三吉 三吉の農道

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緑色でなぞった農道の大部分は昭和50年以降、軽トラックが農作物や肥料資材の運搬、人の移動に欠かせないものとなったあとに急きょつくられたもので、場所によっては軽自動車であっても対向車に慌てる道幅しかありません。

また、県道38号線や笠松峠越えの三高是長間道路以外は何れも大型車には不向きな道幅であり、農道兼用の生活道路となっています。

ちなみに、海岸線沿いに高田への道(現県道38号線)が完成した昭和初期以前は、三吉から、中(村)の高等小学校へと通う学童は鍵ヤ谷から山越えで高田(現さつき荘付近)へと抜ける小道を利用していました。

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農道から見下ろす三高港、その沖には大奈佐美島さらに向こうに宮島が見えます。

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実はつい最近地元の方に教えて頂いたのですが、この農道から宮島のロープウェイが見えるんだそうです。

この日はいまいちのお天気だったのですが、目を細めたり見開いたりしたら、なにやら白い点が動いているようで、慌ててカメラのシャッターきりました。

で、最大まで引き延ばしたのが上の画像、右下の隅にゴンドラの白い箱がぶら下がっているのが見えます。
中央付近にロープウェイの山上駅舎獅子岩駅、左上に弥山山頂(535m)の花崗岩巨石と展望台が見えます。

山頂が見えるのは知っていたのですが、ロープウェイはてっきり山の向こう側だとばかり思っていました・・・(*^。^*)です。

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海岸からはずい分上に登った山の中腹近くですが、きれいな清水が湧くのでしょう。
一面にハスの花が咲いていました。

ちなみにハスの根っこ(茎)は食用となるレンコンです。

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三高の町と、その沖はるかに霞むのは本土広島の廿日市から五日市方面です。

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バブル崩壊後しだいに少なくなっていたビニールハウスですが、近年になって少しづつですが復活している様子です。

手前の畑には路地植えの菊が栽培されるのでしょう。
トラクターがフル稼働で土を耕しています。

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季節は四月中旬、間もなくトラクターが入り耕される直前の棚田です。

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最下部を流れる木ノ下川を挟んで、両岸はしだいに高さを増す農地が階段となって続きます。

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田んぼの緑肥となるレンゲソウの花が咲き始めました。

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6月初旬、田植えの最盛期です。

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11月下旬、刈り取られ自然乾燥のためにハザ掛けされている稲束の列です。

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ハザ掛けでゆっくりと自然乾燥したお米は味が違うといわれます。

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木ノ下川の清水と昔ながらの自然農法とで、一味も二味も違う三吉米の脱穀風景です。

燦々と降り注ぐ太陽光のもと、耕し、植え、育て、刈り取って食べる。
そりゃ~うまいにきまっとるがのぉ~ ・・・(*^。^*)です。

三吉 旧三高(三吉)街道

s-三高街道A 
岬を一つ越えるごとに小さな半農半漁集落があり、それら集落が点となって連なる海岸線に実線となる幅広の道路を建設することは、古来より難事業中の最たるものであります。

さらには、ごく近年になるまでそのような幅広の道などは必要とせず、重量物は船で、小分けできるものは、人の背に乗せて山越えで運搬していました。
またかりにそのような立派な道が造られたとしても、小さな村々の行政では維持管理することもできません。

それは現在においてもいえることで、車の往来がまれな農道や林道の多くが草木に埋もれ、アスファルトを割って孟宗竹や雑木が芽生え始めていますし、集落とを結ぶ幹線道でさえ夏場は両脇から草木がはみ出して上下二車線道路もその半分の路面しか使用できません。

昭和50年代、三高の海岸沿いに幅広の県道36号線バイパスが完成しました。
それが直接の影響だとはいえませんし、三高だけに限ったことではありませんが、三高(三吉)旧街道に軒を連ねて並んでいた商店街は年を追うごとに寂しさが増しています。

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三高商店街の西の入り口、かって旅館業や仕出し、宴席会場などで賑わったであろう立派な店構えのお家でもシャッターが降ろされました。

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店頭に自販機3台を置いたタバコ屋の「みなとや」さん。

お隣は、酒・米・飲料・アイスクリーム・本、と何でも屋の「ISHIGOCHI」さん。

その先の3階建て「三高ビル」の一階は、お食事処の「寄り道」さん。

二階には、美容室・ヘアーメイクの「とも」さん。

三階には、お食事処「横綱」の看板も見えます。

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タバコ屋「みなとや」さんは兼業でお好み焼き店も経営されています。

広島で有名な「オタフクソース」ではなく、あえて「ヒガシマルソース」で勝負されている様子、表に長椅子が出されていますので、時間帯によっては行列ができるのかも・・・(*^。^*)です。

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「三高ビル」の軒下を利用して無人市場が開かれています。

「正直・信頼・感謝」代金は棚の前側の竹筒へ
インゲン豆50エン・パプリカ50エン・スイカ100エン・シシトウ50エン・オクラ50エン・トマト50エン・ピーマン50エン・ナス50エン・サラダ水菜50エン・モロヘイヤ50エン(きざみ、たたく。ねばりが出る。ドレッシングで)・最下段にはキュウリとジャガイモ・・・

