高田 いいとこ撮り 4/6

2)江田島町南部 高田地区 
他地区に比べ特別にというわけではありませんが、高田地区でも花好きの方は沢山おられるようで、少しでも土地に余裕があれば何かしらの花木や草花が植え込んであります。

自然力だけの造形美はどれもみな素敵で美しいのですが、人の手や想いが加わることでもっと素敵に変わる造形もあります。

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駐車スペースを残し、庭一杯に広げられた鉢植え植物の数々です。

お花屋さんとか、ご商売で鉢植え栽培をされている方を除けば、おそらくは江田島市内で一番?二番?じゃないだろうか、と思えるだけの数多くの鉢植えが並べてあります。

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白い漆喰壁の土蔵の前に、真っ赤なタチアオイの花が林立します。

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バックは黒い焼杉板の壁でも似合います・・・(*^。^*)です。

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青色が清々しい、ラベンダー・グロッソの大株です。

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通路と壁との僅かな隙間に、キンケイギクとスイセンソウが咲きます。

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畑の隅っこの、ダリア・・・(*^。^*)です。

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一気に背丈を伸ばした夏草に埋もれて、何故かサルスベリの花が一枝・・・です。

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押し寄せる雑草の荒波に立ち向かう?・・・アサガオとコスモスの雄姿・・・(^_^;)です。

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カキの花は小さくて目立たないのですが、燃えるような新緑は遠くからでも人の目を引きます。

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スモモの若葉や花が開く前に、枝下のスイセンが一足早く日光浴・・・(*^。^*)です。

高田 いいとこ撮り(民家) 3/6

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農業用ため池の脇に建つお家です。
赤い土壁の上に漆喰が白く塗られ、窓にはそれぞれ形を変えたガラス戸がはめ込まれています。

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一枚のガラス戸に模様入りの小さなすりガラスが4×4の16枚、手の込んだ仕事が見えます。

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小川の向こうの小さなお家、その小さなガラス戸の前に、小さな植木鉢が整然とかわいく並べられています。

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黒く焼き焦がした杉板が寸分の狂いもなく水平に張られています。
ガラス窓も最適なバランス感覚取り付けられ、横に張られたポスターには「2015島ミュージック 音楽祭」・・・(*^。^*)だって。

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超ロ~~~ングなお家、裏側です。

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古い町屋の外壁は、ほとんどが土壁でその表面には白い漆喰が厚く塗られています。
その時代には、沢山のコテ職人さんが腕を競っていたのでしょう。

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屋根の形が美しいお家です。

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狭い建坪が最大限に工夫され利用されています。
「ハウルの動く城」の高田バージョン・・・(*^。^*)です。

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お庭もきれいですが、玄関屋根の妻壁には素敵な旭日模様が入れられています。

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毎日の手入れが行き届いた、整然としたお庭です。

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広島城の天守閣にあるような廻り縁が付けられたお家、眺めもよさそう・・・(*^。^*)です。

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明治から大正期にかけ、高田地区で盛んに生産された硬質煉瓦を土台にして造られた蔵です。

高田 いいとこ撮り(民家) 2/6

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高田旧街道から少し坂道を登った場所に他とは少し造りの違ったお家があります。

海からは少し離れるのですが、昔は網元さん???・・・かも???です。

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農家造りだと壁を横に張った板塀とすることはまれですし、二階建物の載せ方も少し奇異な感じがあります。
漁具や網などの格納用であれば少し納得なのですが???

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でも、此方から見れば農家風に見えなくもないし?・・・。
とても気を引く造りで、アイデアいっぱいの宝箱のようなお家です。

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傾斜地に作られた農家造りでよく見る建築レイアウトです。

もっとも道路に近い部分に半地下式の「落としばんや」と呼ばれる石囲いの部屋が作られています。
落としばんやは、上の階で飼育した馬や牛などの糞便や敷き藁を落とし入れ、落ち葉や農作物の残滓と混ぜ合わせて、たい肥を作るのが主目的でした。

のち、昭和30年代となり耕耘機など農業機械の普及により馬や牛が飼われなくなると化学肥料や農機具置き場となり、その上にあった家畜小屋は改装され納屋あるいは離れの部屋となりました。

母屋へ通じる坂道を上った位置に、庭とは兼用の農作業スペースがあり、最も奥に母屋が建ちます。
納屋や家畜小屋あるいは離れ部屋は母屋とは直角(曲がり屋風)に建てられ、作業スペースでもある庭に強風が当たらないよう囲みます。

市内で傾斜地に建つ農家の多くは、ほぼこれと同じレイアウトで建てられています。
とくに平地が少なく傾斜地に家々が密集する、江田島町津久茂地区で多く見られる建築様式です。

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今は町屋風建て替えられていますが、元は農業もされてた?の、かも?・・・です。

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このお家も曲がり家の半地下式です。

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平地に建てられた農家には半地下室は作られません。

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このお家には一見半地下室はなさそうですが、よく見ると・・・(*^。^*)です。

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昭和初期(20年代?)のころの標準的お家の造りです。
今は住人がいなくなり、空き地となった庭の部分が一面の大根畑に・・・(*^。^*)です。

