高田 堀越城・北堀城・小屋城・小城

高田 堀越・北堀・小屋・小城 
高田地区には、堀越城、北堀城、小屋城、小城があったと云われますが、中町から高田にかけての地形には、小城あるいは砦として使えそうな小山がいくらでもあって、しかも城跡を示す案内板、標識とかもなく、さらに、かってはあっただろう小山の山頂へと続く小道はとうの昔に塞がれてしまっています。

と、いうわけで?上図に示す、城跡の表示が間違っている場合もあるやも?・・・m(__)mです。

ちなみに、参考とした資料は能美町誌です。

北 堀 ・ 堀 越 城 跡

高田の豪族として元弘2年(1332年)高田弥十郎直継が衣(江)田島公文職として活躍し、次いで明応2年(1493年)高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続したと云う。
戦国の世となって高田・清能の小屋城は水軍城として、下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったと云う。
(北堀城下の陣場に八瀬島の古墓ありと云う)

また、清能奥の堀越城は水軍城、下井田の小城は跡詰城で、始め永禄2年(1559年)能美左馬亮が、その後、山野井清景の分家、山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城した。

以上、町誌の記載文を要約しました。

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下井田の集落をお散歩中、たまたまお見かけした同年輩の方に、あの付近に城跡があると町誌で見ましたが、もう登り道はないでしょうね。
おっ、城跡がどこかはわからんがのぉ~、近くにウチの畑があるし、道もちゃんと残っとるがのぉ~。
えぇ~~~。登り道が残ってるんですか?。すぐ行ってみます。ありがとうございました・・・m(__)mです。

軽トラが余裕で入れる道を上ると、小屋城があったと思える付近は平地となっており、つい最近までは畑として使っていた様子です。
当然広島城本丸にあるような石垣などまったくあるわけもなく、おそらくはこのあたりが小屋城跡であろうと?・・・想像です。

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登った道とは逆の江田島湾の方へと向かう下り道がありましたので、鬱蒼とした竹藪を恐る恐る行ってみることにしました。

竹藪はすぐに終わり、江田島湾が明るく輝きます。
古くは直下まで波が寄せており、岬の傾斜面を少し削って海との間を高田街道が通っていただろうと思います。

また、この先には小屋門と呼ばれる地名が残ります。
高田街道を封鎖する関所があったのか、あるいは、湾奥の船隠しに出入りする戦船を北風から守る港の出入り口があったのかも・・・(*^。^*)です。

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再び坂道を後戻りして、小屋城よりはさらに高い位置にあるとされる堀越城を目指します。

今は竹藪や雑木が周りを囲み、視界は限られますが木々を払えば、北は津久茂の瀬戸からはるかその先の廿日市、宇品方面まで、南は中町はもちろん、その先の亀山城があったとされる能美八幡神社、新蔵城があったとされる真道山までが、そして東は江田島湾のほぼ全域を見渡すことができる、見張り場所としては最適な位置となります。

画像左は古鷹山、右のほうには呉市灰ヶ峰が見えます。

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南の方向には中町が一望に、その先には真道山が大きく山裾を広げます。

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堀越城があっただろう付近まで辛うじて道は続きますが、木々に閉ざされ周囲の視界はまったくききません。

帰ろうと坂道を下っていると、先に道案内をしていただいた方が夫婦で果樹園の下草刈りをされています。
仕事の邪魔にならないよう、そっと素通りをさせていただきました・・・m(__)mです。

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堀越城の西側中腹まで、お墓へと続く道がありましたので行けるところまで・・・。
中腹からでも高田の町が一望でき、津久茂瀬戸の向こうに似島の安芸小富士がはっきりと見えます。

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左に目をやれば、画像中央付近に北堀城が、さらにもう少し上に登れば右端に小城も見えることでしょう。

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下井田の集落から小屋城、堀越城へと続く農道の入り口です。

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下井田の集落から見た、小城の乗る小山です。
登り道は見当たりませんが、山頂部に大きな楠木?が植えてあるようです。

だれか、目印にと残した野趣のある自然の案内板・・・(*^。^*)です。

高田 中谷造船所

高田グーグル地図D 中谷造船所 
かって江田島市内(江田島・能美島)には、各浦々ごとに数人の船大工さんがおり、小さなスベリから大漁旗をはためかせた新造和船を次々と沖へ引き出しておりました。

今でも船大工の腕を持つ方はおられるようですが、木造和船を注文する船主は皆無、数年前に一隻の伝馬船?が進水したと噂を聞いた後は絶えてなくなったようです。

現在市内で造船業を経営しているのは、江田島町小用の「KK江田島造船所」と、能美町高田の「中谷造船KK」だけとなりましたが、江田島造船所は修理修繕業が専門となり新造船を手がけることはありません。

江田島市内で唯一造船所と呼べるのは高田の「中谷造船KK」のみとなりましたが、それでも毎年数隻の新船を造り出し、江田島湾へと華々しく進水させております。

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高田の対岸である江田島町側からみた、中谷造船の全容です。
右の船台(スベリ)では中型貨物船を建造中です。

左に見えるクレーの付いた箱型のものは浮きドックと呼ばれるもので、船台で建造し進水した船の最終艤装や点検修理修繕を行う施設です。

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中谷造船の本社建物です。

外壁の赤レンガに埋め込まれた表札には「中谷造船株式会社 NAKATANI SHIPBUILDING CO.,LTD.」とあります。

以下、中谷造船HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

商   号 中 谷 造 船 株 式 会 社
創立年月日 昭和40年1月11日(創業 明治9年)
本社・工場 広島県江田島市能美町大字高田3328-2
資 本 金 10,000,000円

社指すところは「夢を加えた船づくり」

技術・営業上の特徴
広島の小さな造船所が、3度のシップ・オブザ・イヤーを受賞しています。確かな技術と人間優先のテクノロジーが裏付けされた結果です。
中谷造船のテーマは、船の高速化や自動化はもちろん、居住設備の改善まで含めた人間最優先の近代化です。
『思わず乗ってみたくなる船』『人をわくわくさせる船』。
『夢とロマンがある船』の建造を目指しています。
お客様のニーズに答えた、「より進化した船」を届けることを使命としております。