うぅ~ん、残念。財布を持って来ていません・・・(^_^;)です。

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酒王千福・サントリーリザーブ・塩・日田天領水・キリン・アサヒビールも販売します「浜井酒店」さんです。

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ギャランン・ランサー・ミニカ・アルト・Kei・ワゴンR・カルタス クレセント・エリオ・エスクード・スイフト・ジムニー・エブリイ・キャリイなどなど、どんな車にも対応できます。
自動車、オートバイ販売修理の「河原モータース」さんです。

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三高街道を高松峠道の方に入り込むと、電柱を沢山の洋服でクリスマスツリー風に飾った、衣料品の大売出し店があります。

大阪の船場あたりへ行けばこういった華々しい商品展示の店を見ることはありますが、・・・
店主のお兄ちゃん、大阪で修行されたんかもしれへんわぁ~。

もうかりまっか。 いやぁ~、ぼちぼちでんなぁ~。
三高のおしゃれをリードする、ファッション ショップ「サカガワ」さんです。

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お店の入り口には、新小学生衣料受付中の大看板が立てられており、外から見える衣料品はすべてが半額表示となっています。

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地域の安全を守る「三高駐在所」さんです。

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街道脇には、地域情報の掲示板が立てられています。

五年生住田さんの力強い筆跡で書かれた「仲間」、野村さん、アンドレさん・内海さんの明るい色調で楽しそうな雰囲気の絵画。
江田島警察署からのお知らせや防犯指導、一年間のゴミ出しカレンダーが貼ってあります。

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「新ながいきくん」「ドリームかんぽ」「ゆうちょスクラッチキャンペーン」などなど、のぼり旗や掲示板がいっぱいの「三高郵便局」さんです。

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沢山の花々で飾られた「迫製麺所」さんです。

四代にわたる技術の蓄積を持ち、伝統製法による完全天日干しで熟成された旨味とコシのあるウドンや、ソウメン、ソバもつくられています。

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昭和中期の頃までは人々の往来が絶えることなく続いた、三高街道、三高商店街通りです。

きっちりと組まれた赤煉瓦の塀を、手入れされた緑の木々の枝葉がやさしく覆う、すてきな生け垣が残されています。
かって大正の頃には広島県下最大ともいわれ、従業員270人、年間1080万個の煉瓦を生産した三高地区に残る赤煉瓦の塀です。

「降る雪や 昭和は遠く なりにけり」 ・・・(*^。^*)です。

三吉 三高フェリー桟橋

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江田島市内と広島宇品港とを結ぶ航路は「三高から宇品(瀬戸内シーライン)」「中町・高田から宇品(瀬戸内シーライン)」「切串から宇品(上村汽船)」「小用から宇品(瀬戸内シーライン)」の4航路があります。

江戸時代、佐伯郡に属する能美住民は郡役所のある廿日市とのつながりが強く、郡や村の役人が公用で利用するのはサンパン(全長5m程度の小型通船)とよばれる櫓押しの船で、村人が交代で任に就いたため番船ともよばれました。

安政4年(1857年)とされる、廿日市から三吉・高祖間の番船(サンパン)使用料金として、二丁立(二本の櫓で漕ぐ)で米5升6合7勺 ・ 三丁立は米7升6合7勺 ・ 四丁立は米9升6合7勺と、漕ぎ手の人数により運賃が変わります。

一般の住民は、農作物や生活物資などの運搬船に便乗して渡海しましたが、普通は一往復に三日を要したといいます。
ただ、櫓漕ぎの小型船であっても、気象や潮、積み荷の量などの条件が良ければ宇品までの12kmを3時間程度で往くこともできました。

ちなみに、現在の三高~宇品間の運賃は大人680円、所要時間40分です。

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三高港桟橋待合所です。

芸備商船の撤退後、しばらくは市営(第三セクター)となる江田島汽船株式会社が三高航路を運行していましたが、平成28年10月、瀬戸内シーライン株式会社へ併合されました。

ちなみに能美の定期連絡船事業は、明治38年、沖村の岡田岩吉氏が「海勝丸(62t)」を能美、広島間に就航させたのが始まりであるとされます。
以後、多くの個人や海運会社、村営、町営などが乱立しましたが、長期に渡り安定した経営を続けることはなかなかに難しいようです。

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待合所前につくられたロータリーに「NIHON MARU」寄贈 沖美町三吉 沖正美・フミコ 平成元年とプレートの付けられたプロペラとシャフトが置かれています。

日本丸といえば帆船の航海練習船、「海の貴婦人」と呼ばれた初代日本丸をイメージしますが???、???まさか???。

ちなみに、日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船で、昭和59(1984)年までの約54年間に、地球を45.4周する距離を航海し、11,500名の実習生を育ててきました。
昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存されており、一般公開されています。