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当分は風呂焚き用の薪に不自由することはなさそうなお宅です。

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構造材が頑丈で丁寧に建てられたお家なのでしょう。
農家仕様として建てられた、かなり古そうなお家ですが、今も物置として立派に使われています。

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戦後の建物(昭和30年代)で、初めから納屋として建てられたものです。
壁は煉瓦にも使われた高田名産の赤土で塗り固めてあります。

高田 いいとこ撮り(民家) 1/6

2)江田島町南部 高田地区 
高田地区の背後にそびえる山々は花崗岩よりも保水性に富む堆積岩(玖珂層群)であり、水に不自由する瀬戸の島にあっても、他地区に比べ、わりと容易に上質な飲み水を得ることができました。
そのため人口密度が高く、さらには相応分の耕作地を確保する必要から、家屋敷や生活道路は必要最小限とされたようです。

屋敷面積が少なくなった分を知恵と工夫で面白くしてあるのですが、そのような思い入れの強いお家も、現代の生活様式には適合しづらく次々と取り壊されていきます・・・(^_^;)です。

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長い年月をかけて手入れされたソテツとシュロの樹が、エキゾチックな和洋折半風のお家をより印象深く引き立てます。

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和洋折半の建築は一時流行期があったようで、島内でもまだ何軒かは残っていますが次第に見る機会は少なくなっています。

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お家の周りの柿の木の枝に新緑が芽生え、その下にフキの葉っぱが青々と茂り、ツツジやモミジで覆われた、まさに桃源郷的な条件を満たした、とても気になるお家がありました。

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住人もなく物置として使われている様子で、これが最後のシャッターチャンスだろうと思っていました。

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ところが・・・ぶったまげぇ~~~。
しばらくぶりに訪れると、な~~~んと、驚くほど立派にリフォームされています。

いやぁ~~~、とても、とっても、すてきなお家になりましたぁ~・・・(*^。^*)です。

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こちらのお家でも、庭の真ん中に柿の木が植えてあります。
縁側のある南向きのガラス戸の下には大きな沓脱ぎ石がおかれており、植物好きの御隠居さんが朝晩草履に履き替え、鉢植えの木や草花に水を撒いていたのでしょう。

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手入れがされなくなって、小さな植木や花々は枯れてしまったようですが、根が深く乾燥に強い柿の木やソテツ、ツツジやサツキ、ツバキの類が再び水撒きに現れる御隠居さんを待っています。

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川沿いの小さなお家、カンナの花に囲まれ、庭には柿の木があってまだ数個の赤い実が残っています。

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増築したのでしょうか、少し和洋折半的な感じのお家です。
秋草の中に、黄色いコスモスが野生化?して咲き乱れていました・・・(*^。^*)です。

高田 さつき荘・高田駐在所

s-高田グーグル地図D さつき荘 
「さつき荘(水島観光さつき園)」と「高田駐在所」とは何の関係もありませんが、高田桟橋の目の前にある高田駐在所で、さつき荘の場所を尋ねれば、きっと懇切丁寧に教えて頂けると思います・・・(^_^;)です。

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海とつつじに囲まれた田舎の料理屋「さつき荘」の前面に天高く広がるツツジ庭園です。
撮影した季節はイチョウの葉も落ちてしまった12月初旬、植え込みに点在する桜など落葉樹の葉っぱが無くなった分、小山を覆って植えられたツツジ郡の全体が良く見えるだろうと思います。

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ツツジ庭園は小山を超えたその先の谷も埋め尽くして広がります。
おそらくは御主人が一人で、毎年数メートルづつ植え増して育て上げた庭園(ツツジ山)だと想像しますが、・・・長い年月をかけ、おどろきのツツジ山が完成???です。

ちなみに、サツキとツツジの違いについてですが、一般的にサツキはツツジよりも花や葉が小型で、さらにツツジの開花時期は当地だと4月下旬から5月上旬、サツキはそれよりも一ヶ月くらい遅く咲きます。

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対岸の津久茂側から見たさつき荘(水島観光さつき園)です。

左端の白い建物がさつき荘で、建物は旧高田小学校校舎を移築したものです。
さつき園はその右側で、画像からはみ出す位置までツツジの群落が繋がります。

さつき荘園 
ツツジ開花時期の画像(さつき荘HPよりコピペ)です。

撮影は5月初旬とありますので、一部サツキの植え込みもあるとは思いますが大部分はツツジで、品種はヒラドツツジ系を主としているようです。

園内にはツツジの他にもサクラやモミジ、イチョウなども植えられていますがツツジの花を楽しむなら四月末から五月初旬がお勧め・・・(*^。^*)です。

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高田港の前に「江田島警察署高田警察官駐在所」があります。
本物の煉瓦を使った建物かどうか?、手で触って確かめる勇気はありませんが、レンガ風の洒落たデザインです。

