも??? ・・・です。

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現在、RCC中国放送局の電波塔が建っている近くの海岸に「石生みの崖」があります。

ちなみに、静岡県牧之原市の大興寺(だいこうじ)裏山にも同じように丸い石を産する崖があります。
大興寺は、今から600年前に大徹禅師によって開山されたと云われ、その大徹禅師が、90余歳で亡くなる前に「わしの身がわりとして裏山より石が生まれるであろう」と言い残して大往生を遂げました。
するとその直後、予言どおりに、裏山の崖からまゆ型の石が生まれ落ちてきました。
弟子たちはその石を建て大徹禅師の墓石としました。
以来、「無縫石」と呼ばれるまゆ型の石は、大興寺代々の住職が往生するたびに必ず生まれ落ちるといいます。

当地の「石生みの崖」には何の伝説も残ってはいませんが、台風や季節風による荒波に削られ毎年数個の丸い石が、誰に見られることもなくひそかに産み落とされています。

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「白砂青松」、最近とりわけて海岸が白く見えるのは、花崗岩から風化した白砂ばかりではなく、波に砕かれたホタテ貝やカキ殻の性でもあります。

魚港の荷揚げ場には大量のホタテ貝の殻が積み上げられ白く輝いています。
これら沢山のホタテ貝殻はカキ養殖の必需品(種付け材)として、遠く北海道や東北から運ばれてきます。

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漁船の船橋(操舵室)部分を真似て造られた船舶販売修理店の看板?社長室??物置???です。

この看板?が造られた目的や経緯は不明ですが、前面に描かれている2人はヤンボー、マーボーです。
夕方の天気予報で流れていた、「ぼくの名前はヤン坊 ぼくの名前はマー坊 二人あわせてヤンマーだ♪」の・・・(*^。^*)です。

最近では聞かなくなりましたが、実は1959年6月1日から2014年3月31日(広島は2013年3月)まで、55年間も聞いた曲です。
たぶん、歌詞もメロディーも、・・・忘れることは無いでしょう。

ちなみにこの曲の作詞は能勢英男氏で、作曲は米山正夫氏です。

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瀬戸の崖上から見た、奈佐美瀬戸を渡る白鳥と碧い海・・・です。

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奈佐美瀬戸の最狭部に近づく護衛艦「いせ」と、その後方には韓国籍?のタンカー 「FORTUNE JIWON」です。

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海を隔てて僅か10km先には喧騒の広島市街地が・・・。

こちら江田島側、周囲をぐるり360度をくまなく見まわしても、人っ子一人見えません・・・(^^;)です。

美能 広島湾要塞(三高山堡塁 2/2)

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砲台場のある稜線を北方向へと下る石段です。

軍事施設であるにもかかわらず、しかもわずか2年ばかりの突貫工事でこんなにも美的なセンスで石段を造ることのできる明治の建築技術に驚かされます。

って、驚かされたのは私だけではないようで、「土木學會選奨土木遺産 2009 旧三高山砲台」って、青銅製の分厚いプレートが埋め込まれた碑が建っていました・・・(*^。^*)です。

ちなみに選奨理由は、現存する最大級の呉(広島湾)要塞の砲台施設。
砲台山森林公園として整備されており、保存状態も良好で学習の場となっている。
・・・と。

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砲台場から石段を下った位置に、赤煉瓦と石材、それをコンクリートで補強した建物(地下兵舎)があります。

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地下兵舎の屋根部分には分厚く土塁が載せられており、出入口は進攻する敵戦闘艦からは見えない反対方向を向いています。

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地下兵舎からさらに進むと調理場やトイレ跡と思える生活空間が設けられています。

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三高山堡塁の乗る稜線の最も北の部分に花崗岩石材を素敵に組み合わせて作った火薬庫と称される建物があります。

一時は荒れ果てた建物だったのでしょうが、補修工事がなされており、おそらくは建設当時よりもさらに立派?に復元されています。

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建設当時は名称どうり「火薬庫」として造られた建物ですが、近くに炊事場施設があることなどから判断して、広島要塞廃止以降は倉庫あるいは兵員隊舎として使われたのでは?と思われます。