会社の特色
優秀な人材ネットワーク:研究・開発は国内外関わらず最適な企業集団で効率化・質の向上を行っています。

造船所設備
船台  99.50m×20.00m
1号浮ドック 87.68m×31.0m(4990G/T)
2号浮ドック 106.14m×32.0m
ジブクレーン 50トン1セット・16トン1セット・10トン6セット・ 門型クレーン 5トン1セット・3トン3セット
と、あります。

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船台にて建造中の中型貨物船?です。
船橋構造物も取り付けられており、船台での組み立て作業は終盤のようです。

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海側から見た新造船の後部と船台です。

船の最後部に位置する舵と、黄金色に輝く真鍮製の5枚羽根プロペラが見えます。

コンクリートで傾斜のつけられた船台には何本ものレールが敷かれ、そのうえに沢山の車輪をつけたトロッコが何台もあり、さらにその上に新造船が乗ります。

起工から進水までの数か月、最大1千トン近い重量の船をこのトロッコに載せ、滑り落ちないようにストッパーで支えます。
船の進水時には車輪を固定するストッパーを外すことにより、トロッコは船を乗せたままで船台斜面を転がり落ち、上に乗った船を海上まで導きます。

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万国旗を掲揚して進水したばかりの「SOLID HARBOR」?マニラ船籍の貨物船?です。

船台上で鉄板あるいはブロックをつなぎ合わせて船の形を造り出し、船内に主エンジンや補機類を搭載し、舵やプロペラを取り付けて船台から海面へと滑り落とすまでの工期は約3カ月です。

進水した船はこのあと、桟橋などに舫った状態で電機配線や配管、甲板上の補機類(クレーン、係船機など)、航海計器や居住設備を艤装し、試運転や試験航行、検査、が行われたのちに船主に引き渡されます。

一般的な小中型の貨物船の場合、設計に2カ月、起工から進水まで3カ月、艤装や試験に2カ月くらいの期間を必要とします。

お値段ですが、画像の貨物船だと、たぶん?、5億円くらいだろうと??、想像します・・・(^_^;)です。

注 : 上記に記載の船の建造価格は、「中らずと雖も遠からず」???・・・(^_^;)です。
実際の価格は不明、また船の建造費は主要原材料である鉄鋼の値段や社会情勢などにより2割3割の変動は当たり前です。

貨物船やフェリーボートの建造をお考えの場合、価格より造船会社の技術力と信頼度の方がより重要です。

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上記貨物船と船体の容はよく似ていますが、こちらの船は液体(オイル・ケミカル)を運ぶ船のようです。

船主は韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」で、船名は「KEOYOUNG BLUE 1」、引き渡しは2016年4月、N/Tトン497.0t、G/Tトン1423.0tで、全長が71.9mです。

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この進水直後の船も、韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」が船主です。
先の「KEOYOUNG BLUE 1」とは姉妹船で船名は「KEOYOUNG BLUE 3」、2016年10月に引き渡されています。

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浮きドックのサイドに繋がれ、艤装工事中のフェリーボートです。
船首に船名が書かれていますが、まったく見たことのない文字・・・(^_^;)です。

船名は判読できませんが、この船は日本の政府開発援助(ODA)によりミャンマー・ヤンゴン市に無償供与されるフェリーボートです。
ヤンゴン市を分断するヤンゴン河で使用される渡河船で、全長41.35m、幅9.40m、深さ7.40m(高さ?)、総トン数290 トン、旅客定員1,200名の要目で発注されたもので、「中谷造船KK」が同型船3隻の建造を総額999,000,000 円で落札しました。

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航行試験や検査も終わり、ODAに引き渡された直後のヤンゴン河渡河船です。

このあと3隻の渡河船(フェリーボート)は広島港外貿埠頭に集められ、川崎汽船株式会社(SAL社)が運航する重量物運搬船「PAULA」(クレーン能力合計700㌧)に3隻(1隻あたりの重量270㌧)を積み込み、2014年10月31日ヤンゴンに到着しました。

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画像は「川崎汽船株式会社」のHPよりコピペしたもの・・・m(__)mです。

中谷造船で建造したフェリーボート3隻をクレーンで吊り上げ、「PAULA」の甲板に登載作業中の画像です。

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中谷造船の林立する沢山のクレーンは、高田地区のどこにいても屋根瓦の上に突き出して見ることができます。

小さな町の小さな造船所が3度ものシップ・オブザ・イヤー賞に輝いた快挙は、元高田小学校の校歌にもある、正しき道を歩み進みて文化を求める高田気質が大きく底流となってあるからです。

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画像は試験航行で呉湾小麗女島の沖をいくJR西日本のフェリー「みやじま丸」です。
「みやじま丸」は中谷造船で建造された、日本で初の小型電気推進旅客フェリーで、シップ・オブ・ザ・イヤー2006、小型客船部門賞を受けました。

両頭双胴船型の電気推進(ディーゼル・エレクトリック方式)旅客フェリーで2006年1月27日竣工、2006年5月27日に宮島航路に就航しました。
総トン数254トン、全長35.0m、速力8ノット、車両7台を搭載し、旅客503名(最大803名)が乗船できます。

高田 元高田小学校・元高田保育所

高田グーグル地図D 元高田小学校 
高田地区の中心部、旧高田街道に面して平成26年3月まで140年の歴史をもつと云われる高田小学校がありました。

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高田小学校の正門です。

門柱前面には真鍮鋳物で高田小学校と書かれた校札が掲げられていますが、花崗岩の門柱自体はそれよりもず~っと古く、明治四十二年九月に地元有志、山﨑三次氏により寄附されたものです。

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正門脇の掲示板に、高田小学校閉校式平成26年3月23日と書かれた張り紙が、錆びた押しピンで止められていました。
どうやら少しばかり前に閉校記念式典が執り行われたようです。

高田小学校の起源として、江戸時代の頃より高田高源寺において、児童を集め読み書き算盤が行われていたと云います。

明治5年8月に定められた教育法令「学制」に基づき、明治7年8月、第4大学区広島県管下第3番中学区内第140番小学校として高源寺本堂に「日新舎」を創設。
同9年本堂南側に校舎を付設、同11年に第4大区(佐伯郡)広島県第140番小学校「高田小学校」となりました。

明治19年「中村簡易小学校 第一分教室」となるも、同24年「高田村公立高田尋常小学校」となって独立、大正12年には校舎を空地区から現在の沖南地区へと拡張移転しました。
校内には判読が困難ですがおそらくはその当時のものだろうと思える、「教育喜捨芳名」の石碑があり、沢山の方々の芳名が刻まれています。
高田地区の児童教育や文化発展に対する熱意が今に伝わります。