ちなみに、かって高田地区をレンガの一大生産地となした、その始まりは五日市の西川氏、結城氏が、高田の豊富な粘土質土壌に着目し、高田在住の福田儀助氏に煉瓦製造をすすめたことに端を発します。
大阪堺で、1年間煉瓦造りの技術習得をして帰郷した福田氏が、明治16年秋、屋敷横に窯を設置し煉瓦の製造を始めました。

その後の日清日露戦争による特需や、鉄道トンネル、下水道などのインフラ事業による煉瓦需要の急増で煉瓦産業は大発展を遂げましたが、第一次世界大戦終結後の不況や、大正12年9月の関東大震災などもあって大正14年のころには販売先の決まらない煉瓦が村内各所に山となって積まれ、昭和2年には高田村内にあったすべての工場が閉鎖されました。

高田で生産された煉瓦は海外産や他産地に比べても固く締まった良品で、地下建造物や、下水道、寒冷地での使用に適しており、北海道や韓国方面までも送られていました。

そのことから、通称「赤レンガ」と呼ばれ全国的にも有名な、海軍兵学校生徒館(明治26年、イギリス産の煉瓦を使用して建てられたという)は、高田の煉瓦を使用したのでは?といわれることもありますが、伝え聞く話では高田産の煉瓦は色が悪く、海軍兵学校生徒館に見るような綺麗な赤い色は出せなかった。
内部の基礎部分になら使えるだろうが???・・・と。
今の時代、分析器にかければ一瞬で判定できるとは思いますが、まだその様なことがなされた話は聞きません・・・(*^。^*)です。

能美町誌によれば、明治39年、大柿村大君2、鹿川村1、中村1、津久茂村1、高田村6、と13の煉瓦工場があったと記され、高田村では伊勢屋新開、瀬越新開、田中新開、大新開、清能新開に工場が建てられたとされます。

最発展期である大正5年(1916)の高田村での煉瓦生産個数は9百万個、販売金額は7万2千円なり・・・です。

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江田島市内で最もモダンな駐在所・・・(*^。^*)です。

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やっぱ、本物の高田産レンガを使ってほしかったなぁ~~~。

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蔵の土台部分に使われている煉瓦はおそらく大正の頃の高田産煉瓦です。
重い土蔵を支える強靭さは、まさに高田産硬質煉瓦の本領を発揮しています。

ただ、色は好みにもよりますが、いわゆる赤煉瓦とは呼べそうにありません。

年間1千万個近い膨大な量が生産された高田煉瓦ですが、今に残る高田産と思われるものはほんの僅かです。
売れ残り、野ざらしとなっていた煉瓦の山は、いったいどこへ行ったんでしょう?・・・ね。

高田 日本棋院名誉九段 瀬越憲作

高田グーグル地図D 瀬越憲作像 
高田港とは国道487号線を挟んで反対となる国道沿いの西側に、元日本棋院理事長 「名誉九段 瀬越憲作」の銅座像があります。

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銅座像は北面を向き、対局盤面に石を打たんとするその一瞬を写しており、正午の頃には南中した陽光が像の頭上からキラリひらめきとなって此方を射します。
「瀬越憲作先生像」は尾道市御調町出身の圓鍔勝三氏の作で、昭和五拾七年中秋の刻印があります。

台座背面に埋められた分厚い銅板には
日本棋院名誉九段 正四位 勲二等、瀬越憲作先生は、明治二十二年此地に生まれ、ニ十歳にして上京、専門棋士となり、爾末昭和四十七年逝去されるまで、戦前戦後を通じその高潔な人格、卓越した見識をもって、囲碁界の組織、囲碁の研究普及、棋士の育成等、囲碁の向上発展のために心血を注ぎその赫々たる功績は、まさに斯界を照らす不滅の大光明である。
先生逝いて十一年先生の郷党、門下生、知友相はかって、その限りない敬慕感謝の思いを新たにすると共に、世の人々が永くこの偉大なる先達を偲ぶよすがとなればと念じ、茲にこの顕彰の像を建立する。
昭和五十八年春 瀬越憲作銅像建設委員会
撰文 灘尾弘吉
と、あります。

s-瀬越健作囲碁図書 
画像はアマゾンよりのコピペ・・・m(__)mです。

生涯に100冊以上の書籍を著され、「瀬越囲碁教本」「瀬越囲碁講座」をはじめ、江戸時代の御城碁の棋譜を収めた大著「御城碁譜」全10巻、「明治碁譜」の編纂など、囲碁の技術書から囲碁史書まで幅広くかつ地道に研究されました。

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銅座像の裏面です。
瀬越九段の羽織った紋付の背には、雪輪に抱き沢瀉(ユキワニダキオモダカ)の家紋が見えます。

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銅像から北に100mばかり離れた、旧高田街道沿いに瀬越憲作氏が羽織った紋付の背にある「雪輪に抱き沢瀉」の家紋を付けた、清楚な門柱が残ります。

今は無人の廃家となっていますが、瀬越憲作九段の生家です。

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人の気配は感じませんが、時々は庭の草取りや落ち葉の清掃に訪れる方がおられる様子です。
母屋とは直角に納屋を配した造りで、当地でもよく見る農家風の建物です。

