是長 鹿田港

s-是長・鹿田港 
この付近の地名を、砠(そうわ)といいます。

砠のいわれは不明(辞書には石山・土山)ですが、御子祖山との付け根に船隠しのような入り江があり、「鹿田港」と呼ばれます。

この港は昔、村上水軍の監視人とされる佐村久右ヱ門が居住していたとされます。
南からの強風を遮る避難港として重要であり、芸藩通志には二反帆の船7、8隻が泊まれたと記されています。

上記「沖美町の文化財をたずねて」より引用・・・m(__)mです。

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上記掲載画像は、HP「風の馬 るんた」から「三反帆(さんだんぼ)で熊野川(2010年12月11日)」の記事をコピペ・・・m(__)mです。
熊野川を航行中の三反帆船で昭和30年ころまでは使われていたそうです。

ちなみに、画像の三反帆船は川船ですので、芸藩通志にいう二反帆船とは船型なども違うと思います。

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昭和50年2月の鹿田港付近です。
港に転倒船(石材運搬船)が1隻みえます。

県道はアスファルト舗装がされ、別荘用地にも家々が建ち始めています。

s-グーグル鹿田港 
現在の鹿田港です。

港の左に放射状に沖へ伸びるのは桟橋ではなく、船首を陸側に固定し停泊中の大型石材運搬船(プッシャーボート)です。
積載量は推定?ですが左が1,000t?、右は3,000t?くらいだろうと・・・???です。

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鹿田港港内からみた別荘地の方向です。

この付近には雨水を運ぶ大きな川もなく、水質は常に良好ですのでスキューバダイビングの練習ポイントともなります。

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小型底引き魚船「五洋丸」が、陸に引き上げられています。

すでにプロペラが外されていますので、おそらくは解体場へと運ばれるのでしょう。
水線下の部分にはグラスファイバーが巻かれていますが、基本は木造船のようです。
お疲れ様でした。

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鹿田港から別荘地へと続く小道は、昔懐かし海岸沿いの小径・・・(*^。^*)です。

昔々は、浦々へと通ず小径はみんなこんな感じだったような・・・(*^。^*)です。

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波静かな瀬戸の砂浜に、こ~~~んなに大きな流木が・・・。

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木造の小舟が朽ち果てる寸前で、入り江の奥に収まっています。

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大きすぎて港に入ることのできない、沖泊まりの船との通船???
それとも、むかしむかしの、船隠しにひそむ海賊船が幻影となって現れ出たのかも???

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夏の一時期をのぞいては、今も、むかしむかしの静寂をたもつ、砠(そうわ)の里海・・・(*^。^*)です。

是長 是長港

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是長地区には集落の前面に是長港があり、入鹿鼻の北側には鹿田港があります。

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昭和37年5月の是長港付近の画像(国土地理院)です。

ほぼ同じような大きさの船が十数隻、水深の浅い港にはすべての船が入港するのは無理のようで、半数は港の外で係留されています。

これらの船は転倒船ともよばれる石材運搬船です。
最盛期の昭和40年ころには沖地区だけでも5、60隻はあったといわれます。
積載量約50tくらいのディーゼル船で、乗員は2名、船長と機関長を夫婦で分任し、埋め立て地に運んだ石材を、船を大きく傾けることで一度に海中に投入する離れ業をやってのけました。

能美町高田港で最後まで残っていた転倒船「新栄丸・日栄丸・共栄丸」です。

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昭和50年2月の是長港付近です。

戦後の20年間、是長港の改築はまったくの手付かずでしたが、昭和40年代に入りやっと一回り大きな防波堤で囲われることになりました。

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現在の是長港です。

一時期は転倒船で溢れかえった是長の港も、昭和45年ころよりはプッシャーボートで一度に数千トンの石材を運ぶ方式に変わり、徐々にその隻数を減らしていきました。

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是長集落の前で寄せる大波を固くグロックする最新防波堤です。

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もと、宇品・沖航路連絡船用の桟橋で、これからタコ漁に出かけるという漁師さんが大忙しで準備作業をされています。

仕事の邪魔にはなると思いましたが、「タコたくさん獲れますか?」「だめだなぁ~、年々獲れんようになりょ~るが」豊穣の瀬戸内海であっても、専業の漁師さんで生活するのは、なかなか厳しいようです。

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赤い浮き桟橋の手前にあるスベリは昭和50年に運行が開始された、沖・宇品航路連絡船の桟橋として作られたものですが、残念なことに昭和57年には連絡船航路が廃止されました。

スベリ型桟橋は耐久性は高いのですが、波による影響を強く受けるために連絡船への乗降には不便な施設です。
いつ航路が再開されても間に合うよう?赤い浮き桟橋が整備されましたが、いまは航路再開の予定がありません。

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連絡船用に作られた「是長桟橋待合所」です。

まだ十分に使える姿で残してありますが、内部は新聞や雑誌、ダンボールなどのリサイクル資源一時集積所となっていました。

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是長港防波堤の沖をゆく護衛艦「うみぎり」基準排水量3,550トン  全長137m 出力54,000PS  最大速力は30ノットです。