そのような恵まれた環境風土にありながらも、高田地区の児童数減少はとどまることなく、ついには2014年3月末をもって惜しまれつつも高田小学校、高田保育所が廃校廃所となりました。

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シーソーの周りをはしゃぎまわる子供らは絶え、鉄道草が一本また一本と数を増やしています。

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卒業生?が残した自画像陶板が23枚、大きな手形は担任の先生のかも?・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの南側には「創立百年記念 昭和四十九年建之」と彫られた陶板と78個の自画像や文字、絵などが書かれた陶板が張られた記念碑が建ちます。

ちなみに昭和49年の高田小学校総児童数は173名となっていますので、陶板の制作にあたったのは5年生と6年生だったのかも?ですね。

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こちらの記念碑には「一以貫之」の周りに、学童らの手形と記念文字が書かれた66個の陶板が張られています。

これが全校児童数だとすれば、平成6年の67名にもっとも近いのですが、制作年は不明?です。
記録に残る高田小学校の児童数として、昭和22年の500名、28年401名、37年322名、41年215名、平成元年105名、閉校となる年度の児童数は51名でした。

ちなみに、制作に使われている陶板?ですが、文政(1818年~1830年)の頃、能美島から瓦用焼土(赤土)を大量に産出しており、明治中期から大正後期にかけては高田を中心に煉瓦の生産が盛んにおこなわれていたと云います。

有名な江田島海軍兵学校(明治26年建築)の赤煉瓦はイギリスからの輸入品であると云われますが、それより他の多くの煉瓦建造物(対ロシア艦隊用の砲台施設など)は、能美町高田や東広島市安芸津で生産されたものが多く使用されたようです。

しかも煉瓦の質としては、高田で生産されたものの方が輸入品や安芸津産よりも上質であったと云います。

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動物の飼育小屋のようです。

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どこから種が飛んできたのか、カワラナデシコの花も・・・

高田小学校閉校式 
江田島市広報誌の表紙となった高田小学校の閉校式です。

高 田 小 学 校 歌
作詞 戸張竹風 作曲 渡辺弥蔵

1、山むらさきに 海深うして
  能美島第一の 文化村
  その少国民 我等のために
  ああ雄々しくたてる 高田小学校
2、古き伝えは よよ美しく
  祖父母も父母も 通いたまいし
  その園に 今我等は遊ぶ
  ああ楽しきかなや 高田小学校
3、清き明かるき 心をもちて
  正しき道を 歩みすすみて
  よき人となる みなもとはここ
  ああ尊いかなや 高田小学校

s-高田さつき荘 
昭和の後期まで使用された高田小学校の木造旧校舎は移築されており、ツツジの名所である高田遠崎地区の水島さつき園で「さつき荘」として現在も使用されています。

画像はグーグル地図よりのコピペ・・・m(__)mです。

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藤の花で飾られた元高田保育所です。
高田小学校の南に併設して高田保育所もありましたが、小学校と同日に閉所となりました。

高田 農道

高田(国道・旧街道・農道) 
国道以外はすべてが農道といってもおかしくはないほど農業の盛んであった高田地区ですが、農業不振、農家人口の急激な減少により耕作地の放棄が止まることなく続いています。

生活道路と兼用のアスファルトで厚く固められた道路以外はすべてが獣道となり、一度イノシシに占拠された農地にはもはや人が入り込める道はありません。

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画像は2014年9月のものです。
案山子と防鳥網に守られていたこの水田もイノシシの執拗な攻撃によりついに陥落、昨年(2016年)秋にはイノシシの運動公園、ぬた場となっていました。

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坂道の上からしだいに近づくエンジン音をいぶかっていると、高田地区で一番の耕耘機操縦技術をもつおじさんの登場です。

耕耘機の発明は1920年頃のオーストラリアだと云われますが、日本での普及は1955年(昭和30年)の8万台から急速に伸び始め、昭和42年には300万台を突破したといいます。

急傾斜で細く曲がった農道にも重い荷物を積んで入り込め、狭い田んぼでも効率よく耕すことができる、昭和の農業発展にもっとも大きく貢献した大傑作機です。

おじさん自慢の愛車?は、HONDA F80(1968年頃の発売?)、半世紀近くも経過したであろう耕運機です。
排ガスや手入れのたびに塗り込まれたグリースで薄黒くはなっていますが、おじさんの巧みな操縦により急な坂道も安定感をもって下っていきました・・・(*^。^*)です。

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米作りが最大の収入源であった農業も、時代の流れから他の作物への転作を余儀なくされ、慣れ親しんだ稲作に代わる新たな作物に挑戦することを求められました。

手前の広い畑では沢山のサトイモが大きく青々と育っています。
下の段では自家用のお米が作られており、夏の陽を目いっぱいに吸収した稲穂が秋風に揺られ少し黄色味を帯びてきました。

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遠くに中谷造船所、さらに江田島湾、古鷹山を見渡せる高台の畑には、エンドウとジャガイモ、ネギの類が生育しているのが見えます。

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火力暖房機を備えたビニールハウスの中に、天井まで伸びたキュウリの蔓が元気いっぱいに葉っぱを広げています。

稲作からの転作初期には、狭い農地でも収益率の高い施設園芸が多く試みられ、沢山のビニールハウスが林立、キュウリやトマトの栽培が試みられました。

ただ、その後の農業労働力の減少や、暖房用燃料費、資材の高騰など何度もの危機を乗り越え、今もハウス栽培を維持経営する農家の数はごく僅かです。

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温暖な気候条件から当地で最も有望視され、多く試みられたのは柑橘類の栽培ですが、これもオレンジの自由化に続く海外からの多彩な種類の果実類や産物輸入により大きな打撃を受けることになります。

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排水の良い傾斜地ではカキ(柿)の栽培も多く試みられています。

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宗方地区を往く農道脇に、秋祭りの幟がはためきます。

対岸の鉢を伏せたような山は、江田島町の津久茂山(お鉢山 262.8m)です。
この津久茂地区とは瀬戸の急流で阻まれてはいますが、大正12年2月1日に津久茂村が安芸郡江田島村と合併する以前は高田村と同じ佐伯郡に属していました。

耕作地の少ない津久茂地区からは多くの農民が農耕船を仕立てて瀬戸を渡り、この高田の地で田畑を耕し、さらには住居を定めたりもして、陸続きであった江田島村よりも、海を隔てた能美の地により親密な関係があったと云います。