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火薬庫は万が一爆発しても被害が最小となるよう屋根はわざと簡素に造られるのだと聞きます。

平成の復元工事は立派すぎた?かも??です???。

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季節は春、4月初旬・・・です。

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弾薬庫のある敷地は他の施設からはもっとも離れた北の外れですので、見晴らしも最高。

眼下に鶴原山堡塁、岸根砲台、瀬戸を隔て大奈佐美島砲台その先に絵の島と続きます。

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目を少し右に向けると三高港とその街並み、沖に浮かぶ似島の安芸小富士(278m)が目線より下に見えます。

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稜線を南(砲台山山頂)の方向に登るとそこには南部砲台跡が残ります。

先の二次大戦において、三高山には米軍航空機の夜間攻撃に対処すべく150cm探照灯装置一式や、空中聴測装置が配備されていたと云います。

根拠としては弱いのですが、より高地であること、日中の格納場所が確保できること、南部トイレの構造が新しい?こと・・・などから、おそらくは此方の南部砲台地域に置かれたのでは???と想像します。

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右手前が小黒神島、左沖に阿多田島がシルエットとなります。

阿多田島までの距離は約10km、「28糎榴弾砲」がいくら頑張っても砲弾の届く距離は8km・・・。

ちなみに旅順攻囲戦(明治37年8月19日から翌38年1月1日)において、旅順要塞に籠城したロシア軍兵士は6万名で、戦死者は1万6千名、戦傷者は3万名です。

この旅順要塞の攻略に要した日本軍兵士の総数は5万1千名以上で、戦死者は1万5千400名、戦傷者は4万4千名であったと云われます。

  君死にたまふことなかれ
                                    合 掌 ・・・ m(__)m ・・・です。

美能 広島湾要塞(三高山堡塁 1/2) 

s-広島湾要塞 
「三高山堡塁」は砲台山(401.8m)から北へと伸びる稜線上にあり、これは是長地区と三吉地区の境界線上ともなります。

ただ、三高山堡塁への軍用道路(現砲台山林道)は美能地区亀原から山上へと切り開かれていますので、当堡塁は美能地区の項において説明させて頂きます・・・m(__)mです。

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画像は三高山堡塁に掲示された案内板です。

三高山堡塁は呉軍港を守る要塞(のち広島湾要塞に昇格)の一翼として、明治32(1899年)3月に着工し、明治34年3月に完成した、大規模(総面積6万坪)で極めて重要な堡塁です。

明治36年6月現在での三高山堡塁配備の大砲は「9珊加農砲」が4門・「28糎榴弾砲」が6門・「9珊迫撃砲」が4門ありました。

ちなみに、糎(センチ)・珊(サンチ)は同じ単位です。
明治維新の日本軍はフランス式軍隊を模範とし、フランス語教育を受けたことからその発音を真似てサンチと洒落?たようです。

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大きな円形の穴には旋回式28糎榴弾砲が設置されていました。
廻りを囲む花崗岩擁壁に開けられた四角い空間は、戦闘中に弾丸や装薬を一時保管するためのものです。

また、観測指揮所や隣の砲台からの連絡には伝声管を使うために、パイプとなる円形の穴が開けれれています。

ちなみに、日本で電話が開通したのは、グラハム・ベルが電話を発明してから14年後の明治23年(1890年)で、まずは東京-横浜で営業が開始され、当初の加入者数は東京155回線、横浜42回線だったそうです。

一般に普及し始めたのは日露戦争の後からで、明治43年(1910年)全国での加入者が10万を突破しました。
・・・以上は「電話WIKI」よりのコピペ・・・m(__)mです。

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まるで公園、実際沖美町政の時代には「三高山堡塁跡」としてではなく、「創造の森森林公園(三高山砲台跡)」として予算を計上し整備がなされました。

ちなみに江田島市となって後の観光マップでは「三高山(砲台跡)」あるいは「砲台山森林公園」と表記されています。

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擁壁の土塁上から見た28糎榴弾砲設置跡です。

一つの砲台場に二門が並べて置かれていました。

s-榴弾砲[1] 
砲台場には上記写真とともに以下の説明文が掲示されています。

この看板は、28cm榴弾砲をイメージした写真です。
特徴は、地形や建物などに遮蔽されて直接狙えない目標に対し、遮蔽物の上を跳び越す山なりの弾道で射撃する火砲です。
湾曲した弾道から「曲射砲」とも呼ばれていました。