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納屋は碁会所にリホームされており、近隣あるいは遠路より集う囲碁仲間の憩いの場となっていた様子です。
瀬越九段も疎開あるいは帰郷のおりには、囲碁自慢を集め、その指導やお相手をされていたやも?です。

ちなみに、瀬越九段の生年は、銅座像の顕彰文にもあるとおり、1889年(明治22年)で、没年は1972年(昭和47年)です。

1909年 方円社(本因坊と対峙する囲碁の団体)に入門。
1924年 本因坊派と和解合併、新団体「日本棋院」の創立に尽力。
1945年 東京大空襲により日本棋院会館が焼失し、第3期本因坊戦は広島市郊外の吉見園(現佐伯区五日市町)で行われました。
しかるに8月6日、橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中に原爆が炸裂、爆心地から10km離れた此地にあっても閃光と強烈な爆風に見舞われました。
対局場となった部屋の窓ガラスなどは粉々に飛ばされたものの試合は続行、立会人であった瀬越九段も無事ではあったのですが、爆心直下で当初予定の対局会場であった日本棋院広島支部長の別邸は一瞬で消え、藤井支部長始め多くの人命が奪われました。
その中には瀬越九段の三男や甥も含まれております。
1946年 日本棋院理事長就任。
1955年 名誉九段。
1958年 紫綬褒章受章。
1960年 日中囲碁交流第1回訪中団団長。
1966年 勲二等瑞宝章を受章。
1972年 体の衰えを苦とし自ら命を絶つ。
1983年 功績を讃えて銅像(圓鍔勝三作)が作られ、故郷の能美島に贈られました。
2009年 囲碁殿堂入り。

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生家は背後にある小丘の崖下にあり、瀬越九段が幼少のころには、旧高田街道をまたげばすぐその先に波のざわめきが聞こえる長閑な環境でした。

いつの頃植えられたものかは分りませんが、モミの木が大きく育ち、その梢は屋根をはるかに超えています。

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小丘の上に墓石などあればと登ってみましたが、そこには畑となっており、取り残したダイコンや白菜、小松菜が白や黄色、薄紫色の花を揺らせます。

春霞の江田島湾に並べた牡蠣筏を碁盤に見立て、瀬越9段が対局する相手はだれでしょう。
見えないものを無理に見ることもありません。
霞みはすこ~し濃くなってきたみたい・・・(*^。^*)です。

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生家の脇、旧高田街道に面して大小の石碑が建ちます。

大きな石碑の裏面に、・・・天保十年・・七十五・徳三郎?・・・
小さな石碑に・・・明治・・・新・徳三郎六十六・・・三高道?・・・
残念ながら判読できませんでした・・・m(__)mです。

高田 堀越城・北堀城・小屋城・小城

高田 堀越・北堀・小屋・小城 
高田地区には、堀越城、北堀城、小屋城、小城があったと云われますが、中町から高田にかけての地形には、小城あるいは砦として使えそうな小山がいくらでもあって、しかも城跡を示す案内板、標識とかもなく、さらに、かってはあっただろう小山の山頂へと続く小道はとうの昔に塞がれてしまっています。

と、いうわけで?上図に示す、城跡の表示が間違っている場合もあるやも?・・・m(__)mです。

ちなみに、参考とした資料は能美町誌です。

北 堀 ・ 堀 越 城 跡

高田の豪族として元弘2年(1332年)高田弥十郎直継が衣(江)田島公文職として活躍し、次いで明応2年(1493年)高田十郎三郎が厳島の屋敷を相続したと云う。
戦国の世となって高田・清能の小屋城は水軍城として、下井田の北堀城は後詰城として、八瀬島氏の居城であったと云う。
(北堀城下の陣場に八瀬島の古墓ありと云う)

また、清能奥の堀越城は水軍城、下井田の小城は跡詰城で、始め永禄2年(1559年)能美左馬亮が、その後、山野井清景の分家、山野井修理(源八兵衛清秀)が城主として入城した。

以上、町誌の記載文を要約しました。

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下井田の集落をお散歩中、たまたまお見かけした同年輩の方に、あの付近に城跡があると町誌で見ましたが、もう登り道はないでしょうね。
おっ、城跡がどこかはわからんがのぉ~、近くにウチの畑があるし、道もちゃんと残っとるがのぉ~。
えぇ~~~。登り道が残ってるんですか?。すぐ行ってみます。ありがとうございました・・・m(__)mです。

軽トラが余裕で入れる道を上ると、小屋城があったと思える付近は平地となっており、つい最近までは畑として使っていた様子です。
当然広島城本丸にあるような石垣などまったくあるわけもなく、おそらくはこのあたりが小屋城跡であろうと?・・・想像です。

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登った道とは逆の江田島湾の方へと向かう下り道がありましたので、鬱蒼とした竹藪を恐る恐る行ってみることにしました。

竹藪はすぐに終わり、江田島湾が明るく輝きます。
古くは直下まで波が寄せており、岬の傾斜面を少し削って海との間を高田街道が通っていただろうと思います。

また、この先には小屋門と呼ばれる地名が残ります。
高田街道を封鎖する関所があったのか、あるいは、湾奥の船隠しに出入りする戦船を北風から守る港の出入り口があったのかも・・・(*^。^*)です。