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何世代にもわたり石を積み上げて作り出した農地跡に、荒れ地に強いといわれるコスモスが咲き乱れ右に左にへと時代の風にゆれ動きます。

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ここ数年使われることもなく、うすく埃をかぶった農作業小屋(納屋)の内部です。

「豊盛」「日水」「八洋」「村山」と書かれたトロ箱が重ねてあります。
トロ箱といえば普通は魚を入れて運搬するために使いますが、農業用として?転用???キャベツの苗とかを入れて運んだんでしょうかねぇ~ ・・・(*^。^*)です。

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農道わきの柵に・・・、これってジュウヤクと呼ばれる野草、薬用利用として天日干しされている様子です。

漢方書によれば薬用部分は全草で、開花期に根ごと採取して日干しにしたものを十薬という。
薬効としては、痔・高血圧症・便秘・たむし・陰部のただれ・はれもの・かぜ・腰痛・蓄膿・冷え性・帯下に効果ありとされます。

ちなみに、当地における古くからの民間療法の薬草薬物として、ドクダミ、ゲンノショウコ、ハブ草、ヨモギ、フキの根、柿のヘタ、梅肉、イチジク、ショウガ、ミミズ、ドジョウ、タニシ、イナゴ、鯉、イセエビの殻などが利用されたと能美町誌に記載があります。

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農業経営は気候天候に大きく左右されるだけではなく、その時々に必要とされる産物を見極め絶妙なタイミングで供給する高度な技量をも必要とします。
しかも多くの農産品は、生育に長い時間を必要とし、さらにその気候風土に適合したものでなければうまくは育ちません。

この地で過去にどのような作物が生産されていたかを知ることはきわめて重要です。

江戸時代に書かれた「鹿川村書出帳(文政2年)」によれば・・・
当時五穀として、米、麦、大豆、粟(あわ)、黍(きび)が栽培されており、野菜では、あらいも、ごぼう、ちさ、ふき、ほうれん草、わけぎ、ねぶかねぎ、なすび、きゅうり、うり、とうがん、すいか、かぼちゃ、しゅんぎく、みょうが、らっきょうが栽培され、藩の殖産興業政策として、さやえんどう、猿豆(実えんどう?)、小麦、ごま、稗(ひえ)、とうきび、だいこん、そら豆、さつまいも、なたね、さとうきび、たばこ、わた、茶、西条柿、蜜柑、梨、こうぞ、はぜ、くすのき、なども推奨されたとあります。

さらに山野からの採集薬草薬物として、桔梗(ききょう)、橙皮(とうひ)、葛根(かっこん)、忍冬(にんどう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)、麦門冬(ばくもんどう)、防風(ぼうふう)、香附子(こぶし)が記載されます。

その後、明治となって除虫菊や桑(養蚕)の栽培に加え、乳牛、養牛、養鶏なども試みられ相応の成果はありましたが、多くは時代とともに消え去り今に続く農産品はほんの僅かです。

春先の農道、コンクリートの側溝とアスファルト道との数ミリの隙間に、ド根性スミレの青花と白花が混じり合い、互いに競い合って咲いていました。

高田 旧街道 2/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町を結ぶ街道は平地でもあり古くからの主要道でしたが、高田から北、沖美町三吉(三高)への道にはたくさんの小さな岬や断崖が多く、おそらくは牛馬の通行がやっとという、気象条件に左右される険しく細い海岸道だったことでしょう。
それでも、芸藩通史(1825年)には山越え道ではなく、海岸道となって記載されていますので、陸路による往来もけっこう盛んではあったと思われます。

ちなみに、能美町誌によれば、三高村から高田、中村、鹿川、大柿を経由して飛渡瀬村に達する道路(約17km)が佐伯郡郡道に指定されたのが大正9年(1920)4月、同時に中村から飛渡瀬間(約6,6km)も群道指定がされました。

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高田旧街道をさらに北上すると、さんぱつ屋「シモイダ」さんがあります。

玄関前の駐車スペースに沢山の水槽が並べてあります。
中は覗かなかったのですが、ご主人様の趣味でメダカとかが飼育されているのだと思います。

のぼり旗には「赤ちゃんの筆」・・・へぇ~、赤ちゃんの髪の毛を使って筆を作ってくれるみたい・・・(*^。^*)です。

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通りに面する窓に細い格子を取り付けたお家があります。

二階も通り側一面がすべてガラス戸で、手すりの高さまでの格子があります。
旅館業とか?小料理屋さんとか?だったのかも??? ・・・(*^。^*)です。

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市内ではもっとも大きくて洒落た造りをした農業協同組合「JA呉 高田支店」です。

もともとこの位置には高田港の船着き場の一面を占有して、高田農業協同組合があり、何隻もの番船を仕立て廿日市や宇品へ農産物を送り、帰りは肥料や農業資材、生活用品を満載した船が着く広い荷揚げ場でした。

農産物の生産量減少や、トラック便輸送が増えるにつれ番船の出番はなくなり、さらに高田港の埋め立て移転事業により、農協と船との縁は完全に立ち消えてしまいました。

今、農協購買部のショーケースに並べるパンやケーキは、ヤマザキ製パンの工場から直接トラック便で届けられます。

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食料品、雑貨のフレッシュ・スーパー「セルフ つだ」商店さんです。

元はお店の直前まで港があり、早朝から夜遅くまで忙しく出入りする船で賑わっていましたが、新しくなった高田港は、はるか遠く200mばかり離れた沖合にまで離れてしまいました。

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お米、お酒の「丸橋酒店」さんです。

荒くれ船乗りの胃袋を常にアルコールで満たしていた港の酒屋さん、しかし近年になり国土交通省より酒酔い操縦には厳しいお達しが・・・

海上交通における飲酒対策について(平成18年9月29日)

1.一般船舶に対する対策について

(1)安全マネジメント制度に基づく対策
 海上運送法及び内航海運業法に基づき、本年10月から安全マネジメント制度がスタートし、安全管理規程が運航事業者から届出られることとなっている。これに合わせ、当該規程において、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の状態における当直の禁止を明示するように指導を強化するとともに、その違反については安全確保命令の対象とする。

(2)船員法に基づく対策
 船員法に基づく航海当直基準においては、現在においても酒気帯び状態での当直は禁止されているところであるが、対策の推進のため、呼気1リットル中のアルコール濃度0.15mg以上の違反については上記安全管理規程の基準と合わせて船員法の戒告の対象とする。