その日本丸のプロペラを取り外し三高へと持ち出した?とは思えませんが???。
ただ実習生としてより他に、日本丸と地元能美船員との関係があるとすれば、戦時中日本丸は石炭運搬船として瀬戸内海航路を何度も往復しましたので、当時石炭運搬に多く携わっていた能美出身の船員さんが日本丸に乗船していたとしてもおかしくはありません。

また帆船日本丸は普通「Nippon Maru」と呼ばれますので、三高の「NIHON MARU」とは違う船?プロペラも少し小ぶりだし???、 三高ミステリー ・・・(^_^;)です。

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昭和50年の三吉地区の中心部です。

木ノ下川河口防波堤の左に、カーフェリーが着岸しいています。
その左に現在ある待合所やロータリー、フェリー桟橋などが建設途中です。

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現在のフェリー桟橋と、着岸しているのは「シーフレンド」です。

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シーフレンドの船橋(操舵室)部分です。
マストに揚げられているのは、緑十字旗と瀬戸内海汽船の社旗です。
また操舵室窓の下には建造元である内海造船の文字が記された楕円形の真鍮プレートが取り付けられています。

シーフレンドは因島田熊内海造船において1998年1月に竣工、山陽商船、芸備商船、 瀬戸内海汽船、安芸津フェリー、江田島汽船などを転籍(共有予備船利用もあり)現在は瀬戸内汽船に在籍し、子会社である瀬戸内シーラインの宇品~三高航路に投入されています。

全長49.9mで排水量312t、ディーゼル2軸で1,600ps、乗用車10台、トラック4台、船客250名が乗船し、11.5ノットの速力でもって航行します。

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速力を緩め着岸準備中のシーフレンドです。
現在の宇品三高航路はこの「シーフレンド」と「入船」の二隻で運行されています。

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この宇品三高航路は安渡島付近で、大型船が頻繁に行き来する航路と直角に交差しますので、左右を見張り、間合いを取って航行する必要があり、気の抜けない航路となります。

カキ筏では何隻ものカキ船が作業中であり、潜水艦1隻が東進中、超大型のバラ積み船「新音戸」と海上自衛隊呉警備隊所属の高速連絡艇が西進中です。

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桟橋に着岸中の「入船」です。

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2012年4月撮影、在りし日の「ドリームのうみ(江田島汽船)」です。

売却予定だった「ドリームのうみ」ですが、2011年3月11日、未曽有の大惨事となった東日本大震災の直後、被災した気仙沼市の大島汽船へと無償賞与されました。

画像は約1年間の賞与期間を終了し再び江田島市所有船となり、江田島汽船にて就航中のドリームのうみです。

ドリームのうみはその後も2014年10月まで江田島汽船にて運行されていましたが、翌年、尾道市の和気海運商事に2億5400万円で引き取られました。

「ドリームのうみ」は広島県福山市鞆町の本瓦造船株式会社で建造されました。
発注者 江田島市(合併前の能美町)
竣工 平成17年1月31日
船 型 単頭ニ軸船 船首尾ランプドア (油圧シリンダ方式)
全 長 59.375m
幅 11m
喫 水 2.6m
総 ト ン 数 395t
主 機 関 ヤンマー  8N21A-EN×2基 1800ps
航海速力 14.5ノット (85%出力)
載貨重量118.29t
最大搭載人員 旅客300名 乗組員3名
搭載車両 バス4台または普通乗用車10台

建造費の明記はありませんが、おおよそ5億円???くらい・・・です。

三吉 三高港

三高港 
狭議で三高港といわれるのは、木ノ下川河口の西につくられた小さな港ですが、今日では高祖西港や、完全に埋め立てられ痕跡も留めない高祖東港、三高(三吉)港、小島(小山)港を合わせて、「三高港」と呼びます。

ちなみに元の三吉港が三高港となったのは、明治22年(1889年)に三吉村と高祖村(美能地区も含む)が合併し、三高村が発足したためです。

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画像は昭和37年の三高港付近を空撮したもので、左上には円形の高祖東港があり、三高中学校や貴船神社はもろ砂浜に面していました。

画像では、木ノ下川や柳之前川の河口に広く砂溜まりが見られ、港の入り口にまで押し寄せています。
台風もしくは大雨により河川から土砂が流出したのでしょうが、このようなことが頻繁に起こっては港として機能しません。

三高港が現在あるように大規模に改港されたのは、このような理由からではと?・・・推測です。

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改修された古くからの三高港港内です。
水深は浅く、係留されている多くは小型船です。

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港内の水深のある位置には小型底引き船です。
主には冬場、鉄枠に取り付けた網で海底を引いて廻り、ナマコやカレイ、ヒラメ、エビなどを捕獲します。

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小型の海上作業船「第五ひで丸」です。
主にカキ筏の移動や設置作業などを行いますので、小型でもエンジンは高馬力です。

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「沖美運送(有)」の大型トラック「三菱ファイター」です。

かって、この付近の岸壁には沢山のミカンやダイコン、ハクサイやキャベツが山と積まれ、番船と呼ばれる小型船に積み込まれて、広島や呉の市場へと運ばれていましたが、カーフェリーの就航や早瀬大橋の開通(昭和48年)島内道路の整備、農業の衰退などもあり、今日番船を仕立てて市場へと乗り込むことは無くなりました。