ちなみにこの写真の元は「日本の要塞(学研)」にあるようです?。

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大正15年(1926年)8月1日、広島湾要塞が廃止されたのち、三高山から轟音が響くことは無くなりましたが、代りに米軍のジェット戦闘機2機が山々に大轟音をこだまします。

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戦闘中の弾火薬一時保管庫???。

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砲台場から石段を昇った上に観測所跡がありました。

樹々に覆われていて遠くを見晴らすことはできませんが、海風がサワサワと葉音を立てて通り過ぎていきます。

美能 広島湾要塞(鶴原山堡塁)

s-広島湾要塞 
明治30年(1897年)5月に建設工事が始まった「鶴原山堡塁」は同年3月に着工した岸根鼻砲台に次ぐもので、広島湾要塞の要ともいえる奈佐美瀬戸を標高107mの山上から睨みます。

ちなみに、広島湾要塞は大正15年に廃止となり、任務を芸予要塞、豊予要塞、下関要塞に移譲しましたが、第二次大戦終結までに造られた全国の主な要塞には以下のものがあります。

津軽要塞•東京湾要塞•父島要塞•舞鶴要塞•由良要塞•鳴門要塞•「広島湾要塞」•芸予要塞•豊予要塞•下関要塞•壱岐要塞•対馬要塞•長崎要塞•佐世保要塞•内之浦臨時要塞•奄美大島要塞、このほかにも臨時要塞となったものが数ヶ所、さらに朝鮮半島や台湾、中国などにも設置されていました。

航空機の重要性が低かった当時の要塞建設においては、敵艦船への攻撃を主目的とする海岸砲台を単に「砲台」と指定しました。

さらに砲台としての機能を有しながら、短期間なら単独でも要塞となりえる装備機能を持ち、個別に点在する海岸砲台の背面を支援する多数の戦闘員を有して、陸上戦闘兼用ともなりえる砲台を「保塁」として区別しました。

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鶴原山堡塁へは岸根鼻(がんねムーンビーチ)へと向かう道を途中で左折します。

登り口はご覧のとおり・・・。
かってはアスファルト舗装がされており、狭いながらも普通車で登れた道だったのですが・・・(^^;)です。

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明治期に造られた砲台や堡塁は概ね規格統一がされているようで、立地の地形状況や、使用材料となる煉瓦、石、コンクリートの量比が地域によりばらつく程度で、施設の部分部分の画像だとどこの砲台、堡塁なのかまったく見分けがつきません。

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他地域の砲台を見に行ったことはありませんが、画像情報で見る限りは江田島近辺の砲台には白い花崗岩が多用されており、赤い煉瓦ととても良いバランスでもって組み立てられているように感じます。

もちろん、ひいき目に見ての話・・・(*^。^*)です。

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砲台や堡塁は当然ながら敵戦闘艦からの大口径砲による攻撃が想定されており、施設の多くは地下や半地下に潜り込んでいます。

敵はもとより、味方でさえ外部からは見え難い構造となっています。

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もっとも、ここまで徹底して枯草や木々でカモフラージュする必要もないと思うのですが・・・(*^。^*)です。

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戦闘中唯一、目となり耳となる見張り観測所?の跡です。

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広島西飛行場が使用されていた当時は、同敷地内に航空機の離着陸支援をする電波誘導塔が建っていたそうです。

ちなみに明治36年6月現在の鶴原山堡塁には「24糎加農砲」が6門、「9糎加農砲」2門が装備されていました。

28糎榴弾砲 
上記画像はアジア歴史資料センターよりのコピペで、「王家甸の南西くぼ地にある28センチ榴弾砲の試射(防衛省防衛研究所所蔵)」・・・m(__)mです。

日露戦争の旅順攻略作戦で膠着状態にあった状況を打破する目的で東京湾要塞(箱崎砲台8門・米ケ浜6門)及び芸予要塞(大久野島4門)に配備してあった「28糎榴弾砲」を急遽旅順へ移送しました。
この28糎榴弾砲の威力は旅順攻略作戦に大きく貢献、明治38年1月1日、難攻不落だったロシア軍の旅順要塞は陥落、司令官(ステッセル中将)は白旗を揚げました。