2.小型船舶に対する対策について
 酒酔い操縦の判定基準の一環である数値基準について、船舶がふくそうする水域(港則法及び海上交通安全法上の航路)又は遊泳者等の付近を航行する場合は、呼気1リットル中0.5mg以上から0.15mg以上に引き下げる。

3.対策の周知徹底について
 上記措置については、国土交通省海事局から関係業界へ周知徹底するとともに、現場レベルにおいても、地方運輸局が港湾管理者及び管区海上保安本部と連携して関係者へ周知徹底を図る。

と、・・・(^_^;)です。

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お食事処、大衆食堂の「岡食堂」さんです。
港に出入りする船乗りさんの、あったかい憩いの場です。

高田1986 
高田港埋め立て事業の始まる前、昭和61年6月の高田港付近(国土地理院)です。

岡食堂さんも、丸橋酒店さんも、つだ商店さんも、船頭さんの大声、けたたましいエンジン音、漂う磯の香りと、重油の焼ける匂いの中にありました。

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行き交う機帆船で大波小波がたっていた高田港の奥部は大きく埋め立てられ、そこには潮風や日照りに負けることなくしっかりと土中に根をはった、ハナスベリヒユ(ポーチュラカ)が一面を覆って咲きそろい日差しに赤く輝いています。

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街道は高田港を通過し小方、湯田をへて、さらには沖美町三吉へと続きます。

品のある小窓が並び、ショーウィンドウが残りますが、さて何を商ってたお店でしょう?
かって、高田の主要産業でもあったレンガを使った塀が緑の草木に映えます。

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最近のただ真っすぐに伸び、交差点に当たっては止まる単調な道路とは違い、旧街道は微妙な曲線をもってうねりながら長い調べを奏でて流れます。
るぅ~るるる~、るぅ~るるる~♪ らぁ~ららら、らぁ~らぁら~~ら♪・・・(*^。^*)です。

高田 旧街道 1/2

高田(国道・旧街道・農道) 
高田から中町、鹿川へとつなぐ街道は古くから主要な動脈路となっており、高田港で荷揚げされた最新の商品を街道沿いの商家に並べ、在所近隣から多くの購買客を集める他、陸路中町から鹿川近辺へ、あるいは対岸の津久茂へと商品販売路を広げていました。

昭和48年には、能美、江田島と本土(倉橋島)とを結ぶ早瀬大橋の完成もあり、本島にも急激な勢いで車社会が到来、平成に入り高田市街の沖側には幅広のバイパス道も完成、のち国道487号線へと昇格しましたが、その便利な陸路が在所購買客の大流出につながる結果となり、さらに本土からの商品は船や港を利用しなくても直接陸路を通って入り込むこととなりました。

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国道バイパスの南端、高田旧街道への別れ際に建つ食料品、雑貨、たばこの「池田商店」さんです。

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旧街道に面して今ものこる、元高田駐在所の建物です。
いまの高田駐在所は、島内随一のモダンな造りの駐在所として高田港に面する国道沿いに移転しました。

近くには高田郵便局もありましたが、これも近年になり国道側に新築移転しました。

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旧街道をさらに行くと、Panasonic「山野井デンキ」があります。
右隣の敷地には、・・・えっ、大きな白い船のマストが据え付けられています。

軍艦並み(対空用?、対水上用?)に上下2段に分かれてレーダーアンテナが装備されています。
さらにマスト頂部には方向探知用ループアンテナがあり、信号灯もまだ使えそうです。

きっと、江田島上空に飛来するUFOを監視し信号灯を点滅させて連絡を取り合っているのかも???・・・(*^。^*)です。

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元高田小学校(2014年3月廃校)の正門前にあるお店です。
おそらくは文房具屋さん?・・・だった?のかも?。

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元高田小学校とは路地を挟んで並び建つ、小さな小さなお肉屋さん「肉ノ山下」さんです。

もう、お肉の販売は止めたようですが、赤いネット袋に入った蜜柑が300円で出されています。
中央の柱には「110番の店・家」江田島警察署のステッカーも貼ってあります。


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街道をさらに北へと進むと、中国新聞・朝日新聞・毎日新聞・NIKKI日本経済新聞の看板が掲げられたお店があります。

小さなショーウィンドーにメリークリスマスと書かれたタペリストが下げてありますが、色あせており、数年前のクリスマスに出されたもののようです。

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元はクリーニング店、タバコ屋さんも兼ねての商売をされていた様子です。

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間口の広いお店が二軒続きますが、どんな商いをされてたんでしょう?、呉服屋さん???・・・かなぁ~。

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ガラス戸に張られたポスターを見ると、薬屋さんのようです。

化粧品とかも商ってたんでしょうか?
私はまだ必要とはしませんが、資生堂の発毛促進剤アテノゲンって文字も見えます・・・(^_^;)です。

高田1990 
画像は平成2年12月の高田地区航空写真(国土地理院)です。

高田街道のバイパス道路(国道487号線)の工事が完成間近な様子です。

高田 沖南港・南港

高田 S22-H25 
画像左のモノクロは昭和22年の高田間所~沖南~南地区、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

戦後もしばらくは高田港以外に防波堤を築いた港は無く、台風など自然の猛威を避けるには砂浜に引き上げるくらいしか方法がありませんでした。

その砂浜も干拓事業で奥行きが狭くなり、船もエンジン付きで重く大型化したため簡単に引き上げることはできません。

戦後まもない昭和20年9月17日の枕崎台風による甚大な被害はもとより、昭和26年10月14日のルース台風では、高田地区だけでも機帆船19隻が沈没し遭難者21名を出す大惨事となりました。

平素は穏やかな江田島湾内であても、防波堤なくしては船を安全に維持することはできません。

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画像は「沖南港」に停泊中のタグボート「第十大徳丸」「第二十大徳丸」です。

北側の防波堤は花崗岩の切り石を丁寧に組んで作られておりますので、まだ石材事業が全盛のころ(昭和36年以前?)に作られたようです。

南側防波堤主材はコンクリートで昭和40年頃?に作られたようです。

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沖南港はタグボート専用港というわけではないと思いまが、停泊船の多くが小型タグボートで占められています。