この三菱ファイターはその番船の代わりとなるもので、三吉や近隣農家の産物(近年では菊など花卉類が多い)を積み込み市場へと運び込みます。
トラック運転席側のフロントには市場への乗り入れ許可証が置かれています。

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画像は昭和56年10月の空撮(国土地理院)です。

先の昭和37年からわずか20年でここまで整備が進みましたが、この後も改港工事は大きく進み、左上に見える高祖東港は埋め立て工事により完全消滅、三高中学から三高桟橋への道路(県道36号線)も新設されました。

また、同時に河川工事も並行して行われ、大雨があっても大きな土砂の流出はなくなりました。

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改港された、新三高港の埋め立て地は主に三高特産物のカキ養殖事業者に提供され、事業の近代化に有効利用されています。

最盛期にはカキ連の揚収クレーンをマストのように掲げたカキ運搬作業船が、早朝から何隻も出入港を繰り返し、船からベルトコンベアーで作業場に陸揚げされたカキは、すぐさま大きな回転ドラムに入れられきれいに洗浄されます。

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家内作業で行われていたカキ養殖業も、今は外国からの研修生を何十人も雇い入れ、すべてを効率的におこなう、工場生産にも似た大規模な近代化がなされています。

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大きく様変わりした三高港の全景です。

ちなみに、平成27年の都道府県別カキ養殖量(殻付き重量)は
広島県106,851t ・ 宮城県18,691t ・ 岡山県10,657t ・ 全国計で164,380tとなり、広島県のシェアは65.0%、むき身生産量だと広島県は19,322tでシェア68.1%です。

県内でのカキ生産量第一位を誇るのは呉市、第二位は江田島市であるといわれますが近年のデーターは不明、あるいは県下第一位に躍り出ているかも???・・・(*^。^*)です。

三吉 小島港(小山港)・馬脊島・中小島・脇小島

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能美島志(1763年)に、「稲積」は三吉村の海岸にあって、小島分れ並ぶ、風色愛すべし。と、記されます。

また、芸藩通志(1825年)では、「馬脊島」、「脇小島」、「中小島」は三吉村に属す。
馬脊(うまのせ)は、周一町三間(114.5m)、脇は廿四間(43.2m)、中は七間(12.6m)に過ぎず礁苫の類なり。と、記されます。

ちなみに、能美島志で「稲積」と云われたのは、島を構成する花崗岩の風化節理の模様が稲束を積んだように見えたから???でしょうか。
芸藩通志に云う馬脊(うまのせ)とは島の頂部や稜線が馬の背のようにやせ細っていることからでしょう。

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画像は、昭和初期の三高商店街地図(沖美町史掲載)です。

右下に小島港の石積み防波堤が書き込まれており、その沖に三つの島(脇小島と中小島の礁苫)が見えます。
当時はそれぞれの島に名前が残っていただろうと思いますが、戦後?これらの島はコンクリートで固く繋がれ小島(小山)港を守る防波堤の一部となりました。

それとともにこれらの島を一まとめにして、「小島」と呼ばれるようになり、港も「小島港」となりました。
ちなみに地元の方々の話では、陸側(現農協倉庫)には陸続きとなった小山(馬脊島)があり、この付近の元の地名は小山であったといいます。
農協倉庫の脇、東側には中町・高田港から宇品を結ぶ貨客船が途中寄港し、付近の田畑で生産された農産物や農業資材を運ぶ番船も多数出入りしていました。
昭和40年頃に車を搭載することのできるカーフェリーが就航する以前は、三高桟橋よりも此方の小山(こやま)岸壁の方が賑やかなこともあったと云います。

上記画像の、「昭和初期の三高商店街地図」には「小山岸壁」は載っていませんので、それ以降から、昭和22年までの間(昭和22年10月の航空写真には小山岸壁が写っています)に岬先端の小山(馬脊島)を削り取り、農協資材倉庫や小山岸壁が造られたのだろうと推測します。

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コンクリートで固く繋がれ防波堤の一部となった、脇小島と、その手前には辛うじて浸食を免れた小さな中小島です。

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脇小島(わきこじま)の北東面です。

風波による浸食で痩せ細り、島の頂部へと登るのは危険な状態です。
現在海図等では島として認められていないようで標高が記載されていませんが、推定で5、6mくらいだろうと思います。

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脇小島のどてっぱらには海食洞となる大穴が穿かれており、港側から外海に浮かぶ「笠磯灯標」を覗き見ることが可能です。

もう数百年?もすれば、脇小島の一部は防波堤から切り離され「脇ノ脇子島」??が誕生するかも???・・・(*^。^*)です。

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脇小島から腕のように延長された石組みの防波堤には、係船用のビット(係船柱)が埋め込まれています。

この石組み防波堤は「昭和初期の三高商店街地図」にも載っていますので、おそらくはそれ以前に造られたものだろうと思います。

沖に見えるフェリーボートは三高桟橋から宇品港へと向かう「シーフレンド」312tです。

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西側防波堤から見た小島港港内と、北風を遮て立つ脇小島です。