画像は旅順要塞に近い「王家甸の南西くぼ地」で試射を行っている様子で、撮影の日付は不明ですが28糎榴弾砲が内地より旅順に送られた直後(9月14日、6門が旅順に到着)の、9月下旬頃だろうと???。

28 糎 榴 弾 砲 諸 元
口径 : 280mm       初速 : 142~314m/sec
全長 : 2,863m       最大射程 : 7,800m
重量 : 10,758kg      高低射界 : -10~+68度
堅鉄弾 : 217kg       方向射界 : 360度
であったといわれます。

鶴原山堡塁に配備されていた「24糎加農砲」の緒元は不明ですが、弾丸重量の217kgが半減する以外は概ね同一だろうと???・・・(^^;)です。

ちなみに、明治37年(1904年)2月8日に開戦となった日露戦争は、明治38年9月5日のポーツマス条約により終結しました。

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この美能地区には岸根砲台、鶴原山堡塁、三高山堡塁を維持管理するため196名(明治36年6月)の守備隊員が駐屯しており、そのための兵舎や物資保管倉庫は三高山堡塁への軍用道路登り口でもある亀原の丘を削り、その下に広がる入り江や湿地を埋め立てて造られました。

現在は江田島市沖美ふれあいセンター(美能小学校跡地)の建つ広大な干拓造成地です。
この時、江戸時代に塩田の堤を補強するためにつくられた美能松原はさらに延長して植栽され、平成の初期まではその美しい松並木が維持されていました。

敷地内に当時を語る建物等の痕跡はありませんが、唯一、八角形に掘られた大きな井戸が今に残っています。

もともとの住民でさえ飲料水には多いに不自由する美能地区にあって、守備隊員196名への生活用水を確保するのは大変なことです。
この井戸はよほど大切なものだったのでしょう。
花崗岩を正確に切って隙間なく並べた八角井戸は、使われなくなった今も柵で囲い大切に保護されています。

ちなみに、三高山堡塁用に造られた軍用道路(現砲台山林道)の脇に建つ市営住宅付近には、かって弾火薬庫がいくつも並んでいたと云います。

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鶴原山の航空機用電波塔は先年撤去されましたが、その鶴原山の東方、亀原に新たな巨大鉄塔(110m)が建ちました。

これは、2002年10月1日に廿日市市住吉から移転した「中国放送沖美ラジオ送信所」で、中国放送(RCCラジオ)所有の中波放送送信所です。

ちなみに、周波数 1350KHz・空中線電力20KW・放送対象地域は広島県で、 放送区域内世帯数は1,313,440世帯です。

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美能外海漁港からみた鶴原山です。

鶴原山堡塁からの砲弾発射訓練や試験発射は当然何回も行われたと思いますが、きっとぶったまげ~のド迫力だったことでしょう。
今だったら、弁当をもって見学に行きます・・・(*^。^*) タ~マ屋~~~です。

美能 広島湾要塞(岸根鼻砲台)

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広島湾要塞(当初の名称は呉要塞)で最初に砲台工事が着手されたのは明治30年3月の大奈佐美島砲台(大那沙美島砲台)ですが、次に鶴原山堡塁、鷹ノ巣低砲台、翌31年(1898年)6月には当「岸根鼻砲台」の工事が開始されています。

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岸根鼻砲台は鶴原山堡塁とは砂州で繋がった小島で、大奈佐美島とは瀬戸(約1,000m)を挟んだ対岸となります。

鶴原山との間にある砂州は戦後民用として開放されるや、海水浴場として大いににぎわい、多い日には広島宇品より数百人を乗せた連絡船が3隻4隻と列をなして着岸しましたが、海水浴ブーム?の去った昨今では広い渚に数家族がまばらに憩う、静かなプライベート風ビーチへと進化?しました・・・(*^。^*)です。

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標高49mの小島は人為的にひな壇状に削られており、煉瓦や花崗岩の切り石を巧みに利用して大砲の設置台や、見張り観測施設、弾薬庫、兵員待機所などが作られています。