港中央部の桟橋には大型の「第八金福丸」(赤色のマスト)を中心に左が「第七金福丸」、後ろに第五、第三、第二、・・・全八隻?の金福タグボート船団が繋がれています。

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第八、第七金福丸の後方に繋がれた、一回り小型の金福タグボート船団です。
黒い網籠状の形象物を揚げたマストが6本も見えます。

ちなみに「丸・ひし形・丸」と繋がった形象物は、本船は「操縦性能制限船」であるから、本船を回避して航行せよ・・・(*^_^*)です。

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後日、江田島湾への入り口である津久茂瀬戸を、親船「第八金福丸」の後を追っかけて、カルガモのように一列縦隊で通過する金福船団を見ました・・・(*^。^*)です。

沖南港へと帰る、カルガモ船団を護衛?している灰色の船は、海上自衛隊第一術科学校所属の練習船です。

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こちら「南港」には牡蠣養殖業者さんの専用船が多くとめられています。
防波堤が造られたのは「沖南港」よりも古い様子で、昭和36年よりも以前となります。

画像の「明宝丸」は牡蠣の養殖作業でもっとも重要な働きをする、牡蠣船です。

マスト型のクレーンを使い、沖の筏で養殖した長さが9mもある牡蠣連を船内に揚収し、その牡蠣を満載し、打ち子さん(牡蠣剥き作業をするお姉さん)の待つ港の牡蠣打ち作業場まで高速で運搬します。

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海の家?・・・
じゃなくって、海上移動式の牡蠣養殖用作業小屋です。

真夏の直射日光、突然の夕立のもとにあっても、沖に設置してある竹筏に牡蠣連を取り付けるなどの作業に必要な洋上作業小屋です。

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日よけのブルーシートが張られた中で、杭打ち垂下式の牡蠣養殖用垂下連が作られていました。

東北、北海道方面から取り寄せたホタテ貝殻の中央に穴をあけ、間にプラスチックパイプを入れて互い違いにワイヤーに通し、ネックレス状にします。
杭打ち垂下式だと連の長さは1.6mが標準のようです。

えっ。
後姿だとまったく気づきませんでしたが、会話の内容がまったく聞き取れません。
皆さん外国からの牡蠣養殖研修生の方々・・・(*^。^*)でした。

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牡蠣連作り用のホタテ貝が準備されまもなく作業開始の様子です。
日よけのテントが張られていますが、なんと広島県立江田島高等学校と書かれています。

江 田 島 高 等 学 校 とは・・・

1948年「広島県呉竹高等学校江田島分校」として江田島町中央地区(旧江田島中学校内?)に開校。
1949年「広島県呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1951年江田島町小用地区へ移転。
1968年「広島県立呉三津田高等学校江田島分校」と改称。
1972年「広島県立江田島高等学校」として独立。
2010年3月31日 閉校。広島県立呉三津田高等学校へ統合。
 分校創立からの卒業者数は合計5,086名です。

以上ウィキペディアからの要約・・・m(__)mです。

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桟橋に置かれたステンレス製の巨大な機械???

奥の円筒型機械は水揚げした牡蠣を水洗いするドラム型洗濯機?で、手前はベルトコンベアー、それらを結ぶ複雑な配管と交差する電線・・・まるで野外工場ですね。

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近年になっての新技術で、牡蠣の養殖場や揚収後の蓄養、洗浄作業にマイクロ(ナノ?)バルブとなった空気を通すと生育や衛生面で非常に良い結果が得られるとか???

手前の黒い網籠や空色のエアータンク?、それらを結ぶ配管はそのための最新秘密?装置だと思います。

もとは波静かな入り江に投げ込んで置く(石蒔き式養殖法・地蒔き式養殖法)だけだった牡蠣の養殖法が、ヒビ建て養殖法に、そして現在の杭打ち垂下式養殖法・竹筏を利用した沖合垂下式養殖法へと大きく進歩してきました。

いやいやいや・・・漁師さん家業もたいへんだぁ~~~・・・(*^。^*)です。

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港のすぐ沖ではイワシ漁の船が重そうな網を引き揚げていました。

きっと、大漁なのでしょう。
カモメの群れがおこぼれを頂戴しようと、水面下で足をバタバタしています・・・(*^。^*)です。

高田 高田港桟橋

高田・中町航路図 
高田港は地形に恵まれたせいもあって、古くから本土である廿日市や宇品とを結ぶ多くの船便がありました。
とは言っても、定期船としてほぼ時間どおりの旅客船事業を始めたのは、明治38年(1905)沖村の岡田岩吉氏が蒸気船「海勝丸」62tを貨客船として就航させたのが始まりとされ、さらに明治40年に「能美汽船株式会社」を設立し、蒸気船「浅見丸」58tをもって江能の各浦々と本土とを周回する蒸気船航路を創設、その利便性が認められ関係する町村からの補助を受けることもできました。

のち、発動機エンジン「神座丸」、「能美丸」、「中吉丸」、「上田丸」、「日乃出」、「天竜丸」など船も船主も雨後の竹の子のように現れては消えしましたが、昭和3年当時の能美、宇品航路は一日6往復であったと云います。

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現在の、「中町(一部能美ロッジ寄港)・高田~宇品」航路を往くのは瀬戸内シーラインの高速艇「ロイヤル千鳥」です。

他に「ニュー千鳥」と「スーパー千鳥」の三隻をもって運行、ともに速力は26kt、船便は一日23往復(平日)です。

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高田港桟橋に横付け中の「スーパー千鳥」です。

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高田港桟橋を出港、宇品港へと向かう「ロイヤル千鳥」です。

赤灯台は港から出るときには船の左舷(左手側)に見るのですが、高速艇が発着する高田港桟橋は港の外(赤灯台のある防波堤の左外側)にあります。

高田港赤灯台には、「安芸中田港 小方北 防波堤灯台 初点 平成3年3月」海上保安庁と記されています。

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高田港桟橋待合所です。

高田港でも数年前までは車が搭載可能なカーフェリーの発着がありましたが、現在では車が搭載可能なフェリー桟橋は沖美町三吉の三高港(瀬戸内シーライン)と江田島町切串の切串桟橋(上村汽船)、吹越桟橋(さくら海運)、江田島町小用の小用桟橋(瀬戸内シーライン)のみとなりました。

乗船誘導待機場所に車を止めても車ごとでの乗船はできません・・・(^_^;)です。

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高田港桟橋待合所内の壁に「ありがとうドリームのうみ」と大書された寄せ書きが掲げてあります。