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三吉農道から見た、小山地区の家々と小島港、防波堤の一部となった脇小島と中小島です。

右沖に笠磯灯標、はるか沖合を西進するのは、艦番号403、潜水艦救難艦「ちはや」5,400t、全長128m、深海救難艇を搭載、2000年に岡山県玉野市三井造船所で建造されました。

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潮の引いた小島港の砂浜に船底を横たえる小型木造漁船の「胡子丸」です。
木造の船体を滑らかに仕上げ表面をグラスファイバーで覆った、当時としては最新の技術で作られた多目的漁船です。

一本釣りや延縄、刺し網や吾智網漁、蛸壺、アナゴ籠と、小型船の機動力を生かし瀬戸内狭しと走り回ったのでしょう。
潮が引けば港内に砂浜の現れる、非効率ではあっても昔と変わらぬ、ゆったりとした時間をもっとたのしみましょう。

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老船のたまり場となった小島港です。

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小島港の東、岬の先端にあった馬脊島を削り取って造った農協資材倉庫も、最近では入り口シャッタが開くことは稀となり、その脇に花崗岩を組んで造られたスベリ岸壁に、番船や貨客船が横着けすることも無くなりました。

沖に見えるのは広島港との中間に位置する似島です。
西端の岬「地獄鼻」を廻って何隻もの番船が抜きつ抜かれつ、我先にと行き交ったのはそんなに昔のことではありません。

三吉 安渡島・笠磯

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「安渡島」は三高桟橋と広島宇品港とを結ぶ航路の西側、三高桟橋からは約1800mの距離にあり、地理院地図による標高は10.4m、花崗岩の独立島で廻りの水深は30~40mあります。

「笠磯」は三吉小島港の北、約300mの海上にあり、岩礁の上には黒地に赤い帯を巻いた笠磯灯標が建ちます。

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安渡島の東側航路を、宇品港から三高桟橋へと航行中のカーフェリー「入船」です。

ちなみに、カーフェリー入船(いりふね)は能美町高田の中谷造船所で建造されました。
1997年9月竣工、全長49.9mで総トン数は354トン、大型バス2台、乗用車13台、旅客定員は250名、速力11ノットです。
瀬戸内海汽船の持ち船で、運航会社は瀬戸内シーラインとなっています。

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安渡島の北側は呉港等に出入りする船舶の主要な航路となっており、大型船が頻繁に行き来します。

安渡島は東西方向とと南北方向に走る二つの航路の交点に位置しますので、船舶航行量の多くなった今日においてはその灯標としての役割も重要で、昭和42年(1967年)1月29日、塔型のコンクリート造り、白色塗装、高さ9.2mの灯台が設置されました。

灯台名は「安渡島灯台」、平均海水面から灯火までが18m、灯質は単閃白光(毎4秒に1閃光)、光度は560カンデラで灯光は14.8km先まで届くとされます。

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安渡島灯台の北側航路を西方向へと航行中のクルーズ船「銀河」、右上には似島の西端が写ります。

ちなみに、クルーズ船銀河(ぎんが)は呉市川尻町の神田造船所で建造されました。
1984年3月に竣工、全長58.8mで総トン数は575トン、出力1,800馬力のディーゼルエンジンで速力14.2ノットで航行、運航者は瀬戸内海汽船となっています。

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安渡島を圧倒する超大型船は、鉄鉱石バラ積み運搬船の「新音戸」です。
伊万里の名村造船所で1996年に建造されました。
全長 : 273m
全幅 : 43m
深さ : 24m
満載喫水 : 17.6m
速力 : 15.9kt
総トン数 : 77,000トン
載貨重量トン : 15万トン
船籍国 はパナマで、日本郵船と月星海運の共有船とされます。

呉市の日新製鋼で積み荷の鉄鉱石15万トンを陸揚げし、新たな鉄鉱石を求めて海外へと向かう雄姿・・・(*^。^*)です。

ちなみに、日本は鉄鉱石の全量を海外から輸入しており、2014年の鉄鉱石の主な輸入相手国は、豪州(52,218千Mt)、ブラジル(23,274千Mt)、南ア(3,993千Mt)、カナダは(2,632千Mt)となっており、その他の国々を合わせた総輸入量は(85,919Mt)となっており、上位2か国である豪州とブラジルからの輸入量は全体の88%となります。

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呉港(海上保安大学校岸壁)を母港とする、海上保安庁巡視船PL21「こじま」です。

「こじま」は、1993年3月、舞鶴の日立造船所で約50億円をかけて建造された海上保安大学校の4代目となる練習船でもあります。
総トン数3,136t、全長115.2mで8,000馬力、速力は18ノットで、兵装として35mm単装機銃×1基・20mm多銃身機銃×1基を搭載し、非常時には本来の巡視船としての任務も可能です。

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海上自衛隊の潜水艦ですが、航行中は艦番号や艦名の表示はありません。
(桟橋などに停泊中だと玄門付近に艦番号、艦名を示すプレートが立てられます。)