洋上訓練を終わり、母港である呉港に帰る途上のようです。

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戦前からある???、旧防波堤内には今も小舟が舫われています。

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花崗岩石を丁寧に積み上げて造った防波堤で、少なくとも70年、あるいはそれ以上の年月を耐えてきました。

ここまで古くなれば、人工物か自然物であるかの判断もできません。
自然岩の空隙であると勘違いしたハマナデシコが、防波堤の占有を開始しました・・・(*^。^*)です。

ちなみに、港から道路を隔てた陸側正面には「JA呉 是長支店」が建ちます。
是長は漁村ではなく農村なのです。

背後に控える広大な農地(耕して天にのぼる)から生産された膨大な量の農産物は、すべてがこの是長港から船に積み込まれていました。
そんな・・・時代も・・・ありました。

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船を舫うロープを巻き付ける係船柱(ボラード、ビットとも)です。

一般には鉄で作られますが、この防波堤上にある7本の係船柱はすべて花崗岩石柱です。

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石積防波堤の先端部は後年の港改築で短く切られて積み直されましたが、すてきな曲線に仕上げてあります。

鉄筋コンクリートだと再利用はほぼ不可能ですが、石積だと好きな形に組み替えて再び利用することができます。

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近代的で機能的な造りとなった是長港にあっても、石積防波堤は港の主要ポイントとなってのこります。

是長 サンビーチおきみ

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元の入鹿海岸あらため、「サンビーチおきみ」となって宿泊施設も完備した海水浴場があります。

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江田島市内では他に見ない、立派な建物が白い砂浜の向こうに建ちます。

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いらっしゃいませ サンビーチおきみ

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全室オーシャンビューの公共の宿「サンビーチおきみ」です。

江田島4町の合併前に沖美町主体で作られた施設で、台風被害や海水浴客の減少など逆風を受けながらも、展望大浴場(循環型天然温泉)をそなえ、洗練された瀬戸の味を前面に江田島の魅力を残らず堪能できる宿泊施設として運営されています。

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ビーチの中央付近に大きな羽釜がセットされていますが、この巨釜は海水浴に訪れた方々のお昼ごはんを用意するものではありません・・・m(__)mです。

建てられた説明板によれば、「え、えぇ~~~。せ、説明板がなぁ~~~い。」

てっきり羽釜の説明板だと思ったのに、文面には羽釜のハの字もなく、その向こうにあるごく普通の岩の由来が説明されています。

弁慶岩
鎌倉初期の僧、武蔵坊弁慶がこの岩を厳島弥山、海抜530mの山頂から、沖の平家軍船に目掛けて投げたところ力余ってここまで届いたといわれ、以後もここに鎮座し、弁慶自慢の力もさすがと弁慶をしのぶ縁となっております。・・・と。

弁慶岩よりも羽釜の方が気になるんですけどぉ~。
もしかしたら、冗談じゃなくホントにお昼ご飯を焚く巨釜なのかも・・・ (^^;) です。

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2004年(平成16年)9月7日、山口県西部をかすめて北上した台風第18号は広島市においても14時20分に、観測史上第一位となる南の風60.2m/sの最大瞬間風速を観測しました。

この台風による風と高波のため国宝厳島神社の平舞台は波にあおられ四方に流れ去り、本殿の檜皮葺屋根は大きく剥がれ落ち見るも無残な状態となりました。
沖美町においても港湾などに大きな被害をうけたうえ、完成まもなかった「サンビーチおきみ」においても、船舶係留桟橋の崩壊、ビーチ砂浜の流出など一時はサンビーチ自体の存続も危ぶまれる惨憺たる被害に合いました。

画像は翌年4月、重機を投入し夏を前に急ピッチで砂浜の復旧工事を始めたころのものです。
(夫婦岩も、この18号台風の高波をまともに受け倒壊しました。)

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復旧工事が終了し、もとの静かな瀬戸の渚となりました。

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この沖はひっきりなしに船が行き交う主要航路、豪華巨大客船も大型タンカーも、外国の旗を揚げた軍艦も、潜水艦も、三本マストの大きな帆船も・・・です。

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長い長い砂浜に小さな小さな波が きらきら キラキラ きらめきます。 

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是長の北に伸びる海岸には、何故かすべてにカタカナの名前がついています。
カーサブルビーチ・ブルービーチ・グリーンビーチ・ニューブルービーチ・・・
以上、グーグル地図より・・・(*^。^*)です。

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続く、続くよ、ビーチはつづく ・・・です。

是長 入鹿鼻・四郎五郎

入鹿鼻・四郎五郎  
是長地区の長い海岸線には、背後に急峻な山がせまり僅かな平地しかないのですが、反面、自然美あふれる豊かな景観が今も各所に残ります。

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サンビーチおきみの白い砂浜から海岸をさらに北へと行った所の、断崖の先に特異な容の大岩が見えます。

今でも特徴のある大岩ですが、十年ばかり前に台風の大波を受けて破壊されるまでは、大岩の上にさらに二本の大石柱が高くそびえ立っており、その姿を夫婦が寄り添う姿にたとえ「夫婦岩」と呼ばれていました。