画像の円形部分、雑木が繁茂し全体がよく見えませんが、おそらくは27糎砲台の設置跡だと思われます。
ちなみに岸根鼻砲台には「27糎加農砲」4門と「斯加式9糎速射加農砲」4門が設置されていました。

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画像は平成27年(2015年)3月の撮影です。

この岸根鼻砲台跡は旧沖美町時代、バブル期の余力でもって観光開発を推進すべく平成5、6、7年ごろ?沖美町が主体となって整備されたのですが、その後の維持管理予算が確保できず平成10年(1998年)頃にはすでに放置されていたようです。

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兵員待機所?・・・です。

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石段脇には手すりが設置されていますが、分厚く丈夫そうな鉄柱もすでに数本が錆びて倒れています。

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一時待避所?です。

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見張り、観測所?・・・です。

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紺碧の奈佐美瀬戸を挟んで大奈佐美島その背後に霞むのは廿日市から宇品方面です。

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観測所からの下り階段です。

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兵員待機所?です。

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登るときには気づきませんでしたが、茂みの奥になにやら・・・。

「岸根砲台記念館」と読める、鋳物鉄プレートが取り付けられた地下壕(弾薬庫?)が見えます。

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記念館の半開きとなったドアーの向こうからはかび臭い臭気が漂い、展示用パネルの骨組みだけが何故か今も当時そのままに直立します。

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美能内海漁港の防波堤からみた岸根鼻です。

遠目にはこの小さな岬の上に、巨大な大砲が何門も乗っかっていたなんてまったく想像もできません。

美能 広島湾要塞(大奈佐美島砲台)

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人の本性はカマキリさんと同じです。

これは生物として形作られた最初の遺伝子情報に組み込まれおり、以来そのままに引き継がれている本性です。
攻撃があれば守りを図る、余力があれば反撃に出る・・・。

人類誕生のはるか以前から、生きとし生けるものが営々飽きることなく繰り返す生物の本能本性です。

ただ人間には仮想敵を予測しそれに対応する方策を予め準備できる能力が備わっています。
出たとこ勝負がよろしいか、それとも・・・です。

s-広島湾要塞 
「広島湾要塞」は直接には日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)に備えたものとなりましたが、計画自体は明治新政府の富国強兵に始まり、具体的には1887年(明治20年)1月には、早瀬瀬戸・那沙美瀬戸の防禦計画が出されていました。

以下、ウイキペディアよりのコピペ・・・m(__)mです。

1897年(明治30年)3月 大那沙美島砲台着工・5月 鶴原山砲台着工・8月 鷹ノ巣低砲台着工

1898年6月 岸根砲台着工・7月 鷹ノ巣高砲台着工・10月 室浜砲台着工

1899年3月 三高山堡塁着工・室浜砲台竣工・5月 大君砲台着工・10月 早瀬第一堡塁・早瀬第二堡塁着工・11月16日 呉要塞砲兵連隊本部並びに第二大隊は、広島市段原村(現在の南区比治山本町)で事務を開始

1900年3月 大那沙美島砲台鶴原山砲台・鷹ノ巣低砲台・鷹ノ巣高砲台竣工・4月 呉要塞司令部設置・6月11日 呉要塞司令部が広島市段原村に開庁・6月 大君砲台竣工・8月 早瀬第二堡塁竣工・9月 休石砲台着工・岸根砲台竣工・12月 高烏堡塁着工

1901年3月 休石砲台・早瀬第一堡塁・三高山堡塁竣工

1902年4月 大空山堡塁着工 ・6月 高烏堡塁竣工


1903年1月15日 要塞司令部は移築工事のため広島市の野戦砲兵第5連隊営舎に移転・3月30日 要塞司令部は広島市段原村の新庁舎に移転・5月1日 広島湾要塞に名称変更・12月 大空山堡塁竣工