ちなみに海上自衛隊の保有する最新の潜水艦は「そうりゅう」型で、一番艦は2009年に神戸三菱造船所で竣工した「そうりゅう」です。
排水量は2,900t、全長84m、機関はディーゼル・スターリング・エレクトリック方式で、水上3,900ps・水中8,000ps、速力は水上13ノット・水中20ノット、兵装として89式魚雷とハープーン対艦ミサイルを搭載し、乗員は65名です。
建造費は搭載電池の性能により513~643億円となります。

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艦番号106、護衛艦「さみだれ」です。

むらさめ型護衛艦の6番艦として、東京の石川島播磨重工業で建造、2000年に就役しました。
現在は第4護衛隊に所属し母港は呉港です。
排水量4,550t、全長151m、機関は4基のガスタービンエンジンで出力6万PS、最大30ノットで航行可能です。
武器は62口径76mm単装速射砲 × 1門、高性能20mm機関砲× 2基のほか、対艦ミサイル、対空ミサイル、短魚雷、哨戒ヘリコプターを搭載、乗員は165名となっています。

上記船舶の要目等はウィキペディア他、ネット情報からの抜粋・・・m(__)mです。

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画像中央上の小さな島が「安渡島」、手前右下に建つ灯標の下部が「笠磯」です。

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笠磯灯標は江田島市三高港(小島港)沖に位置する笠磯浅瀬を明示する目的で設置され、初点灯は昭和56年1月12日です。

塔型のコンクリート造りで、黒地に赤横帯 1本塗、黒色球形頭標が2つ付きます。
光質は単閃白光(毎 5s / 2閃光)、130カンデラ、光達距離は5.5海里 (約10Km )
灯火の高さは平均海水面水面から9.7m、灯標高は7.5mです。

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燃え盛る炎の先に建つ笠磯灯標です。

この日(前日?)は海上ゴミの一斉清掃日?だったようで、海上に流れ出た粗大ゴミを集めて浜で焼却処分を行っている様子です。

三吉 三高ダム

s-グーグル地図 三高ダム 
「三高ダム」は三吉地区を南から北へと流れ下る、木ノ下川の上流部にあります。

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三高ダムは第二次世界大戦中の昭和18年(19年とも?)に海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が築造しました。
戦後はGHQを経て海上自衛隊へと移管、昭和32年に三高簡易水道の水源としても併用、昭和51年には海上自衛隊専用水道と統合し、現在は三高水系として、三吉、高祖、美能、高田の一部に給水(昭和43年には太田川水系とも接続)を続けています。

さらに平成16年、補強及び嵩上げ工事が完了したことによりそれまでの貯水量218千㎥から554千㎥に倍増、沖美町内全域に灌漑用水を供給できるようにもなりました。

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ほぼ満水状態(554千㎥)の三高ダム貯水池です。

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ダム堰堤の上から見下ろした、浄水施設です。

旧三高ダムでは1日/2,000㎥が最大配水量でしたが、嵩上げ工事が完了した新三高ダムでの最大配水量は1日/16,300㎥と大増しました。
この量は江田島市内での上水1日最大給水量(消費量)12,000㎥を上回り、数量的には全江田島市内の水道水を十二分に賄うができます。

・・・が、実際の浄水処理能力は1日/10,000㎥(拡張整備案)がやっとで、しかも少雨や水質悪化等による取水制限、農業用水とのからみなどもあって、???、????な状況です。

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旧三高ダムの堰堤上部にあった、遊歩道(点検用通路)の一部が切り取られ残されていました。

三高水源地
このモニュメントは、旧堤体の管理道である天端を切断したものです。
旧ダムは、昭和18年旧海軍兵学校の水道用水源として旧海軍が2年の歳月をかけ築造され、終戦後は米軍による接収を経て、自衛隊施設及び周辺地域の水道水源として使用されていました。
昭和51年に江能広域水道企業団が大蔵省から譲り受け、現在は江能広域事業組合により、江田島能美地区の貴重な水道用水源として管理されています。
春には桜が咲き町民の格好の憩いの場となっています。

旧ダムの諸元
形式 重力式コンクリートダム
堤高 32.6m
堤長 142.0m
堤頂幅 2.0m
満水面積 2.6ha
総貯水量 226千㎥
有効貯水量 218千㎥

三高旧ダム 
画像は、旧三高ダムを写したものです。

例年桜の時期には場内が一般解放され、グループごとに車座となって花見弁当を広げる光景がありました。

三高ダム断面図B
画像は新ダム堤体の断面図です。

左側が貯水池、右側が下流側となります。
老朽化し、一部に漏水も認められた旧ダムの表面を重機(ビットローラ)で削り取り下流側に分厚くコンクリートを流し込んで旧堤体と密着させ、さらに堤体の嵩上げ工事により貯水量が倍増となりました。

形式 重力式コンクリート
堤高 44m
堤頂長 202m
堤堆積 78千㎥
流域面積 2.8K㎡
総貯水量/有効貯水量 584千㎥/554千㎥
ダム事業者 広島県
着手/竣工 1995/2004