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再び坂道を後戻りして、小屋城よりはさらに高い位置にあるとされる堀越城を目指します。

今は竹藪や雑木が周りを囲み、視界は限られますが木々を払えば、北は津久茂の瀬戸からはるかその先の廿日市、宇品方面まで、南は中町はもちろん、その先の亀山城があったとされる能美八幡神社、新蔵城があったとされる真道山までが、そして東は江田島湾のほぼ全域を見渡すことができる、見張り場所としては最適な位置となります。

画像左は古鷹山、右のほうには呉市灰ヶ峰が見えます。

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南の方向には中町が一望に、その先には真道山が大きく山裾を広げます。

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堀越城があっただろう付近まで辛うじて道は続きますが、木々に閉ざされ周囲の視界はまったくききません。

帰ろうと坂道を下っていると、先に道案内をしていただいた方が夫婦で果樹園の下草刈りをされています。
仕事の邪魔にならないよう、そっと素通りをさせていただきました・・・m(__)mです。

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堀越城の西側中腹まで、お墓へと続く道がありましたので行けるところまで・・・。
中腹からでも高田の町が一望でき、津久茂瀬戸の向こうに似島の安芸小富士がはっきりと見えます。

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左に目をやれば、画像中央付近に北堀城が、さらにもう少し上に登れば右端に小城も見えることでしょう。

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下井田の集落から小屋城、堀越城へと続く農道の入り口です。

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下井田の集落から見た、小城の乗る小山です。
登り道は見当たりませんが、山頂部に大きな楠木?が植えてあるようです。

だれか、目印にと残した野趣のある自然の案内板・・・(*^。^*)です。

高田 中谷造船所

高田グーグル地図D 中谷造船所 
かって江田島市内(江田島・能美島)には、各浦々ごとに数人の船大工さんがおり、小さなスベリから大漁旗をはためかせた新造和船を次々と沖へ引き出しておりました。

今でも船大工の腕を持つ方はおられるようですが、木造和船を注文する船主は皆無、数年前に一隻の伝馬船?が進水したと噂を聞いた後は絶えてなくなったようです。

現在市内で造船業を経営しているのは、江田島町小用の「KK江田島造船所」と、能美町高田の「中谷造船KK」だけとなりましたが、江田島造船所は修理修繕業が専門となり新造船を手がけることはありません。

江田島市内で唯一造船所と呼べるのは高田の「中谷造船KK」のみとなりましたが、それでも毎年数隻の新船を造り出し、江田島湾へと華々しく進水させております。

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高田の対岸である江田島町側からみた、中谷造船の全容です。
右の船台(スベリ)では中型貨物船を建造中です。

左に見えるクレーの付いた箱型のものは浮きドックと呼ばれるもので、船台で建造し進水した船の最終艤装や点検修理修繕を行う施設です。

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中谷造船の本社建物です。

外壁の赤レンガに埋め込まれた表札には「中谷造船株式会社 NAKATANI SHIPBUILDING CO.,LTD.」とあります。

以下、中谷造船HPよりのコピペ・・・m(__)mです。

商   号 中 谷 造 船 株 式 会 社
創立年月日 昭和40年1月11日(創業 明治9年)
本社・工場 広島県江田島市能美町大字高田3328-2
資 本 金 10,000,000円

社指すところは「夢を加えた船づくり」

技術・営業上の特徴
広島の小さな造船所が、3度のシップ・オブザ・イヤーを受賞しています。確かな技術と人間優先のテクノロジーが裏付けされた結果です。
中谷造船のテーマは、船の高速化や自動化はもちろん、居住設備の改善まで含めた人間最優先の近代化です。
『思わず乗ってみたくなる船』『人をわくわくさせる船』。
『夢とロマンがある船』の建造を目指しています。
お客様のニーズに答えた、「より進化した船」を届けることを使命としております。

会社の特色
優秀な人材ネットワーク:研究・開発は国内外関わらず最適な企業集団で効率化・質の向上を行っています。

造船所設備
船台  99.50m×20.00m
1号浮ドック 87.68m×31.0m(4990G/T)
2号浮ドック 106.14m×32.0m
ジブクレーン 50トン1セット・16トン1セット・10トン6セット・ 門型クレーン 5トン1セット・3トン3セット
と、あります。

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船台にて建造中の中型貨物船?です。
船橋構造物も取り付けられており、船台での組み立て作業は終盤のようです。

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海側から見た新造船の後部と船台です。

船の最後部に位置する舵と、黄金色に輝く真鍮製の5枚羽根プロペラが見えます。

コンクリートで傾斜のつけられた船台には何本ものレールが敷かれ、そのうえに沢山の車輪をつけたトロッコが何台もあり、さらにその上に新造船が乗ります。

起工から進水までの数か月、最大1千トン近い重量の船をこのトロッコに載せ、滑り落ちないようにストッパーで支えます。
船の進水時には車輪を固定するストッパーを外すことにより、トロッコは船を乗せたままで船台斜面を転がり落ち、上に乗った船を海上まで導きます。