「気仙沼大島のためにいっぱい働いていただき本当にありがとうございました。今後も皆で頑張ります。」
「広島からわざわざ私達のためにありがとうございました。本当に本当に助かりました。もう乗れなくなるのはさみしいですが、これからも前を向いて頑張りまーす。」

宮城県気仙沼市大島の皆さんからの寄せ書きです。

2011年( 平成23年)3月11日午後2時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って 発生した大津波により、壊滅的被害を受けた大島島民の方々の足となるべく、当時の江田島市が所有するカーフェリ「ドリームのうみ」を貸し出したことに対するお礼の寄せ書きです。

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画像は、2012年(平成24) 3月14日、気仙沼大島での輸送任務を終え中町港桟橋へと着岸する「ドリームのうみ」を出迎える田中江田島市長です。

以下は、気仙沼市産業部商工課作成の「 記 者 発 表 資 料 」(平成24年2月24日)のコピペ・・・m(__)mです。

カーフェリー「ドリームのうみ」の返還について

広島県江田島市の御厚意により大島汽船株式会社に無償貸与いただいておりましたカーフェリー「ドリームのうみ」(397 トン)が、平成24年2月29日(水)をもって最終運航となります。
平成23年4月27日(水)の運航開始以来、大島地区住民の通勤・通学・通院のための交通手段として、また生活物資・支援物資の輸送に加え工事車両の搬送などに大活躍し、大島の復旧・復興に大いに貢献していただきました。
「ドリームのうみ」は、平成24年3月2日(金)に気仙沼を出港し、広島県内で点検
整備を受けたうえで江田島市へ返還されることになりますのでお知らせします。

           記

1 最終運航便 平成24年2月29日(水) 18時20分・エースポート発
2 出港日 平成24年3月 2日(金) 9時30分・魚町二丁目地先岸壁発
3 その他
・「ドリームのうみ」の運航開始にあたっては、公益社団法人Civic Force からも仲介や各種協力など多大な御支援をいただいております。
・貸与期間について、当初は10月15日まででありましたが、大島汽船:白幡昇一代表取締役社長が10月5日に江田島市を訪問し、田中達美市長、同市議会、同自治会連合会に期間延長をお願いし、本年3月15日まで延長することでご快諾いただきました。
・「ドリームのうみ」の運航終了に伴い、これまでカーフェリー2隻で運航されてき
た大島航路は、平成24年3月1日から1便ごとに旅客船「海来みらい」と「フェリー亀山」が交互に運航することになります。

※旅客船「海来」は、津波で浦の浜に打ち上げられたものの修理を終え9月末から運航可能でありましたが、「ドリームのうみ」借用期間中は復旧工事車両の搬送を優先し、カーフェリー2隻による運航体制となっておりました。(一部を省略)

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画像は「本瓦造船株式会社」HPよりコピペの「ドリームのうみ」です。

以下は、「ドリームのうみ」の要目です。

建造所    本瓦造船株式会社(広島県福山市鞆町後地1717番地)
起工    2004.9.6   
進水    2004.11.25   
引渡    2005.1.31   
全長    47.3m   
垂線間長    42.0m   
全幅    11.0m   
深さ    3.7m   
喫水    (dext(summer))2.6m   
国内総トン    (JG)397T   
載貨重量    (design)118.29t (summer)116.05t   
試運転最大速力    14.605kn   
速力    14.5kn   
航続距離    約970浬   
主機関    YANMAR 8N21A-EN×2   
出力    (M.C.R.)1,324kW×900min-1 (N.O.R.)1,125kW×853min-1   
プロペラ    5Blades FPP×2(スキュー付)   
乗組員数    3   
旅客数    300   
燃料油槽    34.7立方メートル   
清水槽    11.8立方メートル   
航路    中町~高田~宇品   
その他    運航者:江田島市
(新造船要目データベースより)

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画像及び下記文章は、気仙沼大島「島おとめ」さんのプログよりのコピペ・・・m(__)mです。

広島県江田島市に感謝!! 2011-04-27 17:27:13 記

本日より広島県江田島市より無償貸与して頂いたカーフェリー「ドリームのうみ」が気仙沼~大島に就航しました。
これで物流の道がひらけ大島の復旧・復興が前進すると思います。
全国の皆様、江田島市の皆様に心から感謝申し上げます。

ちなみに江田島市の市営船事業撤退にともない「ドーリムのうみ」は姉妹船である「レインボーのうみ」とともに余剰船として売却されました。

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高田港から中町港へと疾走する「ニュー千鳥」です。

以下、能美町誌より・・・

昭和24年公営船の運行が始まる。
昭和31年鋼製旅客「能美丸」が進水する。
昭和30年高田村、中村、鹿川町が合併し能美町となる。
昭和33年高田港に接岸施設が完成する。
昭和39年鋼製フェリーボート「第5のうみ」運行する。
昭和42年高田フェリー接岸施設完成する。
昭和43年高田港桟橋待合所が完成する。
昭和47年新鋭高速艇「千鳥」就航する。
昭和57年高田港埋め立て工事着工
昭和61年新高田港桟橋待合所が完成する。

利用客の急激な減少や、燃料費の高騰、新造船問題などの悪条件が続き、能美町町営から江田島市市営、三セク事業移管当々、市民の足となる宇品航路の維持に多くの努力がなされましたが、結果として完全民営化により航路を維持することとなりました。

現在、中町から高田を経由し宇品とを結ぶ航路(一部が能美ロッジ寄港)を維持するのは、瀬戸内シーラインです。

高田港 石船(新栄丸・日栄丸・共栄丸)

高田港砕石運搬船 
画像はグーグル2014年11月4日撮影の高田港です。

高田港には3隻の砕石運搬船(石船)「第二新栄丸」「日栄丸」「共栄丸」が舫ってありました。

この3隻がいつごろまで現役で稼働していたのかは不明ですが、日本の高度成長期である昭和30年ごろから、平成へと変わる前までは瀬戸の海を東へ西へ、重い砕石を目一杯に積み海水が木造甲板を洗うのをものともせずに全速力で走り回ていた石船船団が存在していました。

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「第二新栄丸」です。
要所を鉄板で補強されてはいますが、生粋の木造石船です。