この付近の岩山は古くより砕石場となっておりましたが、さすがの石工さん達もこの「夫婦岩」に手を下すことは無く、江戸後期の「芸藩通志(1825年)」にも「メウト石」となって記載されております。

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上部の三分の二が台風の大波に折られてしまいましたが、いまも残った二つの大岩はしっかりと寄り添い支え合っています。

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「夫婦岩」よりさらに北へと進んだ先に、なんと「やもめ岩」があります。

先年の台風にも耐え、一人だけが寂しく残った「やもめ岩」です。

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夫婦岩ほどの大迫力はありませんが、岩盤にしっかりと根をはり気丈に立ちます。

入鹿鼻の沖を行き交う船や、カモメの群れを追いつつさらに幾百年、穏やかな瀬戸、荒れ狂う怒涛の瀬戸をただ一人見つめ続けることとなります。

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幾百年、幾千年、幾万年も不動かと思える花崗岩の岩山も、それは人の思う時間軸に当てはめてのことであり、人には無限とも思える時間も自然界にとっては一瞬間でしかありません。

目の前にみる花崗岩が、地下十数キロの深さでマグマ状の巨大な塊から、冷え固まったのが1億年ばかり前のことです。

その後比重の軽い花崗岩は次第に地表へと浮き上がり、さらにその上部を覆っていた堆積岩が浸食されて、ついさっき江田島市の基盤となって地表に現れたばかりです。

ついさっき現れた硬い硬い花崗岩が、もうすでに、台風の大波に打ち砕かれ、松の木の根っこで割られて崖下に落ちています。

その崖下に落っこちた花崗岩の大岩にウミウが羽を休めます。

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崖から落っこちた大岩の角が波に削られ丸くなるには、人にとっては長い長い歳月ですが・・・

さっき、その大岩の上に羽を休めたウミウは、わずか数秒でまたどこかへ飛び立っていきました。

で、余計なことですが、鵜飼に使われる鵜はカワウではなくウミウが使われるとか・・・(*^。^*)です。

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画像は昭和37年7月、県道の開通から2年後の様子です。

その後も何度か拡張改良工事が施され、西能美の動脈路となりましたが、その県道36号線の途中に「四郎五郎」とよばれる岬があります。

今はNPO法人所有の「夢来来」なる、休息&展望施設となって道行く人々の憩いの場とされていますが「四郎五郎」なる地名は、古く江戸時代の書にも記載があります。

「夢来来」の前に張り出された説明板によれば、安芸灘に出没する海賊に対抗し、鹿川の一郎、沖の二郎、畑の三郎、是長の四郎、美能の五郎らが協力し西能美の守りを固めてていました。

神出鬼没の海賊集団に対しては、より早い発見と迅速な現場到着は必至で、この岬は海賊を見張るための砦の一つとして、是長の四郎と美能の五郎とが共に利用したとされます。

彼らは個々に水軍を所有しており、のろしや松明、鐘や太鼓やほら貝などで互いに通報し合って協動、いち早い行動と勇猛な戦いは能美水軍の名を一挙に広めたと云います。

ちなみに、現在も伝えられる見張り場所として、鹿川との境である才越峠の南の「物見石」、畑港の防波堤付け根の「見張石」があります。

県道から谷に沿って分け入った先に「四郎五郎水源池」があります。

今はまったく使われることもありませんが、昭和40年6月江能水道組合が供給する太田川を水源とする上水が通ずまで、「四郎五郎水源地」からの水源は美能地区の人々にとってはかけがえのないものでありました。

是長地区で集水された水が隣の美能に供給されるきっかけは昭和31年に沖村と三高村が合併し沖美町が誕生したことや県道整備の進捗によりますが、美能地区の人々が切望する四郎五郎水源池からの給水が始まったのは昭和も34年となってからで、他に主水源をもたない美能地区の念願がやっと叶いました。

四郎五郎水源池が大切にされたのは僅か6、7年のことでしたが、その恩恵は計り知れないものでした。

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「四郎五郎」岬の先端部はナイフで切られたように垂直な断崖となっておりますが、その崖の一部には天然記念物に指定されてもおかしくない摩訶不思議な花崗岩の産状(崖の左上部分)がみえます。

わたくし的には摩訶不思議なその球体を「球状花崗岩」としましたが、岩石の専門家的には、球状花崗岩の特徴である白と黒の縞模様が見られないことから、捕獲岩としては特異な産状ではあるが「江田島花崗捕獲岩」とすべきで、詳しくはさらなる研究が必要うだろう。・・・ (^^;) と。

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赤い岩肌に直径が約10cmの球体が煎餅を並べたように何十個も繋がります。

この球体捕獲岩(江田島花崗捕獲岩)は長石質の赤い岩盤を割って貫入した岩脈で、岩脈の幅が1mくらい、長さは視認できる範囲で5mくらいあります。
岩脈は他にも何本?かあって海中に向かう脈も視認できます。

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わたくし的に「球状花崗岩」、専門家が「江田島花崗捕獲岩」とする球体のアップ画像、直径が12cmです。