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万国旗を掲揚して進水したばかりの「SOLID HARBOR」?マニラ船籍の貨物船?です。

船台上で鉄板あるいはブロックをつなぎ合わせて船の形を造り出し、船内に主エンジンや補機類を搭載し、舵やプロペラを取り付けて船台から海面へと滑り落とすまでの工期は約3カ月です。

進水した船はこのあと、桟橋などに舫った状態で電機配線や配管、甲板上の補機類(クレーン、係船機など)、航海計器や居住設備を艤装し、試運転や試験航行、検査、が行われたのちに船主に引き渡されます。

一般的な小中型の貨物船の場合、設計に2カ月、起工から進水まで3カ月、艤装や試験に2カ月くらいの期間を必要とします。

お値段ですが、画像の貨物船だと、たぶん?、5億円くらいだろうと??、想像します・・・(^_^;)です。

注 : 上記に記載の船の建造価格は、「中らずと雖も遠からず」???・・・(^_^;)です。
実際の価格は不明、また船の建造費は主要原材料である鉄鋼の値段や社会情勢などにより2割3割の変動は当たり前です。

貨物船やフェリーボートの建造をお考えの場合、価格より造船会社の技術力と信頼度の方がより重要です。

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上記貨物船と船体の容はよく似ていますが、こちらの船は液体(オイル・ケミカル)を運ぶ船のようです。

船主は韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」で、船名は「KEOYOUNG BLUE 1」、引き渡しは2016年4月、N/Tトン497.0t、G/Tトン1423.0tで、全長が71.9mです。

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この進水直後の船も、韓国の「KEO YOUNG SHIPPING」が船主です。
先の「KEOYOUNG BLUE 1」とは姉妹船で船名は「KEOYOUNG BLUE 3」、2016年10月に引き渡されています。

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浮きドックのサイドに繋がれ、艤装工事中のフェリーボートです。
船首に船名が書かれていますが、まったく見たことのない文字・・・(^_^;)です。

船名は判読できませんが、この船は日本の政府開発援助(ODA)によりミャンマー・ヤンゴン市に無償供与されるフェリーボートです。
ヤンゴン市を分断するヤンゴン河で使用される渡河船で、全長41.35m、幅9.40m、深さ7.40m(高さ?)、総トン数290 トン、旅客定員1,200名の要目で発注されたもので、「中谷造船KK」が同型船3隻の建造を総額999,000,000 円で落札しました。

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航行試験や検査も終わり、ODAに引き渡された直後のヤンゴン河渡河船です。

このあと3隻の渡河船(フェリーボート)は広島港外貿埠頭に集められ、川崎汽船株式会社(SAL社)が運航する重量物運搬船「PAULA」(クレーン能力合計700㌧)に3隻(1隻あたりの重量270㌧)を積み込み、2014年10月31日ヤンゴンに到着しました。

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画像は「川崎汽船株式会社」のHPよりコピペしたもの・・・m(__)mです。

中谷造船で建造したフェリーボート3隻をクレーンで吊り上げ、「PAULA」の甲板に登載作業中の画像です。

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中谷造船の林立する沢山のクレーンは、高田地区のどこにいても屋根瓦の上に突き出して見ることができます。

小さな町の小さな造船所が3度ものシップ・オブザ・イヤー賞に輝いた快挙は、元高田小学校の校歌にもある、正しき道を歩み進みて文化を求める高田気質が大きく底流となってあるからです。

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画像は試験航行で呉湾小麗女島の沖をいくJR西日本のフェリー「みやじま丸」です。
「みやじま丸」は中谷造船で建造された、日本で初の小型電気推進旅客フェリーで、シップ・オブ・ザ・イヤー2006、小型客船部門賞を受けました。

両頭双胴船型の電気推進(ディーゼル・エレクトリック方式)旅客フェリーで2006年1月27日竣工、2006年5月27日に宮島航路に就航しました。
総トン数254トン、全長35.0m、速力8ノット、車両7台を搭載し、旅客503名(最大803名)が乗船できます。

高田 元高田小学校・元高田保育所

高田グーグル地図D 元高田小学校 
高田地区の中心部、旧高田街道に面して平成26年3月まで140年の歴史をもつと云われる高田小学校がありました。

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高田小学校の正門です。

門柱前面には真鍮鋳物で高田小学校と書かれた校札が掲げられていますが、花崗岩の門柱自体はそれよりもず~っと古く、明治四十二年九月に地元有志、山﨑三次氏により寄附されたものです。

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正門脇の掲示板に、高田小学校閉校式平成26年3月23日と書かれた張り紙が、錆びた押しピンで止められていました。
どうやら少しばかり前に閉校記念式典が執り行われたようです。

高田小学校の起源として、江戸時代の頃より高田高源寺において、児童を集め読み書き算盤が行われていたと云います。

明治5年8月に定められた教育法令「学制」に基づき、明治7年8月、第4大学区広島県管下第3番中学区内第140番小学校として高源寺本堂に「日新舎」を創設。
同9年本堂南側に校舎を付設、同11年に第4大区(佐伯郡)広島県第140番小学校「高田小学校」となりました。