三高ダム受益面積 
三高ダム改修の主目的であった、農業用水配水地域を示すマップです。
(画像は「一般社団法人 ダム協会」HPよりのコピペ ・・・m(__)mです。)

三高ダムを起点とする農業用水配水管は沖美町地区のほぼ全域において配管がなされており、この農業用水を利用できる受益農家数は約800戸であるとされます。

ちなみに、ダム本体の工事費として巷の噂では80億円???とか???・・・(^_^;)です。

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ダム本体工事の事業者は鹿島建設・飛鳥建設・大末建設です。

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ダムから流れ落ちる水流の波紋が均等で、とても素敵な模様となって現れています。
おそらくは数ミリの誤差もない、最上級の施工がなされているのでしょう。

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三高ダムの下部にある沈殿池などの上水道浄化施設です。

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菊栽培のお花畑の前に農業用配水管の減圧弁を格納する青色の蓋、バックにはその水源となる新三高ダムが両翼を大きく拡げます。

ダムから集水した農業用水はポンプアップされ高松峠近くの貯水槽から地下のパイプを通して各地に配水されます。

沖美町の農道の地中ほぼすべてに農業用水の配管がなされており、要所に減圧弁が設置され、各田畑ごとには給水用のバルブが取り付けてあります。

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それぞれの畑や田んぼにはバルブをひねるだけで水が流れ出る大きな蛇口が取り付けてあり木ノ下川水源の豊かな水が途切れることなく注がれます・・・(*^。^*)です。

三吉 木ノ下川

木ノ下川・三高ダム 
「木ノ下川」は三吉地区を東西に二分して流れ下る江田島市内最大の川です。

(元画像は江田島市防災マップよりのコピペ・・・m(__)mです。)

グーグル木ノ下川AAB 
木ノ下川の源流は三吉地区の最南に位置する江田島市最高峰の宇根山(541.8m)近くにあり、その延長はおおよそ5,000m、水量も豊で上流には三高ダム(有効貯水量554千㎥)があります。

(画像はグーグル地図鳥瞰図よりのコピペ・・・m(__)mです。)

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三高ダムからさらに遡った木ノ下川の源流部近くには、徳正寺の山号ともなる「盤谷渓」と呼ばれる峡谷があり、大岩の盤上を流れる渓流や、水しぶきを上げる二段滝があると云いますが、今は容易には近づけない状況です。

かわって、支流となる「高松川」の上流部は高松峠へと向かう古道沿い(菊ロード)にあって、車でも容易に近づくことができます。
その源流部、小さな滝から流れ落ちる清水を「山名水 乙女の泉」と名付け、近隣の人々がポリ容器を携えて訪れます。

画像はその迸る清水、「乙女の泉」・・・(*^。^*)です。

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三高山の尾根から見た、三高ダムと水を溜め青く輝く三高水源地です。
画像右に向かう谷が支流高松川、画像左の谷は支流大附川です。

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支流「大附川」の水が張られた大附集落最奥の山田です。

獣や鳥の被害さえなければ西能美一番の美味しいお米が沢山できるのですが・・・。

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三高ダムの余剰水と高松川でポリ容器からあふれ出た水が一緒になって流れ下ります。

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一直線の急流となって流れ下る水の勢いを少しでも緩くし、農地への配水をも兼ねた小さな堰堤です。

川の中で青々と群生するのはサトイモ科ショウブ属のセキショウです。
セキショウは水量の安定した渓流畔に見られることが多い植物で、生活排水の流れ込む淀んだ流域には育ちません。

近年になって木ノ下川にもアユが見られるようになったとの話があります。
アユのジャンプ力は70~80センチメートルであろうといわれますので、この堰を越えることは無理でしょうが、何匹もの若鮎が滝壺から一斉にジャンピングトライする姿が見られるのもまじかだろうと・・・(*^。^*)です。

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先人が日々一石づつを積み上げてつくった、支流「舟木川」の流れです。

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本流である木ノ下川に、山裾から流れ出た急流「舞窪川」が合流する位置に架かる舞窪橋です。

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両岸に広がる農地に十分な水量を供給し、余剰水を集めてさらに流れ下る木ノ下川の中流部です。

平成16年に三高ダムの嵩上げ工事が完了したことにより、沖美町内ほぼ全域の農業用地には、バルブをひねるだけでいつでも安定した水量を供給することが可能となりました。

木ノ下川は島内一番の水量豊かな川ではありますが、水源から河口までの約5kmを一直線に駆け下る急流です。
しかも、流域となる農耕地の大半は川の両岸の急斜面を階段状に削ってつくった田んぼや段々畑です。
これら斜面につくられた農地は木ノ下川からの恩恵を受けることはなく、はるか下方をとうとうと流れ下る水の音のみが段々畑の石垣に反射します。

ただ流れ下るのみだった木ノ下川の水を有効に利用することは地域住民の積年の願望でしたが、今、三高ダムから繋がる農業用配水管が町内各所にくまなく埋設されたことによって、やっと現実となりました・・・(*^。^*)です。