はたしてどんなメカニズムでこんな奇怪な石ができるんでしょう。
自然は不可思議なり・・・(*^。^*)です。

是長 小黒神島・俎礁

小黒神島(厳島神社) 
小黒神島は是長地区の海岸からやく3km沖合に浮かぶ無人島で、周囲が約2km、山頂の標高は130m、島岸から数十mで水深が一気に30m前後と急激に深くなっており、また潮通しも良いため絶好の釣りやダイビングポイントとなっています。

俎礁(まないたしょう)は、小黒神島の北方やく1kmにある岩礁で満潮時には赤い灯台が見えるだけです。

小黒神島の島名由来などについて記された資料がないことを幸いに?、以下は私の勝手な妄想・・・ (^^;) です。

上記地理院地図に赤線を引いてみました。
厳島神社、小黒神島、大黒神島がほぼ一直線になります。

厳島神社は、推古天皇の御代に「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」を祀って建立された神社です。

宗像三女神は
1)福岡県宗像市田島の辺津宮に祭られている「市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)」
2)大島の中津宮に祭られている「多岐津比売命(たぎつひめのみこと)」
3)沖の島の沖津宮に祭られている「田心姫命(たごりひめのみこと)」
とされます。

厳島は、1)の市寸島比売命、イチキシマがイツクシマにあたり、2)の多岐津比売命、3)の田心姫命を海上の島にあてはめる必要があります。

宗像三女神は玄界灘を北へと一直線に1)宗像市田島、2)大島、3)沖の島と並びます。
つまりは宗像三女神を祀る厳島には当然沖へと一直線に伸びる2)と3)の島が必要となります。

厳島から、小黒神島、大黒神島へと南下する直線は、宗像大社から北の朝鮮半島に伸びる直線とは真逆となりますが、沖へと向かう直線であり、全くの模範では恐れ多きこととして、あえて逆向きの直線を作ったとも思えます。

黒神は黒髪にも通じ女性を意味しますし、大黒神島の最高峰は「櫛ノ宇根」で、これも女性をイメージしますし、さらに大黒神島には「宮城」「王泊」なる地名も残ります。

小黒神島あるいは大黒神島を探査すれば、あるいは沖ノ島で発見されたと同じ金の指輪が眠っているかも?ですが、島に分け入るなら神罰には十分にお気をつけください・・・m(__)mです。

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グーグルで見る宮島弥山山頂からの小黒神島(多岐津比売命?)、大黒神島(田心姫命?)への直線です。

この直線は夏至のころの太陽が南中する方向とも、ほぼ同じでは、???と、思うのですが???・・・(*^。^*)です。

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小黒神島と宮島の間は呉港や広島港に出入りする大型船舶の唯一となる航路です。

2014年1月15日、この付近をほぼ並走して航行していた、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ(8.900t)」とプレジャーボート「とびうお(5tくらい?)」ですが、運動性能に勝る「とびうお」が常識では考えられないような奇妙な航行を繰り返したのちに「おおすみ」と衝突し転覆、「とびうお」船長と乗船者のお一人がお亡くなりになりました。

運動性能の高い小型船の操縦者は、他船と見合い関係となる前に早め早めに転舵変速を行い、大型船等の航行を妨害しないように注意して、自船はもちろんのこと、すべての船が安全に航行できるよう譲り合いに努めましょう。

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ハマダイコンの花咲くビーチの向こうに小黒神島のしるえっと。

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砲台山登山道の中腹から見た、小黒神島と俎礁です。
俎礁(まないたしょう)は画像右の松の枝葉の間に針の穴よりも小さく写っています。

俎礁岩礁は干潮時以外姿を現すことは無く、黒地に赤い横帯の灯台が一本立つだけです。
ちなみに、灯台名は「安芸俎礁灯標」初点灯は昭和35年11月24日だそうです。

まだ灯台などなかった、日露戦争の当時、病院船ロヒラ丸がこの岩礁に乗り上げて動けなくなりました。
その救出作業中にさらなる不幸が襲い、2名の作業員が犠牲となりました。
「ロヒラかわいや、まないたの上で、一寸きざみにきざまれる」と、はやり歌もあったとか。

小黒神島にはその2名の霊を弔い地蔵様が置かれ、いまも付近の航海安全を願っているといいますが・・・。
「とびうお」遭難者2名の霊も合祀し、合掌・・・m(__)mです。

s-ろひら丸 
上記掲載画像および下記説明文は、HP「なつかしい日本の汽船」よりのコピペ・・・m(__)mです。

ろひら丸
ROHILLA MARU  3,081G/T
Lpp 117.75m B 12.29m D 8.15m 600NHP/3,386IHP 14kt
進水 1880.4.27(明13)
竣工 1880.6.2(明13) Caird & Co.,Greenock
1900(明33)東洋汽船(東京)に売却、ろひら丸と改名
1904.2.2(明37)日露戦争に参加。陸軍の病院船となる。
1905.3.30(明38)尾城汽船(東京)に売却
1905.7.7(明38)糸崎から宇品へ向かう途中能美島で座礁、船体両断して沈没

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美能外海漁港から見た俎礁です。
その向こうの砂浜は宮島青海苔海岸、浜の右奥に青海苔浦神社も見えます・・・(*^。^*)です。