明治19年「中村簡易小学校 第一分教室」となるも、同24年「高田村公立高田尋常小学校」となって独立、大正12年には校舎を空地区から現在の沖南地区へと拡張移転しました。
校内には判読が困難ですがおそらくはその当時のものだろうと思える、「教育喜捨芳名」の石碑があり、沢山の方々の芳名が刻まれています。
高田地区の児童教育や文化発展に対する熱意が今に伝わります。

そのような恵まれた環境風土にありながらも、高田地区の児童数減少はとどまることなく、ついには2014年3月末をもって惜しまれつつも高田小学校、高田保育所が廃校廃所となりました。

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シーソーの周りをはしゃぎまわる子供らは絶え、鉄道草が一本また一本と数を増やしています。

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卒業生?が残した自画像陶板が23枚、大きな手形は担任の先生のかも?・・・(*^。^*)です。

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グラウンドの南側には「創立百年記念 昭和四十九年建之」と彫られた陶板と78個の自画像や文字、絵などが書かれた陶板が張られた記念碑が建ちます。

ちなみに昭和49年の高田小学校総児童数は173名となっていますので、陶板の制作にあたったのは5年生と6年生だったのかも?ですね。

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こちらの記念碑には「一以貫之」の周りに、学童らの手形と記念文字が書かれた66個の陶板が張られています。

これが全校児童数だとすれば、平成6年の67名にもっとも近いのですが、制作年は不明?です。
記録に残る高田小学校の児童数として、昭和22年の500名、28年401名、37年322名、41年215名、平成元年105名、閉校となる年度の児童数は51名でした。

ちなみに、制作に使われている陶板?ですが、文政(1818年~1830年)の頃、能美島から瓦用焼土(赤土)を大量に産出しており、明治中期から大正後期にかけては高田を中心に煉瓦の生産が盛んにおこなわれていたと云います。

有名な江田島海軍兵学校(明治26年建築)の赤煉瓦はイギリスからの輸入品であると云われますが、それより他の多くの煉瓦建造物(対ロシア艦隊用の砲台施設など)は、能美町高田や東広島市安芸津で生産されたものが多く使用されたようです。

しかも煉瓦の質としては、高田で生産されたものの方が輸入品や安芸津産よりも上質であったと云います。

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動物の飼育小屋のようです。

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どこから種が飛んできたのか、カワラナデシコの花も・・・

高田小学校閉校式 
江田島市広報誌の表紙となった高田小学校の閉校式です。

高 田 小 学 校 歌
作詞 戸張竹風 作曲 渡辺弥蔵

1、山むらさきに 海深うして
  能美島第一の 文化村
  その少国民 我等のために
  ああ雄々しくたてる 高田小学校
2、古き伝えは よよ美しく
  祖父母も父母も 通いたまいし
  その園に 今我等は遊ぶ
  ああ楽しきかなや 高田小学校
3、清き明かるき 心をもちて
  正しき道を 歩みすすみて
  よき人となる みなもとはここ
  ああ尊いかなや 高田小学校

s-高田さつき荘 
昭和の後期まで使用された高田小学校の木造旧校舎は移築されており、ツツジの名所である高田遠崎地区の水島さつき園で「さつき荘」として現在も使用されています。

画像はグーグル地図よりのコピペ・・・m(__)mです。

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藤の花で飾られた元高田保育所です。
高田小学校の南に併設して高田保育所もありましたが、小学校と同日に閉所となりました。

高田 農道

高田(国道・旧街道・農道) 
国道以外はすべてが農道といってもおかしくはないほど農業の盛んであった高田地区ですが、農業不振、農家人口の急激な減少により耕作地の放棄が止まることなく続いています。

生活道路と兼用のアスファルトで厚く固められた道路以外はすべてが獣道となり、一度イノシシに占拠された農地にはもはや人が入り込める道はありません。

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画像は2014年9月のものです。
案山子と防鳥網に守られていたこの水田もイノシシの執拗な攻撃によりついに陥落、昨年(2016年)秋にはイノシシの運動公園、ぬた場となっていました。

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坂道の上からしだいに近づくエンジン音をいぶかっていると、高田地区で一番の耕耘機操縦技術をもつおじさんの登場です。

耕耘機の発明は1920年頃のオーストラリアだと云われますが、日本での普及は1955年(昭和30年)の8万台から急速に伸び始め、昭和42年には300万台を突破したといいます。

急傾斜で細く曲がった農道にも重い荷物を積んで入り込め、狭い田んぼでも効率よく耕すことができる、昭和の農業発展にもっとも大きく貢献した大傑作機です。

おじさん自慢の愛車?は、HONDA F80(1968年頃の発売?)、半世紀近くも経過したであろう耕運機です。
排ガスや手入れのたびに塗り込まれたグリースで薄黒くはなっていますが、おじさんの巧みな操縦により急な坂道も安定感をもって下っていきました・・・(*^。^*)です。