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木ノ下川扇状地の要ともいえる部分に架かる「宮の桁橋」です。
この付近より両岸の農地面積は倍増して一気に広がり、木下川の水源としての重要性も倍々増します。

かっては、水を満遍なく公平に供給するための堰(せき)を設け桁を渡し、分流用の板材を微妙に調節しながら配水の量を加減した所じゃないかと???
夜中、勝手に我田に引水する輩を戒めるために水神宮の祠とかも置かれていたのでは???と、想像・・・(^_^;)です。

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国政による減反や、農業者人口の減少、農地の宅地化などにより耕作地は最盛期の何分の一、あるいはそれ以下となりましたが、木ノ下川(三高ダム)の恩恵を最大限に受ける三吉地区は江田島市内で、もっとも多くの田園風景が残る地域となっています。

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秋、黄金色の稲が刈り取られたあとの田んぼにはレンゲソウの種が蒔かれます。
春、一面に咲き乱れる花々を遠くから見ると低くたなびく雲のように見えることから漢名では「紫雲英」とも記します。

ちなみに正式名称は「ゲンゲ」でマメ科ゲンゲ属、古くに中国から渡来(一説には17世紀とも)し、根に共生する根粒菌が窒素を固定しますので、田んぼの緑肥となり化学肥料の使用量を抑えることができます。
さらには家畜の飼料としても利用できる他、ミツバチが集める花の蜜は「れんげ蜂蜜」として珍重されます。

他にも若葉の食用や民間薬としての効能などもありますが・・・、レンゲソウの花を見れば誰だって心がいやされ、春の陽だまりのようにポカポカとあったか~い気持ちになれます・・・(*^。^*)です。

三吉 薬師堂

s-薬師堂グーグル 
「薬師堂」は徳正寺から、さらに木ノ下川を逆登った先の大附集落南部の高台にあります。

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大附集落の家々を結ぶ小道に面して建つ薬師堂です。

この付近の地名は大護寺とも呼ばれており、かって薬師堂背後の山中にはお寺があったと云われます。
大附薬師堂の薬師如来像は、その大護寺より移したものであるとも云います。

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堂の扉は閉まっていましたが、格子戸の桟の間から内部を拝ませていただきました。

帽子を取り、姿勢を正して「合掌」・・・m(__)mです。

一般的な薬師如来像は右手を上げ(施無畏印)、左手のみが膝の上(与願印)、あるいは薬壺を持ちますが、大附薬師如来像は両手を膝の上に乗せる「禅定印」で現わされています。

この所作は古い時代の薬師如来像に多く、京都嵯峨薬師寺の薬師如来像とよく似た御姿となっています。

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堂内側面の壁にタペストリー?が掛けてあり、「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」と文字が書かれています。

これはすべての薬師如来に共通する「真言」と呼ばれる音です。

「真言」は梵語で「マ ントラ(मन्त्र [mantra])」といい、「いつわりのない真実の言葉」という意味を持ちます。
伝統的に言葉の意味を詮索しません。
なぜなら、真言は音が重要であり、知識や理屈に執着しないためです。
あえて翻訳せず音写を用いるので、 漢訳では咒(明咒)と訳されます。
一心に称(とな)え続ける心境がもっとも仏に近く、あらゆる功徳がその称えの中に含まれます。
と、以上は「一畑薬師」さまHPからの、引用・・・m(__)mです。

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大附薬師如来像は左手に薬壺をお持ちになりませんが、何故かお堂の奥に「サントリー リザーブ」と刻印のある通常よりも一回り大きな壺(瓶)が置かれています。

劇薬、あるいは気違い水となる場合もあるとは思いますが、御人によっては最上の「お薬」「活力の源」ともなる「お神酒(おみき)」・・・(*^。^*)です。

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お堂は昭和の頃に建て替えられた様子・・・境内は狭いのですが、左右に石灯籠が置かれ、ソテツが大きく葉を広げ、ナンテンの実が赤みを増しています。

ちなみに、ソテツは有毒なサイカシンを多量に有し、ナンテンもアルカロイドなどの有毒成分を有しますが、「毒は薬なり」で、古来より毒成分をうまく希釈調合して薬としても利用されていました。

何にでも効く薬の調合は望めませんし、常に健康な体を維持することもできませんが、自身で可能な養生「過度な飲食を慎み、規則正しい生活」くらいは実践しましょうね・・・(*^。^*)です。

三吉 徳正寺 2/2

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田園風景に溶け込む徳正寺の伽藍です。

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鐘楼門の前を流れ下る木ノ下川と、高松峠へと登る旧街道です。

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晩秋の日射しを透かす境内のモミジ葉と鐘楼門の格子窓です。

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日射しに手をかざして見上げる鐘楼門です。

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本堂と鐘楼門と境内を囲む白壁の塀が最適なバランスにて配されています。

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正面より仰ぎ見る鐘楼門です。

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秋の陽を浴びて黄金色に輝く鐘楼門です。

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受徳橋を渡りて、さらに振り返り見る鐘楼門・・・(*^。^*)です。
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