是長 流川・林山川

s-是長防災マップa 
是長集落を流れ下る主な川として、流川と林山川があります。

南北に長い山肌と海岸線をもつ是長地区ですので他にも小さな谷筋を流れる川(水路)は両手ではとても数えられないほどになりますが、いずれの川も三日間の日照りで干上がってしまう細い細い水量でしかありません。

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人は電気やガス、ガソリンとかは無くてもまあ何とか生きていけますが、水がなければたとえその地が争い事のない穏やかな天国であっても、風光明媚な楽園桃源郷であっても、呑めや歌え踊りにあけくれる竜宮城であっても、そこで生活することはできません。

是長地区においても、川は人々に最も大きな恵みを与えるものとして、とても大切にされていました。
流川の川底はまさに、豪華日本庭園に敷き詰められた石畳以上に頑丈にそして美しく並べて作られています。

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中流域も・・・。

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集落の中央部も・・・。

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そして、そのまま碧い海まで流れ下ります。

しかし、先人が知恵の限りを出し合って作った美しい川の流れも、ひとたび生活排水が流れ込めばそれは一夜にして、どぶ川となります。

近年になり下水道整備が急速に進み、一時のどぶ川はしだいしだいに桃源郷是長の本来あった姿に戻りつつあります。

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いかに水をきれいに、そして有効に利用すべく努力しても、限られた面積に降る雨の量を増やす技術はありません。

しかも、降った雨水には強力な地球重力が作用し、あっという間に瀬戸の塩水に交じり合ってしまいます。

そこで考え出されたのが、水を溜めそれを必要に応じて有効に分配するシステムです。
古来より「水を制する者は国を制す」とかいわれ、つねに社会の最重要課題ではありました。

それが近年の大型土木機械や、送水装置、配管などの能力向上で、よりたやすい事業となりましたが、そのような大規模事業には賛成者もいれば、絶対反対と唱える人々も多くあって、なかなか・・・(^^;)です。

で、途中の経緯は知りませんが、沖美町地区の農業用地のほぼすべてに三高ダムからの水が常に継続供給されるシステムが完成しました。

アジサイの花咲く山際の細い農道にも、三高ダムから配送された農業用水が高い水圧をもって流れています。

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江戸時代につくられた往還道の地下にも、大口径の農業用水配水管が埋まっています。

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このマンホール蓋の下に埋まっているのが、水道管なのか農業用水管なのか下水管なのかは分かりませんが、水利用の大問題に常に真剣に取り組んだ沖美町の念願の結晶がこのマンホール蓋のデザインとなって現れ出ました。

カラー塗装のマンホール蓋は元沖美町役場の玄関にも飾ってあります。
「畑 元沖美町役場」 ・・・(*^。^*)です。

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365日、常に水不足に嘆く「瀬戸内海型気候」の島にあっても、ひとたび想定を超える雨量があれば、その勢いは凄まじいものとなります。

先年の大雨で砲台山の山肌が大きく崩壊、巨岩、巨木を巻き込んで一気に砠(そうわ)地区の田畑を押し流し、民家に迫る寸前で止まりました。

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広島県農林水産局、平成28年度予防治山事業渓間工事、工事番号No.7谷止工事業によってコンクリートの頑丈な砂防ダムが完成しました。

もっとも必要とされる水が、なぜに、もっとも恐ろしきかな・・・m(__)mです。

是長 砲台山(三高山)・寺屋敷跡

s-砲台山・寺屋敷跡 
砲台山(三高山)山頂(401.8m)は是長と三吉、高祖との境界上に位置します。

この山の北側尾根には旧日本軍が構築した三高山砲台跡があり、山名の元ではありますが、それについては砲台への軍用道始点のある美能地区の項で説明します。

砲台山の山頂へは旧軍用道を整備拡張しさらに延長した、「砲台山林道(平成8年開通)」から分岐して山道「砲台山縦走路」を進む必要があり、寺屋敷跡もその縦走路上にあります。

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高松峠から砲台山林道を北上し、5、6百m進んだ右側に砲台山縦走路の南側入り口があります。

このとき2012年1月は縦走路が再整備された直後だったようで、道にはシダやツル草もなく、雑木も適宜刈払われており、視界が大きく開けたラッキーな状態でした。

尾根筋を行く縦走路の右下は木下川が削り取った深い谷が並行しており、その対岸は宇根山から北へと延びる尾根が海岸までつづきます。

その向こう、画像中央やや左の尖がった岩山が江田島町古鷹山(394m)で、その先中央より少し右に呉市の灰ヶ峰(736.8m)、さらに右上のなだらかな山が川尻町の野呂山(839m)です。

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ラクダのこぶ状に続く縦走路上にはこぶ(ピーク)が4つばかりあり、砲台山よりも高いこぶ(414.1m)もあって、そのような場所は見晴らしも良好・・・(*^。^*)です。

木下川デルタ部と三高港、その沖にカキ筏が並び、安芸小富士の似島が浮かび、さらにその向こうの広島宇品までが一望です。

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三高港と似島のアップです。

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尾根の左(西側)に見えるのは、画像右に小黒神島、中央が阿多田島、左の半島が御子祖山と入鹿鼻で、その手前に鹿田港や沖美リゾート海岸も見えます。