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米作りが最大の収入源であった農業も、時代の流れから他の作物への転作を余儀なくされ、慣れ親しんだ稲作に代わる新たな作物に挑戦することを求められました。

手前の広い畑では沢山のサトイモが大きく青々と育っています。
下の段では自家用のお米が作られており、夏の陽を目いっぱいに吸収した稲穂が秋風に揺られ少し黄色味を帯びてきました。

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遠くに中谷造船所、さらに江田島湾、古鷹山を見渡せる高台の畑には、エンドウとジャガイモ、ネギの類が生育しているのが見えます。

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火力暖房機を備えたビニールハウスの中に、天井まで伸びたキュウリの蔓が元気いっぱいに葉っぱを広げています。

稲作からの転作初期には、狭い農地でも収益率の高い施設園芸が多く試みられ、沢山のビニールハウスが林立、キュウリやトマトの栽培が試みられました。

ただ、その後の農業労働力の減少や、暖房用燃料費、資材の高騰など何度もの危機を乗り越え、今もハウス栽培を維持経営する農家の数はごく僅かです。

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温暖な気候条件から当地で最も有望視され、多く試みられたのは柑橘類の栽培ですが、これもオレンジの自由化に続く海外からの多彩な種類の果実類や産物輸入により大きな打撃を受けることになります。

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排水の良い傾斜地ではカキ(柿)の栽培も多く試みられています。

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宗方地区を往く農道脇に、秋祭りの幟がはためきます。

対岸の鉢を伏せたような山は、江田島町の津久茂山(お鉢山 262.8m)です。
この津久茂地区とは瀬戸の急流で阻まれてはいますが、大正12年2月1日に津久茂村が安芸郡江田島村と合併する以前は高田村と同じ佐伯郡に属していました。

耕作地の少ない津久茂地区からは多くの農民が農耕船を仕立てて瀬戸を渡り、この高田の地で田畑を耕し、さらには住居を定めたりもして、陸続きであった江田島村よりも、海を隔てた能美の地により親密な関係があったと云います。

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何世代にもわたり石を積み上げて作り出した農地跡に、荒れ地に強いといわれるコスモスが咲き乱れ右に左にへと時代の風にゆれ動きます。

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ここ数年使われることもなく、うすく埃をかぶった農作業小屋(納屋)の内部です。

「豊盛」「日水」「八洋」「村山」と書かれたトロ箱が重ねてあります。
トロ箱といえば普通は魚を入れて運搬するために使いますが、農業用として?転用???キャベツの苗とかを入れて運んだんでしょうかねぇ~ ・・・(*^。^*)です。

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農道わきの柵に・・・、これってジュウヤクと呼ばれる野草、薬用利用として天日干しされている様子です。

漢方書によれば薬用部分は全草で、開花期に根ごと採取して日干しにしたものを十薬という。
薬効としては、痔・高血圧症・便秘・たむし・陰部のただれ・はれもの・かぜ・腰痛・蓄膿・冷え性・帯下に効果ありとされます。

ちなみに、当地における古くからの民間療法の薬草薬物として、ドクダミ、ゲンノショウコ、ハブ草、ヨモギ、フキの根、柿のヘタ、梅肉、イチジク、ショウガ、ミミズ、ドジョウ、タニシ、イナゴ、鯉、イセエビの殻などが利用されたと能美町誌に記載があります。

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農業経営は気候天候に大きく左右されるだけではなく、その時々に必要とされる産物を見極め絶妙なタイミングで供給する高度な技量をも必要とします。
しかも多くの農産品は、生育に長い時間を必要とし、さらにその気候風土に適合したものでなければうまくは育ちません。

この地で過去にどのような作物が生産されていたかを知ることはきわめて重要です。

江戸時代に書かれた「鹿川村書出帳(文政2年)」によれば・・・
当時五穀として、米、麦、大豆、粟(あわ)、黍(きび)が栽培されており、野菜では、あらいも、ごぼう、ちさ、ふき、ほうれん草、わけぎ、ねぶかねぎ、なすび、きゅうり、うり、とうがん、すいか、かぼちゃ、しゅんぎく、みょうが、らっきょうが栽培され、藩の殖産興業政策として、さやえんどう、猿豆(実えんどう?)、小麦、ごま、稗(ひえ)、とうきび、だいこん、そら豆、さつまいも、なたね、さとうきび、たばこ、わた、茶、西条柿、蜜柑、梨、こうぞ、はぜ、くすのき、なども推奨されたとあります。

さらに山野からの採集薬草薬物として、桔梗(ききょう)、橙皮(とうひ)、葛根(かっこん)、忍冬(にんどう)、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮(ちんぴ)、麦門冬(ばくもんどう)、防風(ぼうふう)、香附子(こぶし)が記載されます。

その後、明治となって除虫菊や桑(養蚕)の栽培に加え、乳牛、養牛、養鶏なども試みられ相応の成果はありましたが、多くは時代とともに消え去り今に続く農産品はほんの僅かです。

春先の農道、コンクリートの側溝とアスファルト道との数ミリの隙間に、ド根性スミレの青花と白花が混じり合い、互いに競い合って咲いていました。
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