1926年(大正15年)8月1日 廃止

ちなみに、これら要衝は古来より防御や見張りの拠点として海賊が砦を築いたり、ペリーの来航以前にも広島藩による砲台の設置場所とされたり、先の二次大戦においても多くが軍事施設となって重用されました。

s-奈佐美砲台敷地図 
カマキリの投影図のようにも見える大奈佐美島(大那沙美島)砲台敷地図です。

大正15年に砲台としての役目は終わりましたが、その後も軍用地として残されており、一部は戦艦長門や、重巡古鷹などの予備品置き場とされていたようです。

s-奈佐美砲台・水雷衛所敷地図 
昭和十年ころの軍用地図です。

島の右側三分の一が水雷衛所、残りが大那沙美島砲台敷地として分けられています。
水雷衛所の役目は、海底に仕掛けた爆雷を敵艦船の通過に合わせて大爆発させることですが、先の二次大戦においてどのような役目を負ったかは不明です。

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大戦末期(昭和19年5月2日)大奈佐美島北部海岸にあった、「大那沙美兵器格納場之圖」です。
場内には「長門砲塔付属品箱物」「陸奥砲塔付属品箱物」「古鷹砲塔付属箱物」などが保管されていた様子です。

ちなみに戦後はGHQにより集められた大砲の砲身が山となって積み上げられていたと云います。

上記図面は「アジア歴史資料センター」よりのコピペ・・・m(__)mです。

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昭和40年の大奈佐美島です。
島には農地の痕跡が見えますが、まだ緑豊かな瀬戸の島でした。

戦後払い下げられた国有地には、食料増産のための開拓団が入島して田畑を耕したと云いますが、雨水のみに頼る農業経営は過酷を極め、昭和45年ごろ土石採取業者に転売されました。

高度成長に伴い広大な工業用地を確保すべく、広島宇品近辺の浅海埋め立て事業が盛んとなり、大奈佐美島はその捨て石となって島は大きく蚕食されました。

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昭和50年の大奈佐美島砲台付近です。
赤〇内に砲台跡らしき影がうっすらと見えます。
大規模な土石採取も砲台跡までは及ばなかったようです。

船を手配しなければ入り込めない離島ですので、人為的な破壊は少なかっただろうと想像しますが、鉄材などはすべてはぎ取られており、また小舟で横付けしても砲台跡までの道は藪に塞がれ容易には近づけない状態であると聞きます。

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美能内海魚港の左が鶴原山、その右に砂州で繋がった小さな岸根鼻、奈佐美瀬戸で隔てられた先に大奈佐美島です。

ちなみに、「広島湾要塞備附砲兵器具不足品調査表(明治36年6月調)」によれば、大那沙美砲台の装備砲は「24加砲」が4門、岸根鼻砲台は「27加砲」が4門・「斯加式9速加砲」4門、鶴原山堡塁には「24加砲」6門・「9珊加砲」2門、三高山堡塁は「9珊加砲」4門・「28榴弾砲」6門・「9珊迫砲」4門がありました。

さらに大那沙美の守備隊97名、馬2匹、五十石積和船5隻、三十人乗り小舟1隻を運用、三高山附近(岸根鼻・鶴原山・三高山)の守備隊は196名で、馬2匹、五十石積和船12隻、三十人乗り小舟2隻を運用していました。

また訓練による緊急配備では民用汽船の徴用手配が出来ず、手漕ぎ船での配備であったために5時間のロスタイムが生じた。
物資、人員の迅速な移動を得るために、美能~中村(中町)間の道路整備を急ぐ必要がある。などなど・・・(*^。^*)です。

美能 美能外海漁港

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美能集落の南にあるのが「美能外海漁港」です。

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砲台山林道の中腹から見た美能集落と外海漁港です。

外海漁港は冬の北風には強いのですが、台風による南からの風波はまとも影響します。

今に見る防波堤が完成したのは平成14、5年の頃ですが、その直後の平成16年(2004年)9月に発生した台風18号の記録的な破壊力により防波堤先端付近の巨大なコンクリートブロックが根こそぎ倒壊、あらためて台風の恐ろしさを思い知らされることとなりました。
(翌年修復され、より堅牢な防波堤とされました。)

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美能漁業協同組合です。

玄関脇に、代理業務のご案内として、沖美町収納代理金融機関・中国電力電気料金収納事務取扱店・日本電信電話公社収入金収納事務取扱店・日本放送協会送受信料収納事務取扱店・水道料金収納事務取扱店と書き出されています。