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最後となるラクダのコブが砲台山山頂です。
三等三角点を示す石柱が埋められており、廻りの雑木も刈られておりますので、冷たくはないのですが、海を渡った北風が山歩きで火照った頬に気持ちよく・・・(*^。^*)です。

かき筏の向こう、中央左の海峡が大須瀬戸です。

ちなみに、江田島市のすべては厚い花崗岩の岩盤上に乗っかっていますが、当地砲台山、宇根山、津久茂山はその花崗岩の上で風化を免れて残った、玖珂層群(海洋性堆積岩)が覆いかぶさっています。

さきほど通り過ぎたラクダこぶの一つには江田島市では珍しい海底火山の噴出物(枕状溶岩?火山灰?)が長い年月の中で変質し、青緑の固い岩石となって残っています。

玖珂層群は海洋プレート(フィリピン海プレート?)が海溝部分ではぎ取られ陸側(日本)にくっ付き浮上したもので、海底の砂や泥、放散虫などの成分からなるチャート(石英)、サンゴ礁が変質した石灰岩、さらに下部の花崗岩からの熱水を吸収濃縮した一部分には重金属(金・銀・銅・錫・タングステン・鉛・亜鉛・鉄などなど)が析出していたりもします。

玖珂層群は熱や圧力を強く受けすぎたため、化石が原型で存在する可能性は低いとされていますが、よくよく探査すれば層群の形成期とされる、古生代から中世ジュラ紀、あるいはそれ以降の化石(恐竜?)が見つかるかも???・・・(*^。^*)です。

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山頂付近に恐竜の化石は見ませんでしたが、冬の澄んだ空気はこれまた最高・・・(*^。^*)です。

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江田島市内の古道や、山の尾根などには時々変な石柱が埋められています。

二重の波線が刻まれていますので、おそらくは旧海軍軍用地を指定する標石だろうと思います。

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道なりにしばらく下ると「寺屋敷跡」と彫られた石碑が建ちます。

沖美町教育委員会が昭和59年11月3日に発行した「沖美町の文化財をたずねて」を要約しますと、宮島弥山での修行を終えた弘法大師が、この地に庵を構えしばらく滞在したとあります。
さらに、海岸には「船付」の地名がのこり、弘法大師が上陸された浜であると云います。

寺屋敷のあったとされる付近には、今も多く瓦の破片が散乱しており、船付は沖美ニューブルービーチと呼ばれる浜です。

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縦走路を下って、三高山砲台跡に着きました。

尾根筋を巧みに利用し広範囲に築かれた、三高山砲台跡は、明治期の土木技術の粋を集めたものとされ、近年「土木学会選奨土木遺産」に指定されました。

石と煉瓦で構築された幾何学的デザインの三高山砲台も圧巻ですが、そこから見下ろす人々の営み、瀬戸に浮かぶ島々のなだらかな曲線美もまた、圧巻です。

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画像左に見える大奈佐美島にも沢山の砲台が構築されていましたが、戦後島全体が土石採取の現場となり、砲台跡もほぼ壊滅したといいます。

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阿多田島にかぶる太陽からの光が少し赤みをおび、夕日に変わろうとしています。

はやく帰って、今日は熱燗で一杯? かなぁ~ ・・・(*^。^*)です。

是長 宇根山(高松峠登山ルート)

宇根山古道 
高松峠(標高238m)は、県道36号線(海岸道路)ができるまでは沖(是長)と三高(三吉)を結ぶ交通の要所でした。

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是長側から見た高松峠です。
左は観光道路として整備された砲台周遊道、右へ下ると三吉(三高ダム・三高港)へ通じます。

右上へと登る崖っぷちの危なげな道が江田島市最高峰の宇根山(541.8m)への登山道となります。

江田島市発行の月間広報誌(2016年2月号)に、「高松峠から宇根山への登山希望者を募る」って記事をみました。

素直にそのツアーに参加すればよいのですが、歩くペースが人一倍遅い、リーダーの指示などうわの空、他人様のお尻を見ながら歩くのは嫌い、などなど、団体行動には極めて適応性のない私ですので、残念ながらツアー参加を諦めました。

でも、やっぱり登ってみたいって衝動に駆られ、1ヶ月ばかり間を開けて単独自力登山を決行しました。
(ツアー直後ならシダやつる草をかき分ける手間が不要で道に迷う心配も無いだろうとの下心もあって・・・(^^;)です。)

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案内標識はありませんが、要所々々に赤や青のリボンが結んであり楽勝で歩ける登山道・・・(*^。^*)です。

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あいにく周りは鬱蒼たる樹々ばかりで遠くの景色は期待できませんが、季節は3月、落葉樹の枝先を覆う葉っぱはまだ新芽の奥深くにしまわれています。

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道なりに登り続けますと、測量点を示す標識がたちます。

廻りの小枝は綺麗に刈り払われており、「わっ、はっ、はぁ~、楽勝、楽勝、先発隊?が綺麗に道を開けてくれてて、助かるなぁ~~~。」って、その時までは余裕一杯でした。

が、その三角点を通過し10mも進むと道が途絶えます。
「うっ、うそだろぉ~。一ヶ月前にツアーを組んで何人も山男?が登ったんだろぉ~。でも、これ以上は進めないよぉ~。」