石切り場で切り出した砕石を船橋の前の平らな甲板が海水に浸かる寸前まで満載し、全速力で埋め立て地に向かう石船船団最後?の生き残りです。

埋め立て地の砕石投入ポイントに到着するや、すぐさま甲板上のもっとも大きな砕石にワイヤーを掛けクレーンで持ち上げて左右に振ります。
その反動で船は大きく傾き、甲板上の砕石は一気に海中へと落とし込まれます。

反動が弱ければ甲板の砕石をうまくポイントに落とすことができませんし、強すぎれば大石もろとも一瞬で転覆です。

後には分業や共同経営もありますが、基本は夫婦で船長と機関長となって石材を運搬し、父母や兄弟子供が地主から借り受けた浦々の石切り場でダイナマイトを使った砕石作業をおこなうという、危険でそのうえ資金力もない零細な家族経営、只々深い家族愛と度胸一本だけでなり立つ生業です。

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長い年月を目いっぱいに働いたのでしょう。

熟練の船大工さんが最大の強度で仕上げた船体も、ギシギシ、ガタガタ、ボロボロに・・・m(__)mです。

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船首に描かれた模様には魔よけの意味があるといいます。

おそろしく危険な航海を数千、数万回と乗り越え、無事この港に帰ってこれたのですから、魔よけのご利益は絶大だったようです。

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これだけのダメージを受けているにもかかわらず、まだ船内に海水が入り込む僅かな隙間もありません。

画像は2014年10月16日、私がこの石船、第二新栄丸の雄姿を見た最後でした。

ちなみに、山田洋次監督制作(1972年)の映画「故郷」では倉橋島を舞台に石船による砕石運搬を生業とする家族の様子が、当時の瀬戸の穏やかな風景とともに深く鋭く描かれています。

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岸壁に繋がれた「第二新栄丸」の他にも、沖へと延びる浮桟橋には戦友である「日栄丸」と「共栄丸」が舫ってあります。

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手前に繋がれている「日栄丸」です。
木造船体の周りすべてを鉄板で覆い補強がされています。

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甲板上は搭載した石材が大波や船の進路変更の動揺で滑り落ちないよう、食い込みの良い木造のままとなっています。

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日栄丸の船橋です。
分厚い踏板が一枚、甲板と船橋とをつないで渡されています。

他所の港で船を岸壁に繋ぐ場合は岸壁との間をこの踏板一枚だけで繋ぎます。
明りの無い夜中の2時3時、たとえ一升、二升を飲んでふらつきながらでも阿波踊りの要領でバランスをとり、ヨイヨイヨイって渡り切ります。

落ちたら三途の川(海)・・・(^_^;)です。

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沖側に繋がれた「共栄丸」、まだ十分に現役復帰ができそうです。

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日栄丸とは姉妹船のようで、船橋の造りもそっくりです。

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共栄丸の船橋部分です。
手すり部分の支柱、凝ってますねぇ~~~。

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最後部に梯子が取り付けてあります。
まさかその上がサンデッキってことはないと思いますが・・・(*^。^*)です。

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2015年6月の高田港です。

「第二新栄丸」が舫ってあった場所にはなにもありません。
満ち潮で小さなさざ波が寄せるだけです。

浮き桟橋に繋がれていた「日栄丸」も「共栄丸」も・・・・・・・です。

高田 高田港

高田・中町航路図 
江田島湾の南西部、高田地区の小方から高田港、沖南港、南港そして中町地区の中町港を含めて大きくは中田港といいます。

最北に位置する高田港を除くこれらの港は元々は河川からの堆積土で遠浅となっており、毎日砂浜に引き上げる木造の伝馬船には最適の環境でしたが、船が大型化し、さらには船長一人のみで漁労に従事する省力化漁業が一般化するにいたり、毎日船を砂浜へと引き上げることははできなくなりました。
上げ下ろしの手間を省き、船を海上に浮かべておくためには、桟橋を沖へ出して、その周りを頑丈な防波堤で囲う近代的港湾が必要となります。

高田 S22-H25 
左の画像は昭和22年、右は平成25年のものです。(国土地理院より)

中田港内にあって、唯一高田港(間所)のみは自然の天恵に恵まれており、古くから大型船の出入りに便利な着岸施設と防波堤の整備が進んでいました。

そのため本土とを結ぶ船便の数も多く、帆船全盛の古きころから、中村(中町)や遠くは鹿川からの乗船客もあったようです。

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高田港に停泊中の給油船です。
事前の取り決めや電話連絡を受けて指定場所(洋上あるいは他港)まで出向き、燃料やオイル、場合によっては水や食料品なども運搬し給油する、海上のガソリン・重油スタンド?です。

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給油船の甲板です。
桟橋や船舶への横着け時に必要な防舷物(緩衝材)や油送ポンプ、給油ホースが所狭しと並べ置かれています。

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小型タグボートです。
大型船の出入港支援や、バージ(はしけ)をけん引したり押したりするのが一般的ですが、当地では主に牡蠣筏の移動や設置作業に使われます。

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潜水作業支援船です。

手前の船(船名景虎)は潜水作業員(ダイバー)を輸送したり、搭載のコンプレッサーで水中作業中のダイバーにエアーを送ったり、また水中通話装置などを装備しています。

緑色のクレーン船(船名KOORYU)は潜水作業員の指示を受けて、海中に重量物を投入したり移動、回収したりするために使います。

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用途不明の船が2隻係留してあります。
NAKATANI 5 との船名がありますので、近くの中谷造船所で使用する特殊作業船だろうと思いますが???な船です。

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第十政福丸、牡蠣作業船です。
牡蠣筏に吊るした、長さ9mもある牡蠣養殖の垂下連(ホタテ貝の殻にワイヤーを通した巨大ネックレスのようなもの)をクレーンを使って筏に設置したり、成熟した牡蠣を洋上の筏から揚収して、牡蠣うち作業場まで運搬したりの作業を行う専用船です。

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個人所有のヨットや、プレジャーボート、釣り船なども係留されています。

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牡蠣作業船第三睦栄丸が入港してきました。
今日の筏での作業が終了したのでしょうか?
それとも作業資材の補充に立ち寄ったのでしょうか?

s-DSCN8501.jpg 
大きなバージを押してタグボート(プッシャボート)も入ってきます。

チョット見はのんびりした港の風景ですが、右から左からエンジン音が聞こえては遠ざかり、風の向きで排ガスのにおいが流れて来てはまた消えます。

松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮かぶ
干網浜に高くして かもめは低く波に飛ぶ ♪ ♪ ♪ (*^。^*) です。
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