美能農業共同組合や簡易郵便局が業務休止となった今、頼れるのは美能漁業協同組合のみとなっています・・・(*^。^*)です。

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港の背後には小径を挟んで、美能漁業協同組合と美能農業協同組合(現在休業中?)の建物が並びます。

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元は長大な砂浜だったところですが、外海漁港を作るにあたり大きく埋め立てて荷揚げ場兼作業場ともなる大広場をつくり、その一角に漁協(JF)の燃料給油ステーション(兼ガソリンスタンド)も作られました。

さすがにJFの給油ステーションです。
船に給油するために岸壁まで燃料パイプを延長し、船から見える位置に燃料給油量の電光表示盤が取り付けてあります。

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さらには給油ホースが浮き桟橋まで延長されており、カード式決済が可能なセルフ給油ができるようになっています。

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昭和57年7月15日まで運行されていた高速連絡艇、「沖・是長・美能・三高・大須・似島・宇品」航路の美能桟橋待合所です。

内部はまだ綺麗で待合所として使えなくもないのですが、今現在は回収した新聞紙などリサイクル品の一時保管庫となっていました。

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在りし日の、沖・宇品航路(畑港沖)を疾走する高速連絡艇「千鳥」です。

「第一千鳥」の要目です。
進水 昭和47年3月
トン数 27.03T
馬力 282PS
定員 34人
船体 鋼製・軽合金
船価 2,120万円
建造 三保造船所
昭和55年1月に日商岩井(株)に売却・・・です。

そもそも明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が鋼鉄製62トンの蒸気船「海勝丸」を運行したのが当地近代定期航路の始まりであるとされますが、以後昭和57年の沖・宇品航路廃止までにはいつの時代にも様々な問題が多発、地域住民の誰にとっても有効となる交通の便を計るのは今も昔も一筋縄ではいかぬようです。

画像は沖美町史よりのコピペ・・・m(__)mです。

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港の最奥に、電機モータ巻き上げ式のスベリが設置してあります。
漁船の船底掃除(カキ落とし)や船底用塗料の塗り替え、推進装置や舵の点検に使用されます。

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港内の様子です。

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牡蠣筏も余裕で係留できる大きな港です。

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荷揚げ岸壁のほぼ中央部に魚魂碑が建てられています。

衆議院議員 灘尾弘吉 書

大海原をふるさととする魚介も等しく生命あり。
我等はこの生命の上に生活を築き、今日の繁栄をみる。
願はくば魚介の霊よ安らかに。
ここに追弔の誠と感謝の意をこめて碑を建立す。
昭和五十六年三月吉日
美能漁業協同組合
組合長理事 三浦裕直

s-美能外海漁港 
昭和50年1月の美能外海漁港です。

連絡船着岸岸壁となる、スベリ傾斜のある防波堤がみえます。

美能 美能内海漁港

s-美能AB 
国土地理院よりコピペした昭和37年7月の美能地区中心部です。

画面上部が美能内海漁港で、下部が美能外海漁港となります。
港湾施設はとても貧弱で、小舟の多くは当時もまだ砂浜に引き上げていました。

内海には江戸時代に塩田の防波堤補強用に植えられた松並木が続いており、白砂青松、まさに童謡に歌う歌詞そのまんまです。

♪ 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ ♪
♪ 干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ・・・(*^。^*)です。

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胡子神社の脇に「波止修築之碑」が建ちます。
裏面は読み取り不能で修築時期は不明ですが、おそらくは昭和42、3年頃だろうと思います。

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その時に増設された防波堤兼荷揚げ用岸壁です。
正確に切りそろえた花崗岩が隙間なく積み上げられています。

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近年の漁港は浮き桟橋全盛、多くの船が便利な浮き桟橋に付けられていますが、丈夫な浮力材が無い時代、小舟は砂浜に引き上げられ、大型船は沖合いでブイ係留または錨を落として停泊しました。

積み荷の搭載や陸揚げの時だけ岸壁に付けるのですが、潮の干満差が4mもある当地では斜めに勾配をつけた波止、あるいは雁木(がんぎ)と呼ばれる階段状の岸壁が利用されました。