先発隊が道を作ってくれていると思い、ナタはもちろん、ナイフも地図も、カメラとお茶以外はな~んにも持たずに登ってきました。

「ツアー希望者が少なくて、途中で断念したのかなぁ~。しかたない、引き返そう。」って、50mくらい下りますと、左に向かって獣道のような感じで少しシダが倒れています。

太陽の方向からみて、こっちの獣道が宇根山の方向に近いかもって、・・・。よし、少しシダをかき分ける必要はあるけど進んでみよう・・・。

ところどころに人為的にシダを倒した感じが残ります。
なんだぁ~。さっきの三角点はフェイント?、はたまた単なる寄り道・・・。

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なんとなく人の歩いた形跡が残りますし、赤や青のテープも見えましたので、そのまま進むことに決定。

が、「ひえぇ~~~。これってイノシシのヌタ場じゃないか。水が濁ってるってことはついさっきまでいたんだろぉ~。それに、この様子じゃ一匹や二匹じゃないだろう。」
「まあしかし、ここまで来たんだからなぁ~。ええい、男は度胸じゃぁ~~~」
って、内心はビクビク、パキッとかカチッって遠くで音がするたびに、首を一回転。万が一に備え枯れ枝の丈夫そうなのを一本拾いました。

2016-03-03 031 
ルートはほぼ尾根道伝いですので、登ったり、下ったり場所によってはあきらかに人が作った道ですが、竹藪などは、先発隊も道を開くのが面倒になったようで、竹と竹の狭い隙間を個々に分かれて通過した様子です。

2016-03-03 034 
悪戦苦闘、半泣きの涙目に鉄塔らしき影がうつりました。
「よ、よかったなぁ~~~」・・・(*^。^*)です。

ここは前にも来たことのある防衛庁?の通信施設です。

2016-03-03 036 
鉄塔からさらに100mばかり藪をかき分け、ついに宇根山山頂、広島県内にも17ヶ所しかないといわれる一等三角点に到達しました。

ついさっきまでは涙目だったのですが「わっ、はっ、はぁ~、実にそうかいじゃぁ~」・・・(*^。^*)です。

ポケットから取り出したペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまいました。

で、どうしましょう。
アスファルト林道を歩いて帰るべきか、今来た獣道を後戻りするべきか???

って、車、高松峠に置いたままだし~。え、えぇ~獣道の後戻りはいやだなぁ~~。だってしかたないじゃぁん。来るんじゃなかったなぁ~~~。

2016-03-03 037 
まあ、とにかく、日の高いうちに帰らなくっちゃ~。

すたこらさっさ、えいさっさ・・・。途中、えっ?この道でよかったっけなぁ~?ってとこが2、3ヶ所ありましたが、無事通過。

あきらかに、登山道だぁ~~~。って場所まで下って、やっとカメラのシャッターが押せる余裕が出てきました。

往復で4時間くらい???、途中時間を見るだけの余裕がありませんでしたので・・・(^^;)です。

s-2016-10-10 083 (2) 
画像は同年の10月10日、獣道はもうコリゴリ、能美町中町からのアスファルト登山道を登ってきました。

早春の3月3日、高松峠から登った時はまったく視界がなかったのですが、その後に南側の雑木が大きく切り払われたようです。

右の大きな島が大黒神島、すぐ左に小さく長島が見え、さらに左には沖野島や親休鼻、手前の半島が大矢鼻です。

s-2016-10-10 086 (2)
やっぱ山頂は見晴らしがよくないとなぁ~~~。

山中でめったに人を見ることはないのですが、たまたま山頂で一緒となった方が、「ダッシュ島も見えますよ」って。
へぇ~、あの鉄腕DASHの・・・、どれかなぁ~~~ 
わっ、はっ、はぁ~、今日は余裕、余裕じゃぁ~~~ ・・・(*^。^*)です。

是長 御子添地蔵・御子祖山

s-鹿田公園 
入鹿明神社の背後あって、峻巌千尺とされる御子祖山(みこそやま)とその尾根の先端、都母ヶ宇根(つぼごうね)へ登ってみることにしました。

御子添地蔵・御子祖山 
御子祖山(127.1m)の東側は花崗岩の風化土で、肥料と水さえが供給できれば畑作地としては、最適な土地なのですが、三高ダムからの農業用水が供給される以前は、つねに水不足による日照り障害のリスクを背負うとても過酷な環境でした。

そのためもあって、農業以外に活路を見出すべくリゾート開発にいち早く転身、別荘用宅地造成、レジャー施設用地取得、ビーチ整備、観光道路整備、観光農園事業推進、とうとう、元からある自然が豊かで風光明媚、気候条件などもすべてがリゾート開発条件に適合、一気に開発が進み当時の沖美町町政もそれを大いに支援しました。

s-2015-03-25 140 
御子祖山、都母ヶ宇根も含め広大な用地を取得し、鹿田公園が整備されています。

スポーツ施設としては、多目的広場としてグラウンドが1面、テニスコートが6面、ゲートボール場2面があり、さらに幼児広場、砂場、遊具芝生広場2面、庭園、花見広場、展望広場(御子祖山)、展望台(都母ヶ宇根)とそれらを結ぶ遊歩道、さらに第1、2、3駐車場、トイレ2棟、管理棟を備えたとても豪勢?な施設・・・(*^。^*)です。

s-2015-03-25 141 
標高でやく100mの高地にありますので、見晴らしも最高、海を渡ったて吹き抜ける風も爽やかです。

右は美能の岸根鼻、左から伸びる山裾は宮島弥山に連なります。
沖をいくのは、マツダの自動車運搬船と呉基地を母港とする訓練支援艦くろべです。

s-DSCN0424.jpg 
鹿田公園展望広場として整備された、御子祖山山頂(127.1m)です。
展望デッキもありますが、周囲の樹木が大きくなりすぎて視界は阿多田島・岩国方向のみです。

この山頂には江戸時代後期、広島藩が海上防衛のため一時期大砲を設置したと云われますがその痕跡などはまったく見えません。

ちなみに、御子祖山にまつわる伝説として、むかし入鹿明神社の幼き3人の御子がこの山頂に庵を営み、修行に励んでいたのですが、母に合いたい一心を、海を隔てる宮島弥山の三鬼大権現(三鬼さん)に祈願し、その思いが叶えられたとされます。
「御子祖山」や、当地の小字名「御子添(みこそ)」はこれに由来すると云います。

s-DSCN0452.jpg 
御子祖山から都母ヶ宇根へは尾根にそって遊歩道があります。

あまり期待はしていなかったのですが ・・・ ・・・。
おい、おい、おい、これは、いけそうじゃ~ん。

s-DSCN0433.jpg  
久々の高所に、少し足がすくみます。

s-DSCN0436 (2) 
この日、遠方は薄くもやっていましたが・・・それでも。
いいじゃん!いいじゃん!

手前の防波堤内は鹿田港、その先には江田島市内でもっとも観光開発の進んだリゾートビーチが連なります。

よくは存じませんが、地図には手前から沖美ブルービーチ、沖美グリーンビーチ、沖美ニューブルービーチと名打ってあります。

s-DSCN0460.jpg 
ほぼ垂直に100m以上の絶壁・・・(^^;)です。

s-DSCN0448.jpg 
松の枝下に見える島は小黒神島です。

s-DSCN0458.jpg 
一歩踏み外せば奈落の底となる畳一畳ばかりの大岩に、錆びた手すりを握りながら降り立ちますと、崖の窪みに小さな祠が残っていました。

御神体となるものは、なにも置かれていませが、軽く一礼し、この不安定な大岩を後にしました。

s-2015-03-25 137 
山を下り、鹿田公園を出ようとするとき・・・。
あっ、お地蔵様です。

枝張りの良いムクノキの根元に小さな祠がつくられており、中にお地蔵さまが立たれております。
由来はわかりませんが、おそらくは先ほどの都母ヶ宇根の崖っぷちから移されたものであろうと想像し、合掌・・・m(__)mです。

是長 石仏・大名切

s-石仏・大名切地図 
是長地区に石仏・大名切(おなぎり)の地名が残ります。

s-石仏・大名切 
画像は昭和37年7月30日(国土地理院よりコピペ・・・m(__)mです。)

昭和35年3月、是長から海岸沿いに美能、高祖、三吉へと通ず県道36号線ができるまでは、三高地区(三吉)から沖地区(是長)へ向かうには、木下川に沿ってさかのぼり、三高ダム付近からはつずら折れとなる山道を登り、山名水でのどの渇きを癒し、砲台山への分かれ道でもある高松峠を越えて沖地区(是長)へとたどる一本道が唯一の交通陸路となっていました。

大名切と石仏は、三吉と是長の境である高松峠から是長へと道なりに5、6百m下った道の両側にあります。

s-DSCN2326.jpg 
大名切(おなぎり)の云われは、厳島の合戦(1555年)に敗れた陶晴賢の残党が、三吉から高松峠を越えて逃げる途中、ここで力尽き果てた。
その霊を弔い石仏をたて、地名を大名切として今に語り継ぎます。

のち、この付近から金の小仏像が発見され、戦国時代にかぶとの中に入れてお守りとしたものだろうとされ、野間家が所蔵しておりましたが、火災により焼失したと伝わります。

大名切石碑から道路を挟んだ向かいに石仏が置かれています。

s-DSCN2327.jpg 
道路からは石段があり、さらに台座を置いた上に一体のお地蔵様と、石仏数体が置かれています。

s-DSCN2328.jpg 
元は野ざらしで置かれていましたが、平成十三年十月、施主西中啓、施工石原義男両氏のご努力によりお堂が建てられました。

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追手にかかり果てた陶軍残党は、かぶとを被った上級武士とその従者数名?、お地蔵様の両側に2体、台の下にも数体の石仏がおかれ、お地蔵様の乗る台座を囲んでいます。

s-DSCN2331.jpg 
自然石を石仏としたのか?、あるいは石仏が長年の風雨で自然石に戻ろうとしているのか?・・・その石仏に菊の花が手向けてあります。

深く頭を垂れて、合掌・・・m(__)mです。
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