この港が改築された昭和40年代は、まだ雁木が普通に使われていたのでしょう。

s-美能松原 
画像は昭和50年1月です。

美能松原はまだ青々として元気いっぱいに枝を張り出しています。

それまではてんでに作業場を設けていた牡蠣生産者さんを集めた、カキ打作業団地も完成しています。

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現在の美能松原です。

百数十本はあったといわれる松並木は皆無となり、代わりとなる木々が植栽されています。
陶板にプリントした「美能松原公園」の文字が、かっての情景を漂わすのみです。

碧い海に白い砂浜、その浜に添うように緑の松原が続く、総数百数十本もの大きな松の木のある景色は実に素晴らしく島の人々は勿論、沖を通る船の人達にもよく知られていた。
江戸時代の中頃、河野氏が移り住んで塩田を開拓し、潮止めの堤を築き堤の強化を計って松の木を植えたのが、この松原の松であった。
その松は百四、五十年も過ぎて巨木となり、堤を守ると同時に防風林として、住民の家屋を守りまた、夏は涼風を呼ぶ憩いの場として人々に愛され親しまれて来た。
特に、戦前海水浴場として賑わい栄えたこの浜は、戦後時の移り変わりと共に、大きな漁港となり、松は酸性雨と平成三年の台風十九号による風と塩の害を受け更に松食い虫で残念ながら終に一本も残らず姿を消し、唯松原の名のみ残ることになった。
これを惜しみ昔日を偲んで、この所に若木を植えて公園を造り、松原公園と名付けて後世に伝えんとするものである。

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陶板にプリントされた、県道36号線に沿う松並木です。
撮影は昭和60年頃?で、海岸の側から南の集落方向を写したものです。

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砲台山林道中腹から見た現在の美能内海漁港です。

画像中央部の、もと陸軍兵舎?があった跡地は戦後GHQに、さらに三高小学校美能分教場(昭和26年5月から29年3月?)として利用されましたが、その後は町民グラウンドに、そして今は沖美ふれあいセンター(町民の福祉の増進と、健康で文化的な魅力ある町づくりをめざし、集う・学ぶ・健やかの3部門を中心に建設したもので、地域福祉の拠点、並びに芸術・文化・交流の場として親しみやすい機能的内容の充実した施設です。)となっています。

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昭和40年代に改修された雁木の前に舫われた漁船、手前の船は、刺網(建網)漁やタコ壺漁、アナゴ漁仕様の漁船、右手の方には小型底引き漁船が泊めてあります。

沖美町史によれば、当地は古くからナマコ漁が盛んにおこなわれており、江戸期に紀州漁師の指導によりイワシ漁(鰯網)が始まり、他に一本釣り漁・しばり網漁・うたせ網漁・たこ壺漁・貝堀り・カキ養殖・真珠養殖など魚種に合わせた多彩な漁法が発展しました。

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牡蠣(カキ)の生産高で全国一位、二位を競う江田島市にあっても、沖美町の美能魚協と三高漁協の牡蠣生産量は群を抜いています。

先年、堅牢長大な防波堤を持つ近代漁港に大改築された、美能内海漁港の港内には何台もの牡蠣養殖筏が係留されており、新規の養殖準備作業が着々と進められています。

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牡蠣打ち作業場とその前に泊まる、揚収牡蠣の運搬船(カキ船)です。

この壮大な景観はもはや漁業のレベルを脱しており、牡蠣生産工場といった雰囲気・・・(*^。^*)です。

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浜には牡蠣筏の材料となる、孟宗竹と間伐杉の丸太が準備されています。

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戦前に造られたであろう波止の突端に小さな漁師小屋が立っています。

二畳ばかりの小さな小屋の中にドラム缶で作った竈(かまど)が置かれています。
その焚口の奥で、くべられた薪が燃え尽きる寸前、最後の炎がポッと小さく上がりました。

季節は3月、早朝の漁から帰った漁師さんがしばし暖をとり、世間話を終わって家に帰ったのでしょう。

今さっき、押し車に寄りかかるようにして通り過ぎていったお婆さん、薪が最後まで燃え尽きるのを見届ける火の番を引き受けていたんでしょうね。

この日、春の日差しが快い一日でした。
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